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2011年9月26日 (月)

ランボー・ランボー<30>中原中也「芸術論覚え書」を読む・その1

中原中也が昭和9年(1934年)に書いた
「芸術論覚え書」を
もう少し丁寧に読んでおきましょう。

ここには
原文とその現代新聞表記版を掲出します。

ここでいう「現代新聞表記」とは、
原作の歴史的仮名遣い、
歴史的表記を現代の新聞や雑誌の表記基準に拠って書き改めたもので、
現代仮名遣い、
現代送り仮名、
常用漢字の使用、
非常用漢字の書き換え、
文語の口語化、
接続詞や副詞のひらがな化、
句読点の適宜追加・削除――などを行い、
中学校2年生くらいの言語力で読めるように、
平易で分かりやすい文章に整理し直したものです。

原文は、かなりの長文ですから
何回かに分けて読みます。

 *
 芸術論覚え書(現代新聞表記)

一、「これが手だ」と、「手」という名辞を口にする前に感じている手、その手が深く感じられていればよい。

一、名辞が早く脳裏に浮かぶということは、少なくとも芸術家にとっては不幸だ。名辞が早く浮かぶということは、やはり「かせがねばならない」という、人間の二次的意識に属する。「かせがねばならない」という意識は芸術と永遠に交わらない。つまり、互いに弾きあうところのことだ。

一、そんなわけから、努力が直接詩人を豊富にするとは言えない。しかも、直接豊富にしないから、詩人は努力するべきでないとも言えない。が、「かせがねばならない」という意識にはじまる努力は、むしろ害であろう。

一、知れよ、面白いから笑うのであって、笑うから面白いのではない。面白いところでは、人はむしろニガムシをつぶしたような表情をする。やがてにっこりするのだが、ニガムシをつぶしているところが芸術世界で、笑うところはもう生活世界だといえる。

一、人が、もし無限に面白かったら、笑う暇はない。ひとまず限界に達するので人は笑うのだ。面白さが限界に達することが遅ければ遅いだけ、芸術家は豊富である。笑うという、いはば面白さの名辞に当たる現象が、早ければ早いだけ人は生活人側に属する。名辞の方が世間に通じよく、気が利いてみえればみえるだけ、芸術家は危機にある。かくてどんな点でも間抜けと見えない芸術家があったら、断じて妙なことだ。
 もっとも、注意すべきは、詩人Aと詩人Bと比べた場合に、Bの方が間抜けだからAよりも一層詩人だとは言えない。何故なら、Bの方はAの方より名辞以前の世界も少なければ、また名辞以後の世界も少ないのかも知れない。これを一人一人について言えば、10の名辞以前に対して9の名辞を与え持っている時と、8の名辞以前に対して8の名辞を持っている時では、無論後の場合の方が間が抜けてはいないが、しかも前の場合の方が豊富であるということになる。

(以下次号)

 *
 芸術論覚え書(原作)
 
一、「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。

一、名辞が早く脳裡(なうり)に浮ぶといふことは尠(すくな)くも芸術家にとつては不幸だ。名辞が早く浮ぶといふことは、やはり「かせがねばならぬ」といふ、人間の二次的意識に属する。「かせがねばならぬ」といふ意識は芸術と永遠に交らない、つまり互ひに弾(はじ)き合ふ所のことだ。

一、そんなわけから努力が直接詩人を豊富にするとは云へない。而(しか)も直接豊富にしないから詩人は努力すべきでないとも云へぬ。が、「かせがねばならぬ」といふ意識に初まる努力は寧(むし)ろ害であらう。

一、知れよ、面白いから笑ふので、笑ふので面白いのではない。面白い所では人は寧ろニガムシつぶしたやうな表情をする。やがてにつこりするのだが、ニガムシつぶしてゐる所が芸術世界で、笑ふ所はもう生活世界だと云へる。

一、人がもし無限に面白かつたら笑ふ暇はない。面白さが、一と先づ限界に達するので人は笑ふのだ。面白さが限界に達すること遅ければ遅いだけ芸術家は豊富である。笑ふといふ謂(い)はば面白さの名辞に当る現象が早ければ早いだけ人は生活人側に属する。名辞の方が世間に通じよく、気が利(き)いてみえればみえるだけ、芸術家は危期に在る。かくてどんな点でも間抜けと見えない芸術家があつたら断じて妙なことだ。
 尤(もっと)も、注意すべきは、詩人Aと詩人Bと比べた場合に、Bの方が間抜だからAよりも一層詩人だとはいへぬ。何故ならBの方はAの方より名辞以前の世界も少なければ又名辞以後の世界も少ないのかも知れぬ。之を一人々々に就いて云へば、10の名辞以前に対して8の名辞を持つてゐる時では無論後の場合の方が間が抜けてはゐないが而も前の場合の方が豊富であるといふことになる。

(角川書店「新編中原中也全集 第4巻 評論・小説 本文篇」より)

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