諸井三郎と中原中也の議論・吉田秀和さんの発言にふれて<続3>
河上徹太郎の紹介状をもって、東京・中野の諸井三郎の住まいを訪れた詩人・中原中也の初対面のシーン。諸井は、先ほど街ですれ違った青年が、中原中也であることを認識しました。二人の初対面の直後、中也はすでに「炭屋の二階」に引っ越しています。
角川書店版中原中也全集の旧版(旧全集)付録「月報Ⅰ」に、諸井三郎が書いた「『スルヤ』の頃の中原中也」からの引用・紹介を続けます。
(以下引用)
この日から、約半年間、中也は毎日私の家に来ていた。彼は、大通りをへだてた私の家と反対の側の炭屋の二階に住んでいたが、毎日夕方になると私の家にあらわれる。そして、まず煉炭ストーブの用意をし、それから芸術の話をする。夕食をいっしょにしてから、たいてい夜中の二時頃まで語り合い、そして帰っていくのだった。半年間は、これが彼の日課だったわけで、今か考えると、よく話すことがあったものだと思う。
最初に訪ねてきた次の日、中也は厖大な原稿紙に書きつけた、彼の詩を私の机の上にドサリとおき、「作曲してくれ」といった。今彼の有名な詩としてたくさんの人から高く評価されている詩の多くのものが、そのなかにあったわけだ。私はたんねんに何日もかかってその詩を読んだ。そして、中也がきわめて独創的な、稀な才能を持った詩人であることを知った。しかし、作曲出来るようなものは必ずしも多くはなく、それを選び出すことが、ひとつの苦労だった。
こうして、私はまず、彼の「朝の歌」と「臨終」とを取り上げて作曲した。この二曲は「スルヤ」の音楽会で演奏されたのである。チェロのオブリガートのついたこの二つの歌曲を聞くと、今でもその当時のふんいきが、ありありと思い出される。
(適宜、改行、1行空きを加えてあります。編者)
(この項つづく)
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