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2011年7月28日 (木)

ランボー・ランボー<6>生のクリティーク

「人生斫断家アルチュル・ランボオ」とは
何故また難解な漢語を
ランボーに冠したのか――
「斫」は、音読みで「シャク」というのは
扁の「石」を「シャク」と読むことから類推できますが
「斫る」を「はつる」と訓読みすることを知って
はじめて、ああ、「削り、切り刻む」の意味か――
ならば
「斫断」は、粉砕や破壊の類語か――

などと段々近づいてきたようですが
「人生斫断家」となれば
人生破壊者か人生粉砕者か
いずれにせよ
人生は目的格で
「人生を破壊する者」「人生を粉砕する者」ということになってきます

おおむね
このあたりの意味で間違いはないようなのですが
これらの意味を含みつつ
「クリティーク」「批判者」「批評家」くらいに意訳すれば
ようやく
落ち着いてくるかもしれません。

人生で触れるあらゆるものを
批判しないではいられない
詩人アルチュール・ランボー

中原中也が
「ラムボオは自分のクリティックに魅領された。それが不可なかつた」と
昭和2年11月4日の日記に記したのと同じ意味で
「人生斫断家」とは
「生のクリティーク」と
言い替えて可能かもしれません。

この難解さは
本文に入っても冒頭の有名な

この孛星(はいせい)が、不思議な人間厭嫌の光を放ってフランス文学の大空を掠(かす)めたのは、1870年より73年まで、16歳で、既に天才の表現を獲得してから、19歳で、自らその美神を絞殺するに至るまで、僅かに3年の期間である。

を読み始めれば
続けられることが分かるのであって
「孛星(はいせい)」は
箒星(ほうきぼし)の異称
「厭嫌」は
文字面(もじづら)通りの意味
要所要所で
難解字に遭遇しても
辞書首っ引きで突破すれば
なんとか付いていけます。

「酩酊の船」は瑰麗な夢を満載して解纜する。

と書き出されて
韻文作品「酩酊船」の冒頭2連は
解剖されます。

これを記した
大正15年以前に
小林秀雄は
当然ながら
「酩酊船」を読み
自ら翻訳していたということになりますが

われ、非情の河より河を下りしが、
船曳(ふなひき)の綱のいざなひ、いつか覚えず。
罵り騒ぐ蛮人は、船曳等(やつら)を標的(まと)に引つ捕へ、
彩色(いろ)とりどりに立ち並ぶ、杭(くひ)に赤裸(はだか)に釘付けぬ。

船員も船具も今は何かせん。
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船(わたぶね)よ。
わが船曳等(ふなひきら)の去りてより、騒擾(さわぎ)の声もはやあらず、
流れ流れて思ふまゝ、われは下りき。

この2連は

この作品後、彼が若し一行でも書く事をしたらこの作は諒解出来ないものとなると言う事実にある事を忘れてはならない

彼は、逃走する美神を、自意識の背後から傍観したのではない。彼は美神を捕えて刺違えたのである。

と「地獄の季節」について書かれた後に
それを実証するための例として
引用されたことが
注意深く読むと理解できます。

このくだりは

小林には富永が「地獄の一季節」を読みながら、詩作を続けられるのが不思議に見えたという

と記した
大岡昇平の発言(角川文庫「中原中也」)を
念頭に入れながら読むと
いっそう
立体的に読めるところです。

冒頭2連のこの引用の後
すぐに

彼はこの船の水底に、痛ましくも来るべき破船の予兆が揺曳するのを眺めなかったか。彼はこの時既に死につつある作家であった。

と断言されますが
「酩酊船」は
次に最終3連が引用されて
解体を終えられ
「人生斫断家ランボー」が
証明されてゆきます。

彼は、野人の恐ろしく劇的な触角をもって、触れるものすべてを斫断する事から始めた。それは不幸な事であった。(「ランボーⅠ」)

(つづく)

*
酩酊船

われ、非情の河より河を下りしが、
船曳(ふなひき)の綱のいざなひ、いつか覚えず。
罵り騒ぐ蛮人は、船曳等(やつら)を標的(まと)に引つ捕へ、
彩色(いろ)とりどりに立ち並ぶ、杭(くひ)に赤裸(はだか)に釘付けぬ。

船員も船具も今は何かせん。
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船(わたぶね)よ。
わが船曳等(ふなひきら)の去りてより、騒擾(さわぎ)の声もはやあらず、
流れ流れて思ふまゝ、われは下りき。

怒り高鳴る潮騒(しおさゐ)を、小児等(こどもら)の脳髄ほどにもきゝ判(わ)けず、
われ流浪(さすら)ひしはいつの冬(ひ)か。
纜(ともづな)ときし半島も、この揚々(やうやう)たる混沌を、
忍びしためしはなしと聞く。

嵐来て、わが航海の眼醒めを祝ひてより、
人呼んで、永劫の犠牲者(にへ)の運搬者(はこびて)といふ波の上、
身はコルクの栓よりなほ軽く、跳り狂ひて艫(とも)の灯の、
惚(ほほ)けたる眼を顧みず、われ漂流ひて幾夜へし。

小児等(こどもら)の囓(かぶ)りつく酸き林檎の果(にく)よりなほ甘く、
緑の海水(みず)は樅材(もみ)の船身(ふないた)に滲み通り
洗ひしものは安酒の汚点(しみ)、反吐(へど)の汚点(しみ)、
船は流れぬ、錨も失せぬ。

さて、われらはこの日より、星を注ぎて乳汁色(ちちいろ)の、
海原の詩(うた)に浴しつゝ、緑なす瑠璃を啖(くら)ひ行けば、
こゝ吃水線(きっすい)は恍惚として蒼ぐもり、
折から水死人のたゞ一人、想ひに沈み降(くだ)り行く。

見よ、その蒼き色、忽然として色を染め、
金紅色(きんこうしょく)の日の下(もと)に、われを忘れし揺蕩(たゆたい)は、
酒清よりもなほ強く、汝(なれ)が立琴(りいる)も歌ひえぬ。
愛執の苦き赤痣(あかあざ)を醸(かも)すなり。

われは知る、稲妻に裂かるゝ空を、龍巻を、
また寄せ返す波頭(なみ)、走る潮流(みず)、夕(ゆうべ)送れば、
曙光(あけぼの)は、むれ立つ鳩かと湧きたちて、
時に、この眼の視しものを、他人(ひと)は夢かと惑ふらむ。

不可思議の怖れに染みし落日に、
紫にたなびく凝結(こごり)赫(かがよ)うて、
沖津波、襞(ひだ)を顫(ふる)はせ揺れ動き、
古代の劇の俳優も、かくやとわれは眺めけり。

まばゆきばかり雪の降り、夜空の色は緑さし、
海を離れてゆらゆらと、昇る接吻(くちづけ)も眼のあたり。
未聞(みもん)の生気(せいき)はたゞよひて、歌ふが如き燐光の
青色(あお)に黄色に眼醒むるを、われはまた夢みたり。

愚なり、われは幾月もまた幾月も、
ヒステリィの牛舎さながらの大波(たいは)暗礁を襲ふに従ひぬ。
知らず、若しマリヤそのまばゆき御足(みあし)のあらば、
いきだはしき大洋に大洋に猿轡(さるぐつわ)かませ給ふを。

船は衝突(あた)りぬ、君知るや、世に不思議なるフロリダ洲。
人間(ひと)の皮膚(はだへ)の豹の眼は、叢(むら)なす花に入り交り、
海路(うみじ)はるかの沖津方(おきつかた)、青緑色の羊群に、
太靱(たづな)の如き虹を掛く。

われは見ぬ、沼々は醱酵し、巨(おおい)なる魚梁(やな)のあるを。
燈心草(とうしんぐさ)は生(おい)茂り、腐爛(ふらん)せるレヴィンヤタンの一眷族(け
んぞく)。
大凪(おおなぎ)のうちに水は崩れ逆(さか)巻きて、
遠方(おちかた)は深淵(ふち)か滝津瀬か。

氷の河に白銀(しらがね)の太陽(ひ)、真珠の波や熾(おき)の空、
褐色(かちいろ)の入江の底深く、目も当てられぬ坐洲(ざす)のさま。
蚜虫(くさむし)に食はれたゞれたる大蛇(おろち)のあまた群がりて、
黒き香をあげ、捩(ね)じ曲る樹木よりどうと墜(お)つるなり。

小児等(こどもら)のあらば見せまほし、
黄金(こがね)の魚(さかな)、歌うたふ魚、青海原に浮ぶ鯛、
水泡(みなわ)がくれた花々、わが漂流を賞(ほ)めそやし、
時に、得も言われぬ風ありて、われに羽(はね)を貸しぬ。

また、ある時は殉教者、地極(ちきょく)に地帯(ちたい)に飽きはてゝ
海すゝり泣く声きけば、僅か慰む千鳥足。
黄(き)の吸角(すひだま)ある影の花、海わが方(かた)にかざす時、
われは、膝つく女の如く動かざりき。

わが船舷(ふなべり)をおほひて、半島は金褐色(きんかっしょく)の眼をむきて、
哮(たけ)り、嘲(あざけ)り、海鳥(かいてう)の争ひと糞(くそ)とを打ち振ふ。
せん術(すべ)なくて漂へば、脆弱(もろ)き鎖を横切りて、
また水死者の幾人(いくたり)か、逆様(さかしま)に眠り降(くだ)りゆきぬ。

されど、われ船となりて浦々の乱れし髪に踏み迷ひ、
嵐来て島棲まぬ気層(そら)に投げられては、
海防艦(もにとる)もハンザの帆走船(ふね)も、
水に酔(ゑ)ひたるわが屍(むくろ)、いかで救はむ。

思ふがまゝに煙吹き、菫(すみれ)の色の靄(もや)にのり、
赤壁(あかかべ)の空に穴を穿(うが)てるわれなりき。
詩人奴(め)が指を銜(くは)へる砂糖菓子、
太陽の瘡(かさ)、青空の鼻汁(はな)を何かせん。

身は狂ほしき板子(いたご)かな。
閃電(ひばな)を散らす衛星(ほし)に染み、黒き海馬(かいば)の供廻(ともまは)り。
それ、革命の七月は、丸太棒(まるたんぼう)の一とたゝき、
燃ゆる漏斗(ろうと)の形せる、紺青の空をぶちのめす。

五十海里の彼方(かなた)にて、ベヘモと巨盤渦(うず)の交尾する、
怨嗟(えんさ)のうめきに胸(とむね)つき、慄へしわれぞ。
永劫に蒼ざめし嗜眠(ねむり)を紡(つむ)ぐはわれぞ。
あゝ、昔ながらの胸墻(かべ)に拠(よ)る、欧羅巴(ヨーロッパ)を惜しむはわれか。

見ずや、天体の群鳥を、
島嶼(しまじま)、その錯乱の天を、渡海者(たびびと)に開放(はな)てるを。
そも、この底無しの夜(よ)を、汝(なれ)は眠りて流れしか。
あゝ、金色(こんじき)の島の幾百万、当来の生気(せいき)はいづこにありや。

想へば、よく泣きたるわれかな。来る曙は胸を抉(えぐ)り、
月はむごたらし、陽(ひ)は苦(にが)し。
切なる恋に酔ひしれし、わが心は痺れたり。
龍骨よ、砕けよ、あゝ、われは海に死なむ。

今、われ欧洲の水を望むとも、
はや冷え冷えと黒き池、吹く風薫る夕まぐれ、
悲しみ余り、をさな児が、蹲(うずくま)つてはその上に、
五月の蝶にさながらの、笹舟を放つ池かな。

あゝ波よ、ひとたび汝(なれ)が倦怠に浴しては、
綿船(わたぶね)の水脈(みを)ひく跡を、奪ひもならず、
標旗(はた)の焰の驕慢を、横切(よぎ)りもならず、
船橋(せんけう)の恐ろしき眼をかいくゞり、泳ぎもならじ。

(小林秀雄「考えるヒント4 ランボオ・中原中也」所収「ランボオ詩抄」文春文庫より)
※原作のルビは、( )内に記しました。編者。

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