ダダ詩「ノート1924」の世界<11-2>想像力の悲歌
この詩の蝶は
ただちに
「一つのメルヘン」(「在りし日の歌」)の蝶を
思い出させます
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落してゐるのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
と、第3、4連に登場する蝶です
二つの詩は
内容も情景もモチーフも
すべてが異なり
作られた時も隔たっていますが
蝶のイメージは
どこか似通っているものがあります
それはなんだろう
どちらも
起承転結の転、
ある場面を次の場面へと転じるための
動機として「蝶」を登場させ
詩が動きはじめるきっかけになっているのです
「一つのメルヘン」を作ったときに
遠い日に作った「想像力の悲歌」の「技」が
詩人の中によみがえったことを
だれも否定できるものではありません
今しも一つの蝶がとまり、
と
やがてその蝶がみえなくなると、
の2行は
時間が動いた瞬間を示しますが
その日蝶々の落ちるのを
夕の風がみてゐました
も、時間が流れたことを指示しています
その時に!
なにが起こったでしょうか
どちらの詩も
「結」の連となり
「想像力の悲歌」の「結」は
恋です
詩人は
恋を
それほどに
歌いたかったのでしょう
冒頭連に出てくる
恋を知らない
街上の
笑ひ者なる爺やんは
の爺やんは
キリスト教的無政府主義系統の詩人で、その頃「大空詩人」と称して、マンドリンを弾きながら、各地の盛り場を流して歩く一種の名物男であった。永井が弾き、泰子が踊るコンビを組んだこともあり、その保護者だった
と、後に
大岡昇平が記した(「角川旧全集解説・詩Ⅰ」)
永井叔のことらしく
詩人と泰子とのなれそめの情景が想像できます
*
想像力の悲歌
恋を知らない
街上の
笑ひ者なる爺やんは
赤ちやけた
麦藁帽をアミダにかぶり
ハッハッハッ
「夢魔」てえことがあるものか
その日蝶々の落ちるのを
夕の風がみてゐました
思ひのほかでありました
恋だけは――恋だけは
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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