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2011年12月23日 (金)

中原中也が訳したランボー「教会に来る貧乏人」Les Pauvres à l’égliseその2

中原中也訳「教会に来る貧乏人」Les Pauvres à l’église は
昭和11年(1936年)6月から同12年8月27日の間の制作
または、昭和9年(1934年)9月から同10年3月末の間の制作と推定されています。

前者は、「ランボオ詩抄」刊行から「ランボオ詩集」の原稿が
発行元の野田書房に持ち込まれるまでの間。
後者は、建設社版の「ランボオ全集」のために
ランボーの翻訳に集中していた期間。
両期間の最大幅をとれば
昭和9年9月から同12年8月の間の制作という推定になります。

中原中也のランボー翻訳詩には
「ランボー詩抄」(昭和11年、山本書店)に収録されず
「ランボオ詩集」(昭和12年、野田書房)に初めて収録された作品のグループがあり
これらの作品の制作時期は特定されていません。
そのため、「角川新全集編集」が考証・推定したのが
以上の制作時期です。

「教会に来る貧乏人」は
このグループの作品の一つですから
中原中也「晩年」の仕事といってよいものでした。
翻訳に「爛熟」の味わいがあるのは
ここらあたりに理由があることに違いありません。

中原中也が上京して小林秀雄らと知り合った
昭和初期からはじめたフランス象徴詩の翻訳は
すでにほぼ10年の月日を積み上げています。
この間、アテネフランセ、中央大学予科、東京外国語学校などでフランス語を学び
学ぶと同時に(と言ってよいほどに)翻訳を手がけていますから
学習と実作(翻訳の)が絶えず同じ地平にあるという
「理想的な翻訳の方法」を実践していた、ということになります。

フランス語の学習と翻訳とを、
同じ地平で行いながら、さらに
詩作も同じ地平で行っていたのですし
それを10年積み重ねるという生活がどのように大変なものであったか――。
その成果が「ランボオ詩集」に結実していることを
忘れてはなりません。

昭和9年末、
インクの匂いで生々しい
第一詩集「山羊の歌」の刷り上りを手にしたその足で
そのまま故郷山口に帰り、
生まれたばかりの長男・文也と初対面、
翌年3月まで山口に滞在したのは
建設社版「ランボオ全集」の翻訳の仕事に集中するという目的のためでした。

この仕事は
「ランボオ全集」発行が頓挫したために
日の目を見なかったのですが
やがては山本書店発行の「ランボオ詩抄」や
野田書房発行の「ランボオ詩集」の中に生き延びることになりました。

 ◇

「教会に来る貧乏人」が
「ランボー詩抄」に収録されず
「ランボオ全集」に初めて収録された作品の一つでありながら
昭和9年末の、この帰省で制作されたものであるのか、ないのか、
決定的な資料がないため
二つの制作日が推定されているということです。
(角川新全集 第3巻 翻訳 解題篇)

 *

 教会に来る貧乏人

臭い息(いき)にてむツとする教会の隅ツこの、
樫材(かし)の床几にちよこなんと、眼(め)は一斉に
てんでに丸い脣(くち)してる唱歌隊へと注がれて。さて
二十人なる唱歌隊、大声で、敬虔な讃美歌を怒鳴(どな)ります。

蝋の臭気(にほひ)を吸ひ込める麺麭の匂ひの如くにも、
なんとはや、打たれた犬と気の弱い貧乏人等が、
旦那たり我君様たる神様に、
可笑しげな、なんとも頑固な祈祷(おいのり)を捧げるのではございます。

女連(をんなれん)、滑らかな床几に坐つてまあよいことだ、
神様が、苦しめ給ふた暗い六日(むいか)のそのあとで!
彼女等あやしてをりまする、めうな綿入(わたいれ)にくるまれて
死なんばかりに泣き叫ぶ、まだいたいけな子供をば。

胸のあたりを汚してる、肉汁食(スープぐら)ひの彼女等は、
祈りするよな眼付して、祈りなんざあしませんで、
お転婆娘の一団が、いぢくりまはした帽子をかぶり、
これみよがしに振舞ふを、ジツとみつめてをりまする。

戸外には、寒気と飢餓と、而も男はぐでんぐでん。
それもよい、しかし後刻(あと)では名もない病気!
――それなのにそのまはりでは、干柿色の婆々連(ばばあれん)、
或ひは呟き、鼻声を出し、或ひはこそこそ話します。

其処にはびツくりした奴もゐる、昨日巷で人々が
避(よ)けて通つた癲癇病者(てんかん)もゐる、
古いお弥撒(みさ)の祈祷集(おいのりぼん)に、面(つら)つツ込んでる盲者(めくら)等は
犬に連れられ来たのです。

どれもこれもが間の抜けた物欲しさうな呟きで
無限の嘆きをだらだらとエス様に訴へる
エス様は、焼絵玻璃(やきゑがらす)で黄色くなつて、高い所で夢みてござる、
痩せつぽちなる悪者や、便々腹(べんべんばら)の意地悪者(いぢわる)や

肉の臭気や織物の、黴(か)びた臭(にほ)ひも知らぬげに、
いやな身振で一杯のこの年来の狂言におかまひもなく。
さてお祈りが、美辞や麗句に花咲かせ、
真言秘密の傾向が、まことしやかな調子をとる時、

日影も知らぬ脇間(わきま)では、ごくありふれた絹の襞、
峻厳さうなる微笑(ほゝゑみ)の、お屋敷町の奥さん連(れん)、
あの肝臓の病人ばらが、――おゝ神よ!――
黄色い細いその指を、聖水盤にと浸します。

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)
※ ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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