「ノート1924」幻の処女詩集の世界<47-2>無題(あゝ雲はさかしらに)
「無題(あゝ雲はさかしらに)」は
昭和2―3年(1927―28年)に作られたのですから
ビロードの少女が
長谷川泰子であっても
おかしくはありません
この詩を
雲と農夫とビロードの少女の物語――
と読めれば
雲
農夫
空
ビロードの少女
これらが
指し示しているものが
おぼろげに
見えてきますが
びろうどの少女みずもがな
腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに
ビロードの少女を見なければよかったものを
(見てしまった)
腕を挙げ
握っていたものを
放すのだと
地平の裏に
この3行は
何を言っているのだろうか
見当はついても
はっきりとはしません
遭わないで済めばよかったものを
遭ってしまった
ビロードの少女が
腕をあげて
握っていたものを
地平の裏に
放り投げた、という
握っていたものは何だったのでしょうか
泰子との別れのドラマの中で
詩人は
泰子が何かを放り捨てたのを
見たのでしょうか
では
雲はだれか
空はだれか
農夫はだれか
そもそも
これらを人間に置き換えてよいものか
なぞは残り
少しは
この詩に近づいたような気になりますが
間違いでしょうか
それも分かりません
さらに最終連の
心籠め このこと果し
あなたより 白き虹より
道を選び道を選びて
それからよ芥箱(ごみばこ)の蓋
この4行の
心を込め
このことを果たした、の主語はだれで
あなた(向こうの方)の
白い虹の方より
道を選びに選んで
それからゴミ箱の蓋を開けることになるのは、だれなのか
(そもそも、白虹は、「白虹、日を貫く」で有名な「白虹事件(はっこうじけん」と関係があるものか、ないとしたなら、単なる「太陽の暈(かさ)」のことなのか、不吉な事象一般の比喩なのか……)
これらの主格が詩人であるとするなら
心を込めて果たした「このこと」とは
何のことか
やっぱり
分かりそうなところまで来ている感じはあるのですが
最後まで
釈然としないままです
*
無 題(あゝ雲はさかしらに)
あゝ雲はさかしらに笑ひ
さかしらに笑ひ
この農夫 愚かなること
小石々々
エゴイストなり
この農夫 ためいきつくこと
しかすがに 結局のとこ
この空は 胸なる空は
農夫にも 遠き家にも
誠意あり
誠意あるとよ
すぎし日や胸のつかれや
びろうどの少女みずもがな
腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに
心籠め このこと果し
あなたより 白き虹より
道を選び道を選びて
それからよ芥箱(ごみばこ)の蓋
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)
« 「ノート1924」幻の処女詩集の世界<47>無題(あゝ雲はさかしらに) | トップページ | 「ノート1924」幻の処女詩集の世界<48>(秋の日を歩み疲れて) »
「0011中原中也のダダイズム詩」カテゴリの記事
- 「ノート1924」幻の処女詩集の世界<51>無題(緋のいろに心はなごみ)(2011.05.17)
- 「ノート1924」幻の処女詩集の世界<50>秋の日(2011.05.16)
- 「ノート1924」幻の処女詩集の世界<49>(かつては私も)(2011.05.15)
- 「ノート1924」幻の処女詩集の世界<48>(秋の日を歩み疲れて)(2011.05.14)
- 「ノート1924」幻の処女詩集の世界<47-2>無題(あゝ雲はさかしらに)(2011.05.12)
« 「ノート1924」幻の処女詩集の世界<47>無題(あゝ雲はさかしらに) | トップページ | 「ノート1924」幻の処女詩集の世界<48>(秋の日を歩み疲れて) »
コメント