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2011年7月

2011年7月31日 (日)

ランボー・ランボー<9>鈴木信太郎訳の「虱を捜す女」

日本のランボー受入れ史で、次に重大なのは、鈴木信太郎の「少年時」「花」「虱を捜す女」の翻訳である。「近代仏蘭西象徴詩抄」(春陽堂、大正13年9月)に収録、中原は大正14年末、「少年時」を上田敏訳「酔いどれ船」と共に筆写し(原稿用紙は「秋の愁嘆」<1925・10・7>と同種)、いっしょに綴じて保存していた。(「中原中也」角川文庫、昭和54年)

と大岡昇平が記している
大正14年末を
中原中也年譜でみてみると、

10月「秋の愁嘆」を書く。11月、富永太郎死去、24歳。同月、泰子、小林のもとへ去る。中也は中野に転居。しかし、その後も中也・小林・泰子の「奇怪な三角関係」(小林秀雄)は続く。この年の暮か翌年の初めごろ、宮沢賢治の詩集「春と修羅」を購入、以後愛読者となる。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

とあり
中原中也はまさしく「11月の事件」の
真っ只中にありました。
泰子の引っ越しを手伝ったりする
不覚の日々に入る前のことなのでしょうか
富永太郎は病臥に伏していた期間ですから
もっぱら
小林秀雄と頻繁に行き来していました。

この年前半の年譜は

3月10日、長谷川泰子とともに上京。戸塚に下宿。早稲田高等学院、日本大学予科を受験する予定だったが、受験日に遅刻するなどして受けられなかった。その後帰省して、東京で予備校に通う許可を得る。4月、富永太郎の紹介で小林秀雄を知る。5月、小林の家の近く、高円寺に転居。

とあり
まさしく小林秀雄との交流に集中していく
「運命」のような流れの中に
中原中也はありましたが
その小林秀雄との交流の中心に
ランボーがあったということになります。

中原中也と小林秀雄の交流の間には
長谷川泰子という女性があり
同時に
アルチュール・ランボーがあったということなのですが
このことが
同時に語られることは
ほとんどないということの
不思議、不自然に思い当たってしまいます。

この点については
いつか考えることにして
中原中也が
上田敏訳のランボー「酔ひどれ船」を筆写した2回目に
鈴木信太郎訳でランボー「少年時」を筆写し
これを一緒にして綴じておいたところに
焦点を戻します。

ランボーは
「酔ひどれ船」一つをとってみれば
同時代訳として

① 柳沢健訳 アルニュテル・ラムボオ「酔ひどれの舟」(大正3年)
② 上田敏訳 アルチュル・ランボオ「酔いどれ船」(大正12年)
③ 金子光晴訳 アルチュール・ランボオ「よいどれの舟」(大正14年)
④ 小林秀雄訳 あるちゆる らんぼお「酩酊船」(昭和6年)
⑤ 堀口大学訳 アルチュウル・ラムボオ「酔ひどれ船」(昭和9年)

があるほかに
上田敏訳には4種類の未定稿があり
佐藤朔の評論「酔ひどれ船」(昭和2年)中に
内容紹介があるという程度に
豊富なものではありませんでした。
(「新編中原中也全集第3巻翻訳・解題篇」)

そんな状況の中で
鈴木信太郎の「近代仏蘭西象徴詩抄」(春陽堂、大正13年9月)に
「少年時」「花」「虱を捜す女」の翻訳が収録されていたのは
ランボー解釈の数少ない手掛かりの一つだった
ということを大岡昇平は
言おうとしていたのだと考えられます。

いま手元に
鈴木信太郎訳の
「虱を捜す女」がありますから
ここで読んでおくことにしましょう。

(つづく)

*
虱を捜す女

紅の疼く痒さを をさな児は額に湛へ
おぼろかの夢の真白き簇(むらが)りを 求むる時に、
銀色の爪ある指もしなやかの二人の姉の
愛らしき姿は 忽然 児の臥床(とこ)のほとりに現る。

繚乱と咲きたる花を、涵(ひた)したる碧き大気に
広々と開け放たれし窓辺、児を 乙女は坐らせ、
露のたま滴り落つる 児の重き髪 かき分けて、
美しくまた恐しき 細き指 爪立てて掻く。

物怖ぢしその気息(いきづき)の奏でたる歌を 児は聴く。
植物の淡紅色の蜜の香の立罩むる息。
脣にはしる蟲醋唾(むしづ)か 接吻をもとむる慾か、
児の喘ぐ憂き溜息に 息の歌とぎれとぎれに。

香の盈てる沈黙の中に しばたたく黒き睫毛を
仄かに児は聞く。やはらかく また稲妻と走る指、
懶惰(けだる)さのほろ酔心地、華やかの爪と爪との
間には小さき虱の 音たてて潰るる命。

かくていま「懈怠」の酒の酔ひは、児の脳髄にのぼる、
興奮に狂はむとするハモニカの調べの吐息。
をさな児の心の中に、ゆるやかの愛撫のままに、
さめざめと泣かむ思ひは 絶間なく湧きて消え行く。

(「ランボオ全集第1巻 詩集」より、人文書院 昭和27年)

※なるべく新漢字を使用し、原作のルビは、難読字や訳者独特の読み以外を排し、( )内に記しましたが、現代カナに直しました。編者。

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2011年7月30日 (土)

ランボー・ランボー<8>鈴木信太郎訳の「酔ひどれ船」

小林秀雄は
「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(大正15年)を書いて後に
「アルチュル・ランボオⅡ」(昭和5年)
「ランボオの問題」(昭和22年、後に「ランボオⅢ」と改題)と
ランボー評論を3本著わしていて
さしあたり
中原中也生存中に書かれた
この「ランボオⅡ」を読んでおきたいところですが
いまそちらのほうへ行く余裕はありませんから
大正・昭和のランボー受容史のうち、
「酩酊船」(酔いどれ船)という「事件」を
もう少し書き進めておくことにします。

中原中也は
富永太郎を通じて
「酔ひどれ船」を
上田敏訳で読み
読むばかりか
3回も筆写します。

「ノート1924」の空きページに
第11連までを筆写したのが
大正13年秋、
原稿用紙へ全文筆写したのが
大正14年後半
同じく原稿用紙への全文筆写が
大正13年秋から同15年の間に行われ
これら筆写原稿3種類が
現存しています。

2回目の
大正14年後半の筆写原稿は
鈴木信太郎訳ランボーの「少年時」の筆写稿と
同一の原稿用紙に綴じられ
保存されていた(大岡昇平)ということで
上田敏以外の翻訳へも
詩人の目は向けられていたことを示すものです。

ならば
小林秀雄訳の「酩酊船」を
未定稿の段階で読むことはなかったのだろうか、とか
本邦初訳の柳沢健訳を読むことはなかったのだろうか、とかと
疑問は横っ飛びしていくのですが
いまのところ
それを明かす「事件」は
発見されていないようです。

しかし
鈴木信太郎訳は
全文ではなかったにせよ
公刊された出版物や
授業や
授業中に配られたブリーフィング(筆写稿)の類で
中原中也の目にとまったことが想像できます。

ランボーが案内されるからには
ポール・ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の
案内を通じたに違いなく
「呪われた詩人たち」を案内する鈴木信太郎や
辰野隆ら東京帝大の教官の言及の中に
「酔ひどれ船」が
案内されないことはなかったはずですから。

というわけで
ここで鈴木信太郎訳の
「酩酊船」を
読んでおくことにします。
「酔いどれ」ではなく
「酩酊」としているところは
小林秀雄も
これを参考にしている可能性が高いことを示しています。

(つづく)

*
酩酊船

非情の大河の溶々たる流れを 下り行きしとき(*1)、
水先の船曳どもの嚮導も いつしか覚えず。
赤肌の南蛮鴃舌(げきぜつ)、 船曳の弓矢の標的に引捕へ、
色鮮やかなる乱杙(らんぐい)に、赤裸、釘付けに射止めたり。

弗羅曼(フラマン)の小麦を積むか 英吉利の棉花を運ぶ輸送船、
わが乗組の奴原に 心残りはあらざりけり。
船曳どもの醸したる騒擾 今は収まりて、
意のままの水夫に 船は 大河を下りたり。

潮騒の哮り狂へる高鳴りの真中(さなか)(*2)を、曩(さき)の
冬なりき(*3)、幼き児らの脳髄より なほ耳鈍く、
馳駆したり。纜(ともづな)解かれし半島も、これに勝りて
誇らしき大混乱に陥りしためし無かりき。

その時 暴風は 海上のわが覚醒に祝福を浴せかけたり。
永劫に犠牲を転々するといふ 波濤の上に
コルクの栓よりなほ軽く 身を躍らせて、
夜は十夜、港の灯火の阿呆なる眼つきも悔いず。

爽やかに酸き林檎より 子供らにとりては甘き
緑なる海水は わが樅材の船体に滲み入り、
色青き葡萄酒の汚染、嘔吐の汚穢を
洗ひ浄めて、舵も失せたり、錨も失せたり(*4)。

この日より、星の光に注がれて、乳色に光り輝き、
碧瑠璃の空を啖(くら)ひて、大海の詩のただ中に
涵(ひた)りたり。その大海に、流れ行く、恍惚として
蒼ざめし吃水線の 水死人(*5) 時をり思ひに沈みつつ。

その大海に、忽焉と波の群青を色に染め、
金紅燦たる日の下の 錯乱か 緩るき韻律か、
アルコホルより強烈に、わが竪琴より壮大に
愛慾の苦き朱の痣 滾々として醗酵す。

電光(いなづま)に裂けたる空を、竜巻を、寄せては返す
海嘯(かいしょう)を、はた潮流を われは知る。また夕暮を、
一群の鳩をさながら 歓喜に満てる曙を われは知る。
また人間の見しと思ひし物相を 時をりは真に見たり(*6)。

神秘なる恐怖の色に染まりたる 低き落日
紫の長き凝固(*7)を 色彩りて耀(かがよ)ふ様を、
古代の劇の俳優の姿に似たる沖津波
鎧扉漏るる明暗の襞の顫へを転ばすを、われは見たり。

ゆくらゆくらに昇り来て 海の瞳(*8)に接吻(くちづ)くる、
燦々と眩(まばゆ)き雪の 緑の夜を、
未聞の生気溌剌と循環するを、はた 歌を
唄ふ燐光 黄に青に眼醒むるさまを、われ夢みたり。

幾月もまた幾月も、ヒステリイの激情に似し
大浪の 暗礁に襲ひかかるに随ひ行きて、
愚かやわれは知らざりき、マリヤの如き輝ける
尊き御足 息も喘げる大洋の面を覆ひて静め得んとは。

君知るや、世に不思議なるフロリダに船は衝突(あた)りぬ、
人間の皮膚の豹の眼の光 叢なす花に
入り乱れ、手綱の如く張り渡す七彩(なないろ)の虹、
水夫のさかひの下に、紺青の羊の群(*9)を率ゐたり。

巨大なる沼 沸き滾るを われ見たり、燈心草の
生ひ繁る中に怪獣レヴィアタンの腐爛せし魚簗(やな)。
また 大凪の唯中に 水 忽然と崩壊し、
深淵に向ひて 瀧と落下する 遙かなる景色を見たり。(*10)

氷河や、銀の太陽や、螺鈿の波や、火の空や、
褐色の入江の奥に 座礁せる醜き船や、
その船に、南京虫に喰はれたる大蛇蟒蛇(だいじゃうわばみ)、
黒き臭気を放ちつつ、拗れし樹より、墜落す。

をさな児に見せばや見せむ 紺碧の波間に遊ぶ
桜鯛、黄金の魚や、歌唄ふ魚。
――花と散る泡沫(みなわ)は 船の漂流をやさしく揺(ゆす)り、
言ふに言はれぬ微風は 時をりわれに翼をかしぬ。

また或る時は、両極と地帯の旅に倦き果てし
殉教者、わが心地よき横揺れを 海の嗚咽はゆさぶりて(*11)、
黄の吸角(すいだま)ある影の花を 海 わが方に挿頭(かざ)したり、
われはそのまま座し居たり、女性の跪坐(ひざまず)けるごと……

宛然(さながら) 島のごとくなり(*12) さはれこの島 舷(ふなべり)に 声甲高き
金色の眼の群鳥の喧噪と糞とを 軽く揺りたり。
なほ漂うてゆくほどに、わが細索を横切りて、
逆に流れて、水死人(*13) 眠りに落ち行くものありき……

さて われは、颶風(はやて)によりて 鳥飛ばぬ虚空の中に
投げられて、入江の髪の藻の下に 難破せる船、
よしや 海防艦なりと ハンザの帆前船なりと、
水に浸りて酔ひ痴れしこの形骸を いかで拾はむ。

思ひのままにのびのびと、煙を吐きて、紫の霞を乗せて、
赤味を帯びたる大空を 壁の如くに 刳(く)り抜きし船、
積みたるは、太陽の蘚苔(こけ) 蒼空の鼻汁(はな)、
世の中の詩人の輩に 至上の美味の砂糖菓子。

火花を撒(ち)らす衛星の光を浴びて駆(かけ)りし われ、
黒き海馬に護衛され、踊り狂へる板子の船。
折しもあれや、七月は 燃ゆる漏斗の碧瑠璃の
空を 忽ち棍棒の乱打に 崩壊し了(おわ)んぬ(*14)。

五十里の彼方に、ベヘモの発情と 轟々たるマルストロムの
渦巻と 呻く気配を感じては 戦き顫へしわれながら、
碧き不動の大海より 永劫に浪を紡ぐ われ、
昔ながら胸壁に取囲まれし欧羅巴の 懐しきかな(*15)。

われは 星座の群島を、島嶼(しまじま)の無数を 見たり、
その錯乱せる天空は この漂泊人(たびびと)に開かれたり。
――底無しのかかる夜な夜な 汝は 眠りて流浪すや、
おお、百万の金色の鳥よ、未来を創造(つく)る生気よ――

されど、げに、余りにわれは泣きたりき。あけぼのは
胸を抉りて痛し。月 なべて無慙に、日は なべて苦し。
苛酷の恋は 酔ひ痴れし麻痺に 心を満たしたり。
おお、龍骨よ 破裂せよ。おお、海底にわれを沈めよ。

若しわれにして欧羅巴の、今なほ、水を望むとせば、
そは 冷やかなる黝き隠沼(こもりぬ)、風薫る夕暮どきに、
悲しみの溢るる童子 蹲踞(うずくま)りて、五月の蝶を
さながらの木葉の小舟を放ちやる 森の水沼(みぬま)。

噫、波よ、ひとたび汝の倦怠を浴びたる(*16)われは、
棉花積む船の曳く水尾(みお)を追ふ流離(さすらい)も(*17)、
旌旗(はた)と焔の驕慢の真中(さなか)を貫く彷徨(*18)も、
はた船橋の恐しき眼を掻潜(かいくぐ)る漂流(*19)も、終ひに叶はずなり果てたり矣。

<脚注>
*1 高踏的詩の世界。
*2 革命の世界。
*3 1871年2月か。
*4 革命に難破して漂流する。
*5 自己の酩酊船
*6 ランボオの詩の世界。即ち、ヴォアイアン(見者)の世界。
*7 ボオドレエル「夕の諧調」参照。
*8 細波。
*9 うねり波。
*10 驟雨遠望。
*11 酩酊船静かに流れる。
*12 酩酊船。
*13 過去の詩の世界の詩人達。
*14 酩酊船難破。
*15 見者の世界を脱出。
*16 脱出せる見者の世界。
*17 高踏的詩の世界。
*18 革命の世界。
*19 見者の世界。

(「ランボオ全集第1巻 詩集」より、人文書院 昭和27年)

※なるべく新漢字を使用し、原作のルビは、難読字や訳者独特の読み以外を排し、( )内に記しましたが、現代カナに直しました。また、脚注は、*と番号をつけて、末尾にまとめました。原作には、傍点が3箇所にありますが、省略しました。編者。

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2011年7月29日 (金)

ランボー・ランボー<7>最後の斫断―「地獄の季節」へ

小林秀雄は
「酩酊船」の最終3連

想へば、よく泣きたるわれかな。来る曙は胸を抉(えぐ)り、
月はむごたらし、陽(ひ)は苦(にが)し。
切なる恋に酔ひしれし、わが心は痺れたり。
龍骨よ、砕けよ、あゝ、われは海に死なむ。

今、われ欧洲の水を望むとも、
はや冷え冷えと黒き池、吹く風薫る夕まぐれ、
悲しみ余り、をさな児が、蹲(うずくま)つてはその上に、
五月の蝶にさながらの、笹舟を放つ池かな。

あゝ波よ、ひとたび汝(なれ)が倦怠に浴しては、
綿船(わたぶね)の水脈(みを)ひく跡を、奪ひもならず、
標旗(はた)の焰の驕慢を、横切(よぎ)りもならず、
船橋(せんけう)の恐ろしき眼をかいくゞり、泳ぎもならじ。

を呼び出し

ランボオの詩弦(リイル)は、最初から聊(いささ)かの感傷の痕も持たない。彼は、野人の恐ろしく劇的な触角をもって、触れるものすべてを斫断する事から始めた。それは不幸な事であった。その初期の作る処は、その煌(きらめ)く断面の羅列なのである。

と解釈を加えて
「人生斫断家ランボオ」は
証明されたものとされます。

ランボーの歌う詩は
ことごとくが
斫断された断面
キラキラと輝く断面の羅列である、と読まれました。

つづけて
ボーオドレールの人生嫌厭が
人生を斫断しないのに
ランボーの人生嫌厭は
人生のあらゆる局面を斫断する

ベルレーヌは
無意識な生活者であったのに
ランボーは
意識的な生活者であった

このようなことを
韜晦(とうかい)にくるんで
思惟し
今度は
「最高塔の歌」を呼び出して
ランボー最後の斫断――「地獄の季節」への道のりをたどるのです

斫断の末に
ランボーは
アフリカの砂漠に消えてゆきます。

吾々は、はや砂漠の如く退屈な、砂漠の如く無味な、然し砂漠の如く純粋な彼の書簡集のみしか読む事が出来ない。

「人生斫断家アルチュル・ランボオ」を
ざっとたどれば
このようになります。

ジンセイシャクダンカ アルチュル・ランボオ

何度繰り返しても
舌を噛みそうですが……
これが
アルチュール・ランボーへ接近するための
案内として
戦中戦後をくぐり抜け
今も読み継がれている思惟の書であることに
いささかの揺るぎもないのです。

(つづく)

*
酩酊船

われ、非情の河より河を下りしが、
船曳(ふなひき)の綱のいざなひ、いつか覚えず。
罵り騒ぐ蛮人は、船曳等(やつら)を標的(まと)に引つ捕へ、
彩色(いろ)とりどりに立ち並ぶ、杭(くひ)に赤裸(はだか)に釘付けぬ。

船員も船具も今は何かせん。
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船(わたぶね)よ。
わが船曳等(ふなひきら)の去りてより、騒擾(さわぎ)の声もはやあらず、
流れ流れて思ふまゝ、われは下りき。

怒り高鳴る潮騒(しおさゐ)を、小児等(こどもら)の脳髄ほどにもきゝ判(わ)けず、
われ流浪(さすら)ひしはいつの冬(ひ)か。
纜(ともづな)ときし半島も、この揚々(やうやう)たる混沌を、
忍びしためしはなしと聞く。

嵐来て、わが航海の眼醒めを祝ひてより、
人呼んで、永劫の犠牲者(にへ)の運搬者(はこびて)といふ波の上、
身はコルクの栓よりなほ軽く、跳り狂ひて艫(とも)の灯の、
惚(ほほ)けたる眼を顧みず、われ漂流ひて幾夜へし。

小児等(こどもら)の囓(かぶ)りつく酸き林檎の果(にく)よりなほ甘く、
緑の海水(みず)は樅材(もみ)の船身(ふないた)に滲み通り
洗ひしものは安酒の汚点(しみ)、反吐(へど)の汚点(しみ)、
船は流れぬ、錨も失せぬ。

さて、われらはこの日より、星を注ぎて乳汁色(ちちいろ)の、
海原の詩(うた)に浴しつゝ、緑なす瑠璃を啖(くら)ひ行けば、
こゝ吃水線(きっすい)は恍惚として蒼ぐもり、
折から水死人のたゞ一人、想ひに沈み降(くだ)り行く。

見よ、その蒼き色、忽然として色を染め、
金紅色(きんこうしょく)の日の下(もと)に、われを忘れし揺蕩(たゆたい)は、
酒清よりもなほ強く、汝(なれ)が立琴(りいる)も歌ひえぬ。
愛執の苦き赤痣(あかあざ)を醸(かも)すなり。

われは知る、稲妻に裂かるゝ空を、龍巻を、
また寄せ返す波頭(なみ)、走る潮流(みず)、夕(ゆうべ)送れば、
曙光(あけぼの)は、むれ立つ鳩かと湧きたちて、
時に、この眼の視しものを、他人(ひと)は夢かと惑ふらむ。

不可思議の怖れに染みし落日に、
紫にたなびく凝結(こごり)赫(かがよ)うて、
沖津波、襞(ひだ)を顫(ふる)はせ揺れ動き、
古代の劇の俳優も、かくやとわれは眺めけり。

まばゆきばかり雪の降り、夜空の色は緑さし、
海を離れてゆらゆらと、昇る接吻(くちづけ)も眼のあたり。
未聞(みもん)の生気(せいき)はたゞよひて、歌ふが如き燐光の
青色(あお)に黄色に眼醒むるを、われはまた夢みたり。

愚なり、われは幾月もまた幾月も、
ヒステリィの牛舎さながらの大波(たいは)暗礁を襲ふに従ひぬ。
知らず、若しマリヤそのまばゆき御足(みあし)のあらば、
いきだはしき大洋に大洋に猿轡(さるぐつわ)かませ給ふを。

船は衝突(あた)りぬ、君知るや、世に不思議なるフロリダ洲。
人間(ひと)の皮膚(はだへ)の豹の眼は、叢(むら)なす花に入り交り、
海路(うみじ)はるかの沖津方(おきつかた)、青緑色の羊群に、
太靱(たづな)の如き虹を掛く。

われは見ぬ、沼々は醱酵し、巨(おおい)なる魚梁(やな)のあるを。
燈心草(とうしんぐさ)は生(おい)茂り、腐爛(ふらん)せるレヴィンヤタンの一眷族(け
んぞく)。
大凪(おおなぎ)のうちに水は崩れ逆(さか)巻きて、
遠方(おちかた)は深淵(ふち)か滝津瀬か。

氷の河に白銀(しらがね)の太陽(ひ)、真珠の波や熾(おき)の空、
褐色(かちいろ)の入江の底深く、目も当てられぬ坐洲(ざす)のさま。
蚜虫(くさむし)に食はれたゞれたる大蛇(おろち)のあまた群がりて、
黒き香をあげ、捩(ね)じ曲る樹木よりどうと墜(お)つるなり。

小児等(こどもら)のあらば見せまほし、
黄金(こがね)の魚(さかな)、歌うたふ魚、青海原に浮ぶ鯛、
水泡(みなわ)がくれた花々、わが漂流を賞(ほ)めそやし、
時に、得も言われぬ風ありて、われに羽(はね)を貸しぬ。

また、ある時は殉教者、地極(ちきょく)に地帯(ちたい)に飽きはてゝ
海すゝり泣く声きけば、僅か慰む千鳥足。
黄(き)の吸角(すひだま)ある影の花、海わが方(かた)にかざす時、
われは、膝つく女の如く動かざりき。

わが船舷(ふなべり)をおほひて、半島は金褐色(きんかっしょく)の眼をむきて、
哮(たけ)り、嘲(あざけ)り、海鳥(かいてう)の争ひと糞(くそ)とを打ち振ふ。
せん術(すべ)なくて漂へば、脆弱(もろ)き鎖を横切りて、
また水死者の幾人(いくたり)か、逆様(さかしま)に眠り降(くだ)りゆきぬ。

されど、われ船となりて浦々の乱れし髪に踏み迷ひ、
嵐来て島棲まぬ気層(そら)に投げられては、
海防艦(もにとる)もハンザの帆走船(ふね)も、
水に酔(ゑ)ひたるわが屍(むくろ)、いかで救はむ。

思ふがまゝに煙吹き、菫(すみれ)の色の靄(もや)にのり、
赤壁(あかかべ)の空に穴を穿(うが)てるわれなりき。
詩人奴(め)が指を銜(くは)へる砂糖菓子、
太陽の瘡(かさ)、青空の鼻汁(はな)を何かせん。

身は狂ほしき板子(いたご)かな。
閃電(ひばな)を散らす衛星(ほし)に染み、黒き海馬(かいば)の供廻(ともまは)り。
それ、革命の七月は、丸太棒(まるたんぼう)の一とたゝき、
燃ゆる漏斗(ろうと)の形せる、紺青の空をぶちのめす。

五十海里の彼方(かなた)にて、ベヘモと巨盤渦(うず)の交尾する、
怨嗟(えんさ)のうめきに胸(とむね)つき、慄へしわれぞ。
永劫に蒼ざめし嗜眠(ねむり)を紡(つむ)ぐはわれぞ。
あゝ、昔ながらの胸墻(かべ)に拠(よ)る、欧羅巴(ヨーロッパ)を惜しむはわれか。

見ずや、天体の群鳥を、
島嶼(しまじま)、その錯乱の天を、渡海者(たびびと)に開放(はな)てるを。
そも、この底無しの夜(よ)を、汝(なれ)は眠りて流れしか。
あゝ、金色(こんじき)の島の幾百万、当来の生気(せいき)はいづこにありや。

想へば、よく泣きたるわれかな。来る曙は胸を抉(えぐ)り、
月はむごたらし、陽(ひ)は苦(にが)し。
切なる恋に酔ひしれし、わが心は痺れたり。
龍骨よ、砕けよ、あゝ、われは海に死なむ。

今、われ欧洲の水を望むとも、
はや冷え冷えと黒き池、吹く風薫る夕まぐれ、
悲しみ余り、をさな児が、蹲(うずくま)つてはその上に、
五月の蝶にさながらの、笹舟を放つ池かな。

あゝ波よ、ひとたび汝(なれ)が倦怠に浴しては、
綿船(わたぶね)の水脈(みを)ひく跡を、奪ひもならず、
標旗(はた)の焰の驕慢を、横切(よぎ)りもならず、
船橋(せんけう)の恐ろしき眼をかいくゞり、泳ぎもならじ。

(小林秀雄「考えるヒント4 ランボオ・中原中也」所収「ランボオ詩抄」文春文庫より)
※原作のルビは、( )内に記しました。編者。

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2011年7月28日 (木)

ランボー・ランボー<6>生のクリティーク

「人生斫断家アルチュル・ランボオ」とは
何故また難解な漢語を
ランボーに冠したのか――
「斫」は、音読みで「シャク」というのは
扁の「石」を「シャク」と読むことから類推できますが
「斫る」を「はつる」と訓読みすることを知って
はじめて、ああ、「削り、切り刻む」の意味か――
ならば
「斫断」は、粉砕や破壊の類語か――

などと段々近づいてきたようですが
「人生斫断家」となれば
人生破壊者か人生粉砕者か
いずれにせよ
人生は目的格で
「人生を破壊する者」「人生を粉砕する者」ということになってきます

おおむね
このあたりの意味で間違いはないようなのですが
これらの意味を含みつつ
「クリティーク」「批判者」「批評家」くらいに意訳すれば
ようやく
落ち着いてくるかもしれません。

人生で触れるあらゆるものを
批判しないではいられない
詩人アルチュール・ランボー

中原中也が
「ラムボオは自分のクリティックに魅領された。それが不可なかつた」と
昭和2年11月4日の日記に記したのと同じ意味で
「人生斫断家」とは
「生のクリティーク」と
言い替えて可能かもしれません。

この難解さは
本文に入っても冒頭の有名な

この孛星(はいせい)が、不思議な人間厭嫌の光を放ってフランス文学の大空を掠(かす)めたのは、1870年より73年まで、16歳で、既に天才の表現を獲得してから、19歳で、自らその美神を絞殺するに至るまで、僅かに3年の期間である。

を読み始めれば
続けられることが分かるのであって
「孛星(はいせい)」は
箒星(ほうきぼし)の異称
「厭嫌」は
文字面(もじづら)通りの意味
要所要所で
難解字に遭遇しても
辞書首っ引きで突破すれば
なんとか付いていけます。

「酩酊の船」は瑰麗な夢を満載して解纜する。

と書き出されて
韻文作品「酩酊船」の冒頭2連は
解剖されます。

これを記した
大正15年以前に
小林秀雄は
当然ながら
「酩酊船」を読み
自ら翻訳していたということになりますが

われ、非情の河より河を下りしが、
船曳(ふなひき)の綱のいざなひ、いつか覚えず。
罵り騒ぐ蛮人は、船曳等(やつら)を標的(まと)に引つ捕へ、
彩色(いろ)とりどりに立ち並ぶ、杭(くひ)に赤裸(はだか)に釘付けぬ。

船員も船具も今は何かせん。
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船(わたぶね)よ。
わが船曳等(ふなひきら)の去りてより、騒擾(さわぎ)の声もはやあらず、
流れ流れて思ふまゝ、われは下りき。

この2連は

この作品後、彼が若し一行でも書く事をしたらこの作は諒解出来ないものとなると言う事実にある事を忘れてはならない

彼は、逃走する美神を、自意識の背後から傍観したのではない。彼は美神を捕えて刺違えたのである。

と「地獄の季節」について書かれた後に
それを実証するための例として
引用されたことが
注意深く読むと理解できます。

このくだりは

小林には富永が「地獄の一季節」を読みながら、詩作を続けられるのが不思議に見えたという

と記した
大岡昇平の発言(角川文庫「中原中也」)を
念頭に入れながら読むと
いっそう
立体的に読めるところです。

冒頭2連のこの引用の後
すぐに

彼はこの船の水底に、痛ましくも来るべき破船の予兆が揺曳するのを眺めなかったか。彼はこの時既に死につつある作家であった。

と断言されますが
「酩酊船」は
次に最終3連が引用されて
解体を終えられ
「人生斫断家ランボー」が
証明されてゆきます。

彼は、野人の恐ろしく劇的な触角をもって、触れるものすべてを斫断する事から始めた。それは不幸な事であった。(「ランボーⅠ」)

(つづく)

*
酩酊船

われ、非情の河より河を下りしが、
船曳(ふなひき)の綱のいざなひ、いつか覚えず。
罵り騒ぐ蛮人は、船曳等(やつら)を標的(まと)に引つ捕へ、
彩色(いろ)とりどりに立ち並ぶ、杭(くひ)に赤裸(はだか)に釘付けぬ。

船員も船具も今は何かせん。
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船(わたぶね)よ。
わが船曳等(ふなひきら)の去りてより、騒擾(さわぎ)の声もはやあらず、
流れ流れて思ふまゝ、われは下りき。

怒り高鳴る潮騒(しおさゐ)を、小児等(こどもら)の脳髄ほどにもきゝ判(わ)けず、
われ流浪(さすら)ひしはいつの冬(ひ)か。
纜(ともづな)ときし半島も、この揚々(やうやう)たる混沌を、
忍びしためしはなしと聞く。

嵐来て、わが航海の眼醒めを祝ひてより、
人呼んで、永劫の犠牲者(にへ)の運搬者(はこびて)といふ波の上、
身はコルクの栓よりなほ軽く、跳り狂ひて艫(とも)の灯の、
惚(ほほ)けたる眼を顧みず、われ漂流ひて幾夜へし。

小児等(こどもら)の囓(かぶ)りつく酸き林檎の果(にく)よりなほ甘く、
緑の海水(みず)は樅材(もみ)の船身(ふないた)に滲み通り
洗ひしものは安酒の汚点(しみ)、反吐(へど)の汚点(しみ)、
船は流れぬ、錨も失せぬ。

さて、われらはこの日より、星を注ぎて乳汁色(ちちいろ)の、
海原の詩(うた)に浴しつゝ、緑なす瑠璃を啖(くら)ひ行けば、
こゝ吃水線(きっすい)は恍惚として蒼ぐもり、
折から水死人のたゞ一人、想ひに沈み降(くだ)り行く。

見よ、その蒼き色、忽然として色を染め、
金紅色(きんこうしょく)の日の下(もと)に、われを忘れし揺蕩(たゆたい)は、
酒清よりもなほ強く、汝(なれ)が立琴(りいる)も歌ひえぬ。
愛執の苦き赤痣(あかあざ)を醸(かも)すなり。

われは知る、稲妻に裂かるゝ空を、龍巻を、
また寄せ返す波頭(なみ)、走る潮流(みず)、夕(ゆうべ)送れば、
曙光(あけぼの)は、むれ立つ鳩かと湧きたちて、
時に、この眼の視しものを、他人(ひと)は夢かと惑ふらむ。

不可思議の怖れに染みし落日に、
紫にたなびく凝結(こごり)赫(かがよ)うて、
沖津波、襞(ひだ)を顫(ふる)はせ揺れ動き、
古代の劇の俳優も、かくやとわれは眺めけり。

まばゆきばかり雪の降り、夜空の色は緑さし、
海を離れてゆらゆらと、昇る接吻(くちづけ)も眼のあたり。
未聞(みもん)の生気(せいき)はたゞよひて、歌ふが如き燐光の
青色(あお)に黄色に眼醒むるを、われはまた夢みたり。

愚なり、われは幾月もまた幾月も、
ヒステリィの牛舎さながらの大波(たいは)暗礁を襲ふに従ひぬ。
知らず、若しマリヤそのまばゆき御足(みあし)のあらば、
いきだはしき大洋に大洋に猿轡(さるぐつわ)かませ給ふを。

船は衝突(あた)りぬ、君知るや、世に不思議なるフロリダ洲。
人間(ひと)の皮膚(はだへ)の豹の眼は、叢(むら)なす花に入り交り、
海路(うみじ)はるかの沖津方(おきつかた)、青緑色の羊群に、
太靱(たづな)の如き虹を掛く。

われは見ぬ、沼々は醱酵し、巨(おおい)なる魚梁(やな)のあるを。
燈心草(とうしんぐさ)は生(おい)茂り、腐爛(ふらん)せるレヴィンヤタンの一眷族(け
んぞく)。
大凪(おおなぎ)のうちに水は崩れ逆(さか)巻きて、
遠方(おちかた)は深淵(ふち)か滝津瀬か。

氷の河に白銀(しらがね)の太陽(ひ)、真珠の波や熾(おき)の空、
褐色(かちいろ)の入江の底深く、目も当てられぬ坐洲(ざす)のさま。
蚜虫(くさむし)に食はれたゞれたる大蛇(おろち)のあまた群がりて、
黒き香をあげ、捩(ね)じ曲る樹木よりどうと墜(お)つるなり。

小児等(こどもら)のあらば見せまほし、
黄金(こがね)の魚(さかな)、歌うたふ魚、青海原に浮ぶ鯛、
水泡(みなわ)がくれた花々、わが漂流を賞(ほ)めそやし、
時に、得も言われぬ風ありて、われに羽(はね)を貸しぬ。

また、ある時は殉教者、地極(ちきょく)に地帯(ちたい)に飽きはてゝ
海すゝり泣く声きけば、僅か慰む千鳥足。
黄(き)の吸角(すひだま)ある影の花、海わが方(かた)にかざす時、
われは、膝つく女の如く動かざりき。

わが船舷(ふなべり)をおほひて、半島は金褐色(きんかっしょく)の眼をむきて、
哮(たけ)り、嘲(あざけ)り、海鳥(かいてう)の争ひと糞(くそ)とを打ち振ふ。
せん術(すべ)なくて漂へば、脆弱(もろ)き鎖を横切りて、
また水死者の幾人(いくたり)か、逆様(さかしま)に眠り降(くだ)りゆきぬ。

されど、われ船となりて浦々の乱れし髪に踏み迷ひ、
嵐来て島棲まぬ気層(そら)に投げられては、
海防艦(もにとる)もハンザの帆走船(ふね)も、
水に酔(ゑ)ひたるわが屍(むくろ)、いかで救はむ。

思ふがまゝに煙吹き、菫(すみれ)の色の靄(もや)にのり、
赤壁(あかかべ)の空に穴を穿(うが)てるわれなりき。
詩人奴(め)が指を銜(くは)へる砂糖菓子、
太陽の瘡(かさ)、青空の鼻汁(はな)を何かせん。

身は狂ほしき板子(いたご)かな。
閃電(ひばな)を散らす衛星(ほし)に染み、黒き海馬(かいば)の供廻(ともまは)り。
それ、革命の七月は、丸太棒(まるたんぼう)の一とたゝき、
燃ゆる漏斗(ろうと)の形せる、紺青の空をぶちのめす。

五十海里の彼方(かなた)にて、ベヘモと巨盤渦(うず)の交尾する、
怨嗟(えんさ)のうめきに胸(とむね)つき、慄へしわれぞ。
永劫に蒼ざめし嗜眠(ねむり)を紡(つむ)ぐはわれぞ。
あゝ、昔ながらの胸墻(かべ)に拠(よ)る、欧羅巴(ヨーロッパ)を惜しむはわれか。

見ずや、天体の群鳥を、
島嶼(しまじま)、その錯乱の天を、渡海者(たびびと)に開放(はな)てるを。
そも、この底無しの夜(よ)を、汝(なれ)は眠りて流れしか。
あゝ、金色(こんじき)の島の幾百万、当来の生気(せいき)はいづこにありや。

想へば、よく泣きたるわれかな。来る曙は胸を抉(えぐ)り、
月はむごたらし、陽(ひ)は苦(にが)し。
切なる恋に酔ひしれし、わが心は痺れたり。
龍骨よ、砕けよ、あゝ、われは海に死なむ。

今、われ欧洲の水を望むとも、
はや冷え冷えと黒き池、吹く風薫る夕まぐれ、
悲しみ余り、をさな児が、蹲(うずくま)つてはその上に、
五月の蝶にさながらの、笹舟を放つ池かな。

あゝ波よ、ひとたび汝(なれ)が倦怠に浴しては、
綿船(わたぶね)の水脈(みを)ひく跡を、奪ひもならず、
標旗(はた)の焰の驕慢を、横切(よぎ)りもならず、
船橋(せんけう)の恐ろしき眼をかいくゞり、泳ぎもならじ。

(小林秀雄「考えるヒント4 ランボオ・中原中也」所収「ランボオ詩抄」文春文庫より)
※原作のルビは、( )内に記しました。編者。

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2011年7月27日 (水)

ランボー・ランボー<5>小林秀雄の「人生斫断家アルチュル・ランボオ」

「事件」は
フランスの片田舎シャルルビルの青年アルチュール・ランボーが
パリで名声を博する詩人ポール・ベルレーヌに送った
1通の手紙、
その中に同封されていた一篇の詩
「酔いどれ船」に端を発したのですが
この「事件」のニュースそのものはやがて
世界各地へ飛び火し
日本では
大正3年、福島県は会津若松出身の青年詩人・柳沢健とその周辺
そして
中央文壇、中央翻訳界のリーダー・上田敏や
上田敏の後輩である堀口大学、山内義雄ら翻訳の専門家らへ
または東京帝大フランス文学科の教官、辰野隆や鈴木信太郎へ
その授業を聴講するあまたの学生へと引火し
その一例として
東京神田の古本街をふらついていた東大生、小林秀雄に火傷(やけど)を負わし
その友人である学生詩人・富永太郎が遊んでいる旅先、京都へショートし
富永太郎が京都で知ったばかりのダダイスト詩人、中原中也へと延焼
……
と、以上の他の軌跡
文壇、詩壇、論壇のプロやフランス文学者らを含め
さまざまなルートを描いて
じわじわと燃え広がって
こんどはそれぞれの場所で
新たな「事件」を起こしていったのでした。

小林秀雄が
東京帝大仏文科に在学中の
大正15年(1926年)10月に発表した
「人生斫断家アルチュル・ランボオ」は
ランボーの散文詩「地獄の季節」を

この作品後、彼が若し一行でも書く事をしたらこの作は諒解出来ないものとなると言う
事実にある事を忘れてはならない

と読み
この読みを証明するために
ランボーの略歴をなぞり
ボードレールとの違いや
ベルレーヌとの違いに触れ
「酩酊船」を解読し
「最高塔の歌」を解読し
その結果を
「人生斫断家」という切り口でジャッジした
ランボーに関する初の評論でした。

「佛蘭西文學研究」(東京帝國大學佛文學研究室編輯、白水社)に初出になった
この「人生斫断家アルチュル・ランボオ」は後に
小林秀雄の卒業論文にもなりますが
「日本のランボー観に新しい方向を与えた」
という評価(大岡昇平)を得るような
傑出したランボー論でありつづけ
2011年現在でも「古典」のような位置にあります。

中に
「酩酊船」の小林自身の訳出があり
解読がありますから
これをひもといておくことにします。

(つづく)

*
酩酊船

われ、非情の河より河を下りしが、
船曳(ふなひき)の綱のいざなひ、いつか覚えず。
罵り騒ぐ蛮人は、船曳等(やつら)を標的(まと)に引つ捕へ、
彩色(いろ)とりどりに立ち並ぶ、杭(くひ)に赤裸(はだか)に釘付けぬ。

船員も船具も今は何かせん。
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船(わたぶね)よ。
わが船曳等(ふなひきら)の去りてより、騒擾(さわぎ)の声もはやあらず、
流れ流れて思ふまゝ、われは下りき。

怒り高鳴る潮騒(しおさゐ)を、小児等(こどもら)の脳髄ほどにもきゝ判(わ)けず、
われ流浪(さすら)ひしはいつの冬(ひ)か。
纜(ともづな)ときし半島も、この揚々(やうやう)たる混沌を、
忍びしためしはなしと聞く。

嵐来て、わが航海の眼醒めを祝ひてより、
人呼んで、永劫の犠牲者(にへ)の運搬者(はこびて)といふ波の上、
身はコルクの栓よりなほ軽く、跳り狂ひて艫(とも)の灯の、
惚(ほほ)けたる眼を顧みず、われ漂流ひて幾夜へし。

小児等(こどもら)の囓(かぶ)りつく酸き林檎の果(にく)よりなほ甘く、
緑の海水(みず)は樅材(もみ)の船身(ふないた)に滲み通り
洗ひしものは安酒の汚点(しみ)、反吐(へど)の汚点(しみ)、
船は流れぬ、錨も失せぬ。

さて、われらはこの日より、星を注ぎて乳汁色(ちちいろ)の、
海原の詩(うた)に浴しつゝ、緑なす瑠璃を啖(くら)ひ行けば、
こゝ吃水線(きっすい)は恍惚として蒼ぐもり、
折から水死人のたゞ一人、想ひに沈み降(くだ)り行く。

見よ、その蒼き色、忽然として色を染め、
金紅色(きんこうしょく)の日の下(もと)に、われを忘れし揺蕩(たゆたい)は、
酒清よりもなほ強く、汝(なれ)が立琴(りいる)も歌ひえぬ。
愛執の苦き赤痣(あかあざ)を醸(かも)すなり。

われは知る、稲妻に裂かるゝ空を、龍巻を、
また寄せ返す波頭(なみ)、走る潮流(みず)、夕(ゆうべ)送れば、
曙光(あけぼの)は、むれ立つ鳩かと湧きたちて、
時に、この眼の視しものを、他人(ひと)は夢かと惑ふらむ。

不可思議の怖れに染みし落日に、
紫にたなびく凝結(こごり)赫(かがよ)うて、
沖津波、襞(ひだ)を顫(ふる)はせ揺れ動き、
古代の劇の俳優も、かくやとわれは眺めけり。

まばゆきばかり雪の降り、夜空の色は緑さし、
海を離れてゆらゆらと、昇る接吻(くちづけ)も眼のあたり。
未聞(みもん)の生気(せいき)はたゞよひて、歌ふが如き燐光の
青色(あお)に黄色に眼醒むるを、われはまた夢みたり。

愚なり、われは幾月もまた幾月も、
ヒステリィの牛舎さながらの大波(たいは)暗礁を襲ふに従ひぬ。
知らず、若しマリヤそのまばゆき御足(みあし)のあらば、
いきだはしき大洋に大洋に猿轡(さるぐつわ)かませ給ふを。

船は衝突(あた)りぬ、君知るや、世に不思議なるフロリダ洲。
人間(ひと)の皮膚(はだへ)の豹の眼は、叢(むら)なす花に入り交り、
海路(うみじ)はるかの沖津方(おきつかた)、青緑色の羊群に、
太靱(たづな)の如き虹を掛く。

われは見ぬ、沼々は醱酵し、巨(おおい)なる魚梁(やな)のあるを。
燈心草(とうしんぐさ)は生(おい)茂り、腐爛(ふらん)せるレヴィンヤタンの一眷族(け
んぞく)。
大凪(おおなぎ)のうちに水は崩れ逆(さか)巻きて、
遠方(おちかた)は深淵(ふち)か滝津瀬か。

氷の河に白銀(しらがね)の太陽(ひ)、真珠の波や熾(おき)の空、
褐色(かちいろ)の入江の底深く、目も当てられぬ坐洲(ざす)のさま。
蚜虫(くさむし)に食はれたゞれたる大蛇(おろち)のあまた群がりて、
黒き香をあげ、捩(ね)じ曲る樹木よりどうと墜(お)つるなり。

小児等(こどもら)のあらば見せまほし、
黄金(こがね)の魚(さかな)、歌うたふ魚、青海原に浮ぶ鯛、
水泡(みなわ)がくれた花々、わが漂流を賞(ほ)めそやし、
時に、得も言われぬ風ありて、われに羽(はね)を貸しぬ。

また、ある時は殉教者、地極(ちきょく)に地帯(ちたい)に飽きはてゝ
海すゝり泣く声きけば、僅か慰む千鳥足。
黄(き)の吸角(すひだま)ある影の花、海わが方(かた)にかざす時、
われは、膝つく女の如く動かざりき。

わが船舷(ふなべり)をおほひて、半島は金褐色(きんかっしょく)の眼をむきて、
哮(たけ)り、嘲(あざけ)り、海鳥(かいてう)の争ひと糞(くそ)とを打ち振ふ。
せん術(すべ)なくて漂へば、脆弱(もろ)き鎖を横切りて、
また水死者の幾人(いくたり)か、逆様(さかしま)に眠り降(くだ)りゆきぬ。

されど、われ船となりて浦々の乱れし髪に踏み迷ひ、
嵐来て島棲まぬ気層(そら)に投げられては、
海防艦(もにとる)もハンザの帆走船(ふね)も、
水に酔(ゑ)ひたるわが屍(むくろ)、いかで救はむ。

思ふがまゝに煙吹き、菫(すみれ)の色の靄(もや)にのり、
赤壁(あかかべ)の空に穴を穿(うが)てるわれなりき。
詩人奴(め)が指を銜(くは)へる砂糖菓子、
太陽の瘡(かさ)、青空の鼻汁(はな)を何かせん。

身は狂ほしき板子(いたご)かな。
閃電(ひばな)を散らす衛星(ほし)に染み、黒き海馬(かいば)の供廻(ともまは)り。
それ、革命の七月は、丸太棒(まるたんぼう)の一とたゝき、
燃ゆる漏斗(ろうと)の形せる、紺青の空をぶちのめす。

五十海里の彼方(かなた)にて、ベヘモと巨盤渦(うず)の交尾する、
怨嗟(えんさ)のうめきに胸(とむね)つき、慄へしわれぞ。
永劫に蒼ざめし嗜眠(ねむり)を紡(つむ)ぐはわれぞ。
あゝ、昔ながらの胸墻(かべ)に拠(よ)る、欧羅巴(ヨーロッパ)を惜しむはわれか。

見ずや、天体の群鳥を、
島嶼(しまじま)、その錯乱の天を、渡海者(たびびと)に開放(はな)てるを。
そも、この底無しの夜(よ)を、汝(なれ)は眠りて流れしか。
あゝ、金色(こんじき)の島の幾百万、当来の生気(せいき)はいづこにありや。

想へば、よく泣きたるわれかな。来る曙は胸を抉(えぐ)り、
月はむごたらし、陽(ひ)は苦(にが)し。
切なる恋に酔ひしれし、わが心は痺れたり。
龍骨よ、砕けよ、あゝ、われは海に死なむ。

今、われ欧洲の水を望むとも、
はや冷え冷えと黒き池、吹く風薫る夕まぐれ、
悲しみ余り、をさな児が、蹲(うずくま)つてはその上に、
五月の蝶にさながらの、笹舟を放つ池かな。

あゝ波よ、ひとたび汝(なれ)が倦怠に浴しては、
綿船(わたぶね)の水脈(みを)ひく跡を、奪ひもならず、
標旗(はた)の焰の驕慢を、横切(よぎ)りもならず、
船橋(せんけう)の恐ろしき眼をかいくゞり、泳ぎもならじ。

(小林秀雄「考えるヒント4 ランボオ・中原中也」所収「ランボオ詩抄」文春文庫より)
※原作のルビは、( )内に記しました。編者。

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2011年7月26日 (火)

ランボー・ランボー<4>小林秀雄の「事件」

僕が、はじめてランボオに出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何の準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらい敏感に出来ていた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。それは確かに事件であった様に思われる。文学とは他人にとって何んであれ、少なくとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である。と、はじめて教えてくれたのは、ランボオだった様に思われる。

小林秀雄が、
ランボーとの出会いを回顧して、
このように書いたのは、
昭和22年「展望」誌上においてでした。
(「ランボオの問題」のちに「ランボオⅢ」)

とここまで転記していて気づかされたのは
2011年現在とほとんど変わらない
現代表記で
この文章が書かれてある、ということですが
これが文春文庫版「考えるヒント4」(1980年第1刷)の編集によるものか
小林秀雄自身の表記法なのか
不明です。

廿三歳
而も
殆ど
或る
様に
……

やや古めかしく感じられるのは
これくらいの用語で
拗音促音、新漢字、口語と
これが終戦直後の文章そのままではないにしても
現代仮名遣いへの変更に包容力のあるのがわかり
このあたりにも
長い人気の秘密があるのかなあ、と
余計なことを考えてみるのでした。

この文庫には
「ランボオⅠ」として
大正15年発表の「人生斫断家アルチュル・ランボオ」
「ランボオⅡ」として
昭和5年10月発表の「アルチュル・ランボオⅡ」が
編まれているのですが
これらも
口語、新漢字の現代表記であるところをみると
著者の考えが反映しているとみて差し支えないようで
早い時期から
「文学界」の編集を経験したことなどの影響によるものか
などと思ったりもしますが……。

小林秀雄の
最も早い時期のランボー訳であるに違いのない
長詩「酩酊船」は
基本的には文語体です。

「事件」の発端ともいうべき
「酩酊船」を
まずは読んでみましょう。

(つづく)

*
酩酊船

われ、非情の河より河を下りしが、
船曳(ふなひき)の綱のいざなひ、いつか覚えず。
罵り騒ぐ蛮人は、船曳等(やつら)を標的(まと)に引つ捕へ、
彩色(いろ)とりどりに立ち並ぶ、杭(くひ)に赤裸(はだか)に釘付けぬ。

船員も船具も今は何かせん。
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船(わたぶね)よ。
わが船曳等(ふなひきら)の去りてより、騒擾(さわぎ)の声もはやあらず、
流れ流れて思ふまゝ、われは下りき。

怒り高鳴る潮騒(しおさゐ)を、小児等(こどもら)の脳髄ほどにもきゝ判(わ)けず、
われ流浪(さすら)ひしはいつの冬(ひ)か。
纜(ともづな)ときし半島も、この揚々(やうやう)たる混沌を、
忍びしためしはなしと聞く。

嵐来て、わが航海の眼醒めを祝ひてより、
人呼んで、永劫の犠牲者(にへ)の運搬者(はこびて)といふ波の上、
身はコルクの栓よりなほ軽く、跳り狂ひて艫(とも)の灯の、
惚(ほほ)けたる眼を顧みず、われ漂流ひて幾夜へし。

小児等(こどもら)の囓(かぶ)りつく酸き林檎の果(にく)よりなほ甘く、
緑の海水(みず)は樅材(もみ)の船身(ふないた)に滲み通り
洗ひしものは安酒の汚点(しみ)、反吐(へど)の汚点(しみ)、
船は流れぬ、錨も失せぬ。

さて、われらはこの日より、星を注ぎて乳汁色(ちちいろ)の、
海原の詩(うた)に浴しつゝ、緑なす瑠璃を啖(くら)ひ行けば、
こゝ吃水線(きっすい)は恍惚として蒼ぐもり、
折から水死人のたゞ一人、想ひに沈み降(くだ)り行く。

見よ、その蒼き色、忽然として色を染め、
金紅色(きんこうしょく)の日の下(もと)に、われを忘れし揺蕩(たゆたい)は、
酒清よりもなほ強く、汝(なれ)が立琴(りいる)も歌ひえぬ。
愛執の苦き赤痣(あかあざ)を醸(かも)すなり。

われは知る、稲妻に裂かるゝ空を、龍巻を、
また寄せ返す波頭(なみ)、走る潮流(みず)、夕(ゆうべ)送れば、
曙光(あけぼの)は、むれ立つ鳩かと湧きたちて、
時に、この眼の視しものを、他人(ひと)は夢かと惑ふらむ。

不可思議の怖れに染みし落日に、
紫にたなびく凝結(こごり)赫(かがよ)うて、
沖津波、襞(ひだ)を顫(ふる)はせ揺れ動き、
古代の劇の俳優も、かくやとわれは眺めけり。

まばゆきばかり雪の降り、夜空の色は緑さし、
海を離れてゆらゆらと、昇る接吻(くちづけ)も眼のあたり。
未聞(みもん)の生気(せいき)はたゞよひて、歌ふが如き燐光の
青色(あお)に黄色に眼醒むるを、われはまた夢みたり。

愚なり、われは幾月もまた幾月も、
ヒステリィの牛舎さながらの大波(たいは)暗礁を襲ふに従ひぬ。
知らず、若しマリヤそのまばゆき御足(みあし)のあらば、
いきだはしき大洋に大洋に猿轡(さるぐつわ)かませ給ふを。

船は衝突(あた)りぬ、君知るや、世に不思議なるフロリダ洲。
人間(ひと)の皮膚(はだへ)の豹の眼は、叢(むら)なす花に入り交り、
海路(うみじ)はるかの沖津方(おきつかた)、青緑色の羊群に、
太靱(たづな)の如き虹を掛く。

われは見ぬ、沼々は醱酵し、巨(おおい)なる魚梁(やな)のあるを。
燈心草(とうしんぐさ)は生(おい)茂り、腐爛(ふらん)せるレヴィンヤタンの一眷族(けんぞく)。
大凪(おおなぎ)のうちに水は崩れ逆(さか)巻きて、
遠方(おちかた)は深淵(ふち)か滝津瀬か。

氷の河に白銀(しらがね)の太陽(ひ)、真珠の波や熾(おき)の空、
褐色(かちいろ)の入江の底深く、目も当てられぬ坐洲(ざす)のさま。
蚜虫(くさむし)に食はれたゞれたる大蛇(おろち)のあまた群がりて、
黒き香をあげ、捩(ね)じ曲る樹木よりどうと墜(お)つるなり。

小児等(こどもら)のあらば見せまほし、
黄金(こがね)の魚(さかな)、歌うたふ魚、青海原に浮ぶ鯛、
水泡(みなわ)がくれた花々、わが漂流を賞(ほ)めそやし、
時に、得も言われぬ風ありて、われに羽(はね)を貸しぬ。

また、ある時は殉教者、地極(ちきょく)に地帯(ちたい)に飽きはてゝ
海すゝり泣く声きけば、僅か慰む千鳥足。
黄(き)の吸角(すひだま)ある影の花、海わが方(かた)にかざす時、
われは、膝つく女の如く動かざりき。

わが船舷(ふなべり)をおほひて、半島は金褐色(きんかっしょく)の眼をむきて、
哮(たけ)り、嘲(あざけ)り、海鳥(かいてう)の争ひと糞(くそ)とを打ち振ふ。
せん術(すべ)なくて漂へば、脆弱(もろ)き鎖を横切りて、
また水死者の幾人(いくたり)か、逆様(さかしま)に眠り降(くだ)りゆきぬ。

されど、われ船となりて浦々の乱れし髪に踏み迷ひ、
嵐来て島棲まぬ気層(そら)に投げられては、
海防艦(もにとる)もハンザの帆走船(ふね)も、
水に酔(ゑ)ひたるわが屍(むくろ)、いかで救はむ。

思ふがまゝに煙吹き、菫(すみれ)の色の靄(もや)にのり、
赤壁(あかかべ)の空に穴を穿(うが)てるわれなりき。
詩人奴(め)が指を銜(くは)へる砂糖菓子、
太陽の瘡(かさ)、青空の鼻汁(はな)を何かせん。

身は狂ほしき板子(いたご)かな。
閃電(ひばな)を散らす衛星(ほし)に染み、黒き海馬(かいば)の供廻(ともまは)り。
それ、革命の七月は、丸太棒(まるたんぼう)の一とたゝき、
燃ゆる漏斗(ろうと)の形せる、紺青の空をぶちのめす。

五十海里の彼方(かなた)にて、ベヘモと巨盤渦(うず)の交尾する、
怨嗟(えんさ)のうめきに胸(とむね)つき、慄へしわれぞ。
永劫に蒼ざめし嗜眠(ねむり)を紡(つむ)ぐはわれぞ。
あゝ、昔ながらの胸墻(かべ)に拠(よ)る、欧羅巴(ヨーロッパ)を惜しむはわれか。

見ずや、天体の群鳥を、
島嶼(しまじま)、その錯乱の天を、渡海者(たびびと)に開放(はな)てるを。
そも、この底無しの夜(よ)を、汝(なれ)は眠りて流れしか。
あゝ、金色(こんじき)の島の幾百万、当来の生気(せいき)はいづこにありや。

想へば、よく泣きたるわれかな。来る曙は胸を抉(えぐ)り、
月はむごたらし、陽(ひ)は苦(にが)し。
切なる恋に酔ひしれし、わが心は痺れたり。
龍骨よ、砕けよ、あゝ、われは海に死なむ。

今、われ欧洲の水を望むとも、
はや冷え冷えと黒き池、吹く風薫る夕まぐれ、
悲しみ余り、をさな児が、蹲(うずくま)つてはその上に、
五月の蝶にさながらの、笹舟を放つ池かな。

あゝ波よ、ひとたび汝(なれ)が倦怠に浴しては、
綿船(わたぶね)の水脈(みを)ひく跡を、奪ひもならず、
標旗(はた)の焰の驕慢を、横切(よぎ)りもならず、
船橋(せんけう)の恐ろしき眼をかいくゞり、泳ぎもならじ。

(小林秀雄「考えるヒント4 ランボオ・中原中也」所収「ランボオ詩抄」文春文庫より)
※原作のルビは、( )内に記しました。編者。

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2011年7月25日 (月)

ランボー・ランボー<3>「事件」のはじまり

上田敏訳の「酔ひどれ船」は
大正12年1月に
「上田敏詩集」(玄文社)として発行された中に
収録されました。
上田敏は
大正5年に亡くなりますから
没後の発表ということになります。

遺稿の中から発見された未定稿の
欠落していた第10連を竹友藻風(たけともそうふう)が補訳して
発表されたものですから
現在読める作品もこの時のものです。
中原中也が筆写したのも
この「上田敏詩集」からのものになります。

上田敏の「酔ひどれ船」以前に
ランボーは
どのように翻訳されていたのでしょうか
上田敏以前のランボー訳は
どのような状況にあったのでしょうか
という問いは
そのまま
日本でのランボー受容の歴史を見ることにつながります。

その視点で見ると
「酔ひどれの舟」の題で
柳沢健(1889年―1953年)が
自選詩集「果樹園」(大正3年発行)の
巻末に訳出したものが存在していた事実に行き当たります。

柳沢健の「酔ひどれの舟」が本邦初訳であることは
知る人ぞ知る歴然とした事実なのですが
上田敏の名望の影になった形で
一般にはあまり知られていません。
大岡昇平が
中原中也は柳沢の「果樹園」や「仏蘭西詩集」などを
「見る機会はなかったであろう」と
触れているだけなのは致し方ないことで
むしろ触れているだけで
さすがと言ったほうが適切なことではないでしょうか。

ランボーの作品はこのほかに
永井荷風「珊瑚集」(大正2年)中の「そぞろあるき」
蒲原有明訳の「母音」がある程度で
岩野泡鳴訳のアーサー・シモンズ「表徴派の文学運動」(大正2年)や
辰野隆「信天翁の眼玉」(大正11年)の案内で
経歴を知るほかになかった、と
大岡昇平は記しています。
(大岡昇平「中原中也」所収「Ⅵ中原中也全集解説」「翻訳」角川文庫)

こういう状況のところへ
上田敏訳の「酔ひどれ船」が公開されて
それをきっかけにして
柳沢健の訳業も話題になったりしたのかもしれませんし
ランボーが各方面で共鳴し
「事件」を起こしつつあったことを
疑うことはできません。

また
「上田敏詩集」が刊行されたのが
大正12年1月のことで
この年の9月1日に
関東大震災が起きていることと重なり合って
これらは直接なんら関係するものではありませんが
時代の空気を作り出していったことが
想像されもします。

やがて大正時代は終わりを告げ
新しい時代、昭和が幕開けするという時期に
「酔ひどれ船」は公開され
東京帝大仏文科や
民間の学校アテネ・フランセなどに集う
「フランス熱」を帯びた若者たちがこれを貪り読んでは
遥か海の向こうの異国で起きている
詩の革命に心を寄せていたということができます。

「ランボーという事件」として
真芯から受け止めていたのが
小林秀雄でしたし
富永太郎や
中原中也も
その事件の中心にいたのです。

(つづく)

*
酔ひどれ船(未定稿)
             アルテュル・ランボオ

われ非情の大河を下り行くほどに
曳舟の綱手のさそひいつか無し
喚(わめ)き罵る赤人等、水夫を裸に的にして
色鮮やかにゑどりたる杙(くひ)に結ひつけ射止めたり。

われいかでかかる船員に心残あらむ、
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船よ、
かの乗組の去りしより騒擾はたと止みければ、
大河はわれを思ひのままに下り行かしむ。

荒潮の哮(たけ)りどよめく波にゆられて、
冬さながらの吾心、幼児の脳よりなほ鈍く、
水のまにまに漾(ただよ)へば、陸を離れし半島も
かかる劇しき混沌に擾れしことや無かりけむ。

颶風はここにわが漂浪の目醒に祝別す、
身はコルクの栓より軽く波に跳りて、
永久にその牲(にへ)を転ばすといふ海の上に
うきねの十日(いくよ)、灯台の空(うつ)けたる眼は顧みず。

酸き林檎の果を小児等の吸ふよりも柔かく、
さみどりの水はわが松板の船に浸み透りて、
青みたる葡萄酒のしみを、吐瀉物のいろいろを
わが身より洗ひ、舵もうせぬ、錨もうせぬ。

これよりぞわれは星をちりばめ乳色にひたる
おほわたつみのうたに浴しつつ、
緑のそらいろを貪(むさぼ)りゆけば、其吃水(みづぎは)蒼ぐもる
物思はしげなる水死者の、愁然として下り行く。

また忽然として青海の色をかき乱し、
日のきらめきの其下に、もの狂ほしくはたゆるく、
つよき酒精にいやまさり、大きさ琴に歌ひえぬ
愛執のいと苦き朱(あか)みぞわきいづる。

われは知る、霹靂に砕くる天を、竜巻を、
寄波(よせなみ)を、潮ざゐを。また夕ぐれを知るなり。
白鳩のむれ立つ如き曙の色も知るなり。
人のえ知らぬ不思議をも偶(たま)には見たり。

神秘のおそれにくもる入日のかげ、
紫色の凝結にたなびきてかがよふも見たり。
古代の劇の俳優(わざをぎ)が歩んで進む姿なる
波のうねりの一列がをちにひれふるかしこさよ。

夜天の色の深(こ)みどりはましろの雪のまばゆくて
静かに流れ、眼にのぼるくちづけをさへゆめみたり。
世にためしなき霊液は大地にめぐりただよひて
歌ふが如き不知火の青に黄いろにめざむるを。

幾月もいくつきもヒステリの牛小舎に似たる
怒涛が暗礁に突撃するを見たり、
おろかや波はマリヤのまばゆきみあしの
いきだはしき大洋の口を箝(かん)し得ると知らずや。

君見ずや、世にふしぎなるフロリダ州、
花には豹の眼のひかり、人のはだには
手綱のごとく張りつめし虹あざやかに染みたるを、
また水天の間には海緑色のもののむれ。

海上の沸きたちかえへる底見ればひろき穽(わな)あり、
海草の足にかわみて腐爤するレヰ゛ヤタン、
無風(なぎ)のもなかに大水はながれそそぎて、
をちかたの海はふち瀬に瀧となる。

氷河、銀色の大陽、真珠の波、炭火の空、
鳶色の入江の底にものすごき破船のあとよ、
そこには蟲にくはれたるうはばみのあり、
黒き香に、よぢくねりたる木の枝よりころがり落つ。

をさなごに見せまほし、青波にうかびゐる
鯛の族(ぞう)、黄金(こがね)の魚(いろ)くづ、歌へるいさな。
花と散る波のしぶきは漂流を祝ひ、
えも言へぬ風、時々に、われをあふれり。

時としては地極と地帯の旅にあきたる殉教者、
吐息をついてわが漂浪を楽しくしながら、
海は、われに黄色の吸盤をもてる影の花をうかぶ、
その時われは跪く女のごとくなり。

半島のわが舷(ふなべり)の上に投げ落すものは、
亜麻いろの眼をしたる怪鳥の争、怪鳥の糞、
かくて波のまにまに浮き行く時、わが細綱をよこぎりて、
水死の人はのけざまに眠にくだる……

入江の底の丈長髪(たけなががみ)に道迷ふわれは小舟ぞ、
あらし颶風によつて鳥もゐぬ空に投げられ、
甲鉄船(モニトル)もハンザの帆船も
水に酔ひたるわがむくろ、いかでひろはむ。

思ひのままに、煙ふきて、むらさき色の霧立てて、
天をもとほすわが舟よ、空の赤きは壁のごと、
詩人先生にはあつらへの名句とも
大陽の蘚苔(こけ)あり、青海の鼻涕(はな)あり。

エレキの光る星をあび、黒き海馬の護衛にて、
くるひただよう板小舟、それ七月は
杖ふりて燃ゆる漏斗のかたちせる
瑠璃いろの天をこぼつころ。

五十里のあなた、うめき泣く
河馬と鳴門の渦の発情(さかり)をききて慄(ふる)へたるわれ、
嗚呼、青き不動を永久に紡ぐもの、
昔ながらの壁にゐる欧羅巴こそかなしけれ。

星てる群島、島々、その狂ほしく美はしき
空はただよふもののためにひらかる、
そもこの良夜(あたらよ)の間に爾はねむり、遠のくか。
紫摩金鳥の幾百萬、ああ当来の勢力(せいりき)よ。

しかはあれども、われはあまりに哭きたり、あけぼのはなやまし、
月かげはすべていとはし、日はすべてにがし、
切なる戀に酔ひしれてわれは泣くなり、
竜骨よ、千々に砕けよ、われは海に死なむ。

もしわれ欧羅巴の水を望むとすれば、
そは冷ややかに黒き沼なり、かぐはしき夕まぐれ、
うれひに沈むをさな児が、腹つくばひてその上に
五月の蝶にさながらの笹舟を流す。

ああ波よ、一たび汝れが倦怠にうかんでは
綿船の水脈(みを)ひくあとを奪ひもならず、
旗と炎の驕慢を妨げもならず、
また逐船(おひぶね)の恐しき眼の下におよぎもえせじ。

(岩波文庫「上田敏全訳詩集」山内義雄、矢野峰人編より)
 ※新漢字に改めてあります。編者。

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2011年7月24日 (日)

ランボー・ランボー<2>「酔ひどれ船」の「非情の大河」

われ非情の大河を下り行くほどに
曳舟の綱手のさそひいつか無し
喚(わめ)き罵る赤人等、水夫を裸に的にして
色鮮やかにゑどりたる杙(くひ)に結ひつけ射止めたり。

このはじまり!
この1行目!

われ非情の大河を下り行くほどに

という中の
「非情の大河」って
何だろう?

フランスを流れる大河といえば
ラインか? セーヌか?
ロワールか? ガロンヌか?
などとはじめは思ったりするかもしれませんが
どうもこの河は
現実の河ではなく
メタファーらしく
それも
フランスはじめヨーロッパ諸国で隆盛する詩の世界
絞っていえば
パルナシアン(高踏派)の潮流のことを指している
この詩自体が
詩の潮流=非情の大河を歌い
その大河への挑戦的メッセージをもち
のっけから新しい詩を宣言しようとしているのか、
などとドキドキさせられる問いを抱かせられるのは
上田敏の訳というよりも
脚注付きの鈴木信太郎の訳を通じてです。

戦後発行された「ランボオ全集Ⅰ」「同Ⅱ」(人文書院、昭和27年)というのを
古書店で入手したのですが
この第1巻が
鈴木信太郎以下
村上菊一郎
中原中也
小林秀雄
平井啓之
佐藤朔の計6人の訳者が
ランボーの詩を分担して翻訳している珍しい本で
中に「酩酊船」はあり
御大、鈴木信太郎が訳していて
そこにはわずかですが
脚注が添えられています。

非情の大河の溶々たる流れを 下り行きしとき

の冒頭行の下に
「*高踏的詩の世界」

潮騒の哮り狂へる高鳴りの真中を

という第3連第1行の下に
「*革命の世界」

冬なりき

という同第2行の下に
「*一八七一年二月か」

などとあるのです。
はじめのほうのわずか3カ所の脚注に
目を奪われた、というわけです。

「非情の大河」や「潮騒の哮り狂へる高鳴り」や「冬」や……

これらの語句に
このような含意が込められている!
という驚きでした。

これならば
いろいろな鑑賞が可能になるに違いない!

中原中也の訳はないのか?
小林秀雄は?
堀口大学は?
……
という水平思考で眺め回すと
あるわ、あるわ。
フランス文学者という文学者や詩人が
こぞって「酔いどれ船」の翻訳に挑んでいるではないですか!

これらを
すべて読むだけで
それなりにランボーを味わう楽しみというものですが
ここでそれを試みるヒマはありませんから
別の機会に譲ることにします。 

そこで
手元にある
堀口大学訳「ランボー詩集」(新潮文庫)から
「鑑賞ノート」中の「酔いどれ船」の項を
読んでおけば、

酔いどれ船 ランボーが忌みきらったブールジョア社会に対する反逆と、そこからの脱走を夢みる冒険の詩。無辺際の水と空に酔って突っ走る船はランボー自身の姿にほかならぬ。奴隷的な束縛に生きるよりはむしろ死を! ランボーの持って生れた激しい性格がそのままこの詩に現れている。全篇に現れる嵐の海の、朝の海の、夕べの海の描写の如実な美しさにもかかわらず、この詩を書いたと思われる1871年の9月、17歳の彼はまだ海を見たことがなく、もっぱら読書の記憶によったのだという。

とあるのに出くわして
また目が開かれる思いを味わうのです。

(つづく)

*
酔ひどれ船(未定稿)
             アルテュル・ランボオ

われ非情の大河を下り行くほどに
曳舟の綱手のさそひいつか無し
喚(わめ)き罵る赤人等、水夫を裸に的にして
色鮮やかにゑどりたる杙(くひ)に結ひつけ射止めたり。

われいかでかかる船員に心残あらむ、
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船よ、
かの乗組の去りしより騒擾はたと止みければ、
大河はわれを思ひのままに下り行かしむ。

荒潮の哮(たけ)りどよめく波にゆられて、
冬さながらの吾心、幼児の脳よりなほ鈍く、
水のまにまに漾(ただよ)へば、陸を離れし半島も
かかる劇しき混沌に擾れしことや無かりけむ。

颶風はここにわが漂浪の目醒に祝別す、
身はコルクの栓より軽く波に跳りて、
永久にその牲(にへ)を転ばすといふ海の上に
うきねの十日(いくよ)、灯台の空(うつ)けたる眼は顧みず。

酸き林檎の果を小児等の吸ふよりも柔かく、
さみどりの水はわが松板の船に浸み透りて、
青みたる葡萄酒のしみを、吐瀉物のいろいろを
わが身より洗ひ、舵もうせぬ、錨もうせぬ。

これよりぞわれは星をちりばめ乳色にひたる
おほわたつみのうたに浴しつつ、
緑のそらいろを貪(むさぼ)りゆけば、其吃水(みづぎは)蒼ぐもる
物思はしげなる水死者の、愁然として下り行く。

また忽然として青海の色をかき乱し、
日のきらめきの其下に、もの狂ほしくはたゆるく、
つよき酒精にいやまさり、大きさ琴に歌ひえぬ
愛執のいと苦き朱(あか)みぞわきいづる。

われは知る、霹靂に砕くる天を、竜巻を、
寄波(よせなみ)を、潮ざゐを。また夕ぐれを知るなり。
白鳩のむれ立つ如き曙の色も知るなり。
人のえ知らぬ不思議をも偶(たま)には見たり。

神秘のおそれにくもる入日のかげ、
紫色の凝結にたなびきてかがよふも見たり。
古代の劇の俳優(わざをぎ)が歩んで進む姿なる
波のうねりの一列がをちにひれふるかしこさよ。

夜天の色の深(こ)みどりはましろの雪のまばゆくて
静かに流れ、眼にのぼるくちづけをさへゆめみたり。
世にためしなき霊液は大地にめぐりただよひて
歌ふが如き不知火の青に黄いろにめざむるを。

幾月もいくつきもヒステリの牛小舎に似たる
怒涛が暗礁に突撃するを見たり、
おろかや波はマリヤのまばゆきみあしの
いきだはしき大洋の口を箝(かん)し得ると知らずや。

君見ずや、世にふしぎなるフロリダ州、
花には豹の眼のひかり、人のはだには
手綱のごとく張りつめし虹あざやかに染みたるを、
また水天の間には海緑色のもののむれ。

海上の沸きたちかえへる底見ればひろき穽(わな)あり、
海草の足にかわみて腐爤するレヰ゛ヤタン、
無風(なぎ)のもなかに大水はながれそそぎて、
をちかたの海はふち瀬に瀧となる。

氷河、銀色の大陽、真珠の波、炭火の空、
鳶色の入江の底にものすごき破船のあとよ、
そこには蟲にくはれたるうはばみのあり、
黒き香に、よぢくねりたる木の枝よりころがり落つ。

をさなごに見せまほし、青波にうかびゐる
鯛の族(ぞう)、黄金(こがね)の魚(いろ)くづ、歌へるいさな。
花と散る波のしぶきは漂流を祝ひ、
えも言へぬ風、時々に、われをあふれり。

時としては地極と地帯の旅にあきたる殉教者、
吐息をついてわが漂浪を楽しくしながら、
海は、われに黄色の吸盤をもてる影の花をうかぶ、
その時われは跪く女のごとくなり。

半島のわが舷(ふなべり)の上に投げ落すものは、
亜麻いろの眼をしたる怪鳥の争、怪鳥の糞、
かくて波のまにまに浮き行く時、わが細綱をよこぎりて、
水死の人はのけざまに眠にくだる……

入江の底の丈長髪(たけなががみ)に道迷ふわれは小舟ぞ、
あらし颶風によつて鳥もゐぬ空に投げられ、
甲鉄船(モニトル)もハンザの帆船も
水に酔ひたるわがむくろ、いかでひろはむ。

思ひのままに、煙ふきて、むらさき色の霧立てて、
天をもとほすわが舟よ、空の赤きは壁のごと、
詩人先生にはあつらへの名句とも
大陽の蘚苔(こけ)あり、青海の鼻涕(はな)あり。

エレキの光る星をあび、黒き海馬の護衛にて、
くるひただよう板小舟、それ七月は
杖ふりて燃ゆる漏斗のかたちせる
瑠璃いろの天をこぼつころ。

五十里のあなた、うめき泣く
河馬と鳴門の渦の発情(さかり)をききて慄(ふる)へたるわれ、
嗚呼、青き不動を永久に紡ぐもの、
昔ながらの壁にゐる欧羅巴こそかなしけれ。

星てる群島、島々、その狂ほしく美はしき
空はただよふもののためにひらかる、
そもこの良夜(あたらよ)の間に爾はねむり、遠のくか。
紫摩金鳥の幾百萬、ああ当来の勢力(せいりき)よ。

しかはあれども、われはあまりに哭きたり、あけぼのはなやまし、
月かげはすべていとはし、日はすべてにがし、
切なる戀に酔ひしれてわれは泣くなり、
竜骨よ、千々に砕けよ、われは海に死なむ。

もしわれ欧羅巴の水を望むとすれば、
そは冷ややかに黒き沼なり、かぐはしき夕まぐれ、
うれひに沈むをさな児が、腹つくばひてその上に
五月の蝶にさながらの笹舟を流す。

ああ波よ、一たび汝れが倦怠にうかんでは
綿船の水脈(みを)ひくあとを奪ひもならず、
旗と炎の驕慢を妨げもならず、
また逐船(おひぶね)の恐しき眼の下におよぎもえせじ。

(岩波文庫「上田敏全訳詩集」山内義雄、矢野峰人編より)
 ※新漢字に改めてあります。編者。

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2011年7月23日 (土)

ランボー・ランボー<1>上田敏訳の「酔ひどれ船」

「上田敏全訳詩集」(岩波文庫)で特筆されるべき
中原中也に関わる最大のニュースは
ランボーの「酔ひどれ船」の訳出が
未定稿ながら収録されたことにあって
このニュースを読んでは
ランボーへランボーへ
一刻もはやく辿りつきたい心が逸(はや)ります。

上田敏訳の、この「酔ひどれ船」こそ
若き日の中原中也が
京都にやってきた富永太郎から
初めてランボーを知って
散文詩「少年時」の鈴木信太郎訳を
原稿用紙に筆写したように
「ノート1924」の余白ページに筆写した詩でした。
これが大正14年(1925年)のことです(推定)。

また、この原作品こそ
ベルレーヌに書き送った手紙の中で
ランボーが
詩人としての自らをアピールし
プレゼンテーションした
大傑作だったのです。

この手紙が送られたのは
パリコンミューン真っ只中の
1871年のことでしたから
50年以上の隔たりがあるのですが
東京帝大仏文科生の間には
辰野隆、鈴木信太郎らの授業を通じて
これを知らぬ者はいないほどの
衝撃をもって伝播していたことが推察されます。

小林秀雄は
この帝大仏文科の学生の中にあり
大正15年(1926年)10月には
ランボーに関する初の評論
「人生斫断家アルチュル・ランボオ」を発表
(※「斫」は「シャク」と読み、「切る」「撃つ」の意味)
「地獄の季節」の翻訳を準備していたということですから
かなりコアな位置にあったことも想像されます。

上田敏は大正5年(1916年)に亡くなっていますから
堀口大学は
この頃、どこで活動していたのでしょうか。

「酔ひどれ船」を
最初に翻訳したといわれている
柳沢健は
どこにいたのでしょうか。

富永太郎がもたらした
「仏国詩人等の存在」(詩的履歴書)に吸引されて
中原中也が東京行きを決めるのに
さしたる時間はかからなかったであろうことも推察できますが
そのジャッジメントの切れ味は
やはり中原中也ならではのものでしたから
「ランボーという事件」の中心へ
一直線に絡まっていくことになりました。

なにはさておき
上田敏訳の「酔ひどれ船」を
読んでおきましょう。

(つづく)

*
酔ひどれ船(未定稿)
             アルテュル・ランボオ

われ非情の大河を下り行くほどに
曳舟の綱手のさそひいつか無し
喚(わめ)き罵る赤人等、水夫を裸に的にして
色鮮やかにゑどりたる杙(くひ)に結ひつけ射止めたり。

われいかでかかる船員に心残あらむ、
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船よ、
かの乗組の去りしより騒擾はたと止みければ、
大河はわれを思ひのままに下り行かしむ。

荒潮の哮(たけ)りどよめく波にゆられて、
冬さながらの吾心、幼児の脳よりなほ鈍く、
水のまにまに漾(ただよ)へば、陸を離れし半島も
かかる劇しき混沌に擾れしことや無かりけむ。

颶風はここにわが漂浪の目醒に祝別す、
身はコルクの栓より軽く波に跳りて、
永久にその牲(にへ)を転ばすといふ海の上に
うきねの十日(いくよ)、灯台の空(うつ)けたる眼は顧みず。

酸き林檎の果を小児等の吸ふよりも柔かく、
さみどりの水はわが松板の船に浸み透りて、
青みたる葡萄酒のしみを、吐瀉物のいろいろを
わが身より洗ひ、舵もうせぬ、錨もうせぬ。

これよりぞわれは星をちりばめ乳色にひたる
おほわたつみのうたに浴しつつ、
緑のそらいろを貪(むさぼ)りゆけば、其吃水(みづぎは)蒼ぐもる
物思はしげなる水死者の、愁然として下り行く。

また忽然として青海の色をかき乱し、
日のきらめきの其下に、もの狂ほしくはたゆるく、
つよき酒精にいやまさり、大きさ琴に歌ひえぬ
愛執のいと苦き朱(あか)みぞわきいづる。

われは知る、霹靂に砕くる天を、竜巻を、
寄波(よせなみ)を、潮ざゐを。また夕ぐれを知るなり。
白鳩のむれ立つ如き曙の色も知るなり。
人のえ知らぬ不思議をも偶(たま)には見たり。

神秘のおそれにくもる入日のかげ、
紫色の凝結にたなびきてかがよふも見たり。
古代の劇の俳優(わざをぎ)が歩んで進む姿なる
波のうねりの一列がをちにひれふるかしこさよ。

夜天の色の深(こ)みどりはましろの雪のまばゆくて
静かに流れ、眼にのぼるくちづけをさへゆめみたり。
世にためしなき霊液は大地にめぐりただよひて
歌ふが如き不知火の青に黄いろにめざむるを。

幾月もいくつきもヒステリの牛小舎に似たる
怒涛が暗礁に突撃するを見たり、
おろかや波はマリヤのまばゆきみあしの
いきだはしき大洋の口を箝(かん)し得ると知らずや。

君見ずや、世にふしぎなるフロリダ州、
花には豹の眼のひかり、人のはだには
手綱のごとく張りつめし虹あざやかに染みたるを、
また水天の間には海緑色のもののむれ。

海上の沸きたちかえへる底見ればひろき穽(わな)あり、
海草の足にかわみて腐爛するレヰ゛ヤタン、
無風(なぎ)のもなかに大水はながれそそぎて、
をちかたの海はふち瀬に瀧となる。

氷河、銀色の大陽、真珠の波、炭火の空、
鳶色の入江の底にものすごき破船のあとよ、
そこには蟲にくはれたるうはばみのあり、
黒き香に、よぢくねりたる木の枝よりころがり落つ。

をさなごに見せまほし、青波にうかびゐる
鯛の族(ぞう)、黄金(こがね)の魚(いろ)くづ、歌へるいさな。
花と散る波のしぶきは漂流を祝ひ、
えも言へぬ風、時々に、われをあふれり。

時としては地極と地帯の旅にあきたる殉教者、
吐息をついてわが漂浪を楽しくしながら、
海は、われに黄色の吸盤をもてる影の花をうかぶ、
その時われは跪く女のごとくなり。

半島のわが舷(ふなべり)の上に投げ落すものは、
亜麻いろの眼をしたる怪鳥の争、怪鳥の糞、
かくて波のまにまに浮き行く時、わが細綱をよこぎりて、
水死の人はのけざまに眠にくだる……

入江の底の丈長髪(たけなががみ)に道迷ふわれは小舟ぞ、
あらし颶風によつて鳥もゐぬ空に投げられ、
甲鉄船(モニトル)もハンザの帆船も
水に酔ひたるわがむくろ、いかでひろはむ。

思ひのままに、煙ふきて、むらさき色の霧立てて、
天をもとほすわが舟よ、空の赤きは壁のごと、
詩人先生にはあつらへの名句とも
大陽の蘚苔(こけ)あり、青海の鼻涕(はな)あり。

エレキの光る星をあび、黒き海馬の護衛にて、
くるひただよう板小舟、それ七月は
杖ふりて燃ゆる漏斗のかたちせる
瑠璃いろの天をこぼつころ。

五十里のあなた、うめき泣く
河馬と鳴門の渦の発情(さかり)をききて慄(ふる)へたるわれ、
嗚呼、青き不動を永久に紡ぐもの、
昔ながらの壁にゐる欧羅巴こそかなしけれ。

星てる群島、島々、その狂ほしく美はしき
空はただよふもののためにひらかる、
そもこの良夜(あたらよ)の間に爾はねむり、遠のくか。
紫摩金鳥の幾百万、ああ当来の勢力(せいりき)よ。

しかはあれども、われはあまりに哭きたり、あけぼのはなやまし、
月かげはすべていとはし、日はすべてにがし、
切なる恋に酔ひしれてわれは泣くなり、
竜骨よ、千々に砕けよ、われは海に死なむ。

もしわれ欧羅巴の水を望むとすれば、
そは冷ややかに黒き沼なり、かぐはしき夕まぐれ、
うれひに沈むをさな児が、腹つくばひてその上に
五月の蝶にさながらの笹舟を流す。

ああ波よ、一たび汝れが倦怠にうかんでは
綿船の水脈(みを)ひくあとを奪ひもならず、
旗と炎の驕慢を妨げもならず、
また逐船(おひぶね)の恐しき眼の下におよぎもえせじ。

(岩波文庫「上田敏全訳詩集」山内義雄、矢野峰人編より)
 ※新漢字に改めてあります。編者。

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2011年7月22日 (金)

ラフォルグ<13>でぶっちょの子供の歌へる・その2

中原中也の訳したラフォルグ3作のうち
「でぶっちょの子供の歌へる」を読んで
先に進むことにしましょう。
3作にざっと目を通して
この詩ばかりは
通り過ぎようにも通り過ぎることを許さないような
見て!見て! と中原中也が呼んでいるような
詩がしきりにアピールしているようで
立ち止まってしまいます。

原題にあるhypertrophiqueは
「心臓などの肥大した」とか「肥大性の」の意味で
直訳すれば
「心臓肥大症の子供の歌」となるのを
中原中也は「でぶっちょの」と意訳してみせましたから
太った子どもでも
元気のよいばかりではなく
心臓病をかかえて
生きていることを諦観している
シニカルな思いを抱く子の歌う歌として
読むとよいようです。

その子どもの母親もまた
心臓病で死んでしまったのです
医者がぼくにそう言ったんだ
――ティル ラン レール!
――かわいそうなママ

ぼくもあの世に行ってしまおうっと
そしてママと一緒にねんねするんだ
ホラ、ね、ぼくの心臓鳴ってる
きっと、ママが呼んでるのさ

こんなふうに感じる子は
通りで、みんなの笑いもの
おかしい、変だって
――ラ イ トウ!
――知るもんか、そんなの

でも、いわれてみりゃそうなんだ
一足歩くたびに
息切れするし、足はよろよろ
ホラ、ね、ぼくの心臓鳴ってる
きっと、ママが呼んでるのさ

それだから原っぱにぼくは行くんだ
夕陽を見ると泣けてくるからね
――ラ リ レット!
――泣けるんだ、目一杯

よく知らないけれど
夕陽ってのは
心臓を流れる血みたいでしょ
ホラ、ね、ぼくの心臓鳴ってる
きっと、ママが呼んでるのさ

もしも大好きなジュヌヴィエーヴが
ぼくの心臓を頂戴っていったら
――ピ ル イ!
――あいよ、だよ

ぼくは黄色、悲しみの色
彼女はバラ色、おまけに陽気
ホラ、ね、ぼくの心臓鳴ってる
きっと、ママが呼んでるのさ

だいたいみんな意地悪ばっかり
夕陽を除いて意地悪だらけだ

夕陽とママと
そしてぼくも
あの世に行ってしまおう
ママとねんねするんだ
ホラ、ね、ぼくの心臓鳴ってる
ね、ママ、ぼくを呼んでるんでしょう?

ダダイズムの詩「春の日の夕暮」に
物語を加えたら
こんな詩が生まれそうな
まったく無縁のはずのシーンが
重なってきませんか?

いや
俺には
ホラホラ、これが僕の骨だ、という詩に
繋がっていく
……
なんて
とんでもない方向に
広がっていくのは
読みが浅いというほかに
言い様がないようで……。

 *

でぶっちょの子供の歌へる

          ジュウル・ラフォルグ

お亡くなりになつたのは
心臓病でです、お医者は僕にさう云つたけが、
   ティル ラン レール!
   気の毒なママ。
僕もあの世に行つてしまはう、
ママと一緒にねんねをするんだ。
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

往来で、みんなは僕を嗤(わら)ふんだ、
僕の様子が可笑しんだつて
   ラ イ トウ!
   知るもんか。
あゝ! でも一歩(ひとあし)あるくたんびに
息は切れるし、よろよろもする!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

それで野原に僕は行くんだ
夕陽が見えると泣けて来るんだ 
   ラ リ レット!
   泣けてくるんだ。
よく知らないけど、だつて夕陽は
流れる心臓みたいぢやないか!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

あゝ! もし可愛いいジュヌヴィエーヴが
この心臓をお呉れといつたら、
   ピ ル イ!
   あいよだ!
僕は黄色で悲しげなんだ!
彼女は薔薇色、おまけに陽気さ!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

だいたいみんなが意地悪過ぎらあ、
夕陽を除(ど)けたらみんな意地悪だ、
   ティル ラン レール!
夕陽とママと、
僕もあの世に行つてしまはう
ママと一緒にねんねをするんだ……
ホラ、ね、ホラ、ホラ、僕の心臓……
ね、ママ、僕を呼んでるのでせう?

(「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫より)

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2011年7月21日 (木)

ラフォルグ<12>中原中也が訳した3作品

山本書店に行く。堀口大学を訪ねる、留守。山内義雄に会って山本書店の言付を伝
える。三好達治の所へ寄る。(略)

中原中也は
昭和11年7月21日の日記に
このように記したのですが
ここに登場する山内義雄こそ
「上田敏全訳詩集」(岩波文庫)を
矢野峰人と共に編纂したその人であることが注目されます。

やがて
アンドレ・ジッド「狭き門」や
「チボー家の人々」の翻訳などで
フランス文学者として名を馳せることになる
山内義雄(1894~1973年)は
晩年の京都帝大教授時代の上田敏に
直接、薫陶をうけたよしみもあって
全訳詩集の編集を担当することになった間柄でした。

中原中也の日記の
昭和12年5月7日には

呉郎、山内義雄、土田先生に詩集発送。

8月18日には

山内義雄よりブールジェ「弟子」を贈呈さる。

8月24日には

ポール・ブールジェ「弟子」(山内義雄訳)読了。

とあり、
終焉の地となった鎌倉在住時代に
山内との交友が続いていたことを明らかにしています。

中原中也は
上田敏の流れとも堀口大学の流れとも
交友の域内にあり
影響の範囲内にあったことが分かるということです。

上田敏と堀口大学と中原中也の3人が
ラフォルグの詩を巡って
酒を飲み交わしたなんてことはなかったのですが

明治7年(1874年)生まれ(上田敏)のラフォルグ訳
明治25年(1892年)生まれ(堀口大学)のラフォルグ訳
明治40年(1907年)生れ(中原中也)のラフォルグ訳

と、生年が20年近く異なる訳者の
3種類のラフォルグの詩、計14篇を
現在でも文庫本で
読むことができるわけです。

中原中也訳のラフォルグは
生前に公表されておらず
未定稿ですが
3篇を一挙にみておきます。

 *

謝肉祭の夜

          ジュール・ラフォルグ

巴里は今晩大騒ぎ。弔鐘の如く時計台、
一時を打つ。歌へ! 踊れ! 朝露の命、
すべては空しい、――、さて空に、月は夢みる
生類の、発生以前と変りもなく。

なんと因果なことではないか! すべては閃きすべては過ぎる。
真理だ、愛だと、巧い言葉に乗せられながら
行手はいづこだ? とどのつまりは
地球が虚空で破裂して、影も形もなくなるまでか?

いろいろ歴史が並べて呉れる、叫びや涙や高言の
反響(こだま)は何処で、何時するのやら、
ねえ、バビロンよ、メンフィスと、ベナレス、テーベよ、ねえ羅馬、
おまへら廃墟でけふ此の頃は、風が花粉を運んでゐるよ。

さてこの俺だが、あと幾日を生きるやら?
俺は大地に身を投げつけて、叫びおののく、
永久返らぬ諸世紀の、綺羅(きら)燦然(さんぜん)の目の前で、
神意も通はぬ無心(こころな)の、涅槃(ねはん)の中の只中で!

と、聞えるぞ、静かな戸外(そとも)に、
響く跫音(あしおと)、悲しげな歌
祭りの帰りのへべれけの、労働者かな、
何れそこらの銘酒屋に、なんとなく泊まるのだらう。

おゝ、人の世は、あんまり悲しい、あんまりあんまり悲しいぞ!
お祭りといふお祭が、いつも涙の種となる。
《是空(ぜくう)だ、是空だ、一切是空だ!》
ところで俺の思ふこと、――ダヴィデの死灰やいまいづこ。

 *

でぶっちょの子供の歌へる

          ジュウル・ラフォルグ

お亡くなりになつたのは
心臓病でです、お医者は僕にさう云つたけが、
   ティル ラン レール!
   気の毒なママ。
僕もあの世に行つてしまはう、
ママと一緒にねんねをするんだ。
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

往来で、みんなは僕を嗤(わら)ふんだ、
僕の様子が可笑しんだつて
   ラ イ トウ!
   知るもんか。
あゝ! でも一歩(ひとあし)あるくたんびに
息は切れるし、よろよろもする!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

それで野原に僕は行くんだ
夕陽が見えると泣けて来るんだ 
   ラ リ レット!
   泣けてくるんだ。
よく知らないけど、だつて夕陽は
流れる心臓みたいぢやないか!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

あゝ! もし可愛いいジュヌヴィエーヴが
この心臓をお呉れといつたら、
   ピ ル イ!
   あいよだ!
僕は黄色で悲しげなんだ!
彼女は薔薇色、おまけに陽気さ!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

だいたいみんなが意地悪過ぎらあ、
夕陽を除(ど)けたらみんな意地悪だ、
   ティル ラン レール!
夕陽とママと、
僕もあの世に行つてしまはう
ママと一緒にねんねをするんだ……
ホラ、ね、ホラ、ホラ、僕の心臓……
ね、ママ、僕を呼んでるのでせう?

 *
はかない茶番

          ジュール・ラフォルグ

バベルを幾つ集めても、威張つた所で泣いた所で、
人間という夢想家は、一小世界の蛆虫(うじむし)と、
とくと考へみるほどに、あんまし滑稽で仕方がない、
いくら考へ直してみても、いつも結局おなじこと。

それ劫初、涯なき海が造られてより、
天辺は、いつも変らぬ無辺際、
恒星は、続々々々繁殖し、その各々が
人畜棲息の惑星を、夫々引率れてゐるといふわけ……

いやはや言語道断な! これではあんまり可笑(おか)しくて!
と、不感無覚の空にむけ、俺は拳固を振上げた!
空の奴、随分俺を騙(だま)しをつたな?

誤魔化したつて知つてるぞ、我が此の地球は、
壮観な、宇宙讃歌(ホザナ・ホザナ)のその中で、
茶番の掛かる、たかゞ芝居の小屋ではないか。

(「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫より)

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2011年7月20日 (水)

ラフォルグ<11>堀口大学が訳した4作品

堀口大学の
訳詩集「月下の一群」が発刊されたのは
大正14年(1925年)9月のことですから
中原中也が
これを入手し
何度となく読んだことは間違いありません。

上田敏の「海潮音」が明治38年(1905年)の発行
「牧羊神」は、死後刊行で
大正9年(1920年)のことでした。

中原中也は明治40年(1907年)生れで
上田敏は
明治7年(1874年)生まれで
大正5年(1916年)には亡くなっていますから
中原中也には父親の世代であり
一時代前を生きた人ですが
堀口大学は
明治25年(1892年)生まれで
昭和56年(1981年)まで生きた人で
中原中也が書いた昭和11年7月21日の日記には

山本書店に行く。堀口大学を訪ねる、留守。山内義雄に会って山本書店の言付を伝
える。三好達治の所へ寄る。(略)

という記述があるほか
堀口大学の著作を購入した記録が
日記の随所に現れますし
昭和2年4月13日の日記には

堀口大学、おまへがどうして男と生れて来たやら。おまへが少女と生れなかつたから
には意久地があつたものとみえる。その意久地とは蓋し品性下劣に関する。

などという「こきおろし」も見られます。

昭和のはじめから晩年に至るまで
日記に記すほどに
関心・関係を継続していたということですし
堀口大学を
中原中也は
同時代に生きていた文学者と見なす眼差しがあったから
それだけで「対等」であり
自由な批判の対象範囲にありました。

これは東京帝大仏文科の教官・辰野隆を
「夜襲」した関係などと
同じことでした。

上田敏が生きていれば
同じ風に
夜襲していたかもしれませんが
堀口大学の訳詩が
上田敏のよりも
モダンで今風に映じていたのか
より新鮮に感じられていたことも
想像するのにむずかしいことではありません。

中原中也にとって
上田敏は前世代
堀口大学は同時代だったのです。

堀口大学が
「月下の一群」の中に訳出した
ジュール・ラフォルグの詩4作品を
見ておくことにします。

新月の連祷
    ジュール・ラフォルグ

不眠症に
めぐまれた月よ、

エンデミオンの
白い頸飾(メダイヨン)よ、

住む人もない
化石の星よ、

サランボーの
ねたみの墓よ、

果(はて)しれぬ神秘の
波止場よ、

聖母(マドンナ)よ! 令嬢(ミス)よ!
ディアーヌ、アルテミスよ!

われ等が夜遊びの
聖(せい)みはりよ!

骨牌(かるた)あそびの
呪禁(まじなひ)よ、

露台の上の
つかれた夫人よ、

蛍をそそのかす
媚薬(ほれぐすり)よ、

最後の賛美歌よ、
窓よ、円屋根よ、

われ等が救ひの猫の
美しい眼よ、

おお、われ等が信仰の
野戦病院になつておくれ!

聖大赦免の
羽蒲団になつておくれ!

最後の一つの手前の言葉

宇宙かね?
――おれの心は
そこで死んで行くのさ
あとものこさずに……。

本当を云ふと、地球をとりまくあの天井は
大そう薄情に出来ているのさ。

女?
――おれはそこから生れて来てる、
魂の中に
死を抱(だ)いて……。

本当を云ふと、方角ちがひの二人が
一番愛し合へるのさ。

夢かい?
――結構なものさ
終りさへ
見られたら……。

本当を云ふと、人生は短かく
夢は長いよ。

すると
各自(てんで)が差配する

この肉体で
何をしたらよいのか?

本当に、おお、歳月よ、
この豊かな肉体で、何をしたらよいのか?

これや
ここや
かしこや……。

本当を云ふと、本当を云ふと、これだけさ。
その外は、なるやうにするがよいのさ。

ピエロの言葉

かくしの中へ両手をつつこんで
道を歩きながら
わしは聴く
百千の寺の鐘が
「貴様の知らぬ間に
時は近づくぞ」と歌ふのを!
何と! 神様なんかに、用はござらぬ!
ここはわが安住でさあ!
どうやらなつかしい
あの天井、
あれがわしのすべてでさあ。
わしはまつすぐに歩きます。
わしは曲がつた事は真平だ。
嘘の
はきだめのやうな、
歴史も、自然も、
わしは悉皆(しつかい)承知です、
ちよいと皆さんに申上げて置きますが、
わしは真面目で、云つてゐますよ。

五分間写生

    オフェリア  わが君、それは儚なうございます。
    ハムレット  女子(をなご)の恋のやうにぢや。

おや、おや! 天気が変るわい、
雷さまも遠くない、
人たちは大急ぎで
乾草をしまひこむ!

腫(はれ)ものがやぶれる!
夕立がふり出す!
これはしたり
洪水どもの大げんくわ! ……

おや! おや! これはまた、
雨傘の行列だ!
おや! おや! 破産しかけた
この自然! ……

私の窓で
非人情な様子の
フクシャの花が一輪
よみがへる。

(新潮文庫「月下の一群」堀口大学訳詩集より)
※旧漢字を新漢字に改めてあります。編者。

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2011年7月19日 (火)

ラフォルグ<10>上田敏が訳した7作品

中原中也がラフォルグの詩を翻訳するにあたって
参考にした書物があったとすれば
何だろうと考えたときに
岩野泡鳴訳のアーサー・シモンズ「表徴派の文学運動」とか
辰野隆・鈴木信太郎の共著「信天翁の眼玉」とか
鈴木信太郎の「近代仏蘭西象徴詩抄」があがってくるのですが
これら著作は
中原中也が手分けして手に入れたようには
現在、一般の読者が入手できるものではありません。

そもそも
単刊発行されたこれらの著作は
現在では絶版になっていて
あったとしても
高級古書扱いですし
全集の中に収められていますから
なかなか読むことが困難なのです。

散文著作は
古書化しやすく
韻文(詩)であれば
古語文語のままでも
長い命を保つことができるという事情も
関係しているかもしれません。

となると
上田敏の「牧羊神」中のラフォルグの詩の翻訳か
堀口大学の「月下の一群」中のラフォルグ訳か
現在でも比較的に手に入りやすいのは
この2著ということになり
この2著なら
中原中也も随分と親しく読んだ書物であろうことが想像されますから
とりあえずは
この2著のラフォルグに目を通しておきましょう。

上田敏訳ラフォルグは
「牧羊神」に7作品が
収録されています。

※以下、岩波文庫「上田敏全訳詩集」より引用。
※新漢字を使用しています(編者)

 ◇

お月様のなげきぶし    
            ジュル・ラフォルグ

星の声がする

  膝の上、
  天道様の膝の上、
踊るは、をどるは、
  膝の上、
  天道様の膝の上、
星の踊のひとをどり。

――もうし、もうし、お月様、
そんなに、つんとあそばすな。
をどりの組へおはひりな。
金の頸環(くびわ)をまゐらせう。

おや、まあ、いつそ有難(ありがた)い
思召(おぼしめし)だが、わたしには
お姉様(あねえさま)のくだすつた
これ、このメダルで沢山よ。

――ふふん、地球なんざあ、いけ好(すか)ない、
ありやあ、思想の台(だい)ですよ。
それよか、もつと歴(れき)とした
立派な星がたんとある。

――もう、もう、これで沢山よ、
おや、どこやらで声がする。
――なに、そりや何(なに)かのききちがひ。
宇宙の舎密(せいみ)が鳴るのでせう。

――口のわるい人たちだ、
わたしや、よつぴて起きてよ。
お引摺(ひきずり)のお転婆(てんば)さん、
夜遊(よあそび)にでもいつといで。

――こまつちやくれた尼(あま)つちよめ、
へへへのへ、のんだくれの御本尊(ごほんぞん)、
掏摸(すり)の狗(いぬ)のお守番(もりばん)、
猫の恋のなかうど、
あばよ、さばよ。

衆星退場。静寂と月光。遥かに声。
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじよ)のその下(した)で、
踊るは、をどるは、
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじよ)のその下(した)で、
星の踊をひとをどり。

 ◇

月光
          ジュル・ラフォルグ

とてもあの星には住まへないよ思ふと、
まるで鳩尾(みづおち)でも、どやされたやうだ。

ああ月は美しいな、あのしんとした中空(なかぞら)を
夏八月(なつはちぐわつ)の良夜(あたらよ)に乗(の)つきつて。

帆柱(ほばしら)なんぞはうつちやつて、ふらりふらりと
転(こ)けてゆく、雲のまつ黒(くろ)けの崖下(がけした)を。

ああ往(い)つてみたいな、無暗(むやみ)に往(い)つてみたいな、
尊(たふと)いあすこの水盤(すいばん)へ乗(の)つてみたなら嘸(さぞ)よからう。

お月(つき)さまは盲(めくら)だ、険難至極(けんのんしごく)な燈台だ。
哀れなる哉(かな)、イカルスが幾人(いくたり)も来ておつこちる。

自殺者の眼のやうに、死(あが)つてござるお月様、
吾等疲労者大会の議長の席につきたまへ。

冷たい頭脳で遠慮無く散々(さんざん)貶(けな)して貰(もら)ひませう、
とても癒(なほ)らぬ官僚主義で、つるつる禿(は)げた凡骨(ぼんこつ)を。

これが最後の睡眠剤か、どれひとつその丸薬(ぐわんやく)を
どうか世間の石頭(いしあたま)へも頒(わ)けて呑(の)ませてやりたいものだ。

どりや袍(うわぎ)を甲斐甲斐(かひがひ)しくも、きりりと羽織(はお)つたお月さま、
愛の冷えきつた世でござる、何卒(なにとぞ)箙(えびら)の矢をとつて、

よつぴき引いて、ひようと放(う)ち、この世の住まふ翅無(はねなし)の
人間どもの心中(しんちゆう)に情(なさけ)の種(たね)を植えたまへ。

大洪水(だいこうずい)に洗はれて、さっぱりとしたお月さま、
解熱(げねつ)の効(かう)あるその光、今夜(こんや)ここへもさして来て、

寝台(ねだい)に一杯(いつぱい)漲(みなぎ)れよ、さるほどに小生も
この浮世から手を洗ふべく候(さふらふ)。

 ◇

ピエロオの詞

          ジュル・ラフォルグ

また本(ほん)か。恋しいな、
気障(きざ)な奴等(やつら)の居ないとこ、
銭(ぜに)やお辞儀(じぎ)の無いとこや、
無駄の議論の無いとこが。

また一人(ひとり)ピエロオが
慢性孤独病で死んだ。
見てくれは滑稽(をかし)かつたが、
垢抜(あかぬけ)のした奴(やつ)だつた。

神様は退去(おひけ)になる、猪頭(おかしら)ばかり残つてる。
ああ天下の事日日(ひび)に非なりだ。
用もひととほり済んだから、
どれ、ひとつ、「空扶持(むだぶち)」にでもありつかう。

 ◇

月の出前の対話

――そりやあ真(しん)の生活もしてはみたいさ、
だがね、理想といふものは、あまり漠(ばく)としてゐる。

――そこが理想なんだ、理想の理想たるところだ。
訳(わけ)が解(わか)るくらゐなら、別の名がつく。

――しかし、何事も不確(ふたしか)な世の中だ。哲学また哲学、
生れたり、刺違(さしちがへ)たり、まるで筋(すぢ)が立つてゐない。

――さうさ、真(しん)とは生(い)きるのだといふんだもの、
絶対なんざあ、たつ瀬(せ)があるまい。

――ひとつ旗を下(おろ)して了(しま)はうか、えい、
お荷物はすつかり虚無(きよむ)へ渡して了(しま)はう。

――空(そら)から吹きおろす無辺(むへん)の風の声がいふ、
「おい、おい、ばかもいゝ加減にしなさい。」

――もつとも、さうさな「可能(かのう)」の工場(こうぢやう)の汽笛は、
「不可思議」のかたへ向つて唸(うな)つてはゐる。

――其間(そのかん)唯(たゞ)一歩(いつぽ)だ。なるほど黎明(しのゝめ)と
曙のあはひのちがひほどである。

――それでは、かうかな、現実とは、少(すく)なくとも
「或物」に対して益があるといふことか。

――そこでかうなる、ねえ、さうぢやないか、
薔薇(ばら)の花は必要である――其必要に対してと。

――話が少(すこ)し妙(めう)になつて来たね、
すべては循環論法に入(はひ)つてくる。

――循環はしてゐるが、これが凡(すべ)てだ。
           ――何だ、さうか、
なら、いつそ月の方(はう)へいつちまはう。

 ◇

冬が来る

感情の封鎖(ふうさ)。近東行(きんとうゆき)の郵船(いうせん)……
ああ雨が降(ふ)る、日が暮れる、
ああ木枯の声……
萬聖節(ばんせいせつ)、降誕祭(かうたんさい)、やがて新年、
ああ霧雨(きりさめ)の中(なか)に、煙突(えんとつ)の林……
しかも工場の……

どのベンチも皆(みんな)濡れてゐて腰を下(おろ)せない。
とても来年にならなければ徒目(だめ)だ。
どのベンチも濡れてゐる、森もすつかり霜枯れて、
トントン、トンテンと、もう角笛(つのぶえ)も鳴つて了つた。

ああ、海峽(かいけふ)の浜辺(はまべ)から駆(か)けつけた雲のおかげで、
前の日曜もまる潰(つぶ)れだつた。

霧雨(きりさめ)が降(ふ)つてる、
づぶ濡の木立(こだち)にかけた蜘蛛の網(す)は、
水玉(みづたま)の重(おも)みに弛(たる)んで毀(こは)れて了(しま)つた。
豊年祭(ほうねんまつり)のころに、
砂金(しやきん)の波の光を漂はせて、豪勢(がうせい)な景気(けいき)だつた日光は
今どこに隠れてゐる。
けふの夕方は、泣きだしさうな日が、丘の上(うへ)の
金雀花(えにしだ)の中(なか)で外套(まはし)を羽織(はお)つたまま、横向(よこむき)に臥(ね)てゐる。
薄れた白(しろ)つぽい日の目(め)は酒場(さかば)の床(ゆか)に吐散(はきち)らした痰(たん)のやうで、
黄(き)いろい金雀花(えにしだ)の敷藁(しきわら)と、
黄(き)いろい秋の金雀花(えにしだ)を照してゐる。
角笛(つのぶえ)が頻に呼んでゐる、
帰れ……
帰れと呼んでゐる。
タイオオ、タイオオ、アラリ。
ああ悲しい、もう已(や)めてくれ……
堪(たま)らなく悲しい……
日は丘の上(うへ)に臥(ね)てゐて、頸筋(くびすぢ)から取つた腺(せん)のやうだ、
日は慄(ふる)へてゐる、孤(ひとり)ぼつちで……

さ、さ、アラリ!
熟知(おなじみ)の冬が来たぞ、来たぞ。
ああ、街道(かいだう)の紆曲(まがりくねり)に、
「赤外套(あかまんと)の児(こ)」も見えない。
ああ此間(こなひだ)通つた車の跡が、
ドン・キホオテ流(りう)に、途方(とはう)も無い勇気を出して、
総崩(そうくづれ)になつた雲(くも)の斥候隊(せきこうたい)の方(はう)へ上(のぼ)つてゆくと、
風はその雲を大西洋上(たいせいやうじやう)の埒(らち)へと追ひたてる。
急げ急げ、こんどこそ本当(ほんと)だ。

昨夜(ゆうべ)は、よくも吹いたものだ。
やあ、滅茶苦茶(めちやくちや)だ、そら、鳥の巣も花壇(くわだん)も。
ああわが心、わが眠(ねむり)、それ、斧の音(ね)が響く。

きのふまでは、まだ青葉の枝、
けふは、下生(したばえ)に枯葉(かれは)の山、
大風(おほかぜ)に芽も葉も揉(も)まれて、
一団(ひとかたまり)に池へ行く。
或(あるひ)は猟(かり)の番舍(ばんや)の火に焼(く)ばり、
或(あるひ)は遠征隊の兵士が寝(ね)る
野戦病院用の蒲団に入(はひ)るだらう。

冬だ、冬だ、霜枯時(しもがれどき)だ。
霜枯(しもがれ)は幾基米突(いくきろめえとる)に亘る鬱憂を逞しうして
人(ひと)つ子(こ)ひとり通らない街道(かいだう)の電線を腐蝕してゐる。

角笛(つのぶえ)が、角笛(つのぶえ)が――悲しい……
角笛(つのぶえ)が悲しい……
消えて行く音色(ねいろ)の変化、
調(てう)と音色(ねいろ)の変化、
トントン、トンテン、トントン……
角笛(つのぶえ)が、角笛(つのぶえ)が
北風(きたかぜ)に消えてゆく。

耳につく角笛(つのぶえ)の音(ね)、なんとまあ余韻(よゐん)の深い音(おと)だらう……
冬(ふゆ)だ、冬(ふゆ)だ。葡萄祭(ぶだうまつり)も、さらば、さらば……
天人(てんにん)のやうに辛抱づよく、長雨(ながあめ)が降(ふ)りだした。
おさらば、さらば葡萄祭(ぶだうまつり)、さらばよ花籠、
橡(とち)の葉陰の舞踏(ぶたふ)の庭のワットオぶりの花籠よ。
今、中学の寄宿舍に咳嗽(せき)の音(おと)繁(しげ)く、
暖炉に火は消えて煎薬が匂ひ、
肺炎が各區(かくく)に流行して
大都会のあらゆる不幸一時に襲来する。

さりながら、毛織物、護謨(ごむ)、薬種店(やくしゆてん)、物思(ものおもひ)、
場末の町の屋根瓦(やねがはら)の海に臨んで、
その岸とも謂(いつ)つべき張出(はりだし)の欄干近(らんかんぢか)い窓掛(まどかけ)、
洋燈(ランプ)、版絵(はんゑ)、茶(ちや)、茶菓子(ちやぐわし)、
樂(たのしみ)は、これきりか知(し)ら。
(ああ、まだある、それから洋琴(ピアノ)のほかに、
毎週一回、新聞に出る、
あの地味(ぢみ)な、薄暗い、不思議な
衛生統計表さ。)

いや、何しろ冬がやつて来た。地球が痴呆(ばか)なのさ。
ああ南風(なんぷう)よ、南風(なんぷう)よ、
「時(とき)」が編みあげたこの古靴(ふるぐつ)を、ぎざぎざにしておくれ、
冬だ、ああ厭な冬が來た。
毎年(まいねん)、毎年(まいねん)、
一々(いちいち)その報告を書いてみようとおもふ。

 ◇

日曜

ハムレツト――そちに娘があるか。
ポロウニヤス――はい、御座りまする。
ハムレツト――あまり外へ出すなよ。腹のあるのは結構だが、そちの娘の腹に何か出来ると大変だからな。

しとしとと、無意味に雨が降る、雨が降る、
雨が降るぞや、川面(かはづら)に、羊の番の小娘(こむすめ)よ……

どんたくの休日(やすみ)のけしき川に浮び、
上(かみ)にも下(しも)にも、どこみても、艀(はしけ)も小船(こぶね)も出て居ない。

夕がたのつとめの鐘が市(まち)で鳴る。
人気(ひとけ)の絶えたかしっぷち、薄ら寂しい河岸(かし)っぷち。

いづこの塾の女生徒か(おお、いたはしや)
大抵はもう、冬支度(ふゆじたく)、マフを抱(かゝ)へて有(も)つてるに、

唯ひとり、毛の襟卷もマフも無く
鼠の服でしよんぼりと足を引摺(ひきず)るいぢらしさ。

おやおや、列を離れたぞ、変だな。
それ駆出(かけだ)した、これ、これ、ど、ど、どうしたんだ。

身を投げた、身を投げた。大変、大変、
ああ船が無い、しまつた、救助犬(きうじよいぬ)も居ないのか。

日が暮れる、向の揚場(あげば)に火がついた。
悲しい悲しい火がついた。(尤もよくある書割(かきわり)さ!)

じめじめと川もびっしより濡れるほど
しとしとと、訳もなく、無意味の雨が降る、雨が降る。

 ◇

日曜日

日曜日には、ゆかりある
阿(ちきやうだい)の名誦(なよ)みあげて
珠数(じゆず)爪繰(つまぐ)るを常(つね)とする。

オルフェエよ、若きオルフェエ、
アルフェエ川の夕波に
轟きわたる踏歌(たふか)の声……

パルシファル、パルシファル、
おほ禍(まが)つびの城壁(じやうへき)に
白妙(しろたへ)清き旗じるし……

プロメテエ、プロメテエ、
不信心者(ふしんじんしや)の百代(ひやくだい)が
口伝(くちづて)にする合言葉(あひことば)……

ナビュコドノソル皇帝は
金(きん)の時代の荒御魂(あらみたま)、
今なほこれらを領(りやう)するか……

さて、つぎに厄娃(えわ)の女(むすめ)たち、
われらと同じ運命の
乳に育つた姉妹(あねいもと)……

サロメ、サロメ、
恋のおほくが眠つてる
蘭麝(らんじや)に馨(かを)る石の唐櫃(からうど)……

オフェリイ姫はなつかしや、
この夏の夜(よ)に来たまはば
人雑(ひとまぜ)もせず語(かた)らはう……

サラムボオ、サラムボオ、
墓場の石にさしかゝる
清い暈(かさ)きた月あかり……

おほがらの后(きさき)メッサリイヌよ、
紗(しや)の薄衣(うすぎぬ)を掻(か)きなでて、
足音(あしおと)ぬすむ豹の媚(こび)……

おお、いたいけなサンドリヨン、
蟋蟀(こほろぎ)も来(こ)ぬ炉のそばで、
裂(き)れた靴下(くつした)縫つてゐる……

またポオル、 ルジニイ、
殖民領(しよくみんりやう)の空のもと
さても似合(にあひ)の女夫雛(めをとびな)……

プシケエよ、ふはり、ふはりと
罪(つみ)の燐火(おにび)に燃えあがり、
消えはしまいか、気にかかる……

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2011年7月18日 (月)

ラフォルグ<9>月とピエロの詩人

大岡昇平によると
中原中也がラフォルグの詩の翻訳に取り組んだのは
昭和11年末か12年初めからだそうです。

ということは
愛息・文也が亡くなり(昭和11年11月10日)、
千葉の中村古峡療養所に入退院した頃(昭和12年1、2月)ということになり
もはや「晩年」の作業ということになります。

ランボーの翻訳を
一通りやってみて
区切りをつけたところで
ベルレーヌ、
ネルヴァル、
ヴィヨン
ボードレール
マラルメ
ヴァルモール
といった名のある詩人の詩から
ジッド
リード
レッテ
ルセギエ
カーン
コルビエール
ノアイユ
レールモントフ
カルコ
クロス
グラムージャン
といった
マイナーポエット(当時)の韻文
さらには
散文の翻訳へも手を広げていきます。
こうした仕事の
「終わり」の時期に
ラフォルグの翻訳が試みられたということになります。

上田敏訳や堀口大学訳のラフォルグが
こうして中原中也のラフォルグ訳という仕事の中で
参照されたはずですが
ラフォルグの詩を翻訳することそのものに参照されたばかりか
中原中也が自作詩を制作する場面で
その詩の血となり肉としていったことに
気づかないわけにはいきません。

そうして作られた詩は
「在りし日の歌」中の「月」や
「山羊の歌」中の「都会の夏の夜」ばかりではないことを知れば
あらためて
世界に詩人は3人いる!
と中原中也が日記の中で叫んだ
発言の意味を再確認することになるでしょう。

月とか
メダルとか
月光とか
星とか
地球とか
太陽とか
空とか
宇宙とか
舎密とか
道化とか
ピエロとか
……

中原中也の詩を
ラフォルグの影響という角度でみれば
これら中原中也の詩に現れる
舞台や登場人物には
「月とピエロの詩人」ラフォルグの影が射しているのだなあ
とあらためて
影響には大きいものがあることを知ります。

ここに
中原中也訳ラフォルグ3作品を
一挙に引いておきます。

 *
謝肉祭の夜
          ジュール・ラフォルグ

巴里は今晩大騒ぎ。弔鐘の如く時計台、
一時を打つ。歌へ! 踊れ! 朝露の命、
すべては空しい、――、さて空に、月は夢みる
生類の、発生以前と変りもなく。

なんと因果なことではないか! すべては閃きすべては過ぎる。
真理だ、愛だと、巧い言葉に乗せられながら
行手はいづこだ? とどのつまりは
地球が虚空で破裂して、影も形もなくなるまでか?

いろいろ歴史が並べて呉れる、叫びや涙や高言の
反響(こだま)は何処で、何時するのやら、
ねえ、バビロンよ、メンフィスと、ベナレス、テーベよ、ねえ羅馬、
おまへら廃墟でけふ此の頃は、風が花粉を運んでゐるよ。

さてこの俺だが、あと幾日を生きるやら?
俺は大地に身を投げつけて、叫びおののく、
永久返らぬ諸世紀の、綺羅(きら)燦然(さんぜん)の目の前で、
神意も通はぬ無心(こころな)の、涅槃(ねはん)の中の只中で!

と、聞えるぞ、静かな戸外(そとも)に、
響く跫音(あしおと)、悲しげな歌
祭りの帰りのへべれけの、労働者かな、
何れそこらの銘酒屋に、なんとなく泊まるのだらう。

おゝ、人の世は、あんまり悲しい、あんまりあんまり悲しいぞ!
お祭りといふお祭が、いつも涙の種となる。
《是空(ぜくう)だ、是空だ、一切是空だ!》
ところで俺の思ふこと、――ダヴィデの死灰やいまいづこ。

 *
でぶっちょの子供の歌へる
          ジュール・ラフォルグ

お亡くなりになつたのは
心臓病でです、お医者は僕にさう云つたけが、
   ティル ラン レール!
   気の毒なママ。
僕もあの世に行つてしまはう、
ママと一緒にねんねをするんだ。
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

往来で、みんなは僕を嗤(わら)ふんだ、
僕の様子が可笑しんだつて
   ラ イ トウ!
   知るもんか。
あゝ! でも一歩(ひとあし)あるくたんびに
息は切れるし、よろよろもする!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

それで野原に僕は行くんだ
夕陽が見えると泣けて来るんだ 
   ラ リ レット!
   泣けてくるんだ。
よく知らないけど、だつて夕陽は
流れる心臓みたいぢやないか!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

あゝ! もし可愛いいジュヌヴィエーヴが
この心臓をお呉れといつたら、
   ピ ル イ!
   あいよだ!
僕は黄色で悲しげなんだ!
彼女は薔薇色、おまけに陽気さ!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

だいたいみんなが意地悪過ぎらあ、
夕陽を除(ど)けたらみんな意地悪だ、
   ティル ラン レール!
夕陽とママと、
僕もあの世に行つてしまはう
ママと一緒にねんねをするんだ……
ホラ、ね、ホラ、ホラ、僕の心臓……
ね、ママ、僕を呼んでるのでせう?

 *
はかない茶番
          ジュール・ラフォルグ

バベルを幾つ集めても、威張つた所で泣いた所で、
人間という夢想家は、一小世界の蛆虫(うじむし)と、
とくと考へみるほどに、あんまし滑稽で仕方がない、
いくら考へ直してみても、いつも結局おなじこと。

それ劫初、涯なき海が造られてより、
天辺は、いつも変らぬ無辺際、
恒星は、続々々々繁殖し、その各々が
人畜棲息の惑星を、夫々引率れてゐるといふわけ……

いやはや言語道断な! これではあんまり可笑(おか)しくて!
と、不感無覚の空にむけ、俺は拳固を振上げた!
空の奴、随分俺を騙(だま)しをつたな?

誤魔化したつて知つてるぞ、我が此の地球は、
壮観な、宇宙讃歌(ホザナ・ホザナ)のその中で、
茶番の掛かる、たかゞ芝居の小屋ではないか。

(「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫より)

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2011年7月17日 (日)

ラフォルグ<8>上田敏「牧羊神」から・続

矢野峰人による
「牧羊神」の解説中の
上田敏訳のヴェルハーレン「悲哀」の引用は、

 権衡を知らずゆくりなき冒険を喜び、雑駁を嗜む趣味があるに於て、ラフォルグはコルビエルと旗幟を同うすれど、たゞ、しかく狂暴の乱なし。天性やや巫蠱の俤あれど思想の深遠なるを珍とす。心を独逸の理想説に浸してカント、フィヒテの遵勁荘厳なる学説を味へり。詩風やや蕪雑にして彫鏤の痕なく所謂一気呵成の趣あるが為めに哲学のこちたき術語を詩歌に挿みて甚しく人耳を聳動せざりしこそ騒客群中独特の長なりけれ。之を要するに彼は終に療す可からず。心くねり情倦じたる一介の驕児にして悲哀を視ること諧謔の如く、之を掌上に翻弄して得得たり。
 コルビエル、ラフォルグに於て、精神の擾乱は怡然たる穉気と共に並びぬ。抑ふべからざる仏蘭西気質は、破壁に匂ふ野花の如く形美しく色艶に香たとへなし。

で終わり、
トリスタン・コルビエルと
ジュル・ラフォルグの項に代えられます。

漢籍の素養がなければ
文学の創造に関わることが難しく
鑑賞することさえできるものではなく
漢語漢文まじり文語荘重体で
西欧・英米の文化文芸の動向なども
案内されるのが普通だった時代の
手本のような記述ですが
時の文学青年や学生や読書家や研究者さえもが
このような文章を貪るように読んでいたのでしょうか。

という問いは
中原中也も
このような文章と
日常的に接触していたのでしょうか
と問い返すことにつながってゆきます。

2011年現在、
「上田敏全訳詩集」は
矢野峰人と山内義雄の共同編集になっていますが
「牧羊神」に付されていた解説は削除され
新たに
昭和37年(1962年)10月の日付入りで
両人の連名による解説が掲出されています

その、ラフォルグの項は
簡約化され

ジュル・ラフォルグ(Jules Laforgue,1860-1887) 近代フランス詩界に於ける「自由詩」創始者の一人。(彼をしてその「創始者」と為(な)す人があるが、問題はまだそこまでは解決されていないので、一応の注意が必要だろ)。その詩に横溢(おういつ)するアイロニイは、特に英米近代詩人の共鳴を買い、その結果、現代にいたって大に珍重されることとなった。

と変更され
代わりに
訳出された7作品の初出を明らかにしています。

コルビエルと
ひとまとめになったような旧解説以後
研究が進んだための変更のようです。

この「上田敏全訳詩集」で特筆されるべきいくつかの事柄は
新たな解説の中に
記されていますが
中原中也に関わる最大のニュースは
ランボオの「酔ひどれ船」の訳出が
未定稿ながら収録されたことにあります。

(つづく)

 *
月光
          ジュル・ラフォルグ

とてもあの星には住まへないよ思ふと、
まるで鳩尾(みづおち)でも、どやされたやうだ。

ああ月は美しいな、あのしんとした中空(なかぞら)を
夏八月(なつはちぐわつ)の良夜(あたらよ)に乗(の)つきつて。

帆柱(ほばしら)なんぞはうつちやつて、ふらりふらりと
転(こ)けてゆく、雲のまつ黒(くろ)けの崖下(がけした)を。

ああ往(い)つてみたいな、無暗(むやみ)に往(い)つてみたいな、
尊(たふと)いあすこの水盤(すいばん)へ乗(の)つてみたなら嘸(さぞ)よからう。

お月(つき)さまは盲(めくら)だ、険難至極(けんのんしごく)な燈台だ。
哀れなる哉(かな)、イカルスが幾人(いくたり)も来ておつこちる。

自殺者の眼のやうに、死(あが)つてござるお月様、
吾等疲労者大会の議長の席につきたまへ。

冷たい頭脳で遠慮無く散々(さんざん)貶(けな)して貰(もら)ひませう、
とても癒(なほ)らぬ官僚主義で、つるつる禿(は)げた凡骨(ぼんこつ)を。

これが最後の睡眠剤か、どれひとつその丸薬(ぐわんやく)を
どうか世間の石頭(いしあたま)へも頒(わ)けて呑(の)ませてやりたいものだ。

どりや袍(うわぎ)を甲斐甲斐(かひがひ)しくも、きりりと羽織(はお)つたお月さま、
愛の冷えきつた世でござる、何卒(なにとぞ)箙(えびら)の矢をとつて、

よつぴき引いて、ひようと放(う)ち、この世の住まふ翅無(はねなし)の
人間どもの心中(しんちゅう9に情(なさけ)の種(たね)を植えたまへ。

大洪水(だいこうずい)に洗はれて、さっぱりとしたお月さま、
解熱(げねつ)の効(かう)あるその光、今夜(こんや)ここへもさして来て、

寝台(ねだい)に一杯(いつぱい)漲(みなぎ)れよ、さるほどに小生も
この浮世から手を洗ふべく候(さふらふ)。

(岩波文庫「上田敏全訳詩集」より)※新漢字を使用しています(編者)

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2011年7月16日 (土)

ラフォルグ<7>上田敏「牧羊神」から

ジュール・ラフォルグは
どんな詩人だったのかと
それも
昭和初期に
どのように紹介されていたのだろうかと
探してみるのですが
「表徴派の文学運動」(アーサー・シモンズ、岩野泡鳴訳)とか
「信天翁の眼玉」(辰野隆、鈴木信太郎共著)や、
「近代仏蘭西象徴詩抄」(鈴木信太郎著)……などは
文庫本で読めるというわけではなく
いまだに
専門家、研究者、学者、好事家らにしか手の届かない
「高嶺の花」の状態で唖然とせざるを得ませんが
それらしきものが一つ。

新潮文庫の古書に
昭和28年(1953年)3月発行の「牧羊神」があり
これは
現在の岩波文庫「上田敏全訳詩集」(山内義雄、矢野峰人編)の
「前身」であろうと思われますが
この中の解説を
1952年(昭和27年)11月の日付で
矢野峰人が書いていまして
上田敏の業績のアウトラインが記されています。

この解説中に
ラフォルグに関するくだりがありますが
それは
上田敏が明治30年に訳出した
エミール・ヴェルハーレンの「悲哀」を引用する中のことになります。

上田敏訳のヴェルハーレン「悲哀」を
中原中也が読んだというものでもないのですが
(読んだかもしれませんが確定できるものでもありません)
漢文調の文語荘重体というのでしょうか
文学の言葉がこのようなものであったということを
知っていても無駄ではなさそうでもあるし
ここでこの解説の一部を読んでみます。

矢野峰人の解説は
トリスタン・コルビエルを案内する中で
ラフォルグにも触れ、
「悲哀」を引用しているのです。
(原文は、旧漢字・歴史的仮名遣いで表記されていますが新漢字に改めました。編者)

「(略)仏蘭西最近の哀観詩人、トリスタン・コルビエル、ジュル・ラフォルグは(既に没せし人のみを挙ぐれば)鬱憂の情緒に鋭利の刃を加へたり。大胆なる詩律の革新を道破して、微妙(いみ)じき成功ありしと共に根本の愁思を冷誚の文字に行りぬ。されば其最も侘しき歌を貫きて、怪しき歓、うれたき戯の走れるを覚ゆ。怜悧、人に秀れたる涙の市を、仏蘭西詩文に輸入したるは彼等なり。(略)」

そして
ジュル・ラフォルグの項で

象徴派に属するフランス詩人、その詩風は儕輩と大に趣を異にし、真の意味のユーモアとペイソスとに富み、繊細なる神経と複雑なる心理との泣き笑の状態を示す。また、フランス詩壇に於ける自由詩の開拓者としての功績も大きい。

と概括したあとで
「悲哀」からの引用を続けます。

(つづく)

 *
ピエロオの詞

          ジュル・ラフォルグ

また本(ほん)か。恋しいな、
気障(きざ)な奴等(やつら)の居ないとこ、
銭(ぜに)やお辞儀(じぎ)の無いとこや、
無駄の議論の無いとこが。

また一人(ひとり)ピエロオが
慢性孤独病で死んだ。
見てくれは滑稽(をかし)かつたが、
垢抜(あかぬけ)のした奴(やつ)だつた。

神様は退去(おひけ)になる、猪頭(おかしら)ばかり残つてる。
ああ天下の事日日(ひび)に非なりだ。
用もひととほり済んだから、
どれ、ひとつ、「空扶持(むだぶち)」にでもありつかう。

(岩波文庫「上田敏全訳詩集」より)※新漢字を使用しています(編者)

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2011年7月15日 (金)

ラフォルグ<6>辰野隆、鈴木信太郎

「レコード芸術」2011年7月号の
「特集・吉田秀和」の「インタヴュー1」は
「回想の1913~1945年 誕生から終戦まで」として
吉田さんの誕生から青春時代へ
そして音楽評論家として出発する戦後までが
聞き手である音楽学者・白石美雪の問いに答えて
克明に語られています。

その中で
音楽の道へ進むことになる
決定的な言葉を投げかけたのが
中原中也だった、という
これはよく話されたり
書かれたりするエピソードを語るのですが
当然、中原中也が親しく交流していた
音楽集団「スルヤ」の話になり
そこで
諸井三郎というよりも
内海誓一郎に楽理を学ぶように、と
言われたことを明かします。

それを語るくだりを、抜粋引用しますと

白石 では、先生が和声学や楽典を勉強されたのは大学に入ってから?
吉田 いえ、勉強を始めたのは高校生の時です。中原中也という男と知り合いになったのですが、ある時中原が「お前、そんなに音楽をやりたいんだったら、少し楽理ってのを勉強しろ。学校がだめなら個人教授を受ければいいじゃないか。諸井三郎のところに行くのもいいけど、あいつはこの頃モダニストになって少し浮かれているから、もう少し確実なところから勉強したほうがいいんじゃないか。諸井と一緒にスルヤをやっていた内海誓一郎のところへ行って和声学を習ったらどうか」という。そして中原が内海誓一郎のところへ連れていってくれて「こいつが音楽をやりたいというんで、ちょっと見てやってくれないか」なんてことになった。で、僕は彼に和声学を習いました。

となり、
このあと
富永太郎の詩に
吉田さんが作曲した! などという
びっくり仰天の秘話なども
初公開されるのですが
次の

白石 大学に入ってから、音楽の勉強はどうされたのですか。
吉田 大学にはあまり行きませんでした。ただ、辰野隆先生の講義と、鈴木信太郎先生のフランス語の詩の講義は聞きました。
白石 では、普段は何をしていらしたのでしょうか。
吉田 つまらない音楽の本を一生懸命読んだり(笑)、和声の勉強をしたり、詩人の吉田一穂とか中原中也とかに会ったり、そういうことをしていました。(略)

というあたり。
この、辰野隆、鈴木信太郎の両先生が登場するあたりが
当時の東大フランス文学科の人気ぶりを
垣間見せてくれるところで
中原中也も
辰野・鈴木両先生の講義を
自主聴講する学外生だったわけですから
吉田さんとここで出くわすというようなこともあったのかなあ、と
このインタビューでは語られなかった場面を
想像してみたりします。

(つづく)

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2011年7月14日 (木)

ラフォルグ<5>牧羊神、月下の一群

ラフォルグの詩が紹介されたのは
上田敏による訳詩集「牧羊神」が
初めてであろうと思われますが
「牧羊神」が出版されたのは
大正9年10月でした。

この中に
「お月様のなげきぶし」以下
「月光」
「ピエロオの詞」
「月の出前の対話」
「冬が来る」
「日曜」
「日曜日」の7篇が収められていますから
中原中也は
これらの訳詩を容易に読むことができました。

ほかには
堀口大学の「月下の一群」が
大正14年(1925年)9月に発行されていますから
この中にも
ジュール・ラフォルグの
「新月の連祷」
「最後の一つ手前の言葉」
「ピエロの言葉」
「五分間写生」の4作品があり
これらも容易に読むことができましたから
かなり頻繁に紐解いたことが想像されます。

このほかに
小林秀雄や富永太郎をはじめ
東大仏文科の学生とか
「白痴群」同人からとか
今日出海とか古谷綱武とか
中村光夫や佐藤正彰や大岡昇平ら
文学仲間とか
三好達治や高橋新吉や
高田博厚とか……

ときには
仏文科の教官、辰野隆(たつのゆたか)や
鈴木信太郎の授業への
「自主聴講」を通じてとか
大正2年発行の
アーサー・シモンズ「表象派の文学運動」(岩野泡鳴訳)や、
大正11年に発刊された
辰野隆と鈴木信太郎の共著「信天翁の眼玉」や、
大正13年発行の鈴木信太郎「近代仏蘭西象徴詩抄」を読んだり、
辰野隆には直接住まいを訪問して
フランス文学の動向などを聞いたりもしたようですから
その話の中で
ラフォルグに関しての情報を得ていたことなど
二人の会話の場面が彷彿としてきます。

と、ここまで書いたところで
「レコード芸術」7月号の
「吉田秀和インタビュー」で
このあたりに繋がる発言がありますから
紹介しておくことにします。

(つづく)

 *
でぶっちょの子供の歌へる

          ジュール・ラフォルグ

お亡くなりになつたのは
心臓病でです、お医者は僕にさう云つたけが、
   ティル ラン レール!
   気の毒なママ。
僕もあの世に行つてしまはう、
ママと一緒にねんねをするんだ。
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

往来で、みんなは僕を嗤(わら)ふんだ、
僕の様子が可笑しんだつて
   ラ イ トウ!
   知るもんか。
あゝ! でも一歩(ひとあし)あるくたんびに
息は切れるし、よろよろもする!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

それで野原に僕は行くんだ
夕陽が見えると泣けて来るんだ 
   ラ リ レット!
   泣けてくるんだ。
よく知らないけど、だつて夕陽は
流れる心臓みたいぢやないか!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

あゝ! もし可愛いいジュヌヴィエーヴが
この心臓をお呉れといつたら、
   ピ ル イ!
   あいよだ!
僕は黄色で悲しげなんだ!
彼女は薔薇色、おまけに陽気さ!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

だいたいみんなが意地悪過ぎらあ、
夕陽を除(ど)けたらみんな意地悪だ、
   ティル ラン レール!
夕陽とママと、
僕もあの世に行つてしまはう
ママと一緒にねんねをするんだ……
ホラ、ね、ホラ、ホラ、僕の心臓……
ね、ママ、僕を呼んでるのでせう?

(「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫より)

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2011年7月13日 (水)

ラフォルグ<4>/はかない茶番

「でぶっちょの子供の歌へる」は
中原中也の面目躍如といった感じの作品で
幼児を主語にした内容もピタリ
ルフラン(繰り返し)や
呪文のようなオノマトペのような
ラ リ レット!といったセリフも
まるで
中原中也の世界のようで
翻訳とは思えないほどですし

ホラ、ね、鳴ってら、僕の心臓

このフレーズは

ホラホラ、これが僕の骨だ
(「骨」)

に、一直線に繋がっていくようで
わくわくドキドキしてきてしまいますね。

立ち止まってじっくり味わいたいのですが
それは
もう少しラフォルグの全体像を
つかんでからということにします。

「謝肉祭の夜」、
「でぶっちょの子供の歌へる」の次は
「はかない茶番」。
この3作品は
「地球のすすり泣き」のタイトルで
ひとまとめにされる計画のあった
ラフォルグ初期の詩群の一つ。

原作品は
12音節詩句=アレクサンドランで作られた
ソネットということです。
(以上、新全集第3巻翻訳 解題篇より)

とにかく
作品を読んでみます。

(つづく)

 *
はかない茶番

          ジュール・ラフォルグ

バベルを幾つ集めても、威張つた所で泣いた所で、
人間という夢想家は、一小世界の蛆虫(うじむし)と、
とくと考へみるほどに、あんまし滑稽で仕方がない、
いくら考へ直してみても、いつも結局おなじこと。

それ劫初、涯なき海が造られてより、
天辺は、いつも変らぬ無辺際、
恒星は、続々々々繁殖し、その各々が
人畜棲息の惑星を、夫々引率れてゐるといふわけ……

いやはや言語道断な! これではあんまり可笑(おか)しくて!
と、不感無覚の空にむけ、俺は拳固を振上げた!
空の奴、随分俺を騙(だま)しをつたな?

誤魔化したつて知つてるぞ、我が此の地球は、
壮観な、宇宙讃歌(ホザナ・ホザナ)のその中で、
茶番の掛かる、たかゞ芝居の小屋ではないか。

(「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫より)

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2011年7月12日 (火)

ラフォルグ<3>/でぶっちょの子供の歌へる

中原中也が翻訳したラフォルグの詩は
3作品ありまして
いずれも
未発表の草稿で
未定稿として分類されていますが
まずはとにかくそれらを読んでみます。

「謝肉祭の夜」の次の
「でぶっちょの子供の歌へる」は
心臓に病のある幼児を歌った詩。

(つづく)

 *
でぶっちょの子供の歌へる

          ジュール・ラフォルグ

お亡くなりになつたのは
心臓病でです、お医者は僕にさう云つたけが、
   ティル ラン レール!
   気の毒なママ。
僕もあの世に行つてしまはう、
ママと一緒にねんねをするんだ。
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

往来で、みんなは僕を嗤(わら)ふんだ、
僕の様子が可笑しんだつて
   ラ イ トウ!
   知るもんか。
あゝ! でも一歩(ひとあし)あるくたんびに
息は切れるし、よろよろもする!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

それで野原に僕は行くんだ
夕陽が見えると泣けて来るんだ 
   ラ リ レット!
   泣けてくるんだ。
よく知らないけど、だつて夕陽は
流れる心臓みたいぢやないか!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

あゝ! もし可愛いいジュヌヴィエーヴが
この心臓をお呉れといつたら、
   ピ ル イ!
   あいよだ!
僕は黄色で悲しげなんだ!
彼女は薔薇色、おまけに陽気さ!
ホラ、ね、鳴つてら、僕の心臓、
きつとだ、ママが呼んでゐるんだ!

だいたいみんなが意地悪過ぎらあ、
夕陽を除(ど)けたらみんな意地悪だ、
   ティル ラン レール!
夕陽とママと、
僕もあの世に行つてしまはう
ママと一緒にねんねをするんだ……
ホラ、ね、ホラ、ホラ、僕の心臓……
ね、ママ、僕を呼んでるのでせう?

(「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫より)

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2011年7月11日 (月)

ラフォルグ<2>/謝肉祭の夜

ラフォルグについて
中原中也が

世界に詩人はまだ三人しかをらぬ。
ヴェルレエヌ
ラムボオ
ラフォルグ
ほんとだ! 三人きり。

と記した昭和2年4月23日の日記のほかに
もう一回記したのは
これよりずっと日を経た
昭和10年(1935年)の12月3日で

フランス語。ガルシン作「ナヂェーヂダ・ニカラーエヴナ」、「夜」、「極めて短い小説」を読む。ラフォルグの詩を少し。夜明け、鶏鳴を、坊や目覚めて独り真似てゐる。(以下略)

などとあります。

前年末に
ようやく「山羊の歌」を出版し1年が過ぎた頃で
四谷の花園アパートから市ヶ谷に転居
長男の文也も1歳2か月になりました
坊やとあるのは
文也のことです。

この頃
ランボーの翻訳に取り組み
翌昭和11年6月には
「ランボー詩抄」(山本書店)として結実しますが
建設社版ランボー全集が頓挫するなどの
紆余曲折を味わった後のことでした。

世界に詩人といえるのは
ベルレーヌ、ランボー、ラフォルグの3人
と記した時に比べて
この頃の中原中也の
フランス語の習熟度は
格段の進歩を遂げたに違いありませんが
8年以上の時間が経過しても
ラフォルグへの傾斜は
覚めることなく
翻訳にも取り組みました。

おそらく
連続して翻訳されたであろうと推定されている
ラフォルグの詩の
中原中也訳をここで
読んでみます。

念のため
この作品は
未定稿に分類されています。

(つづく)

 *
謝肉祭の夜

          ジュール・ラフォルグ

巴里は今晩大騒ぎ。弔鐘の如く時計台、
一時を打つ。歌へ! 踊れ! 朝露の命、
すべては空しい、――、さて空に、月は夢みる
生類の、発生以前と変りもなく。

なんと因果なことではないか! すべては閃きすべては過ぎる。
真理だ、愛だと、巧い言葉に乗せられながら
行手はいづこだ? とどのつまりは
地球が虚空で破裂して、影も形もなくなるまでか?

いろいろ歴史が並べて呉れる、叫びや涙や高言の
反響(こだま)は何処で、何時するのやら、
ねえ、バビロンよ、メンフィスと、ベナレス、テーベよ、ねえ羅馬、
おまへら廃墟でけふ此の頃は、風が花粉を運んでゐるよ。

さてこの俺だが、あと幾日を生きるやら?
俺は大地に身を投げつけて、叫びおののく、
永久返らぬ諸世紀の、綺羅(きら)燦然(さんぜん)の目の前で、
神意も通はぬ無心(こころな)の、涅槃(ねはん)の中の只中で!

と、聞えるぞ、静かな戸外(そとも)に、
響く跫音(あしおと)、悲しげな歌
祭りの帰りのへべれけの、労働者かな、
何れそこらの銘酒屋に、なんとなく泊まるのだらう。

おゝ、人の世は、あんまり悲しい、あんまりあんまり悲しいぞ!
お祭りといふお祭が、いつも涙の種となる。
《是空(ぜくう)だ、是空だ、一切是空だ!》
ところで俺の思ふこと、――ダヴィデの死灰やいまいづこ。

(「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫より)

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2011年7月10日 (日)

ラフォルグ<1>/月

ラフォルグの詩
「お月様のなげきぶし」の上田敏訳は
「在りし日の歌」5番目の「月」にも
影を落しているということが
定説です。
(新編中原中也全集第1巻詩Ⅰ 解題篇)

第3連

おや、まあ、いつそ有難(ありがた)い
思召(おぼしめし)だが、わたしには
お姉様(あねえさま)のくだすつた
これ、このメダルで沢山よ。

の4行目の「メダル」の使い方が

「月」の中間連

さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかア
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやらう

の制作へのヒントとなったと
推測されているのです。

そういえば
「山羊の歌」の「都会の夏の夜」には

月は空にメダルのやうに
街角(まちかど)に建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男どち唱いながらに帰ってゆく。
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――

とはじまる冒頭連で
メダルは月の直喩として使われていますし
ランボーの翻訳詩
「孤児等のお年玉」や「音楽堂にて」には
メダルをメタルと表記して使用している、などと
月がらみ、メダルがらみで
「お月様のなげきぶし」が
中原中也の詩に及ぼしている影の例が
列挙されていきます。

中原中也は
昭和2年4月23日の日記に

世界に詩人はまだ三人しかをらぬ。
ヴェルレエヌ
ラムボオ
ラフォルグ
ほんとだ! 三人きり。

と記すほどに
ラフォルグの詩に感銘を受けたことを
ストレートに表明し
やがてはいくつかの翻訳を試みますから
自身の詩作にも
受容が行われるのは
自然のなりゆきでした。

上田敏訳のラフォルグ「お月様のなげきぶし」が
「月」のモチーフになったとしても
いっこうにおかしくはないのです。

(つづく)

 ◇

お月様のなげきぶし    
            ジュル・ラフォルグ

星の声がする

  膝の上、
  天道様の膝の上、
踊るは、をどるは、
  膝の上、
  天道様の膝の上、
星の踊のひとをどり。

――もうし、もうし、お月様、
そんなに、つんとあそばすな。
をどりの組へおはひりな。
金の頸環(くびわ)をまゐらせう。

おや、まあ、いつそ有難(ありがた)い
思召(おぼしめし)だが、わたしには
お姉様(あねえさま)のくだすつた
これ、このメダルで沢山よ。

――ふふん、地球なんざあ、いけ好(すか)ない、
ありやあ、思想の台(だい)ですよ。
それよか、もつと歴(れき)とした
立派な星がたんとある。

――もう、もう、これで沢山よ、
おや、どこやらで声がする。
――なに、そりや何(なに)かのききちがひ。
宇宙の舎密(せいみ)が鳴るのでせう。

――口のわるい人たちだ、
わたしや、よつぴて起きてよ。
お引摺(ひきずり)のお転婆(てんば)さん、
夜遊(よあそび)にでもいつといで。

――こまつちやくれた尼(あま)つちよめ、
へへへのへ、のんだくれの御本尊(ごほんぞん)、
掏摸(すり)の狗(いぬ)のお守番(もりばん)、
猫の恋のなかうど、
あばよ、さばよ。

衆星退場。静寂と月光。遥かに声。
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじょ)のその下(した)で、
踊るは、をどるは、
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじょ)のその下(した)で、
星の踊をひとをどり。

 *
 月

今宵月は蘘荷(めうが)を食ひ過ぎてゐる
済製場(さいせいば)の屋根にブラ下つた琵琶(びは)は鳴るとしも想へぬ
石炭の匂ひがしたつて怖(おぢ)けるには及ばぬ
灌木がその個性を砥(と)いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!

さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかア
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやらう

ポケットに入れたが気にかゝる、月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる
灌木がその個性を砥(と)いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年7月 9日 (土)

夜更の雨/ベルレーヌへの途上で<12>

上田敏訳の「お月様のなげきぶし」を
中原中也が読んで
「夜更の雨」を作るときに参考にして
新たに魂を吹き込んで使ったということは
だれも断言できないことですが

上田敏が「宇宙の舎密(せいみ)が鳴るのでせう。」と訳し
中原中也が「遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。」
と歌っているところからすれば
両者の類似は疑いようになく
参照した可能性はかなり高いといえそうです。

宇宙・舎密(せいみ)・鳴る

遠くの方・舎密(せいみ)・鳴ってる
へと
相似的ながらデフォルメされるのですが
なんといっても
中原中也のフレーズは

酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

の2行が対になり
一体のものですし
「ヱ゛ルレーヌの面影」というテーマの詩の中の
最終行であるというところに
注目しなければなりません。

たとえ
上田敏の訳詩を参照したとしても
ここに
中原中也が躍動していますし
舎密(=セイミ)は
「お月様のなげきぶし」の舎密を飲み込んでしまう勢いで
意味するところにも
中原中也の詩心が吹き込まれています。

「夜更の雨」で
中原中也は
雨に打たれて路次を行く
落魄のベルレーヌに成り変り
酒場のネオンサインの
腐った目玉や
遠くの空で鳴りはじめた
イカズチ(雷)のドラミングを
迎え入れようとしているのです。

 ◇

お月様のなげきぶし    
            ジュル・ラフォルグ

星の声がする

  膝の上、
  天道様の膝の上、
踊るは、をどるは、
  膝の上、
  天道様の膝の上、
星の踊のひとをどり。

――もうし、もうし、お月様、
そんなに、つんとあそばすな。
をどりの組へおはひりな。
金の頸環(くびわ)をまゐらせう。

おや、まあ、いつそ有難(ありがた)い
思召(おぼしめし)だが、わたしには
お姉様(あねえさま)のくだすつた
これ、このメダルで沢山よ。

――ふふん、地球なんざあ、いけ好(すか)ない、
ありやあ、思想の台(だい)ですよ。
それよか、もつと歴(れき)とした
立派な星がたんとある。

――もう、もう、これで沢山よ、
おや、どこやらで声がする。
――なに、そりや何(なに)かのききちがひ。
宇宙の舎密(せいみ)が鳴るのでせう。

――口のわるい人たちだ、
わたしや、よつぴて起きてよ。
お引摺(ひきずり)のお転婆(てんば)さん、
夜遊(よあそび)にでもいつといで。

――こまつちやくれた尼(あま)つちよめ、
へへへのへ、のんだくれの御本尊(ごほんぞん)、
掏摸(すり)の狗(いぬ)のお守番(もりばん)、
猫の恋のなかうど、
あばよ、さばよ。

衆星退場。静寂と月光。遥かに声。
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじょ)のその下(した)で、
踊るは、をどるは、
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじょ)のその下(した)で、
星の踊をひとをどり。

 *
 夜更の雨

――ヱ゛ルレーヌの面影――

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年7月 8日 (金)

夜更の雨/ベルレーヌへの途上で<11>

ジュル・ラフォルグとは
どんな詩人かなどとは
とりあえず問わないことにして
上田敏が「お月様のなげきぶし」の中で
「舎密=せいみ」をどのように使っているか――

その点に集中して
この詩をもう少しじっくり読んでみれば

どうやら
群れて踊っている星々が
孤独を装って澄ましている月を
踊りの輪の中に入れようとして
もし輪の中に入れば金の首輪を差し上げようと
誘うのだが

月は
ありがたいお誘いですが
わたしは
姉さんである太陽がくださった
地球だけで十分ですよ、と
やんわり断るのに対して

地球なんてのは
なんといけ好かない
思想の台にしか過ぎないものに
ぞっこんなんですね
もっとれっきとして立派な星が
いっぱいあるのにねえと
星々は恨みがましがります

いや、もうけっこう
これでたくさん、と月が言ったところで
どこからか、だれかの声がするのを聞くのですが
そう言った月を言いくるめるように

なにそりゃ、なんかの聞き違い
宇宙の舎密(せいみ)が鳴るのでせう。

と、それは聞き耳を立てるほどのものではなく
宇宙の塵(ちり)か何か
それは、雷のようなものかが
鳴っているのでしょうよ
と、そんなものに気をとられずに
さ、さ、踊りましょう
(以下略)

などと会話する場面で
使われているのです。

月と星と太陽が
それぞれ象徴する存在と
そのやりとりの意味を考究すれば
この詩をもっと深く理解するのかもしれませんが
衆に頼んで踊りを楽しむ星々と
つんと澄ました月との
おもしろくおかしく
機知に富んだやりとりが楽しめて
月の嘆きに多少なりとも感応できれば
この詩の近くにいるんじゃないでしょうか

問題は
舎密=せいみ=Chemie=化学です。
中原中也の

酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

この2行です。

(つづく)

 ◇

お月様のなげきぶし    
            ジュル・ラフォルグ

星の声がする

  膝の上、
  天道様の膝の上、
踊るは、をどるは、
  膝の上、
  天道様の膝の上、
星の踊のひとをどり。

――もうし、もうし、お月様、
そんなに、つんとあそばすな。
をどりの組へおはひりな。
金の頸環(くびわ)をまゐらせう。

おや、まあ、いつそ有難(ありがた)い
思召(おぼしめし)だが、わたしには
お姉様(あねえさま)のくだすつた
これ、このメダルで沢山よ。

――ふふん、地球なんざあ、いけ好(すか)ない、
ありやあ、思想の台(だい)ですよ。
それよか、もつと歴(れき)とした
立派な星がたんとある。

――もう、もう、これで沢山よ、
おや、どこやらで声がする。
――なに、そりや何(なに)かのききちがひ。
宇宙の舎密(せいみ)が鳴るのでせう。

――口のわるい人たちだ、
わたしや、よつぴて起きてよ。
お引摺(ひきずり)のお転婆(てんば)さん、
夜遊(よあそび)にでもいつといで。

――こまつちやくれた尼(あま)つちよめ、
へへへのへ、のんだくれの御本尊(ごほんぞん)、
掏摸(すり)の狗(いぬ)のお守番(もりばん)、
猫の恋のなかうど、
あばよ、さばよ。

衆星退場。静寂と月光。遥かに声。
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじょ)のその下(した)で、
踊るは、をどるは、
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじょ)のその下(した)で、
星の踊をひとをどり。

 *
 夜更の雨

――ヱ゛ルレーヌの面影――

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年7月 7日 (木)

夜更の雨/ベルレーヌへの途上で<10>

「夜更の雨」は
最終行

酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

という、この2行にきて
それまで詩の大まかな流れを掴んだのだから
その流れの中で解釈すればいいものを
「腐った目玉」と
「舎密(せいみ)」で
立ち往生してしまう人が続出だとか。

ここは
深く考えるのではなくて
詩の醍醐味を味わうつもりで
想像力をフル動員して
詩句を味わうのが一番です。
旨いかまずいかなんて
だれも
教えてはくれません。

舎密を「せいみ」と読むのは
オランダ語で「化学」を意味するChemieの
発音をそのままひらがなで表記したものと
角川新全集などの解説書が指摘して
ジュル・ラフォルグの詩
「お月様のなげきぶし」の上田敏訳の一部を
使用例として掲出していますから
ここでは
その全行を見ておくことにします。

今、手元にあるのは
昭和28年3月15日発行の「牧羊神」(新潮文庫)ですから
旧漢字、歴史的仮名遣いですが
ここに引用するに当たっては
新漢字に直しました。

 ◇

お月様のなげきぶし
           ジュル・ラフォルグ

星の声がする

  膝の上、
  天道様の膝の上、
踊るは、をどるは、
  膝の上、
  天道様の膝の上、
星の踊のひとをどり。

――もうし、もうし、お月様、
そんなに、つんとあそばすな。
をどりの組へおはひりな。
金の頸環(くびわ)をまゐらせう。

おや、まあ、いつそ有難(ありがた)い
思召(おぼしめし)だが、わたしには
お姉様(あねえさま)のくだすつた
これ、このメダルで沢山よ。

――ふふん、地球なんざあ、いけ好(すか)ない、
ありやあ、思想の台(だい)ですよ。
それよか、もつと歴(れき)とした
立派な星がたんとある。

――もう、もう、これで沢山よ、
おや、どこやらで声がする。
――なに、そりや何(なに)かのききちがひ。
宇宙の舎密(せいみ)が鳴るのでせう。

――口のわるい人たちだ、
わたしや、よつぴて起きてよ。
お引摺(ひきずり)のお転婆(てんば)さん、
夜遊(よあそび)にでもいつといで。

――こまつちやくれた尼(あま)つちよめ、
へへへのへ、のんだくれの御本尊(ごほんぞん)、
掏摸(すり)の狗(いぬ)のお守番(もりばん)、
猫の恋のなかうど、
あばよ、さばよ。

衆星退場。静寂と月光。遥かに声。
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじょ)のその下(した)で、
踊るは、をどるは、
  はてしらぬ
  空(そら)の天井(てんじょ)のその下(した)で、
星の踊をひとをどり。

 

(つづく)

 *
 夜更の雨

――ヱ゛ルレーヌの面影――

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年7月 6日 (水)

夜更の雨/ベルレーヌへの途上で<9>

「夜更の雨」は

――ヱ゛ルレーヌの面影――

と副題(エピグラフではなく)を置いて
冒頭行からして

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。

と、雨を歌いだし
その雨が歌う歌を歌いだします。

中原中也が
いま眼前に見ている雨は
(想像の中の雨でもよいのですが)
ヴェルレーヌが歌った雨であり
ヴェルレーヌが歌った雨は
ランボーの思い出を歌った雨でもあります。

その雨は
ランボーが
雨はしとしと市(まち)にふる。
と、歌うように
だらだら だらだら しつこいほどなのです。

だらだらだらだらしつこい雨が降っているのを
ぼーっとして詩人が眺めいっていると
ふっとヴェルレーヌの巨漢が
背中を見せて路次を行くのが
見えたのです。

倉庫は
横浜の埠頭のものでしょうか
それとも
銀座か新宿あたりの路地裏の倉庫でしょうか

路次を行くのは
ヴェルレーヌ一人で
ランボーの影は見えませんから
このヴェルレーヌのイメージは
マッチルドと離婚し
ランボーとも破局し
孤独な旅を行く
エトランゼのヴェルレーヌでしょうか

中原中也は
明らかに
孤影を帯びたヴェルレーヌに寄り添い
無一物のヴェルレーヌに仮託して
いつしか自らも
倉庫の間の路次を行きます

この路次を抜けさえすれば……と
そうたやすくは抜けられないことが分かっている雨の道を
シャンソンの一つ嘯(うそぶ)く勢いで
ヱ゛ル氏に成り代わり
また詩人自らを
鼓舞(こぶ)する啖呵(たんか)を切ってみせるのです

いくら速いからって車なんぞに用事はないよ
どんだけ明るいからってガス燈なんかも要るもんか

俺にゃあ
酒場の灯りの、あの腐った目玉よ
ほら、あっちのほうでは、セイミも鳴ってらあ

(つづく)

 *
 夜更の雨

――ヱ゛ルレーヌの面影――

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年7月 5日 (火)

夜更の雨/ベルレーヌへの途上で<8>

ヴェルレーヌとランボーの「愛の物語」は
1871年9月ランボーからの第一信にはじまり
10月の初対面から
1873年7月の発砲事件まで
2年に満たない期間のものでした。

ヴェルレーヌは27歳から28歳という年齢で
ランボオーより丁度10歳年上でした。

無一物になったヴェルレーヌは
その後、再びマッチルドとの和解を試みたり
ランボーとの復旧を試みたりしますが
いずれも失敗。

詩人との交友を広げたり
教職に就いたり
生徒の一人に愛情を抱いたり
農園を営んだり
母親に加害し下獄したり
……
相変わらずのデカダンで
ボヘミアンで
アウトローで
波乱万丈な暮らしを続けているうちに
病(=関節水腫)を得て
各地での施療を繰り返すなど
凄絶(せいぜつ)ともいえる孤独の旅を続け
……
一方で
詩人としての名声を高め
何冊かの詩集を世に問いましたが
1896年(明治29年)、
52歳で生涯を閉じました。
ブリュッセル発砲事件から
20余年の歳月が流れていました。

以上が
ヴェルレーヌの生涯のアウトラインです。
あくまでアウトラインですから
事象と事象との間には
無数の時間が流れていたことを想像する必要があります。
「ヴェルレーヌ詩集」(堀口大学訳、新潮文庫)には
所収の年譜がありますから
それで補足するのもよいでしょうし
もっと詳しくヴェルレーヌについて知りたいのなら
研究書、参考書にあたるのもよいでしょう。
ランボーについても
同じことを言っておきましょう。

さて
長い寄り道をしたようですが
中原中也の詩「夜更の雨」に戻ります。

この詩のサブタイトルに
――ヱ゛ルレーヌの面影――
とあるのが
まさしくヴェルレーヌのことです。

中原中也は
ヴェルレーヌの生涯の
どれほどのことを知って
この詩を作ったのでしょうか

(つづく)

 *
 夜更の雨

――ヱ゛ルレーヌの面影――

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年7月 4日 (月)

夜更の雨/ベルレーヌへの途上で<7>

ベルギーの首都ブリュッセルの
街中で真っ昼間
拳銃2発
パンパン……。

撃ったのはヴェルレーヌ
手首に銃弾を受けたのはランボー……。

堀口大学は
簡潔平易に
名高い事件を描写します。

いよいよ、愛想をつかせて、逃げ出すランボーを、海を越えてベルギーの首都ブリュッ
セルに追いすがり、引き留めようと嘆願するが、頑固(がんこ)な少年は拒みつづける。
酔いに乗じてヴェルレーヌは、往来なかで昼ひなか、拳銃二発を発射、ランボーの手
首に負傷させ、ただちに現行犯として捕らえられ、裁判の結果、18ヵ月をモンス刑務
所の独房で服役することになる。
(「ヴェルレーヌ詩集」堀口大学訳、新潮文庫より)

この独房で
放浪期間中に書き継いだ草稿を
整理し編集し完成した作品が
「無言の歌」です。

この独房で四壁の間に見出(みいだ)した強いられた平和に支(ささ)えられ、過ぎた
放浪生活中の作品を整理編集して成ったのが詩集「無言の恋歌」である。彼はまた、
この在監中に、かねて妻マッティルドが夫ヴェルレーヌの重なる非行を理由に、申請
していた離婚の訴えが正式に受理されたとの報知を受けるが、その時受けたショック
の大きさを、後年「告白録」中に、「みすぼらしいベッドの上に、哀れな背中の上に、落
ちるようにくずおれた」と、誌(しる)している。
(同書)

「無言の恋歌」を
完成させる過程で
妻マッチルドから出されていた
離婚の訴えが成立し
ヴェルレーヌに
失うものは無くなりました。

(つづく)

 *
 夜更の雨

――ヱ゛ルレーヌの面影――

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年7月 3日 (日)

夜更の雨/ベルレーヌへの途上で<6>

見知らぬ少年から送られてきた詩を読んで
そのただならぬ詩に感銘したヴェルレーヌは
すぐさま返信し
一刻も早い来訪を望んだところ
まもなくシャルルビルの田舎から
パリにやってきたランボーと
初めて対面します。

少年詩人ランボーの詩「酔いどれ船」に
感銘を受けたばかりのヴェルレーヌは
今度は
少年の姿形、立ち居振る舞いの
何もかもがずば抜けた天才ぶりに圧倒され
言われるままに
二人して放浪の旅に出ることになります。

堀口大学のとらえた「ヴェルレーヌ&ランボー物語」を
もう少し読んでみましょう。

二人がまず向かったのは
ベルギー。
といっても特別な目的があるわけではなく
はじめのうちこそ
雲が流れるのに似た
自由気ままな旅でした。

ふたりは連れ立ってベルギー国内を歩きまわる、毎日、行く先々で、見物をしたり酒場女にたわむれたりの、たわいもない呑気(のんき)な放浪ぶりは詩集「無言の恋歌」の「ベルギー風景」の章にうかがえる。ふたりはやがて、やぼなベルギーに飽きると、気まぐれにアンベルスから乗船、イギリスへ渡る気になる。「18時間の手頃な海上散策、楽しい脱走、言いようもなく美しい旅行だった」と、ロンドンへ着くとヴェルレーヌはパリの友人に書き送っている。そして次の便(たよ)りには、英京ロンドンにおけるふたりの生活の模様をわずかながら洩らした上で、食わんがためにやむなく、フランス語の教授をしている由を告げている。
(「ヴェルレーヌ詩集」堀口大学訳、新潮文庫より)

ヴェルレーヌの懐具合(ふところぐあい)がおかしくなると
二人の間にも秋風が吹きはじめます。

イギリスにおけるふたり水入らずの生活も、次第に経済的に行きづまり、ヴェルレーヌが個人教授で得る収入をあてにしなくてはならないまでになるが、地上の悦楽だけで満足しきっているヴェルレーヌに対し、夢想の高きに憧(あこが)れ、絶えず何ものかに追い立てられ、落ち着くことを知らないランボーは、もどかしさを感じだし、1873年春の頃には、ぽつぽつ別れ話が出るまでになったが、そうなると、パリに残した妻子に対する思慕の情が新たに心の底に湧(わ)いたりもするヴェルレーヌだった。そのくせまた、一方では、この底知れぬ魅力を備えた鼓舞者ランボーに去られたのでは、生きる力も尽き果てそうな不安もあり、一歩前進二歩後退の状態が続いていた。
(同書)

やがて
ランボーは遁走し
ヴェルレーヌが追いかけて
発砲事件に至ります
……。

(この稿つづく)

 *
 夜更の雨

――ヱ゛ルレーヌの面影――

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2011年7月 2日 (土)

夜更の雨/ベルレーヌへの途上で<5>

謎のようなこの少年は、当時17歳だった。

堀口大学は
ベルレーヌとランボーとの
出会い~放浪~破局の物語を
こう書き出し、次のように続けます。

ヴェルレーヌは悦(よろこ)び迎えると、そのまま自室にとめ置いた。傲慢で粗野、人を人とも思わぬランボーの行動は、ヴェルレーヌ以外の全家族を憤慨させるが、ヴェルレーヌだけは、全面的に魅了され、陶酔しきっていた。ヴェルレーヌはランボーを後年「わが悪霊」と呼んでいるが、この不吉な呼び名も、彼の一生に及ぼした災厄(さいやく)の大きさを思えば、必ずしも言いすぎとばかりも言えないようだ。新婚一年そこそこの夫妻の間に決定的な不和を招いたのも、数年後の離婚の理由を作ったのも、この若い友人だったのである。飲酒癖を増長させ、後年の不治の固疾(こしつ)にまで悪化させ、自分の放浪癖の道づれに連れ出し、家族をも忘れさせたのも、実にこの17歳の少年詩人ランボーだったのである。
(「ヴェルレーヌ詩集」堀口大学訳、新潮文庫より)

ランボーは
ヴェルレーヌの家庭を破壊し
離婚の原因となった
少年詩人として現れました。

しばらく
堀口大学のとらえた
「ヴェルレーヌ&ランボー物語」に
耳を傾けてみましょう。

ランボーの若々しい美貌(びぼう)、高い背たけ、がっちりした体格、明るい栗色(くりいろ)の頭髪、気味悪いほど碧(あお)く澄んだ瞳(ひとみ)に、陶酔しきったヴェルレーヌは、急にこの頃から、家庭生活の単調さを厭(いと)い、文壇、詩壇の風潮をあまりにも人工的、社交的だとして嫌(きら)い、冒険と放浪と自由な天地を夢想するようになるのだった。すると、ランボーがそばから、得意の予言者主義を吹き込み、「見者にならなければうそだ。詩人は長い間の、そして故意の、感覚混乱によって見者になれる」と説き、修養さえ積めばヴェルレーヌにも、太陽の子としての原始の姿に立ちかえれるとまで、おだてあげた。弱い気質のヴェルレーヌは、この嵐(あらし)のような若い予言者の熱気にあおられ、言われるままに連れ立って、1872年7月、漂泊の旅に出発、ベルギーを経て、イギリスへ渡るが、これが決行されるまでの間に、マッティルド夫人が、夫ヴェルレーヌに対し、何ひとつ引き留める努力をしなかったのも、また事実のようだ。(同書)

(この稿つづく)

 *
 夜更の雨

――ヱ゛ルレーヌの面影――

雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヱ゛ル氏の あの図体(づうたい)が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯(ふざ)けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、
  遐(とほ)くの 方では 舎密(せいみ)も 鳴つてる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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