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2011年5月15日 (日)

「ノート1924」幻の処女詩集の世界<49>(かつては私も)

(かつては私も)も
前作(秋の日を歩み疲れて)と同じ
下書き稿であり
詩形式もソネットであるという点で
両作品は
連続性を示していますが
(かつては私も)で
注目しておいたほうがよいのは
「処女詩集序」という詩との類似性です。
 
「処女詩集序」は
字義通り、
処女詩集の序のことで
序章とか序曲とかプロローグとか
本文(本節)の前に置かれる前置き(まえがき)に相当します

昭和2―3年頃に
計画し、編集作業を行った
初めての詩集の「序詩」が
「処女詩集序」とタイトルを付けられて
草稿として残っているのです

その「処女詩集序」の内容と
この(かつては私も)の内容が類似していて
未完の(かつては私も)を作ったあとで
同じモチーフで
「処女詩集序」を作ったものと推測されています

その昔私は
何にも後悔するようなことはなかった
実に頼もしく自分を信頼していたし
生きていることが無限のことに思えていた

けれども今は何もかも失ったのです
心苦しくなるほど大量にあった
真実の愛が
今は自分で疑うほどの夢になり
クラクラしている

偶然性、半端、木質
こんなものの上で
悲しげにボヘミアンよろしくとばかり
余裕をよそおったお世辞笑いだってできるようになりました

本当に愛していたから
ワルばかり言った昔よ
今どうなってしまったのか
忘れるつもりで酒を飲みにいって
帰ってくるなり
膝に両手を置いて
また思い出し
打ちのめされるのです

これを
詩集の序詩とするわけにはいきませんでした

やがて作られる
「処女詩集序」を
あわせて載せておきます

 *
 (かつては私も)

かつては私も
何にも後悔したことはなかつた
まことにたのもしい自尊のある時
人の生命(いのち)は無限であつた

けれどもいまは何もかも失つた
いと苦しい程多量であつた
まことの愛が
いまは自ら疑怪なくらゐくるめく夢で

偶性と半端と木質の上に
悲しげにボヘミヤンよろしくと
ゆつくりお世辞笑ひも出来る

愛するがために
悪弁であつた昔よいまはどうなつたか
忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 *
 処女詩集序

かつて私は一切の「立脚点」だつた。 
かつて私は一切の解釈だつた。
私は不思議な共通接線に額して 
倫理の最後の点をみた。
(あゝ、それらの美しい論法の一つ一つを 
いかにいまこゝに想起したいことか!)

     ※

その日私はお道化(どけ)る子供だつた。 
卑少な希望達の仲間となり馬鹿笑ひをつゞけてゐた。
(いかにその日の私の見窄(みすぼら)しかつたことか! 
いかにその日の私の神聖だったことか!)

     ※

私は完(まった)き従順の中に 
わづかに呼吸を見出してゐた。
私は羅馬婦人(ローマをんな)の笑顔や夕立跡の雲の上を、 
膝頭(がしら)で歩いてゐたやうなものだ。

     ※

これらの忘恩な生活の罰か? はたしてさうか? 
私は今日、統覚作用の一摧片(ひとかけら)をも持たぬ。
そうだ、私は十一月の曇り日の墓地を歩いてゐた、 
柊(ひいらぎ)の葉をみながら私は歩いてゐた。
その時私は何か?たしかに失った。

     ※

今では私は 
生命の動力学にしかすぎない―― 
自恃(じじ)をもつて私は、むづかる特権を感じます。
かくて私には歌がのこつた。 
たつた一つ、歌といふがのこつた。

     ※

私の歌を聴いてくれ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
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