ダダ詩「ノート1924」の世界<40>旅
久々にタイトルが付けられた
ダダ作品
「旅」は
読み手の解釈をほとんど拒絶するかのように
物語を否定しています。
物語として読むな、と
ダダ詩人は
挑発するかのように
関連のない名詞を
夕刊売り
人の世
散水車
汽車
歯ブラシ
青い紙
唯物史観
砂袋
スソ
パラソル
浮袋
こう並べるのですが
並べられた名詞の前後関係など
気にしないで読めば
わづかな手掛かりになるのは
タイトルだけです
旅です
となれば
恋を遠ざかり
芸術論議を避け
内面から外界へと
身をシュール(=超)する必要があったのでしょうか
それとも願望でしょうか
それとも
帰郷の旅を経験したのでしょうか
いや
この旅は
来し方を振り返っての
内的な旅なのかもしれないと思えるのは
2行目の
来てみればここも人の世
この行が
ダダらしくない
ストレート表現の尻尾(しっぽ)だとすれば
一転、この詩全体が
変質します
詩人の内的な旅にです。
そうであったにしても
物語を読み取るのは
とても無理というほかになく
夕刊売りは街にいて
私がやってきたこの街も
つまるところは人の世
散水車も夏の京都の街にいて
街には駅があり汽車が停まってはまた走りだし
走る汽車が吐き出す煙は麦畑を食べるように進んだ
私は
使うことなど考えもしないで
歯ブラシを買ってみた
(旅のまねっこをしてみたかったのさ)
(ついでに)
青い原稿用紙が欲しいと探したのですが
そんなの私の心に中にしかないらしく
幻滅でした
ここらあたりまでは
物語をなんとか捏造できるのですが
最終4行は
砂袋(重たそう)
スソがマクレて
パラソルを逆さに持ってるみたい(あきれた)
浮袋が湿りました
なんのことやら
見当もつかない
意味の破壊、剥奪、遊び……
支離滅裂……
しかし、ここにこそ
ダダ詩の世界が開かれてありそうなので
参りますが
青い紙ばかり欲しくて
それなのに唯物史観だつた
この2行を積極的に読んで
社会主義レアリズム一辺倒の
学友または文学仲間または詩壇の潮流への批判とみれば
明瞭になるものがあります
スソがマクれ
パラソルをさかさに持つ
最終のこの2行には
本末転倒を笑う詩人が見えてきます
*
旅
夕刊売
来てみれば此処(ここ)も人の世
散水車があるから
汽車の煙が麦食べた
実用を忘れて
歯ブラッシを買つてみた
青い紙ばかり欲しくて
それなのに唯物史観だつた
砂袋
スソがマクれます
パラソルを倒(さか)さに持つものがありますか
浮袋が湿りました
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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