ランボー・ランボー<35>中原中也「芸術論覚え書」を読む・その6
<承前5>
*芸術論覚え書(現代新聞表記)
一、精神というものは、その根拠を自然の暗黒の中心部に持っている。
近代人の中の極めてまったく愚劣な、屁理屈屋どもが完全に人為的なものを作りたいと企図したりする。彼は彼を生んだものが自分でないことも忘れているようなものだ。
ところで精神が客観性をもつわけは、精神がその根拠を自然の中に持つからである。
だから思考上の紛糾というものは精神自体の中にその原因があるのではない。精神の表現過程の中に、偶然的雑物が飛び込むことにその原因はあるのだ。
色々な解釈があるのではない。数々の解釈が、多少ともそれぞれの偶然性に支配されるというだけのことだ。
一、芸術というものが、生まれるものであって、こしらえようというものではないということは、いかにも芸術の説明にはなっていないようであるけれど、芸術家である人にはこう聞けば安心のいくことである点に留意してもらいたい。
こうして、芸術論がしばしば余りに空言に終わることが多いわけは、芸術家でない人に芸術的創作を可能にさせてしまう意向を、知ってか知らないでか、隠してしまっていることによるのである。
芸術というものは、幾度も言う通り、名辞以前の現識領域の、豊富性に依拠する。すなわち、それは人為的に増減できるものではない。
このようにして芸術家は宿命的悲劇に晒されている。彼は、面白くないことにはいくらせっせと働こうとも徒労である。これは辛いことと言える。
しかも、この辛さの由来する所にこそ、精神の客観性は依拠するのである。
一、 一切は、不定だ。不定で在り方は、一定だ。
一、芸術家よ、君が君の興味以外のことには煩わされないように。
こういうことが、芸術家以外の人に、虫のいいことと聞こえるならば、言わなければなるまい、「自分の興味以外に煩わされないで生きることは、それに煩わされて生きることよりもよっぽど困難なのが一般である。虫のいいのは君のほうだ」。
名辞以前、つまりこれから名辞を造り出さねばならないことは、すでに在る名辞によって生きることよりは、少なくとも2倍の苦しみを要するのである。
一、しかし名辞以前とはいえ、私は印象派の信条と混同されたくはない。すなわち、あの瞬間的描写という意向と。――名辞以前だといって、光と影だけがあるのではない。むしろ名辞以前にこそ、全体性はあるのである。
一、芸術家にとって、先生はいないといっていい。あればそれは伝統である。先生はいうまでもなく、目指す方向ではない。それは介添えしてくれるものだ。このことを混同するために、しばしば混乱が生じる。例えば、かつて私が人々が伝統から学ぶことをあまりに等閑(なおざり)にしていることを訴えるとすぐに、ある人たちは私を伝統主義者のように思った。が、私は、伝統主義者であるのでも、また、ないのでもない。私は、伝統から学べるかぎり学びたいに過ぎない。
(もっとも、このような誤解は、近頃珍しいことではない。熟読ということがどういうことかに思い至らない連中がいかに多いものかと思う。)
※「現代新聞表記」とは、原作の歴史的仮名遣い、歴史的表記を現代の新聞や雑誌の表記基準に拠って書き改めたもので、現代仮名遣い、現代送り仮名、常用漢字の使用、非常用漢字の書き換え、文語の口語化、接続詞や副詞のひらがな化、句読点の適宜追加・削除――などを行い、中学校2年生くらいの言語力で読めるように、平易で分かりやすい文章に整理し直したものです。
*
芸術論覚え書(原作)
一、精神といふものは、その根拠を自然の暗黒心域の中に持つてゐる。
近代人中の極(ご)くもう愚劣な、へ理屈屋共が全然人造的なものを作りたいと企図したりする。彼は彼を生んだものが自分でないことも忘れてゐるやうなものだ。
ところで精神が客観性を有するわけは、精神がその根拠を自然の中に有するからのことだ。
而して思考上の紛糾といふものは精神自体の中にその原因を有するのではない。精神の表現過程の中に偶然的雑物が飛込むことにその原因はあるのだ。
色々の解釈があるのではない。数々の解釈が多少とも夫々(それぞれ)の偶然性に支配されるといふだけのことだ。
一、芸術といふものが、生れるものであつて、拵(こしら)へようといふがものではないといふことは、如何にも芸術の説明にはなつてゐないやうであるけれど、芸術家であるひとにはかう聞けば安心のつくことである点に留意されたい。
而して、芸術論が屢々余りに空言に終ること多い理由は、芸術家でない人に芸術的制作を可能ならしめんとする意向を知つてか知らないでか秘(ひそ)めてゐることそれである。
芸術といふものは、幾度もいふ通り名辞以前の現識領域の、豊富性に依拠する。乃(すなわ)ちそれは人為的に増減出来るものではない。
かくて芸術家は宿命的悲劇に晒(さら)されてゐる。彼は、面白くないことにはいくらせつせと働かうとも徒労である。これは辛いことと云へる。
而も、この辛さの由来する所にこそ精神の客観性は依拠するのである。
一、一切は、不定だ。不定で在り方は、一定だ。
一、芸術家よ、君が君の興味以外のことに煩(わづら)はされざらんことを。
かくいふことが、芸術家以外の人に、虫のいいことと聞えるならば云はねばなるまい、「自分の興味以外に煩はされずして生きることは、それに煩はされて生きることよりもよつぽど困難なのが一般である。虫のいいのは君の方だ」。
名辞以前、つまりこれから名辞を造り出さねばならぬことは、既(すで)に在る名辞によつて生きることよりは、少くとも二倍の苦しみを要するのである。
一、然し名辞以前とは云へ、私は印象派の信条と混同されたくない。即ちかの瞬間的描写といふ意向と。――名辞以前だとて、光と影だけがあるのではない。寧ろ名辞以前にこそ全体性はあるのである。
一、芸術家にとつて先生はゐないといつていい。あればそれは伝統である。先生は云ふまでもなく、目指す方(かた)ではない。それは介添(かいぞへ)してくれるものだ。このことを混同するために屢々混乱が生ずる。例へば、嘗(かつ)て私が人々が伝統から学ぶことを余りに等閑にしてゐることを唱へるや、或る人達は私を伝統主義者の如くに思つた。が、私は伝統から学べる限り学びたいのに過ぎない。
(尤も、右の如き誤解は、当今では珍しいことではない。蓋(けだ)し熟読といふことはどういふこと
かも思ひ到らぬ連中といふものは多いものである)
(角川書店「新編中原中也全集 第4巻 評論・小説 本文篇」より)
※ 傍点は省略、一部表記出来ない記号があります。編者。
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