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2012年2月26日 (日)

中原中也が訳したランボー「酔ひどれ船」Bateau ivreその3

中原中也が「ダダイスト新吉の詩」を
京都丸太町の古書店で見つけ
「中の数篇に感激」したのは
大正12年(1923年)の秋で
富永太郎が京都に遊びに来たのが
翌大正13年の夏のことでした。

富永の口からランボーの名前が出たとき
中原中也が目を輝かせたことは
想像に難くはありません。

小林秀雄が
東京・神田の街の本屋の店頭で
メルキュウル版「地獄の季節」を手にしたのは
小林が23歳の時と本人が書いていますから
1925年(大正14年)のことでしたが
ランボーの名前を知ったのは
それ以前のことであった可能性があります。

「ランボオⅢ」の中で
小林秀雄は「地獄の季節」との邂逅を
「どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。而も、
この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらいに敏感
に出来ていた。(略)僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。」と
記しています。

「ランボオという事件」のはじまりですが
中原中也の場合も小林秀雄の場合も
ここに富永太郎の存在が大きな影を引いています。

この頃
中原中也のフランス語の力は
小林秀雄とさほど差はなかったように見えますが
帝大仏文科に在学している小林と
東京に出て来たばかりの中原中也との間に
文学関係から一般的な生活に関してまで
入ってくる「情報」は歴然とした差があってもおかしくはありません。

「酔ひどれ船」を
中原中也が初めて読んだのは
富永が京都に来て直後のこととですが
フランス語の学習を始めてもいない頃で
翻訳でランボーの詩を読むほかにありませんでした。

柳沢健訳の「酔ひどれの舟」が
大正3年に刊行された詩集「果樹園」の中に訳出されているほかに
上田敏の未定稿が
大正12年発行の「上田敏詩集」にあり
中原中也はこれを
3回筆写したことが分かっています。

この筆写は
大正13年秋から同15年の間に行われてことが推定されています。

同時代訳としてこのほかに
金子光晴訳の「よいどれの舟」が大正14年(1925年)に
小林秀雄訳の「酩酊船」が昭和6年(1931年)に
堀口大学訳の「酔ひどれ船」が昭和9年(1934年)に発表されるのですが
中原中也は
ヴェルレーヌの「アルチュール・ランボー」を訳しながらも
「酔ひどれ船」の翻訳を完成することはありませんでした。
(※翻訳に取り組んだことは確実です。)

このような経過をとり
「酔つた船」として
前川佐美雄が主宰する「日本歌人」に発表されたのは
昭和10年3月号上になります。

この間、建設社版「ランボオ全集」のために
昭和9年9月から翌10年3月末の間を
ランボーの詩篇の翻訳に専念しましたから
この時に、「酔つた船」の翻訳を進めたことが推測されます。

前川佐美雄を中原中也に紹介したのは
「ダダイストの新吉の詩」の作者、あの高橋新吉でした。

中原中也と高橋新吉は
ダダイズムを通じたのと同じ程度に
ランボーを通じての交感(交流)が
ずっと継続していたということになります。

 *

 酔ひどれ船

私は不感な河を下って行ったのだが、
何時しか私の曳船人等は、私を離れているのであった、
みれば罵り喚く赤肌人等が、彼等を的にと引ッ捕らえ、
色とりどりの棒杭に裸のままで釘附けていた。

私は一行の者、フラマンの小麦や英綿(えいめん)の荷役には
とんと頓着していなかった
曳船人等とその騒ぎとが、私を去ってしまってからは
河は私の思うまま下らせてくれるのであった。

私は浪の狂える中を、さる冬のこと
子供の脳より聾乎(ぼつ)として漂ったことがあったっけが!
怒涛を繞(めぐ)らす半島と雖も
その時程の動乱を蒙(う)けたためしはないのであった。

嵐は私の海上に於ける警戒ぶりを讃歎した。
浮子(うき)よりももっと軽々私は浪間に躍っていた
犠牲者達を永遠にまろばすという浪の間に
幾夜ともなく船尾(とも)の灯に目の疲れるのも気に懸けず。

子供が食べる酸い林檎よりもしむみりと、
緑の水はわが樅の船体に滲むことだろう
又安酒や嘔吐の汚点(しみ)は、舵も錨も失せた私に
無暗矢鱈に降りかかった。

その時からだ、私は海の歌に浴した。
星を鏤(ちりば)め乳汁のような海の、
生々しくも吃水線は蒼ぐもる、緑の空に見入ってあれば、
折から一人の水死人、思い深げに下ってゆく。

其処に忽ち蒼然色(あおーいいろ)は染め出され、おどろしく
またゆるゆると陽のかぎろいのその下を、
アルコールよりもなお強く、竪琴よりも渺茫と、
愛執のにがい茶色も漂った!

私は知っている稲妻に裂かれる空を竜巻を
打返す浪を潮流を。私は夕べを知っている、
群れ立つ鳩にのぼせたような曙光を、
又人々が見たような気のするものを現に見た。

不可思議の畏怖に染みた落日が
紫の長い凝結(こごり)を照らすのは
古代の劇の俳優か、
大浪は遠くにはためき逆巻いている。

私は夢みた、眩いばかり雪降り積った緑の夜を
接唇(くちずけ)は海の上にゆらりゆらりと立昇り、
未聞の生気は循環し
歌うがような燐光は青に黄色にあざやいだ。

私は従った、幾月も幾月も、ヒステリックな
牛小舎に似た大浪が暗礁を突撃するのに、
もしかの光り耀うマリアの御足が
お望みとあらば太洋に猿轡かませ給うも儘なのを気が付かないで。

船は衝突(あた)った、世に不可思議なフロリダ州
人の肌膚の豹の目は叢なす花にいりまじり、
手綱の如く張りつめた虹は遙かの沖の方
海緑色の畜群に、いりまじる。

私は見た、沼かと紛う巨大な魚梁(やな)が沸き返るのを
其処にレヴィヤタンの一族は草に絡まり腐りゆき、
凪の中心(もなか)に海水は流れそそぎ
遠方(おちかた)は淵を目がけて滝となる!

氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠の空、
褐色の入江の底にぞっとする破船の残骸、
其処に大きな蛇は虫にくわれて
くねくねの木々の枝よりどす黒い臭気をあげては堕ちていた!

子供等にみせたかったよ、碧波に浮いている鯛、
其の他金色の魚、歌う魚、
漚(オウ)の花は私の漂流を祝福し、
えもいえぬ風は折々私を煽(おだ)てた。

時として地極と地帯に飽き果てた殉教者・海は
その歔欷(すすりなき)でもって私をあやし、
黄色い吸口のある仄暗い花をばかざした
その時私は膝つく女のようであった

半島はわが船近く揺らぎつつ金褐の目の
怪鳥の糞と争いを振り落とす、
かくてまた漂いゆけば、わが細綱を横切って
水死人の幾人か後方(しりえ)にと流れて行った……

私としてからが浦々の乱れた髪に踏み迷い
鳥も棲まわぬ気圏(そら)までも颶風によって投げられたらば
海防艦(モニトル)もハンザの船も
水に酔った私の屍骸(むくろ)を救ってくれはしないであろう、

思いのままに、煙吹き、紫色の霧立てて、
私は、詩人等に美味しいジャミや、
太陽の蘚苔(こけ)や青空の鼻涕(はな)を呉れる
壁のように赤らんだ空の中をずんずん進んだ、

電気と閃く星を著け、
黒い海馬に衛られて、狂える小舟は走っていた、
七月が、丸太ン棒で打つかとばかり
燃える漏斗のかたちした紺青の空を揺るがせた時、

私は慄えていた、五十里の彼方にて
ベヘモと渦潮の発情の気色(けはい)がすると、
ああ永遠に、青き不動を紡ぐ海よ、
昔ながらの欄干に倚る欧羅巴が私は恋しいよ。

私は見た! 天にある群島を! その島々の
狂おしいまでのその空は漂流う者に開放されてた、
底知れぬこんな夜々には眠っているのか、もう居ないのか
おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ!

だが、惟えば私は哭き過ぎた。曙は胸抉り、
月はおどろしく陽はにがかった。
どぎつい愛は心蕩(とろ)かす失神で私をひどく緊(し)めつけた。
おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまおう!

よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや
黒い冷たい林の中の瀦水(いけみず)で、其処に風薫る夕まぐれ
子供は蹲んで悲しみで一杯になって、放つのだ
五月の蝶かといたいけな笹小舟。

あゝ浪よ、ひとたびおまえの倦怠にたゆたっては、
棉船の水脈(みお)ひく跡を奪いもならず、
旗と炎の驕慢を横切りもならず、
船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこった。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※原作の歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改め、ルビは一部を省略しました。

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