「月」を読み直す/詩人の悲しみ
by Shake My Day
「初期詩篇」の2番目、
「山羊の歌」全体から見ても
2番目に置かれた「月」は
ダダの詩ではなく
ダダを脱皮しようとして作られた詩です
中原中也の詩作品としては初期のもの。
ダダっぽさを残しながら
ダダではなく
象徴詩に近づきつつも
象徴詩としては若さ(=青さ)の
残る作品といえるかもしれません
難解ながら詩句を何度も追っているうちに
見えてくるものがあります。
はじめに詩の形が見えてきて
次にはストーリーみたいなものが
浮かび上がってきて
やっぱり中原中也の詩になっているのがわかります。
4- 4- 3- 3の14行詩
ソネットの形。
各連に「月」の1字が見えます。
その月を見比べると……。
1連は、月はいよいよ愁しく
2連は、ものうくタバコを吸っている
3連は、汚辱に浸る
4連は、首切り役人を待っている月
悲愁(ひしゅう)の愁の「かなしみ」の中にあり
懶惰(らんだ)の懶の「ものうさ」の中にあり
汚辱(おじょく)に心はまみれ
天女たちのトー・ダンスにも
慰愛(いあい)されることのない月は
詩人自らのことを指していることが
想像できるでしょうか。
2連の4行は
遠い戦争の記憶がよみがえったのか
忌々しい過去を意味するのか
戦地のイメージなのか
さびついた缶から取り出したタバコを
物憂くふかしている月……
倦怠(けだい)がここにもはじまっています
4連にきて
慰まることのない月=詩人は
星々に向かって
これら悲愁や汚辱や倦怠を
いっそのこと
切り落としてくれるように
首切り役人の登場を呼びかけるのです
これだけでは
なにが歌われているのか
ぼんやりしていて
ベールの外側から
劇かショーかを
見ているような感覚になります
その感覚は
的を外れているものではなく
この詩が
ガリラヤ王ヘロデと
その王女(義理)サロメと
預言者ヨハネらが織りなす
オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」を
下敷きにしているからもっともなことなのです
「サロメ」は
ヘロデに捕らわれた
バプティスマのヨハネの生首を
サロメが義父ヘロデに求め
娘サロメにぞっこんのヘロデは
サロメの望みに応じたため
ヨハネの生首にサロメが接吻するという筋書きのドラマで
ビアズレーの挿画で有名になりました
月
養父
砂漠
運河
七人の天女
趾頭舞踊
そう手(そうしゅ)
……
といった語句が現れるのは
こういう理由があったのです
これらの登場人物や舞台背景が
「サロメ」のシーンであることを知れば
一気に
「月」の内部に溶け入っていくことになるのですが
なぜ「サロメ」なのかという謎を
読者は抱くことになり
ここではじめて
中原中也の詩「月」を味わう
糸口をつかんでいることになります
*
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