中原中也が訳したランボー「夕べの辞」Oraison du soir
中原中也訳の「ランボオ詩集」の「初期詩篇」を読み進んでいくと
8番目に「坐った奴等」があり
9番目に「夕べの辞」Oraison du soirがあります。
これは丁度
ベルレーヌが「呪われた詩人たち」収録の「アルテュル・ランボオ」の中で
アルテュル・ランボオの美神は、すべての調子をとつて用ゐた。竪琴の全和絃、ギタアの全和絃をかなで、胡弓の弓は宛ら自分自身であるやう敏捷に奏せられた。
ランボオが愚弄家、嘲弄家と見えるのはその時である。彼が愚弄家嘲弄家の親玉たる時こそ、彼が神の手になる大詩人たる時である。
見よ、「夕(ゆふべ)の弁」と「坐せる奴等」を、その前に跪くべく!
――と言及したのと偶然にも符合し
「坐った奴等」(「坐せる奴等」)を読んだ後でもあり
「夕べの辞」(「夕の弁」)を読む絶好の機会です。
「坐った奴等」と「夕べの辞」を
ベルレーヌは
原典のレベルで(当然のことですが)
同じ傾向の詩として論じ
ランボーの作り出す詩が
全ての楽器の奏でる調子を持つような「多重奏」であることを指摘し
そのような「演奏」が行われるのは決まって
ランボーが愚弄家であり嘲弄家である時だ、と喝破します。
愚弄家であり嘲弄家である
その親玉であるような
愚弄や嘲弄が頂点に達するように全開した時に
ランボーの生み出す詩は
神の手から生まれたような
大詩人の詩となる
――とズバリ、ランボー詩の一群についての読みを披瀝してくれるのです。
ベルレーヌのこの読みを肝に銘じながら
中原中也訳の「夕の弁」や「夕べの辞」を読んでみると
詩がグンと近づいて来るのが感じられます。
詩は
しこたまビールを飲んだ「私」が
「褐色の空」=夕空に向けて放尿するシーンを歌っただけの
レアリズムであるだけかも知れないのに
そんな単旋律を微塵も感じさせない言葉の機関銃。
どんな風に詩を読むのは自由ですし
読みは個性をあぶり出しますから
こんな風に読めてしまったのなら
そう読めたという個性が明るみになるだけ。
ベルレーヌのいう「愚弄嘲弄」は
「哄笑破笑」と置き換えていいのかもしれません。
*
夕の弁
我は理髪師の手もてる天使の如く坐してありき、
深き丸溝あるビールのコップを手に持ちて、
小腹と首をつん反(ぞ)らせ、ギャムビエを歯に、
ふくよかに風孕む帆が下に。
古き鳩舎の火照りある糞のごと
千の夢は、我をやさしく焦がしたり。
と忽ちに、我が哀しき心、熔けたる
暗き黄金の血を流す 白木質となれりけり。
軈て我、細心をもて我が夢を呑み下せしに、
惑乱す、数十杯のビール傾け、
扨入念す、辛き心を浚はむと。
やさしさ、杉とヒソプの主の如く、
いや高くいや遠き褐の空向け放尿す、
大いなるヘリオトロープにあやかりて。
*
夕べの辞
私は坐りつきりだつた、理髪師の手をせる天使そのままに、
丸溝のくつきり付いたビールのコップを手に持ちて、
下腹突き出し頸反らし陶土のパイプを口にして、
まるで平(たひら)とさへみえる、荒模様なる空の下。
古き鳩舎に煮えかへる鳥糞(うんこ)の如く、
数々の夢は私の胸に燃え、徐かに焦げて。
やがて私のやさしい心は、沈欝にして生々(なまなま)し
溶(とろ)けた金のまみれつく液汁木質さながらだつた。
さて、夢を、細心もつて嚥み下し、
身を転じ、――ビール三四十杯を飲んだので
尿意遂げんとこゝろをあつめる。
しとやかに、排香草(ヒソフ)や杉にかこまれし天主の如く、
いよ高くいよ遐く、褐色の空には向けて放尿す、
――大いなる、ヘリオトロープにうべなはれ。
(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
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