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2010年12月15日 (水)

ダダ詩「ノート1924」の世界<1>春の日の怒

一番目にある「春の日の怒」を
読んでみます
読めるかどうかわかりませんが
とにかく
読んでみます

中原中也という詩人が
短歌をやめて
詩を書きはじめた初期に
どのような詩を書いていたのか
現存する草稿の中の
最も古い作品ということになります

 *
「春の日の怒」

田の中にテニスコートがありますかい?
春風です
よろこびやがれ凡俗!
名詞の換言で日が暮れよう

アスファルトの上は凡人がゆく
顔 顔 顔
石版刷りのポスターに
木履の音は這ひ込まう

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

どうですか
これが
中原中也が書いた
ダダイズムの詩といわれる詩で
現在も肉筆の草稿が残っている
最も古い作品の一つです

4行1連の
全2連の詩という「形」があり
タイトルも付けられた完成作です
「春の日の怒」と題されたからには
春の日の怒りということが
歌われている詩のようです

春の日の怒りといっても
怒りの主体が春の日なのか
春の日に作者である詩人が怒ったものなのか
よくわかりません

一通り読んでみると
1行1行は単純明快な詩句ですが
それぞれの行の関連がわかりにくい詩
ということがわかります

この詩は
1行目と2行目につながりはないのでしょうか
2行目と3行目につながりはないのでしょうか
……

という問いには
あるといえばあるし
ないといえばない
ということしかいえないという答えが一番になります

1行1行は
まったく関係がなく
因果関係もなければ
空間関係もない
勝手に独立しているだけで
いかに無関係な行を作れるかを実験した
出鱈目な詩と
受け取る向きもありますが

田の中のテニスコート
春風
凡俗
名詞の換言
……

アスファルトの上の凡人
顔 顔 顔
石版刷りのポスター
木履の音
……

これらの行間には
省略された語句があり
それを読み取り
隠された意味を受け取るように作られた詩であるから
そのパズルを解くような営みが
詩を読むということになる
と考えることもできます

どちらを取るかは
読者の勝手ですが
前者を取った場合
出鱈目な詩句なんて
味わいたくもありませんから
もうこの詩から逃げ出さざるを得ません

というふうになって
後者の考えの読者になって
この詩に立ち向かうことになりますが
……


テニスコート
春風
凡俗
名詞の換言
アスファルトの上の凡人
顔 顔 顔
石版刷りのポスター
木履の音
……

これらの語句が
どのように
春の日の怒りを
表しているのだろうかと
立ち止まって考え込むことになります

田の中にテニスコートがありますかい?

この冒頭行の調子は
どのように感じられますか?
えばった、高飛車な感じですか?
謙虚な感じですか?
ほかの感じですか?
皮肉っぽい感じ?

そもそも
この1行
田んぼの中にテニスコートなんてあるとでも思いますか
ねえ、あんたって感じですか

あるわけないでしょ
そんな不合理で
トンチンカンなことってあるわけないでしょって
詩人はこの1行に
込めたかったのでしょうか?

挑発的な感じはありますかね
田んぼの中にテニスコートを欲しがったり
夢想したり
無茶苦茶な想像や欲望をいだいて当たり前の
普通にヘンテコリンな平凡な人が
いきなり
そんな質問されても困りますよね

少しオロオロしているところへ
第2行

春風です

そして立て続けに

よろこびやがれ凡俗!
名詞の換言で日が暮れよう

です
やっぱり詩人は
高見に立っているようです
凡俗たちを
笑っているようです

田は、たとえば畑
テニスコートは、たとえばプール
でもOKなのです

平凡な人々は
名詞を置き換えて
永遠に交換可能な世界を生きている
とでも言いたいばかりに
よろこびやがれ!と
誉め殺しているかのようです

日常の繰り返し
日常は繰り返し

詩人は
京都の街並みを眺めています
アスファルト道路を行く
顔顔顔……は
どれも同じ

街を眺める詩人は
やがて
東京に出て
「都会の夏の夜」で

遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。

ただもうラアラアと唱つてゆくのだ。

と歌い
「正午」で

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

と歌うのにつながってゆく
サラリーマン観察者の目と
同じ目をしています

石版刷りのポスターには
ぽっくりの音

この2行の読みに
苦戦することはありません
これも
名詞の換言です
田にテニスコートと同じで
ポスターにぽっくりなのです

なのですが
ここには
泰子を得て得意気な
詩人が隠れているようにも感じられますが……

泰子と詩人の恋は
そう簡単なことでもなく
「よろこび」は
一瞬のうちに「怒」に転じ
その逆も真であった
交換可能の運動の中に
あったということなのかもしれません

Senpuki04
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