中原中也が訳したランボー「盗まれた心」Le Cœur voléその4
「盗まれた心」 Le Cœur voléの原典には
三つの異なるテキストが存在し
それぞれのテキストには
それぞれ異なるタイトルが付けられています。
三つのタイトルとは、
「処刑された心臓(こころ)」
「道化師の心臓(こころ)」
「盗まれた心臓(こころ)」。
本文は同じ内容でありながら、
タイトルは主格「心臓(こころ)」の修飾語を
ある時に「処刑された」
ある時に「道化師の」
ある時に「盗まれた」と
送られた相手によって変化するバージョンを持っているのです。
「処刑された心臓(こころ)」は
1871年5月13日付けで
イザンバールに宛てた書簡に記された自筆の原稿、
「道化師の心臓(こころ)」は
1871年6月10日付けで
ポール・デメニーに宛てた書簡に記された自筆原稿、
「盗まれた心臓(こころ)」は
1871年10月に書かれたことが推定されている
ポール・ヴェルレーヌによる筆写原稿です。
中原中也が翻訳に使ったテキストは
第2次ペリション版で
ヴェルレーヌの筆写原稿を採用していますから
タイトルは「盗まれた心臓(こころ)」です。
いずれも1871年に書かれていますが
この年に起こったパリ・コミューンの状況を反映していて
宛てた相手それぞれに
異なったタイトルをつけたものと見られているのです。
書簡を書いた時のパリ・コンミューンが
解放区であったか
それとも、労働者の敗北が決まっていた時だったかによって
詩(タイトル)に変化を及ぼし
詩の解釈にも相違を生んでいます。
どのバージョンにしたって
この詩はランボーのパリ・コンミューン体験をモチーフにしたものと見られ
3月18日に成立し
5月28日に崩壊したとされているコンミューンを
ランボーがどのように体験したか、
あるいは、しなかったかを含めて
パリで書いたのか、シャルルビルで書いたのか、などの問いに答える
さまざまな説が飛び交います。
どの制作日であっても
どれほどの距離を置いていたかの判断の相違はあるものの
パリ・コンミューンという歴史の只中に
ランボーが入り込んだことは間違いないことで、
「自由の女神と美神ヴィーナス」を夢に描いて
脱出を試みようとしていた片田舎シャルルビルの青年が
世界史の表舞台へと
突如、アンガジエ(参加)してしまったことは確実です。
詩は
大衆革命の動乱の最中に、
期せずして、性的な暴力にさらされた経験を歌ったものとする解釈や
「見者の美学」に立とうとする高揚と挫折を歌ったものとする解釈など、
諸説紛々としていますが
原色めくるめく明るい光に満ちたトーンは消え失せ
処刑された、とも、
道化師の魂を装った、とも、
盗まれてしまった、とも言えるランボーの
心臓の鼓動の暗鬱な響きだけが伝わってくるかのようです。
どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。
というエンディングは、
答えを見つけられないで
途方に暮れているランボーの立ち姿ですが
このどん底は
やがて生まれる「酔いどれ船」の
絢爛たる冒険譚への序章の位置にあるものであるのを知れば
ややほっとした気持ちにもなれるというものです。
大岡昇平の回想は、
中原中也が身を置いていた
花園アパートの青山二郎のサロンにも
「ランボーという事件」が飛び火していてことを明らかにしているのですが
このサロンに出入りしていた文士や評論家たちは、
この「盗まれた心」を巡って
どのような会話を交わしていたものでしょうか。
もはやそれは想像する以外になく
大岡昇平の回想はこの点でも
貴重というほかにいいようがありません。
*
盗まれた心
私の悲しい心は船尾に行つて涎を垂らす、
私の心は安い煙草にむかついてゐる。
そしてスープの吐瀉(げろ)を出す、
私の悲しい心は船尾に行つて涎を垂らす。
一緒になつてげらげら笑ふ
世間の駄洒落に打ちのめされて、
私の悲しい心は船尾に行つて涎を垂らす、
私の心は安い煙草にむかついてゐる!
諷刺詩流儀の雑兵気質の
奴等の駄洒落が私を汚した!
舵の処(とこ)には壁画が見える
諷刺詩流儀の雑兵気質の。
おゝ、玄妙不可思議の波浪よ、
私の心を浚ひ清めよ、
諷刺詩流儀の雑兵気質の
奴等の駄洒落が私を汚した。
奴等の噛煙草(たばこ)が尽きたとなつたら、
どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。
それこそ妙な具合であらうよ、
奴等の煙草が尽きたとなつたら。
私のお腹(なか)が跳び上るだらう、
それで心は奪回(かへ)せるにしても。
奴等の噛煙草Z(たばこ)が尽きたとなつたら、
どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。
(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)
※ ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
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