ランボー・ランボー<11>二つの「少年時」
中原中也は
昭和2年から3年にかけてのいつか(推定)
ランボーが作った散文詩「少年時」と
同題の詩を作ります。
この詩は
第一詩集「山羊の歌」が
「初期詩篇」を終えて
後半部の「恋愛詩」に入る導入の位置にあり
「少年時」のタイトルでありながら
遠い少年時代の回想の中に
失われた青春、失われた過去への
惜別の歌とも取れる内容になっています。
内容が
少年時代でありながら
つい最近の過去(近過去)を包含しているようにも解釈できて
それならば
長谷川泰子を小林秀雄に奪われてしまった
つい昨日の出来事を
歌っていると捉えることさへ
可能な作品です。
(もちろん、そのような深読みをしなくても構いません。)
ランボーの「少年時」が
5章構成の長編なのに比べれば
2行4連プラス3行2連、合計14行の変型ソネットで
短詩の類に入り
コンパクトといえるまとまりかたですが
繰り返し読んでいるうちに
豊かなイメージの湧いてくる作品です。
この詩の
冒頭から終行にいたるまでの全行が
ランボーの「少年時」の
第4章の末行
本当に、俺は、沖合に遙かに延びた突堤の上に棄てられた少年かも知れぬ。行く手
は空にうち続く道を辿つて行く小僧かも知れぬ。
辿る小道は起伏して、丘陵を金雀枝(えにしだ)は覆ふ。大気は動かない。小鳥の歌
も泉の声も随分遠くだ。進んで行けば、世界の涯(はて)は必定だ。
このあたりの影響を受けていることが
しばしば指摘されるところですから
この二つの詩を
味わい比べてみましょう。
二つの詩は
共通するイメージを歌う部分を持ちながら
まったく別の世界を
歌い出していることが分かるでしょう。
ランボーの「少年時」は
「酩酊船」とともに
中原中也がランボーの存在を
富永太郎や正岡忠三郎から聞き知って
初めて読んだ作品の一つです。
その詩と
同じタイトルであることは
中原中也が
いかにこの作品に心を込めていたかを示すものですが
この詩ばかりではなく
「少年時」というタイトルは
「ノート少年時」や
未発表詩篇の「少年時」(母を父を送り出すと)にも使われたのですから
鈴木信太郎訳のランボー「少年時」の筆写稿と合わせて
4回現れる計算になります。
「無題」(1927・8・29)以来よく彼の詩篇に現れる「木の下にいる小児」にはランボー
の「少年時」五の「薔薇の木蔭に死んだ児がゐる」の反映があり、初期詩篇に多い「姉
妹」も「少年時」にある。(「中原中也」角川文庫、昭和54年)
※上記引用中に「少年時」五とありますが、これは原文の間違いで、正しくは、「少年時」二です。編者。
と、大岡昇平が記していることも考えれば
「少年時」は「事件」であったのですし
「酩酊船」とともに
中原中也の「ランボーという事件」のはじまりでした。
(つづく)
*
少年時 中原中也
黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。
麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
翔(と)びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
*
少年時 アルチュール・ランボオ
鈴木信太郎、小林秀雄共訳
一
この偶像、眼は黒く髪は黄に、親もなく、侍者もなく、物語よりも気高く、メキシコ人でありまたフラマン人、その領土は、傲岸無頼の紺碧の空と緑の野辺、船も通はぬ波濤を越えて、猛々しくもギリシャ、スラヴ ケルトの名をもて呼ばれた浜辺から浜辺に亘る。
森のはづれに、――夢の花、静かに鳴り、鳴り響き、光り輝く、――オレンヂ色の唇をもつた少女、草原から湧き出る明るい流の中に組み合せた膝、裸身、虹の橋と花と海とは、その裸身を暈(くま)どり、貫き、また着物で包む。
海のほとりのテラスに渦巻く貴婦人の群。少女たちや巨大な女たち、緑青の苔の中には見事な黒人の女、木立と雪解けの小庭の肥沃な土の上に、直立する宝石の装身具、――巡礼の旅愁に溢れた眼の、うら若い母と大きな姉、トルコの王妃、傍若無人に着飾って闊歩する王女達、背の低い異国の女、また物静かに薄命な女たち。
何という倦怠だろう、「親しい肉体」と「親しい心」の時刻。
二
薔薇の茂みのうしろにゐるのは、彼女だ、死んだ娘だ。――年若くて亡つた母親が石段を降る。――従兄の乗つた軽快な幌馬車は砂地を軋る。――(インドに住んでゐる)弟が、――夕陽を浴びて、あそこ、石竹の花咲く草原にゐる。――埋葬された老人達は、丁字香の漂ふ砦に、すつくと立ちあがる。
黄金の木の葉の群は、将軍の家を取り巻く。家中が南方に居るのだ。――赤い街道を辿れば、空家になつた宿屋に行き著く。城は売りもの。鎧戸ははづされてゐる。
――教会の鍵を、司祭は持つて行つたのだらう。――庭園の周りの番小屋には、人が住んでゐない。柵は高く、風わたる梢しか見えぬ。尤も、中には見るものもないのだが。
草原を登つて行くと、鶏も鳴かぬ、鉄砧(かなしき)の音も聞えぬ小さな村落。閘門は揚げられてゐる。ああ、立ち竝ぶ十字架の塚と砂漠の風車、島々と風車の挽臼。
魔法の花々は呟いてゐた。勾配が静かに彼を揺つた。物語のやうに典雅な動物が輪を描いてゐた。熱い涙の永遠により創り出された沖合いに、雲がむらがり重つてゐた。
三
森に一羽の鳥がゐて、その歌が、人の足を止め、顔を赤くさせる。
時刻を打たない時計がある。
白い生き物の巣を一つ抱えた窪地がある。
降り行く大伽藍、昇り行く湖がある。
輪伐林の中に棄てられた小さな車、或はリボンを飾つて、小径を駆け下る車がある。
森の裾を貫く街道の上には、衣裳を著けた小さな俳優たちの一団が見える。
最後に、人が餓え渇する時に、何者か追ひ立てるものがある。
四
俺は、岡の上に、祈りをあげる聖者、――パレスチナの海までも牧草を喰って行く平和な動物のやうだ。
俺は陰鬱な肱掛椅子に靠れた学究。小枝と雨が書斎の硝子窓に打ちつける。
俺は、矮小な森を貫く街道の歩行者。閘門の水音は、俺の踵を覆ふ。夕陽の金の物悲しい洗浄を、いつまでも長く俺は眺めてゐる。
本当に、俺は、沖合に遙かに延びた突堤の上に棄てられた少年かも知れぬ。行く手は空にうち続く道を辿つて行く小僧かも知れぬ。
辿る小道は起伏して、丘陵を金雀枝(えにしだ)は覆ふ。大気は動かない。小鳥の歌も泉の声も随分遠くだ。進んで行けば、世界の涯(はて)は必定だ。
五
終に人は、漆喰の条目の浮き出した、石灰のやうに真つ白なこの墓を、俺に貸してくれるのだ、――地の下の遙か彼方に。
俺は卓子(てえぶる)に肘をつく。ランプは、俺が痴呆のやうに読み返す新聞や何の興味もない書籍を、あかあかと照らしてゐる。
俺の地底のサロンの上を遙かに遠く隔つて、人々の家が竝び立ち、霧が立ちこめる。泥は赤く或は黒い。怪物の都会、果てしない夜。
それより低くに、地下の下水道。四方は地球の厚みだけだ。恐らく藍色の深淵か、火の井戸もあらう。月と彗星、海と神話のめぐり会ふのも、恐らくこの平面かもしれぬ。
懊悩の時の来る毎に、この身を、碧玉(サファイア)の球体、金属の球体と想ひなす。俺は沈黙の主人。円天井の片隅に、換気窓のやうな一つの姿が、蒼ざめてゐるのは何故だらうか。
(「ランボオ全集第2巻 飾画・雑纂・文学書簡他」より、人文書院 昭和28年)
※なるべく新漢字を使用し、原作のルビは、難読字や訳者独特の読み以外を排し、( )内に記しましたが、現代カナに直しました。編者。
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