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2011年4月

2011年4月30日 (土)

ダダ詩「ノート1924」の世界<39>(不随意筋のケンクワ)

(不随意筋のケンクワ)も
未完成の断片ながら
独立した詩篇と認められている
詩の切れ屑、断片です。

「ケンクワ」は
歴史的仮名遣いを
わざとカタカナにしているのでこうなりますが
現代仮名にすると「けんか」
漢字にすれば「喧嘩」です

意識してやろうともしていないのに
やってしまう喧嘩とは
泰子とのことでしょうか
ほかのだれかとの喧嘩でしょうか

記せば、ハイフンにしかならない
平凡で単調で退屈な
省略可能な暮らし

△が○を描いて
――などなど
(目の覚めるような生活をしたい)
ああ
水蜜桃を欲しがっている
(俺の身体は)

魔都上海や帝都東京――
花の都巴里を散策するベルレーヌやランボー――
富永太郎が聞かせる
ひときわ魅惑に満ちた話の数々は
ダダイストの身を乗り出させるに十分でした

俺もパリへ行こう
いや、
ひとまずは東京へ行こう

詩人は
心の中では
すでにこの気持ちが芽生えていることを
自覚していたのかもしれません

今は、しかし
その代わりに
水蜜桃を食べたい
とだけ小さな声で叫んでおこう

 *
 (不随意筋のケンクワ)

不随意筋のケンクワ
ハイフェンの多い生活

△が○を描いて――
あゝスイミツトーが欲しい

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月29日 (金)

ダダ詩「ノート1924」の世界<38>(汽車が聞える)

(汽車が聞える)は
未完成の断片みたいなものですが
詩の切れ屑です
やはりここに
詩のエキスがあるような断片です

前作以降
どこかが変わったような感じ
気のせいでしょうか

蓮華が現れるのは
また春に戻った感じですが
夏に蓮華を歌っても
変ということにはなりませんから
気にしないことにします

一面のレンゲの花が
冬季休耕中の稲田に満開で
蒸気機関車がその上を通るかのように
汽笛を鳴らして
走ってゆきます

故郷の風景を思い出すには
何かきっかけがあったのでしょうね

ダダイストだって
内的な刺戟(しげき)で筆を取るのですよ
そのへんの
サンチマンタリストとこの点では
なにも変わりやしませんさ

ただそれだけのことを言って
この詩片は
詩片のままです

次の展開をできないまま
終わっているのは
富永太郎を意識してのこと。
やすやすとは
言えない状況が生まれています

英語のセンチメンタルを
サンチマンタルとフランス語にしたのも
無意識ではないはずです

今日2011年4月29日という日は
この詩片をノートに記した日から
87回目の誕生日を
祝ったことになる日です。
104歳の誕生日です。

 *
 (汽車が聞える)

汽車が聞える
蓮華(れんげ)の上を渡つてだらうか

内的な刺戟(しげき)で筆を取るダダイストは
勿論(もちろん)サンチマンタルですよ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月28日 (木)

ダダ詩「ノート1924」の世界<37-2>(58号の電車で女郎買に行つた男が)

(58号の電車で女郎買に行つた男が)を書いた頃
詩人に
なんらかの事件が起きたのではないか、と
推測してもおかしくはないのは
雹(ひょう)を登場させたり
(「天からウヅラ豆」が雹のことだとして)

女郎買い
梅毒
そして
自殺……と
穏やかではない事象が
書き連ねられていたりするからですが

もう一つは
これが書かれた筆跡が
前作以前の筆跡と
大きく変化しているという事実です

前作(過程に興味が存するばかりです)に比べて
文字が大きくなり
筆跡も異なっているのは
(58号の電車で女郎買に行つた男が)と
(過程に興味が存するばかりです)との制作時期が
連続していないことを示している、と
角川・新全集編集は解説しているのです

この不連続のウラに
何があったのでしょうか

今日天からウヅラ豆が
畠の上に落ちてゐました

のです。
雹(ひょう)が降ったのです
雹の襲来(しゅうらい)です。

雹の襲来とは
ズバリ
富永太郎との出会いです!

近辺の文学仲間を揶揄(やゆ)したけれど
今日初めて話した
富永太郎というヤツはちょっと違うぞ
氷の塊が
ザーッと降ってきたのを見たような
妙な爽快感があるぞ

この時が初対面だったのかは分かりませんが
やがて多大な影響を被ることになる
詩人・富永太郎を
ダダイスト詩人は
手ばなしで褒めちぎるわけにはいかず
しかし畏怖に似たものを感じて
うずら豆が天から落ちた、と
さりげないエールを送りました

 *
 (58号の電車で女郎買に行つた男が)

58号の電車で女郎買に行つた男が
梅毒になつた
彼は12の如き沈黙の男であつたに

腕 々 々
交通巡査には煩悶はないのか
自殺せぬ自殺の体験者は
障子に手を突込んで裏側からみてゐました
アカデミッシャンは予想の把持者なのに……
今日天からウヅラ豆が
畠の上に落ちてゐました

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月26日 (火)

ダダ詩「ノート1924」の世界<37>(58号の電車で女郎買に行つた男が)

1924年は夏も盛りへ向かっていたのでしょうか
季節を感じさせる語句を
前々作(成程)に

蛙が鳴いて
一切がオーダンの悲哀だ

とあるの以外に
見つけようにも見つけられない
ダダ詩が続いていますが

(58号の電車で女郎買に行つた男が)の最終2行

今日天からウヅラ豆が
畠の上に落ちてゐました

は、雹(ひょう)のことではなかろうかと
想像を掻き立てられます。

それまで晴れ上がっていた夏空が
一転俄(にわ)かにかき曇って
鶉豆(うずらまめ)の大きさの
氷の塊が
バラバラ、ガラガラ、ボトボト……と
一瞬何が起こったのかと疑う眼が
あたりの人々に起こる
雹の襲来(しゅうらい)です。

この2行が
雹の襲来を表現しているものだとは
断定できませんが
この詩は
それどころか
のっけから
女郎買い
梅毒
そして
自殺……と
物騒な言葉の機関銃です。

ダダの力強い行進がはじまったのを眺めるようで
雹であるなら
詩全体がピタリと決まった感じになるのです。

中原中也の女郎買いについては
長谷川泰子の証言がありますから
まずはそれを
ひもといておきましょう。
「角川新全集第二巻詩Ⅱ・解題篇」からの孫引きです。

「中原中也の思ひ出」中条泰子
中原に会つて間もない頃、ある日、荒い絣の筒袖を着て私の下宿に来、一緒に散歩へ出かけました。彼は特別小作りで全体が平均してゐるので、奇形的な感じはありませんが絣の筒袖なのでまるで子供とあるいてゐるやうな感じです、四条の通りを八坂神社に近づいた頃、突然立ちどまつて、私の顔を見上げて、「あのー一寸女郎買ひ行つてきます」と、うすあかりの軒燈の立竝ぶ横町へはいつて行きました。私はその小さな後姿の遠のくにつれ益益小さくうすれてゆく不思議な、光景をいつまでも見送つてゐました。/私は下宿に帰つてゐますと、三十分そこそこ位の時間にきて、例のニヤツとする笑ひをしました」(創元社版全集月報3、昭26)。

こういうところへ出入りしては
小唄の一つを口ずさんで
京の街を歩いたり
時には
文学仲間との談論のネタにしていたことがあったのでしょうか
詩人が早熟というにしては
深い孤独を思わせてなりません

58番線の路面電車に乗って
そこへ行ったのは
詩人のことと取るのが自然ですが
これはダダイズムですから
そして詩作品ですから
事実か否かとは
別の問題です
梅毒もそうです

「12の如き沈黙の男」もそうですが
「12の如き」はなんのことやら
ここに重要な意味が隠されていそうな言葉ですが
沈黙にかかる形容詞句ですから
口数の少ない男のクセに、ほどの
意味に取っておけばよいでしょうか

街では
交通巡査が手旗信号で
しきりに腕を上下左右に動かしていました
無表情が滑稽気味ですが
ヤツには悩み事一つないのだろうかと
憮然とした感じもあります

それを
自殺しない自殺の経験者が
障子に
唾で濡らした指を入れて穴を開け
そっと観察していたのです

これは詩人ではなく
だれか近辺の人物を揶揄(やゆ)したものでしょう

自殺しない自殺の経験者とは
牙城にこもって
勉強ばかりしている
アカデミッシャンのことに違いなく
そいつが
障子に穴を開けて
街の様子を観察しているのです

ああ
今日という日は
色んな目に遭った日だなあ、という気分
さんざんだなあ、という気分だけではなく
驚かされることが多かったなあ、という気分

最後の仕上げには
空から
氷の塊さへ降ってきたもんだ
たまげたよなあ、という気分

幾分、感動が混ざっている気分でもあります

 *
 (58号の電車で女郎買に行つた男が)

58号の電車で女郎買に行つた男が
梅毒になつた
彼は12の如き沈黙の男であつたに

腕 々 々
交通巡査には煩悶はないのか
自殺せぬ自殺の体験者は
障子に手を突込んで裏側からみてゐました
アカデミッシャンは予想の把持者なのに……
今日天からウヅラ豆が
畠の上に落ちてゐました

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月25日 (月)

ダダ詩「ノート1924」の世界<36>(過程に興味が存在するばかりです)

恋が歌われて
いくつの詩ができただろうか
詩ができるまでに
どんな会話や議論が
行われただろうか
恋について
当事者同士が語り合うなどということは
ありそうにない話だから
これら恋に関する詩はみんな
詩人の思索の結果なのかもしれません

あるいは
学友や文学仲間との談論に
恋が話題になったということもあったのでしょうか

詩は
世俗の恋を語らず
芸術論を語り
哲学を語り
詩論を語る傾向にあるようなのは
恋を
男女の情話にしたくはなかった
ダダイストの面目なのでしょうか

過程=プロセスが大事です
それではいけないとでも言うのですか
生活の中の恋が
原稿用紙の中の芸術となるのです

人の命が有限であり
(恋は)
有限の中の無限でありますから
最も有限なものが
恋なのでした

君の髪の毛を1本1本数えて
何本あったって自慢してみなさい

そりゃテーマが先にあるという逆の論理です
アルファベットの芸術です
(過程と結果の倒錯です)

集積より流動!
魂は集積じゃありません

ここには
一種恋の哲学を
開陳するダダイストの姿がありますが
実際の恋は
より深刻な状況にあったことも推測できます

 *
 (過程に興味が存在するばかりです)

過程に興味が存在するばかりです
それで不可(いけ)ないと言ひますか
生活の中の恋が
原稿紙の中の芸術です

有限の中の無限は
最も有限なそれでした

君の頭髪を一本一本数へて
それから人にお告げなさい

テーマが先に立つといふ逆論は
アルファベットの芸術です

集積よりも流動が
魂は集積ではありません

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月24日 (日)

ダダ詩「ノート1924」の世界<35> (成程)

第1連第2行の
共に発見すること、とは
前作(概念が明白となれば)の

反省は詠嘆を生むばかりです
自分と過去とを忘れて
他人と描ける自分との
恋をみつめて進むんだ

を受けたのならば
二人は
かなり一致できる線にいたと思えるのですが
微妙にそうではなく

さうか、それでは俺には恋は出来ない

と、詩人は言わざるを得ません

お前を知る前にすでに
お前がやがて発見することを
俺は発見してしまっていたから
一つの菓子を
二人が好むなんてことはない
(そんなふうに一致できるわけがない)
一人はある一つの菓子を好きだけど
一人はその一つの菓子を嫌いなのは当たり前
菓子をめぐっての三角関係になるのが自然
菓子は二人のうちの一人から妬かれて幸せ者さ

こうなるのは
一番よくあるバランスへの運動なのに
なぜそのバランスがやってこないのか

ヘアー香水がまだ胸に残っている
(と男が思えば)
煙草の香りが胸に残っているかしら
(と女が思う)

蛙が一斉に鳴いて
一切が黄疸で黄色くなっちゃってらあ
悲しい
悲しい

なぜここがオーダンなのか
当時の流行病だったのか

冒頭の
共に発見することが楽しみなのか
への落ちとして
ダダっぽくまとめられましたが
オーダンのニュアンスが
現代には通じにくいかもしれません

 *
 (成程)

成程 
共に発見することが楽しみなのか
さうか、それでは俺には恋は出来ない
お前を知る前概に
お前の今後発見することを発見しつくしてゐたから
一つの菓子を
二人とも好んではゐない
一人は大好きで一人が嫌ひです
菓子と二人との三角関係
菓子は嫌ひな一人からヤカレて仕合せ者だ

一番平凡なバランスの要求だのに
何故そのバランスが来ないのか

髪油の香が尚(なお)胸に残つてゐる
煙草の香が胸に残つてゐるかしら

蛙が鳴いて
一切がオーダンの悲哀だ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月23日 (土)

ダダ詩「ノート1924」の世界<34> (概念が明白となれば)

前作(ダダイストが大砲だのに)で

私は如何(どう)せ恋なんかの上では
概念の愛で結構だと思つてゐますに

理解は悲哀です
概念形式を齎(もたら)しません

と、2度、「概念」の語を使ったダダイスト詩人は
この題名のない作品(概念が明白となれば)で
引き続いて
「概念」にこだわり
冒頭連から

概念が明白となれば
それの所産は観念でした

と歌いますのは
「観念」を引き出すためのようでした
詩人は「観念」は「概念」の所産である
といいたかったのです

恋なんて
概念の愛で結構
といったばかりですから
観念の恋愛も
焼いた砂のようだし
散らかってもしょうがないから
紙に包んで棄てましょう、と
いうのは自然の成り行きです

ああ
馬鹿なのは美人か
美人は馬鹿なのか
人間に倦怠がなければねえ
彼岸の見えない大きな川があればねえ

反省していても
嘆きにしかなりませんよ
それよりも
自分と過去なんて忘れてしまって
他人と一緒に描ける自分との
未来の恋をみつめて進むんだ

ほらこんなに
(観念の上では)
恋上手なのに
なぜいつも結果は下手になるんだろ
女よ
そこのところを教えてくれよ
たのんます!

そう言われたって
観念の愛だの
概念の恋だの
女はそんなもの
好きになれるわけないじゃんすか
ダダっこさん
と泰子さんが笑っているのが見えるようです

 *
 (概念が明白となれば)

概念が明白となれば
それの所産は観念でした

観念の恋愛とは
焼砂ですか
紙で包んで
棄てませう

馬鹿な美人
人間に倦きがなかつたら
彼岸の見えない川があつたら

反省は詠嘆を生むばかりです
自分と過去とを忘れて
他人と描ける自分との
恋をみつめて進むんだ

上手者なのに
何故結果が下手者になるのでせう
女よそれを追及して呉れ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月18日 (月)

ダダ詩「ノート1924」の世界<33> (ダダイストが大砲だのに)

ツツケンドンに
女は言ひつぱなして出て行つた
(ツツケンドンに)

女は鋏を畳の上に出したまゝ
出て行つた
(女)

この2作と
ほど遠くはない日に書かれたものでしょう
あるいは
同じ事件を扱っているのかもしれません

(ダダイストが大砲だのに)も
詩人と女(=泰子)の暮らしが
平坦なものではなく
普通に波乱に富んだものであることを
想像させるのに難くない
ありふれた
男女関係の断面を
垣間見せます

出ていった女を
追いかけていったのか

ダダイストが大砲だのに
女が電柱にもたれて泣いてゐました

ダダイストは大砲だっていうのに
女は電柱にもたれて泣いていました

大砲とは
ダダイストの比喩としては
よくも言ったと思えるほどに
大した存在を表わしますね
色々な属性が考えられますが
それとは比べものにならないしおらしさで
女は電柱に寄りかかり
しくしく泣いていたのです
このミスマッチを
冒頭2行は捉えます

予期せぬ(?)反抗に遭い
たじたじだった詩人は
ようやく
一歩下がったところで
ダダイストである自己に立ち返ります

石鹸で泣き顔を
洗うといいよ、と言ったかどうか
逆に
悪態をつかれる結果になったか
私は遂に愛されません

女はダダイストを
世間一般の形で愛そうとしても無理なのです
私はどうせ恋なんてものは
概念の愛でしかないと思っているのですから

白状しますと
あまりにも多面体のダダイストであるくせに
私が女に語る言葉は
あまりにも一面的に的を射るものだから
女には警戒されてしまうのです
(このあたり、よーくわかってはいるのですが……ついつい)

恋なんて
世俗的には
相互理解ってなものですよ
つまりは
悲哀です
概念形式をもたらすものではありません

ダダになると
強気の詩人が現れるようです

 *
 (ダダイストが大砲だのに)

ダダイストが大砲だのに
女が電柱にもたれて泣いてゐました

リゾール石鹸を用意なさい
それでも遂に私は愛されません

女はダダイストを
普通の形式では愛し得ません
私は如何(どう)せ恋なんかの上では
概念の愛で結構だと思つてゐますに

白状します――
だけど余りに多面体のダダイストは
言葉が一面的なのでだから女に警戒されます

理解は悲哀です
概念形式を齎(もたら)しません

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月17日 (日)

ダダ詩「ノート1924」の世界<32> (頁 頁 頁)

時には口論になり
立派な男ならたんまりいますわ、と
啖呵をきられた揚句
女に出て行かれてしまって
やや反省の気分になっている詩人は

歴史、習慣、社会意識……といった
詩人にしてみれば世俗の
名誉欲を批判することによって
名誉を得ることもある
転倒した世界を思いやり

戻ってくるのは
「認識以前」でした
その徹底でした

認識以後
とりわけ19世紀以降
人々の土台になるのは
いつも性欲もしくは性欲みたいなものでした
その上にすべての価値は築かれて
ものは言われました

○××× ○××× ○×××
飴に皮があるとでも言うんですかってな調子で
飴ばかり
皮のない飴が求められる世界です

女よ
だからさ
ダダイストを愛せよ

ダダイストは
あくまでも
認識以前を徹底しますぞ。

詩人の言う徹底とは
追求である以上に
実践でした

実践とは
詩でした。

 *
(頁 頁 頁)

頁 頁 頁
歴史と習慣と社界意識
名誉欲をくさして
名誉を得た男もありました

認識以前の徹定

土台は何時も性慾みたいなもの
上に築れたものゝ価値
十九世紀は土台だけをみて物言ひました

○××× ○××× ○×××
飴に皮がありますかい
女よ
ダダイストを愛せよ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月16日 (土)

ダダ詩「ノート1924」の世界<31> (女)

(女)は
前作(ツツケンドンに)の
焼きなましのような詩であることは

女は鋏を畳の上に出したまゝ
出て行つた

と、第4連にあるので

ツツケンドンに
女は言ひつぱなして出て行つた

から、たいして時間を経ていないうちに
作られたものということが
わかりますが
こちらには
男が女より偉い、と
思ってきた男が
女が男より偉い、と
言わざるを得なくなった
焦りみたいなものが
尻尾(しっぽ)を出しているような
流れが詩の中にあります。


吹取紙を早くかせ
恵まれぬものが何処にある?
マッチの軸を小さく折つた

このえばった口調・命令口調(1行目)や
横暴な口の利き方(2行目)
その会話の最中に、
詩人は煙草をふかしながら
マッチ棒を指先で細かく折ったのです(3行目)

私ってあんたの道草なの?
摘み草というのさえもったいないわ
あんたは、女の目的がわかっていない
原因なしに涙なんか流さないわよ、と
女に言われてしまうのです

そう記すのは詩人のほうですから
多少、作意があったとしても
実際の会話に
かなり近いものがあったとみてよさそうな
ストレートな表現です

そして一転ダダになります

飛行機の分裂
目的が山の端をとぶ

飛行機が飛行機の体(てい)をなしてないじゃないか
目的はあるにしても
山の端を飛んでらあ

ここに詩人の真意
もしくは詩の意図が込められていそうですが
それにしても

織物
秘密がどんなに織り込まれたかしら

織物するのは勝手ですよ
どんな秘密を織りましたか

と、ストレートな表現が露出します

それで
女は出て行ってしまうのです

考えてみりゃあ
自分を弁解することもなかったな
ひたすら
立派な男のことを並べ立てるだけだった

最後には

女は偉いよ
男より偉いよ

と言わざるを得なくなっているのは
本当のところの感じがします
やや
反省の気持ちが交ざっています

 *
 (女)


吹取紙を早くかせ
恵まれぬものが何処にある?
マッチの軸を小さく折つた


自分は道草かしら
女は摘草といふも勿体ないといつた
俺は女の目的を知らないのださうだ
原因なしの涙なんか出さないと自称する女から言はれた

飛行機の分裂
目的が山の端をとぶ
織物
秘密がどんなに織り込まれたかしら

女は鋏を畳の上に出したまゝ
出て行つた

自分に理窟をつけずに
只管(ひたすら) 英雄崇拝
女は男より偉いのです

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月13日 (水)

ダダ詩「ノート1924」の世界<30> (ツツケンドンに)

「つっけんどん」という言葉が
「けんもほろろ」という言葉の「けん」の意味を
広辞苑で引いていたときに
出てきて驚いたのですが
「突慳貪」と書くそうです。

けんもほろろは
雉(きじ)の鳴き声を表わす擬音語だそうですから
「けん」は「剣」ではないことがわかったのですが
同時に
「つっけんどん」と「けんもほろろ」は
同義語・同類語であることもわかったわけです

鳥のキジ(=雉)が
つっけんどんな仕草をする感じが
なんとなく想像できるではありませんか!

ツツケンドンに
女は言ひつぱなして出て行つた

この女は
いうまでもなく
泰子でしょうが
彼女がキジのように思えるところは
意図されたものではないのにかかわらず
イメージの連鎖が生じることになり
絶妙な技を感じます。

泰子に
そっぽを向かれた詩人が
自分にだけ通じる言葉で
自分を納得させている

たまには
神様を悪く言ったりもして
強気でいるけど
隠し切れない
淋しさ……

 *
 (ツツケンドンに)

ツツケンドンに
女は言ひつぱなして出て行つた

襖(ふすま)の上に灰がみえる
眼窩(がんか)の顚倒
鳥の羽斜に空へ!……

対象の知れぬ寂しみ
神様はつまらぬものゝのみをつくつた

盥(たらい)の底の残り水
古いゴムマリ
十能が棄てられました

雀の声は何といふ生唾液(ナマツバキ)だ!
雨はまだ降るだらうか
インキ壷をのぞいてニブリ加減をみよう

※原作は、「ニブリ」に傍点が付いています。(編者注)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月11日 (月)

ダダ詩「ノート1924」の世界<29>一度

「一度」は
久々に
詩人によってタイトルの与えられた作品です。
「ノート1924」の中ごろにあり
1924年夏の制作と推定されています。

4行―2行ー4行―2行の4連構成で
第1連は、翻訳の悲哀について
第2連は、その本質
第3連は、恋の復活について
第4連は、結論

これを
絵に描いたような
起承転結でまとめています

詩人として食べていくということの困難を
この頃から懸念していたからでしょうか
翻訳の仕事をする知人がいたのでしょうか
やがては
ランボーやベルレーヌらの翻訳に打ち込むことになる詩人ですが
どうも否定的な考えしか
生まれてこないようなのは
詩作と比べれば
いたし方のないことと推測されます

結果から結果を作るというのは
創作物という結果を
他の言語に置き換えるという作業が
新たな結果を生むだけのもので
なんとも物足りなく
翻訳している最中には
熱中するに足りる敬愛の気持ちも湧いているのですが
同じ箇所を
何度も繰り返す営みは
過去と現在が
黙ってすれ違うみたいな関係で
満足感はありません

ところが
一度別れた恋人と
再び新しい恋を始めたら
思い出(過去)と
これから起こるであろう(未来の)思い出とが
「オワリ」と享楽の乱舞になったのです。

(「ヲリ」と原作にあるのは、詩人の誤記らしく、判読不明とされていますが、ここでは「オワリ」と読みました)

一度っていうことが
嬉しいものですね

真剣になるし
繰り返しのだるさがないし
なにが起こるかわからないし……

翻訳と恋を
秤(はかり)にかけてどうするのって
感じられなくもありませんが
恋を歌いたい気持ちが
帰ってきたのは
多少余裕が生まれたからでしょうか
その逆でしょうか

一つの屋根の下で
女性と暮らしながら
生計ためのプランを考える時間も
詩作の時間になったのかもしれません

 *
 一度

結果から結果を作る
翻訳の悲哀――
尊崇はたゞ
道中にありました

再び巡る道は
「過去」と「現在」との沈黙の対坐です

一度別れた恋人と
またあたらしく恋を始めたが
思ひ出と未来での思ひ出が
ヲリと享楽との乱舞となりました

一度といふことの
嬉しさよ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月10日 (日)

ダダ詩「ノート1924」の世界<28> (古る摺れた)

古い外国の絵はがきを
中原中也は
持っていたのか
海外にいる知人から送られた
消印付きの葉書だろうか

いやそうではなく
何かの折に
父からもらった
使われていない葉書で
長い間持っていたために
周囲が擦り切れて
ほころんだカード

本かノートか
机の引き出しかから偶然出てきた
古ぼけた絵はがきにつられ
幼き日を思い出し
ついでに
学校帰りによく行った
故郷の駄菓子屋で買った飴が食べたくなって
京都の街を探し
歩き回ったが
見つからない
見つからない

うさぎ追いしかの山
小鮒釣りしかの川

遠く離れた故郷を思う郷愁を
誰のものだと思いますか?

ぼくの額を見てみたまえ

一度は神を神とも思えず
客観視しました

そりゃ不合理にも価値はあることを
ぼくこそトコトン知っておりますが
今のぼくにはちっとばかり苦しい

こんなに先っぽに速度がある
自棄 自棄 自棄

下駄の歯は
ぼくの重さに耐えながら
土に何と訴えますかね

「空への関心は人一倍だが
役立たずで淋しい
これが物理現象」

ガラスを舐めるような
味気なさをたらふく味わい
縄がぶんぶん飛んでいても
気にならないぼく

となんとか読んできたこの詩
冒頭連の1行だけを読み飛ばしましたが
ここで
唾液が余りに中性だ、とは
味覚が鈍くなっていて
なんでもが
甘くもなければ
辛くもない
おいしく感じられない状態を指している
それで
飴を食べてみる気になった、とつながりました

アンニュイ(倦怠)が芽生えているのでしょうか
親元を離れて
はやくも半年が過ぎていきます

 *
 (古る摺れた)

古る摺(ず)れた
外国の絵葉書――
唾液が余りに中性だ

雨あがりの街道を
歩いたが歩いたが
飴屋がめつからない

唯のセンチメントと思ひますか?
――額をみ給へ――
一度は神も客観してやりました
――不合理にも存在価値はありませうよ
だが不合理は僕につらい――
こんなに先端に速度のある
自棄 々々 々々
下駄の歯は
僕の重力を何といつて土に訴へます
「空は興味だが役に立たないことが淋しい
――精神の除外例にも物理現象に変化ない」
ガラスを舐(な)めて
縄を気にかけぬ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月 8日 (金)

ダダ詩「ノート1924」の世界<27>  (ダツク ドツク ダクン)

Dig―Dug―Duggen
いや、こんなのなかった
Dig―Dug―Dugですよね

I―My―Me―Mine
You―Your―You―Yours
いやいや、こっちのほうじゃないですねえ

Dig―Dog―Duck
ディッグ―ドッグ―ダック
掘れ―犬―あひる
これかなあ?

いやいやいや
英語じゃなくて
おまじないかな

チエン―ダン―デンは
中国語?
ドイツ語?

ビーフーボドーは
フランス語?

チョンザイチョンザイビーフービーなら
昭和9年(1934年)に「ピチベの哲学」に
書きますが……

分かろうとして
あまり無気になることは
ないですかね
感じていれば
いいですかね

弁当箱を
教室の
ダルマストーブであっためる時間になりました
もうすぐ
お昼休みです

工場は学校
学校も工場も同じです
正午を告げるサイレンが鳴り渡り
鉄つまり機械の先っぽに
(学校の机の上に)
太陽の光があたって
とろけるような
昼寝の時間がやってきました

英語の授業は
間もなく
終わります

 *
 (ダツク ドツク ダクン)

ダツク ドツク ダクン
チエン ダン デン
ピー ……
フー ……
ボドー……

弁当箱がぬくもる

工場の正午は
鉄の先端で光が眠る

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月 7日 (木)

ダダ詩「ノート1924」の世界<26> (バルザック)

芸術論を
応戦しなければならない時には
ストレートな物言いになって
ダダイズムは後退しましたが
さて
一通り言うべき最低限を言ってしまってからは
ダダダダダーーーンと
またダダイズムの詩が現れます

バルザックは
中原中也にとって
象徴詩以前
詩以前の
散文家ですが
詩人は
高く評価し
尊敬の念さえ抱いていた
文豪です

と指摘するのは
大岡昇平ですから

中原中也第一次情報とみなしても
おかしくないほど信憑性(しんぴょうせい)は高い
かな?

ところが
(バルザック)は
手放しで
文豪を褒めているものではないようで
むしろ
批判しているみたいです

収縮する
胃病
病気
退屈は嫌で嫌で
悟った
……

はっきりとは掴めませんが
肯定的ではなく
否定的な語句が並びます

涙と仁丹は
同じものですか
空を見りゃ
涙か仁丹か
真ん丸の粒
雨が降ってくる、のですから……

難解になった分
ダダ詩としての完成度は
高くなった感じです
イメージが拡散しないで
収斂(しゅうれん)していきます


 *
 (バルザック)

バルザック
バルザック
腹の皮が収縮する
胃病は明治時代の病気(モノ)らしい
そんな退屈は嫌で嫌で

悟つたつて昴奮するさ
同時性が実在してたまるものか

空をみて
涙と仁丹
雨がまた降つて来る

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月 6日 (水)

ダダ詩「ノート1924」の世界<25> (最も純粋に意地悪い奴)

恋愛を歌うことから遠ざかり
外部に向けられた目は
交友関係への批判
文学仲間への批判に注がれ
その批判の跳ね返りを受けて
自己批判へと向かいました。

(最も純粋に意地悪い奴)も
その流れで
最も純粋に意地悪い奴とは
詩人自身のことを指していると思われます

そのように
自己を突き放して
外側から観察することができる余裕が
この詩には見られますのは
詩人がこのことに関しては
人一倍長い時間をかけて
毎日毎夜
考えてきたのだし
実作してきたという自信があるからですし
その自信あるところを展開している分には
余裕として映ります

私は悲劇をみて泣いたことはない
悲劇に遭遇したことのある自分を発見したゞけであつた。

ここで詩人は
悲劇を見て
一人の観劇者として泣いたことはなく
悲劇という創作物と出会ったことはある

一享受者であるよりも
それを作った人の位置で
その作品(悲劇)を経験した、
というようなことを主張しているようです

形式も経験を積まなけりゃ
芸術品にはならんよ

と、反論された詩人は
内容と技巧は対立することはない
問題は技巧だけ
内容は技巧以前のものだから対立しないのさ
技巧が作品の価値を決めるんだ

芸術は天才の仕事ということさ

最後は
天才論というか
この議論をはじめたら
天才を名乗る者しか
勝者になり得ない
危なかしく
挑戦的なセリフで
この詩を終わりにしてしまいます。

天才に
よく見られる
パターンのこのセリフは
天才にしか
吐けないものかもしれません。

 *
 (最も純粋に意地悪い奴)

最も純粋に意地悪い奴

私は悲劇をみて泣いたことはない
悲劇に遭遇したことのある自分を発見したゞけであつた。

やつぱり形式に於ても経験世界を肯定しなきや
万人の芸術品とは言へないのでせうか?

内容価値と技巧価値は対立してゐませんよ。
問題となるのは技巧だけです。
内容は技巧以前のものです。
技巧を考慮する男は吃度(きっと)価値ある内容を持つてゐます。
天才以外の仕事ではないのが此の芸術ですね。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月 5日 (火)

ダダ詩「ノート1924」の世界<24> (酒)

(酒)も
未完の詩ですが
どことなく沈鬱な響きがあるのは
文学論の旺盛さがなく

原因が分りません
蜘蛛は五月雨(さみだれ)に逃げ場を失ひました

という2行のせいでしょうか

原因不明、と
逃げ場を失った、と
マイナーイメージで語られる事態は
詩人に思わしくはない
何事かが起こったことを想像させますが
それが何であるかは不明です

詩人は
蜘蛛に
自身を投影したのでしょうか。
その蜘蛛は
五月雨に遭って
逃げ場を失ったのです

酒か
梅か
原因はわからないのですが
酒でも梅でもない
他の原因……
五月雨という自然現象に遭って
蜘蛛は逃げ場を失った

五月雨という
自然現象に
人事が隠されていそうです

得意気に
そうやって
キセル煙草を吸っている場合じゃない
キセルを折れ
キセルを折れ
犬が骨をしゃぶるように……

ヘン、いかがですか?

何かが書かれていません
省略なのか
飛躍なのか
何か存分には書かれていません
書くに書けないものに
苛立っているようにも読めます

「春の夕暮」から
季節はめぐり
五月雨の初夏です
蜘蛛の巣が
雨の合間に光り輝く日もあったのでしょうか

椽の下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れている

と「帰郷」(「山羊の歌」)第1連で

さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。

と「ゆきてかへらぬ」(「在りし日の歌」)最終行で

蜘蛛の巣が
やがて歌われるのにつながる感情が
この時にあったものか
どこか孤独感が
蜘蛛にはつきまといます

 *
 (酒)



原因が分りません
蜘蛛は五月雨(さみだれ)に逃げ場を失ひました

キセルを折れ
キセルを折れ
犬が骨を……
ヘン、如何です?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月 4日 (月)

ダダ詩「ノート1924」の世界<23> (名詞の扱ひに)

あんた
ツベコベ
いつも
ワタシタチのゲイジツに
文句言うけど
あんたは
何者なのさ

と言われたかどうか
ついに
自らの寄って立つ
ダダイズムへの
説明責任を果たさなければならなくなって
(名詞の扱ひに)は
作られたのでしょうか

詩人は
ダダ
ダダイスト
ダダ詩……と
初めてダダイズム(の詩)について
詩の形で表現を試みました

名詞の扱いは
(詩の言葉は)
俺の場合
ロジックのない象徴ってところかな
(論理なき象徴さ)

宣言と作品は異なるぞ
それは
有機的抽象と無機的具象の関係だ
(どっちがどっちか、間違えるなよ)
物質的名詞と印象との関係だ
(どっちがどっちだか、わかっているな)

それを
ダダっていうんだ
木馬ってことと同じさ
原始人のドモリっていってもいい
(おれは、象徴って言ったばかりだぞ)

歴史は材料にはなる
けれど
問題にはならない
このダダイストにはね

古い作品を紹介する人は
古代の棺はこういうふうだった、なんて
ああでもないこうでもないと説明を加えるもんだ

棺の形がいかなるものであっても
ダダイストが「棺」と言えば
いつの時代でも「棺」なんだ
それで通用するところが
ダダの永遠性だ

だがね
ダダイストは
なにも永遠性だけを望んで
詩を書くというわけじゃないぞ

この詩を書いた頃
富永太郎を知っていましたのでしょうか
まだ会う以前のことでしょうか

ダダイズムへの
煮詰まった思索の跡がうかがえる詩です
とはいえ
この詩も
未完成作品で
タイトルは仮のものです

 *
 (名詞の扱ひに)

名詞の扱ひに
ロヂツクを忘れた象徴さ
俺の詩は

宣言と作品の関係は
有機的抽象と無機的具象との関係だ
物質名詞と印象との関係だ。

ダダ、つてんだよ
木馬、つてんだ
原始人のドモリ、でも好い

歴史は材料にはなるさ
だが問題にはならぬさ
此のダダイストには

古い作品の紹介者は
古代の棺はかういふ風だつた、なんて断り書きをする
棺の形が如何に変らうと
ダダイストが「棺」といへば
何時の時代でも「棺」として通る所に
ダダの永遠性がある
だがダダイストは、永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月 3日 (日)

ダダ詩「ノート1924」の世界<22>(酒は誰でも酔はす)

芸術論議、文学論議は
詩人の下宿で行われることが多かったようです。
ということは
泰子もそれを聞いたり
時には参加したり
時には逃げ出したりしたことでしょうが
下宿ばかりではなく
四条大橋や新京極の酒場などへも
繰り出して行われた様子です

そこは自由な談論風発の場であったはずで
時には天下国家を論じたり
人生論や政治論になったり
下品な話題に落ちたこともあったでしょうし
行過ぎて
個人攻撃なんてことも
ままあったことでしょう

詩人は
きっとそうした無礼講の中でも
詩を忘れることはありませんし
大酒の後の空しさを噛みしめる段になって
ますます詩論に磨きをかけます

詩人は
ただの飲兵衛(のんべえ)じゃあなかったのです
だって
まだ17歳ですよ
早熟とはいえ
李白や白楽天の酒とは異なります

(酒は誰でも酔はす)は
未完成作品ですから
タイトルも仮題ですが
このところ続いている
近辺の交友関係への批判が
ダダ表現の技を駆使する方向には向かわず
いっそうストレートになります
それでいて
破綻しません
崩れないのです

酒は誰でも酔わすよ
だけどどんなに優れた詩だって
字の読めない人を酔わすことはない
だからといって
酒が詩より上等だなんて考えるヤツは
どうかしてるよ
勝手に
生活が一番芸術はその次
なんてほざいていやがれ

それではね
自然が美しいってことは
自然がカンバスの上でも美しいっていうことになるんだ
芸術はさあ
経験を否定してできるものじゃないから
それを否定してしまったら
魅力的な詩はできっこないがね
だけど
「それをもってそれを現わすべからず」って言葉を覚えておけよ

それってのは
自然のことだよ

科学は個々のことばかりを考えて
文学は関係のことばかりを考え過ぎる

文士よ
世智辛い世の中を見て書いたり
発言したりするのはいいけど
中に入っちゃって
世の中を見なくなったらいけないよ

批判の論点が
しっかりしていて
揺るぎありません

ダダで煙に巻く
というわけでもありません

 *
 (酒は誰でも酔はす)

酒は誰でも酔はす
だがどんなに傑れた詩も
字の読めない人は酔はさない
――だからといつて
酒が詩の上だなんて考へる奴あ
「生活第一芸術第二」なんて言つてろい

自然が美しいといふことは
自然がカンヴアスの上でも美しいといふことかい――
そりや経験を否定したら
インタレスチングな詩は出来まいがね
――だが
「それを以つてそれを現わすべからず」つて言葉を覚えとけえ

科学が個々ばかりを考へて
文学が関係ばかりを考へ過ぎる
文士よ
せち辛い世の中をみるが好いが
その中に這入(はい)つちや不可(いけ)ない

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年4月 1日 (金)

ダダ詩「ノート1924」の世界<21>(仮定はないぞよ!)

前作(テンピにかけて)に引き続き
芸術論議のほとぼりは
夜遅く一人机に向かう段になっても
冷めません

上手く伝えきれなかったところを
もう一度
確認するかのように
アイツが
もしもだよ……と言って
展開したところ
それはないぜ
それはありもしない仮定っていうもんだぜ

それに
俺が考えている名辞以前ってのは
先天的観念なんてもんじゃないぞ
何にもないというところから組み立てていったまではいいさ
そして先天的観念というとこで合致したまではいいさ
(そこからだよ、肝心なところは)

理屈が面倒になっちゃったのさ
(だれもがぶちあたるんだ)
これは屋根みたいなものさ
(突き抜けられないんだ)
意識した親切心をもって
場をまとめようなんて俺はしないけどね
(お愛想をいうつもりはないよ)

忠告する元気があればの話だけどさ
キミらが住んでいる象牙の塔の雨漏りを
修繕しにいってもよいのだがね

コウモリ傘を杖代わりにしてさ
街行く人々を眺めていたらさ
ほんとに真面目にさ
くたびれもせずにさ
世の中のためになる仕事をさ
シコシコ文句の一つも言わずにさ
よくやってくれていると思うよ

センチメンタリズムに
迎合しないでいれば
趣味の本質
つまり本当にやりたいこと
それを放棄してしまうことになるのかっていう
まあ俺の問題でもあるんだな

詩のことに
ふれているのでしょうか
一方的な攻撃の調子ではなくなって
最後には
俺の問題にまで
たどりついています

 *
 (仮定はないぞよ!)

仮定はないぞよ!
先天的観念もないぞよ!
何にもない所から組立てゝ行つて
先天的観念にも合致したがね
理屈が面倒になつたさ
屋根みたいなものさ
意識した親切は持たないがね

忠告する元気があれば
象牙の塔の修繕にまはさうさ
カウモリ傘にもたれてみてゐりやあ
人は真面目にくたびれずに
事業つてやつをやつて呉(く)れらあ
サンチマンタリズムに迎合しなきや
趣味の本質に叛(そむ)くかしらつてのが
まあまあ俺の問題といへば問題さ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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