ランボー・ランボー<24>日記に現れる「ランボーという事件」その3
中原中也の日記の昭和10年は
12月31日
フランス語。戸張竹風訳ツアラトゥストラー読了。
で終わり、
翌11年(1936)は
1月6日
馬鹿どもといふものは、相手がしょんぼりしてると、張合がないやうなことを云ふけれど、それでて、相手がしょんぼりしてれば自己満足しているものなんだ。フランス語。ルナアルの日記。
ではじまり、
それまでと連続した生活がうかがえます。
ランボオの文字は見つからず
代わりに「フランス語」が連日記されるのは
翻訳の仕事が生活の中心になったのに加え
ランボーのみならず他のテキストへと関心を広げて
語学のいっそうの練達が求められていたからでしょうか。
年表をのぞいてみれば
昭和11年は
「四季」「改造」「紀元」などに詩・翻訳を多数発表。
とあり、
翻訳の仕事は前年から引き続いて
わずかながら生活の糧のレベルへ達していた様子です。
この年末に長男・文也が急逝する前に
「ランボオ詩抄」(山本書店、6月)は刊行されました。
日記6月28日に
山本文庫「ランボオ詩抄」出来。印税受く。
6月29日に
「ランボオ詩抄」発送。(以下略)
とあるのを最後に
昭和11年日記に
ランボーの名は記されず
(長男文也の死亡は詩人の生活を狂わせました)
次に現れるのは
昭和12年、鎌倉転居後に書き始められた
「ボン・マルシェ日記」の中でのことになります。
中原中也は
昭和12年初めから1か月余を
千葉市の中村古峡療養所に入院しますが
自主退院した直後に
小林秀雄ら旧知が多く住む鎌倉へ引っ越し
起死回生の暮らしをはじめます。
この時からつけられたのが
後に「ボン・マルシェ日記」と呼ばれることになった晩年の日記です。
この日記にも
ランボーの名はほとんど登場しませんが
(8月11日) Mercredi
野田書房より「ランボオ詩集」の初校来る。
わりつけが目茶々々なので閉口。
(略)
(8月23日) Lunndi
午前1時起床。「ランボオの手紙」(版画荘)を読了。
(8月25日) Mercredi
ランボオ詩集三校発送。
(略)
(8月28日) Samedi
(略)
ランボオ詩集四校発送。(責任校了とす。)
どんな本になることやら、俺は知らない。「永遠の中耳炎氏」即ち野田誠三がやることだ。俺は知らない。奴は校正刷を送る以外、何を問合せても一度の返事もしない。虫のいい奴!
(9月15日) Mercredi
(略)
上京。野田書房よりランボオ詩集発送。
(略)
と、8月に「ランボオ詩集」が刊行される前後に
ランボーは集中して登場し
これが本当の最後になってしまいます。
この年の10月22日に
詩人は永眠します。
今回は
「ランボオ詩集」巻末の
後記を原文のまま読んでおきます。
*
後記
私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。
私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。
★
附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。
★
いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。
繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、
つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつとヹルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯ヹルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。
★
終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕
(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
※ルビは( )内に示しました。編者。
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