ダダ詩「ノート1924」の世界<41>呪詛
「呪詛」も
タイトルの付けられた作品です。
冒頭行の「土橋」は
「ノート1924」中の詩「自滅」の
一切合切(いっさいがっさい)みんな下駄
フイゴよフイゴよ口をきけ
土橋の上で胸打つた
ヒネモノだからおまけ致します
と、ある最終連第3行に現れ
「自滅」にはほかに
第2連に
万年筆の徒歩旅行
電信棒よ御辞儀しろ
お腹(ナカ)の皮がカシヤカシヤする
胯(また)の下から右手みた
と、あり、この第4行の
胯(また)の下から右手みた
は、「股(また)」と「胯(また)」と
異なる漢字「また」を使用しているものの
「呪詛」第2行と
まったく同一のフレーズなので
二つの詩は
かなり近い距離にあるもの
であることが分かります
兄弟のような詩といってよいでしょうか。
さらに
本詩「呪詛」の第5行
障子に手を突つ込んで裏側からみてゐる
は、
(58号の電車で女郎買に行つた男が)の
障子に手を突込んで裏側からみてゐました
と
第7行
一切が悲哀だつたが恋だけがまだ残された
は、
(成程)の最終行
一切がオーダンの悲哀だ
と、
それぞれが類似しています
これらの関係は
いったいどのように理解すればよいものやら
「呪詛」は
これらの詩の集大成と考えるには
箇条書きのような
フレーズの羅列に過ぎない詩なので
何か物足りません
ヒントはどうやら「女」にありそうで
ここに登場する女は
長谷川泰子ではないために
イメージの連鎖が成り立たないから
混乱させるのではないか!
と思えてくると
舞台は一挙に
山口県の詩人の生地に飛びます
詩人が山口中学を落第し
京都の立命館に転入して
親元を離れた生活に馴染んで
2年目の夏になるのが1924年です
4学年の夏休みなのです
見慣れた土橋にやってきて
何事かに胸を打たれる詩人
股の下から右手が見えたように
世界がひっくり返っています
(随分、変わったなあ)
法事でもあったのでしょうか
喪服を着て痩せた腕があります
縁側の板にしゃがんで
障子に穴を開けて裏側からそっと覗くのです
夜の闇の中で鏡が濡れたような光を放っています
一切が悲哀に包まれる中で
私の恋だけは消えずに残っていました
けれども女は最後まで厳粛な空気に沈潜するというものでもなく
(くつろいだ振る舞いをしていました)
私は女へ接近することを断念しました
故郷には
詩人が心を動かす女がいた
と考えるのが自然です
*
呪 詛
土橋の上で胸打つた
股(また)の下から右手みた
黒い着物と痩せた腕
縁側の板に尻つけて
障子に手を突つ込んで裏側からみてゐる
闇の中では鏡だけが舌を光らす
一切が悲哀だつたが恋だけがまだ残された
だが併(しか)し、女は遂に威厳に打たれることのないものでありました
砲弾は抛棄(ほうき)された
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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