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2011年10月 3日 (月)

ランボー・ランボー<32>中原中也「芸術論覚え書」を読む・その3

 <承前2>

 *芸術論覚え書(現代新聞表記)

一、 芸術は、認識ではない。認識とは、元来、現識過剰に耐えられなくなって発生したとも考えられるもので、その認識を整理するのが、学問である。故に、芸術は学問ではなおさらない。

 芸術家が、学問に行くことは、むしろ利益ではない。
 しかし学問を厭(いと)うことが、何も芸術家の誉(ほま)れでもない。学問などは、人が芸術家であれば、耳学問で十分間に合うようになっている。認識対象が、実質的に掴めていれば、それに名辞や整頓を与えた学問などは、たとえば本で言えば目次を見たりインデックスを見たりするだけで分かる。たまには学びたくなるのも人情だから学ぶのもよろしいが、本の表題だけで、大体その本が分からないくらいなら、芸術などやらないほうがましである。(もっとも、表題の付け方の拙(まづ)い本は別の話だ。)

一、比喩的に言えば、太初には「消費」と「供給」は同時的存在だったが、人類はおそらく「食わねばならない」とか「身を防がねばならない」という消極方面のことに先ず走ったので「消費」の方は取り残された。もともと人類史は「背に腹は換えられない」歴史で、取り残された「消費」を回想(リメイン)させるのは芸術である。それで芸術と生活とは、絶対に互いに平行的関係にあるもので、何かのための芸術というようなものはない。

 芸術というのは名辞以前の世界の作業で、生活とは諸名辞間の交渉である。そこで、生活で敏活な人が芸術で敏活とはいかないし、芸術で敏活な人が生活では頓馬(とんま)であることもあり得る。いわば芸術とは「樵夫(きこり)山を見ず」のその樵夫であって、しかも山のことを語れば何かと面白く語れることであり、「あれが『山(名辞)』であの山はこの山よりどうだ」などということが、いわば生活である。まして「この山は防風上はあの山より一層重大な役目を果たす」などというのは明きらかに生活のことである。そこでたとえば、いわゆる問題劇を書いたイプセンだって、自身も言った通り、たしかに「人生(ライフ)のために書いたのではない」のであって、たまたま人生で問題になりがちな素材を用いたに過ぎない。すなわちその素材の上で夢みるという純粋消費作用を営んだに過ぎない。

一、生命の豊かさ熾烈(しれつ)さだけが芸術にとって重要なので、感情の豊かさ熾烈さが重要なのではない。むしろ感情の熾烈は、作品を小主観的にするに過ぎない。詩について言えば、幻影(イメージ)も語義も、感情を発生させる性質のものではないのに、感情はそれらを無益に引きずり回し、イメージをも語義をも結局、不分明にしてしまう。生命の豊かさそのものとは、つまるところ小児が手と知らないまま自分の手を見て興じているようなものであり、つまり物が物それだけで面白いから面白い状態に見られるといったもので、芸術とは、面白いから面白いという領域のことで、こうして一般生活の上で人々が触れない世界のことで、いわば実質内部の興趣の発展によって生じるものであり、そうして生活だけをして芸術をしないことはまずまず全然可能だが、芸術をして生活をしないわけには行かないから、芸術はいよいよ忙しい立場にあり、芸術が一人の芸術家の内で衰退していくのは常にその忙しさの形式をとることからである。

さて、芸術家は名辞以前の世界に呼吸していればよいとして、「生活」は絶えず彼に向かって「怠(なま)け者」よという声を放つと考えることができるが、その声が耳に入らないほど名辞以前の世界で彼独特の心的作業が営まれつつあるその濃度に比例して、やがて生じる作品は客観的存在物となるのである。しかも名辞以前の「面白いから面白い」領域のことは、その面白さを人は人為的に増減することは困難だからここに宿命性があると言える。もっともそのノートの論旨を心得ていれば心得ていないよりは幾分宿命をいい方に転向させることができるというものであろう。

一、技巧論というものはほとんど不可能である。何故なら、技巧とは一々の場合に当たって作者自身の関心内にあることで、ことに芸術の場合には名辞以前の世界での作業であり、技巧論、すなわち論となったときから名辞以後の世界に属するところから、技巧論というものはせいぜい制作意向の抽象表情を捉えてそれの属性を述べること以上には本来出ることは出来ないからだ。つまり、便宜的にしか述べることが出来ない。しかも述べられたことから利益を得るのは、述べた人自身がそれと非常に相似的芸術家に役立つだけである。

※「現代新聞表記」とは、原作の歴史的仮名遣い、歴史的表記を現代の新聞や雑誌の表記基準に拠って書き改めたもので、現代仮名遣い、現代送り仮名、常用漢字の使用、非常用漢字の書き換え、文語の口語化、接続詞や副詞のひらがな化、句読点の適宜追加・削除――などを行い、中学校2年生くらいの言語力で読めるように、平易で分かりやすい文章に整理し直したものです。

 *
 芸術論覚え書(原作)

一、芸術は、認識ではない。認識とは、元来、現識過剰に堪へられなくなつて発生したとも考へられるもので、その認識を整理するのが、学問である。故に、芸術は、学問では猶更(なほさら)ない。
 芸術家が、学問にゆくことは、寧(むし)ろ利益ではない。
 然し学問を厭(いと)ふことが、何も芸術家の誉れでもない。学問なぞは、人が芸術家であれば、耳学問で十分間に合ふやうになつてゐる。認識対象が、実質的に摑(つか)めてゐれば、それに名辞や整頓(せいとん)を与へた学問なぞは、例へば本で云へば目次をみたりインデックスを見たりするだけで分る。偶(たま)には学びたくなるのも人情だから学ぶもよろしいが、本の表題だけで、大体その本が分らない位なら、芸術なぞやらぬがまあよい。(尤も、表題の付け方の拙い本は別の話だ。)

一、比喩(ひゆ)的に云へば、太初には「消費」と「供給」は同時的存在だつたが、人類は恐らく「食はねばならぬ」とか「身を防がねばならぬ」といふ消極方面のことに先ず走つたので「消費」の方は取り残された。由来人類史は「背に腹は換へられぬ」歴史で、取残された「消費」を回想(リメイン)させるのは芸術である。それで芸術と生活とは、絶対に互ひに平行的関係にあるもので、何かのための芸術といふやうなものはない。

 芸術といふのは名辞以前の世界の作業で、生活とは諸名辞間の交渉である。そこで生活で敏活な人が芸術で敏活とはいかないし、芸術で敏活な人が生活では頓馬(とんま)であることもあり得る。謂(い)はば芸術とは「樵夫(きこり)山を見ず」のその樵夫にして、而も山のことを語れば何かと面白く語れることにて、「あれが『山(名)』であの山はこの山よりどうだ」なぞといふことが謂はば生活である。ましては「この山は防風上はかの山より一層重大な役目をなす」なぞといふのはいよいよ以て生活である。そこで例へば謂ふ所の問題劇を書いたイプセンだつて、自身も云つた通り慥(たし)かに「人生(ライフ)のために書いたのではない」のであつて、偶々人生で問題になり勝な素材を用ゐたに過ぎぬ。即ちその素材の上で夢みるといふ純粋消費作用を営んだに過ぎぬ。

一、生命の豊かさ熾烈(しれつ)さだけが芸術にとつて重要なので感情の豊かさ熾烈さが重要なのではない。寧ろ感情の熾烈は作品を小主観的にするに過ぎない。詩に就いて云へば幻影(イメッジ)も語義も感情を生発せしめる性質のものではないところにもつてきて感情はそれらを無益に引き摺(ず)り廻し、イメッジをも語義をも結局不分明にしてしまふ。生命の豊かさそのものとは、畢竟(ひつきやう)小児が手と知らずして己が手を見て興ずるが如きものであり、つまり物が物それだけで面白いから面白い状態に見られる所のもので、芸術とは、面白いから面白い境(さかひ)のことで、かくて一般生活の上で人々が触れぬ世界のことで、謂はば実質内部の興趣の発展によつて生ずるものであり、而して生活だけをして芸術をしないことはまづまづ全然可能だが、芸術をして生活をしないわけには行かぬから、芸術は屡々忙しい立場に在り、芸術が一人の芸術家の裡(うち)で衰褪してゆくのは常にその忙しさ形式を採つてのことである。

 扨(さて)、芸術家は名辞以前の世界に呼吸してゐればよいとして、「生活」は絶えず彼に向つて「怠(なま)け者」よといふ声を放つと考へることが出来るが、その声が耳に入らない程名辞以前の世界で彼独特の心的作業が営まれつゝあるその濃度に比例してやがて生ずる作品は客観的存在物たるを得る。而も名辞以前の「面白いから面白い」境(さかひ)のことは、その面白さを人は人為的に増減することは困難だから茲(ここ)に宿命性が在ると云へる。尤も該(がい)ノートの論旨を心得てゐれば心得てゐないよりは幾分宿命をいい方に転向させることが出来るといふものであらう。

一、技巧論といふものは殆ど不可能である。何故なら技巧とは一々の場合に当つて作者自身の関心内にあることで、殊に芸術の場合には名辞以前の世界での作業であり、技巧論即ち論となるや名辞以前の世界に属する所から、技巧論といふものはせいぜい制作意向の抽象表情を捉(とら)へてそれの属性を述べること以上には本来出ることが出来ない。つまり便宜的にしか述べることが出来ない。而も述べられたことから益するのは述べた人自身がそれと非常に相似的芸術家に役立つだけである。

(角川書店「新編中原中也全集 第4巻 評論・小説 本文篇」より)
※傍点は省略、一部表記出来ない記号があります。編者。

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