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2011年11月

2011年11月30日 (水)

中原中也が訳したランボー「わが放浪」付録篇2・西条八十とランボー

西条八十が「アルチュール・ランボオ研究」を著わすに至った経緯を
同書「あとがき」に記していますが
中に最初のランボー論を書いた頃のことが書かれてありますから
それを読んでおきましょう。

 ◇

(略)
わたしは最初のランボオ論を昭和の初頭早稲田大学出版部発行の研究論文集に載せ、それは昭和四年、改造社発行の『新選西条八十集』(中)に再録された。

昭和十三年わたしはパリへ行ったが、たまたま亡友柳沢健とこの詩人の故郷シャルルビルを訪ねた。駅前の広場には、ささやかな彼の記念塔が立っていた。(この碑の建立日の光景を、エルネスト・レイノオは、その著『象徴主義者の群れ』の中で委しく面白く書いている。)しかし、その記念塔の上の肝心の詩人の頭像は無かった。第一次欧州大戦中この町を占領したドイツ軍が、砲弾に鋳直(いなお)してパリへ撃ち込んでしまったのだそうである。

わたしたちは携帯したパテルヌ・ペリションの『ランボオ伝』を案内書に、詩人の生家や学校や、ミューズ河畔や、さまざまな想い出のあとを辿って歩いた。そして、当時故郷でこの詩人の名を知っている人の少ないのに驚いたのである。

当時彼の詩集はポール・クロオデルが序文を書いたメルキュール版のそれが唯一のものであり、研究書はペリションの書いた伝記や、英人エジェル・リックワードの『ランボオ伝』などが主なものであった。(略)
(※行空きを追加してあります。編者。)

 ◇

上田敏に先立って
「酩酊船」を訳した柳沢健がここに登場します。
西条八十と柳沢健とは
かたや早稲田系、かたや東大系でありながら
昭和13年にはランボーの生地へ同道する旅人でした。

早稲田系の文学者と
東大系の文学者との交流は
まったく行われなかったということではなく
どちらかの活動がどちらかへと
伝播することも一切無かったわけでもないことが
はっきりとわかる二人の詩人の交友関係です。

メルキュール版のランボー詩集も
ここに登場します。
中原中也や小林秀雄や富永太郎らも
メルキュール版でランボーと出会いました。

西条八十の最初のランボー論は
昭和4年に発表されているのですから
これを中原中也が読まなかったという確証はありませんが
読んだという確証もまったくありません。
いまや、それは実証不可能なことがらです。

昭和4年は4月に
同人誌「白痴群」を発行し
翌5年には廃刊に至ってしまうものの第5号に
中原中也はベルレーヌの「ポーヴル・レリアン」を訳し
その中のランボー「フォーヌの頭」や「盗まれた心」を訳しています。
翻訳の発表をやや本格的にはじめた頃のことです。

昭和初期は
幾つかの星雲が
お互いの存在を遠巻きに見ながら
坩堝(るつぼ)のように活動していた時代だった――。

 *

 わが放浪

私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!

独特の、わがズボンには穴が開(あ)いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささやいてゐた。

そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額(ひたひ)には、露の滴(しづく)を感じてた。

幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。

※講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」では、第8行を「やさしくささやきささめいてゐた。」としてあるため、今回は、角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より引用しました。編者。
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2011年11月29日 (火)

中原中也が訳したランボー「わが放浪」付録篇・西条八十の分類

西条八十の「アルチュール・ランボオ研究」は
中で「『初期詩篇』の総瞰」の章を設け
ランボーの初期詩篇を6分類しているのですが
ランボー理解の手助けになりそうなので
ここでそれをひもといておきましょう。

「まず第一に反キリスト教の思想がある。」

――として挙げられるのは
「タルチュフの懲罰」
「悪」
「教会に集る貧乏人」などです。

「第二は、進んで、おのれがキリスト教徒であることへの反逆――洗礼の拒否である。」

――ここには
「最初の聖体拝受」
「太陽と肉体」
「正義の人」などが入りますが

このグループの中の
「鍛冶屋」
「音楽につれて」
「七歳の詩人たち」
「九二年と九三年の戦死者たちよ」
「皇帝たちの怒り」
「ザールブリュックの大勝利」は
現存の社会への憎悪・反感。

さらに
「パリの軍歌」
「パリは再び大賑い」
「ジャンヌ・マリイの手」
「おれの心よ、いったいなんだ……」の4篇は
ランボーのパリ・コンミューンへの熱狂的同情を詠った詩群とされています。

「第一、第二に続く、第三のモチーフとしては恋愛詩だが、異様なことに、この詩人にはどの詩人の場合にも在るように、ダンテがベアトリーチェを詠ったような清純な恋愛詩はまったくない。あまりにも、肉感的な作品ばかりである。」

――として挙げられるのは
「七歳の詩人たち」
「音楽につれて」
「最初の宵」
「みどり亭にて」
「いたずら好きな女」
「ニナの返答」
「小説」
「冬を夢みて」
「水から出るヴィーナス」
「慈善看護尼」などです。

「第四の詩群としては、この詩人の<醜悪なるもの、汚穢なるものへの特別な関心>が挙げられる。」

――として、
「水から出るヴィーナス」
「タルチュフの懲罰」
「七歳の詩人たち」
「最初の聖体拝受」
「ニナの返答」
「夕べの祈り」
「酔いどれ船」
「盗まれた心臓」
「しゃがみこんで」
「坐っている奴ら」
「首吊人の舞踏会」
「虱を探す女たち」。

「第五に挙げたいのは、彼の「わが漂泊」や「感覚」などに見る<自然への親愛>の詩群である。」

――として、
「感覚」
「太陽と肉体」
「オフェリア」
「わが漂泊」。

「最後に、第六のモチーフとしてわたしが特に挙げたいのは<幻覚>のモチーフとでも呼ぼうか、およそランボオの一切のものに対する感じ方、描き方が、幻覚的であり、幻想的である、その詩群である。この特質は他のどの詩群よりもひろく、ほとんど彼の作品全体を蔽っている。」

――として、
「感覚」
「わが漂泊」
「鍛冶屋」
「太陽と肉体」
「オフェリア」
「首吊人の舞踏会」
「盗まれた心臓」
「しゃがみこんで」
「坐っている奴ら」
「税関吏たち」
「冬に夢みて」
「夕べの祈り」
「最初の宵」
「最初の聖体拝受」
「正義の人」などを挙げています。
(※タイトルは西条八十の翻訳ですから、当然、中原中也訳と異なります。編者。)

以上を要約すれば、
ランボーの初期詩篇は、
1、反キリスト教
2、自らがキリスト者になることへの反逆・拒否
3、恋愛詩
4、醜悪・汚穢への特別な関心
5、自然への親愛
6、幻覚
――に分類・整理できるということですが
ご覧のように、各個の詩は
複数の詩群にまたがって分類されています。

西条八十独自の分類ですが
ランボー初期の作品を概観できて
いつか役に立つはずのものです。

 *

 わが放浪

私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!

独特の、わがズボンには穴が開(あ)いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささやいてゐた。

そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額(ひたひ)には、露の滴(しづく)を感じてた。

幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。

※講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」では、第8行を「やさしくささやきささめいて
ゐた。」としてあるため、今回は、角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より引
用しました。編者。
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2011年11月28日 (月)

中原中也が訳したランボー「わが放浪」Ma Bohèmeのこだわり

中原中也訳の「わが放浪」Ma Bohèmeは
「ランボオ詩抄」(昭和11年6月発行)の印刷用原稿が残っており
これが第1次形態①とされ
「ランボオ詩抄」として印刷発行された詩篇が
第1次形態②とされ
「ランボオ詩集」(昭和12年9月発行)掲載の詩篇が
第2次形態とされ
それぞれ若干の異同があります。
(新編中原中也全集 第3巻 翻訳)

目立った異同は
第8行で

第1次形態①は
やさしくさゝやきさゝめいてゐた。

第1次形態②は
やさしくささやきささめいてゐた。

第2次形態は
やさしくささやきささやいてゐた。

――と改変されたところですが
この改変は、いずれも微妙な変更でしたが
この微妙な変更に精力を注いだところが
いかにも中原中也と言えましょうか。

やさしくさゝやきさゝめいてゐた。

やさしくささやきささめいてゐた。
としたのは、
繰り返し符号「ゝ」2箇所を排して
「ささやき」「ささめく」という動詞のイメージを明確にしようとしたものでしょうか

それでも飽き足らず
「ささめく」という動詞を排して
ささやきささやいていた
と、「ささやく」という動詞一本に絞りました。
結局は、リフレインを選んだところに
中原中也のこだわりが感じられます。

リフレインばかりでなく
「や」「さ」という音感
ヤ行とサ行の共鳴感
「ささめく」ではなく「ささやく」という語の響きを取った
詩人の音へのこだわりがここにあるということもできましょう。

さらに言えば
原詩
Mes étoiles au ciel avaient un doux frou-frou.に
忠実であろうとした翻訳へのこだわりを
ここに見ることもできることでしょう。
frou-frouとあるルフランとオノマトペを訳してみせてくれたのです!

参考のために
第7、8行を他の訳で見ておきます。

三富朽葉訳
私の宿は大熊星に在つた。
わが空の星むらは優しいそよぎを渡らせた、

大木篤夫訳
俺の宿は大熊星座のなかにある、
俺の星々は高い空から珊々(さんさん)と鳴る、

西条八十訳
ぼくの宿は大熊星座に在った。
――大空の星の中に優しい衣(きぬ)ずれの音がきこえた。

金子光晴訳
僕の旅籠(はたご)は、大熊星座。
空では星どもが、さらさらとやさしい衣(きぬ)ずれの音をさせた。

 *

 わが放浪

私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!

独特の、わがズボンには穴が開(あ)いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささやいてゐた。

そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額(ひたひ)には、露の滴(しづく)を感じてた。

幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
※講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」では、第8行を「やさしくささやきささめいてゐた。」としてあります。編者。

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2011年11月27日 (日)

中原中也が訳したランボー「わが放浪」Ma Bohèmeと西条八十「わが漂泊」

「わが漂泊」は、解放の楽しさ、かち獲た自由の歓喜を詠っている点で、「感覚」とほぼ軌を同じうしているが、「感覚」においては単に<散策>であった少年の心持が、ここでは<旅>にまで拡がり、「感覚」に無かった実生活が影を落している。

――と、記すのは、
詩人・作詞家の西条八十です。

西条八十は
こう記したのに続けて
ランボーの原詩と自らの訳を掲げたあとで
さらに続け、

思えば「感覚」を書いた3月から、この作を書いた10月までの間に、ランボオは実生活においてかつてない大きな変化を味わった。全然故郷の町以外知らない彼が、数度家庭から逃亡した。最初のパリ行で、無一文で汽車から下りた彼は、警察署にみじめな一週間を暮し、二回目のベルギーへの旅では宿もなく棒チョコレートを齧りながら月夜の村落を彷徨した。これらの旅が彼に<やぶれたポケット><穴のあいた半ズボン>の貧しい実生活を味わわせた。彼の生来の幻想的感性がこの作においては一層その濃度を増して、秋の夜空にかがやく大熊星座の中に褥あたたかい宿を夢み、星群の中に慈母のようなひとの優しい衣ずれの音を聴かせているのである。(略)

――と、「わが漂泊」に関して
突っ込んで鑑賞します。

「アルチュール・ランボオ研究」(昭和42年、中央公論社)は
「ランボオ詩研究」と「アフリカ時代」の2部仕立てで
「ランボオ詩研究」は
第一部「シャルルビル時代」
第二部「革命とランボオ」
第三部「見者」
第四部「イリュミナシオン」
第五部「地獄の一季節」の5部に分かれ

第二部「革命とランボオ」は
第一章「革命の理想」
第二章「革命の夕暮」
第三章「転機」
第四章「『初期詩篇』の総瞰」とあり
この第四章の中に
ここに掲げた記述があります。

「わが漂泊」は
「感動」と同じ流れの詩篇で
「自然への親愛」を歌った第5の詩群と分類整理されるのですが

これは彼の『初期詩篇』の中で<反逆>に対蹠する、もっとも顕著な詩群である。そうして、悪罵と呪詛と憤激の険悪な雰囲気にみたされた『初期詩篇』を読みゆく者に、忽如、一陣のたのしい野花の匂いをのせた微風の吹き入るを感じさせ、蘇生のおもいあらしめるものはこれらの詩篇なのである。

――と、
「たのしい」
「野花の匂いをのせた」
「微風の吹き入る」
「蘇生のおもいあらしめる」詩篇のグループと結んでいるのです。

西条八十は
1892年(明治25年)生まれで1970年(昭和45年)に亡くなりましたから
大木篤夫(おおき・あつお、1895年~1977年)や
金子光晴(1895年~1975年)とほぼ同時代を生きた詩人で
三富朽葉(みとみ きゅうよう)も1917年と早逝しましたが、
生年は1889年で同年代といってもよく
これら明治中期生まれの文学者が
同時にランボーの詩に関心を寄せていたことの背景に
どんな事情があったのでしょうか
どんな理由があったにせよ
ランボーをはじめとする
フランス詩の受容が盛況であったことが想像できます。

ランボーの生没年は、1854年~1891年ですから
ランボーの死んだ頃に生れたこれら日本の文学者が
青年期に入ってランボーの存在を知り
その詩に傾倒したということになります。

少し遅れて
中原中也(1907年~1937年)の世代が
これを追いかけます。

 ◇

「わが漂泊」の
西条八十訳は
第1連と第2連がありますので
ここに掲出しておきます。

 ◇

わが漂泊
西条八十訳(部分)

ぼくは出かけた、拳固をやぶれたポケットにつっこんで。
ぼくの外套は結構この上なしだ。
ミューズよ! ぼくは空の下を行った。そしてぼくはあなたに忠実でした。
おお! さてもぼくの夢見た愛の壮麗さよ!

ぼくの一つっきりの半ズボンには大きな穴があいていた。
――空想家の拇指小僧よ(プチ・プーセ)よ、ぼくは途々韻(リズム)を摘み摘みいった。
ぼくの宿は大熊星座に在った。
――大空の星の中に優しい衣(きぬ)ずれの音がきこえた。

 *

 わが放浪
 中原中也訳

私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!

独特の、わがズボンには穴が開(あ)いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささめいてゐた。

そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額(ひたひ)には、露の滴(しづく)を感じてた。

幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2011年11月24日 (木)

中原中也が訳したランボー「わが放浪」Ma Bohèmeの同時代訳

中原中也訳「わが放浪」Ma Bohèmeの
同時代訳を読んでおきましょう。

角川の新全集(「新編中原中也全集」のこと)第3巻「翻訳・解題篇」に
三富朽葉訳が掲出されていますから、それと、
大木篤夫訳との2篇をとりあえず。

中原中也は
昭和11年10月30日の日記に
「先達(せんだつて)から読んだ本」として
「三富朽葉全集」を他の本とともにあげています。

他の本としては
リッケルトの「認識の対象」。
コフマンの「世界人類史物語」。
「パスカル随想録(抄訳)」。
「小林秀雄文学読本」。
「深淵の諸相」。
「芭蕉の紀行」少し。
――を列挙しています。

昭和11年10月といえば
詩人が死去するおよそ1年前のことです。
そして、
愛息・文也が死去する10日ほど前のことです。

この日の日記を
やや長くなりますが
引いておくと、

いよいよ今日からまた語学に入る。来春頃からはフランスの詩集が自在に読めるやうに、神に祈る。次第に、詩一天張に勉強してゐればよいといふ気持になる。

モツアルト、ヷイオリン・コンチェルト第五番イ長調をラヂオで聴いて感銘す。
もうもう誰が何と云つても振向かぬこと。詩だけでもすることは多過ぎるのだ。
22日以来外出せず。今月は外出せしこと四五回。月に五回も外出すれば沢山なり。プロザイックな連中を相手にするに及ばず。坊やでも大きくなつたら、もつと映画でも見るべし。

詩に全身挙げて精進するものなきは寧ろ妙なことなり。斯くも二律背反的なものを容易に扱へると思へるは、愚鈍の極みといふべきだ。
語学をやらねばならぬ。このことだけが大切なり。
(行空きを加えてあります。編者)

――とあります。

語学とは、もちろんフランス語のことで
「ランボオ詩抄」を6月に刊行したばかりでした。
翻訳の仕事に
ますます力を注ごうとしている
詩人の姿がここにあります。

ちなみに、
三富朽葉(みとみ きゅうよう)の生没年は、1889年~1917年
大木篤夫(おおき・あつお)の生没年は、1895年~1977年
中原中也の生没年は、1907年~1937年、
ランボーの生没年は、1854年~1891年です。

 ◇

 わがさすらひ
 三富朽葉訳

私は歩んだ、拳を底抜けの隠衣(かくし)へ、
上衣(うはぎ)も亦理想的に成つてゐる、
御空(みそら)の下を行く私は、ミュウズよ、私は御身の忠臣であつた、
オオ、ララ、どんなにすばらしい恋を私は夢みたであらう!

わが唯一のズボンは大穴ができてゐる、
一寸法師の夢想家の私は路路
韻をひねくつた。私の宿は大熊星に在つた。
わが空の星むらは優しいそよぎを渡らせた、

そして私はそれを聴いた、路傍(みちばた)に坐つて、
此の良い九月の宵毎に、露の雫の
わが額に、回生酒(きつけ)のやうなのを感じながら、

異様な影の中に韻を践みながら
七絃のやうに、私はわが傷ついた靴の
護謨紐(ごむひも)を引いた、片足を胸に当てて!

(角川書店「新編中原中也全集」「第3巻 翻訳・解題篇」より)

 ◇

 わが放浪
 大木篤夫訳

俺は行く、裂けた衣嚢(かくし)に 両の拳(こぶし)を突ッ込んで。
今では俺の外套も 理想ばかりになつてしまつた。
俺は行く、大空の下を、ミューズよ、私はあなたの賛美者です。
――まあ、まあ、何と、すばらしい愛を夢見るものだ!

この一張羅の半ズボンには 大きな孔が一つ、それでも、
夢想家プチイ・プセエのこの俺は、行く道すがら韻を踏む。
俺の宿は大熊星座のなかにある、
俺の星々は高い空から珊々(さんさん)と鳴る、

俺は恍(うつと)りそれに聴き入る、路ばたに腰を下ろして、
かうした九月の美しい晩、額にかゝる露のしづくを
俺は感じる、芳しい葡萄酒のやうに。

かうした夜(よる)は、幻めいた影のさなかで、詩の韻を合はすのだ。
片足を胸の上まで持ちあげて、七絃琴でも奏(ひ)くやうに
ピイーン・ピイーンと弾(はじ)くのだ、破れた靴のゴム絲を!

(ARS「近代佛蘭西詩集」より)

 *

 わが放浪
 中原中也訳

私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!

独特の、わがズボンには穴が開(あ)いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささめいてゐた。

そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額(ひたひ)には、露の滴(しづく)を感じてた。

幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2011年11月23日 (水)

中原中也が訳したランボー「わが放浪」Ma Bohème

「わが放浪」Ma Bohèmeは
ランボー初期に多い
放浪詩篇と呼ばれる一群の詩の中で
放浪そのものを歌った
最もポピュラーと言ってよい作品です。

中原中也の訳でなくとも
どこかで聞いたことのあるフレーズが
これがランボーの作品だったのかと
あらためて知った人はきっと多くいることでしょう。

ポケットに手を突っ込んで
ぼくは歩いた
冬の夜の街を
空にはオリオン
突っ込んだポケットは底抜けだい

中学だったか、もう高校に入っていたか
語呂がいいからか
リズムがあるからか
「詩」っていうものがあることを
うっすらと知らされただけで
すぐに忘れてしまったのを
その後も何かのときに
読んだことが何度かありました。

足を胸の高さまでピョーンとあげて歩く
異様で滑稽感のある姿態を思い浮かべては
チャプリンやジャック・タチの
孤独な道化者の
自己に向ける眼差しの怜悧さを連想したこともありました。

中原中也に
「秋の一日」があり
これは
季節も情景もまったく違いますが
「詩のきれくずを探しに出かけよう」などと思い出し
ランボーと重なってしまうのが
いっこうにおかしくはないことも
いま、知ります。

いま
「秋の一日」を
読んでみれば

ぽけつとに手を突込んで
路次を抜け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。

――と、最終連はありました。

布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。

この最終行は、詩の言葉を紡ぎ出す営みのことで
ランボーの詩で

第2連、
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。

第4連、
中で韻をば踏んでゐた、

と、歌われているのと同じことです。

 *

 わが放浪

私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!

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小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささめいてゐた。

そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額(ひたひ)には、露の滴(しづく)を感じてた。

幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。

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2011年11月22日 (火)

中原中也が訳したランボー「食器戸棚」Le Buffetと大岡昇平

「食器戸棚」Le Buffetは
大岡昇平がその著作「中原中也」中の
「中原中也全集」解説「翻訳」の章で伝えるエピソードが
広く知れわたっています。

大岡昇平は

昭和3年に私は中原と知り合ったわけだが、その頃から漠然とランボーの韻文詩を全訳しようという意図を持っていた。小林秀雄にも『地獄の季節』『飾画』を訳す意図があり、一部ははじめられていた。(中略)

個人的な回想を記すなら、私は昭和3年、2か月ばかり中原からフランス語を習った。飲み代を家から引き出すための策略だが、『ランボー作品集』をテクストに、一週間の間に各自、一篇を訳して見せ合った。私の記憶では中原が「飾画」を、私が「初期詩篇」を受け持った。彼は「眩惑」「涙」などを、私は「谷間の睡眠者」「食器戸棚」「夕べの辞」「フォーヌの頭」「鳥」「盗まれた心」を訳し、二人で検討した。「盗まれた心」は中原が昭和5年1月「白痴群」第5号に訳載したヴェルレーヌ「ポーヴル・レリアン」に中に含まれている。

――と記しているのですが
中に「食器戸棚」が見えます。

「初期詩篇」を大岡昇平が分担し
「飾画」を中原中也が分担して
それぞれが翻訳し
出来上がったところで見せ合って
どのような会話(授業?)が行われたのでしょうか
二人の若き文学青年のやりとりを思うだけで
ワクワクしてきますが
この二人、昭和4年には
同人誌「白痴群」の発刊に関わり
一方は、リーダーとなり
一方も、同人となって
文学の道を形にしていくのですが
やがては、小さな対立を生み
その対立が「白痴群」の解散(昭和5年)のきっかけとなってしまいます。

ランボーの翻訳に取り組んだのは
二人が小林秀雄の紹介で知り合った直後のことで
小林秀雄がすでにランボーの翻訳をはじめていたわけですから
ランボー絡みで交友が広がっていたことが
手に取るように分かります。

「食器戸棚」は
第1次形態が昭和7年(1932年)4月の制作と推定されていますが
大岡昇平の訳がどれほど参照されたのか
今になっては知る由もありません。
まったく参考にならなかったとも断定できず
なんらかの「呼吸」が
この訳出の中に漂っている、と感じられても
そう変なことではありません。

昔、大岡は
あんな風に訳していたなあ、などと
頭の片隅に置きながら
中原中也は独自の翻訳に取り組んだことでしょうが
感じるところがあれば
その一語を取り入れたこともあったかもしれません。

大岡昇平の回想も
どことなく遠慮がちで
どこそこに私の訳がある、とは主張していませんから
もしも訳語の一つでも
大岡のものが採用されているとすれば
想像する楽しみだけの話になりますが
楽しいというほかにありません。

同じようなことが
「谷間の睡眠者」
「夕べの辞」
「フォーヌの頭」
「鳥」
「盗まれた心」についても
言えることになります。

「食器戸棚」は
はじめに「白痴群」の僚友・安原喜弘宛の
昭和7年4月頃の書簡に同封されたもの(第1次形態)から
昭和9年3月に文学詩誌「椎の木」に初出発表されたもの(第2次形態)へ
昭和11年に「ランボオ詩集」に収録されたもの(第3次形態)へと
その都度、改訳されましたから
現在、一般に読めるのは第3次形態です。

 *

 食器戸棚

これは彫物(ほりもの)のある大きい食器戸棚
古き代の佳い趣味(あぢ)あつめてほのかな檞材。
食器戸棚は開かれてけはひの中に浸つてゐる、
古酒の波、心惹くかをりのやうに。

満ちてゐるのは、ぼろぼろの古物(こぶつ)、
黄ばんでプンとする下着類だの小切布(こぎれ)だの、
女物あり子供物、さては萎んだレースだの、
禿鷹の模様の描(か)かれた祖母(ばあさん)の肩掛もある。

探せば出ても来るだらう恋の形見や、白いのや
金褐色の髪の束(たば)、肖顔(にがほ)や枯れた花々や
それのかをりは果物(くだもの)のかをりによくは混じります。

おゝいと古い食器戸棚よ、おまへは知つてる沢山の話!
おまへはそれを話したい、おまへはそれをささやくか
徐かにも、その黒い大きい扉が開く時。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2011年11月21日 (月)

中原中也が訳したランボー「食器戸棚」Le Buffet

中原中也訳の「ランボオ詩集」を
読み進めます。
「谷間の睡眠者」の次にあるのは
「食器戸棚」Le Buffetというタイトルの
これまで読んだ詩とは一風変わって
マチスに通じる室内描写か、と
目を凝らしたくなる作品です。

とはいっても
ランボーがとらえたのは
台所用品としての食器戸棚というより
古いワインの香りが心を引く
古物や古い下着類や布切れやレースなどがしまわれてある
収納用のタンスのようなもののアップで
第2連以下に登場するのは
婆さんの肩掛けや

探せばきっと出てくる恋の形見や
ブロンドの髪の束や
肖像画や
枯れてドライフラワーになった花や
それらには果物の香りさえほのかに漂う
クローゼットのような
押入れのような
不用品や思い出のつまった品々を収納しておくキャビネットに近いもののようです。

おお年季の入った食器戸棚よ!
お前は、知っているのだね、たくさんの物語を。
お前は、それを話したがっているのだね

しずかに
しずかに
その黒い大きな扉が開く時……。

「しずかに」を「徐かに」と当てる
言葉使いは
中原中也独特のものでしょう
詩人の実作の中で紡がれる言葉が
自然に翻訳の中に現われます。

開ける気持ちがあるならば
埋もれてしまった
誰も知らない歴史の秘密が
明らかになりますよ、などとランボーが言いたかったかどうか

中原中也には
「村の時計」(「在りし日の歌」)という作品があり
どこだかは特定できないある村に
古びた大きな時計があって
それは今でも時を打つ仕事をしている
時を知らせる前には
ぜいぜいと鳴る
それがどうしたという、なんのこともない内容の詩ですが
それを、ふっと連想させるかもしれません。

日常生活にひろったモチーフにしても
爆弾が仕掛けられてあるかにみえて
そうでもなさそうで
そのなんでもない情景描写にとどまるところがよい
これから何かがはじまる、というところで
終わってしまう詩――

 *

 食器戸棚

これは彫物(ほりもの)のある大きい食器戸棚
古き代の佳い趣味(あぢ)あつめてほのかな檞材。
食器戸棚は開かれてけはひの中に浸つてゐる、
古酒の波、心惹くかをりのやうに。

満ちてゐるのは、ぼろぼろの古物(こぶつ)、
黄ばんでプンとする下着類だの小切布(こぎれ)だの、
女物あり子供物、さては萎んだレースだの、
禿鷹の模様の描(か)かれた祖母(ばあさん)の肩掛もある。

探せば出ても来るだらう恋の形見や、白いのや
金褐色の髪の束(たば)、肖顔(にがほ)や枯れた花々や
それのかをりは果物(くだもの)のかをりによくは混じります。

おゝいと古い食器戸棚よ、おまへは知つてる沢山の話!
おまへはそれを話したい、おまへはそれをささやくか
徐かにも、その黒い大きい扉が開く時。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2011年11月19日 (土)

中原中也が訳したランボー「谷間の睡眠者」と金子光晴の訳

Le Dormeur du val(中原中也訳は「谷間の睡眠者」)は
詩人・金子光晴の訳もありますが
中原中也・角川新全集は同時代訳に入れていません。
戦後の制作(翻訳)としているからでしょうか
戦前、昭和初期もしくは大正のいつかに
金子光晴はランボーの原詩を読んでいた可能性は高いのですが。

中原中也より10歳以上も年上の金子光晴。
二人の詩人は
生きた時代が一部で重なりながら
一度も接触することがなかったのは
ともに「詩壇」に距離を置いていたからでしょうか
遭わなかったことが不思議な感じがします。

ここでまた
金子光晴の訳「谷間にねむるもの」を見ておきますが
これは昭和29年発行の「現代詩の鑑賞」(河出新書)に収められているもので
初出が同書であったかは分かりません。
制作年(翻訳した年)も不明です。
ここでは
金子光晴自身の鑑賞がありますので
それも読んでおきます。
まず、同書からの詩の訳――。

 ◇

 谷間に眠るもの
 アルチュウル・ランボオ

立ちはだかる山の肩から陽がさしこめば、
こゝ、青葉のしげりにしげる窪地の、一すじの小流れは、
狂ほしく、銀のかげろふを、あたりの草にからませて
狭い谷間は、光で沸き立ちかへる。

年若い一人の兵隊が、ぽかんと口をひらき、なにも冠らず、
青々と、涼しさうな水菜のなかに、頸窩をひたして眠つてゐる。
ゆく雲のした、草のうへ、
光ふりそゝぐ緑の褥に蒼ざめ、横たはり、

二つの足は、水仙菖蒲のなかにつつこみ
病気の子供のやうな笑顔をうかべて、一眠りしてゐるんだよ。
やさしい自然よ。やつは寒いんだから、あつためてやつておくれ。

いろんないゝ匂ひが風にはこばれてきても、鼻の穴はそよぎもしない。
静止した胸のうへに手をのせて、安らかに眠つてゐる彼の右脇腹に
まつ赤にひらいた銃弾の穴が、二つ。

 ◇
この訳は
1984年発行の「ランボー全集 全一巻」(雪華社)に収録されているのとは違っていて
歴史的表記です。
「ゐ」を使用したり
現代音便を使わず
「ような」は「やうな」です。

ということから
戦前の制作(翻訳)であることが推察できますが
これも断言できるものではありません。

 ◇

この詩を取り上げて
金子光晴自らがランボー詩を鑑賞します。
それを
短いものですから
全文読んでみます。

 ◇
(以下、「現代詩の鑑賞」から引用)

 この訳は、意味をはっきりわからせるために、少々もって廻っているが、この詩は、少年天才詩人の詩が、いかに新鮮なものかということを示す見本のようなものだ。

 山かげの小流れに陽がさして、沸返るような陽炎にゆれているなかに、びしょびしょした湿地の水芹や水菜がはえているなかに、半分水びたしになって若者がねている。まるで、自然の光とそのめぐみにつかって、陶然としているようなかっこうだ。みるとそれは、戦死者で、右脇腹に二つの穴があいている。

 最後の行のドキリとさせる“おち”などはいかにも、才はじけた少年が、大人の手法を手に入れて、みごとにやりこなしたという感なきにしもあらずだが、全体の光耀(ひかり)眩しいなかに、「死」のこともなさ、明るさをあらわしえたところ、永遠の“はしり”という感じが強い。

 しかし、ランボオの魅力は、むしろ、現代詩につながるもので、その点、同時代のヹルレエヌがランボオの詩を驚異して高く評価したことのなかには、なにか、芸術家の“つらさ”があるようでならない。

 パリー・コンミューンに身を投じようとし、北方のシャルルヸルから徒歩でパリーへやってきた十六歳の少年には、すでにヹルレエヌのエレガンスの世界も、カトリシズムの悔恨もなかった。

※ 原文の傍点は、“ ”で示しました。また、読みやすくするための行空きを入れました。編者。

 *

 谷間の睡眠者
 中原中也訳

これは緑の窪、其処に小川は
銀のつづれを小草(をぐさ)にひつかけ、
其処に陽は、矜りかな山の上から
顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。

若い兵卒、口を開(あ)き、頭は露(む)き出し
頸は露けき草に埋まり、
眠つてる、草ン中に倒れてゐるんだ雲(そら)の下(もと)、
蒼ざめて。陽光(ひかり)はそそぐ緑の寝床に。

両足を、水仙菖に突つ込んで、眠つてる、微笑むで、
病児の如く微笑んで、夢に入つてる。
自然よ、彼をあつためろ、彼は寒い!

いかな香気も彼の鼻腔にひびきなく、
陽光(ひかり)の中にて彼眠る、片手を静かな胸に置き、
見れば二つの血の孔(あな)が、右脇腹に開(あ)いてゐる。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2011年11月18日 (金)

中原中也が訳したランボー「谷間の睡眠者」付録篇・大木篤夫の翻訳論

中原中也訳の「谷間の睡眠者」Le Dormeur du valは
同時代に
「眠れる人」
「眠」
「谷に眠れる者」
「谷間に眠る人」
「谷間の睡眠者」
「谷間に眠る男」
「渓谷の睡眠」
――と、めいめいにタイトルを変えて訳されました。

そのすべてを読めないのは残念ですが
珍しくも大木篤夫訳の「谷間に眠る人」を読めたついでに
もう少し寄り道をして
大木篤夫の翻訳に関しての考えをみておきましょう。

といっても
論文みたいなものではなく
「近代仏蘭西詩集」(ARS、昭和3年)の「あとがき(書後)」に
翻訳に関しての詩人・大木篤夫の思いが記されてあるのを
この機会ですから読んでおくだけのことです。

千九百二十二年の夏から最近に至るまでに訳した仏蘭西の詩を、やっとここに纏める気にな
った

――とはじまる同書の「書後」がいう最近とは
この本が刊行された1928年(昭和3年)頃のこととすれば
1922年(大正11年)から
およそ7年間の訳業ということになります。

目次の詩の項だけを見ても
シャルル・ボオドレエル
ポオル・ヹルレエヌ
アルチュゥル・ラムボオ
フレデリック・バタイユ
ルイ・ティエルスラン
ステファヌ・マラルメ
ジョルヂュ・ロオデンバッハ
ジャック・マドレイヌ
エミイル・ヹルハアラン
ジャン・モレアス
ジュル・ラフォルグ
アンリ・ド・レニエ
フランシス・ヹレ・グリッファン
ピエール・ゴオチエ
ピエール・キラアル
ギュスタヴ・カアン
スチュアール・メリル
アンドレ・フェルヂナン・エロオル
アンドレ・フォンテエナス
モオリス・メエテルリンク
フランシス・ジャンム
レミ・ド・グウルモン
ピエール・ルイ
オーギュスト・ゴオ
ポオル・ジェラルディ
シャルル・ゲラン
アルベエル・サマン
アンリ・バタイユ
ポオル・フォール
カミイユ・モオクレエル
アンリ・バルビュッス
モオリス・マグル
シャルル・アドルフ・キャンタキュゼエヌ
フェルナン・グレエグ
シャルル・ワン・レルベルグ
ジャック・リシュペン
ポオル・スウション
アンリ・スピエス
レオ・ラルギィエ
シャルル・ヴィルドラック
ジョルヂュ・デュアメル
エミイル・デスパ

――と、ビッグネームからマイナーまで
手当たり次第、訳している印象です。

あとがきの中から
一部を拾っておきます。
適宜、改行、行空きを入れ
現代表記にしてあります。

 ◇

 わたしは思っている、文学作品の翻訳は、殊に詩の場合は、単に原詩の意味を正確に伝えるというばかりが能ではないと。凡そ忠実な翻訳者である以上、それはあまりにも当然すぎることで、問題とするに足りない。

その上に更に、原詩のもつ音律とか、情調とか、陰影とか、気韻とか、色合いとか匂いとかいふものの翻訳をしなければ、結局は、最も重要な、その詩のエスプリを生かすことは出来ぬのだ。

単なる意味の散文的伝達では、エスプリを、概念としてのみ知らしめることは出来ても、決して感覚的な生き物として感ぜしむることは出来ない。詩はあくまで直接感に訴える全的表現であるのだから。

もとより、語法も律格も全く異なった日本語で、そうした微妙なものまでの翻訳は、厳密な意味においては不可能事に属するけれども、どの道こうした難しい仕事にとりかかるからは、不可能事を可能ならしめようとするほどの愚かしい熱意があってもいいではないか。

わたしは、こうした見地から、翻訳の学的良心を必要とすることは無論ながら、より多く芸術的良心を尊重した。原詩の意味の伝達は言うまでもないが、むしろ、その陰影を気分を情調を伝えることに、つまりは前に言った愚かしい不可能事を可能ならしめることに憂身をやつした。

そのためには、音調上の必要から、一二の言葉の取捨添加はやむを得なかった。殊に、七五調、五七調、五五調等、日本在来の定型律によったものの場合にそれがある。

こうはいっても、注意深い読者なら、ほんの二三の例外を除いて、一見、大胆すぎる自由訳と思われそうなものがあっても、実は、わたしが存外に細心な逐次訳を基調とし、出来る限り周到緻密に一字一句の末に至るまで一応は吟味している事実、あるいは文字通りに訳しあげている事実を首肯し立証してくれるはずである。原詩と対照して。

これだけの事を言ったうえで、一字一句に拘泥することは、必ずしも翻訳良心を尊重する所以でないことを告げたいのである。

そうだ。翻訳は、拘束されなければならぬ、自由でなければならぬ、このディレンマに、われわれの至難とするところが(同時に、根気のいい訳者の興味とし喜びとするところも――)ある。

 *

 谷間に眠る人
 大木篤夫訳

緑なす落窪あり、あたりに川は高鳴り歌ひ
物狂はしく、襤褸(つづれ)の草に白銀の繁吹(しぶき)を撒けば
天つ陽も尊大の山のうへより耀(かがよ)ひわたる。
光沸きたつ小さき谷あり。

うら若き兵卒ひとり、口ひらき(かうべ)もあらはに、
青砕米萕(あをたがらし)の露けきなかに頸(うなじ)ぬらして眠りたり、
雲の下、草のさなかに身を伸(の)して
陽の明かる緑の床(とこ)に蒼ざめつ。

兵卒は眠りたり、双足(もろあし)を菖蒲(あやめ)のなかにつき入れて、
昏々と眠りたり、熱を病む幼児(をさなご)のごとほゝゑみて。
ああ、天然よ、暖く、守(も)りをせよ、彼いたく凍えたり。

その鼻は、はや、物の薫りを嗅ぐよしもなく、
静かにも手を胸に、日のなかに兵卒は眠りたり。
窺へば、右脇に二つ、赤き傷孔。

(「近代仏蘭西詩集」より。ARS、昭和3年)

 *

 谷間の睡眠者
 中原中也訳

これは緑の窪、其処に小川は
銀のつづれを小草(をぐさ)にひつかけ、
其処に陽は、矜りかな山の上から
顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。

若い兵卒、口を開(あ)き、頭は露(む)き出し
頸は露けき草に埋まり、
眠つてる、草ン中に倒れてゐるんだ雲(そら)の下(もと)、
蒼ざめて。陽光(ひかり)はそそぐ緑の寝床に。

両足を、水仙菖に突つ込んで、眠つてる、微笑むで、
病児の如く微笑んで、夢に入つてる。
自然よ、彼をあつためろ、彼は寒い!

いかな香気も彼の鼻腔にひびきなく、
陽光(ひかり)の中にて彼眠る、片手を静かな胸に置き、
見れば二つの血の孔(あな)が、右脇腹に開(あ)いてゐる。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2011年11月17日 (木)

中原中也が訳したランボー「谷間の睡眠者」Le Dormeur du valの現代訳

一つの詩作品は多くの人によって翻訳されます。
同時代訳は
その中に含まれますが
優れた作品は繰り返し繰り返し翻訳され
幾つもの名訳が生まれます。

戦後も
現在も
新しい翻訳が行われ
発表されていますが
比較的最近の翻訳で
「Le Dormeur du val」を
1960年代の粟津則雄訳と
1990年代の宇佐美斉訳で読んでおきましょう。

大正の大木篤夫、
昭和初期の中原中也、小林秀雄、
戦後の堀口大学、金子光晴、
50年前の現在の粟津則雄、
ほぼ現在の宇佐美斉――と読んでみると
幾分かは、
訳された時代による差異が感じられるかもしれません。

 *

 谷間に眠る男
 粟津則雄訳

青葉の穴だ、銀のつづれを、狂おしく
草の葉にひっかけながら、流れは歌い、
誇らかに聳え立つ山のうえから、陽は
かがやく。光に泡立つ、小さな谷間だ。

若い兵士が、口をあけ、帽子もなく、
みずみずしい青いたがらしに項(うなじ)を浸して
眠っている。草のなか、雲のした、雨のように
光が注ぐ緑のベッドに、蒼ざめて横になってる。

足をあやめの茂みに入れて、眠っている。
病気の子供がほほえむようにほほえみながら一眠りだ、
自然よ、あたたかくゆすってやれ、寒そうだ。

香わしい薫りも彼の鼻の穴をふるえさせぬ、
陽の光を浴びたまま、動かぬ胸に手をのせて、
眠っている。その右の脇腹には赤い二つの穴。

(「ランボオ全作品集」粟津則雄訳、思潮社)

 *
 谷間に眠る男
 宇佐美斉訳

ここはみどりの穴ぼこ 川の流れが歌をうたい
銀のぼろを狂おしく岸辺の草にからませる
傲然と立つ山の峰からは太陽が輝き
光によって泡立っている小さな谷間だ

若い兵士がひとり 口をあけて 帽子も被らず
青くみずみずしいクレソンにうなじを浸して
眠っている 草むらに横たわり 雲のした
光の降り注ぐみどりのベッドに 色あおざめて

グラジオラスに足を突っ込んで ひと眠りしている
病んだ子供のようにほほ笑みながら
自然よ あたたかく揺すってやれ 寒いのだから

かぐわしいにおいに鼻をふるわせることもなく
かれは眠る 光をあび 静かな胸に手をのせて
右の脇腹に赤い穴がふたつのぞいている

(「ランボー全詩集」宇佐美斉訳、ちくま文庫)

 *

 谷間の睡眠者
 中原中也訳

これは緑の窪、其処に小川は
銀のつづれを小草(をぐさ)にひつかけ、
其処に陽は、矜りかな山の上から
顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。

若い兵卒、口を開(あ)き、頭は露(む)き出し
頸は露けき草に埋まり、
眠つてる、草ン中に倒れてゐるんだ雲(そら)の下(もと)、
蒼ざめて。陽光(ひかり)はそそぐ緑の寝床に。

両足を、水仙菖に突つ込んで、眠つてる、微笑むで、
病児の如く微笑んで、夢に入つてる。
自然よ、彼をあつためろ、彼は寒い!

いかな香気も彼の鼻腔にひびきなく、
陽光(ひかり)の中にて彼眠る、片手を静かな胸に置き、
見れば二つの血の孔(あな)が、右脇腹に開(あ)いてゐる。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2011年11月16日 (水)

中原中也が訳したランボー「谷間の睡眠者」同時代訳・その2

同時代訳とは
その詩人(または詩・作品)が生存していた時代に
公表されていた作品(翻訳)のことらしく
「谷間の睡眠者」Le Dormeur du valには

高村光太郎訳「眠れる人」(明治43年)
蒲原有明訳「眠」(大正11年)
藤林みさを訳「谷に眠れる者」(大正12年)
大木篤夫訳「谷間に眠る人」(昭和3年)
三好達治訳「谷間の睡眠者」(昭和5年)
小林秀雄訳「谷間に眠る男」(昭和8年)
浜名与志春訳「渓谷の睡眠」(昭和9年)

――の7作品が列挙されていますが(角川新全集)
では、堀口大学や金子光晴の作品は
戦後公表だったから同時代訳とされないことになるようです。

堀口大学は
ランボーが「にがてで」
翻訳にとりかかったのが疎開中のことだったことを明かしていますし
金子光晴が刊行した
「近代仏蘭西詩集」(1925年、紅玉堂書店)には
「Le Dormeur du val」の訳出が収録されていないのか不明ですが
いづれも同時代訳としては扱われないようです。

そこで
この二人の翻訳を見ておきます。
ざっと目を通すだけで
それぞれの訳が個性的で
工夫にも富んでいて
それだけでも面白いのですが
中原中也訳を味わう糸口として読むのも
楽しいものです。

 *

 谷間に眠る者
 堀口大学訳

ここぞこれ、青葉の空洞(ほら)よ、白銀(はくぎん)の襤褸(らんる)の草に
激しては、小川歌ふよ、
高澄(たかすみ)の山の常とて、陽(ひ)の耀(かがよ)ふよ、
ここぞこれ、光みなぎる小谷間よ。

うら若き兵(つはもの)ひとり、口はあんぐり、髪乱れ
わか水菜しげるが中に頸漬け、眠りつるよな、
白雲(はくうん)の空すぐる下(もと)、草の上、
ひかり降るさみどりの褥(しとね)に倒れ、蒼ざめて。

眠りつるよな、両足は水仙菖(すゐせんあやめ)かほる中。
病める児がほほゑみて、うたたねせるよ。
天地(あめつち)よ、温くこそは揺れ、彼凍ゆるに!

花の香(か)に鼻うごめかね、陽(ひ)を浴びて熟睡(まどろ)みあるよ、
片腕は静かなる胸の上。
右脇腹に、紅ゐの傷あと一つ、また一つ。

(「ランボオ詩集」より。昭和24年、新潮社)

 *

 谷間に眠るもの
 金子光晴訳

 立ちはだかる山の肩から陽(ひ)がさし込めば、
ここ、青葉のしげりにしげる窪地(くぼち)の、一すじの唄う小流れは、
狂おしく、銀のかげろうを、あたりの草にからませて、
狭い谷間は、光で沸き立ちかえる。

年若い一人の兵隊が、ぽかんと口をひらき、なにも冠らず、
青々と、涼しそうな水菜のなかに、頸窩(ぼんのくぼ)をひたして眠っている。
ゆく雲のした、草のうえ、
光ひりそそぐ緑の褥(しとね)に蒼ざめ、横たわり、

二つの足は、水仙菖蒲(すいせんしょうぶ)のなかにつっこみ、
病気の子供のような笑顔さえうかべて、一眠りしてるんだよ。
やさしい自然よ。やつは寒いんだから、あっためてやっておくれ。

いろんないい匂いが風にはこばれてきても、鼻の穴はそよぎもしない。
静止した胸のうえに手をのせて、安らかに眠っている彼の右脇腹に、
まっ赤にひらいた銃弾の穴が、二つ。

(「ランボー全集 全一巻」より。雪華社、1984年)

 *

 谷間の睡眠者
 中原中也訳

これは緑の窪、其処に小川は
銀のつづれを小草(をぐさ)にひつかけ、
其処に陽は、矜りかな山の上から
顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。

若い兵卒、口を開(あ)き、頭は露(む)き出し
頸は露けき草に埋まり、
眠つてる、草ン中に倒れてゐるんだ雲(そら)の下(もと)、
蒼ざめて。陽光(ひかり)はそそぐ緑の寝床に。

両足を、水仙菖に突つ込んで、眠つてる、微笑むで、
病児の如く微笑んで、夢に入つてる。
自然よ、彼をあつためろ、彼は寒い!

いかな香気も彼の鼻腔にひびきなく、
陽光(ひかり)の中にて彼眠る、片手を静かな胸に置き、
見れば二つの血の孔(あな)が、右脇腹に開(あ)いてゐる。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2011年11月15日 (火)

中原中也が訳したランボー「谷間の睡眠者」その2・同時代訳

「谷間の睡眠者」Le Dormeur du valの
同時代訳に目を移してみましょう。

高村光太郎訳「眠れる人」(明治43年)
蒲原有明訳「眠」(大正11年)
藤林みさを訳「谷に眠れる者」(大正12年)
大木篤夫訳「谷間に眠る人」(昭和3年)
三好達治訳「谷間の睡眠者」(昭和5年)
小林秀雄訳「谷間に眠る男」(昭和8年)
浜名与志春訳「渓谷の睡眠」(昭和9年)

――とある中で
小林秀雄と大木篤夫(大木惇夫)の訳が
手元にありますから、それを引いておきます。

大木篤夫訳は
古書店で手に入れた「近代仏蘭西詩集」(ARS)にあるもので
ランボーは7作品が訳出されており
中に「谷間に眠る人」があります。

小林訳は
これもネットの古書店で入手した
昭和23年発行の「ランボオ詩集」(創元社)にあり
ここに珍しく韻文詩の訳が5作あります。
中に「谷間に眠る男」があります。

この二つの訳も
ランボー翻訳の早い時期からの
人気作品だったことを示す
高村光太郎訳以来の流れの中にありました。

大木訳の刊行(初出もか?)が昭和3年
小林訳の初出は昭和8年(「短歌と方法」)
中原訳の第一次形態の制作は
昭和4年~8年と推定されていますから
これらの訳を中原中也が参照していた可能性はありますが
断言はできません。

 *

 谷間に眠る人
 大木篤夫訳

緑なす落窪あり、あたりに川は高鳴り歌ひ
物狂はしく、襤褸(つづれ)の草に白銀の繁吹(しぶき)を撒けば
天つ陽も尊大の山のうへより耀(かがよ)ひわたる。
光沸きたつ小さき谷あり。

うら若き兵卒ひとり、口ひらき(かうべ)もあらはに、
青砕米萕(あをたがらし)の露けきなかに頸(うなじ)ぬらして眠りたり、
雲の下、草のさなかに身を伸(の)して
陽の明かる緑の床(とこ)に蒼ざめつ。

兵卒は眠りたり、双足(もろあし)を菖蒲(あやめ)のなかにつき入れて、
昏々と眠りたり、熱を病む幼児(をさなご)のごとほゝゑみて。
ああ、天然よ、暖く、守(も)りをせよ、彼いたく凍えたり。

その鼻は、はや、物の薫りを嗅ぐよしもなく、
静かにも手を胸に、日のなかに兵卒は眠りたり。
窺へば、右脇に二つ、赤き傷孔。

(「近代仏蘭西詩集」より。ARS、昭和3年)

 *

 谷間に眠る男
 小林秀雄訳

谷川の歌うたふ青葉の空洞(あな)、
流れは狂はしげに銀色の綴(つづれ)を草の葉にまとひつけ、
悠然と聳え立つ山から太陽がかゞやけば、
さゝやかな谷間は光に泡立つ。

うら若い兵士が一人、頭はあらはに、口をあけ、
裸身(はだか)を青々と爽やかな水菜に潤して、
眠つてゐる。雲の下、草をしき、
光の雨と降りそゝ緑のベッドに蒼ざめて。

眠つてゐる、両足を水仙菖(すゐせんあやめ)につゝこんで、
病児のやうにほゝゑんで、眠つてゐる。
さぞ寒むからう、自然よ、じつと暖めてやつてくれ。

風は様々な香を送るが彼の鼻孔はふるへもしない。
太陽を浴びて彼は眠る、動かぬ胸に腕をのせ、
右の脇腹に赤い穴を二つもあけて。

(「ランボオ詩集」より。創元社、昭和23年)

 *

 谷間の睡眠者
 中原中也訳

これは緑の窪、其処に小川は
銀のつづれを小草(をぐさ)にひつかけ、
其処に陽は、矜りかな山の上から
顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。

若い兵卒、口を開(あ)き、頭は露(む)き出し
頸は露けき草に埋まり、
眠つてる、草ン中に倒れてゐるんだ雲(そら)の下(もと)、
蒼ざめて。陽光(ひかり)はそそぐ緑の寝床に。

両足を、水仙菖に突つ込んで、眠つてる、微笑むで、
病児の如く微笑んで、夢に入つてる。
自然よ、彼をあつためろ、彼は寒い!

いかな香気も彼の鼻腔にひびきなく、
陽光(ひかり)の中にて彼眠る、片手を静かな胸に置き、
見れば二つの血の孔(あな)が、右脇腹に開(あ)いてゐる。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2011年11月14日 (月)

中原中也が訳したランボー「谷間の睡眠者」Le Dormeur du val

中原中也訳「ランボオ詩集」の
4番目にあるのは
「谷間の睡眠者」Le Dormeur du valです。

この詩は
東京帝大仏文科の教官であった
辰野隆がその著作「信天翁の眼玉」(大正11年、白水社)で
原詩を載せて紹介したこともあって広く知られ
そのことばかりでなく、
幾つかの翻訳が早い時期から行われている
ランボーの作品の一つです。

中原中也訳のほかに
同時代訳として

高村光太郎訳「眠れる人」(明治43年)
蒲原有明訳「眠」(大正11年)
藤林みさを訳「谷に眠れる者」(大正12年)
大木篤夫訳「谷間に眠る人」(昭和3年)
三好達治訳「谷間の睡眠者」(昭和5年)
小林秀雄訳「谷間に眠る男」(昭和8年)
浜名与志春訳「渓谷の睡眠」(昭和9年)

――があります。(「角川新全集第3巻 翻訳 解題篇」より) 

ランボー初期の作品は
「ドゥエ詩帖」と呼ばれる自筆原稿があり
「谷間の睡眠者」もこの詩帖にあります。
中原中也訳の「ランボオ詩集」で
「初期詩篇」中の1番目の「感動」も
3番目の「びつくりした奴等」も
「ドゥエ詩帖」にある自筆原稿から起こされたものです。

ランボーの初期作品の大半が
この「ドゥエ詩帖」にあります。
「フォーヌの頭」に自筆原稿はなく
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」に
引用されて作品として残ったのとは異なり
ランボーが清書して
自らの意志で発表しようとした詩篇群が
この詩帖の作品です。

「谷間の睡眠者」の冒頭もまた
この前にある「びつくりした奴等」に似て
遠景からの描写ではじまる詩篇です。

何度も何度も読んでいて
ようやく見えてくる
詩の構造ですが
構造が見えたところで
同時に詩内容の「逆転」に
読み手が投げ出されてあることを知る、というような詩です。

これは緑の窪、其処に小川は
銀のつづれを小草(をぐさ)にひつかけ、
其処に陽は、矜りかな山の上から
顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。

――これが、遠景からとらえられた
導入部の描写です。

どこだかの小川の
土手道にある窪地は
小さな草が緑なし
その上を太陽が燦々と降りそそぎ
あたり一帯を光が乱舞している
白昼(または早朝)の光景です

そこに
若い兵隊が一人
口を大きく開け
無帽のままで
朝露の落ちた草むらに
身を埋めて
「眠っている」……

草の中に倒れているのだ
雲の浮んだ空の下
蒼白な貌(かお)で
陽の光が降りそそぐ
草むらをベッドにして

両足を、水仙アヤメの葉むらに突っ込んだまま
「眠っている」、微笑をたたえ
病んだ子のように力なく笑い
夢の中。
自然よ
彼をあっためろよ
彼は寒いんだ!

どんな香りも彼の鼻孔をくすぐることもなく
陽光の中で、彼は「眠る」。
片方の手を静止した胸の上に置いている。
目を凝らせば
真っ赤な血で染まった、二つの穴がぽっかり
右の脇腹に開いている

 ◇

死という語は
見当たりません。
兵士は「眠っている」だけですが
兵士の死を歌った詩です。

ランボーにはほかに
この詩同様の
普仏戦争を題材にした作品で
「災難」
「シーザーの激怒」があります。

 ◇

遠景からの描写ではじまった詩は
終末で
接写になり
鮮血に染まった兵士の肉体の穴をとらえます。

詩人の眼差しは
カメラの眼――。

 *

 谷間の睡眠者

これは緑の窪、其処に小川は
銀のつづれを小草(をぐさ)にひつかけ、
其処に陽は、矜りかな山の上から
顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。

若い兵卒、口を開(あ)き、頭は露(む)き出し
頸は露けき草に埋まり、
眠つてる、草ン中に倒れてゐるんだ雲(そら)の下(もと)、
蒼ざめて。陽光(ひかり)はそそぐ緑の寝床に。

両足を、水仙菖に突つ込んで、眠つてる、微笑むで、
病児の如く微笑んで、夢に入つてる。
自然よ、彼をあつためろ、彼は寒い!

いかな香気も彼の鼻腔にひびきなく、
陽光(ひかり)の中にて彼眠る、片手を静かな胸に置き、
見れば二つの血の孔(あな)が、右脇腹に開(あ)いてゐる。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2011年11月13日 (日)

中原中也が訳したランボー「びつくりした奴等」Les Effarés

中原中也訳「ランボオ詩集」を
読み進めます。
3番目は「びつくりした奴等」Les Effarésです。

この詩を読みはじめて
冒頭

雪の中、濃霧の中の黒ン坊か
炎のみゆる気孔の前に、
   奴等車座(くるまざ)

――の情景を頭の中に描こうとすると
不思議な像が結ばれて
それはなんとも立体的な像というほかになく
どこかで見たことがあるような、ないような
幻想的なような
写実的でもあるような……

いや、この光景は
ランボーがパリの下町で実際に目撃したか
ロマン主義小説の一シーンのデフォルメか
想像の産物ではない、などと
イメージはとめどもなく広がっていきます。

リアリズムも
シュールリアリズムも
どちらでもあるような
ランボーの詩のかけらがここにありますが

第2連へ入って

五人の小童(こわつぱ)
ジツと見てゐる、
麺麭屋が焼くのを
ふつくらとした金褐の麺麭、

――と、カメラがクローズアップして
くっきりととらえるかの映像は
パン屋が金褐色のパンを焼き上げる仕事を
じっと見つめている黒人少年たちの
車座であることが見えてきます。

5人の少年
雪の中
濃霧の中
車座(くるまざ)で

白い頑丈な腕
釜の中は
パチパチ跳ねる火の粉
ニコニコじゃなくて
ニタニタ顔というところが
中原中也の工夫か
奇怪(きっかい)なる人間!
パン屋どのは鼻歌まじりで
パンの焼ける音に耳を澄ましている

少年たちは
寒さに震えているのだろうけれど
そうは描かないランボー
丸まり、身動きしないで
まっ赤に燃える釜の穴の
熱そうな息を見ているだけだ

メディオノーシュのできあがり!
ブリオーシュもできあがり!
威勢よくパンが店頭に並べられる

釜の上のほうの
煤で黒ずんだ梁から
コオロギの鳴き声が聞える
できあがり!の声とともに
パンのふっくらとした皮も歌っているよう……

この時だ
釜の息吹きが乗り移ったか
ボロボロの服の中にある
少年たちの心は
うっとり、天にも昇る気持ちになる

生きている、と少年たちは今更に感じる
氷の花のような
あわれな神の子、イエスたち
どいつもこいつも

窓の外から
釜の格子に鼻面押しつけて
パン工場の中の
色んなものを見つけては
ぶつくさぶつくさ呟いている

なんとアホらしいこと
奴らは祈る
真っ青に晴れわたった朝の空へ
目一杯伸びをして

それで
奴らの股引は破け
奴らの下着は
木枯らしの中で震えているのだ

 ◇

うち捨てられた子どもたち
それも
どうやら移民の子たちらしい
中原中也も
それを見逃さないのです。

ユーゴーやゴヤの影響が
言われているらしい作品です。

パリコンミューン前後の
「階級的な」眼差しが感じられても
自然な流れです。
無理なことではありません。

 *

 びつくりした奴等

雪の中、濃霧の中の黒ン坊か
炎のみゆる気孔の前に、
   奴等車座(くるまざ)

跪づき、五人の小童(こわつぱ)――あなあはれ!――
ジツと見てゐる、麺麭屋が焼くのを
   ふつくらとした金褐の麺麭、

奴等見てゐるその白い頑丈な腕が
粘粉(ねりこ)でつちて窯に入れるを
   燃ゆる窯の穴の中。

奴等聴くのだいい麺麭の焼ける音。
ニタニタ顔の麺麭屋殿には
   古い節(ふし)なぞ唸つてる。

奴等まるまり、身動きもせぬ、
真ツ赤な気孔の息吹(いぶき)の前に
   胸かと熱い息吹の前に。

メディオノーシュ(1)に、
ブリオーシュ(2)にして
   麺麭を売り出すその時に、

煤けた大きい梁の下にて、
蟋蟀と、出来たての
   麺麭の皮とが唄ふ時、

窯の息吹ぞ命を煽り、
襤褸の下にて奴等の心は
うつとりするのだ、此の上もなく、

奴等今更生甲斐感じる、
氷花に充ちた哀れな基督(エス)たち、
   どいつもこいつも

窯の格子に、鼻面(はなづら)くつつけ、
中に見えてる色んなものに
   ぶつくさつぶやく、

なんと阿呆らし奴等は祈る
霽れたる空の光の方へ
   ひどく体(からだ)を捩じ枉げて

それで奴等の股引は裂け
それで奴等の肌襦絆
   冬の風にはふるふのだ。

  註(1)断肉日の最終日にとる食事。
   (2)パンケーキの一種。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2011年11月 9日 (水)

中原中也が訳したランボー「フォーヌの頭」Tête de Faune・その3

「フォーヌの頭」Tête de Fauneについては
原典の、やや錯綜した事情を
知っておくと理解が深まります。

「フォーヌの頭」Tête de Fauneの
ランボー自筆の原稿は存在しない、
というところからこの事情を見ていかなければなりません。

ランボーの自筆原稿がなくても
かつてそれを読んだポール・ベルレーヌが筆写した原稿があったために
その筆写原稿が世に出るという奇跡が起こったのです。

そもそも
アルチュール・ランボーの存在が世の中に知らされたのは
ポール・ベルレーヌが
1884年にヴァニエ書店から発行した
詩人論「呪われた詩人たち」の中のことでした。
この時は
トリスタン・コルビエール
ステファヌ・マラルメ
アルチュール・ランボーの3人が扱われましたが
その後、1888年に増補改訂版を同書店から発行し
デボルト=ヴァルモール
オーギュスト・リラダン
「ポーヴル・レリアン」ことポール・ヴェルレーヌが追加されました。

1884年から1888年のころ、
ランボー本人は
文学から遠ざかり
アフリカのアビシニア(エチオピア)のハラルや
アラビア半島突端の町アデンなどで
商業ビジネスに従事していました。

「呪われた詩人たち」の中の
ポーブル・レリアンPauvre Lelianとは
ポール・ヴェルレーヌPaul Verlaineの綴り(スペル)を入れ替えた
アナグラムという遊び(一種の修辞=レトリック)で
ベルレーヌの偽名として使われています。
「呪われた詩人たち」の一人に
ベルレーヌ自身を挙げるために
アナグラムで偽名を使ったのです。

この「ポーブル・レリアン」の中に
ベルレーヌは
ランボーの詩を2篇引用しました。
その一つが「盗まれた心」
もう一つが「フォーヌの顔」でした。

中原中也も
増補改訂版の「呪われた詩人たち」を採用している
メッサン版「ヴェルレーヌ全集」を原典にして
「ポーブル・レリアン」を翻訳しましたから
「フォーヌの顔」と巡り合いました。

「フォーヌの頭」は
「ポーブル・レリアン」に引用されたもののほかに
ベルレーヌが筆写した原稿が残っていて
二つのバリアントが存在しますが
中原中也はこのどちらをも参照し
「両者を混合させて独自の訳稿を作り上げた」(新全集・解題篇)ことが
分かっています。

このことをみても
中原中也の「フォーヌの頭」に示す
並々ならぬ熱意が想像できます。
「白痴群」
「紀元」
「椎の木」
「ランボオ詩抄」
「ランボオ詩集」と
5回も異なる媒体に発表したことともあわせ
この熱意がどこから生じているか
大いに興味が湧くところです。

「酔ひどれ船」や
「少年時」を読んだ時の熱は
いまだ冷めやらないどころか
「フォーヌの頭」のような
珠玉の作品に巡りあっては
ますます深い森に分け入って行ったに違いない
詩人の興奮が見えるようです。

 *

 フォーヌの頭
 
緑金に光る葉繁みの中に、
接唇(くちづけ)が眠る大きい花咲く
けぶるがやうな葉繁みの中に
活々として、佳き刺繍(ぬひとり)をだいなしにして

ふらふらフォーヌが二つの目を出し
その皓い歯で真紅(まつか)な花を咬んでゐる。
古酒と血に染み、朱(あけ)に浸され、
その唇は笑ひに開く、枝々の下。

と、逃げ隠れた――まるで栗鼠、――
彼の笑ひはまだ葉に揺らぎ
鷽のゐて、沈思の森の金の接唇(くちづけ)
掻きさやがすを、われは見る。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2011年11月 8日 (火)

中原中也が訳したランボー「フォーヌの頭」と金子光晴の訳

「フォーヌの頭」Tête de Fauneは
中原中也訳「ランボオ詩集」「初期詩篇」の2番目に置かれていますが
金子光晴は「初期韻文詩」24番目に
「牧神の頭」と題して訳出しています。

金子光晴自身は明らかにしていないのですが
「ランボー全集 全一巻」(雪華社、1984年)の
共著者、斉藤正三や中村徳泰があとがきに
この全集の原典を
主としてプレイヤード版とし
ガルニエ版やメルキュール版をも参照していることを明かしていますから
中原中也が原典としたメルキュール版とは
構成や分類が異なり
そのために「牧神の頭」は
「初期韻文詩」の24番目に配置されるのです。

参考のために
ここでも
金子光晴の訳を見ておきますが
制作年(翻訳した年)は不明です。

金子光晴は1975年に亡くなり
1984年発行の雪華社版「ランボー全集」は
没後編集であることとも関係があるのか
制作年など出自の詳細を明らかにしていません。

あとがきに
金子光晴自身が
「ランボー――人と作品」と
「初期韻文詩」「後期韻文詩」「忍耐の祭り」について、という
二つの解説を著わしているのですが
「牧神の頭」に関する言及はありません。

金子光晴の原作を
意訳を少し加えて読んでみます……

 ◇

緑に金を撒きこぼした宝石箱、
繁みの葉陰から
接吻して眠るのによい場所、
花々をいっぱいつけて
揺れたまま動きをやめない繁みの葉陰から、
眼にも鮮やかな刺繍を、一瞬のうちに引き裂いて
とまどうそぶりのフォーンの頭がぬっと現われ、
二つの眼をキョロキョロ動かして
まっ赤な花を手あたり次第、
白い歯で噛み割いた。
みか酒の血かなにかで塗られたように
鳶色に輝くその唇が、入り組んだ枝の下で
カラカラと笑った。

それから、リスのすばやさで身を隠したが
笑いは、葉の一枚一枚に残って、震えていた。
飛び立つ鷽(うそ)に一瞬おどろかされたが、
金の接吻の森は
しばらく、深い物思いに沈んでいた。

 ◇

ここには
口語体の翻訳であること以外に
淡々として
力みのない声調があるばかりのようです。

文語体の格調を捨てた代わりに
さらりとしていて
一筆描きの淡白さに味があります

少なくとも、この詩に関しての
中原中也と金子光晴との温度差は
はっきりとしているようです。

 *
 
 二十四、牧神の頭
      金子光晴訳

緑に金(きん)をまきこぼした宝石筺(ばこ)、
しげみの葉蔭(はかげ)から、
接吻(くちづけ)けて眠るによい場所、
花々をいっぱいつけて、揺れてさだめないしげみの葉蔭から、
目もあやなそのぬいとりを、たちまち引き裂いて、
とまどった牧神(フォーン)のあたまがぬっと現われ、
双(ふた)つの眼をきょろつかせ、
まっ赤な花を手あたりしだい、白い歯牙(しが)にかけて噛(か)みさいた。
甕酒(みかざけ)の血でもぬられたように、
鳶いろに輝くその唇が、さしかわす枝枝のしたで、
からからとわらった。

それから、栗鼠(りす)のすばやさで身をかくしたが、
笑いは、葉の一枚ずつにのこって、おののいていた。
飛び立つ鴬(うそ)におどろかされたあとで、
金の接吻の森は、しばしは、ふかいものおもいにとらわれていた。

(雪華社「ランボー全集 全一巻」より)

 *

 フォーヌの頭
 中原中也訳

緑金に光る葉繁みの中に、
接唇(くちづけ)が眠る大きい花咲く
けぶるがやうな葉繁みの中に
活々として、佳き刺繍(ぬひとり)をだいなしにして

ふらふらフォーヌが二つの目を出し
その皓い歯で真紅(まつか)な花を咬んでゐる。
古酒と血に染み、朱(あけ)に浸され、
その唇は笑ひに開く、枝々の下。

と、逃げ隠れた――まるで栗鼠、――
彼の笑ひはまだ葉に揺らぎ
鷽のゐて、沈思の森の金の接唇(くちづけ)
掻きさやがすを、われは見る。

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2011年11月 7日 (月)

中原中也が訳したランボー「フォーヌの頭」Tête de Faune

「フォーヌの頭」Tête de Fauneは
中原中也訳「ランボオ詩集」「初期詩篇」の2番目の詩です。

「フォーヌ」は、ローマ神話に出てくる牧神。
半獣神です。
ギリシア神話のパンと対応しています。
「エルキュルとアケロユス河の戦ひ」に登場したのが
記憶に新しく残っています。

この中原中也の訳詩の初出は
昭和5年1月1日付け発行の「白痴群」第5号、
再出が、昭和8年10月1日付け発行の「紀元」同年10月号、
さらに三出が、昭和9年2月1日付け発行の詩誌「椎の木」同9年2月号
四出が、昭和11年6月25日付け発行の「ランボオ詩抄」
――と繰り返し発表され
その都度、若干の推敲が行われました。

「ランボオ詩集」に収録した段階では第5次形態になり、
比較的に異同の多い作品ということになりますが
何度も発表を繰り返したということは
この詩を相当気に入っていた上に
翻訳としても自信があり
詩内容に詩心を動かされるものを感じていたからではないでしょうか。

 ◇

金を帯びた緑に光る葉の繁みに
接吻している唇が眠るかのように大きな花が咲いている
けぶるように、鬱蒼とした葉の繁みの中に
生き生きと、絶品の刺繍を台無しにして。

そこからふらふらとフォーヌが二つの目を出し
真っ白な歯で真っ赤な花を咬んでいる。
古酒と血に染まり、朱色に浸かり
その唇は笑って開く、枝と枝の下。

すると、逃げ隠れた、まるでリスのように
彼の笑いはまだ葉の中で揺らぎ
鴬(うそ)もいて、静もり深い森の金の接吻が
ざわざわと騒擾するのを、わたくしは見る。

 ◇

これは幻想というよりは
「わたし」である詩人の肉体の底を
衝き動かす
生まな
情念の炎の形……なのか。

フォーヌがそそのかす
詩人の魂への
点火か
爆弾か
……

 ◇
あれ、か。
遠いところにある
あれ、なのでしょうか。

秘密を見たような
発見したような

詩人が詩人の魂に感応し
ほくそ笑んでいるような……。

 *

 フォーヌの頭

緑金に光る葉繁みの中に、
接唇(くちづけ)が眠る大きい花咲く
けぶるがやうな葉繁みの中に
活々として、佳き刺繍(ぬひとり)をだいなしにして

ふらふらフォーヌが二つの目を出し
その皓い歯で真紅(まつか)な花を咬んでゐる。
古酒と血に染み、朱(あけ)に浸され、
その唇は笑ひに開く、枝々の下。

と、逃げ隠れた――まるで栗鼠、――
彼の笑ひはまだ葉に揺らぎ
鷽のゐて、沈思の森の金の接唇(くちづけ)
掻きさやがすを、われは見る。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2011年11月 6日 (日)

中原中也が訳したランボー「Tempus erat」と金子光晴の訳

「ランボオ詩集《学校時代の詩》」5篇を読み終えました。
ここで少しエア抜きの意味もこめて
同時代訳を
金子光晴の例で見ておきましょう。

金子光晴は詩人で
1895年(明治28年)生まれですから
1907年(明治40年)生まれの中原中也より
10歳以上も年上で
没年も1975年(昭和50年)ですから
15年戦争を生き抜き
戦後史30年間をも経験した人です。
明治、大正、昭和を生きた詩人で
大正のはじめ頃から西欧の詩に傾倒し
1925年には訳詩集『近代仏蘭西詩集』(紅玉堂書店)を刊行するなど、
早くもランボーの翻訳に取り組んでいます。

中原中也が「Tempus erat」とした詩を
金子光晴は「ナザレトのイエズス」と題しました。

 *

 ナザレトのイエズス
 金子光晴訳
 
そのころイエズスはナザレトに住みゐたりき。
幼きかれは、年齢を増すとともに、徳をも増してゆきたりき。
ある朝、村の家々の、屋根が薔薇色に仄見(ほのみ)えてくる時刻、
誰も彼もいまだ睡魔に悩まされゐたるに、かれは寝床を離れて行きぬ。
父のヨセフが目ざむる以前に、仕事を終らせおくためなりき。
はや既に、やり掛けの仕事に身をかたむけ、その面差しも晴れやかに、
大いなる鋸(のこぎり)を押しあるひは引き、
その幼き腕もて、多くの板を挽き畢(をは)んぬ。
遐(とほ)く、高き山の上に、やがて、輝かしき太陽ぞ現(あ)れいで、
その銀色の光は、貧相なる窓をとほして射し入りぬ。
つづきて、牛飼ひどち、牛の群れを牧場の方へと牽き連れ行けり。
牛飼ひどち、通りすがりに、口を揃へて、この幼き職人を、
その朝の仕事の物音を、賞めそやしけるなり。
「何者なるか、かの子供は?」と、かれら云ふなる。
「かの子供の顔は、
謹厳さ混へし美しさを現はしゐるぞ。その腕からは、力ぞ迸(ほとばし)り出づるぞ。
この若き職人は、手だれの職人にゆめ劣るなく、見事に杉材を仕上げゐるぞ。
むかし、ヒラムが、ソロモン王の眼前にて、
練達にして堅剛なる両手をふるひ、巨大なる杉や神殿の梁材を挽きしときにも、
斯程(かほど)には熱心に仕事をせしにあらざりけるぞ。
しかのみならず、かの子供のからだは、弱々しき葦よりもなほしなやかに曲がるなる
ぞ。その鉞(まさかり)は、真直ぐにのばせしならば、肩にまでも届くならんぞ」

そのとき、かれの母親は、鋸の歯の軋みを聞きて、
床ゆ起き出で、静かにイエズスの傍に来て、うち黙(もだ)しながら、
大いなる板を扱ひ兼ねて苦しみつつ仕上げに精出しをれる
子供の姿を、さも不安げに、眺めをりたり。……唇きっと噛みしめて、
彼女は、子供に眼(ま)を凝(こ)らし、その静かなる眼差し以(も)て抱擁しゐたりしが、
やがて、彼女の口もとには、声には出でざる言葉ぞ揺れたれ。
微笑み涙の裡(うち)に輝きいづれ。……しかるに、突然、鋸(のこぎり)が折れ、
不意を突かれし子供の指を傷つけたり。
イエズスの服は、流れいづる赤き血に染み、
かすかなる叫び声、口ゆ洩れたり。とみるや、かれは、
母のゐることに気づき、赤きその指を服の下に匿しながら、
強ひて笑顔をつくろひて、「お早(は)やう、お母さま」と言ひかけぬ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
されど、母親は、息子の指をなでさすり、そのうら若き手に接唇(くちづけ)したりき。
烈しくぞ喘(あえ)ぎながらに、大粒の涙もて顔を濡らして。
されど、子供は、さして心動かすけしきもなくて、
「何故に泣くや、お母さま?
お母さまは何も知らざるを。……ただ、切れ味よき鋸の歯の、わが指に触れしのみなるを?
お母さまの泣くべき時、いまだなほ来れるにあらぬを!」
茲において、イエズスは、やりかけの仕事を再開せりき。母親は、うち黙しながら、
色蒼ざめて、その白き顔を俯向(うつむ)きがちに足許に向け、
深き思ひに沈みゐたりしが、ふたたび、その子に悲しき眼を遣り、
「偉大なる神よ、聖なるみこころの成就せられむことを!」

     (1870年)
     A・ランボオ

(「ランボー全集」より。1984年、雪華社)
※ルビは( )の中に入れました。編者。

 *

 5 Tempus erat
   中原中也訳

その頃イエスはナザレに棲んでゐた。
成長に従つて徳も亦漸く成長した。
或る朝、村の家々の、屋根が薔薇色になり初(そ)める頃、
父ジョゼフが目覚める迄に、父の仕事を仕上げやらうと思ひ立ち、
まだ誰も、起きる者とてなかつたが、彼は寝床を抜け出した。
早くも彼は仕事に向ひ、その面容(おもざし)もほがらかに、
大きな鋸を押したり引いたり、
その幼い手で、多くの板を挽いたのだつた。
遐(とほ)く、高い山の上に、やがて太陽は現れて、
その眩(まぶ)しい光は、貧相な窓に射し込んでゐた。
牛飼達は牛を牽(ひ)き、牧場の方に歩みながら、
その幼い働き手を、その朝の仕事の物音を、てんでに褒めそやしてゐた。
《あの子はなんだらう、と彼等は云つた。
綺麗にも綺麗だが、由々しい顔をしてゐるよ。力は腕から迸つてゐる。
若いのに、杉の木を、上手にこなしてゐるところなぞ、まるでもう一人前だ。
昔イラムがソロモンの前で、
大きな杉やお寺の梁(はり)を、
上手に挽いたといふ時も、此の子程熱心はなかつただらう。
それに此の子のからだときたら、葦よりまつたくよくまがる。
鉞(まさかり)使ふ手許(もと)ときたら、狂ひつこなし。》

此の時イエスの母親は、鋸切の音に目を覚まし、
起き出でて、静かにイエスの傍に来て、黙つて、
大きな板を扱ひ兼ねた様子をば、さも不安げに目に留めた。
唇をキツト結んで、その眼眸(まなざし)で庇(かば)ふやうに、暫くその子を眺めてゐたが。
やがて何かをその唇は呟いた。
涙の裡に笑ひを浮かべ……
するとその時鋸が折れ、子供の指は怪我をした。
彼女は自分のま白い着物で、真ツ紅な血をば拭きながら、
軽い叫びを上げた、とみるや、
彼は自分の指を引つ込め、着物の下に匿しながら、
強ひて笑顔をつくろつて、一言(ひとこと)母に何かを云つた。
母は子供にすり寄つて、その指を揉んでやりながら、
ひどく溜息つきながら、その柔い手に接唇(くちづ)けた。
顔は涙に濡れてゐた。
イエスはさして、驚きもせず、《どうして、母さん泣くのでせう!
ただ鋸の歯が、一寸擦(かす)つただけですよ!
泣く程のことはありません!》
彼は再び仕事を始め、母は黙つて
蒼ざめて、俯き顔(かほ)に案じてゐたが、
再びその子に眼を遣つて、
《神様、聖なる御心(みこころ)の、成就致されますやうに!》

     千八百七十年
     ア・ランボオ

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、二重パーレンは《 》に代えました。編者。

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2011年11月 5日 (土)

中原中也が訳したランボー「Tempus erat」

「ランボオ詩集《学校時代の詩》」の5番目の作品は
「Tempus erat」です。
この詩集はこれで全てとなります。

「Tempus erat」は
ラテン語の原詩のはじまりの語を
そのままタイトルにしたもので
「Tempus」は「時」の意味
「erat」は「存在する」「―である」などの意味の過去形。
「遠い昔――」というような意訳が可能でしょうか。

「ランボオ詩集《学校時代の詩》」の全ての詩が
「ドゥエ学区公報」に掲載されたものを集めたものですが
この「Tempus erat」も
1870年4月15日号に発表されたものです。

シャルルビル高等中学校で
ランボーはラテン語の授業を半年間受けますが
その水準はかなり高度であったことが知られています。
ランボーはその中でもずば抜けて優秀で
最終学年の修辞学級でトップの成績を残し
学校区で行われるラテン語韻文詩のコンクールでも
ドゥエ学区で何度か一等賞を獲得する実力を誇っていました。

このドゥエ学区の公報誌に掲載された詩がまとめられて
「ランボオ詩集《学校時代の詩》」として
公刊されたのは1932年でした。
発行元はメルキュール・ド・フランス社です。

「Tempus erat」は
ナザレのイエスと両親との交流を描いた
作者不詳のフランス語詩ですが
ランボーはこの原作に手を加えることなく
そのままの形でラテン語に訳しました。
(「新編中原中也全集 第3巻・翻訳」参照)

中原中也は
原典の出自や創作経緯などを
詳しくは知り得なかったはずですが
この訳出でも
余計な装飾を排して実直に
少年詩人ランボーの純真さを
損ねないように努めていることが伝わってきます。

その頃イエスはナザレに住んでいた。
成長するにつれて徳もまたゆっくり成長した。

ある朝、村の家々の屋根がバラ色に染まりはじめる頃
父ヨセフが目覚めるまでに、
父の仕事を仕上げてあげようと思い立ち
まだ誰も起きている者もいなかったが
彼は寝床から抜け出した。

すぐさま仕事に向かい
面差しも朗らかに
大きな鋸(のこぎり)を押したり引いたり
その幼い手で、多くの板に仕上げたのだった。

遠くの高い山の上に、やがて太陽は現れて
その眩しい光は、貧しそうな家の窓に射し込んでいた。

牛飼いたちは牛を引き、牧場の方に歩みながら
その幼い仕事の手を
その朝の仕事の物音を
思い思いに愛しんでいるようだった。

「あの子は何だろう、と彼らは言った。
奇麗なのは奇麗だが、深刻そうな顔しているよ。
力が腕から溢れるばかりだ。
若いのに杉の木をうまく操っているところなど、まるでもう一人前だ。

むかし、イラムがソロモンの前で
大きな杉やお寺の梁を
上手に仕立てたことがあったけど
この子ほど熱がこもってはいなかっただろう。
それにこの子の身体ときたら
葦よりもしなやかに曲がれる。
まさかりを使う手元ときたら、寸分も狂わない。」

この時イエスの母親は
のこぎりの音に目を覚まし
起き出してきて静かにイエスのそばに来て、黙って、
大きな板を扱いかねているイエスを
とても不安そうな目で見た。
唇をキッと結んで、そのまなざしで庇うかのように
しばらくその子を眺めていたが。

やがて何かをその唇は呟いた。
涙の中に笑みを浮べ……
するとその時のこぎりが折れ、子どもの指は怪我を負った。
彼女は自分の真っ白な衣服で
真っ赤な血を拭きながら
軽い叫び声をあげた、と思うと
子どもは自分の指を引っ込め、
衣服の下に隠しながら
健気に笑顔をつくって、一言母親に言った。

母親は子どもにすり寄って
その指を揉んであげながら
大きな溜め息をついて、その柔らかな手に口づけした。
顔は涙で濡れていた。

イエスは大して驚きもしないで
「どうして、母さん、泣くのでしょう!
ただのこぎりの歯が、ちょっと掠っただけですよ!
泣くことのほどではありません!」

彼はふたたび仕事を始め
母は黙って、
蒼ざめて、うつむき顔で心配していたが
ふたたびその子に目をやって
「神さま、聖なる御心が、成就されますように!」
 
     1870年
     ア・ランボオ


驚くべき
分かりやすさです!
難解な語句はほとんどありません。

ランボーに課題作として与えられたフランス語原詩が
分かりやすく平明であり
ランボーはこれを忠実にラテン語詩に訳したからでもありましょうが
中原中也の日本語訳も
さらにさらに
分かりやすさを増し
平明簡易です。

 *

 5 Tempus erat

その頃イエスはナザレに棲んでゐた。
成長に従つて徳も亦漸く成長した。
或る朝、村の家々の、屋根が薔薇色になり初(そ)める頃、
父ジョゼフが目覚める迄に、父の仕事を仕上げやらうと思ひ立ち、
まだ誰も、起きる者とてなかつたが、彼は寝床を抜け出した。
早くも彼は仕事に向ひ、その面容(おもざし)もほがらかに、
大きな鋸を押したり引いたり、
その幼い手で、多くの板を挽いたのだつた。
遐(とほ)く、高い山の上に、やがて太陽は現れて、
その眩(まぶ)しい光は、貧相な窓に射し込んでゐた。
牛飼達は牛を牽(ひ)き、牧場の方に歩みながら、
その幼い働き手を、その朝の仕事の物音を、てんでに褒めそやしてゐた。
《あの子はなんだらう、と彼等は云つた。
綺麗にも綺麗だが、由々しい顔をしてゐるよ。力は腕から迸つてゐる。
若いのに、杉の木を、上手にこなしてゐるところなぞ、まるでもう一人前だ。
昔イラムがソロモンの前で、
大きな杉やお寺の梁(はり)を、
上手に挽いたといふ時も、此の子程熱心はなかつただらう。
それに此の子のからだときたら、葦よりまつたくよくまがる。
鉞(まさかり)使ふ手許(もと)ときたら、狂ひつこなし。》

此の時イエスの母親は、鋸切の音に目を覚まし、
起き出でて、静かにイエスの傍に来て、黙つて、
大きな板を扱ひ兼ねた様子をば、さも不安げに目に留めた。
唇をキツト結んで、その眼眸(まなざし)で庇(かば)ふやうに、暫くその子を眺めてゐたが。
やがて何かをその唇は呟いた。
涙の裡に笑ひを浮かべ……
するとその時鋸が折れ、子供の指は怪我をした。
彼女は自分のま白い着物で、真ツ紅な血をば拭きながら、
軽い叫びを上げた、とみるや、
彼は自分の指を引つ込め、着物の下に匿しながら、
強ひて笑顔をつくろつて、一言(ひとこと)母に何かを云つた。
母は子供にすり寄つて、その指を揉んでやりながら、
ひどく溜息つきながら、その柔い手に接唇(くちづ)けた。
顔は涙に濡れてゐた。
イエスはさして、驚きもせず、《どうして、母さん泣くのでせう!
ただ鋸の歯が、一寸擦(かす)つただけですよ!
泣く程のことはありません!》
彼は再び仕事を始め、母は黙つて
蒼ざめて、俯き顔(かほ)に案じてゐたが、
再びその子に眼を遣つて、
《神様、聖なる御心(みこころ)の、成就致されますやうに!》

     千八百七十年
     ア・ランボオ

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、二重パーレンは《 》に代えました。編者。

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2011年11月 4日 (金)

中原中也が訳したランボー「ジュギュルタ王」その2

「ランボオ詩集《学校時代の詩》」の4番目の作品、
「ジュギュルタ王」の後半を読みすすめます。

中原中也訳の原作を
歴史的表記を現代表記に改変した上に
難漢字を書き換えたり
漢字をひらがなにしたり
文語を口語に変えたり
語句・句読点の追加削除や改行なども加えたりして
「意訳」を試みます。

「ジュギュルタ王」は
1869年11月に
ランボーの通学区である「ドゥエ学区公報」に掲載されました。
同学区で同年7月に行われた
ラテン語詩のコンクールで一等賞になった作品。
コンクールは当日朝6時から正午までの6時間にわたって行われたものでした。
ラテン語で抜群の成績を残したランボーが
課題詩でもいかんなく才能を発揮した一つの例です。
(「角川新全集 第3巻 翻訳」より)

彼はアラビアの山岳地方に生まれた、
彼こそは、すこやかにそよかぜが語るには
「これこそユグルタの孫!……」

――と、この王を褒め称えるコーラスみたいなフレーズが
この詩の中に何度も挿入されるのは
ギリシア悲劇を踏襲しているからでしょうか。
日本でいえば、お囃子(はやし)でしょうか。

我こそはローマの国土に乗り込んだ
その都までも。
ヌミディア人よ!
お前らの額に平手打ちを食らわせ
お前ら傭兵どもを物の数とも思わなかった。

ここに彼らはしばらくの間忘れていた武器をとり
我はまた立ってこれを迎え撃った。
我は勝利を思いもしないで
ただただローマに拮抗することだけを思っていた!

河を頼み、岩山を頼んで、我は敵軍に対抗すれば
敵勢は、リビアの砂原、あるいはまた
丘の上の四角い堡塁から攻めようとした。
敵軍の血はわが野山を塗り
我らの並じゃない頑強さに負かされて、ズタズタにされてしまった……

彼はアラビアの山岳地方に生まれた、
彼こそは、すこやかにそよかぜが語るには
「これこそユグルタの孫!……」

おそらくは我、敵方の歩兵隊をも破ったというところで……
この時、ボキュスの裏切りに遭い……
思い返すのも残念なことだけれど
そうして我、祖国も王位も捨て去って
ローマに謀反したという事実を甘受したのであった。

そうして今またフランスは、
アラビアの、都の首長を征伐したことを誇っているが……
汝、我が子よ、汝がもしも、この難関にぶつかることがあれば
汝こそは本当に昔の、我が仇(かたき)を討ってくれ、さあ戦ってくれ!
遠い昔の日の、我が勇気、今は汝が心に抱いて進んでもらいたい
汝らの剣を振りかざせ! ユグルタ王を秘かに胸に抱いて
居並ぶ敵を押し返し!
国のために血を流せ!
おお、アラビアのライオンたちも、この戦いに参じよ!
鋭い汝らの牙で、敵の軍勢を引き裂け!
栄えあれ! 神明のご加護が汝にあるように!
アラビアの恥を雪(すす)いでくれ!……」

こうして大ユグルタのイリュージョンは消えてゆけば
幼いユグルタは、
青竜刀のおもちゃで遊んでいるばかりだった。

    Ⅱ

ナポレオン! おお! ナポレオン!
この現代のユグルタは
打ち負かされて、縛られて、幽閉されて暮らしていた!
 
※ここで登場するナポレオンとは、
アムボワーズの城(15世紀、シャルル8世がロワール河畔に築いた。)に
幽閉されていたアブデルカデルすなわちアブド・アルカーディルを
釈放したナポレオン3世のこと。

ここでユグルタがあらためて、夢の中に現れて
この現代のユグルタすなわちアブデルカデルに
とても丁寧に語ったのは
「新しい神よ来たれ! 汝が災害を忘れよ
佳い年が今ややって来て、フランスは汝を解放する……
汝は必ず見る、フランスの統治のもとで栄えるアルジェリア!……
汝は受け入れるべし、寛大な、フランスの条約を
世界に並ぶことがない信仰と正義の司祭フランスの……
愛せよ、汝のユグルタを、心の限り愛さねばならない
そうしてユグルタが命を、ゆめにも忘れないでいてもらいたい。

註(1)アムボワーズの城に幽閉されたことのあるアブデルカデルは、ナポレオン3世の手で釈放されたのは、1852年のこと。

    Ⅲ

これが、汝に現れたアラビアの祖国の精神である」

      1869年7月2日
         シャルルヴィル公立中学通学生
            ランボオ・ジャン・ニコラス・アルチュル

 *

 4 ジュギュルタ王

      諸世紀を通じ、神は此の者をば、
      折々此の世に降し給ふ……
                バルザック書簡。

     Ⅰ

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば《これはこれジュギュルタが孫!……》

やがては国のため人民のため、大ジュギュルタ王とはならん此の者が、
いたいけなりし或る日のこと、
来るべき日の大ジュギュルタの幻影は、
その両親のゐる前で、此の子の上に顕れて、
その境涯を述べた後、さて次のやうに語つた
《おお我が祖国よ! おお我が労苦に護られし国土よ!……》と
その声は、寸時、風の神に障(さまた)げられて杜切(とぎ)れたが……
《嘗て悪漢の巣窟、不純なりし羅馬は、
そが狭隘の四壁を毀(こぼ)ち、雪崩(なだ)れ出で、兇悪にも、
そが近隣諸国を併合した。
それより漸く諸方に進み、やがては世界を我が有(もの)とした。
国々は、その圧迫を逃(のが)れんものと、
競ふて武器を執りはしたが、
空しく流血するばかり。
彼等に優(まさ)りし羅馬の軍は、
盟約不賛の諸国をば、その民(たみ)等をば攻め立てた。

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば、《これはこれジュギュルタが孫!……》

我、久しきより羅馬の民は、気高(けだか)き魂(たま)を持てると信ぜり、
さはれ成人するに及びて、よくよく見るに
そが胸には、大いなる傷、口を開け、
そが四肢には、有毒な物流れたり。
それや黄金の崇拝!……そは彼等武器執る手にも現れゐたり!……
穢(けが)れたるかの都こそ、世界に君臨しゐたるかと、
よい力試(ちからだめ)し、我こそはそを打倒さんと決心し、世界を統べるその民を、爾来白眼、以て注視を怠らず!……

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば、《これはこれジュギュルタが孫!……》

当時羅馬はジュギュルタが事に、
介入せんとは企てゐたり、我は
迫りくるそが縄目(なはめ)をば見逃さざりき。立つて羅馬を討たんとは決意せり
かくて我日夜悶々、辛酸の極を甞めたり!
おお我が民よ! 我が戦士! わが聖なる下々(しもじも)の者よ!
羅馬、かの至大の女王、世界の誇り、
かの土(ど)は、やがてぞ我が手に瓦解しゆかん。
おお如何に、我等羅馬のかの傭兵、ニュミイド人(びと)等を嗤ひしことぞ!
此の蛮民等はジュギュルタが、あらゆる隙(すき)に乗ぜんとせり
当時世に、彼等に手向ふものとてなかりし!……

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば、《これはこれジュギュルタが孫!……》

我こそは羅馬の国土に乗り込めり、
その都までも。ニュミイドよ! 汝(なれ)が額に
我平手打(ひらてうち)を啖(くら)はせり、我は汝等(なれら)傭兵ばらを物の数とも思はざり。
茲にして彼等久しく忘れゐたりし武器を執り、
我亦立つて之に向へり。我は捷利を思はざり、
唯に羅馬に拮抗せんことこそ思へり!
河に拠り、巌嶮(いはほ)に拠りて、我敵軍に対すれば、
敵勢(ぜい)は、リビイの砂原(すなはら)、或(ある)はまた、丘上の角面堡より攻めんとす。
敵軍の血はわが野山蔽ひつつ、
我がなみならぬ頑強に、四分五裂となりやせり……

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば、《これはこれジュギュルタが孫!……》

恐らくは我敵方(かた)の、歩兵隊をも敗りたらむを……
此の時ボキュスが裏切りに遇ひ……思ひ返すも徒(あだ)なれど、
されば我、祖国(くに)も王位も棄て去りて、
羅馬に謀反(むほん)をせしといふ、ことに甘んじてゐたりけり。

さても今復(また)フランスは、アラビヤの、都督を伐ちて誇れるも……
汝(なんぢ)、我が子よ、汝(いまし)もし、此の難関に処しも得ば、
汝(なれ)こそはげにそのかみの、我がため仇を報ずなれ。いざや戦へ!
去(い)にし日の、我等が勇気、今は汝(な)が、心に抱き進めかし、
汝(なれ)等が剣《つるぎ》振り翳せ! ジュギュルタをこそ胸に秘め、
居並ぶ敵を押返し! 国の為なり血を流せ!
おお、アラビヤの獅子共も、此の戦ひに参ぜかし!
鋭き汝(なれ)等が牙をもて、敵の軍勢裂きもせよ!
栄(さかえ)あれ! 神冥の加護汝(なれ)にあれ!
アラビヤの恥、雪(そゝ)げかし!……》

かくて幻影消えゆけば、幼な子は、青竜刀の玩具(おもちや)もて、遊び興じてゐたりけり……

      Ⅱ

ナポレオン! おお! ナポレオン!(1) 此の今様のジュギュルタは、
打負かされて、縛られて、幽閉(おしこ)められて暮したり!
茲にジュギュルタ更(あらた)めて、夢の容姿(かたち)にあらはれて
此の今様のジュギュルタにいとねむごろに云へるやう、
《新らしき神に来れかし! 汝が災害を忘れかし、
佳き年(とし)今やめぐり来て、フランス汝(なれ)を解放せん……
汝(なれ)は見るべし、フランスの治下に栄ゆるアルジェリア!……
汝(なれ)は容るべし、寛大の、このフランスの条約を、
世に並びなき信仰と、正義の司祭フランスの……
愛せよ、汝がジュギュルタを、心の限り愛すべし
さてジュギュルタが命数を、つゆ忘れずてありねかし

       註(1)アムボワーズの城に幽閉されたりしアブデルカデルは ナポレオン
           三世の手によりて釈放されたり 時に千八百五十二年

     Ⅲ

これぞこれ、汝(な)に顕れしアラビヤが祖国(くに)の精神(こころ)ぞ!》

      千八百六十九年七月二日
         シャルルヴィル公立中学通学生
            ランボオ・ジャン・ニコラス・アルチュル

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、二重パーレンは《 》に代えました。編者。

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2011年11月 3日 (木)

中原中也が訳したランボー「ジュギュルタ王」

「ランボオ詩集《学校時代の詩》」の4番目の作品は
「ジュギュルタ王」です。

ジュギュルタは、近年ではユグルタの表記が一般的で
ヌミディアという古代ローマ時代に北アフリカにあった王国の王。
現在のアルジェリアあたりにあった王国の王ですが
ローマの侵略と戦ったが敗れローマで獄死しました。

ランボーは、
このユグルタ王の物語に
19世紀アルジェリア地方の有力諸侯、
アブドル・アルカーディルの生涯を重ねています。
(「角川新全集第3巻 翻訳」より)

二人とも植民地支配と戦った
民族の英雄ですから
20世紀・21世紀現代史の
「リビアのカダフィ」の面影があって
脱線しますが、興味をひかれます。

さてここでは
中原中也訳の原作を
歴史的表記を現代表記に改変した上に
難漢字を書き換えたり
漢字をひらがなにしたり
文語を口語に変えたり
語句・句読点の追加削除や改行なども加えたりして
「意訳」を試みます。

   Ⅰ

彼はアラビアの山岳地方に生まれた、
彼こそは、すこやかにそよかぜが語るには
「これこそユグルタの孫!……」

やがては国のため人民のため
大ユグルタ王となるこの者が
いたいけな幼年時代のある日のこと
きたるべき日の大ユグルタのイルージョンは
その両親のいる前で、この子の上に現れて
その境涯を述べた後で、次のように語った

「おお我が祖国よ! おお我が労苦に守られた国土よ!……」と
その声は、少しの間、風の神に邪魔されて途切れたものだったが……

「かつて悪漢の巣窟、不純だったローマは
その狭い周囲の外壁を壊し、外へと雪崩出でて
凶悪にも、その近隣諸国を併合した。
それからしばらくするとさらに各地へと進出し
やがては世界を我が物とするようになった。
諸国は、その圧迫を逃れようとして
競って武器をとって戦ったが
空しく血を流すばかり。
彼らにまさるローマ軍は
盟約しない諸国を、その民らを攻撃した。

彼はアラビアの山岳地方に生まれた、
彼こそは、すこやかにそよかぜが語るには
「これこそユグルタの孫!……」

我、随分前からローマの民は、気高き魂をもつものと信じていた
そうであるのに成人して、よくよく見ると
その胸には、大きな傷が口を開け
その身体中には、有毒なものが流れていた。

それは黄金の崇拝だ!……それは彼らが武器をとる手にも現れていた!……
穢れたあの都が、世界に君臨しているのかと
よい力試しに、我こそはこれを打倒しようと決心し
世界を統一するその民を、その時以来、白い眼で見て、じっくり監視してきた!……

彼はアラビアの山岳地方に生まれた、
彼こそは、すこやかにそよかぜが語るには
「これこそユグルタの孫!……」

当時ローマはユグルタに関して
介入しようと企んでいた、
我は迫り来るその縄目を見逃さなかった。
立ってローマを打倒しようと決意した
こうして我れは日夜悶々と苦闘し、辛酸の極みを嘗めたのだ!
おお我が民よ!
我が戦士!
我が家来たちよ!
ローマ、あの絶大な女王、世界の誇り
あの土地は、やがて我が手に瓦解してゆくであろう。
おおどのようにして、我らはローマのあの傭兵、ニュミイド人らを笑ったことか!
この野蛮な民らはユグルタが、あらゆる隙に乗じようとしていたが
当時世界に、彼らにて手むかえるものはなかったのだ!……

彼はアラビアの山岳地方に生まれた、
彼こそは、すこやかにそよかぜが語るには
「これこそユグルタの孫!……」


ここまで
およそ半分です。

 *

 4 ジュギュルタ王

      諸世紀を通じ、神は此の者をば、
      折々此の世に降し給ふ……
                バルザック書簡。

     Ⅰ

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば、《これはこれジュギュルタが孫!……》

やがては国のため人民のため、大ジュギュルタ王とはならん此の者が、
いたいけなりし或る日のこと、
来るべき日の大ジュギュルタの幻影は、
その両親のゐる前で、此の子の上に顕れて、
その境涯を述べた後、さて次のやうに語つた
《おお我が祖国よ! おお我が労苦に護られし国土よ!……》と
その声は、寸時、風の神に障(さまた)げられて杜切(とぎ)れたが……
《嘗て悪漢の巣窟、不純なりし羅馬は、
そが狭隘の四壁を毀(こぼ)ち、雪崩(なだ)れ出で、兇悪にも、
そが近隣諸国を併合した。
それより漸く諸方に進み、やがては世界を我が有(もの)とした。
国々は、その圧迫を逃(のが)れんものと、
競ふて武器を執りはしたが、
空しく流血するばかり。
彼等に優(まさ)りし羅馬の軍は、
盟約不賛の諸国をば、その民(たみ)等をば攻め立てた。

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば、《これはこれジュギュルタが孫!……》

我、久しきより羅馬の民は、気高(けだか)き魂(たま)を持てると信ぜり、
さはれ成人するに及びて、よくよく見るに
そが胸には、大いなる傷、口を開け、
そが四肢には、有毒な物流れたり。
それや黄金の崇拝!……そは彼等武器執る手にも現れゐたり!……
穢(けが)れたるかの都こそ、世界に君臨しゐたるかと、
よい力試(ちからだめ)し、我こそはそを打倒さんと決心し、世界を統べるその民を、爾来白眼、以て注視を怠らず!……

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば、《これはこれジュギュルタが孫!……》

当時羅馬はジュギュルタが事に、
介入せんとは企てゐたり、我は
迫りくるそが縄目(なはめ)をば見逃さざりき。立つて羅馬を討たんとは決意せり
かくて我日夜悶々、辛酸の極を甞めたり!
おお我が民よ! 我が戦士! わが聖なる下々(しもじも)の者よ!
羅馬、かの至大の女王、世界の誇り、
かの土(ど)は、やがてぞ我が手に瓦解しゆかん。
おお如何に、我等羅馬のかの傭兵、ニュミイド人(びと)等を嗤ひしことぞ!
此の蛮民等はジュギュルタが、あらゆる隙(すき)に乗ぜんとせり
当時世に、彼等に手向ふものとてなかりし!……

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば、《これはこれジュギュルタが孫!……》

我こそは羅馬の国土に乗り込めり、
その都までも。ニュミイドよ! 汝(なれ)が額に
我平手打(ひらてうち)を啖(くら)はせり、我は汝等(なれら)傭兵ばらを物の数とも思はざり。
茲にして彼等久しく忘れゐたりし武器を執り、
我亦立つて之に向へり。我は捷利を思はざり、
唯に羅馬に拮抗せんことこそ思へり!
河に拠り、巌嶮(いはほ)に拠りて、我敵軍に対すれば、
敵勢(ぜい)は、リビイの砂原(すなはら)、或(ある)はまた、丘上の角面堡より攻めんとす。
敵軍の血はわが野山蔽ひつつ、
我がなみならぬ頑強に、四分五裂となりやせり……

彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼は健(すこや)かに
軟風(そよかぜ)の云ふを聞けば、《これはこれジュギュルタが孫!……》

恐らくは我敵方(かた)の、歩兵隊をも敗りたらむを……
此の時ボキュスが裏切りに遇ひ……思ひ返すも徒(あだ)なれど、
されば我、祖国(くに)も王位も棄て去りて、
羅馬に謀反(むほん)をせしといふ、ことに甘んじてゐたりけり。

さても今復(また)フランスは、アラビヤの、都督を伐ちて誇れるも……
汝(なんぢ)、我が子よ、汝(いまし)もし、此の難関に処しも得ば、
汝(なれ)こそはげにそのかみの、我がため仇を報ずなれ。いざや戦へ!
去(い)にし日の、我等が勇気、今は汝(な)が、心に抱き進めかし、
汝(なれ)等が剣《つるぎ》振り翳せ! ジュギュルタをこそ胸に秘め、
居並ぶ敵を押返し! 国の為なり血を流せ!
おお、アラビヤの獅子共も、此の戦ひに参ぜかし!
鋭き汝(なれ)等が牙をもて、敵の軍勢裂きもせよ!
栄(さかえ)あれ! 神冥の加護汝(なれ)にあれ!
アラビヤの恥、雪(そゝ)げかし!……》

かくて幻影消えゆけば、幼な子は、青竜刀の玩具(おもちや)もて、遊び興じてゐたりけり……

      Ⅱ

ナポレオン! おお! ナポレオン!(1) 此の今様のジュギュルタは、
打負かされて、縛られて、幽閉(おしこ)められて暮したり!
茲にジュギュルタ更(あらた)めて、夢の容姿(かたち)にあらはれて
此の今様のジュギュルタにいとねむごろに云へるやう、
《新らしき神に来れかし! 汝が災害を忘れかし、
佳き年(とし)今やめぐり来て、フランス汝(なれ)を解放せん……
汝(なれ)は見るべし、フランスの治下に栄ゆるアルジェリア!……
汝(なれ)は容るべし、寛大の、このフランスの条約を、
世に並びなき信仰と、正義の司祭フランスの……
愛せよ、汝がジュギュルタを、心の限り愛すべし
さてジュギュルタが命数を、つゆ忘れずてありねかし

       註(1)アムボワーズの城に幽閉されたりしアブデルカデルは ナポレオン
           三世の手によりて釈放されたり 時に千八百五十二年

     Ⅲ

これぞこれ、汝(な)に顕れしアラビヤが祖国(くに)の精神(こころ)ぞ!》

      千八百六十九年七月二日
         シャルルヴィル公立中学通学生
            ランボオ・ジャン・ニコラス・アルチュル

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、二重パーレンは《 》に代えました。編者。

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2011年11月 2日 (水)

中原中也が訳したランボー「エルキュルとアケロユス河の戦ひ」その2

「エルキュルとアケロユス河の戦ひ」の
残りの部分を読み進めます。

エルキュルすなわちヘラクレスの怪力振りを訳しながら
中原中也は自らも楽しんでいる気配が伝わってきます。
これはどこかで見覚えのある
デ・ジャヴの感覚だなと気づいて
思い出されたのは
「平家物語」の合戦のシーンです。

確か
もんどりうって、どうと落つ、などという描写が
この物語には横溢していて
七五調の流麗な調べとともに刻まれていたように記憶しますが
まったく見当違いかもしれません。

河は激しい恥ずかしさにうち震え
くつがえされた栄誉を思えば
胸は悲痛に滾(たぎ)りはじめ
全身をのたうって狂えば
獰猛な眼は炎のように燃え盛り
角は突っ立って風を切り
咆えれば天も震撼するのだった。

ヘラクレスはこれを見て大いに笑い
河をひっ捕らえ、ぶんぶんと振り回し
痙攣しはじめた五体をどうと放り出し
膝で首を押さえつけ
腰に喉を敷き伏せて
うち叩いてはまたうち叩き
力の限りに懲らしめれば
やがて河も苦しみ死んでしまった。

息絶えた怪物に、なんとも勇ましいヘラクレスは
うち跨(またが)って、血で濡れた、額の角を引き抜いて
ついに勝利を完全なものにした。

こうしてフォーヌやドリアードやニンフ姉妹の合唱隊は
減水と富源のために働いた
彼らの勇士ヘラクレスが楽しげに
今は木蔭に休息しているのを
古い勝利の戦を思い出させるかのように勇士に近づいて
軽やかに彼の回りを取り囲んで
花の冠、葉のリースを
その額に被せたのだった。

さて皆のもの、彼の近くに転がっていた
あの河の角を手に取らせ
血塗られたその戦利品を
美味しい果実と香りのよい花々で飾ったのであった。

      1869年9月1日
         シャルルヴィル公立中学通学生
            アルチュル・ランボオ

※フォーヌは半獣神の牧神、ニンフは水の精、ドリアードは森の精。(「角川新全集・第3巻 翻訳」語註より)

この詩の中では――

エルキュルは、その上に、大木の幹を振り翳(かざ)し、
ひつぱたきひつぱたく、

鞺(たう)とばかりに投げ出だし、膝にて頸をば圧へ付け、
腰に咽喉(のど)をば敷き据ゑて、打ち叩き打ち叩き

――というルフランや
この中の、鞺(たう)とばかりに投げ出だし、などの独特の措辞や

扨エルキュルは立直り、《此の腕前を知らんかい、たはけ奴(め)が!
我猶揺籃にありし頃、二頭の竜(ドラゴン)打つて取つたる
かの時既に鍛へたる此の我が腕を知らんかい!……》

――という台詞(セリフ)の部分や
全篇を通じた音数律などに
中原中也がいます。
息づいています。

 *
 3 エルキュルとアケロユス河の戦ひ

嘗て水に膨らむだアケロユスの河は氾濫し、
谷間に入つて迸り、その騒擾いはんかたなく、
そが浪に畜群と稔りよき収穫を薙ぎ倒し、
人家悉く潰滅し、みはるかす田畠(でんぱた)は砂漠と化した。
かくてニムフはその谷を去り、
フォーヌ合唱隊亦鳴りを静め、
人々は唯手を拱(こまぬ)いて河の怒りを眺めてゐた。
此の有様をみたエルキュルは、憐憫の思ひに駆られ、
河の怒りを鎮めむものと巨大な躯(み)をば跳(をど)らせて、
逞しい双腕に泡立つ浪を逐ひまくし、
そがもとの河床に治まるやうに努めたのだ。
制(おさ)へられたる河浪は、怒濤をなして呟きながらも、
やがて蜿蜒たるもとの姿にかへつたが、
河は息切(いきぎ)れ、歯軋(はぎし)りし、そが蒼曇る背をのたくらし、
そが険呑(けんのん)な尾で以て荒(すが)れた岸を打つてゐた。
エルキュルは再び身をば投入れて、腕をもて河の頸をば締めつけた、その抵抗も物の数かは
河は懲され、エルキュルは、その上に、大木の幹を振り翳(かざ)し、
ひつぱたきひつぱたく、河は瀕死の態(てい)となり砂原の上にのめされた。
扨エルキュルは立直り、《此の腕前を知らんかい、たはけ奴(め)が!
我猶揺籃にありし頃、二頭の竜(ドラゴン)打つて取つたる
かの時既に鍛へたる此の我が腕を知らんかい!……》

河は慚愧に顛動し、覆へされたる栄誉をば、
思へば胸は悲痛に滾(たぎ)ち、跳ねて狂へば
獰猛の眼(まなこ)は炎と燃え熾(さか)り、角は突つ立ち風を切り、
咆ゆれば天も顫へたり。
エルキュルこれを見ていたく笑ひて
ひつ捉へ、振り廻し、痙攣(ひきつけ)はじめしその五体
鞺(たう)とばかりに投げ出だし、膝にて頸をば圧へ付け、
腰に咽喉(のど)をば敷き据ゑて、打ち叩き打ち叩き
力の限りに懲しめば、やがては河も悶絶す。
息を絶えたる怪物に、勇ましきかなエルキュルは、
打跨つて血濡れたる、額の角を引抜いて、茲に捷利を完うす。
かくてフォーヌやドリアード、ニムフ姉妹の合唱隊(コーラス)は、
減水と富源のために働いた、彼等が勇士の愉しげに
今は木蔭に憩ひつつ、
古き捷利を思ひ合はする勇士に近づき、
かろやかに彼のめぐりをとりかこみ、
花の冠・葉飾りを、それの額に冠(かづ)けたり。
さて皆の者、彼の近くにころがりゐたりし
かの角をばその手にとらせ、血に濡れたその戦利品をば
美味な果実と薫り佳き花々をもて飾つたのだ。

       千八百六十九年九月一日
         シャルルヴィル公立中学通学生
           ランボオ・アルチュル

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、二重パーレンは《 》に代えました。編者。

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2011年11月 1日 (火)

中原中也が訳したランボー「エルキュルとアケロユス河の戦ひ」

「ランボオ詩集《学校時代の詩》」には
5篇の詩が収録されています。
ランボー没後40余年を経た1932年に
メルキュール・ド・フランス社から
「Vers de Collège」のタイトルで発行されました。

昭和8年12月に
これを中原中也の日本語訳として発行したのは
三笠書房という出版社で
中原中也が創刊同人であった雑誌「紀元」に
ランボーの訳詩を発表した関係からの出版でした。

昭和8年は、1933年ですから
原典の発行から1年後ということになり
当時の日本の翻訳出版事情を垣間見ることができます。
戦争へ向かう時代ながら
活発な文化交流が行われていたことが想像されます。

3作目の
「エルキュルとアケロユス河の戦ひ」を読みます。

「エルキュル」は聞きなれませんが
ヘラクレスのことで
ご存知の、ギリシア神話の英雄で
怪力としてよく知られています。
そのヘラクレスが戦った
アケロス河の戦いを歌ったラテン語詩です。
河の名になった神アケロスを
ヘラクレスが散々に征伐する神話が歌われています。

ここでも、
中原中也訳の原作を
歴史的表記を現代表記に改変した上に
難漢字を書き換えたり
漢字をひらがなにしたり
文語を口語に変えたり
語句・句読点の追加削除や改行なども加えたりして
「意訳」を試みます。

かつて豊かな水をたたえたアケロス河は氾濫し
谷間に入ってほとばしり
その騒擾はいいようがなく
その波に家畜の群れとよく実った植物をなぎ倒し
人家はことごとく壊滅し
田畑をみはるかすまでに砂漠と化してしまった。

こうしてニンフたちはその谷を去り
フォーヌの合唱隊もまた鳴りをひそめ
人々はただ手をこまねいて
河が怒るのを眺めているばかりだった。

このありさまを見たヘラクレスは
憐憫の情に駆られ
河の怒りを静めようとして巨大な身体を躍らせて
たくましい両腕に泡立つ波を追い込んで
それが元の河に治まるように奮闘したのだ。

制御された河の波は、怒涛となって呟きながらも
やがては蜿蜒とした元の姿に戻ったが
河は息切れし、歯軋りし、その青く黒ずんだ背をのたうち
その剣呑な尾で荒れた岸にぶつかっていた。

ヘラクレスは再び身を投げ入れて、その腕で河の首根っこ絞めつけた
その抵抗もなんとも思わず
河は懲らしめられ、ヘラクレスは、その上に大木の幹を振りかざして
引っ叩く引っ叩く、
河は瀕死の状態となり砂原の上に打ちのめされてしまった。

そうしてヘラクレスは立ち直り
「この腕前を知らんのか、たわけ!
我はゆりかごに揺られていた頃、2頭のドラゴンを討ち取ったのだ
その時、すでに鍛えたこの我が腕を知らんのか!」

(結構、面白い痛快劇の描写を
中原中也は楽しんで訳しているのが伝わってきます。
お楽しみは、また続きで。)

 *
 3 エルキュルとアケロユス河の戦ひ

嘗て水に膨らむだアケロユスの河は氾濫し、
谷間に入つて迸り、その騒擾いはんかたなく、
そが浪に畜群と稔りよき収穫を薙ぎ倒し、
人家悉く潰滅し、みはるかす田畠(でんぱた)は砂漠と化した。
かくてニムフはその谷を去り、
フォーヌ合唱隊亦鳴りを静め、
人々は唯手を拱(こまぬ)いて河の怒りを眺めてゐた。
此の有様をみたエルキュルは、憐憫の思ひに駆られ、
河の怒りを鎮めむものと巨大な躯(み)をば跳(をど)らせて、
逞しい双腕に泡立つ浪を逐ひまくし、
そがもとの河床に治まるやうに努めたのだ。
制(おさ)へられたる河浪は、怒濤をなして呟きながらも、
やがて蜿蜒たるもとの姿にかへつたが、
河は息切(いきぎ)れ、歯軋(はぎし)りし、そが蒼曇る背をのたくらし、
そが険呑(けんのん)な尾で以て荒(すが)れた岸を打つてゐた。
エルキュルは再び身をば投入れて、腕をもて河の頸をば締めつけた、その抵抗も物
の数かは
河は懲され、エルキュルは、その上に、大木の幹を振り翳(かざ)し、
ひつぱたきひつぱたく、河は瀕死の態(てい)となり砂原の上にのめされた。
扨エルキュルは立直り、《此の腕前を知らんかい、たはけ奴(め)が!
我猶揺籃にありし頃、二頭の竜(ドラゴン)打つて取つたる
かの時既に鍛へたる此の我が腕を知らんかい!……》

河は慚愧に顛動し、覆へされたる栄誉をば、
思へば胸は悲痛に滾(たぎ)ち、跳ねて狂へば
獰猛の眼(まなこ)は炎と燃え熾(さか)り、角は突つ立ち風を切り、
咆ゆれば天も顫へたり。
エルキュルこれを見ていたく笑ひて
ひつ捉へ、振り廻し、痙攣《ひきつけ》はじめしその五体
鞺(たう)とばかりに投げ出だし、膝にて頸をば圧へ付け、
腰に咽喉(のど)をば敷き据ゑて、打ち叩き打ち叩き
力の限りに懲しめば、やがては河も悶絶す。
息を絶えたる怪物に、勇ましきかなエルキュルは、
打跨つて血濡れたる、額の角を引抜いて、茲に捷利を完うす。
かくてフォーヌやドリアード、ニムフ姉妹の合唱隊(コーラス)は、
減水と富源のために働いた、彼等が勇士の愉しげに
今は木蔭に憩ひつつ、
古き捷利を思ひ合はする勇士に近づき、
かろやかに彼のめぐりをとりかこみ、
花の冠・葉飾りを、それの額に冠(かづ)けたり。
さて皆の者、彼の近くにころがりゐたりし
かの角をばその手にとらせ、血に濡れたその戦利品をば
美味な果実と薫り佳き花々をもて飾つたのだ。

       千八百六十九年九月一日
         シャルルヴィル公立中学通学生
           ランボオ・アルチュル

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、二重パーレンは《 》に代えました。
編者。

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