諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて
「97歳 音楽批評への挑戦 吉田さん『永遠の故郷』完結」と題する昨日1月17日朝日新聞朝刊文化面の記事は、署名入りの女性記者(吉田純子)によるものですが、核心にふれる部分で、中原中也が登場しています。
「チャイコフスキーの『舟歌』やマスネーの『エレジー』の節にのせて自作の詩を歌」ったという詩人の貴重なエピソードなどが紹介されており、全文が「Asahi com」で読めますからぜひ目を通しておきたい記事ですが、他に、作曲家の諸井三郎を「しばしば論破する中也」について語っているくだりがあって、中原中也と「スルヤ」との交渉がよみがえってくるきっかけになりました。
世田谷・北沢で詩人と共同生活をしたことのある年上の僚友・関口隆克が、文学界の「中原中也追悼号」(昭和12年12月1日発行)で「北沢時代以後」を寄せていますが、中に、諸井三郎と詩人が「烈しく議論を続け」たシーンが描かれています。
中原中也と関口隆克と石田五郎の3人による共同生活のはじまりを記す中で、諸井三郎が登場します。関口は諸井が連れてきた中原中也と初対面でしたが、諸井と詩人は関口の住まいにやってくる道すがら議論に熱中し、関口のところへ来ても、関口をおいてすぐに二人で外での散歩を続けて議論を続行した、ということが紹介されているのです。
そのくだりのさわり――。
(略)諸井三郎が見知らぬ客と這入って来た。それが中原であった。二人は途々何か話をして来たらしく、直ぐに烈しく議論を続け、手持無沙汰の僕に中原は懐中から原稿紙の束を出して渡し、まだ話し乍ら散歩に出て行った儘暫くは帰って来なかった。原稿紙には美しい筆跡で、後に「山羊の歌」の前の方に収められた詩の幾篇かが書いてあった。僕はそれらの詩の特異の美しさに驚嘆した。二人は戻って来た。(略)
(「文学界」同上号より。現代語に改めてあります。編者。)
吉田秀和さんは、中原中也と諸井三郎の議論を目撃したのだし、詩人が作曲家を「しばしば論破」したのを見たのです。もちろん、議論の勝敗が問題ではありません。
朝日の記事は「中也もトーマス・マンも、音楽の勉強をどうやったかなんて僕は知らない。だけど、本当に誰よりも音楽を知っていた」という、吉田さんのコメントで「中也」の項を結んでいます。
関口隆克も、先の「北沢時代以後」で、「中原中也の音楽」について、次のように記しています。
その頃諸井や内海は「スルヤ」という会をつくって、作曲を発表していたが、中原の「朝の歌」、「臨終」、「故郷」、「失せし希望」などに曲がついて、演奏会で幾度か長井維理氏が歌った。毎週一度皆は長井さんの邸に集って、稽古をしたり、色々な話をしたりしたが、中原もよくこれに出て、熱心に議論をしたり時には喧嘩をしたりした。又スルヤのパンフレットに論文を書いたこともあった。こうして出来た中原の歌の曲は、真剣な交感と深い了得の中に生れ、練習された、実に立派なものであった。こういう本物の歌曲が残されたことは、詩人として酬われることの薄いかに見えた中原の努力の正しい価値を示す、本当の意味の幸福と言わねばならぬ。
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