生前発表詩篇を読む続編 <39>初夏の夜に
「初夏の夜に」は
草稿が残っており
詩の末尾に「一九三七、五、一四」とあることから
昭和12年(1937年)5月14日の制作と確定されます
これが第一次形態の作品です
これを元に
同年8月8日に推敲(推定)
「四季」の昭和12年10月号(発行・同年9月20日付け)に発表されたのが
第二次形態の本作品ということになります
第一次形態では
タイトルが「初夏の夜に、おもへらく」となっていましたが
「四季」に送付した段階で改題されました
同じ月に発表された作品に
「正午」(文学界)
「夏日静閑」(文芸汎論)があります
オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――
ではじまるこの詩が
蚊の飛ぶ音に
夏の訪れを知らされたことを歌うばかりでないことは
次の行
死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かわら)から、此の世の僕等を看守(みまも)つてるんだ。
で明らかになります
蚊の音に
死んだ子どもらの思い出を誘発され
あの世の河原で
子どもらが
この世の僕らを見守ってくれていることを歌いますが……
ではこの詩は
死んだ子どもらへの追悼歌なのかというと
単にそうではなく
追悼歌にしては
あの世の中への「入り込み」が過度で
中原中也特有です
追悼というのは
死者があり
生者があり
両者の間には
深く大きな隔たりがあったうえで
生者が死者へ悲しみの言葉を贈るものですが
この詩は
行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。
なのです
生者に
あの世は遠くはなさそうに感じられているのです
そして
窓の彼方(かなた)の、
笹藪の此方(こちら)の、
月のない初夏の宵の、
空間……
其処(そこ)に、
死児等は茫然、
佇(たたず)み
僕等を見てる
のです
あの世は
そこにあり
笹薮のこちらに
死んだ子どもらは
たたずんで
僕らを見ているのです
「三歳」として出てくるのは
前年11月に
数え年3歳で亡くなった
詩人の長男・文也のことでありましょう
「十歳」は大正4年(1915年)に亡くなった
すぐ下の弟・亜郎のことでしょうか
この詩を書いたとき
長男・文也の死から
1年もたっていませんが
思い出せば
愛息を失った悲しみは
薄れようになく
子どもと一緒にいたい
子どものそばにいたいと思うあまり
「遠くはなさそうな」「そこ」へ
自ら参じたく思う心は
逸(はや)るのでした
詩人の死が
2か月後と迫っている時に
この詩は作られましたが
詩人は
自らの死を
夢にも思っていないはずでした
*
初夏の夜に
オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――
死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かわら)から、此の世の僕等を看守(みまも)つてるんだ。
彼の世の磧は何時でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。
行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。
窓の彼方(かなた)の、笹藪の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其処(そこ)に、
死児等は茫然、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。
罪のない奴等が、咎めもせぬから、こつちは尚更、辛いこつた。
いつそほんとは、奴等に棒を与へ、なぐつて貰ひたいくらゐのもんだ。
それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。
奴等の間にも、競走心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、
あるとしたらだ、何(いず)れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、
三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。
なにさま暗い、あの世の磧の、ことであるから小さい奴等は、
大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは想ふけれど、
それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……
――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……
(一九三七・五・一四)
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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