「ノート1924」のダダ詩について<1>
中原中也が
旧制山口中学3年を落第し
京都の立命館中学第3学年に編入学したのは
1923年4月のことでした
このことを詩人は後年
「文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校する。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」(「詩的履歴書」)と記したのは有名な話です
中原中也の現存するノートの中で
最も古いもので
本文は大正13年(1924年)春に
書き始められました
表紙に「1924」と書かれてあることから
角川版編者が「ノート1924」と呼称したのが定着しています
立命館は旧制中学であり
第3学年を無事に修了した詩人は
4学年になってすぐの4月17日から
北区大将軍西町椿寺南裏の部屋で
「運命の女性」長谷川泰子と同棲します
17歳の誕生日を迎える少し前のことです
泰子とは前年に
大空詩人と呼ばれていた永井淑(ながい・よし)を通じて知りました
前年に「ダダイスト新吉の詩」を読んでいた影響もあり
詩人はダダイズムの詩を盛んに作っており
そのいくつかを泰子に賞賛されたのがきっかけです
立命館中学の講師をしていた冨倉徳次郎を知り
冨倉を知った機縁で
冨倉の二高時代の後輩・富永太郎を知り
今度は富永の二高の同級・正岡忠三郎を知ったのも
4、5月の間のことでした
(正岡忠三郎は、正岡子規の妹・律の養子となり、正岡家を継いだ人。司馬遼太郎の「ひとびとの跫音」には、忠三郎の父君・加藤恒忠と「坂の上の雲」のヒーロー・秋山好古が竹馬の友だった当時のことが書かれています)
「ノート1924」には
このころ作られたダダの詩が記録されているのですが
これらの詩の隣り合わせに
長谷川泰子との同棲生活があったことを
見過ごすことはできません
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