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2011年2月

2011年2月22日 (火)

【ニュース】また房総文学散歩:描かれた作品と風土/3 千葉市と中原中也

(毎日新聞より)
また房総文学散歩:描かれた作品と風土/3 千葉市と中原中也
http://mainichi.jp/area/chiba/news/20110222ddlk12040134000c.html

「都会の夏の夜」を読み直す/サラリーマンの悲しみ

東京のサラリーマンたちの姿が
とらえられました。
銀座か新宿か渋谷か……
相も変らぬ都会の夜の風景です。

ラアラア
ラアラア

サラリーマンたちが高唱する中身は
ききとれません
ただラアラアとだけ聞こえます

皆さん
糊のきいた
よそ行きの白いシャツの襟も
曲がちゃって
職場のお仲間の結婚式の帰りなのでしょうか

口を大きく開ききって
心の中が丸見えのようなのがどこか悲しい
頭の中も土の塊にでもなってしまったかのように
ラアラアとだけ
がなりながら
どこかへ帰っていくのです。

ここには、しかし
非難がましさはありません
あきれているばかりではなく
サラリーマンへの哀れみのようなものさへ
漂います

いい加減に
おれも
あの隊列の中に入りたいなあ
ラアラアと
何もかも忘れて
高吟してみたいよなあ
という共鳴の響きすらあります

 *
 都会の夏の夜

月は空にメダルのやうに、
街角(まちかど)に建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。  
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――

その脣(くちびる)は胠(ひら)ききつて
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になつて、
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

商用のことや祖先のことや
忘れてゐるといふではないが、
都会の夏の夜(よる)の更(ふけ)――

死んだ火薬と深くして
眼に外燈の滲みいれば
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年2月21日 (月)

「春の夜」を読み直す/中原中也の詩のダダの強度

中原中也が山口中学を落第し
京都の立命館中学に転校したのは1923年(大正年)
16歳のことです。
生地を離れ
自活をはじめた中原中也に開かれる新世界。
その一つがダダでした。

京都の古書店で偶然見つけた
「ダダイスト新吉の詩」に触発され
「ダダさん」とあだ名で呼ばれる時期もあった詩人でした。

詩人富永太郎を知ったのも
駆け出しの女優長谷川泰子を知ったのも
京都でしたが、
3年と満たない滞在でした。

泰子とともに上京したのは
1925年(大正14年)18歳の年です。
詩で身を立てる決意を固めるのですが
東京での詩作が
ダダイズムをきっぱり断ち切ったわけではありません。

それどころか
ダダイズム的詩作法は
終生、中原中也の詩に影を落とし
独特の強度を与えていくことになります。

新しい詩境とされる
朝の歌までに作られた
4篇の「初期詩篇」は
ダダおよび脱ダダの詩として
じっくりと読んでおきたい詩ですが

西欧象徴詩をはじめ
日本の文語詩や雅語
漢語・漢文調など
詩法への多様な摂取を試みていた
この頃の詩の一つである
「春の夜」は、
全行に散りばめられた暗喩が
難解を極めます。

いぶし銀のような色の窓枠の中に
一本の桃色の花が見える、
あれは桜か、桃の花か

月の光を浴びて気を失ったように、
庭の地面はほくろ状の模様になっている

ああなんとも平穏なことだ
木々よ恥じらいを知り
立ち回れよ

今涼しげな音楽が聞こえているが
希望はなく、
かといって
懺悔するほどでもない

敬虔な木工だけが
夢の中を行くキャラバンの足並みを
かすかに見るであろう

窓の中には
さわやかでおぼろげで
砂の色をした絹衣が揺れ動いている

大きなピアノが鳴り響いているけれど
祖先はないし、親も消えてなくなった
昔埋葬した犬はどこかと、
振り返っていると、
遠い日がサフラン色によみがえってきたよ
ああ今は、春の夜なんだなあ

春の夜の
優艶で妖艶な情景が歌われていて
幻想的ですし
夢のようです。

場所は、
中国唐代の宮廷?
フランスの宮殿?
アラビアの王城?
と、とんでもない想像が
広がりそうになります。

第4連の、
「希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず」
の、否定形で述べられた
主体(主格)が
詩人でありましょう。

第7連の、
「祖先はあらず、親も消けぬ」
には、詩人以外の
もう一人の主人公が現れますが
両者の関係がどのようなものであるのか
不明です。

どこそこの
だれそれが
何をどうした
という物語の主述が錯綜していて、
主格を探すのに苦労しますし、
関係も曖昧模糊としています。

謎解きの姿勢で詩を読むのも
一つの方法ですが
やれこの行はベルレーヌ、
やれこの行はブラウニングと
糸口が探られていますが
「学問」し過ぎては「詩」を見失いますから
深追いはほどほどに。

1行でも理解できれば
そこをきっかけにして
イメージを膨らまし、
ほかの行を読んでいると
また新しい読みが生れたりして、
少しづつ溶けていくこともあります。

詩の謎は、
謎のままにしておいたほうがよい
という場合もあります。

 *
 春の夜

燻銀(いぶしぎん)なる窓枠の中になごやかに
  一枝の花、桃色の花。

月光うけて失神し
  庭(には)の土面(つちも)は附黒子(つけぼくろ)。

あゝこともなしこともなし
  樹々よはにかみ立ちまはれ。

このすゞろなる物の音(ね)に
  希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。

山虔(つつま)しき木工のみ、
  夢の裡(うち)なる隊商のその足竝(あしなみ)もほのみゆれ。

窓の中(うち)にはさはやかの、おぼろかの
  砂の色せる絹衣(ごろも)。

かびろき胸のピアノ鳴り
  祖先はあらず、親も消けぬ。

埋みし犬の何処(いづく)にか、
  蕃紅花色(さふらんいろ)に湧きいづる
      春の夜や。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年2月20日 (日)

ダダ詩「ノート1924」の世界<9>倦怠者の持つ意志

倦怠(けんたい)は
この「倦怠者の持つ意志」と
前作「倦怠に握られた男」が作られてから
およそ6年後の1929年(昭和4年)末に制作された
「汚れつちまつた悲しみに……」で

倦怠(けだい)のうちに死を夢む

と歌われることになる
倦怠(けだい)です
同じ倦怠です。

「ノート1924」の
「倦怠者の持つ意志」と
「倦怠に握られた男」で
初めて
詩人は
倦怠という言葉を使うのですが
この時から
ケンタイではなくケダイだったか
確かなところはわかりませんが

「汚れつちまつた悲しみに……」で
詩人自らルビをふり
倦怠をケダイと読ませているのは
多くの読者が
ケンタイと読んできた経緯があり
やむにやまれずに
ケダイと読ませたいと思ったからだとすれば
1924年の倦怠も
ケダイだったのであろう
と推測してもおかしくはないでしょう

「汚れつちまつた悲しみに……」の倦怠(けだい)が
「死への倦怠」ならば
「ノート1924」の倦怠(けだい)は
暮らしの中の
すなわち
「生からの倦怠」であるほどの違いがありますが
この違いは
さほど大きな違いではありません。

「倦怠に握られた男」を書いた詩人は
その後すぐに
その男、倦怠者を
よりいっそうアップで捉えようとして
その男の意志について歌ったのです

その意志とは……

タタミの目とか
時計の音とか
日々の暮らしの形の一つ一つが
すべて地上に落ちてしまって
無意味になってしまったけれど
特に問題はありません

舌が荒れました
ヘソをじっくりと見ました
身体のどこもが不調で思わしくありませんが
特に支障はありません

こんな状態の時に
夏の海が出現するのです!
思想と身体が一緒になって前進し
倦怠はこうして生じます
努力して得たわけじゃないのです

得体の知れない倦怠の出所を
詩人は
なんとか
自分に説明しようとしているかのような
詩です。

 *
 倦怠者の持つ意志

タタミの目
時計の音
一切が地に落ちた
だが圧力はありません

舌がアレました
ヘソを凝視めます
一切がニガミを帯びました
だが反作用はありません

此の時
夏の日の海が現はれる!
思想と体が一緒に前進する
努力した意志ではないからです

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年2月17日 (木)

「深夜の思ひ」を読み直す/ 崖の上の彼女

1日が終わり
ものみな寝静まった深夜です
詩人は一人
思索に耽ります

すると、また
どうしようもなく
ある女性のことを考えることになります

いうまでもなく
この女性は
中原中也が愛し
友人小林秀雄の元へと去った
女優志願の女性長谷川泰子のことです。

と、読めるのは、
最終連に
「彼女の思い出は悲しい書斎の取方附け」
の1行があるからで
これが
泰子の荷物の片付けを手伝った
引越しの思い出であることがわかります。

この1行を手がかりに
最終連の4行は、

彼女は
断崖にあり
その上を精霊が怪しく飛び交っている
彼女の思い出といえば
悲しい書斎の後片付け、
彼女はまもなく死ななければならない

と読むことができますし
第4連も

真っ黒な闇夜の浜辺に
マルガレエテ=泰子が歩いている
ベールは風に吹き飛ばされそうだ
彼女の肉体は飛び込まなければならない
厳格なる神、父なる海に

と読むことができそうです。

彼女が
天罰に逢い
死の裁きを受ける運命を予言するのですが
どちらも
激しく彼女を求める
ウラハラでしょう。

しかし、ダダが復活したのか
象徴詩のレトリックであるのか
第1連から第3連までは
解釈を拒むものがあり
一筋縄ではいきません。

第1連の「泡立つカルシウム」とは、
炭酸カルシウムのことで、
サイダーのようなものが
シュッと泡立った後
消えておとなしくなっていくときの
急激で
頑固な
女児の泣き声みたいであり
鞄屋の女房が夕方に
鼻汁をすする音みたいなものだ

冒頭の「これ」とは
タイトルの「深夜の思い」を指示していて
これ(=深夜の思い)は
突然で頑固な
女児の泣き声とか
鞄屋の女房の夕方の鼻汁のようだ
という比喩のつもりでしょうか

毎晩のように
詩人を訪れる
思索の時間が
サイダーの泡かなんぞのように
はかなく一瞬のものでありながら
しぶとく
頑固な習慣になっていることを示唆しています

「深夜の思い」なのですから
そうはいっても
とりとめがなく
第2連の主格は、
「林の黄昏」。

これが
擦れた母親であるというのは
疲れた母親という意味か
その黄昏時の林の梢のあたりには
トンボだか蛾だか
虫が飛び交っていて
おしゃぶりをくわえて
お道化た踊りをしているように見えるのです

この不気味なイメージは、
詩人に独特な世界で
ただちに
詩集「在りし日の歌」の詩篇の幾つかに登場する
座敷童子(ざしきわらし)に似た
不思議な子どもの妖精を連想させる
シュールなイメージです。

第3連も
情景は林に続いていて
狩りをする猟師が
毛を波打たせて走り去る猟犬を
猫背で追いますが
その、今、
犬が走り、猟師が走る草地は
森に続いているけれど
急斜面の坂だ!
(危ないぞ!)
と、なにやら危機を感じさせる場面になります

こうして
第4連と最終連につながり
崖の上にいるピンチの彼女への
詩人の深夜の思いは
募っていくばかりです。

マルガレエテは
ゲーテの戯曲「ファウスト」に登場する
主人公ファウストの恋人グレートヒェンのことですから
「深夜の思い」には
その壮大な劇のイメージが込められているのかも知れません。

 *
 深夜の思ひ

これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑ぜない女の児の泣声だ、
鞄屋の女房の夕(ゆふべ)の鼻汁だ。

林の黄昏(たそがれ)は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交ふ梢のあたり、
舐子(おしやぶり)のお道化(どけ)た踊り。

波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向ふに運ぶ。
森を控へた草地が
  坂になる!

黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄する
ヴェールを風に千々にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!

崖の上の彼女の上に
精霊が怪しげなる条(すぢ)を描く。
彼女の思ひ出は悲しい書斎の取片附け
彼女は直きに死なねばならぬ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2011年2月16日 (水)

「黄昏」を読み直す/詩人の誓い

「黄昏」について、
大岡昇平は、

当時の桃園は中央線の東中野と中野駅の中程の南側、線路から
七、八町隔った恐らく田圃を埋めたてて出来た住宅地である。
 下宿の裏には蓮池があって、私には、

 蓮の葉は、図太いので
 こそこそとしか音を立てない。(「黄昏」)

 の句は、この下宿と切離しては考えられず(略)

と、「中原中也『Ⅱ朝の歌』」(角川文庫)
の中で書いています。

蓮池を前にして佇(たたず) んでいる詩人は
蓮の葉が擦れ合う音を
先ほどから聞いています。
夕方です。

大振りな蓮の葉がこすれあう様子を
図太いので
こそこそとしか
音をたてない
と観察し
表現する詩人――。

この感性は
詩人に先天的なものであると同時に
この詩を作った時期に
詩人が追い込まれていた
ピリピリと張り詰めた心境を
映し出しているものです

長谷川泰子が詩人の元を去ってすぐに
詩人は
杉並・高円寺の住居を払い
中野・桃園へ引っ越しました
恋人と別れた後の心境が
この詩の
蓮の葉の擦れ合う音を聞く詩人の心に
反映しています

葉音が聞こえてくると
ぼくの心も揺れるのです。
揺れる心の目には
夕暮の薄明るい地平線を追うと
黒々とした山の稜線が
静かに横たわっているのが見えるばかりです

ああ
失ったものは帰って来ない! 

女はもうぼくのところに戻らないであろう
悔恨の念がじわじわともたげてきます
悲しいことはいろいろあるけれど
これほど悲しいことはありません。

この悲しみの上に
今度は蓮の根っこの匂いが鼻をつくのです
悲しみが根っこの匂いにまみれて
汚れてしまい
畑の土や石くれまでもがぼくを見て
何かを言いたそうにしている……
(汚れた悲しみのモチーフ!)

いや、待ってくれ
だからといって
ぼくは、耕やそうとは思わないよ!
とても月給取りにはなれない!
ぼくは、後戻りはできないんだ!

黄昏の中にしばらくぼんやりしていると、
親父の像が浮かんできたりするので
それを潮(しお)に
ぼくはぼくが決めた道を行くほかにない、
と一歩一歩踏みしめるように歩きはじめました。

前作「秋の一日」に続いて
志を確認する
詩人宣言の詩になっています。


 黄昏

渋つた仄(ほの)暗い池の面(おもて)で、
寄り合つた蓮の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。

音をたてると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐(お)ふ……
黒々と山がのぞきかかるばつかりだ
――失はれたものはかへつて来ない。

なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
畑の土が石といつしよに私を見てゐる。

――竟(つひ)に私は耕やさうとは思はない!
ぢいつと茫然(ぼんやり)黄昏(たそがれ)の中に立つて、
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2011年2月15日 (火)

【中原中也関連書籍】詩文集 生首(辺見庸)

(山口新聞より)
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剥がれて/下駄箱/秋宵/夏至/入江/画角/halo/顔屋/讖/禍機〔ほか〕

2011年2月14日 (月)

「月」を読み直す/詩人の悲しみ

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by Shake My Day


「初期詩篇」の2番目、
「山羊の歌」全体から見ても
2番目に置かれた「月」は
ダダの詩ではなく
ダダを脱皮しようとして作られた詩です

中原中也の詩作品としては初期のもの。
ダダっぽさを残しながら
ダダではなく
象徴詩に近づきつつも
象徴詩としては若さ(=青さ)の
残る作品といえるかもしれません

難解ながら詩句を何度も追っているうちに
見えてくるものがあります。
はじめに詩の形が見えてきて
次にはストーリーみたいなものが
浮かび上がってきて
やっぱり中原中也の詩になっているのがわかります。

4- 4- 3- 3の14行詩
ソネットの形。
各連に「月」の1字が見えます。
その月を見比べると……。

1連は、月はいよいよ愁しく
2連は、ものうくタバコを吸っている
3連は、汚辱に浸る
4連は、首切り役人を待っている月

悲愁(ひしゅう)の愁の「かなしみ」の中にあり
懶惰(らんだ)の懶の「ものうさ」の中にあり
汚辱(おじょく)に心はまみれ
天女たちのトー・ダンスにも
慰愛(いあい)されることのない月は
詩人自らのことを指していることが
想像できるでしょうか。

2連の4行は
遠い戦争の記憶がよみがえったのか
忌々しい過去を意味するのか
戦地のイメージなのか
さびついた缶から取り出したタバコを
物憂くふかしている月……
倦怠(けだい)がここにもはじまっています

4連にきて
慰まることのない月=詩人は
星々に向かって
これら悲愁や汚辱や倦怠を
いっそのこと
切り落としてくれるように
首切り役人の登場を呼びかけるのです

これだけでは
なにが歌われているのか
ぼんやりしていて
ベールの外側から
劇かショーかを
見ているような感覚になります

その感覚は
的を外れているものではなく
この詩が
ガリラヤ王ヘロデと
その王女(義理)サロメと
預言者ヨハネらが織りなす
オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」を
下敷きにしているからもっともなことなのです

「サロメ」は
ヘロデに捕らわれた
バプティスマのヨハネの生首を
サロメが義父ヘロデに求め
娘サロメにぞっこんのヘロデは
サロメの望みに応じたため
ヨハネの生首にサロメが接吻するという筋書きのドラマで
ビアズレーの挿画で有名になりました


養父
砂漠
運河
七人の天女
趾頭舞踊
そう手(そうしゅ)
……
といった語句が現れるのは
こういう理由があったのです

これらの登場人物や舞台背景が
「サロメ」のシーンであることを知れば
一気に
「月」の内部に溶け入っていくことになるのですが
なぜ「サロメ」なのかという謎を
読者は抱くことになり
ここではじめて
中原中也の詩「月」を味わう
糸口をつかんでいることになります

 *

Tuki

2011年2月13日 (日)

「朝の歌」を読み直す/失なわれた夢

一つかじっては、また一つ、
充分に感じられたのか、存分に味わえたのか、
数式を解くようようには、ピタリとフィットする答えを得られなくて、
もどかしいような感覚を残しながら、
また一つまた一つと
中原中也の詩の中に分け入って行きます。

「朝の歌」へたどりついて、
グンとやわらかい感じになったようです。
文語調でソネットであることが、
元来、優しい響きを放つからなのでしょうか。

静かな朝の情景です。
前夜、酔っ払ってしまって、泥のように眠り込んだ詩人は、
目覚めた床の中にいて、
雨戸を漏れる陽光が
朱色に映える天井を見上げています。

どこからともなく
ズンタッタ ズンタッタと聞こえてくる行進曲
勇まし気ではありますが気だるい響きは
詩人を起き上がらせる気持ちにさせません。

小鳥らの鳴き声がしないのは
とっくに太陽はのぼり、
外は晴れあがって、
薄い藍色、はなだ色の空が広がっています。

何度、こんな朝を迎えたことだろうか!
何もしようとする気になれない
倦怠に満ちた詩人の心を
誰もとがめようとはしない静かな朝なのです。

昨日見かけた
あの新築中の家の材木からだろうか
樹脂の香りが鼻を突いて
シャキッとしなさい、と母の声がしたようなまどろみの中で
詩人の胸はざわめきはじめます

ああ、失ってしまった夢
あれもしよう、これもしようと
本当に様々に抱いていた夢は
どこへ行ってしまった?
森が揺れている
風に吹かれて、葉音ばかりが聞えてくる

森の向こうには
大きな空が広がっている
果てしなく広がっていく空に向かう
一本の土手道を伝って
消えて行く
美しい様々な夢よ!

東京の安アパートの一室の情景が
詩の終わりの方では
この詩が作られた当時の
東京・中野や杉並あたりの小川へと連なり
やがては故郷・山口の土手の道に溶け込んでいるかのようです。

詩人はしみじみとして
喪失と倦怠を歌いますが
絶望の淵に立っているというよりも
希望をさえ感じさせる時間が流れています
悲運の詩人にも
このような時間があったのだ、と思えれば
ばんざい!と一言叫んでみたくもなる作品です。

詩人は後に「詩的履歴書」という小さな自伝の中に
「『朝の歌』にて方針立つ。」と
この作品が「詩人としてやっていける!」
会心作であることを記しました。
 *
 朝の歌

天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2011年2月12日 (土)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続4>

昭和7年(1932年)に、諸井三郎はドイツへ留学しますが、そのことによって音楽集団「スルヤ」は解散します。「スルヤ」は諸井が東京帝大3学年のとき(1927年)、諸井の主導で設立された「作品発表のための集団」でしたから、解散は自然の成り行きでした。

 

諸井三郎の「交響曲第一番」は、このドイツ留学中の1934年に作曲されたということですから、「ドイツ留学の直前には、私の作風は大きな変化の兆候をあらわしていたのだが、この変化は、中也には気に入らなかったらしい。」と記されてはいるものの、この曲と中原中也には、なんらかのつながりが推測され、「身近な感じ」がしてくるというものです。(もちろん、作曲に直接的影響を及ぼしたなどといっているのではありません)

 

 激しく対立した中原中也との議論の影響、その痕跡がうかがわれやしまいか、と想像しながら、この曲を聴いても、それほどおかしなことではないかもしれませんが、曲は演奏されることがなく、録音版もないので、夢のまた夢みたいなことですが……。

 

角川書店版中原中也全集の旧版(旧全集)付録「月報Ⅰ」に、諸井三郎が書いた「『スルヤ』の頃の中原中也」からの引用・紹介を続けます。これで、終わりです。

 

(以下引用)

 

 私たち「スルヤ」の同人は、毎週水曜日に長井維理(ういり)のサロンに集って、音楽の練習をし、芸術論を戦わせた。この会合には、島崎藤村もこられたことがある。中也は毎回必ず出席し、いろいろの音楽を聞きたがり、又私が作ったいろいろの曲を聞いて、しきりに意見を述べたものだった。議論の末に、よく中也は田宮博とけんかになった。生物学の研究者であった田宮博は、チェロをよく弾き、いつも私のチェロソナタを弾いてくれたが、すぐれた自然科学者としての彼には、中也の言動が我慢出来なかったらしい。二人はずい分はげしいけんかをしたものだったが、一週間経つと、又顔を合せ、音楽を聞き、芸術論をくり返したのである。議論の内容は、もう憶えていないが、情熱にあふれた青年たちだったから、随分つまらないことで、云い合いをしたこともあったと思う。「スルヤ」は昭和七年に私がドイツへ留学することによって、自然その活動を停止した。そして再び結成されることなく、同人は一人一人自分の道を歩いていったわけである。ドイツから帰ってきてからは、あまり中也と会う機会もなかった。ドイツ留学の直前には、私の作風は大きな変化の兆候をあらわしていたのだが、この変化は、中也には気に入らなかったらしい。彼は私の音楽について、あまり物をいわなくなったのを憶えている。
 中原中也の詩が今日のように認められたことは、何といっても、私にとっては大きな喜びである。

2011年2月 8日 (火)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続3>

河上徹太郎の紹介状をもって、東京・中野の諸井三郎の住まいを訪れた詩人・中原中也の初対面のシーン。諸井は、先ほど街ですれ違った青年が、中原中也であることを認識しました。二人の初対面の直後、中也はすでに「炭屋の二階」に引っ越しています。

角川書店版中原中也全集の旧版(旧全集)付録「月報Ⅰ」に、諸井三郎が書いた「『スルヤ』の頃の中原中也」からの引用・紹介を続けます。

(以下引用)

この日から、約半年間、中也は毎日私の家に来ていた。彼は、大通りをへだてた私の家と反対の側の炭屋の二階に住んでいたが、毎日夕方になると私の家にあらわれる。そして、まず煉炭ストーブの用意をし、それから芸術の話をする。夕食をいっしょにしてから、たいてい夜中の二時頃まで語り合い、そして帰っていくのだった。半年間は、これが彼の日課だったわけで、今か考えると、よく話すことがあったものだと思う。

最初に訪ねてきた次の日、中也は厖大な原稿紙に書きつけた、彼の詩を私の机の上にドサリとおき、「作曲してくれ」といった。今彼の有名な詩としてたくさんの人から高く評価されている詩の多くのものが、そのなかにあったわけだ。私はたんねんに何日もかかってその詩を読んだ。そして、中也がきわめて独創的な、稀な才能を持った詩人であることを知った。しかし、作曲出来るようなものは必ずしも多くはなく、それを選び出すことが、ひとつの苦労だった。

こうして、私はまず、彼の「朝の歌」と「臨終」とを取り上げて作曲した。この二曲は「スルヤ」の音楽会で演奏されたのである。チェロのオブリガートのついたこの二つの歌曲を聞くと、今でもその当時のふんいきが、ありありと思い出される。

(適宜、改行、1行空きを加えてあります。編者)

(この項つづく)

2011年2月 2日 (水)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続2>

「角川新全集第1巻詩Ⅰ解題篇」の「朝の歌」の項には、諸井三郎が書いた「『スルヤ』の頃の中原中也」という一文が紹介されています。これは、角川書店版の中原中也全集の旧版(旧全集)に付録として添付されていた「月報Ⅰ」に掲載されたものですが、丁度、手元に、その「月報Ⅰ」がありましたから、ここではこちらを元にあらましを引用しておきます。「月報Ⅰ」は、昭和42年(1967年)の発行になり、「『スルヤ』の頃の中原中也」は先に紹介した「スルヤ」第2輯から、およそ40年後に書かれた回想記ということになり、B5版で2ページ弱の小文です。諸井三郎は、1903年生まれですから、63歳前後に書いたことになります。

 

 「スルヤ」の頃といえば、もう四十年も前のことになる。もはや遠い昔の思い出となった時代である。「スルヤ」といっても知らない方が多いと思うが、これは、内海誓一郎や私などの作曲を発表する芸術団体で、そのメンバーのなかには、小林秀雄、今日出海、河上徹太郎、田宮博、安川寛、関口隆克などの人々が加わっていたが、中原中也も参加していたわけである。

 

 これらの人々は今日でこそそれぞれの分野の代表的人物になったが、その当時はいずれも無名で、文学や音楽に夢中になっていた、いはば芸術につかれた青年たちだったわけだ。そして、当時の思い出は数限りなくあるが、いずれもなつかしいものばかりで、今日になって見れば、ほんとうに恵まれたみのり豊かな青年時代だったと思う。

 

 中也と私の出会い、これは今でもはっきりと憶えている印象の強いものだった。そのころ中野駅の近くに住んでいた私は、ある日、買物をしようと家を出た。少しいった細い道で、まことに変った格好をした一人の若者とすれ違った。一目で芸術にうつつを抜かしているとわかるような格好だったが、黒い、短いマントを着、それに黒いソフトのような帽子をかぶった、背の低い、小柄なその人物は、一種異様な、しかし強烈な印象を与えずにはおかなかったが、お互になにか心にひっかかるのを感じながら、その時は、そのまますれ違ってしまった。

 

 買物をすませて家に帰り、しばらく家で休んでいると、玄関に人の声がする。出て見ると、そこにさっきの黒ずくめの青年が立っている。私が用件をたずねると、彼は一通の紹介状を出した。それは河上徹太郎の書いたものだったが、それによって、私は彼が中原中也なる詩人であることを知ったわけである。

 

*長くなるので、今回はここまでの引用でやめておきます。中原中也は、ぶしつけな夜襲を敢行したのではなく、一定の礼儀を忘れずに、初対面の人物との交友をはじめたということが、よく見える描写です。はじめの「すれ違い」のシーンなどは、様子見とか逡巡とかをさえ感じさせる詩人の行動を想像させ、ナイーブでさえあります。

 

(この項つづく)

 

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2011年2月 1日 (火)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続>

音楽評論家・吉田秀和さんが、作曲家・諸井三郎と中原中也の議論を目撃したことについて、著作『永遠の故郷』が完結したのを機に取材を受け、そのことが朝日新聞に紹介されたことにふれて、この欄で、同じように中原中也と諸井三郎の議論を目撃した関口隆克の発言について記しましたが、今度は、諸井三郎自身の発言にめぐり合いましたので、ここに案内しておきます。

 

諸井三郎は、中原中也の「朝の歌」や「臨終」に作曲したいきさつを、昭和3年5月発行の「スルヤ」第2輯に「雑感」と題して書いていることが、「角川新全集第1巻詩Ⅰ解題篇」で読むことができます。同書で「朝の歌」の制作過程が綿密に考証されているものの中に、参考資料として、この「雑感」の一部が紹介されていて、知る人ぞ知る、貴重な発言ですから、ここにそれを引用しておきます。

 

今度僕が作曲した「臨終」と「朝の歌」の作者中原中也は最近出来た僕の友達だ。今年の一月の末の或る寒い夕方特徴のある、マントを着て、突然僕の家を襲つたのだ。本当に彼は襲つたのだ。僕の家の戸を開けて、一番初めに「僕は不良少年ぢゃないんです」と云つたんだ。だが今は深い交りを結んでゐる。彼は無名の青年詩人――確か二十二だらう――だが今にえらくなるだらう。身体は小さいが魂は充ちてゐる.。/いつも色々な事を云つてゐる。「朝の歌」は彼の傑作だ。僕の大好きな詩だ。これに作曲するのには随分長い事考へた。書いたのは一夜だつた。誰でもこの詩と曲とは、好きになつて呉れるに違いない。

 

Senpuki04

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