「深夜の思ひ」を読み直す/ 崖の上の彼女
1日が終わり
ものみな寝静まった深夜です
詩人は一人
思索に耽ります
すると、また
どうしようもなく
ある女性のことを考えることになります
いうまでもなく
この女性は
中原中也が愛し
友人小林秀雄の元へと去った
女優志願の女性長谷川泰子のことです。
と、読めるのは、
最終連に
「彼女の思い出は悲しい書斎の取方附け」
の1行があるからで
これが
泰子の荷物の片付けを手伝った
引越しの思い出であることがわかります。
この1行を手がかりに
最終連の4行は、
彼女は
断崖にあり
その上を精霊が怪しく飛び交っている
彼女の思い出といえば
悲しい書斎の後片付け、
彼女はまもなく死ななければならない
と読むことができますし
第4連も
真っ黒な闇夜の浜辺に
マルガレエテ=泰子が歩いている
ベールは風に吹き飛ばされそうだ
彼女の肉体は飛び込まなければならない
厳格なる神、父なる海に
と読むことができそうです。
彼女が
天罰に逢い
死の裁きを受ける運命を予言するのですが
どちらも
激しく彼女を求める
ウラハラでしょう。
しかし、ダダが復活したのか
象徴詩のレトリックであるのか
第1連から第3連までは
解釈を拒むものがあり
一筋縄ではいきません。
第1連の「泡立つカルシウム」とは、
炭酸カルシウムのことで、
サイダーのようなものが
シュッと泡立った後
消えておとなしくなっていくときの
急激で
頑固な
女児の泣き声みたいであり
鞄屋の女房が夕方に
鼻汁をすする音みたいなものだ
冒頭の「これ」とは
タイトルの「深夜の思い」を指示していて
これ(=深夜の思い)は
突然で頑固な
女児の泣き声とか
鞄屋の女房の夕方の鼻汁のようだ
という比喩のつもりでしょうか
毎晩のように
詩人を訪れる
思索の時間が
サイダーの泡かなんぞのように
はかなく一瞬のものでありながら
しぶとく
頑固な習慣になっていることを示唆しています
「深夜の思い」なのですから
そうはいっても
とりとめがなく
第2連の主格は、
「林の黄昏」。
これが
擦れた母親であるというのは
疲れた母親という意味か
その黄昏時の林の梢のあたりには
トンボだか蛾だか
虫が飛び交っていて
おしゃぶりをくわえて
お道化た踊りをしているように見えるのです
この不気味なイメージは、
詩人に独特な世界で
ただちに
詩集「在りし日の歌」の詩篇の幾つかに登場する
座敷童子(ざしきわらし)に似た
不思議な子どもの妖精を連想させる
シュールなイメージです。
第3連も
情景は林に続いていて
狩りをする猟師が
毛を波打たせて走り去る猟犬を
猫背で追いますが
その、今、
犬が走り、猟師が走る草地は
森に続いているけれど
急斜面の坂だ!
(危ないぞ!)
と、なにやら危機を感じさせる場面になります
こうして
第4連と最終連につながり
崖の上にいるピンチの彼女への
詩人の深夜の思いは
募っていくばかりです。
マルガレエテは
ゲーテの戯曲「ファウスト」に登場する
主人公ファウストの恋人グレートヒェンのことですから
「深夜の思い」には
その壮大な劇のイメージが込められているのかも知れません。
*
深夜の思ひ
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑ぜない女の児の泣声だ、
鞄屋の女房の夕(ゆふべ)の鼻汁だ。
林の黄昏(たそがれ)は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交ふ梢のあたり、
舐子(おしやぶり)のお道化(どけ)た踊り。
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向ふに運ぶ。
森を控へた草地が
坂になる!
黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄する
ヴェールを風に千々にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
崖の上の彼女の上に
精霊が怪しげなる条(すぢ)を描く。
彼女の思ひ出は悲しい書斎の取片附け
彼女は直きに死なねばならぬ。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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