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2012年3月 5日 (月)

中原中也が訳したランボー「酔ひどれ船」Bateau ivreその10

中原中也の「酔ひどれ船」Bateau ivreの翻訳は

第1次形態 「日本歌人」昭和10年(1935)1月13日制作(推定)
第2次形態 ①草稿 昭和10年11~12年(推定)
        ②「ランボオ詩抄」昭和10年12月~同11年(1936)6月制作(推定)
第3次形態 「ランボオ詩集」昭和11年6月~同12年8月28日(推定)
(「新編中原中也全集 第3巻 翻訳解題篇」より)

――という経過をたどっています。

「大正13年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ」と書いてから
発表するに足ると納得できた翻訳ができるまでに
10年以上の時間が流れていました。

この間、中原中也が
「見者(ボワイヤン)の思想」とか「見者の詩論」とか呼ばれているコンセプトに
どのように接触したのかといえば
小林秀雄のランボー論がすぐさま浮かんでくるのですが
こればかりではなく
ジャン・マリイ・キャレの著作「アルチュール・ランボオの文学生活の手紙」の原典に
中也自身が実際に当たっている節が推測できるのは
「ドラエー宛書簡1873年5月」
「ヴェルレーヌ宛書簡1873年7月4日」
「同1873年7月7日」
「パンヴィル宛1870年5月24日」の4篇を
キャレのこの原典から翻訳しているという事実があるからです。

見者の詩論が書かれた書簡の
1871年5月13日付けイザンバール宛のもの
5月15日付けのドメニーへ宛のもの
この2篇こそ翻訳しませんでしたが
ドラエー宛、
ヴェルレーヌ宛、
パンヴィル宛と計4篇の書簡を
同一の原典の中から翻訳しているのです。
つまり
見者(ボワイヤン)の思想について
中原中也が目を通さなかったはずはない、ということを
このことは意味しています。

いうまでもなく
書簡とは、作品以外の第一級資料です。

ちなみに
「ドラエー宛書簡1873年5月」は、
「紀元」昭和9年新年小説号(昭和9年1月1日発行)
「ヴェルレーヌ宛書簡1873年7月4日」も同号、
「同1873年7月7日」は、「苑」第二冊(昭和9年4月1日発行)
「パンヴィル宛書簡1870年5月24日」は
「ヴァリエテ」第6号(昭和9年6月5日発行)にそれぞれ発表されました。
制作は、いずれも発行日の3か月前という推定です。

「酔ひどれ船」の発表は
どの形態も昭和10年以降ですから
いずれも、詩人が「ボワイヤンの思想」を知って後のことになります。
以上は、あくまで推測であることを断っておきます。

 *

 酔ひどれ船

私は不感な河を下って行ったのだが、
何時しか私の曳船人等は、私を離れているのであった、
みれば罵り喚く赤肌人等が、彼等を的にと引ッ捕らえ、
色とりどりの棒杭に裸のままで釘附けていた。

私は一行の者、フラマンの小麦や英綿(えいめん)の荷役には
とんと頓着していなかった
曳船人等とその騒ぎとが、私を去ってしまってからは
河は私の思うまま下らせてくれるのであった。

私は浪の狂える中を、さる冬のこと
子供の脳より聾乎(ぼつ)として漂ったことがあったっけが!
怒涛を繞(めぐ)らす半島と雖も
その時程の動乱を蒙(う)けたためしはないのであった。

嵐は私の海上に於ける警戒ぶりを讃歎した。
浮子(うき)よりももっと軽々私は浪間に躍っていた
犠牲者達を永遠にまろばすという浪の間に
幾夜ともなく船尾(とも)の灯に目の疲れるのも気に懸けず。

子供が食べる酸い林檎よりもしむみりと、
緑の水はわが樅の船体に滲むことだろう
又安酒や嘔吐の汚点(しみ)は、舵も錨も失せた私に
無暗矢鱈に降りかかった。

その時からだ、私は海の歌に浴した。
星を鏤(ちりば)め乳汁のような海の、
生々しくも吃水線は蒼ぐもる、緑の空に見入ってあれば、
折から一人の水死人、思い深げに下ってゆく。

其処に忽ち蒼然色(あおーいいろ)は染め出され、おどろしく
またゆるゆると陽のかぎろいのその下を、
アルコールよりもなお強く、竪琴よりも渺茫と、
愛執のにがい茶色も漂った!

私は知っている稲妻に裂かれる空を竜巻を
打返す浪を潮流を。私は夕べを知っている、
群れ立つ鳩にのぼせたような曙光を、
又人々が見たような気のするものを現に見た。

不可思議の畏怖に染みた落日が
紫の長い凝結(こごり)を照らすのは
古代の劇の俳優か、
大浪は遠くにはためき逆巻いている。

私は夢みた、眩いばかり雪降り積った緑の夜を
接唇(くちずけ)は海の上にゆらりゆらりと立昇り、
未聞の生気は循環し
歌うがような燐光は青に黄色にあざやいだ。

私は従った、幾月も幾月も、ヒステリックな
牛小舎に似た大浪が暗礁を突撃するのに、
もしかの光り耀うマリアの御足が
お望みとあらば太洋に猿轡かませ給うも儘なのを気が付かないで。

船は衝突(あた)った、世に不可思議なフロリダ州
人の肌膚の豹の目は叢なす花にいりまじり、
手綱の如く張りつめた虹は遙かの沖の方
海緑色の畜群に、いりまじる。

私は見た、沼かと紛う巨大な魚梁(やな)が沸き返るのを
其処にレヴィヤタンの一族は草に絡まり腐りゆき、
凪の中心(もなか)に海水は流れそそぎ
遠方(おちかた)は淵を目がけて滝となる!

氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠の空、
褐色の入江の底にぞっとする破船の残骸、
其処に大きな蛇は虫にくわれて
くねくねの木々の枝よりどす黒い臭気をあげては堕ちていた!

子供等にみせたかったよ、碧波に浮いている鯛、
其の他金色の魚、歌う魚、
漚(オウ)の花は私の漂流を祝福し、
えもいえぬ風は折々私を煽(おだ)てた。

時として地極と地帯に飽き果てた殉教者・海は
その歔欷(すすりなき)でもって私をあやし、
黄色い吸口のある仄暗い花をばかざした
その時私は膝つく女のようであった

半島はわが船近く揺らぎつつ金褐の目の
怪鳥の糞と争いを振り落とす、
かくてまた漂いゆけば、わが細綱を横切って
水死人の幾人か後方(しりえ)にと流れて行った……

私としてからが浦々の乱れた髪に踏み迷い
鳥も棲まわぬ気圏(そら)までも颶風によって投げられたらば
海防艦(モニトル)もハンザの船も
水に酔った私の屍骸(むくろ)を救ってくれはしないであろう、

思いのままに、煙吹き、紫色の霧立てて、
私は、詩人等に美味しいジャミや、
太陽の蘚苔(こけ)や青空の鼻涕(はな)を呉れる
壁のように赤らんだ空の中をずんずん進んだ、

電気と閃く星を著け、
黒い海馬に衛られて、狂える小舟は走っていた、
七月が、丸太ン棒で打つかとばかり
燃える漏斗のかたちした紺青の空を揺るがせた時、

私は慄えていた、五十里の彼方にて
ベヘモと渦潮の発情の気色(けはい)がすると、
ああ永遠に、青き不動を紡ぐ海よ、
昔ながらの欄干に倚る欧羅巴が私は恋しいよ。

私は見た! 天にある群島を! その島々の
狂おしいまでのその空は漂流う者に開放されてた、
底知れぬこんな夜々には眠っているのか、もう居ないのか
おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ!

だが、惟えば私は哭き過ぎた。曙は胸抉り、
月はおどろしく陽はにがかった。
どぎつい愛は心蕩(とろ)かす失神で私をひどく緊(し)めつけた。
おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまおう!

よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや
黒い冷たい林の中の瀦水(いけみず)で、其処に風薫る夕まぐれ
子供は蹲んで悲しみで一杯になって、放つのだ
五月の蝶かといたいけな笹小舟。

あゝ浪よ、ひとたびおまえの倦怠にたゆたっては、
棉船の水脈(みお)ひく跡を奪いもならず、
旗と炎の驕慢を横切りもならず、
船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこった。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※原作の歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改め、ルビは一部を省略しました。

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