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2011年12月16日 (金)

中原中也が訳したランボー「坐つた奴等」とベルレーヌ「呪われた詩人たち」その3

ポール・ベルレーヌの「呪われた詩人たち」は
アルチュール・ランボーを
世界で初めて紹介したと言ってよいほどに
ランボーの存在をメディアに乗せたのですから
その功績は言葉に尽くせないものです。

「坐った奴等」Les Assisは
その中でランボーの作品として引用された詩篇の一つですから
ベルレーヌがどのように紹介したのかを知るだけでも
ワクワクする経験です。

「呪われた詩人たち」は
ベルレーヌ全集の原典にあたらなければ読めないほど
たやすくは読めないこの国、日本の状況は
文化がエリートに独占されていることを象徴していますが
意外にも、中原中也の翻訳で、半分ほどが読めるのですから
それだけでも
中原中也の翻訳の意義の大きさを推し量ることができると言えるものです。

そう言い得るほど
昭和初期に中原中也が
詩心を砕くようにして紡ぎだした
ランボー詩の翻訳(という営為)は光彩を放つものですし
翻訳(の内容)そのものも輝いています。

特に措辞の一つ一つ、
語彙の選択の一つ一つに
詩人の魂が乗り移っているようなところがあるのは
詩の実作に命がけの詩人が
実作に懸けるのと同じ姿勢で
「一辞一句翻訳した」(大岡昇平)からであることに違いありません。

詩人自ら「後記」に記したように
一字一句に「語勢」があります。

というわけで
中原中也訳の「アルテュル・ランボオ」は
未発表で未完成であり
その上、散文であるにもかかわらず
読んでおくに値しますし
この機会をおいては読む機会が訪れることもないでしょうから
訳稿Aにも目を通しておくことにします。

訳稿Bは、
「坐せる奴等」を引用し
解説を加えたベルレーヌの文の翻訳ですが
訳稿Aは
ランボーという詩人の存在を
世の中の人々に初めて知らせようとするベルレーヌの
どこかしら誇りと威厳とに満ちた案内文(と中原中也訳は感じられる)とともに
「母音」
「夕の弁」の2つの詩篇を訳出しています。

ベルレーヌの原作には
「びっくり仰天している子ら」
「虱をとる女たち」
「酔っ払った船」
「初聖体拝領」(一部)
「パリは再び大賑わい」(一部)があるのですが
中原中也は完訳していません。

 *

 アルテュル・ランボオ

        ポール・ヴェルレーヌ

(訳稿A)

 私はアルテュル・ランボオを知るの喜びを持ってゐる。今日、様々の瑣事は、私を彼
から遠ざけてゐる。尤も、彼が天才及び性格に対する私の嘆賞は、一日として欠けた
ことはないのだが。

 私達の親交の少し前、アルテュル・ランボオが十六七才であった頃、既に彼は、公
衆が知り、私などが出来得る限り引証し解説してやるべき詩籠を所持してゐた。

 大きい、骨組のしつかりした、殆んど運動家のやうで、完全に楕円形のその顔は追
放の天使のやうであつた。竝びのわるい明褐色の髪をもち、蒼ざめた碧眼は気遣わ
しげに見えた。

 アルデンヌ生れの彼は、その綺麗な訛を忽ちに失くしたばかりか、アルデンヌ人らし
い速かな同化力を以て巴里語を使駆した。

 私はまづ、アルテュル・ランボオの初期の作品、いとも早熟な彼が青年期の作品に
就いて考へてみよう、――気高い腺疫、奇蹟的発情の彼が青春時!――その後で彼
のその烈しい精神が、文学的終焉をみる迄の様々な発展を調べることとしよう。

 偖、前言すべき一事がある。といふは、若し此の一文が偶然にも彼の目に止るとす
るならば、アルテュル・ランボオは、私が人間行為の批議する者でなく、又私が彼に
対する全き是認(私達の悲劇に就いても同様)は、彼が詩を放棄したといふことに対
しても可及するものと諒察するであらう。お疑ひならないとなら云ふが、この放棄は、
彼にあつては論理的で正直で必要なことであつたのです。

 ランボオの作品は、その極度の青春時、1869、70、71年を終るに当つては、もは
や沢山であつて、敬すべき一巻の書を成してゐた。それは概して短い詩を含む書で
ある、十四行詩、八行詩、四、五乃至六行を一節とする詩。彼は決して平板な韻は踏
まなかつた。しつかりした構へ、時には疑つてさへゐる詩。気儘な句読は稀であり、句
の跨り一層稀である。語の選択は何時も粋で、趣向に於ては偶々学者ぶる。語法は
判然してゐて、観念が濃くなり、感覚が深まる時にも猶明快である。加之請ふべきそ
の韻律。

 次の十四行詩こそそれらのことを証明しよう。(以下、次回につづく。)

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)

 ◇

以上に続き
「母音」の訳と、若干の解説
「夕の弁」を訳したところで
中原中也の訳は終りますが
その部分は次回のおたのしみにします。

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