カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続3> | トップページ | 「朝の歌」を読み直す/失なわれた夢 »

2011年2月12日 (土)

諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続4>

昭和7年(1932年)に、諸井三郎はドイツへ留学しますが、そのことによって音楽集団「スルヤ」は解散します。「スルヤ」は諸井が東京帝大3学年のとき(1927年)、諸井の主導で設立された「作品発表のための集団」でしたから、解散は自然の成り行きでした。

 

諸井三郎の「交響曲第一番」は、このドイツ留学中の1934年に作曲されたということですから、「ドイツ留学の直前には、私の作風は大きな変化の兆候をあらわしていたのだが、この変化は、中也には気に入らなかったらしい。」と記されてはいるものの、この曲と中原中也には、なんらかのつながりが推測され、「身近な感じ」がしてくるというものです。(もちろん、作曲に直接的影響を及ぼしたなどといっているのではありません)

 

 激しく対立した中原中也との議論の影響、その痕跡がうかがわれやしまいか、と想像しながら、この曲を聴いても、それほどおかしなことではないかもしれませんが、曲は演奏されることがなく、録音版もないので、夢のまた夢みたいなことですが……。

 

角川書店版中原中也全集の旧版(旧全集)付録「月報Ⅰ」に、諸井三郎が書いた「『スルヤ』の頃の中原中也」からの引用・紹介を続けます。これで、終わりです。

 

(以下引用)

 

 私たち「スルヤ」の同人は、毎週水曜日に長井維理(ういり)のサロンに集って、音楽の練習をし、芸術論を戦わせた。この会合には、島崎藤村もこられたことがある。中也は毎回必ず出席し、いろいろの音楽を聞きたがり、又私が作ったいろいろの曲を聞いて、しきりに意見を述べたものだった。議論の末に、よく中也は田宮博とけんかになった。生物学の研究者であった田宮博は、チェロをよく弾き、いつも私のチェロソナタを弾いてくれたが、すぐれた自然科学者としての彼には、中也の言動が我慢出来なかったらしい。二人はずい分はげしいけんかをしたものだったが、一週間経つと、又顔を合せ、音楽を聞き、芸術論をくり返したのである。議論の内容は、もう憶えていないが、情熱にあふれた青年たちだったから、随分つまらないことで、云い合いをしたこともあったと思う。「スルヤ」は昭和七年に私がドイツへ留学することによって、自然その活動を停止した。そして再び結成されることなく、同人は一人一人自分の道を歩いていったわけである。ドイツから帰ってきてからは、あまり中也と会う機会もなかった。ドイツ留学の直前には、私の作風は大きな変化の兆候をあらわしていたのだが、この変化は、中也には気に入らなかったらしい。彼は私の音楽について、あまり物をいわなくなったのを憶えている。
 中原中也の詩が今日のように認められたことは、何といっても、私にとっては大きな喜びである。

« 諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続3> | トップページ | 「朝の歌」を読み直す/失なわれた夢 »

058中原中也の同時代/諸井三郎」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続3> | トップページ | 「朝の歌」を読み直す/失なわれた夢 »