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2012年2月 6日 (月)

中原中也が訳したランボー「盗まれた心」Le Cœur voléその3

大岡昇平が「大嫌い」といい
「詩人の慣用句」と断じた「よ」は、

おゝ、玄妙不可思議の波浪よ、
私の心を浚ひ清めよ、

どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。
それこそ妙な具合であらうよ、

どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。

――の3度、登場しますが、
どの場合も、詩の自然な流れに沿っています。

そもそも

おゝ、玄妙不可思議の波浪よ、
私の心を浚ひ清めよ、

と、歌われる「盗まれた心」第2連は
なにやら「安い煙草」にむかついた私がゲロを吐き
下品極まる駄洒落に汚れた心を歌った第1連を受けて
その汚れてしまった心を洗い流し清めておくれと
祈り懇願する気持ちを歌ったもので
呼びかけの「よ」として必須の措辞といえるものです。

これを「大嫌い」と言うのは勝手というものですが
それは詩の評価ではなく
嫌悪感の表明ですから
もしも、それが表明されたのでしたら
中原中也が怒っても当然で
喧嘩を売っているのが大岡昇平か中也中也かのどちらかは明白です。

70歳になってまで
こんなふうに表白する大岡昇平の
大作家としての「上から目線」は
そのまま昭和11年、大岡27歳の血気盛ん振りに通じていることが想像されますが
これでは詩人のプライドなんてあったものではなく
「玩具の賦」で詩人が展開した
「遊び心のない」
「玩具の楽しみを知らない」
プロザイックな立場とは
ますます遠ざかっていく詩人の立場が
痛いほどに見えてくるというものです。

花園アパート時代の中原中也に
どことはなく沈んだ感じがあり
昭和10年春には
市谷へ転居する詩人ですが
ここでも「私はその日人生に、椅子を失くした」と
遠い日に歌ったまんまの詩人がいるような気がしてなりません。

(つづく)

 *
 盗まれた心

私の悲しい心は船尾に行つて涎を垂らす、
私の心は安い煙草にむかついてゐる。
そしてスープの吐瀉(げろ)を出す、
私の悲しい心は船尾に行つて涎を垂らす。
一緒になつてげらげら笑ふ
世間の駄洒落に打ちのめされて、
私の悲しい心は船尾に行つて涎を垂らす、
私の心は安い煙草にむかついてゐる!

諷刺詩流儀の雑兵気質の
奴等の駄洒落が私を汚した!
舵の処(とこ)には壁画が見える
諷刺詩流儀の雑兵気質の。
おゝ、玄妙不可思議の波浪よ、
私の心を浚ひ清めよ、
諷刺詩流儀の雑兵気質の
奴等の駄洒落が私を汚した。

奴等の噛煙草(たばこ)が尽きたとなつたら、
どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。
それこそ妙な具合であらうよ、
奴等の煙草が尽きたとなつたら。
私のお腹(なか)が跳び上るだらう、
それで心は奪回(かへ)せるにしても。
奴等の噛煙草Z(たばこ)が尽きたとなつたら、
どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より)
※ ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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