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2011年3月

2011年3月31日 (木)

ダダ詩「ノート1924」の世界<20>(テンピにかけて)

テンピとは
オーブンを意味する天火のことか
太陽の光を意味する天日のことか
どちらも強い火に通じますから
どちらでもよいようですが
やっぱり
天火かな

こいつで
あのへなちょこ野郎が作った詩なんか
焼いてやろかって
啖呵(たんか)をきっている詩です

百科辞典から引っ張ってきた
死んだ言葉を並べ立て
鳥だ花だって
珍しい名前ばかりを連呼して
見たことも聞いたこともないクセに
見たような聞いたようなウソばっかり書きやがって
――想像力があるならまだしもね
やいやい
何が表現できたのですか?

破格もなければ
破調もない
自己を棄てていない
我ばっかり主張している詩ってのは
神の詩か
凡人の詩か
どっちかだって
この僕が決めてあげるさ

次第に
絞られてきている感じです
なにしろ
詩を書く人間を批判しているのですから
中学校4年の中原中也の
交友関係を調べれば
おおよその見当はつくというものですが
誰だっていいじゃないですかね

詩人は
このように批判したような詩を
作ろうとはしなかったのです
それがわかれば
いいじゃないですか

ダダの技法はどこへやら
吹き飛んでいってしまうほど
書きたかったのですね
ストレートに過ぎる詩です
技がありません

タイトルをつけていない
未完成品ですから
もっともですが。

 *
 (テンピにかけて)

テンピにかけて
焼いたろか
あんなヘナチヨコ詩人の詩

百科辞典を引き廻し
鳥の名や花の名や
みたこともないそれなんか
ひつぱり出して書いたつて
――だがそれ程想像力があればね――
やい!
いつたい何が表現出来ました?

自棄(やけ)のない詩は
神の詩か
凡人の詩か
そのどつちかと僕が決めたげます

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月30日 (水)

ダダ詩「ノート1924」の世界<19> (何と物酷いのです)

(何と物酷いのです)は
原詩にはタイトルがなく
角川全集編集委員が
便宜的に
第1行目を仮題とする慣わしに従ったものです。

前々々作「春の夕暮」や
前作(題を附けるのが無理です)あたりから
恋を離れ
詩人の目は
外界に向けられるようになったようです。

外界といっても
風景ではなく人間。
人間といっても
どうやらかなり近くの存在。
今日話したばかりの彼っていう感じの誰かへの
皮肉のような詩。

そうであるから
誰彼と特定できてはまずいので
超難解に見えるけれども

読書くらい障(さまた)げられても好いが
書くだけは許してください

この2行で
どうも
無遠慮な夜襲をかけられて
辟易している詩人の姿が
浮んできたりします

詩人は
読書を妨害されるくらいなら
我慢できたのですが
詩を書くのを妨害されるのは
耐えられませんでした

近辺の文学青年の群れ(または個人)に

いくら原稿が売れなくとも
燈台番にはなり給ふな
(いくら原稿が売れないからといって、きれいごとばかり言ってしゃあないよ)

実質ばかりの世の中は淋しからうが
あまりにプロパガンダプロパガンダ……
(食うためだけの人生は淋しそうだが、それにしても宣伝ばかりじゃないか)

そして――岩、岩、岩
だが中間が空虚です……
(頭は岩のように硬いクセして、中身は空っぽじゃないか)

激論を終えて
一人になって
あれこれ思い出して
書き留めたのでしょうか

泰子は
向こうの部屋で
スヤスヤと寝息を立てていましたかな?

 *
(何と物酷いのです) 

何と物酷(ものすご)いのです
此の夜の海は
――天才の眉毛――
いくら原稿が売れなくとも
燈台番にはなり給ふな

あの白ツ、黒い空の空――
卓の上がせめてもです
読書くらい障(さまた)げられても好いが
書くだけは許してください

実質ばかりの世の中は淋しからうが
あまりにプロパガンダプロパガンダ……
だから御覧なさい
あんなに空は白黒くとも
あんなに海は黒くとも
そして――岩、岩、岩
だが中間が空虚です      

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月29日 (火)

ダダ詩「ノート1924」の世界<18>(題を附けるのが無理です)

中原中也の作品で
未発表のもののうち
題名のない作品は
( )の中に
詩の一行目の詩句を入れて
仮題とする習慣になっているのですが

(題を附けるのが無理です)は
詩人自らが
( )をつけて詩題とした
珍しい例で
この例のほかにはありません

(題を附けるのが無理です)は
詩題なのです。
仮題とは区別して考えたほうがよいということです。
「無題」というタイトルがありますが
それとも異なります。

ダダ的な遊びというより
遊び過ぎて
収拾がつかなくて
タイトルをつけたいのだけれど
いろいろなタイトルが浮んできて
どれにしてよいのか
わからなくなってしまって
でも内容には捨てがたいものがあるので
(題を附けるのが無理です)と
しておいた

いつか機会があれば
内容ともども
練り直すこともあるだろう

そんな感じで
記録しておいた作品かもしれません

だれだかわからない
明らかに泰子ではない
誰かに
呼びかけたり
忠告したりしていることが
理解できるのですが

第2連の
誰です
法律ばかり研究してるのは

の、誰ですは、誰のことか

第3連の
そればかりみてゐても
金の時計が真鍮(しんちゅう)になりますぞ

の、みているのは誰のことか

第4連の
あんまりいたづらは不可(いけ)ません

の、いたづらしているのは誰なのか

最終連の
君のステッキは
何といふ緊張しすぎた物笑ひです

の、君とは誰のことなのか

これらの
正体不明の主格は
一人なのか
複数いるのか
まったくわかりません


わからなくても
何かを言いたい相手があって
遠まわしにというか
ダダイスティックにというか
言いたかったのでしょうね

題をつけると
歌った相手を特定できてしまうので
プライバシーを侵害し
名誉毀損の恐れもあるから
題をつけるわけにはいきません
とふざけてみたかったのかな

まさか
この相手が泰子であるとは思えませんから
泰子以外の人物が登場したことだけでも
目新しい内容ということになります

第3連。
林檎の皮が
電灯の光を受けて
光っている
その外面だけが光っているのばかりを見て
感動したり感心したりしていると
(中身に関心を向けないで、上っ面ばかりみていると)
金の時計も真鍮になってしまうよ
(せっかくの金時計も安物の真鍮時計になってしまうよ)

などと
忠告してあげたい誰かが
いたのでしょうか

他の連も
第1連を除いて
誰かへの批判・非難・忠告の類でしょうが
第1連は
これらはみんな
トランプ占いの結果だという断りなのでしょうか
トランプ占いの結果なのだから
あまり目くじら立てて
怒ったりしないでね
予めご了承くださいっていう
お断りなのでしょうか

立命館中学の学友を
観察しての
アドバイスであるなら
詩人の近辺が
少しリアルに伝わってくる詩といえるかもしれません

 *
 (題を附けるのが無理です)

トランプの占ひで
日が暮れました――
オランダ時計の罪悪です

喩(たと)へ話の上に出来た喩へ話――
誰です
法律ばかり研究してるのは

林檎の皮に灯が光る
そればかりみてゐても
金の時計が真鍮(しんちゅう)になりますぞ

寺院の壁にトンボがとまつた
それは好いが
あんまりいたづらは不可(いけ)ません

法則とともに歩く男
君のステッキは
何といふ緊張しすぎた物笑ひです

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月28日 (月)

ダダ詩「ノート1924」の世界<17>幼き恋の回顧

幼い日の恋にも
大人の恋と似て
マッチを擦るような
はかなさがあったものでしたっけ?

残った軸木が
炭素になって
地面の上で風に揺れていた光景なんて
そういえば
夏の夜に
花火遊びをした後の
祭りの後の寂しさとして
手に取るように
目に焼きついているものですね
だれにも!

青春の祭りも
もっと
爛熟した年頃の火遊びのお仕舞いも
きっと
老いらくの恋でさえも
祭りの後の寂しさは
同じようなものかもしれません

「幼き恋の回顧」は
詩人17歳
青春の盛りに
昨日のことを
幼き恋として回顧しては
なくなりそうな恋が
ふたたび燃えあがっては
また消えて……

寝覚めの会話は
燃えカスみたい
繰り返しのアンニュイさえ漂うけど
また燃える時がくるのでしょうか

それでも
揮発してなくなりそうな
夕べが訪れると
二人は
また会いました

圧搾酸素でもっている恋って
どんなものだかご存知でしょうか
実はいま平凡なのですが
この間燃えたばかりの勢いが
二人を一緒にひっぱっていきます
ナニの方にね

ソーセージは、肉体
紫色は、燃え盛ること
「話の種」は、尽きないおしゃべり……

隠喩のつもりが
曲がり損ねた
変化球になって
すっぽ抜けました

 *
 幼き恋の回顧

幼き恋は
寸燐(マツチ)の軸木
燃えてしまへば
あるまいものを

寝覚めの囁きは
燃えた燐だつた
また燃える時が
ありませうか

アルコールのやうな夕暮に
二人は再びあひました――
圧搾酸素でもてゝゐる
恋とはどんなものですか
その実今は平凡ですが
たつたこなひだ燃えた日の
印象が二人を一緒に引きずつています
何の方へです――
ソーセージが
紫色に腐れました――
多分「話の種」の方へでせう

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月27日 (日)

ダダ詩「ノート1924」の世界<16-2>春の夕暮

「春の夕暮」は どうにかすると 恋だの愛だの性だのと 歌いがちな詩の流れを 思い直したかのように切り替えて 突如 広々とした 湖または海に出たかのように 一方向に流れることよりも 多方向へのベクトルを持つ 巨大なエネルギーに変わって 一種、うねりを湛(たた)えた 詩になりました 泰子との恋は どこへ行ってしまったのでしょう そのことが まずは気がかりなことですが…… この詩自体が 泰子との恋の ダダイスティックな表現とは 到底 受け取れない スケールを持ちますから たとえ この詩に 泰子との恋があるのだとしても それは詩の裏の方に 後退しているということになります ここには 恋だとか愛だとか性だとか というよりも そんなことのもっと 源(みなもと)にあるというか 根っこにあるというか そんなことを 言葉にする以前の世界が広がります 「名辞以前」の原形で 近くは「古代土器の印象」で 試みられたアプローチが より完成度の高い表現に到達して 詩人の愛着するところとなりました 泰子は もはやこの詩の中に 恋愛の対象としては 存在しないはずですし フロイド的なシンボルとしても あり得ないはずです その上 単に風景を歌ったものではありません 春の夕暮れの風景のすべてが ドーッと 詩人の血の中へと入っていくのです それは 詩の生誕の瞬間のメカニズムをさへ示しているような あるいは 詩人の血の作られる瞬間を捉えたもののような 象徴化といっていいものです  *  春の夕暮 塗板(トタン)がセンベイ食べて 春の日の夕暮は静かです アンダースロウされた灰が蒼ざめて 春の日の夕暮は穏かです あゝ、案山子(かかし)はなきか――あるまい 馬嘶(いなな)くか――嘶きもしまい たゞたゞ青色の月の光のノメランとするまゝに 従順なのは春の日の夕暮か ポトホトと臘涙(ろうるい)に野の中の伽藍は赤く 荷馬車の車、 油を失ひ 私が歴史的現在に物を言へば 嘲(あざけ)る嘲る空と山とが 瓦が一枚はぐれました 春の日の夕暮はこれから無言ながら 前進します 自らの静脈管の中へです (角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より) Senpuki04 にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ (↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年3月26日 (土)

ダダ詩「ノート1924」の世界<16>春の夕暮

「春の夕暮」は
第一詩集「山羊の歌」の
トップに置かれることになる
「春の日の夕暮」の
原形です。
第一次形態です。

ダダイズムの詩が書きとめられたノート
「ノート1924」から
自選詩集「山羊の歌」へ収録された
唯一の作品です。

そして
後に
「在りし日の歌」の後記に

序(つい)でだから云ふが、「山羊の歌」には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた

と、詩人は記すのですが
この「大正十三年春の作」とは
まさしく
この「春の夕暮」のことです

詩集中の
最も古い作品が
「春の日の夕暮」ですが
その原形が
この「春の夕暮」なのです

詩題も
はじめは「春の夕暮」でしたし

トタンがセンベイ食べて

という冒頭のフレーズは
「山羊の歌」中の「春の日の夕暮」で
あまりにも有名ですが
発表される前の一次形態では
「トタン」ではなく
「塗板」でした。
「トタン」のルビもなかったのです。

第2連第3行
ただただ月のヌメランとするまゝに

も、元は
たゞたゞ青色の月の光のノメランとするまゝに

だったのです

ヌメランではなく
ノメランだったのです

第4連にもはじめは
ポトホトと臘涙(ろうるい)に野の中の伽藍は赤く

と、難解な
「臘涙(ろうるい)に」という語句がありました

このように
詩人は
「山羊の歌」に発表するまでに
幾つかの変更を加え
「山羊の歌」に発表して以後も
わずかではありますが
他に発表する時には
変更を加えています。
この詩も
4次形態の存在が分かっています。

一つの詩に
4種類の形があるということですが
これは
それほどにこの詩に愛着をもっていたことを示していますし
愛着という点でいえば
「ノート1924」の中から
この詩だけを
「山羊の歌」に収録したということに
はっきりと表れているということなのです

 *
 春の夕暮

塗板(トタン)がセンベイ食べて
春の日の夕暮は静かです

アンダースロウされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は穏かです

あゝ、案山子(かかし)はなきか――あるまい
馬嘶(いなな)くか――嘶きもしまい
たゞたゞ青色の月の光のノメランとするまゝに
従順なのは春の日の夕暮か

ポトホトと臘涙(ろうるい)に野の中の伽藍は赤く
荷馬車の車、 油を失ひ
私が歴史的現在に物を言へば
嘲(あざけ)る嘲る空と山とが

瓦が一枚はぐれました
春の日の夕暮はこれから無言ながら
前進します
自らの静脈管の中へです

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月25日 (金)

ダダ詩「ノート1924」の世界<15>迷つてゐます

「迷つてゐます」は
少なくとも
詩人が
このタイトルを付けた作品です。

もう
ほとんど
嘘じゃない
飾っていない
赤裸々に
ストレートに
自分をさらけ出しています。

迷っています
というのは
本当のことなのでしょう
掛け値なしに
詩人は迷っているのです

それも
恋のために
性欲のために

筆は
性欲の反対物です

性欲に
筆が
折れそうになっています
それを
詩人は
隠そうともしません

 *
 迷つてゐます

筆が折れる
それ程足りた心があるか
だつて折れない筆がありますか?

聖書の綱が
性欲のコマを廻す

原始人の礼儀は
外界物に目も呉れないで
目前のものだけを見ることでした

だがだが
現代文明が筆を生みました
筆は外界物です
現代人は目前のものに対するに
その筆を用ひました
発明して出来たものが不可なかつたのです
だが好いとも言えますから――
僕は筆を折りませうか?
その儘にしときませうか?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月24日 (木)

ダダ詩「ノート1924」の世界<14>情欲

ある一つのフレーズが
次行につながっていかなくとも
ダダならOK

前後左右の脈絡を
わざと破壊し
時系列をさかさまにしたり
1行1行を断片にしたりして
はじめて
1行1行の
独立性を高める

何故取れない!って
何が取れないのかなんて
目くじら立てたって
しようもない

何故取れない!って
何か取れないことがあるのだな
男と女のことで
「取れない」何かがあって
それを
何故取れない!と
否定形の
感嘆符付きで
苛立っているのか
嘆いているのか
驚いているのか
困っているのか
あてづっぽうだけれども
「取れない」ものが何であるか
大体のところは見当がついてきます

電球が何の喩であるか
冬の野原が何の比喩であるか
夏の風が何を示す暗喩であるか
そこいらも
大体のところは見当がつきます

それはズバリ
情欲がらみ

煙も
情熱の火も
その突進も
ブツカルも
みんな情欲がらみ

それは
昔からあったものなのに
今新たに芽生えたのです
これも情欲がらみ

どうしてくれるんだい
(知らんぷりして)横目で見て
しかとしてるな泰子!
いやいや
だれの罪でもない
(情欲は自然)
必要というものでもない
(なんとか自制できるさ)
欲しいだけ
欲しい
欲しい
欲しい
欲しい
欲しい
欲しい
……
オマエガホシイ

 *
 情 欲

何故取れない!
何故取れない!
電球よ暑くなれ!
冬の野原を夏の風が行くに

煙が去つた
情熱の火が突進する
ブツカルものもなく――
だから不可(いけ)ない

昔からあつたものだのに
今新たに起つたものだ
それを如何(どう)して呉(く)れるい
横から眺めてゐるな
誰の罪でもない
必要じやない
欲しいだけだ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月23日 (水)

ダダ詩「ノート1924」の世界<13>初夏

Byfreezr01
By freezr



高橋新吉は
「ダダイスト新吉の詩」の
冒頭の作品「断言はダダイスト」で

DADAは一切を断言し否定する
無限とか無とか 
それはタバコとかコシマキとか単語とか同音に響く
想像に湧く一切のものは実在するのである

と歌っています

このフレーズで
思い出すことになるのが
「初夏」。

この詩の最終行の

恋し始める頃ですね

だけが
まっとうな意味があって
ほかの詩句は
タバコとかコシマキとか……
いくらでも
入れ替え可能。

たまたま
異なって発音されているだけで
みんな
実在することに変わりはありません。

新聞紙が絹の風呂敷を包んだって
その逆だって
どっちだっていいさ

月が風に泳ぐのか
風が月に泳ぐのか
それも同じことさ
どっちだっていいのさ

スターズ・アンド・ストライプスがソーダ水を飲むのか
ソーダ水がスターズ・アンド・ストライプスを飲むのか
飲むのも
飲まれるのも
おんなじこっちゃ

恋なのだもん

 *
 初夏

扇子と香水――
君、新聞紙を絹風呂敷には包みましたか
夕の月に風が泳ぎます
アメリカの国旗とソーダ水とが
恋し始める頃ですね

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月22日 (火)

ダダ詩「ノート1924」の世界<12>古代土器の印象

Bytaylorandayum01
by taylorandayumi

「古代土器の印象」は
「ノート1924」の12番目にある詩。

詩人は終生
詩のありかにこだわったのですが
冒頭の「認識以前」とは
詩が生まれるところと同じに考えてもよく
詩人の念頭にたえずあり続けました。
テーマみたいなものです

平たくいえば
「感じる」に近いのですが
現代人の感性ということではなく
古代人の
原始的な感性とか
都会化されない
野生の思考に近く
感じられたモノゴトが
言語になる以前の
言葉なき受容。

概念以前といってもよいですね

その
認識以前に書かれた詩、と
前もって
宣言された詩なのですから
言葉なき世界が
言葉にされているという
なんとも矛盾する世界のことが
歌われているということになります

詩人は
ここに
土人とクリストを登場させ
その上
カラカネの歌を歌う旅人をも
登場させたのです

カラカネとは
唐銅と書いて
唐(カラ)の銅(カネ)を意味するらしく
意訳すれば
カラカネの歌は
唐の国の歌つまり東洋の歌

私が
砂漠で
原住民に尋ねたのです
東洋の歌を歌う旅人が
キリストの降誕の日までに
ここを何人通りましたか、って

原住民は
何も答えずに
砂丘についた足跡を
見ているだけでした

私と原住民との間に
コミュニケーションは
成り立ったのでしょうか

よくはわかりませんが
ここまでが
認識以前に書かれた詩というのです

通じたのか
通じなかったのか
通じたと考えるのが
認識以前の立場というものでしょうか

そうして
現実に戻される感じで
泣くも
笑うも
この時ぞって
言われちゃうと

強引に
認識以前の世界に目を開かされる気がしてきて
なんだか気がかりになります

そのまんま
置かれるだけですが
気がかりです

気がかりな詩です

いったい
何が「古代土器」なのか
認識以前に
それが遠ざかっていくような
それとも
近づいてくるような
変な感じになります

 *
 古代土器の印象

認識以前に書かれた詩――
沙漠のたゞ中で
私は土人に訊(たず)ねました
「クリストの降誕した前日までに
カラカネの
歌を歌つて旅人が
何人こゝを通りましたか」
土人は何にも答へないで
遠い沙丘の上の
足跡をみてゐました

泣くも笑ふも此の時ぞ
此の時ぞ
泣くも笑ふも

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月20日 (日)

ダダ詩「ノート1924」の世界<11-2>想像力の悲歌

この詩の蝶は
ただちに
「一つのメルヘン」(「在りし日の歌」)の蝶を
思い出させます

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落してゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

と、第3、4連に登場する蝶です

二つの詩は
内容も情景もモチーフも
すべてが異なり
作られた時も隔たっていますが
蝶のイメージは
どこか似通っているものがあります

それはなんだろう

どちらも
起承転結の転、
ある場面を次の場面へと転じるための
動機として「蝶」を登場させ
詩が動きはじめるきっかけになっているのです

「一つのメルヘン」を作ったときに
遠い日に作った「想像力の悲歌」の「技」が
詩人の中によみがえったことを
だれも否定できるものではありません

今しも一つの蝶がとまり、

やがてその蝶がみえなくなると、
の2行は
時間が動いた瞬間を示しますが

その日蝶々の落ちるのを
夕の風がみてゐました

も、時間が流れたことを指示しています

その時に!
なにが起こったでしょうか

どちらの詩も
「結」の連となり
「想像力の悲歌」の「結」は
恋です

詩人は
恋を
それほどに
歌いたかったのでしょう

冒頭連に出てくる

恋を知らない
街上の
笑ひ者なる爺やんは

の爺やんは

キリスト教的無政府主義系統の詩人で、その頃「大空詩人」と称して、マンドリンを弾きながら、各地の盛り場を流して歩く一種の名物男であった。永井が弾き、泰子が踊るコンビを組んだこともあり、その保護者だった

と、後に
大岡昇平が記した(「角川旧全集解説・詩Ⅰ」)
永井叔のことらしく
詩人と泰子とのなれそめの情景が想像できます

 *
 想像力の悲歌

恋を知らない
街上の
笑ひ者なる爺やんは
赤ちやけた
麦藁帽をアミダにかぶり
ハッハッハッ
「夢魔」てえことがあるものか

その日蝶々の落ちるのを
夕の風がみてゐました

思ひのほかでありました
恋だけは――恋だけは

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月 9日 (水)

ダダ詩「ノート1924」の世界<11>想像力の悲歌

蝶々は
夕方になると
翅(はね)を休めに木蔭へ降り立ちます。

少年時代に
野原で遊んだ観察眼が
ダダ詩に生きています

陽光の下で
軽快に飛び回る蝶の
思いのほかの翅休めが
恋の喩(たとえ)になったのです

こんなこと
予想だにしなかった!
恋するなんて。

街の
お笑い者の爺さんは
赤茶けた
麦藁帽をアミダにかぶって
ハッハッハって
わかったように笑ってみせたがね

夢魔なんてこと
あるのかいなってね

 *
 想像力の悲歌

恋を知らない
街上の
笑ひ者なる爺やんは
赤ちやけた
麦藁帽をアミダにかぶり
ハッハッハッ
「夢魔」てえことがあるものか

その日蝶々の落ちるのを
夕の風がみてゐました

思ひのほかでありました
恋だけは――恋だけは

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年3月 8日 (火)

ダダ詩「ノート1924」の世界<10>初恋

すべての人間は死すべきものである。
ソクラテスは人間である。
ゆえにソクラテスは死すべきものである。

というのが
三段論法というのならば
「初恋」で示された論理は
反三段論法とでもいうのでしょうか
無論理没論理非論理でしょうか

それとも
もっと他の
詭弁とか屁理屈とか
矛盾とか
循環論理とか
弁証法とか
飛躍とか
韜晦とか
目くらましとか
詐術とか
魔術とか
……

それとも
逆もまた真なり
という論理なのでしょうか

初恋を説明するのに
論理もヘッタクリもないのに
しつこく論理的であろうとするところに
初恋の青っぽい甘味があるともいえますが
どこか得意気な調子が
ほほえましいダダ詩ですね。

 *
 初恋

最も弱いものは
弱いもの――
最も強いものは
強いもの――

タバコの灰は
霧の不平――
燈心は
決闘――

最も弱いものが
最も強いものに――
タバコの灰が
燈心に――
霧の不平が
決闘に
嘗(かつ)てみえたことはありませんでしたか?
――それは初恋です

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
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2011年3月 2日 (水)

【ニュース】中原中也:直筆はがき初公開 母へ宛てた貴重な2枚

(毎日新聞より)
 山口市湯田温泉1の中原中也記念館で、中也が母フクに宛てた直筆はがき2枚が初公開されている。6日まで。
http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20110301ddlk35040425000c.html

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