中原中也が訳したランボー「感動」Sensation・その2
「感動」Sensationには
同時代訳がいくつか存在します。
それを少し読んで
中原中也訳との違いを見てみます。
いま手元にある
永井荷風の「珊瑚集」(新潮文庫、昭和28年)には
「そぞろあるき」というタイトルで
ランボー作品が一つだけ訳出されていますが
これが「Sensation」の荷風訳です。
(「珊瑚集」の初版発行は大正2年)。
「Sensation=センサシオン」は
中原中也の場合「感動」
荷風の場合「そぞろあるき」となり
ほかにも
金子光晴は「Sensation」をそのままにしますし
同時代ではなく最近のものでは
粟津則雄、宇佐美斉は「感覚」と訳します。
永井荷風の「珊瑚集」は
サブタイトルに「仏蘭西近代抒情詩選」とあるように
フランス詩の翻訳アンソロジーです。
シャルル・ボオドレエル(ボードレール)
ポオル・ヴェルレエン(ベルレーヌ)
アンリイ・ド・レニエエ(レニエ)らに混じって
アルチュウル・ランボオの名があり
「そぞろあるき」だけが収載されています。
これを読んでみますと――
◇
そぞろあるき
蒼(あを)き夏の夜や
麦の香(か)に酔(ゑ)ひ野草をふみて
小みちを行(ゆ)かば
心はゆめみ、我(わが)足さはやかに
わがあらはなる額(ひたひ)、
吹く風に浴(ゆあ)みすべし。
われ語らず、われ思はず、
われただ限りなき愛
魂(たましひ)の底に湧出(わきいづ)るを覚ゆべし。
宿(やど)なき人の如(ごと)く
いよ遠くわれは歩まん。
恋人と行(ゆ)く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。
――というふうに訳されています。
古書店で手に入れた
金子光晴の訳をみますと――
◇
「三、Sensationサンサシオン」
夏の爽(さわ)やかな夕、ほそ草をふみしだき、
ちくちくと麦穂の先で手をつつかれ、小路をゆこう。
夢みがちに踏む足の、一あしごとの新鮮さ。
帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。
話もしない。ものも考えない。だが、
僕のこのこころの底から、汲めどもつきないものが湧きあがる。
さあ。ゆこう。どこまでも。ボヘミアンのように。
自然とつれ立って、――恋人づれのように胸をはずませ……
(「ランボー全集 全一巻」、雪華社、1984)
※作品タイトルの前に通し番号をつけたのは、金子光晴自身か、編集者か、不明。
――とあります。
金子光晴の訳は
「近代仏蘭西詩集」(紅玉堂、大正14年)に
「サンサシオン」として初出しましたが
両者に大きな異同はないものと推測されます(未確認)。
中原中也の訳出は
昭和9年9月から10年3月の間に行われた(推定)ものとされていますが
永井荷風、金子光晴のほかに
同時代の訳として
長田秀雄「感覚」(明治41年)
藤林みさを「感覚」(大正12年)
三富朽葉「SENSATION」(大正15年)
大木篤夫「感覚」(昭和3年)
――を「新全集」はあげています。
(大木篤夫がランボーを訳していたなんて!)
中原中也訳は
歴史的仮名遣いで表記、
文語混じりの口語を基調にしているのは
創作詩と変わりませんが
ランボーが16歳で作ったこの詩を
「われ」でも「僕」でもなく
「私」としたところに
ランボーの「実直さ」を失うまいとした
訳者の眼差しが感じられるようです。
*
感動
中原中也訳
私はゆかう、夏の青き宵は
麦穂臑(すね)刺す小径の上に、小草(をぐさ)を踏みに
夢想家・私は私の足に、爽々(すがすが)しさのつたふを覚え、
吹く風に思ふさま、私の頭をなぶらすだらう!
私は語りも、考へもしまい、だが
果てなき愛は心の裡(うち)に、浮びも来よう
私は往かう、遠く遠くボヘミヤンのやう
天地の間を、女と伴れだつやうに幸福に。
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※一部、新漢字を使用しました。編者。
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