ダダ詩「ノート1924」の世界<25> (最も純粋に意地悪い奴)
恋愛を歌うことから遠ざかり
外部に向けられた目は
交友関係への批判
文学仲間への批判に注がれ
その批判の跳ね返りを受けて
自己批判へと向かいました。
(最も純粋に意地悪い奴)も
その流れで
最も純粋に意地悪い奴とは
詩人自身のことを指していると思われます
そのように
自己を突き放して
外側から観察することができる余裕が
この詩には見られますのは
詩人がこのことに関しては
人一倍長い時間をかけて
毎日毎夜
考えてきたのだし
実作してきたという自信があるからですし
その自信あるところを展開している分には
余裕として映ります
私は悲劇をみて泣いたことはない
悲劇に遭遇したことのある自分を発見したゞけであつた。
ここで詩人は
悲劇を見て
一人の観劇者として泣いたことはなく
悲劇という創作物と出会ったことはある
一享受者であるよりも
それを作った人の位置で
その作品(悲劇)を経験した、
というようなことを主張しているようです
形式も経験を積まなけりゃ
芸術品にはならんよ
と、反論された詩人は
内容と技巧は対立することはない
問題は技巧だけ
内容は技巧以前のものだから対立しないのさ
技巧が作品の価値を決めるんだ
芸術は天才の仕事ということさ
最後は
天才論というか
この議論をはじめたら
天才を名乗る者しか
勝者になり得ない
危なかしく
挑戦的なセリフで
この詩を終わりにしてしまいます。
天才に
よく見られる
パターンのこのセリフは
天才にしか
吐けないものかもしれません。
*
(最も純粋に意地悪い奴)
最も純粋に意地悪い奴
私は悲劇をみて泣いたことはない
悲劇に遭遇したことのある自分を発見したゞけであつた。
やつぱり形式に於ても経験世界を肯定しなきや
万人の芸術品とは言へないのでせうか?
内容価値と技巧価値は対立してゐませんよ。
問題となるのは技巧だけです。
内容は技巧以前のものです。
技巧を考慮する男は吃度(きっと)価値ある内容を持つてゐます。
天才以外の仕事ではないのが此の芸術ですね。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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