カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月31日 (火)

「むなしさ」からはじまる<5>

中原中也が
ポール・ベルレーヌの名を
はじめて知ったのは
「彼より仏国詩人等の存在を学ぶ」(詩的履歴書)と
後に記されるように
京都を訪れた富永太郎を通じてといわれていますから
その時から数えても
まもなく2年になろうとしています。

 

はじめのうちは
フランス語の勉強をしていなかったため
上田敏訳のランボー「酔いどれ船」を
「ノート1924」の空きページに筆写して
フランス詩の片鱗を味わう程度の接触でしたが
2年のうちには
小林秀雄や
小林周辺の帝大仏文科の学生
もしくは教官であった
辰野隆や鈴木信太郎からということもあったのか
または日大予科やアテネ・フランセでの
授業や学友を通じて……

 

といった具合に
フランス詩の趨勢を知り
ベルレーヌを知り
ランボーも知り
ボードレールも知り……
とりわけ象徴詩は
詩作に摂取するための
糧(かて)のような存在で
単なるテクスト以上の意味がありました。

 

「むなしさ」が
ベルレーヌの「ダリア」に
ヒントを得ているといわれているのは
「ダリア」が収められた
「ヴェルレーヌ全集」の原書を
大正15年5月に購入したことを
読書記録に残していることや
川路柳虹の翻訳が収められた
「ヹルレーヌ詩集」を所蔵していることなどから分かるのですが
なによりも
詩に登場する遊女の共通性です。

 

ベルレーヌは
娼婦をダリアに喩えますが
中原中也は
戯女(たわれめ)を白い薔薇に喩えました。

 

原文のフランス語を
辞書を引きながら読み解き
川路柳虹訳を参照しながら
なお理解の届かない部分を
近辺のだれかに尋ねることもあったのでしょうか

 

詩人が
「ダリア」のイメージを
「白い薔薇」に結晶させるまでには
長い時間をかけたことが
想像できます。

 

ここでは
「ダリア」の川路柳虹訳を
角川新全集から孫引きしておきます。

 

 
  ダリア

 

固き胸もつ遊女(たはれめ)、暗く褐色(ちやいろ)の瞳もて
牡牛(をうし)のごとくゆるやかにうち開く、
いと大きなる汝(な)が茎は新しき大理石(マルブル)のごと耀(かがや)けり。

 

太(ふと)りたる花、裕かなる花、されど君が傍(かたはら)に
漂ひきたる匂ひなし、君が姿は晴れやかに美しけれど、
えも云へぬよく調(とゝの)ひし風(ふり)はあれども。

 

きみのからだに匂ひなし、もし敢てそを求むれば
秣草(まぐさ)乾すそのにほひにも譬ふべき
きみが幹(みき)こそ香気(にほひ)感ぜぬ偶像(イドル)なれ。

 

――かくの如くダリアは衣(ころも)燦爛と耀きわたる王なれど
香(にほひ)なきその頸(うなじ)をばいとつゝましくもたげつつ
蓮葉(はすは)なる素馨(ヂヤスマン)の花さくなかに苛立(いらだ)つごとく見えにけり。
(「ヹルレーヌ詩集」新潮社、大正8年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *
 むなしさ

 

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

 

白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず

 

明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓(こきゆう)の音 つづきてきこゆ

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

Senpuki04

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

 

2011年5月30日 (月)

<再読>わが喫煙/タバコが目にしみる

「山羊の歌」の中の
「少年時」を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

これ以上
何を望んだのだろうか
何を求めたのだろうか
中原中也と長谷川泰子の
二人だけの時間が14行(=ソネット)に
濃密に刻まれました。

二人の距離は
もやは、ない、
といえるほどに近い
港町、横浜あたりへのデート。
幾分か、
誇らしげでもある
詩人の心根が見えます。

こんな時もあったのだ。
にも拘わらず
自分の女ではない
自分の伴侶ではない

いや、そういうことではありません。

自分の気持ちには応えていない女。
一緒に、デートを楽しんでいるけれど
自分を心底で好いてくれてはいない女。

いったん、ひびの入った心と体に
ふたたび電流が通うことはないであろうと
わかっていてもなすすべがない

憎い……

恋は
こうして
ますます
高じていきました。

「山羊の歌」は
「少年時」から後半に入りますが
「少年時」の2番目の
「盲目の秋」にはじまり
「羊の歌」の3篇を除く
「時こそ今は……」までの連続18篇が
「白痴群」に発表されました。

「少年時」9篇のうち8篇
「みちこ」5篇のすべて
「秋」5篇のすべて
合計18篇が
1929年(昭和4年)から1930年の
足掛け2年
中原中也が傾注した同人誌
「白痴群」に発表された作品なのです。

「わが喫煙」は
1930年4月発行の
「白痴群」第6号に掲載されました。
第6号で同誌は廃刊になりました。

 *

 わが喫煙

おまへのその、白い二本の脛(あし)が、
  夕暮、港の町の寒い夕暮、
によきによきと、ペエヴの上を歩むのだ。
  店々に灯がついて、灯がついて、
私がそれをみながら歩いてゐると、
  おまへが声をかけるのだ、
どつかにはひつて憩(やす)みませうよと。

そこで私は、橋や荷足(にたり)を見残しながら、
  レストオランに這入(はひ)るのだ――
わんわんいふ喧騒(どよもし)、むつとするスチーム、
  さても此処(ここ)は別世界。
そこで私は、時宜にも合はないおまへの陽気な顔を眺め、
  かなしく煙草を吹かすのだ、
一服、一服、吹かすのだ……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月29日 (日)

<再読>盲目の秋/死ぬほど好きになった女

「山羊の歌」の中の
「少年時」を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

「盲目の秋」は
「山羊の歌」で24番目に置かれた詩です。
全部で44篇ある作品の
ほぼ真ん中に
4章に分かれる長詩が
置かれたのです。

集中の絶唱に
突如、巡りあうような感覚。

1章1章が独立した世界を展開し
つながりがないことが
かえって
切実な声に聞える
恋愛詩です

なにも付け加えることはありません。
ただ読むだけでいい
ただ味わうだけでいい
魂の震えに合わせればいい

小林秀雄のもとへ去った泰子でしたが
こんどは小林秀雄のほうが泰子から去り
中原中也は再び泰子に求愛します。
しかし、受け入れてはもらえません。

3、4章は、ほぼこの事実に照応していることが
大岡昇平の研究で明らかにされています。
大岡によれば
この時から、中也の恋がはじまった、とされる
恋愛詩が多産される時期の詩の一つです。

実際は
中也の住処に
泰子が訪れることもあった、という
二人のただならぬ関係を
中也は絶望の底で
悲しんでいました。

死ぬほど好きになった女のことを
死ぬほど好きになってしまった男が
歌う。

風が立ち、
波が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。

歯を食いしばって
断崖に立つ詩人。

一瞬
死を垣間見ますが
いや
僕は生きる。

甘やかな恋の時間にはいません。
苦しい
血を吐くような恋の中で
自恃を言い聞かせたすぐ後に
サンタマリアへ哀願します……

 *
 盲目の秋

   1

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

その間(かん)、小さな紅(くれなゐ)の花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思つて
  酷薄(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)へ、
  去りゆく女が最後にくれる笑(ゑま)ひのやうに、
  
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでゐて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      あゝ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

   2

これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のやうにしむみりと、
朝霧を煮釜に填(つ)めて、跳起きられればよい!

   3

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまへが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまゐつてしまつた……

それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、
  それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、
私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
  おまへもわたしを愛してゐたのだが……

おゝ! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。

   4

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでせうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけてゐてはいや、
  その時は白粧をつけてゐてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射してゐて下さい。
  何にも考へてくれてはいや、
  たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみぢ)の径を昇りゆく。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月28日 (土)

<再読>少年時/ギロギロ生きていた

「山羊の歌」の中の
「少年時」を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

「少年時」という章の
冒頭に「少年時」という題の詩が置かれたからには
何か重要な意味を与えられていそうな作品ですが
案の定、
この詩は一時、
詩集のタイトルの候補の一つとされていたほどの
戦略的な意味をもつ作品でした。

詩集「山羊の歌」は
「少年時」のタイトルになる可能性もあったのですが
これも戦略上、詩人はそうしなかったのです。

しかし
詩人が生涯にわたって敬愛し
翻訳にも取り組むことになる
フランスの詩人・アルチュール・ランボーが
散文詩「少年時Enfance」の一節で

まことに、俺は、沖合を遥かに延びた突堤の上に棄てられた少年。行く手は空にうちつゞく、道を辿つて行く小僧。

辿る小道は起伏して、丘陵を、えにしだは覆い、大気は動かず。あゝ、はや遠い、小鳥の歌、泉の声。行き著くところは世の果てか。(「飾画」「少年時」より、小林秀雄訳)

と歌った「世の果て」は

黝い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆きざしのやうだつた。

にまっすぐに通じていて
中原中也の「少年時」が
ランボーの「少年時」と
いかに近い距離にあるか
くどくど言う余地はありません。

この詩には、
「恋愛」はないでしょうし
「女」の影もないでしょうが
しかし
少年時代を暗喩にして
長谷川泰子との失恋が隠されている
という詩と解釈できないことでもありません。

ここでは
そんな深読みはしませんが
でも
少年時代を回想しただけの
ただの思い出の詩ではないことは確かで
遠い少年時代のことを歌う中に
実は
つい最近の出来事
つい最近の喪失感
つい最近のむなしさを込めた
ということは十分に考えられることではあります。

青黒い石は河原の石でしょうか
田舎の川に照りつけるカンカンの太陽
土肌は朱色をして眠るような静けさ

地平の果てに立つ蒸気は
入道雲のことか
それが不吉なものに見えたのです

麦の田を風が撫で倒し
それは、灰色で
爽やかなものではありませんでした

その上に現れ飛んでいく雲の影は
田んぼを通り過ぎてゆく
伝説の巨人だいだらぼっちのよう

夏の午後
みんな昼寝の時間だというのに
ぼくは一人っきりで野原を走り回っていた

希望を唇で噛み締めて
ギロギロする目で探しながらも
どこかでは諦めていた
ああ
ぼく生きていた
生きていたのだ

一つの詩に
それを初めて作ったときには歌おうとはしなかった感情が
発表する段階になって
あらたに加えられるということは
しばしば見られることです。

「少年時」は
1927-28年(昭和2-3年)に
初稿が作られたことが推定されていますが
「ギロギロする目」には
少年時代の不安感が歌われているのと同時に
青春彷徨の空腹感や
失恋の空虚感も込められていて
それら失なわれた時間を嘆息する
「血眼(ちまなこ)の」現在の詩人がいても
いっこうに不自然でありません。

その「ギロギロする目」が
「諦める」といっているのです。

ここに
求めつつも諦めるしかない泰子への
断ち切りがたい思いを断とうとした
詩人の現在を見ることも
それほどおかしいことではありません。

 *
 少年時

黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。

地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。

麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
 
翔(と)びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月27日 (金)

<再読>心象/死にたい生きたい

「山羊の歌」の中の
「少年時」を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

「少年時」という章の
最終に配置され作品も
夏の歌であり
空の歌です。

ここの夏は
もはや、秋に限りなく近い夏で
Ⅰは、海辺
Ⅱは、草原を舞台にしますが
どちらも特定の場所を指示するものではありません。

松の木に風、と聞いただけで
海岸沿いの松林を
幾つか思い浮かべることができるのは
日本に生まれ育ったからなのでしょうか。
その道はたいてい砂利道で
ザクザクザクザク歩くにつれて立つ音は
たいてい寂しさの漂うものでした。

暖かい春風が
ひゅーひゅーぼくの顔を撫でつけ
去来する思いは
昔のことばかりで
懐かしいものでした。

見覚えのある風景を
中原中也は
喚起させる名人です。
こんな風景を見たことがある! と
読む人をただちに
詩世界の中に引き込みます。

松林を通り抜け
どこだか防波堤のような
人が腰掛けるのに恰好な場所があり
その上にしばらく佇たたずみます。

すると
波の音だけがひときわ高く
星のない夜空は綿のようです。

おりしも通りかかった小船があり
船頭さんが
屋形の中の女房に
何かを喋っていたのだが
何を喋っていたのか聞き取れなかった

闇の中にふと現れる
人の賑わいに
詩人は入っていけませんでした。

そして
波の音だけが高くまた聞こえてきた
孤独……

詩人はしばらく
こうして波の音を聞いています。

どれほどの時間が過ぎて行ったのか
詩人はいつしか
深い悲しみの中にいます。 

もうここにない過去
現在につながらない過去
滅んでしまった過去のすべてを思うと
涙が溢れてくる

城の塀は乾き切り
風が吹き渡る
草は靡き
丘を越えて、野を渡り
休むことがない
純白の天使の姿も見えてこない

ぼくは死にたかったのだ
ぼくは生きたかったのだ
滅び去った過去のすべてに向き合うと……

涙が溢れる
神のみそなわす空の向こうから
風が吹いてくる

涙が溢れても
詩人の心は折れません
風の吹くにまかせ
むしろ飄々(ひょうひょう)とした感じさえあります。
不思議です。

白き天使……は
泰子であっても
なくてもよい
心の形
心象
ですから……。

 *

 心象

   I

松の木に風が吹き、
踏む砂利の音は寂しかつた。
暖い風が私の額を洗ひ
思ひははるかに、なつかしかつた。

腰をおろすと、
浪の音がひときは聞えた。
星はなく
空は暗い綿だつた。

とほりかかつた小舟の中で
船頭がその女房に向つて何かを云つた。
――その言葉は、聞きとれなかつた。

浪の音がひときはきこえた。

   Ⅱ

亡びたる過去のすべてに
涙湧く。
城の塀乾きたり
風の吹く

草靡(なび)く
丘を越え、野を渉(わた)り
憩ひなき
白き天使のみえ来ずや

あはれわれ死なんと欲す、
あはれわれ生きむと欲す
あはれわれ、亡びたる過去のすべてに

涙湧く。
み空の方より、
風の吹く

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

2011年5月26日 (木)

<再読>夏/血を吐くような

「山羊の歌」の中の
「少年時」を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

泰子との別離を
過去のこととして
もの静かに語りはじめた詩人のようですが
「夏」では
「嵐のような心の歴史」として
もはや
たぐり寄せる糸口一つもない
地平の彼方にありますが……

その心は
血を吐くような
過激なものです。

もの憂さ
たゆけさ
悲しさ
せつなさ……が
血を吐くほどに高じているのです。

麦畑に陽は照りつけ
静か過ぎて
眠りたくなるような悲しさに襲われて
思わず
神の住まわれるあの空を頼もうとするのですが
空は遠く
血を吐くようなもの憂さです
たゆけさです。

空は燃えている
畑はずっと続いている
雲が浮かび
陽が眩しい
今日も、昨日もそうだったように
太陽は燃え
大地は眠っている
血を吐くような切なさのせいです。

嵐のようにだった心の歴史
私の恋は
終わってしまったもののように
もはやそこから何かを手繰り出そうとしても
何の糸口もないもののように
燃える太陽の、ずっと向こうのほうで眠っている

私は、亡骸として残ります。
私は、骸むくろであっても
このまま残ります。
血を吐くような切なさですが……
血を吐くような悲しさですが……

せつなさかなしさ、と
ひとまとめにしたのは
どちらか一つでは言い切れない
切なく悲しい感情の表現でしょうか
それを
体言止めにして詩を終わります

説明を省いたことによって
長谷川泰子を失なった悲しみを
悲しみにとどめていません。

恋を恋だけに終わらせず
恋以上、恋以外を
歌います。

 夏

血を吐くやうな 倦(もの)うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。

嵐のやうな心の歴史は
終焉(をは)つてしまつたもののやうに
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののやうに
燃ゆる日の彼方(かなた)に睡る。

私は残る、亡骸(なきがら)として――
血を吐くやうなせつなさかなしさ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

<再読>失せし希望/空の月は泰子

「山羊の歌」の中の
「少年時」を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

昭和5年(1930)4月「白痴群」第6号に載った作品です。
同号の発行で「白痴群」は廃刊になりました。

同号にはこの他に
「盲目の秋」
「わが喫煙」
「妹よ」
「汚れつちまつた悲しみに……」
「無題」
「更くる夜」
「つみびとの歌」
「雪の宵」
「生ひたちの歌」
「時こそ今は……」が掲載されました。

この号に発表された作品の大半が
中原中也の詩ということになり
中也の独壇場の観がありますが
逆の意味で
グループ「白痴群」の危機であったことを示しています。

暗い空へ
ぼくの若き日の希望は
消えていってしまった
(泰子との暮らしが終わってしまったことを、若き日の希望が消えた、と一般化して表現しています)

夏の夜の星のように
いまも遠くの空に見え隠れしている
ぼくの若き日の夢、希望

今は
はたとここに打ち伏して
獣のように、暗い思いに浸る

その思いは
いつになれば晴れるのやら分かりもしない

夜の海に溺れながら
空に浮かんだ月を見るようだ

波はあまりに深く
月はあまりに清い

ああ
暗い空へ
ぼくの若き日の希望は
消えていってしまった

直訳すると
こんな風になりますが
希望の消えた先は夏の夜空です

空へ、
ここでも
詩人の眼差しは向かいますが
ここにも
祈りがあります。

空の月は
泰子らしい……。
そう読まなくても
OKですが。
ここは
そう読んだほうが
すんなりします。

 *

 失せし希望

暗き空へと消え行きぬ
  わが若き日を燃えし希望は。

夏の夜の星の如くは今もなほ
  遐(とほ)きみ空に見え隠る、今もなほ。

暗き空へと消えゆきぬ
  わが若き日の夢は希望は。

今はた此処(ここ)に打伏して
  獣の如くは、暗き思ひす。

そが暗き思ひいつの日
  晴れんとの知るよしなくて、

溺れたる夜(よる)の海より
  空の月、望むが如し。

その浪はあまりに深く
  その月はあまりに清く、

あはれわが若き日を燃えし希望の
  今ははや暗き空へと消え行きぬ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

<再読>木蔭/詩人の休息

「山羊の歌」の中の
「少年時」を読み直しています。
一度、読みましたが
読み足りなかった部分を
少しだけ補いました。

  ◇

「少年時」9篇のうち後半の4篇に
共通して現れる自然があります。

それは
夏と空ですが
「木蔭」の空は
夏の昼の空です。

梅雨が明けて
木陰が気持ちよい季節
すでに夏は盛りに近く
神社の境内の楡の葉影は濃く
小さく揺れて
緑がさざ波をうっています
爽快な季節なのに……

詩人は
まとわりついて離れない
暗い後悔の中にいます

馬鹿馬鹿しくて
思わず笑い出したくなるような
ぼくの過去
(泰子と過ごした時間は、極く最近のことであるのに、遠い過去のように感じ取られているのです)
涙に濡れた闇となり
いまや根強い疲労と化して

朝から晩まで
忍従するほかになく
怨むことさえもなく
生気を失った心が
空を見上げる

その
ぼくの眼を……

なぐさめてくれる
ああ
なぐさめてくれる
神社の境内の
夏の日の昼の
楡の木陰です。

泰子とともにあった過去を
詩人は
後悔の中に
捉えるようになるほど
立ち直ったというべきでしょうか
遠い日の思い出と化してしまったのでしょうか

木蔭は
詩人の後悔をなぐさめてくれるものであっても
一時のものでしかなく
なぐさめでしかありません

この苦しみの中で
詩人の眼差しは
空に向かいます。

祈るような気持ちで
空を見るようになっているのです。

 *
 木蔭

神社の鳥居が光をうけて
楡(にれ)の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる

暗い後悔 いつでも附纏ふ後悔
馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は
やがて涙つぽい晦暝(くわいめい)となり
やがて根強い疲労となつた

かくて今では朝から夜まで
忍従することのほかに生活を持たない
怨みもなく喪心したやうに
空を見上げる私の眼(まなこ)――

神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭は
私の後悔を宥めてくれる

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月25日 (水)

「むなしさ」からはじまる<4>

「むなしさ」は
ダダイズム以外に
認めるに足る詩が存在することに目を開かれた詩人が
ダダからの脱皮を図ろうとしていた
過程で作られた作品といわれていますから
詩の中に色々な受容の形跡をうかがうことができます。

 

まず目立つのが
臘祭や偏菱形=聚接面などの
難漢字、難語。

 

臘祭(ろうさい)の「臘」は
「旧臘=きゅうろう」の「臘」で
「去年の12月」を意味する「旧臘」という言葉を
ときどき見かけますが
「臘」は「陰暦12月」をさし
簡単にいえば「12月のお祭り」のことです。

 

「元来は古代中国の旧暦12月の行事。猟の獲物を先祖の霊にささげる祭」と
全集の語註にあります。

 

もう一つ
全集が語註を付したのが

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)。

 

偏菱形は
「へんりょうけい」と読み、
「一組の辺がそれぞれ等長の四角形」と注釈していますが、
これは平行四辺形のことでしょうか、
それとも、台形のことでしょうか
「それぞれ」とありますから、前者になりますか、
原作に詩人自身のルビがなく、
読み仮名も編集がつけたものです。

 

聚接面は
「しゆうせつめん」とルビが付加され
「多くの面」と注されています。

 

さらに
「偏菱形=聚接面」は
「白い薔薇」の「花弁」の集合の図形的なイメージか、
とコメントが付けられていますが
これは疑問符「か」が付けられるように
ほかの説が考えられるからで
中華街に見られる建築の装飾や
店舗のデザイン(紋様)などであっても
可能かもしれません。

 

語註があるもののほかにも
たとえば
条網
胸乳(むなち)
戯女(たはれめ)
線条に鳴る
海峡岸
冬の暁風
胡弓
……と

 

理解に努力を要する
人によっては難解な
漢語・漢文が現れます。

 

これらが
富永太郎や宮沢賢治や
北原白秋や岩野泡鳴らの
影響であることがいわれますが
これを詩に摂取したのは
中原中也であり
摂取するにはそれ相当の下地があったことを
忘れてはなりません。
摂取する側に下地がなくては
摂取そのものが不可能ですから。

 

詩人は
元来、勉強家でしたし
多量の書物を読んでいましたし
ダダ詩を作っていた頃にも
難解な語句が頻繁に使われました。

 

影響といえば
これら日本の詩歌のほかに
第3連

 

白薔薇(しろばら)の 造化の花瓣(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず

 

この「白薔薇」に
注目せざるを得ません。
ここには
ポール・ベルレーヌの「ダリア」の受容があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 *
 むなしさ

 

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

 

白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず

 

明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓(こきゆう)の音 つづきてきこゆ

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

 

 

Senpuki04

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月24日 (火)

<再読>妹よ/詩人の祈り

「妹よ」は
一度、2008年7月15日付けで読みましたが
読み足らなかった部分を捕捉し
再び読んでみました。

  ◇

中原中也には
妹はいません。
なのに
「妹よ」とは
どういうことでしょうか?

その答えは
簡単なことです
たとえば
万葉集にある次の歌

むらさきの にほえる妹を 憎くあらば
 人妻ゆゑに われ恋ひめやも (巻一)

額田王(ぬかだのおおきみ)の歌として有名ですが
この中にある「妹」は「いも」と発音し
恋人を意味します

中原中也も
この「妹」を使ったのです。

ですから
「いもうとよ」ではなく
「いもよ」と読ませたいに違いなく
この詩「妹よ」は
「いもよ」が正解の読みでしょう。

そのように限定しないで
現代語の「いもうと」の意味を持たせても
いっこうに差し支えありません
兄の妹に対する愛情が
この詩に含まれていると読んでも
なんら問題は生じません

その妹が
もう死んだっていいよう、と
夜の
湿った野原の
黒土の
短い草の上を吹く風の中で
泣くのです

詩人が
夜露に濡れる
野の土、野の草の上を渡る
風の中に
妹の泣く声を聞いたのかどうか
実際にそのようなシーンに出くわしたのか

そのような想像に傾きがちですが
この
うつくしい魂とは
夜の野原を吹く風そのものと変わりがなく
夜の野原を吹く風そのものが
うつくしい魂でありはしないか

夜の野原の風に吹かれて
詩人は
その風の音が
妹の
うつくしい魂の声に聞えたことを
歌っているように思えてきます

その光景を思うだけで
美しい世界ですが
このようなシーンが
現実に
詩人の身に起これば
祈るほかになかったことも
わかるような気がしてくる
美しい詩です。

可愛い泰子よ
お前のいうことが
今夜は
すべて当たり前に思えているよ!

 *

 妹よ

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、
  ――かの女こそ正当(あたりき)なのに――
夜、うつくしい魂は涕いて、
  もう死んだつていいよう……といふのであつた。

湿つた野原の黒い土、短い草の上を
  夜風は吹いて、 
死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、
  うつくしい魂は涕くのであつた。

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

「むなしさ」からはじまる<3>

1926年は
大正15年であり昭和元年である
ということは
いうまでもないことですが
大正に1年と昭和に1年、
合計2年あるということではなく
ほとんどが大正15年で
わずか7日が昭和元年なのでした。

 

(つまり、この国には、「昭和元年の歴史」は7日しかなく、したがって、昭和元年には有名な歴史的大事件もほとんどゼロということだったのですね! こんなことを、初めて知りました。ちなみに、平成の場合は、年始から1月7日までの7日間が昭和64年、翌1月8日以降の358日間が平成元年ということになります。) 

 

1926年と1927年と
この2年間を考えるとき
大正15年、昭和元年、昭和2年を
混乱しないで換算しなければならないのですが
角川全集の年譜は
1926年の1年間を

 

2月「むなしさ」を書く。
5―8月にかけて「朝の歌」を書く。
この年、「臨終」を書く

 

と、3作品をクローズアップして
記述しているほかは

 

4月、日本大学予科文科に入学。
9月、家に無断で日大を退学。その後、アテネ・フランセに通う。
11月「夭折した富永太郎」を「山繭」に発表。

 

と、わずか計6行を費やすだけです。

 

旧全集編集時に作られた年譜が
更新されないまま
新全集に踏襲されているだけのことでしょうが
この簡単な年譜ゆえに
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」
3作品の占める重要さが見えて
逆に分かりやすさを生んでいます。

 

「山繭」への寄稿は
やがて
翌1927年発行の私家版「富永太郎詩集」へつながり
詩人はこの詩集に強い刺激を受けて
自身の処女詩集刊行を計画するきっかけとしますから
このあたりも分かりやすく
日大、アテネ・フランセへの通学も分かりやすく
詩作が
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」で代表されるなら
この年、1926年の活動は
極めてわかりやすいイメージになります。

 

その上
この3作品の2作は
いわゆる「横浜もの」です。
横浜を舞台にした詩群の中の
2作品ということになり
この点でも分かりやすく
自然に
「横浜もの」へと
関心が誘導されていく流れになります。

 

「横浜もの」といわれている詩は
「山羊の歌」の中の
「臨終」
「秋の一日」
「港市の秋」
「在りし日の歌」の中の
「むなしさ」
「未発表詩篇」の中の
「かの女」
「春と恋人」
この6作品などがあげられます。

 

 

 

 

 

 *
 むなしさ

 

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

 

白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず

 

明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓(こきゆう)の音 つづきてきこゆ

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

Senpuki04

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月23日 (月)

「むなしさ」からはじまる<2>

「むなしさ」が作られたのは
大正15年(1926年)2月、
とする説が有力ですが
昭和26年発行の「創元社版全集第3巻」所収の「年譜」には
そのように制作日が記されてあるものの
同全集の編集・発行後に
元になったその原稿が紛失したため
印刷された制作日を信ずるほかになく
確定できるものではない
――と、新全集は慎重な見解です。

 

「創元社版全集」の記載が間違えることは
よほどのことがない限り
まずはないはずですから
「むなしさ」は
大正15年2月制作として
実際には認知され流布しています。

 

中原中也、長谷川泰子と手を携えて上京後1年。
上京後半年した頃
泰子は小林秀雄と暮らすことになり
独居生活がはじまりました。
そのさらに半年後の制作ということになります。

 

大正15年は1926年で
12月24日に大正天皇が崩御されて
翌日には昭和と改号された年です。
25日以降の7日間が
昭和元年で
昭和2年、1927年がすぐにはじまりました。

 

詩人の誕生日は4月29日ですから
「むなしさ」を歌った1926年2月は
まだ18歳ということになります。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 *
 むなしさ

 

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

 

白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず

 

明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓(こきゆう)の音 つづきてきこゆ

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

Senpuki04

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月22日 (日)

「むなしさ」からはじまる

「ノート1924」の最末尾の作品
「無題(緋のいろに心はなごみ)」を読んだところで
短歌と翻訳詩を除く
中原中也の詩作品のすべてを
読み終えたことになります。

 

2008年5月にスタートして
丸3年で
およそ350の詩を読んだ計算です。

 

さて、次はどこへ向かおうか
いろいろなアイデアが浮んできて
うれしいためいきが出ます。

 

その底に
まだ読めていない、読みきれていない
という無力感があるのを
認めざるを得ませんが
中原中也の詩の魅力には
グイグイと引きずられ
詩以外の言葉、
ランボーへの取り組み
翻訳詩の世界
評論や小説
日記・書簡……へと
関心は広がっていくばかりです。

 

中也と宮沢賢治
中也とランボー
中也とベルレーヌ
中也とダダイズム
といったテーマに踏み込んで
専門的に読んでも面白いかもしれない

 

それにしても
幻の処女詩集の計画が頓挫したところから
「山羊の歌」が発行される昭和9年末までには
長い時間があります。

 

「むなしさ」を書いた詩人は
まだまだ大都会を歩きはじめたばかりのところにいるのですが
この詩が「在りし日の歌」に収録されても
詩人はこの第二詩集を
生前、手にすることはできなかったのです。

 

詩人の足取りを追っていくうちに
そのことを知ることになるのですが
それにしても
生命賛歌に溢れた「山羊の歌」の発行から
3年も経たない日に
詩人は死亡してしまい
死亡してしまうにもかかわらず
第二詩集「在りし日の歌」を残したのです。

 

この信じがたい軌跡!

 

処女詩集を計画した
昭和2、3年の時点で
詩人はもちろん
自らの運命を知ることはなかったのですが
そのことを知りながら
大都会を歩きはじめたばかりの詩人の後を
歩いていくことができるなんて
読者って
祝福された存在ですよね。

 

詩は逃げていかないし
寄り道もできるし。

 

 

 

 *
 むなしさ

 

臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

 

白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず

 

明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓(こきゆう)の音 つづきてきこゆ

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

Senpuki04

にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

 

2011年5月17日 (火)

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<51>無題(緋のいろに心はなごみ)

昭和2―3年(1927―28年)に
計画された処女詩集のために
「ノート1924」に記された7篇のうち
「無題(緋のいろに心はなごみ)」は
最後の作品です。
清書稿で完成作品です。
ということは
「ノート1924」の最後の作品です。

2行7連の構成で
各行は七五のリズムに統制された文語体
ダダ一辺倒の晦渋さが消え
定型の中で
伸び伸び歌う詩が完成に向かっています

内容は
都会の暮らしからの疎外
街の中での孤独
彷徨の果ての疲労感
それらの底に
泰子との離別の苦しみ・悲しみが
沈んでいるようで
詩人はいつしか
派手やかな緋の衣装に
心休まるものを感じています

歩きくたびれて
牡蠣殻みたいになったからだが
金色のコルセットを着けて
原色の街の路次をゆく女の後を追いながら
安らぎを覚えているのです

その街では
死神の黒い涙と
美しい芥(あくた)とを見ました

詩人はこの街に来ようとした
色々な理由が広がる中の
一つに女があることを
自らに許したのです

女たちの着る緋色の着物は
本当に心が休まります
その色は
まるで諦めの閃きというにふさわしく

その静けさに罪を覚え
罪をきざむことを善しと覚え

明るい土に射す光の中を
浮揚する蜻蛉になったのです

最終連は
3行に分けて記されていますが
七五の流れを壊すものではなく
アキツもしくはトンボと読めば
字あまりではなくなります

行を分けて
五七-五-七としたのには
転調で終わらざるを得ない
押さえ切れない叙情があったのかもしれません

すでに「むなしさ」を歌った詩人と
どれほどの時間が経過していたのでしょうか
両作品の基底に
ふるえるような孤独感が
流れています

ふと
19世紀末ペテルスブルグの
ラスコリニコフを思い出させるような……。

 *
 無 題(緋のいろに心はなごみ)

緋のいろに心はなごみ
蠣殻(かきがら)の疲れ休まる

金色の胸綬(コルセット)して
町を行く細き町行く

死の神の黒き涙腺
美しき芥もみたり

自らを恕(ゆる)す心の
展(ひろが)りに女を据えぬ

緋の色に心休まる
あきらめの閃(ひらめ)きをみる

静けさを罪と心得
きざむこと善しと心得
明らけき土の光に
浮揚する
蜻蛉となりぬ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月16日 (月)

【ニュース】写真展:東京風景、詩情豊かに エッセイストの宮嶋さん、中也記念館で

(asahi.comより)http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20110513ddlk35040339000c.html

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<50>秋の日

 「秋の日」は
 下書き稿であり
 ソネットである上に
 タイトルが付けられた
 完成作品です
 
 ここにきて
 ダダイズムの影は消え
 とって代わるのが
 文語体七五調の流麗感ですが
 
 黒き石 興ををさめて
 とか
 乾きたる 砂金は頸を
 とか……
 取っ付きにくい詩句が並びますから
 じっくりと時間をかけて読まないと
 詩を味わえません
 
 秋の日は
 灼熱の夏が嘘のように影形(かげかたち)もなく
 聞えてくる物音さえもが白く
 冴え冴えとしている
 それまでそこにあったことをだれも気づかないでいて
 剥き出しになった舗道の石の上に
 人の目が向けられるようになる
 ああ
 過ぎ去った秋の日の夢よ
 
 中原中也が
 長谷川泰子と離別したのは
 大正14年の11月。
 秋の日とは
 その別れの生々しい記憶が刻まれた季節です
 
 秋が巡ってくる度に
 詩人は
 その日の色褪(あ)せて白っぽくなった情景を
 思い出すのです
 
 やり場のない悲しみは
 空に行き
 人波に分け入り
 いまここにたどり着いて
 老人の眼(まなこ)が
 毒のある訝りを帯びたときのように
 黒い石になって静もりをもたらしてくれます
 
 訝る時の老人の眼が
 黒い石のような光沢を帯びて
 激情をなだめてくれます
 
 ああ
 どうやって過ごしていけばよいものやら
 乾いた砂金が首すじを
 すっぽりと覆うような
 悲しいつつましさよ
 
 たとえば
 夕日が砂金の輝きで
 首すじをあますところなく包むような
 悲しいつつましさです
 
 涙が落ちるのを見ては
 静かな気持ちが訪れ
 諦めて後退する今日の日を
 ああ
 天におわします
 神は見守ってくださいますでしょうか

 失恋の痛手が
 詩人を
 神に向かわせます
 
 
 
 
 
 
 
 
  *
 秋の日
 
 秋の日は 白き物音
 むきだせる 舗石(ほせき)の上に
 人の目の 落ち去りゆきし
 あゝ すぎし 秋の日の夢
 
 空にゆき 人群に分け
 いまこゝに たどりも着ける
 老の眼の 毒ある訝(いぶか)り
 黒き石 興をおさめて
 
 あゝ いかに すごしゆかんかな
 乾きたる 砂金は頸を
 めぐりてぞ 悲しきつゝましさ
 
 涙腺をみてぞ 静かに
 あきらめに しりごむけふを
 あゝ天に 神はみてもある
 
 (角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月15日 (日)

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<49>(かつては私も)

(かつては私も)も
前作(秋の日を歩み疲れて)と同じ
下書き稿であり
詩形式もソネットであるという点で
両作品は
連続性を示していますが
(かつては私も)で
注目しておいたほうがよいのは
「処女詩集序」という詩との類似性です。
 
「処女詩集序」は
字義通り、
処女詩集の序のことで
序章とか序曲とかプロローグとか
本文(本節)の前に置かれる前置き(まえがき)に相当します

昭和2―3年頃に
計画し、編集作業を行った
初めての詩集の「序詩」が
「処女詩集序」とタイトルを付けられて
草稿として残っているのです

その「処女詩集序」の内容と
この(かつては私も)の内容が類似していて
未完の(かつては私も)を作ったあとで
同じモチーフで
「処女詩集序」を作ったものと推測されています

その昔私は
何にも後悔するようなことはなかった
実に頼もしく自分を信頼していたし
生きていることが無限のことに思えていた

けれども今は何もかも失ったのです
心苦しくなるほど大量にあった
真実の愛が
今は自分で疑うほどの夢になり
クラクラしている

偶然性、半端、木質
こんなものの上で
悲しげにボヘミアンよろしくとばかり
余裕をよそおったお世辞笑いだってできるようになりました

本当に愛していたから
ワルばかり言った昔よ
今どうなってしまったのか
忘れるつもりで酒を飲みにいって
帰ってくるなり
膝に両手を置いて
また思い出し
打ちのめされるのです

これを
詩集の序詩とするわけにはいきませんでした

やがて作られる
「処女詩集序」を
あわせて載せておきます

 *
 (かつては私も)

かつては私も
何にも後悔したことはなかつた
まことにたのもしい自尊のある時
人の生命(いのち)は無限であつた

けれどもいまは何もかも失つた
いと苦しい程多量であつた
まことの愛が
いまは自ら疑怪なくらゐくるめく夢で

偶性と半端と木質の上に
悲しげにボヘミヤンよろしくと
ゆつくりお世辞笑ひも出来る

愛するがために
悪弁であつた昔よいまはどうなつたか
忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 *
 処女詩集序

かつて私は一切の「立脚点」だつた。 
かつて私は一切の解釈だつた。
私は不思議な共通接線に額して 
倫理の最後の点をみた。
(あゝ、それらの美しい論法の一つ一つを 
いかにいまこゝに想起したいことか!)

     ※

その日私はお道化(どけ)る子供だつた。 
卑少な希望達の仲間となり馬鹿笑ひをつゞけてゐた。
(いかにその日の私の見窄(みすぼら)しかつたことか! 
いかにその日の私の神聖だったことか!)

     ※

私は完(まった)き従順の中に 
わづかに呼吸を見出してゐた。
私は羅馬婦人(ローマをんな)の笑顔や夕立跡の雲の上を、 
膝頭(がしら)で歩いてゐたやうなものだ。

     ※

これらの忘恩な生活の罰か? はたしてさうか? 
私は今日、統覚作用の一摧片(ひとかけら)をも持たぬ。
そうだ、私は十一月の曇り日の墓地を歩いてゐた、 
柊(ひいらぎ)の葉をみながら私は歩いてゐた。
その時私は何か?たしかに失った。

     ※

今では私は 
生命の動力学にしかすぎない―― 
自恃(じじ)をもつて私は、むづかる特権を感じます。
かくて私には歌がのこつた。 
たつた一つ、歌といふがのこつた。

     ※

私の歌を聴いてくれ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月14日 (土)

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<48>(秋の日を歩み疲れて)

(秋の日を歩み疲れて)は
下書き稿の一つです。

前作「無題(ああ雲はさかしらに笑ひ)」に比べれば
タイトルも付けられていないのに
定型への意図が明確で
4-4-3-3のソネットが奇麗に成り立っていますし
ダダの尻尾も見当たりません。

形が整っている分
内容も首尾一貫し
意味不明な詩句は
わずかです

秋の日に歩きくたびれて
とある橋の上を通っていたところ
アレチノギクかなにか秋の野草が
金の光を浴びて
そよぎもせずに眠っている
その草を分けて
足音について行く

だれの足音なのか
すぐにイメージが湧いてくるのは
長谷川泰子と川沿いの道を行く
詩人の姿です
泰子は
小林秀雄と別れた後でしょうか
中也と泰子は
別れた後にも
たまに逢瀬の時間をもちました

次の連の

我慢強い君は黙りこくり
わたしは叫んだりしたが
川の果ての灰は光り
感興は唾液に消されてしまう

これまでずっと耐え忍んできた君は黙りこくり
わたしは、時折、叫んだりしたが
川が果てたあたりの砂地は陽を受けて輝いていた
景色に見とれて感嘆してばかりいたが
生唾を飲むほかになかった

このデート
二人の意気は合わず
チグハグです
あるいは
幻だったのか
遠い日がよみがえったのか

人並に
わたしも呼吸してきたのだが
人見知りする子どもが
腰を曲げて走っていくのだった

夕方の薄暗い台所に
新しい生木の香りが漂っているが
わたしはまたもや夢の中にいるような
倦怠感に襲われている

普請して
生木の香りが鼻を打つ台所に
泰子はいません

この日
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
(「汚れつちまつた悲しみに……」)
と歌う詩人まで
そう遠くはないところにいるようです

 *
(秋の日を歩み疲れて)

秋の日を歩み疲れて
橋上を通りかゝれば
秋の草 金にねむりて
草分ける 足音をみる

忍從の 君は默せし
われはまた 叫びもしたり
川果の 灰に光りて
感興は 唾液に消さる

人の呼気 われもすひつゝ
ひとみしり する子のまなこ
腰曲げて 走りゆきたり

台所暗き夕暮
新しき生木の かほり
われはまた 夢のものうさ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

2011年5月12日 (木)

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<47-2>無題(あゝ雲はさかしらに)

「無題(あゝ雲はさかしらに)」は
昭和2―3年(1927―28年)に作られたのですから
ビロードの少女が
長谷川泰子であっても
おかしくはありません

この詩を
雲と農夫とビロードの少女の物語――
と読めれば


農夫

ビロードの少女

これらが
指し示しているものが
おぼろげに
見えてきますが

びろうどの少女みずもがな
腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに

ビロードの少女を見なければよかったものを
(見てしまった)
腕を挙げ
握っていたものを
放すのだと
地平の裏に

この3行は
何を言っているのだろうか
見当はついても
はっきりとはしません

遭わないで済めばよかったものを
遭ってしまった
ビロードの少女が
腕をあげて
握っていたものを
地平の裏に
放り投げた、という
握っていたものは何だったのでしょうか

泰子との別れのドラマの中で
詩人は
泰子が何かを放り捨てたのを
見たのでしょうか

では
雲はだれか
空はだれか
農夫はだれか
そもそも
これらを人間に置き換えてよいものか

なぞは残り
少しは
この詩に近づいたような気になりますが
間違いでしょうか
それも分かりません

さらに最終連の

心籠め このこと果し
あなたより 白き虹より
道を選び道を選びて
それからよ芥箱(ごみばこ)の蓋

この4行の

心を込め
このことを果たした、の主語はだれで

あなた(向こうの方)の
白い虹の方より
道を選びに選んで
それからゴミ箱の蓋を開けることになるのは、だれなのか

(そもそも、白虹は、「白虹、日を貫く」で有名な「白虹事件(はっこうじけん」と関係があるものか、ないとしたなら、単なる「太陽の暈(かさ)」のことなのか、不吉な事象一般の比喩なのか……)

これらの主格が詩人であるとするなら
心を込めて果たした「このこと」とは
何のことか
やっぱり
分かりそうなところまで来ている感じはあるのですが
最後まで
釈然としないままです

 *
 無 題(あゝ雲はさかしらに)

あゝ雲はさかしらに笑ひ
さかしらに笑ひ
この農夫 愚かなること
小石々々
エゴイストなり
この農夫 ためいきつくこと

しかすがに 結局のとこ
この空は 胸なる空は
農夫にも 遠き家にも
誠意あり
誠意あるとよ

すぎし日や胸のつかれや
びろうどの少女みずもがな
腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに

心籠め このこと果し
あなたより 白き虹より
道を選び道を選びて
それからよ芥箱(ごみばこ)の蓋

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月11日 (水)

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<47>無題(あゝ雲はさかしらに)

「無題(あゝ雲はさかしらに)」は
清書稿であり
タイトルを付けられた
完成品です。

「むなしさ」「朝の歌」「臨終」を書いた詩人にしては
いかにも方向の定まっていない
色々な技が試みられている詩で
文語五七調を基調に
ルフランあり
ダダイスムあり
選ばれた言葉は
平明で
わかりやすいようで
わかりにくい
メリハリないものになりました

平明に歌おうとして
ダダから遠ざかろうとしたものの
最後に
ダダの尻尾を出してしまって
コントロールがきいていない世界。

何が歌われているかとなると
鮮明なイマージュが結ばずに
せっかくの文語体が
空回りして
ルフランも精彩がありません

主語は雲。
その雲はさかしらに(小賢しく)笑い
この農夫の愚かなこと
ちっちゃいちっちゃい
エゴイストだ
(などと嘲笑するので)
この農夫はためいきばかりついています
(農夫は詩人でしょうか)

そうはいっても結局は
この空の、胸の中は
農夫にも、
遠い家にも
誠意があります
実に誠意があるのです
(雲は空に浮いているのですから)

過ぎた日や
胸の疲れや
ビロードの少女をみないほうがよかったのに
(少女は)
腕を上げて、握ったものを
放すんだとさ、地平の裏に

心を込めて、このことをやり遂げ
あっちの、白虹(太陽の傘)から
(慎重に)道を選んで
それからよ
ゴミ箱の蓋(開けるのは)

昭和2―3年(1927―28年)に
計画された第一詩集の詩篇群は
1、 原稿用紙に清書されたもの
2、 長谷川泰子に宛てた「愛の詩」として清書されたもの
3、 清書されず、破棄するには愛着が残るものとして「ノート1924」の空きページに記されたもの

の3グループが推測されていて
「ノート1924」の7篇のほかにも
候補作品があったということです
(角川編集による)

「無題(あゝ雲はさかしらに)」は
破棄するには愛着が残る作品の一つになります

そういわれれば
捨てがたい魅力を放つ詩で
もう一つ
息を吹きかければ
見違える世界に化けそうな
不思議な詩です

雲と農夫とビロードの少女の物語――と
読めれば
不思議は不思議でなくなるのかもしれません。

もしや
ビロードの少女が
長谷川泰子であったらどうなっちゃうか
……

段々
あり得ないことではない
と、思えてきて
そうとなれば
目が覚めて
もう一度
冒頭行へ戻されていきます

やっぱり
やすやすとは捨てられない
不思議な魅力のある詩です。

 *
 無 題(あゝ雲はさかしらに)

あゝ雲はさかしらに笑ひ
さかしらに笑ひ
この農夫 愚かなること
小石々々
エゴイストなり
この農夫 ためいきつくこと

しかすがに 結局のとこ
この空は 胸なる空は
農夫にも 遠き家にも
誠意あり
誠意あるとよ

すぎし日や胸のつかれや
びろうどの少女みずもがな
腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに

心籠め このこと果し
あなたより 白き虹より
道を選び道を選びて
それからよ芥箱(ごみばこ)の蓋

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

2011年5月10日 (火)

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<46>涙語

「涙語」は
「ルイゴ」か「ナミダゴ」か
清書された完成品で
タイトルは詩人が付けたものです。

河上徹太郎を知り
その機縁で「スルヤ」を知り
「スルヤ」のリーダー格の諸井三郎を知り
ほかのメンバーを知り
辻潤や高橋新吉を訪問し
次第に交友関係を広げ

すでに
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」を書いた詩人でしたが
ダダイズムから
完全に脱皮したわけではありませんでした
「涙語」にも
ダダが残っています

歌う内容がそもそも
都会人やその生活への疎外感ですから
ダダはいまだ有効とみたか
ついつい出てしまうのか
絶頂期とは異なりますが
半ダダってなところです

まづいビフテキは
暗喩のうちで
後ろのほうに
この生活の肩掛
この生活の相談、とある
都会の暮らしのことで

何か特定の事件があったものか
まったくわかりませんが
いまや泰子との共同生活ではありませんから
泰子のことではなさそうです

まづいビフテキを食べてしまったような
寒い夜だ、今夜は。
世間なれしたお調子もんに
このチカチカする灯りの
分析はピタリと決まっているよ!

どこかで飲んで食べて
議論して
その収穫を歌っているのでしょう

あれあの星
あのよくみんながいう星も
地球と人のスタンスによって
新しくも古くも見えるものさ

遠い昔の星ですら
いまの私には馴染めないものなんだから
あれあの星だって

私の意志が無くなるまで
あれはああして待っているつもりだろうけれど
私はそれをよく知っているが
ついつい歯向かっても
ここのところで折り合っておけば
神様への奉仕となるばかりの
愛でもそこで済まされるというものです

この生活のショールや
この生活の相談は
みんな私に叛くばかりです
なんという
安っぽい考えか

私は悲しくなりますが
それでも明日、元気です

馴染もうとしても馴染めない
涙ながらに
歌うのですが
だれも聞いてくれない

 *
 涙 語

まづいビフテキ
寒い夜
澱粉過剰の胃にたいし
この明滅燈の分析的なこと!

あれあの星といふものは
地球と人との様により
新古自在に見えるもの

とほい昔の星だつて
いまの私になじめばよい

私の意志の尽きるまで
あれはあゝして待つてるつもり
私はそれをよく知つてるが
遂々のとこははむかつても
こゝのところを親しめば
神様への奉仕となるばかりの
愛でもがそこですまされるといふもの

この生活の肩掛や
この生活の相談が
みんな私に叛(そむ)きます
なんと藁紙の熟考よ

私はそれを悲しみます
それでも明日は元気です

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月 9日 (月)

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<45-2>浮浪歌

「浮浪歌」以下7篇は
昭和2―3年(1927―28年)に制作(推定)されていますが
4篇は清書原稿、3篇は下書き原稿です
清書原稿は
タイトルも付けられた完成品がほとんどで
下書き稿は未完成品のことです。

「浮浪歌」は
ダダの流れから逸れて
韻律をもった詩を目指そうとしたのか
この詩そのものも
はじめの部分がダダっぽく
後半に入る前から
調子のよい七五のリズムに変わる
おやっと思えるような作品です

(こんなに夜更けになっちゃって)
暗い山間の道(だけれども)、
簡単なことです

つまり急いで帰れば
これからまだ1時間後には
すき焼きを囲んで風呂につかり
赤ん坊のよだれかけを取り替えてやったり
それからあったか布団に入れます

川は罪のないおはじき少女ってなものです
なんのことかをちゃんと知っている
こちらの思いを知らないものと同じことで
後ろを振り返りながら帰っていくのさ
アストラカンのショールして
口角の突き出た叔父に連れられて
そんな風にいってはいけません

あんな空には額なものアンナソラニハガクナモノ
あなたははるかに葱なものアナタハハルカニネギナモノ
薄暗いのはやがて中枢なものウスグライハヤガテチュウスウナモノ

それではずるいあきらめかソレデハズルイアキラメカ
天才様の言うとおりテンサイサマノイウトオリ

崖が声出す声を出すガケガコエダスコエヲダス
思えばまじめ不まじめのオモエバマジメフマジメノ
けじめ分たぬ我ながらケジメワカタヌワレナガラ
こんなにぬくい土色のコンナニヌクイツチイロノ
代証人の背中の色ダイショウニンノセナノイロ

それは幸せぞ偶然のソレハシアワセゾグウゼンノ
されば最後に必然のサレバサイゴニヒツゼンノ
愛を受けたる御身なるぞアイヲウケタルオミナルゾ
さっさと受けて、忘れっしゃいサッサトウケテ、ワスレッシャイ
この時ばかりは例外とコノトキバカリハレイガイト
あんまり堅固な世間様アンマリケンゴナセケンサマ
私は不思議で御座いますワタシハフシギデゴザイマス
そんなに商売というものはソンナニショウバイトイウモノハ
それはそういうもんですのがソレハソウイウモンデスノガ

朝鮮料理屋がございますチョウセンリョウリヤガゴザイマス
目契ばかりで夜更けまでモッケイバカリデヨフケマデ
虹や夕陽のつもりでてニジヤユウヒノツモリデテ

あらゆる反動は傍径(わきみち)に入りアラユルハンドウハボウケイニイリ
そこで英雄になれるものソコデヒーロニナレルモノ

もうすでに、というべきか
詩人は世間と渡り合い
馴染もうとして馴染めなず
浮浪します浮遊します
その鬱憤(うっぷん)を歌うようです

七語調の流麗感を
聞き取るだけでもオモシロイ

 *
浮浪歌
暗い山合、
簡単なことです、
つまり急いで帰れば
これから一時間といふものゝ後には
すきやきやつて湯にはいり
赤ン坊にはよだれかけ
それから床にはいれるのです

川は罪ないおはじき少女
なんのことかを知つてるが
こちらのつもりを知らないものとおんなじことに
後を見後を見かへりゆく
アストラカンの肩掛に
口角の出た叔父につれられ
そんなにいつてはいけませんいけません

あんなに空は額なもの
あなたははるかに葱(ねぎ)なもの
薄暗はやがて中枢なもの

それではずるいあきらめか
天才様のいふとほり

崖が声出す声を出す。
おもへば真面目不真面目の
けぢめ分たぬわれながら
こんなに暖い土色の
代証人の背(せな)の色

それ仕合せぞ偶然の、
されば最後に必然の
愛を受けたる御身(おみ)なるぞ
さつさと受けて、わすれつしやい、
この時ばかりは例外と
あんまり堅固な世間様
私は不思議でございます
そんなに商売といふものは
それはさういふもんですのが。

朝鮮料理屋がございます
目契ばかりで夜更まで
虹や夕陽のつもりでて、

あらゆる反動は傍径に入り
そこで英雄になれるもの

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

2011年5月 8日 (日)

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<45>浮浪歌

「ノート1924」には
必ずしも1924年に作られた詩が記されているものではなく
「浮浪歌」以下7篇は
昭和2―3年(1927―28年)制作と推定されています。

理由は簡単で
「ノート1924」の使われていないページが
後になって使われたというだけの話です。
後に使われたのが
昭和2―3年で
この時詩人は
初めて詩集を作ろうと計画し
候補作の幾つかを
「ノート1924」に書き留めたのです。
その詩が
「浮浪歌」以下の7篇です。

1924年から
3、4年後の詩を
突然読むことになり
深呼吸する思いですが
富永太郎が京都を離れて後
中也と泰子は
どうしてしまったでしょうか

泰子が
中原中也の考えに
どれだけ影響力を持っていたかはよく分かりませんが
中也は富永太郎とまだ話し足りないと感じていて
東京行きの決意を固めたのは
富永を京都駅に見送った時であったに違いありません
富永太郎を追いかけるように
泰子を連れ立って上京した詩人が
東京市外戸塚源兵衛に下宿を借りるのは
1925年の3月でした

4月には
富永を通じて
小林秀雄を知り
5月には
小林の家の近くである高円寺に転居
11月には
泰子は小林との生活をはじめます
この月に、富永太郎は死去してしまいます。

1926年は
大正15年であり昭和元年である年ですが
2月には
「臘祭の夜の巷に堕ちて
心臓はも条網に絡み
脂ぎる胸乳も露は
よすがなきわれは戯女」
とはじまる「むなしさ」を書きます
孤独と絶望の底から
歌いはじめました。
4月、日本大学予科に入学し
フランス語を学びながら
「朝の歌」を作ったのは5月―8月でした。
泰子との別れの苦悩の中で
自分の詩世界を確立していったのです。

9月、親に無断で日大予科を退学。
しばらくして、アテネ・フランセへ通います
「臨終」もこの年のいつか作られました
11月には
「夭折した富永」を
富永、小林らが属していた同人誌「山繭」に発表しました

1927年は
春、河上徹太郎を知ったのを機に
諸井三郎を知り
「スルヤ」のメンバーとの交流がはじまりした
8月には
「富永太郎詩集」が私家版として発刊され
中也は自分の詩集発行のアイデアを得ます
9月には辻潤
10月には高橋新吉と
かねて計画していた
二人のダダイストへの訪問も果たしました

このような活動をする中で
第一詩集の構想は立てられ
候補作品の推敲・選定は進みました
その一部が
「ノート1924」にも
記されたのです。

(つづく)

 *
浮浪歌

暗い山合、
簡単なことです、
つまり急いで帰れば
これから一時間といふものゝ後には
すきやきやつて湯にはいり
赤ン坊にはよだれかけ
それから床にはいれるのです

川は罪ないおはじき少女
なんのことかを知つてるが
こちらのつもりを知らないものとおんなじことに
後を見後を見かへりゆく
アストラカンの肩掛に
口角の出た叔父につれられ
そんなにいつてはいけませんいけません

あんなに空は額なもの
あなたははるかに葱(ねぎ)なもの
薄暗はやがて中枢なもの

それではずるいあきらめか
天才様のいふとほり

崖が声出す声を出す。
おもへば真面目不真面目の
けぢめ分たぬわれながら
こんなに暖い土色の
代証人の背(せな)の色

それ仕合せぞ偶然の、
されば最後に必然の
愛を受けたる御身(おみ)なるぞ
さつさと受けて、わすれつしやい、
この時ばかりは例外と
あんまり堅固な世間様
私は不思議でございます
そんなに商売といふものは
それはさういふもんですのが。

朝鮮料理屋がございます
目契ばかりで夜更まで
虹や夕陽のつもりでて、

あらゆる反動は傍径に入り
そこで英雄になれるもの

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月 7日 (土)

ダダ詩「ノート1924」の世界<44-2>ランボーとの初対面は上田敏訳「酔ひどれ船」

「大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ」と
「我が詩観」の中の
「詩的履歴書」に記した中原中也でしたが
実際にどんなことを学んだのかを明らかにする一つの例が
「ノート1924」の空いていたページに書かれた
ランボーの翻訳の筆写です。

この頃詩人はまだ
フランス語の勉強をはじめていなかったものですから
富永がその一部を口ずさんだであろう
フランス語によるランボーやベルレーヌに
耳をそばだてて聞き入ったに違いありません

とるものもとりあえず
詩人は
「上田敏詩集」(玄文社)に収められていた
ランボーの日本語訳「酔ひどれ船(未定稿)」を
書き写したのです

詩人は
上田敏訳「酔ひどれ船」の筆写を
あわせて3回行っており
「ノート1924」の空きページに記したものが
1回目のものでしたが
詩の全部ではなく
第11連まででした

ここに
上田敏訳の「酔ひどれ船(未定稿)」を
引いておきます。
ダダイズムの詩から
脱皮を図る決意を固める
小さなきっかけに過ぎなかったかもしれませんが
やがては
ランボーの詩の翻訳に心血を注ぐことになる詩人の
ランボーとの初対面です。

酔ひどれ船(未定稿)
上田敏訳

われ非情の大河を下り行くほどに
曳舟の綱手のさそひいつか無し。
喊き罵る赤人等、水夫を裸に的にして
色鮮やかにゑどりたる杙に結びつけ射止めたり。

われいかでかかる船員に心残あらむ、
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船よ、
かの乗組の去りしより騒擾はたと止みければ、
大河はわれを思ひのままに下り行かしむ。

荒潮の哮(たけ)りどよめく波にゆられて、
冬さながらの吾心、幼児の脛よりなほ鈍く、
水のまにまに漾へば、陸を離れし半島も
かかる劇しき混沌も擾れしこと無かりけむ。

颶風はここにわが漂浪の目醒に祝別す、
身はコルクの栓よりも軽く波に跳りて、
永久にその牲(にへ)を転ばすといふ海の上に
うきねの十日、燈台の空(うつ)けたる眼は顧みず。

酸き林檎の果を小児等の吸ふよりも柔かく、
さみどりの水はわが松板の船に浸み透りて、
青みたる葡萄酒のしみを、吐瀉物のいろいろを
わが身より洗ひ、舵もうせぬ、錨もうせぬ。

これよりぞわれは星をちりばめ乳色にひたる
おほわたつみのうたに浴しつつ、
緑のそらいろを貪りゆけば、其吃水(みづぎは)蒼ぐもる
物思はしげなる水死者の愁然として下り行く。

また忽然として青梅の色をかき乱し、
日のきらめきの其下に、もの狂ほしくはたゆるく、
つよき酒精にいやまさり、大きさ琴に歌ひえぬ
愛執のいと苦き朱(あか)みぞわきいづる。

われは知る、霹靂に砕くる天を、龍巻を、
寄波(よせなみ)を、潮ざゐを、また夕ぐれを知るなり、
白鳩のむれ立つ如き曙の色も知るなり、
人のえ知らぬ不思議をも偶(たま)には見たり。

神秘のおそれみにくもる入日のかげ、
紫色の凝結にたなびきてかがよふも見たり。
古代の劇の俳優(わぎをぎ)が並んで進む姿なる
波のうねりの一列がをちにひれふるかしこさよ。

夜天の色の深(こ)みどりはましろの雪のまばゆくて
静かに流れ、眼にのぼるくちづけをさへゆめみたり。
世にためしなき霊波は大地にめぐりただよひて
歌ふが如き不知火の青に黄いろにめざむるを。

幾月もいくつきもヒステリの牛小舎に似たる
怒濤が暗礁に突撃するを見たり、
おろかや波はマリアのまばゆきみあしの
いきだはしき大洋の口を篏し得ると知らずや。
(「新編中原中也全集第3巻翻訳解題篇」より)

※ここまでが25連ある作品の、詩人が筆写した11連までです。

この筆写は、
(人々は空を仰いだ)が書かれたページの
前の4ページにわたって記されています。

 *
 (人々は空を仰いだ)

人々は空を仰いだ
塀が長く続いてたために

天は明るい
電車が早く通つてつたために

――おお、何といふ悲劇の
因子に充ち満ちてゐることよ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月 6日 (金)

ダダ詩「ノート1924」の世界<44>冬と孤独と

「冬と孤独と」は
「ノート1924」に記されたダダ詩の
最後の作品といわれている詩です。

1924年11月制作と推定されていて
ほかに「ノート1924」に書かれてある作品は
昭和2―3年(1927―28年)制作の
「浮浪歌」以降の一群の詩になりますから
「ノート1924」にあるものでは
京都時代の最後の作品ということになります。

富永太郎が
京都にやってきたのは
大正13年(1924年)6月30日でした
東京府立一中、二高(現東北大学)以来の学友である
正岡忠三郎を頼って
はじめは正岡の下宿に寄宿したのですが
9月初旬からは
上京区下鴨宮崎町へ転居。

いっぽうの中原中也は
10月初旬に
それまで泰子と住んでいた
北区大将軍西町椿寺の下宿から
上京区中筋通石薬師へと移転しました。
両者の下宿はおよそ1キロの距離にあり
この10月を機に
二人の交友は深まりましたが
11月中旬には
冷却しています。_

「ダダイストとのdégoûtに満ちたamitiéに淫して四十日を徒費した」と、
富永が村井康男宛に送った書簡(11月14日付け)が残ったことで
そのあたりの事情が一部明らかになっているのですが
この日より前の10月11日に
富永は自らの喀血を記しています。
(※dégoûtは「嫌悪」、amitiéは「友情」を意味するフランス語)

中原中也は
自己の詩作に有益であると判断した人物に巡り合うと
住まいを変えてまでして
その人物の住居の近辺に引っ越して
交友関係を深めるのを常としましたが
富永太郎もその例外ではありませんでした
その嚆矢(こうし)だったのです。

その最も濃密な交友期間は
富永に言わせると40日間だったのですが
おそらく
空ける日の1日たりともない
連日の交友だったのでしょう
病を抱える方が
参ってしまうのは当然過ぎることでした。
しかし
富永の病はこの時
富永自身によって隠されていたので
正岡忠三郎や中原中也は
知りようもありませんでした。

12月3日の夜
京都駅を発つ富永を
正岡忠三郎、冨倉徳次郎、中原中也の三人が
見送りました。

「冬と孤独と」は
11月制作と推定されていますから
以上の経緯が
反映されているものに違いはないでしょう

いや、制作日が
富永の言う40日を過ぎた日であったと推測すれば
詩人の「冬の孤独」を察することは
困難ではなくなってきます

新聞紙の焦げる匂い
黒い雪
火事の半鐘
……
これらは
不安を表す異なる表現に過ぎません
詩人の内部に
危急を告げるサイレンの音が
鳴り響いているかのようです

路次の角に立ったとき走り去った小犬は
詩人の孤独そのものです
あるいは
詩人の形相のただならぬ気配に
小犬までもが逃げ出したということだったのでしょうか
いやいや
小犬は富永そのものだった可能性すらあります

俺は引き返すわけにはいかないのだ
富永が盛んに語っていた
小林秀雄というヤツにも会ってみたいし
このままでは
ランボーだって生齧りのままだ……

でも
この道をまっすぐ行ったからといって
ただちに俺の求める詩が
見つかるというものでもあるまいし
俺が俺の詩を作れるというものでもあるまい
いったい
どんなごみためを通らなければならないか
分かったもんではない

いろはにこんぺいとう
こんぺいとうはあまーい、か

詩人は
ダダを捨てたわけではありません。
ダダ以外の詩を
認めざるを得なかっただけです。

 *
 冬と孤独と

新聞紙の焦げる匂ひ
黒い雪と火事の半鐘――
私が路次の角に立つた時小犬が走つた
「これを行つたらどんなごみためがめつかるだらう?」
いろはにほへと…………

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
※原作には、「ごみため」に傍点があります。編者注。

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月 5日 (木)

ダダ詩「ノート1924」の世界<43>(人々は空を仰いだ)

(人々は空を仰いだ)の制作は
1924年秋であり
前作「真夏昼思索」の制作が
1924年夏であるのに比べれば
季節が巡ったほどの
時間が経過しています。

「ノート1924」の作品は
これまでのところ
どれもが制作日時を特定できず
春制作か
春から夏にかけての間の制作か
夏制作か
秋制作か
日時の幅を取った推定しかできません
中には
シーズンさえも特定できず
1924年制作(推定)とされるものも幾つかあります

「真夏昼思索」を作ってから
しばらくの空白期をはさんで
この(人々は空を仰いだ)が作られたのには
理由があったようです

それまで
ダダイストを標榜(ひょうぼう)していた詩人が
ダダそのものに懐疑の眼差しを
向けざるを得なくなったためにです
そのきっかけは
富永太郎との出会いでした

命を懸けるに値する
ダダイズム以外の詩が
存在するということが驚きでしたが
それが古典主義の詩や
ロマン派の詩などでもなく
象徴詩と呼ばれる潮流であることを
富永から聞かされて
「ダダの絶対」を考え直す機会ができました

人々は空を仰いだ

冒頭の1行は
詩人自身の感慨を反映しているかのようです
これまで歩いてきた道のりか
これから歩いていこうとする道か
道沿いに続く塀は長く長く
思わず空を眺める姿勢になります

天は、しかし、明るいものでした
電車は早くから走っていたためにです

このことを
詩人は
悲劇の因子に充ちた状態だ!と感じ取りました
それは
一からやり直さなければなるまいと
悲劇に打ち勝とうとする決意の
ウラハラです

 *
 (人々は空を仰いだ)

人々は空を仰いだ
塀が長く続いてたために

天は明るい
電車が早く通つてつたために

――おお、何といふ悲劇の
因子に充ち満ちてゐることよ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

2011年5月 4日 (水)

ダダ詩「ノート1924」の世界<42>真夏昼思索

「真夏昼思索」には
解説を要する単語がいくつかありますから
角川全集編集者が付した語註を
まず見ておくことにします。

充足理由律=哲学用語で、事実が成立するには、十分な理由を要求するという原
理。
ヂラ=山口方言で、わがままの意。
ケサン=卦算。文鎮の一種。罫線を引くための定規としても使い、易の算木の格好を
していることからこの名がある。

では「ポント」とは何かとの語註はなく
それは「ポンと」という擬音語であることを推測せよ、と
いうことらしく
この他に
「バイプレー」「ヂレッタニズム」に語註を付しています
「バイプレー」は英語のbyplayで
わき(脇)の演技
「ヂレッタニズム」は
ジレッタンティズムdilettantismが正解で、好事趣味、道楽。
ジレッタント(好事家、こうずか)がよく使われます。

一つの詩で5件もの語註が付されるというのは
あまり例がなく
この詩が難解のレベルにあることを示すようですが
単語が理解できれば
詩全体が理解できるものでもありません

化石とはアンモナイトとか三葉虫とか
理科の教科書に掲載されている図版がきっかけでしょうか
詩人は中学4年生でありましたから
実験室に入る機会もあったでしょうし
授業のテーマになったこともあったのでしょうし
交友関係に理系の京大生がいたのかもしれません

化石は
有史以前から存在するもので
「名辞以前」につながる
詩人独特のキーワードの一つです。

化石をじっと見ていると
いま見えているイマージュは
なんらかの錯覚ではないかと混乱しそうになる
よくあることだが
こういうのは
充足理由律の欠乏した野郎にありがちな傾向です

記憶力なんてなんの役にも立たないことを
いやというほど味わってきたくせに
懲りずに物知りになったダダイストさん
(詩人は自己を語っているのでしょう)

昼寝から目を覚ましました
(詩人はそれまで昼寝の中にあった、
という自覚にいたり
自己批判をはじめるのでしょうか)

(充足理由律を欠いている男であるから)
ケチな充実の欲求を満たすだけの脇役か
ジレッタントでしかありません
物事を両面から同時に見て
(相対的に見て)
価値のあるものを探そうとするのは
天才のヒステリーみたいな言い草です

矛盾というものは本来在るものなんです
在って当然なんです

駄々っ子の無理難題以上の発言を
ダダイストだって認めることはできないのです

畳をポンと音を出してケサンで叩いたら
ハエは逃げていき
声楽家が現れました
(歌うのが一番!)

ダダ詩を読むのは
不可能というものですが
真夏の正午近くの思索が跡づけられている感じに
元気さがありません

1924年夏に作られた詩は
この詩をもって終わり
次の詩が書かれるまでに
空白期があります

詩の外では
富永太郎との出会いがあり
富永の下宿近くへ
中原中也も下宿を変えます

6月末に京都にやってきた富永は
12月に療養のために
帰京せざるを得なくなりますが
中也が下宿を変えるのは秋です

毎日毎夜
こうして二人の詩人は
双方の下宿を往復し
詩論や芸術論を交わしたのです
泰子もその場に居合わせることが多く
食事や酒の世話をして
二人の談論を楽しんだようです

富永が中也に語って聞かせた
ランボーやベルレーヌらの詩活動に
ダダイスト詩人は
衝撃を受けることになりました

「真夏昼思索」には
その衝撃の跡が見られるようですが
詩はドキュメンタリーではありませんので
事実の詳細を知ることはできません

声楽家が現れた

という
この最終行に
歌=声楽を再発見した詩人を見るのは
出来すぎというものでしょうか

 *
 真夏昼思索

化石にみえる
錯覚と網膜との衝突
充足理由律の欠乏した野郎
記憶力の無能ばかりみたくせに
物識りになつたダダイスト
午睡(ヒルネ)から目覚めました
ケチな充実の欲求のバイプレーにヂレッタニズム
両面から同時にみて価値あるものを探す天才ヒステリーの言草
矛盾の存在が当然なんですよ
ヂラ以上の権威をダダイストは認めませぬ
畳をポントケサンでたゝいたら蝿が逃げて
声楽家が現れた

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月 3日 (火)

ダダ詩「ノート1924」の世界<41-2>呪詛

「呪詛」に現れる「土橋」については
大岡昇平のよく知られた発言がありますから
この機会に
それを読んでおきましょう。

大岡昇平は
中原中也が書いた散文「分らないもの」に触れ、
その中の
「夏の昼」と題された断片的な詩篇

グランドに無造作につまれた材木
――小猫と土橋が話をしてゐた
黄色い圧力!

を案内する中で

「分らないもの」は大正十二年の夏、離郷後はじめて帰省した時の印象を描いた小説
風な断片である。「こんな好い詩を書く俺を落第生だとたゞ思つていやがる」という不
満が記されている。この断片は十二年末か十三年始めに書かれたらしいので、執筆
と同時に制作された可能性もあるが、作品そのものは短歌からダダ的短詩への移行
形態を示している。短歌を啄木流に分ち書きし、さらに音数律と通念を破壊したものと
見做すことが出来るのである。

と、「分からないもの」を概観し
「夏の昼」を読み解きます。
続けて

「小猫と土橋が話をしてゐた」の句が、土橋の上に猫がじっとしてる状景のいい替えで
あり、黄色い圧力を夏の日光の感覚的表現と見れば、これは一篇の叙景歌である。
「どばし」と「はなし」の押韻的効果が意識的なものであった可能性もある(「舟人の帆
を捲く」のような技法を彼は身につけていた)。

と、解説し
「土橋」については

 「土橋」は後々まで彼について廻った宿命的映像の一つである。「ノート1924」に
「土橋の上で胸打つた」という句が使われた詩が二篇あり、昭和八年頃に「この橋は
土橋か、木橋か、石橋か、/蹄の音に耳傾くる」という謎のような短歌がある。土橋と
は粗末な木造の橋の上に土を敷いて車輌を通すようにした橋で、石橋を都会的、木
橋を懐古的とすれば、実用的土俗的なイマージュである。
 (「中原中也」Ⅷ「中原中也・1」大岡昇平著、角川文庫)
 
と、突っ込んだ解釈を加えます。

以上は
中原中也が山口中学時代の短歌から
ダダ詩「ダダ音楽の歌詞」を作るようになった
経緯を辿る分析の一端なのですが
大岡は
両者を繋ぐ作品として
「分からないもの」に注目したものです。
そして

彼が山口中学時代、詩を書いていたという記憶が学友にあり、ほかの小説風の断片
にもそんな記載がある。しかしたとえいくつかの試作はあったとしても、彼が短歌定型
律を表現媒体に選んで迷わず、情操も技巧もその範囲で鍛えられていたことを、この
作品は示しているようである。(同書)

と結論しているのです。

もはや古典とさえなった
大岡昇平の発言に耳傾けながら
「呪詛」を読んでも
まだまだ理解が行き届かないのが
ダダの詩ですが

「土橋」は
詩人の作る詩の中に
繰り返し登場し
それが
短歌的定型表現であるなしに関係なく
土橋が
「粗末な木造の橋の上に土を敷いて車輌を通すようにした橋で」あり、
「実用的土俗的なイマージュである」とされる案内は
「呪詛」の読みのヒントになります。

「呪詛」と散文「分からないもの」の関係が断定できませんが
同じ頃の制作であれば
ますます
「呪詛」の内容は
生地・山口の湯田温泉の
事象・風景を歌っているに違いありません。

「分からないもの」には
親類の娘との失恋のことが書かれているようですから
「呪詛」に出てくる「女」である可能性は高く
ならば
この詩はもろに
その「女」のことを扱ったものということになります。

そうならばますます
最終行
砲弾は抛棄(ほうき)された

は、女性へもう一度モーションをかけるのを
思いとどまったことを示す
ダダ表現ということになります。

 *
 呪 詛

土橋の上で胸打つた
股(また)の下から右手みた
黒い着物と痩せた腕
縁側の板に尻つけて
障子に手を突つ込んで裏側からみてゐる
闇の中では鏡だけが舌を光らす
一切が悲哀だつたが恋だけがまだ残された
だが併(しか)し、女は遂に威厳に打たれることのないものでありました
砲弾は抛棄(ほうき)された

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

2011年5月 2日 (月)

ダダ詩「ノート1924」の世界<41>呪詛

「呪詛」も
タイトルの付けられた作品です。

冒頭行の「土橋」は
「ノート1924」中の詩「自滅」の

一切合切(いっさいがっさい)みんな下駄
フイゴよフイゴよ口をきけ
土橋の上で胸打つた
ヒネモノだからおまけ致します

と、ある最終連第3行に現れ
「自滅」にはほかに
第2連に

万年筆の徒歩旅行
電信棒よ御辞儀しろ
お腹(ナカ)の皮がカシヤカシヤする
胯(また)の下から右手みた

と、あり、この第4行の

胯(また)の下から右手みた

は、「股(また)」と「胯(また)」と
異なる漢字「また」を使用しているものの
「呪詛」第2行と
まったく同一のフレーズなので
二つの詩は
かなり近い距離にあるもの
であることが分かります
兄弟のような詩といってよいでしょうか。

さらに
本詩「呪詛」の第5行
障子に手を突つ込んで裏側からみてゐる
は、
(58号の電車で女郎買に行つた男が)の
障子に手を突込んで裏側からみてゐました

第7行
一切が悲哀だつたが恋だけがまだ残された
は、
(成程)の最終行
一切がオーダンの悲哀だ
と、
それぞれが類似しています

これらの関係は
いったいどのように理解すればよいものやら
「呪詛」は
これらの詩の集大成と考えるには
箇条書きのような
フレーズの羅列に過ぎない詩なので
何か物足りません

ヒントはどうやら「女」にありそうで
ここに登場する女は
長谷川泰子ではないために
イメージの連鎖が成り立たないから
混乱させるのではないか! 
と思えてくると
舞台は一挙に
山口県の詩人の生地に飛びます

詩人が山口中学を落第し
京都の立命館に転入して
親元を離れた生活に馴染んで
2年目の夏になるのが1924年です
4学年の夏休みなのです

見慣れた土橋にやってきて
何事かに胸を打たれる詩人
股の下から右手が見えたように
世界がひっくり返っています
(随分、変わったなあ)

法事でもあったのでしょうか
喪服を着て痩せた腕があります
縁側の板にしゃがんで
障子に穴を開けて裏側からそっと覗くのです
夜の闇の中で鏡が濡れたような光を放っています
一切が悲哀に包まれる中で
私の恋だけは消えずに残っていました
けれども女は最後まで厳粛な空気に沈潜するというものでもなく
(くつろいだ振る舞いをしていました)
私は女へ接近することを断念しました

故郷には
詩人が心を動かす女がいた
と考えるのが自然です

 *
 呪 詛

土橋の上で胸打つた
股(また)の下から右手みた
黒い着物と痩せた腕
縁側の板に尻つけて
障子に手を突つ込んで裏側からみてゐる
闇の中では鏡だけが舌を光らす
一切が悲哀だつたが恋だけがまだ残された
だが併(しか)し、女は遂に威厳に打たれることのないものでありました
砲弾は抛棄(ほうき)された

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

2011年5月 1日 (日)

ダダ詩「ノート1924」の世界<40>旅

久々にタイトルが付けられた
ダダ作品
「旅」は
読み手の解釈をほとんど拒絶するかのように
物語を否定しています。

物語として読むな、と
ダダ詩人は
挑発するかのように
関連のない名詞を

夕刊売り
人の世
散水車
汽車
歯ブラシ
青い紙
唯物史観
砂袋
スソ
パラソル
浮袋

こう並べるのですが
並べられた名詞の前後関係など
気にしないで読めば
わづかな手掛かりになるのは
タイトルだけです
旅です

となれば
恋を遠ざかり
芸術論議を避け
内面から外界へと
身をシュール(=超)する必要があったのでしょうか
それとも願望でしょうか
それとも
帰郷の旅を経験したのでしょうか

いや
この旅は
来し方を振り返っての
内的な旅なのかもしれないと思えるのは
2行目の
来てみればここも人の世
この行が
ダダらしくない
ストレート表現の尻尾(しっぽ)だとすれば
一転、この詩全体が
変質します
詩人の内的な旅にです。

そうであったにしても
物語を読み取るのは
とても無理というほかになく

夕刊売りは街にいて
私がやってきたこの街も
つまるところは人の世
散水車も夏の京都の街にいて
街には駅があり汽車が停まってはまた走りだし
走る汽車が吐き出す煙は麦畑を食べるように進んだ

私は
使うことなど考えもしないで
歯ブラシを買ってみた
(旅のまねっこをしてみたかったのさ)
(ついでに)
青い原稿用紙が欲しいと探したのですが
そんなの私の心に中にしかないらしく
幻滅でした

ここらあたりまでは
物語をなんとか捏造できるのですが
最終4行は

砂袋(重たそう)
スソがマクレて
パラソルを逆さに持ってるみたい(あきれた)
浮袋が湿りました

なんのことやら
見当もつかない
意味の破壊、剥奪、遊び……
支離滅裂……

しかし、ここにこそ
ダダ詩の世界が開かれてありそうなので
参りますが

青い紙ばかり欲しくて
それなのに唯物史観だつた

この2行を積極的に読んで
社会主義レアリズム一辺倒の
学友または文学仲間または詩壇の潮流への批判とみれば
明瞭になるものがあります

スソがマクれ
パラソルをさかさに持つ

最終のこの2行には
本末転倒を笑う詩人が見えてきます

 *
 旅

夕刊売
来てみれば此処(ここ)も人の世
散水車があるから
汽車の煙が麦食べた
実用を忘れて
歯ブラッシを買つてみた
青い紙ばかり欲しくて
それなのに唯物史観だつた

砂袋
スソがマクれます
パラソルを倒(さか)さに持つものがありますか
浮袋が湿りました

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。ポチっとしてくれたらうれしいです。)

 

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »