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2012年3月

2012年3月31日 (土)

中原中也が訳したランボー「カシスの川」La Rivière de Cassis

凡そ世上の所謂抒情詩は、贅肉と脂肪とで腐っている。

――と、小林秀雄が「ランボオの問題」の末尾に記したのは
昭和22年3月の「展望」誌上でしたから
中原中也が死去して10年を経過していますが
敗戦直後の記述かどうか
ひょっとすると
昭和初期に書いたものかもしれず
中原中也存命中の表白かもしれず
いや、中原中也が生きている時と死亡後を問わず
中原中也の抒情詩が意識されていないということはないであろう、
と、推察される一節です。

小林秀雄は
ランボーの唯一の抒情詩として「涙」を取り上げているのですが
中原中也の抒情詩がダブルイメージされていた可能性を否定できません。

ここは、しかし、このことを追究する場ではありませんから
先に進むことにします。

「カシスの川」La Rivière de Cassisは
1872年5月の制作と推定される
「後期韻文詩」に属する作品です。

百羽の烏が声もて伴(つ)れ添ふ……

――という、第1連第3行によって
すぐさま、「前期韻文詩」の「烏」が連想されるのは
自然の流れというものでしょう。

黒すぐりの実は
東京・銀座のこじゃれた飲み屋などで
すぐり酒として出されていたりしますし
百貨店や通販などでも流通していますからお馴染ですが
「赤黒い紫」は「どどめ」の色に似て
ランボーの生地シャルルヴィル近辺を流れるスモウ川の川辺に自生していたのを
散策中のランボーはよく見かけた風景で
これをモチーフにした詩、とか

「烏」に現れる
死んだ兵士の黒い血とのつながりを連想するという読み、とか
色々な鑑賞が行われているようです。
(「新編中原中也全集第3巻 翻訳・解題篇」)

中原中也の翻訳は
「紀元」の昭和8年11月号に初出で
同年9月の制作(推定)とされています。
これを第1次形態とし
「ランボオ詩集」に収録されたものが
第2次形態とされます。

「カシスの川」も
昭和3年に
大岡昇平へのフランス語授業の名目で行っていた
ランボー詩の翻訳に取りあげられた詩の一つで、
中原中也の担当だったと
大岡は記録しています。

この時の翻訳が
どの程度、形をとどめているのかは
わかりませんのは
「涙」などと同様です。

「涙」と同じくこの詩も
「音と色」に
ランボーの技が散りばめられているようですが
それらを十分に味わうには
フランス語原詩にあたるのがベストでしょう。

中原中也訳には

飛脚は矢来に何を見るとも
  なほも往くだらう元気に元気に。

――など、古き時代を感じさせる語彙を配するなどして
19世紀フランスの片田舎の素朴な田園風景が映し出され
それだけでも
ランボーの詩に迫っています。

烏は
ここでも
詩人の仲間うちです。

 *

 カシスの川

カシスの川は何にも知らずに流れる
  異様な谷間を、
百羽の烏が声もて伴(つ)れ添ふ……
  ほんによい天使の川波、
樅の林の大きい所作に、
  沢山の風がくぐもる時。

すべては流れる、昔の田舎や
  訪はれた牙塔や威儀張つた公園の
抗(あらが)ふ神秘とともに流れる。
  彷徨へる騎士の今は亡き情熱も、
此の附近(あたり)にして人は解する。
  それにしてもだ、風の爽かなこと!

飛脚は矢来に何を見るとも
  なほも往くだらう元気に元気に。
領主が遣はした森の士卒か、
  烏、おまへのやさしい心根(こころね)!
古い木片(きぎれ)で乾杯をする
  狡獪な農夫は此処より立去れ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年3月29日 (木)

中原中也が訳したランボー「涙」Larmeその3

これが、いつも具体世界との直接の取引に終始した彼が生涯に歌う事の出来た唯一の抒情詩であった。

何故かと言うと、彼が飢渇という唯一つの抒情の主題しか持っていなかったからである。感傷でもない、懐疑でもない、まさに抒情詩なのだが、あらゆる抒情詩の成立条件を廃棄した様に見えるその純粋さを前にしては、凡そ世上の所謂抒情詩は、贅肉と脂肪とで腐っている。

何の感情もないところから、一つの感情が現れて来る。殆ど虚無に似た自然の風景のなかから、一つの肉体が現れて来る。

彼は河原に身を横たえ、飲もうとしたが飲む術がなかった。彼は、ランボオであるか。どうして、そんな妙な男ではない。それは僕等だ、僕等皆んなのぎりぎりの姿だ。
(文春文庫「考えるヒント4」より)

――と、小林秀雄はランボーの「涙」を鑑賞するのですが、
鑑賞は激し、
呼吸は乱れはじめたところで打ち切られます。

そして、ランボーの死を記述し
クローデルがランボーの死を歌った詩を引用した後に、

僕の拙い訳が、読者がランボオを知る機縁又は彼を読む幾分の参考になれば幸いだと思っている。

――と、第三者のナレーションのような結語で
この論考を終えてしまうのです。

中原中也訳の「涙」Larmeと
小林秀雄訳とは
身の入れ方が
こんなにも異なります。

小林秀雄が
「地獄の一季節」を「文学」に連載を始めたのは
昭和4年10月発行の第1号から4回にわたりましたが
昭和5年に「地獄の季節」(白水社)として単刊発行します。
この時、「涙」や「朝の思い」を散文詩の形として訳出し、
昭和13年に岩波文庫から発行した時になって
各行を分けた韻文詩の形に改めました。

中原中也と大岡昇平がフランス語の「授業」を行っていた頃、
小林秀雄の「地獄の季節」の翻訳はどの程度進んでいたのか
昭和3年から5年あたりにかけての
中原中也、小林秀雄、大岡昇平の交流はどんなだったか――

すぐさま
昭和3年3月、小林秀雄の紹介で大岡昇平を知る。
同5月、小林が長谷川泰子との生活に終止符を打ち奈良へ去る。泰子はその後もたびたび中也と会うが、二人は再び同居することはなかった。
昭和4年4月、「白痴群」創刊、
昭和5年4月、「白痴群」廃刊
――といった「事件」が年譜から拾えますが

年譜をよく見ると
昭和4年末には、

この年から、ヴェルレーヌ「トリスタン・コルビエール」(「社会及国家」)など、翻訳の発表始まる。この年、「ノート翻訳詩」の使用開始。

――とあるのにぶつかります。

「長谷川泰子という事件」と
「ランボーという事件」が
からまりあって進行していたことが
ぼんやりと見えてくるのですが
あくまでもぼんやりとしています。

ランボーが
「言葉の錬金術」の最初の頃の「試作」として挙げた「涙」、
様々な眩暈(げんうん)を定着した詩として書いた「涙」に関して
その翻訳にあたった中原中也と大岡昇平は
どのような会話を交わしたことでしょうか
小林秀雄からのサジェスチョンがなにがしかあったでしょうか
「地獄の季節」の一節を念頭に置きながら
「涙」は翻訳されたでしょうか。

鳥や獣の群れや、村人たちから遠ざかり
とある草叢(くさむら)にしゃがんで酒を飲む
ヘイゼルナッツの木がそよぎ
生ま温かい午後に、霧が立ち込めている

……

これらの詩句を
原語の朗読で聴いてみると
行というよりは連が一塊(ひとかたまり)に発声されていて
韻律はその中に溶け込んでいるのが分かります

その上に「意味」が絡まり
イメージが飛び交いはじめれば
詩人ランボーがもくろんだ「めまい」が
読み手にも伝染していくような時が訪れるかもしれません。

 *

 涙

鳥たちと畜群と、村人達から遐く離れて、
私はとある叢林の中に、蹲んで酒を酌んでゐた
榛の、やさしい森に繞られて。
生ツぽい、微温の午後は霧がしてゐた。

かのいたいけなオワズの川、声なき小楡、花なき芝生、
垂れ罩めた空から私が酌んだのは――
瓢(ひさご)の中から酌めたのは、味もそつけもありはせぬ
徒に汗をかゝせる金の液。

かくて私は旅籠屋(はたごや)の、ボロ看板となつたのだ。
やがて嵐は空を変へ、暗くした。
黒い国々、湖水々々(みづうみみづうみ)、竿や棒、
はては清夜の列柱か、数々の船著場か。

樹々の雨水(あめみづ)砂に滲(し)み
風は空から氷片を、泥池めがけてぶつつけた……
あゝ、金、貝甲の採集人かなんぞのやうに、
私には、酒なぞほんにどうでもよいと申しませう。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年3月28日 (水)

中原中也が訳したランボー「涙」Larmeその2

ランボーの「涙」Larmeは
「地獄の季節」にランボー自らが引用していることでも広く知られていますが、
中原中也は「地獄の季節」を訳していませんから
小林秀雄訳で読んでみることにします。

鳥の群れ、羊の群れ、村の女たちから遠ざかり、
はしばみの若木の森に取りまかれ、
午後、生ぬるい緑の霞に籠められて、
ヒースの生えたこの荒地に膝をつき、俺は何を飲んだのか。

この稚(おさな)いオアーズの流れを前にして、俺に何が飲めただろう。
――楡(にれ)の梢に声もなく、芝草は花もつけず、空は雲に覆われた。――
この黄色い瓠(ひさご)に口つけて、ささやかな棲家(すみか)を遠く愛しみ、
俺に何が飲めただろう。ああ、ただ何やらやりきれぬ金色の酒。

俺は、剥げちょろけた旅籠屋(はたごや)の看板となった。
――驟雨(しゅうう)が来て空を過ぎた。
日は暮れて、森の水は清らかな砂上に消えた。
『神』の風は、氷塊をちぎりちぎっては、混沌にうっちゃった。

泣きながら、俺は黄金を見たが、――飲む術はなかった。

(岩波文庫「地獄の季節」2005年10月5日第68刷より)

これが「地獄の季節」中「錯乱Ⅱ」の
「言葉の錬金術」に引用されている「涙」を
小林秀雄が翻訳したものです。

最初は試作だった。俺は沈黙を書き、夜を書き、描き出す術もないものを控えた。俺は様々な眩暈(げんうん)を定着した。

――と書かれたのに続けて、
この詩が引用され、
連続して「朝の思い」も引用されます。

さらに
「一番高い塔の歌」
「飢」
「永遠」
「幸福」をランボーは引用するのですが
「言葉の錬金術」の章は
これらの詩との決別を告げて終ります。

ランボーは記します。

過ぎ去った事だ。今、俺は美を前にして御辞儀の仕方を心得ている。

――と。

昭和23年3月、雑誌「展望」誌上に
小林秀雄は「ランボウの問題」(後に「ランボオⅢ」と改題)を発表、
最後のランボー論を披瀝します。

その結末部では、
ランボーがアフリカで撮った写真に触れて
アデン発のランボーの書簡を引用、

「嘗ては、自ら全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺が、今、務めを捜さうと、この粗ら粗らしい現実を抱きしめようと、土に還る」と「地獄の季節」で書いた彼は、今、本当の地獄を抱いた様である。

――と、結論のようなものを表明して後、

彼が、故郷のオアーズの流れを前にして歌った歌が、僕の心を横切る。

――として、「涙」の全文を引用するのです。
「僕」とは、言うまでもなく、小林のことです。

そして、

これが、いつも具体世界との直接の取引に終始した彼が生涯に歌う事の出来た唯一の抒情詩であった。

――と、読み(=解釈・鑑賞)を入れます。

そして、続けます。

何故かと言うと、彼が飢渇という唯一つの抒情の主題しか持っていなかったからである。感傷でもない、懐疑でもない、まさに抒情詩なのだが、あらゆる抒情詩の成立条件を廃棄した様に見えるその純粋さを前にしては、凡そ世上の所謂抒情詩は、贅肉と脂肪とで腐っている。

何の感情もないところから、一つの感情が現れて来る。殆ど虚無に似た自然の風景のなかから、一つの肉体が現れて来る。

彼は河原に身を横たえ、飲もうとしたが飲む術がなかった。彼は、ランボオであるか。どうして、そんな妙な男ではない。それは僕等だ、僕等皆んなのぎりぎりの姿だ。
(文春文庫「考えるヒント4」より)

――と、記すのです。

小林秀雄の呼吸が
揺れているような記述です。

 *

 涙

鳥たちと畜群と、村人達から遐く離れて、
私はとある叢林の中に、蹲んで酒を酌んでゐた
榛の、やさしい森に繞られて。
生ツぽい、微温の午後は霧がしてゐた。

かのいたいけなオワズの川、声なき小楡、花なき芝生、
垂れ罩めた空から私が酌んだのは――
瓢(ひさご)の中から酌めたのは、味もそつけもありはせぬ
徒に汗をかゝせる金の液。

かくて私は旅籠屋(はたごや)の、ボロ看板となつたのだ。
やがて嵐は空を変へ、暗くした。
黒い国々、湖水々々(みづうみみづうみ)、竿や棒、
はては清夜の列柱か、数々の船著場か。

樹々の雨水(あめみづ)砂に滲(し)み
風は空から氷片を、泥池めがけてぶつつけた……
あゝ、金、貝甲の採集人かなんぞのやうに、
私には、酒なぞほんにどうでもよいと申しませう。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2012年3月27日 (火)

中原中也が訳したランボー「涙」Larme

中原中也訳の「涙」Larmeは
昭和3年に
大岡昇平が中原中也からフランス語を習ったとき
中原中也が担当した「飾画」の中の
テキストとして例示されている作品です。

彼は「眩惑」「涙」「などを、私は「谷間の睡眠者」「食器戸棚」「夕べの辞」「フォーヌの顔」「鳥」「盗まれた心」を訳し、二人で検討した。

――と、大岡昇平は
タイトル名を挙げているのですから
かなりはっきりした記憶にあったものに違いありません。

「涙」を中原中也は
「紀元」」の昭和11年5月号に発表しました。
これが初出で第1次形態となりますが
「ランボオ詩集」(昭和12年)に収められた第2次形態は
ごくわずかな修正が加えられただけです。

昭和3年の翻訳に
大岡昇平の訳(意見)が取り入れられている可能性は
否定できませんが、
昭和11年、12年の決定稿に
どのように生かされているのかは
大岡昇平が死亡して後、
いっそう手掛かりを無くしています。

遐(とほ)く離れて
蹲(しやが)んで
やさしい森に繞(めぐ)られて
垂れ罩(こ)めた空

――これらの漢字の使用

生ツぽい、微温の午後は霧がしてゐた。
味もそつけもありはせぬ
ボロ看板となつたのだ。

湖水々々(みづうみみづうみ)、

あゝ、金、貝甲の採集人かなんぞのやうに、
私には、酒なぞほんにどうでもよいと申しませう。

――これらの口調・口ぶりに
ランボーの翻訳に取り組みはじめた頃の
中原中也が感じられるのは
「いじくり回せば死ぬ」と
詩心のツボを心得ていた詩人を見るようで
なんとも面白いところです。

「涙」は
「地獄の季節」の「言葉の錬金術」に引用されていることでも広く知られています。

(つづく)

 *

 涙

鳥たちと畜群と、村人達から遐く離れて、
私はとある叢林の中に、蹲んで酒を酌んでゐた
榛の、やさしい森に繞られて。
生ツぽい、微温の午後は霧がしてゐた。

かのいたいけなオワズの川、声なき小楡、花なき芝生、
垂れ罩めた空から私が酌んだのは――
瓢(ひさご)の中から酌めたのは、味もそつけもありはせぬ
徒に汗をかゝせる金の液。

かくて私は旅籠屋(はたごや)の、ボロ看板となつたのだ。
やがて嵐は空を変へ、暗くした。
黒い国々、湖水々々(みづうみみづうみ)、竿や棒、
はては清夜の列柱か、数々の船著場か。

樹々の雨水(あめみづ)砂に滲(し)み
風は空から氷片を、泥池めがけてぶつつけた……
あゝ、金、貝甲の採集人かなんぞのやうに、
私には、酒なぞほんにどうでもよいと申しませう。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2012年3月26日 (月)

中原中也が訳したランボー「静寂」Silenceその2

中原中也訳の「静寂」Silenceは
「書物」昭和9年(1934年)1月号に初出しましたから
制作は昭和8年10から11月の間と推定されますが
これは第2次形態とされます。

昭和3年(1928年)制作と推定される草稿が残っているためで
こちらが第1次形態とされます。
「ランボオ詩集」に掲載されたものが
第3次形態になります。
(「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・解題篇」より)

第1次形態の草稿は
第4連の最終行と第5連だけが記された
不完全なものですが
この草稿こそ
大岡昇平の回想を裏づける資料の一つにもなっています。

大岡は昭和3年に
中原中也からフランス語を習ったことがあり
その時を回想して次のように記しています――

個人的な回想を記すなら、私は昭和三年、二か月ばかり中原からフランス語を習った。飲み代を家から引き出すための策略だが、「ランボー作品集」をテクストに、一週間の間に各自、一篇を訳して見せ合った。私の記憶では中原が「飾画」を、私が「初期詩篇」を受持った。彼は「眩惑」「涙」「などを、私は「谷間の睡眠者」「食器戸棚」「夕べの辞」「フォーヌの顔」「鳥」「盗まれた心」を訳し、二人で検討した。「盗まれた心」は中原が昭和5年1月「白痴群」第5号に訳載したヴェルレーヌ「ポーヴル・レリアン」の中に含まれている。
(大岡昇平「中原中也」所収「『中原中也全集』解説」より)

――と。

ここに現れる「眩惑」と「静寂」が
同種の原稿用紙に書かれてあることから
昭和3年の制作が推定される根拠になっています。

「静寂」は
中原中也が翻訳に取り組みはじめた
初期の頃の制作ということになります。

大岡昇平は
この回想の前に――

昭和3年に私は中原と知り合ったわけだが、その頃から漠然とランボーの韻文詩を全訳しようという意図を持っていた。小林秀雄も「地獄の季節」「飾画」を訳す意図があり、一部ははじめられていた(「恥」「四行詩」などの訳載が残っている)。偽作「失われた毒薬」を小林は多分大正15年中に中原に渡している。

――と記していますから
長谷川泰子をめぐる中原中也と小林秀雄の
「奇怪な三角関係」が
ランボーの翻訳というシーンで
かたや(中原中也)、韻文へ
かたや(小林秀雄)、散文へと
分化していく前夜の様子が伝わってこようというものです。

この頃、小林秀雄は
ランボーの韻文詩の翻訳に
なんらためらいもなく取り組んでいました。

上京してちょうど3年。
中原中也は大岡昇平を
小林秀雄の紹介で知り
やがて、飲み代を捻出するための
フランス語の勉強会を行う「仲間」になっていたのです。

大岡も
親から金をくすねたのでしょうか?
アルバイトをしていたわけでもなさそうなので
中原中也流の「錬金術」を教わったということでしょうか?

「静寂」を
このフランス語授業の中から生まれたことと知りながら読むと
ランボーは
また格別な味わいがしてきます。

アカシヤの花が煙る樹下で
バラモン僧のように聴くのだ。
4月に、櫂(かい)は
鮮やかな緑よ!

大岡昇平が
「それは、違うなあ」と
文句を言うのが聞えてくるようですが
「おれの訳にケチをつけられてたまるか」と
中也は取り合いません。

あれから7年。
歳時代かが流れ……

中原中也の決定稿は
「書物」に発表されました。

ベルレーヌとの会話が
「イリュミナシオン」に反映されているのであれば
中原中也の訳には
ベルレーヌの匂いがしないでもありません。

いや!
ベルレーヌの影が添う
ランボーの詩を
中原中也は
抉(えぐ)り取るように
訳してみせます。

大岡昇平は
草葉の陰でこれを読み
微笑んでいますか――
脱帽していますか――

 *
 静寂

アカシヤのほとり、
波羅門僧の如く聴け。
四月に、櫂は
鮮緑よ!

きれいな靄の中にして
フヱベの方(かた)に! みるべしな
頭の貌(かたち)が動いてる
昔の聖者の頭のかたち……

明るい藁塚はた岬、
うつくし甍をとほざけて
媚薬(びやく)取り出しこころみし
このましきかな古代人(びと)……

さてもかの、
夜(よる)の吐き出す濃い霧は
祭でもなし
星でなし。

しかすがに彼等とどまる
――シシリーやアルマーニュ、
かの蒼ざめ愁(かな)しい霧の中(うち)、
粛として!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。第2連第2行の「ヱ」は、原作では小文字です。編者。

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2012年3月25日 (日)

中原中也が訳したランボー「静寂」Silence

飾画篇Les Illuminationsは
「イリュミナシオン」と訳されることもある
「ランボー後期」に属する(と考えられている)韻文詩篇のタイトルです。
「後期韻文詩」といわれているものとは異なり
ランボー自身が「イリュミナシオン」とネーミングした草稿があり
その中の幾つかが
ベルレーヌや他の人の手に渡った末、
編集者ギュスタブ・カーンが入手し
ヴォーグ誌に発表されるという経過をたどりました。
発表は1886年のことでした。

1872年から1875年にかけて制作されたものと推定されていますが
研究は諸説があり、断定できません。

一つの説を挙げれば――

レガメーのアルバムには数点のデッサンがつけ加わったが、伝記のためには第一級の資料である。

「無口な仲間」(ランボーのこと。編者)は、堂々たる山高帽をかぶって、椅子にかけて眠っているところが描かれている。

ヴェルレーヌはソクラテス風の頭の恰好で姿を見せているし、また、ぼろを着た二人が、ひとりのお巡りの軽蔑的なまなざしを浴びながら街を散歩している図もみえる。

彼らは、カルチエ・ラタン時代のもう一人の旧友、コミューン派の有名な人物であるユージェーヌ・ヴェルメルシュにも会ったが、この人物はちょうど結婚しようというところで、わびしいハウランド街の独身部屋を彼らに明け渡してくれた。ヴェルメルシュを通じて、彼らは、ジュール・アンドリュー、リサガレー、カミーユ・バレール、マチュズヴィック等の、非常に活動的だが、警察からは監視されているグループを形作っていた亡命者たちを識った。

二人の生活は、はじめのうちは楽しみがなくもなかった。フランス風カフェ、ハイド・パーク、地下鉄、場末町、テムズ河のドック、マダム・タッソーの蝋人形館、ナショナル・ギャラリー等、彼らはなんでも見、なんでも知ろうとした。夜は夜で、芝居とか、講演会とか、彼らが覗かない催し物はひとつもないほどだった。

ランボーは観察し、書きとめる。

たとえば、「水晶をはりつめた灰色の空のかずかず」とか、「メトロポリタン」とか、「喪に服した大海原の作りうるこのうえなく陰惨な煙霧でかたどられた空」とか、それに、当時ケンシントン地区で開かれていて、マラルメが1872年7月20日号の「イリュストラッション」誌で報告している万国博覧会に多分想を得た、「イリュミナション」中のあの驚くべき「街々」。

ヴェルレーヌのほうは、妻の思い出をもとに、もの憂い詩篇「言葉なき恋歌」を作っていた。妻の愚痴をこぼしながらも、失われた祖国を惜しむように惜しんでいるのである。
(筑摩叢書 マタラッソー、プティフィス、粟津則雄・渋沢孝輔訳「ランボーの生涯」より)

――というように、
1872年9月10日にベルレーヌの旧い友人、
画家フェリックス・レガメーを訪問した事実を通じて説明されます。
ランボーとベルレーヌのロンドン行の最中に
「イリュミナシオン」の中の幾つかの詩は書かれたというものです。

ベルレーヌの「言葉なき恋歌」もこの旅の中で書かれた、というわけですが
これが真実であるなら
「イリュミナシオン」の誕生を物語る
極めて分かりやすい構図(デッサン)ということになります。

小林秀雄が自ら訳した「地獄の季節」の後記の中で――

「地獄の季節」が書かれたのは、ランボオ自身が、原稿に付記している通り、1873年の4月から8月まで(この間にピストル事件がある)の間であるが「飾画」の方は、書かれた時期がはっきりわかっておらず、大体1872年中の作と、研究家たちに推定されていた。

近年ラコストの研究、(Henry de Bouillane de Lacoste;Rimbaud et le Problème des Illumination,1949)によって、従来誤りとして、研究家らに顧みられなかったヴェルレーヌの証言の方が正しいとする説、つまり「飾画」は1873年―75年の作とする説が現れた。

――と書いたのは、
1957年9月の日付けのある岩波文庫版でのことですが
この考えを、1970年4月の改版でも、変えていません。

中原中也は
小林秀雄が「Les Illuminations」を
「飾画篇」と翻訳したのに倣(なら)いました。

中原中也訳の「静寂」Silenceは
第2次ベリション版「ランボオ詩集」「飾画篇」の冒頭詩篇で
もともとはタイトルのない作品でしたが
ペテルヌ・ベリションの独断で
「Silence」の題名がつけられました。

 *
 静寂

アカシヤのほとり、
波羅門僧の如く聴け。
四月に、櫂は
鮮緑よ!

きれいな靄の中にして
フヱベの方(かた)に! みるべしな
頭の貌(かたち)が動いてる
昔の聖者の頭のかたち……

明るい藁塚はた岬、
うつくし甍をとほざけて
媚薬(びやく)取り出しこころみし
このましきかな古代人(びと)……

さてもかの、
夜(よる)の吐き出す濃い霧は
祭でもなし
星でなし。

しかすがに彼等とどまる
――シシリーやアルマーニュ、
かの蒼ざめ愁(かな)しい霧の中(うち)、
粛として!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。第2連第2行の「ヱ」は、原作では小文字です。編者。

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2012年3月24日 (土)

中原中也が訳したランボー「烏」Les Corbeauxその4

中原中也訳の「烏」Les Corbeauxが発表されたのは
第2次「四季」の昭和10年(1935年)4月号――。

制作は、この2か月前として
同年2月頃と推定されますが
この頃、中原中也は
建設社版「ランボオ全集」のために
帰省期間を長くして
山口・湯田温泉にとどまり
懸命にランボーの翻訳に取り組んでいた時期でした。

出来立て「ホヤホヤ」の「烏」を
「四季」に発表したことになります。

この年、1935年の正月は
生れたばかりの長男・文也や妻や
家族・親戚・地縁の中にあり
詩人が生まれ育った土地で過ごした上に
前年末には第一詩集「山羊の歌」を出版して
「公私ともに」充実した日々でした。

その中で
「ランボオ全集」全3巻のうちの1巻を占める
ランボーの韻文詩の翻訳に取り組んでいたことになります。
「烏」はその中から生まれた成果でした。

「四季」の同じ号に発表した
ランボーの「オフェリア」は
中原中也の翻訳の中でも傑出した作品ですが
これも同じ時期に生み出された成果でした。

さびれすがれた
御告(みつげ)の鐘
見渡すかぎり花もない
厳(いか)しい
巣(ねぐら)
黄ばんだ河
通行人(とほるひと)
しむみり
御空(みそら)
御身たち
しようこともない

語彙(ボキャブラリー)が豊富で
しかし、一つ一つを
ひねり出してきたような苦吟の跡は
感じられません。

滑らかというものでもありませんが
一つ一つの語が
ピンと立っているところは
他の詩と同様、変わりはありません。

キリスト教に親しかった詩人が
御告、御空、御身などと使う措辞(そじ)も
この詩(の翻訳)に生きています。

だからといって
安楽が生んだ成果とは言いません。
そんなこと言うつもりではありません。
ドメスティックな幸福の時間が
傑作を生んだなどということは言いません。

「昨日の死者」を悼むという原作を
他人事(ひとごと)ではないものと感じる詩人の魂は
日々培われていたはずのものです。

「五月の頬白見逃してやれよ」は、
森深くに住み慣れて
大きな世界へ出ることもできない
草地に生きざるを得ない
「しようこともない」ヤツらホオジロを
しかし、ふと見直してみる時があり
庇護してあげておくれよと
喪服の鳥に呼びかける詩(=ランボー)に
共鳴・共振している風があるのは
この帰郷のせいなのかもしれません。

1935年という年は
中原中也という詩人の活動の
何回目かのピークでした。

 *

 烏

神よ、牧場が寒い時、
さびれすがれた村々に
御告(みつげ)の鐘も鳴りやんで
見渡すかぎり花もない時、
高い空から降(お)ろして下さい
あのなつかしい烏たち。

厳(いか)しい叫びの奇妙な部隊よ、
木枯は、君等の巣(ねぐら)を襲撃し!
君等黄ばんだ河添ひに、
古い十字架立つてる路に、
溝に窪地に、
飛び散れよ、あざ嗤(わら)へ!

幾千となくフランスの野に
昨日の死者が眠れる其処に、
冬よ、ゆつくりとどまるがよい、
通行人(とほるひと)等がしむみりせんため!
君等義務(つとめ)の叫び手となれ、
おゝわが喪服の鳥たちよ!

だが、あゝ御空(みそら)の聖人たちよ、夕暮迫る檣(マスト)のやうな
檞の高みにゐる御身たち、
五月の頬白見逃してやれよ
あれら森の深みに繋がれ、
出ること叶はず草地に縛られ、
しようこともない輩(ともがら)のため!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。原作は最終行「しよう」の「よ」に「ママ」のルビがあります。編者。

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2012年3月23日 (金)

中原中也が訳したランボー「烏」Les Corbeauxその3

中原中也訳の「烏」Les Corbeauxが発表されたのは
第2次「四季」の昭和10年(1935年)4月号ですが
この頃の中原中也の雑誌への発表活動と
ランボーの翻訳への取り組みと
主な身辺状況(■で示す)とを
年譜でざっと見ておきましょう。

年譜に
雑誌の名前が現れるのは
「白痴群」が廃刊した昭和5年(1930年)からしばらく経った
昭和8年(1933年)5月のことです。

1933年
5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人雑誌「紀元」に加わる。
6月、「春の日の夕暮」を「半仙戯」に発表。同誌に翻訳などの発表続く。
7月、「帰郷」他2篇を「四季」に発表。
9月、「紀元」創刊号に「凄まじき黄昏」「秋」。以降定期的に詩、翻訳を同誌に発表。
12月、■遠縁の上野孝子と結婚。
同月、三笠書房より「ランボオ詩集<学校時代の詩>」を刊行。

1934年
「紀元」「半仙戯」への詩の発表が続く。「四季」「鷭」「日本歌人」などにも多数発表。
9月、建設社の依頼でランボーの韻文詩の翻訳を始める。同社による「ランボオ全集」全3巻(第1巻 詩 中原中也訳、第2巻 散文 小林秀雄訳、第3巻 書簡 三好達治訳)の出版企画があったためである。中也は暮れに帰省し、翌年3月末上京するまで山口で翻訳を続けたが、この企画は実現しなかった。
10月18日■長男文也が生まれる。
11月、このころ、「歴程」主催の朗読会で「サーカス」を朗読。
12月、高村光太郎の装幀で文圃堂より「山羊の歌」を刊行。■発送作業後山口に帰省し、文也と対面する。翌年3月まで滞在し、「ランボオ全集」のための翻訳に専念する。

1935年
3月末、このころ、「四季」「日本歌人」「文学界」「歴程」などに詩・翻訳など多数発表。

1936年
「四季」「文学界」「改造」「紀元」など詩・翻訳を多数発表。
6月、「ランボオ詩抄」を山本書店より刊行。
11月10日、■文也死去する。、

1937年
1月9日、■千葉市の中村古峡療養所に入院。
9月15日、野田書房より「ランボオ詩集」を刊行。
同月、「在りし日の歌」を編集、原稿を清書し、小林秀雄に託す。

※以上は、「中原中也全詩集」(角川ソフィヤ文庫)巻末資料より抜粋しました。

「烏」Les Corbeauxが発表された昭和10年(1935年)は
「四季」「日本歌人」「文学界」「歴程」などに詩・翻訳など多数発表
――とそっけなく記されてあるだけですが、
それゆえ、発表活動が精力的に行われたことを示しています。

 *

 烏

神よ、牧場が寒い時、
さびれすがれた村々に
御告(みつげ)の鐘も鳴りやんで
見渡すかぎり花もない時、
高い空から降(お)ろして下さい
あのなつかしい烏たち。

厳(いか)しい叫びの奇妙な部隊よ、
木枯は、君等の巣(ねぐら)を襲撃し!
君等黄ばんだ河添ひに、
古い十字架立つてる路に、
溝に窪地に、
飛び散れよ、あざ嗤(わら)へ!

幾千となくフランスの野に
昨日の死者が眠れる其処に、
冬よ、ゆつくりとどまるがよい、
通行人(とほるひと)等がしむみりせんため!
君等義務(つとめ)の叫び手となれ、
おゝわが喪服の鳥たちよ!

だが、あゝ御空(みそら)の聖人たちよ、夕暮迫る檣(マスト)のやうな
檞の高みにゐる御身たち、
五月の頬白見逃してやれよ
あれら森の深みに繋がれ、
出ること叶はず草地に縛られ、
しようこともない輩(ともがら)のため!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。原作は最終行「しよう」の「よ」
に「ママ」のルビがあります。編者。

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2012年3月22日 (木)

中原中也が訳したランボー「烏」Les Corbeauxその2

中原中也訳「烏」Les Corbeauxは
「四季」の昭和10年(1935年)4月号に
「オフェリア」とともに発表されました。
同じ号に自作詩「わがヂレンマ」も発表されています。

「四季」には
季刊「四季」が出された1933年以来ずっと発表を続け
1936年2月発行の第15号からは
正規に同人として加わっています。
前年末に
同人への勧誘があり
中原中也はOKの返事をしたことが
日記に記されていますが
月刊「四季」の同号で同人として活動し始めました。

「四季」同人の顔ぶれを見ておきますと――。
1934年の創刊当時の同人は5人で

堀辰雄
三好達治
丸山薫
津村信夫
立原道造

1936年に「組織改編」が行われて

井伏鱒二
萩原朔太郎
竹中郁
田中克己
辻野久憲
桑原武夫
神西清
神保光太郎
中原中也

――この9人が加わりました。

1933年に
前身というべき季刊「四季」が2回出ていますが
この季刊「四季」と
戦後も3次にわたって出された「四季」と区別するため
1934年創刊の「月刊四季」を「第2次四季」と呼び、
「季刊四季」を「第1次四季」と呼ぶ習わしです。

「第2次四季」にはこのほかに
いはば「顧問格」として
萩原朔太郎
三好達治、室生犀星らがいましたし
寄稿者は延べ300人
同人は多い時で32人を数えたこともありました。

萩原朔太郎はいうまでもなく
三好達治らは
文壇とも交流があり
「文学界」の
河上徹太郎
小林秀雄
深田久弥
永井龍男
今日出海らと接触する機会がありましたし
他にも幅広く活動する同人もあり
中原中也への寄稿の依頼は
色々なルートがあったことが推察できます。

「歴程」の草野心平と中原中也は
1934年に知り合いますが
中原中也は「四季」の「創刊メンバー」だったのですから
草野心平の仲立ちがなくとも
「四季」への寄稿はできたのです。

むしろ中原中也が草野心平に声をかけて
1935年の「四季」4月号への寄稿があったのかもしれません。

いずれにしても
このあたりは
ごくごく小さい可能性の話です。

「四季」編集の実務を中心的に担っていた
津村信夫あたりとのやりとりで
中原中也は「四季」へ寄稿していたと考えるくらいが妥当な線です。

 *

 烏

神よ、牧場が寒い時、
さびれすがれた村々に
御告(みつげ)の鐘も鳴りやんで
見渡すかぎり花もない時、
高い空から降(お)ろして下さい
あのなつかしい烏たち。

厳(いか)しい叫びの奇妙な部隊よ、
木枯は、君等の巣(ねぐら)を襲撃し!
君等黄ばんだ河添ひに、
古い十字架立つてる路に、
溝に窪地に、
飛び散れよ、あざ嗤(わら)へ!

幾千となくフランスの野に
昨日の死者が眠れる其処に、
冬よ、ゆつくりとどまるがよい、
通行人(とほるひと)等がしむみりせんため!
君等義務(つとめ)の叫び手となれ、
おゝわが喪服の鳥たちよ!

だが、あゝ御空(みそら)の聖人たちよ、夕暮迫る檣(マスト)のやうな
檞の高みにゐる御身たち、
五月の頬白見逃してやれよ
あれら森の深みに繋がれ、
出ること叶はず草地に縛られ、
しようこともない輩(ともがら)のため!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2012年3月21日 (水)

中原中也が訳したランボー「烏」Les Corbeaux

「烏」Les Corbeauxは
「初期詩篇」の掉尾(とうび)を飾る作品。
中原中也が原典としたベリション版の配置の通りで
20番目の詩ということになります。

トリではなく
カラスです。

途端に
エドガー・アラン・ポーの「大鴉」を
連想する誘惑に駆られますが
これは、ランボーの詩です。
中原中也の翻訳です。

まず読んでみる
そして最後まで
詩を読むこと以外の目的を持たずに詩に向かうほかにない
ファンのスタンスを飽くまで維持します。

神様! 牧場(ぼくじょう)が寒い時、
寂(さび)れたあちこちの村に
アンジェラスの鐘も鳴り止んで
見渡すかぎり花一つない時、
高い空から降ろしてやってください
あのなつかしいカラスたちを。

厳(いか)めしく叫ぶ奇妙な群れよ、
木枯らしは、君たちの塒(ねぐら)を襲撃した!
君たちは、黄ばんだ河に沿って
古い十字架が立っている道に、
溝や窪地に、
飛び散れよ、あざ笑え!

幾千となくフランスの野に
昨日の死者たちが眠っているそこに、
冬よ、ゆっくりとどまればよい、
そこを通る人々が敬虔な気持ちになるように!
君たちは慰霊の導き手となれ、
おお、わが喪服で正装した鳥たちよ!

だが、ああ、空にまします聖人たちよ、夕暮れ迫るマストのような
樫の木の高みにいる貴方たちカラスたち、
五月のホオジロを見逃してやってくれ
あれらは森の深みに繋がれて、
出ることも出来ずに草地に縛られて、
なす術も力もない仲間たちのために!

第2連の「昨日の死者たち」は
普仏戦争の戦死者か
パリ・コンミューンの犠牲者か。

制作年の考証も
一つは1870年から71年にかけての間とする説、
一つは1872年の春とする説に分かれるそうです。

いずれであっても
ランボーは
戦いに敗れた者への鎮魂歌を書いたことは間違いなく
群れなすカラスに
鎮魂の先導者の役割を担うよう
まるで仲間に呼びかけているかに親しげに語りかけます。

中原中也の翻訳は
「四季」の昭和10年(1935年)4月号に
「オフェリア」とともに発表されました。
これが初出です。

両作品は
「四季」へ発表した
最初の翻訳でもあります。

建設社が企画した「ランボオ全集」のために
昭和9年から同10年3月末まで
中原中也は多くの翻訳を完成しましたが
この企画自体が中止されたため
一時は陽の目を見ないで終るところでした。

「烏」が発表された「四季」の同じ号に
ランボーの「オフェリア」とともに
自作詩「わがヂレンマ」も寄稿しています。

同時に
この号には
草野心平が「『山羊の歌』とその著者」という評論を書いていますから
「四季」への発表を薦めたのは
草野心平であったかもしれません。
その可能性が
小さいながらありますが
ほかに交流していた同人が何人かいましたから
草野ではないかもしれません。

 *

 烏

神よ、牧場が寒い時、
さびれすがれた村々に
御告(みつげ)の鐘も鳴りやんで
見渡すかぎり花もない時、
高い空から降(お)ろして下さい
あのなつかしい烏たち。

厳(いか)しい叫びの奇妙な部隊よ、
木枯は、君等の巣(ねぐら)を襲撃し!
君等黄ばんだ河添ひに、
古い十字架立つてる路に、
溝に窪地に、
飛び散れよ、あざ嗤(わら)へ!

幾千となくフランスの野に
昨日の死者が眠れる其処に、
冬よ、ゆつくりとどまるがよい、
通行人(とほるひと)等がしむみりせんため!
君等義務(つとめ)の叫び手となれ、
おゝわが喪服の鳥たちよ!

だが、あゝ御空(みそら)の聖人たちよ、夕暮迫る檣(マスト)のやうな
檞の高みにゐる御身たち、
五月の頬白見逃してやれよ
あれら森の深みに繋がれ、
出ること叶はず草地に縛られ、
しようこともない輩(ともがら)のため!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。原作は最終行「しよう」の「よ」に「ママ」のルビがあります。編者。

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2012年3月20日 (火)

中原中也が訳したランボー「四行詩」Quatrainその3

「四行詩」Quatrainの
中原中也以外の訳を
もう少し見ておきましょう。

粟津則雄の訳は、

(星はおまえの耳のただなかで……)

星はおまえの耳のただなかで薔薇色に泣き、
無限はおまえのうなじから腰へと白くめぐり、
海は朱いおまえの乳房で褐色の玉となり、
男はおまえの至高の脇腹で黒い血を流した。
                 L’Étoile a pleuré……

――となります。

新城善雄の訳は、

星は薔薇色に泣いた おまえの耳の中心で
無限は白くめぐった おまえの首筋から腰へと
海は褐色の玉となった おまえの朱色の乳房で
そして男は黒い血を流した おまえの至上の脇腹で

――となります。

この訳が載っている「ランボー母音文学機械」(創樹社)は
ランボーの詩の
十四行詩「母音」と
四行詩(星は薔薇色に泣いた……)と
「涙」の3作品を「母音製図機」と呼び
フランスの哲学者ドゥルーズの「文学機械」のコンセプトを借りながら
「母音」を起点とする(に隠された)謎として分析し
解き明かそうとした研究書です。

鈴木創士の訳は、

(星はおまえの耳のまんなかで…)

星はおまえの耳のまんなかで薔薇色の涙を流した、
無限はおまえのうなじから腰にかけて白く転がった
海はおまえの朱色の乳房で赤茶色お雫となった
そして「人間」はおまえの至高の脇腹で黒い血を流した。

――となります。

宇佐美斉の訳は、

(星は薔薇色に泣いた……)

星は薔薇色に泣いた きみの耳の中核で
無限が白く走った きみの項(うなじ)から腰へと
海は赤茶色の玉となって浮かんだ きみの朱い乳首で
そして男は黒い血を流した きみの神々しい脇腹に

――となります。

鈴村和成の訳は、

(星はきみの耳の核心に……)

星はきみの耳の核心にバラ色の涙をながし、
無限はきみのうなじから腰へと白くめぐる、
海はきみの朱の乳首に褐色の真珠をかざり、
そして《人》は至高のきみのわき腹に黒い血をながす。

――となります。

今、手元にあるのは
これほどですが
名のあるランボー訳者は
ざっと数えるだけで30人を下りませんから
少なくとも30通りの翻訳が存在するはずです。

しかし、短詩であるゆえにか
「四行詩」は
それぞれの訳に
それほど差異は認められません。

ここで
まったく突然のことになりますが
ランボーの「四行詩」は
中原中也の創作詩「みちこ」にどこか似ている! という
ひらめきが涌きましたので
ここに引いておくことにします。

「みちこ」は
「山羊の歌」の中の「みちこ」の章のトップにあり
「汚れつちまつた悲しみに……」の前にあります。

女体を歌った詩が
なぜここに置かれているのか――
ランボーの「四行詩」の様々な形を読んでいて
その謎が少し解けるような
ひらめきがありました。

あくまで、ひ・ら・め・き・ですが。

 ◇

 みちこ

そなたの胸は海のやう
おほらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あをき浪、
涼しかぜさへ吹きそひて
松の梢をわたりつつ
磯白々とつづきけり。

またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしゐて
竝びくるなみ、渚(なぎさ)なみ、
いとすみやかにうつろひぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆
沖ゆく舟にみとれたる。

またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡の夢をさまされし
牡牛(をうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯しぬ。

しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かひな)して
絃(いと)うたあはせはやきふし、なれの踊れば、
海原はなみだぐましき金(きん)にして夕陽をたたへ
沖つ瀬は、いよとほく、かしこしづかにうるほへる
空になん、汝(な)の息絶ゆるとわれはながめぬ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 *

 四行詩

星は汝が耳の核心に薔薇色に涕き、

無限は汝(な)が頸(うなじ)より腰にかけてぞ真白に巡る、

海は朱(あけ)き汝(なれ)が乳房を褐色(かちいろ)の真珠とはなし、

して人は黒き血ながす至高の汝(なれ)が脇腹の上……

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年3月19日 (月)

中原中也が訳したランボー「四行詩」Quatrainその2

「四行詩」Quatrainは

L’étoile星
L’infini無限(永遠)
La mer海
Et l’Homme (そして)人(男)

――を行頭に主語として置いていますから
星は、
無限は、
海は、
人(男)は、
――と訳せば、
逐語的な訳になり
中原中也もそうしていますが
ここを意訳して原作に近づこうとする訳者もあって
人それぞれの個性的な訳ができあがります。

ベルレーヌの案内――

○彼は決して平板な韻は踏まなかつた。
○しつかりした構へ、時には凝つてさへゐる詩。
○気儘な句読は稀であり、句の跨り一層稀である。

――を思い起こしたり
「見者の詩論」と突き合わせたりして
この「四行詩」もそのように作られているものと
目を凝らして読み返すのが習いになり
ランボー作品の中で最も短いこの詩の各行を
原作に当たってまでして
何度も何度も口ずさんでみることになります。

L’étoile a pleuré rose au cœur de tes oreilles,
L’infini roulé blanc de ta nuque à tes reins,
La mer a perlé rousse à tes mammes vermeilles
Et l’Homme saigné noir à ton flanc souverain.

これを
中原中也の同時代訳である
西条八十訳で読んでみると――

星は君が耳のさなかに薔薇色に泣き、
無限は君が項(うなじ)より腰へと白くまろびぬ。
海は、君があかき乳房に鳶色(とびいろ)の真珠をちりばめ
かくて、男は君がこよなき脇腹に黒き血を流しぬ。
(中央公論社「アルチュール・ランボー研究」より)

――となります。

西条八十訳の「四行詩」は
昭和5年発行の「世界文学全集」の
第37巻「近代詩人集」(新潮社)に収録されていますから
中原中也は読む可能性の中にありましたが
読んだか否かは分かりません。

短い詩なので
同時代訳だけではなく
他の訳と比べて読めるチャンスでもありますから
少し脱線してみますと――。

金子光晴の訳は――

 四行詩

 星は、君の耳殻に墜(お)ちて、薔薇色(ばらいろ)にすすり泣き
君の頸(くび)すじから、腰のあたりへ、無限がその白さをころがした。
君のあたたかい乳房は、あこや珠に照りはえてゆらめき、
男は、その妙なる横腹に、黒い血を流した。
(角川文庫「イリュミナシオン アルチュール・ランボオ」より)

――となります。

堀口大学の訳は――

 四行詩
   別題 ヴィナス生誕

星泣きぬ、ばら色に、汝(な)が耳の、奥の奥。
無窮まろびぬ白妙(しろたえ)に、汝(な)が首(うなじ)より臀(いしき)かけ。
朱真珠(あけまだま)海の置けるよ、茜(あかね)さす汝(な)が胸に、
かくてこそ男たち、黒々と血をしたたらす、たぐいなき汝(な)がわき腹に。
                                Quatrain

――となります。

(つづく)

 *

 四行詩

星は汝が耳の核心に薔薇色に涕き、

無限は汝(な)が頸(うなじ)より腰にかけてぞ真白に巡る、

海は朱(あけ)き汝(なれ)が乳房を褐色(かちいろ)の真珠とはなし、

して人は黒き血ながす至高の汝(なれ)が脇腹の上……

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年3月18日 (日)

中原中也が訳したランボー「四行詩」Quatrain

「四行詩」Quatrainは
ランボーの妹イザベルの夫パテルヌ・ベリションが
便宜的に付けたもので
もとはタイトルのない詩です。

「母音」の由来が
「地獄の季節」中の「錯乱Ⅱ」で
「言葉の錬金術」によって作られたものとする
ランボー自身の種明かしがありますが
この「四行詩」も
錬金術によって生れた詩のようです。

耳、
項(うなじ)から腰、
乳房、
脇腹――

これら人間の肉体、とりわけ女性の肉体の部分を
色で表すとこうなる、という詩で
「俺は母音の色を発明した。」という「母音」と
繋がっています。

耳は、バラ色
首から腰は、真白
乳房は、褐色(かちいろ)
脇腹は、黒――となりますが
そんなに単純ではなく
星はお前の耳の真ん中でバラ色に泣いている
無限はお前の首から腰にかけて真っ白に巡り
海は朱色のお前の乳房を褐色の真珠と化し
そして人(男)は黒い血を流す最高のお前の脇腹の上を……
――と、肉体の部分の色は、
森羅万象(星、無限、海、人)のイメージと絡まりながら
万華鏡のような色彩の乱舞となります。

音も聞えてこなければなりませんが
「俺は翻訳を保留した。」とあるように
色彩とともに、
韻、喩、律動などの音が
翻訳されることなどあり得ないことはすでに宣言されています。
(「保留した」という言い方は、わずかな可能性をほのめかしてはいますが)

ここで突然、李白、杜甫、白楽天などの詩が想起されてしまいます。
唐詩(漢詩)制作上のルールのことが
ランボーのアイデアの中にあってもおかしくはない、と
だれもが思い至るに違いない
字数、句数、押韻、対句、平仄……といったルールと
ランボーの試みた詩作とが
ダブってくるのです。

ここに深入りはしませんが
「四行詩」と絶句(五言、七言)は
パッと見て分かる共通点を持ちますし
パッと見ただけでは見えない別物かもしれませんが
一応、比べて見ても無駄にはならないはずのものです。

L’étoile a pleuré rose au cœur de tes oreilles,
L’infini roulé blanc de ta nuque à tes reins,
La mer a perlé rousse à tes mammes vermeilles
Et l’Homme saigné noir à ton flanc souverain.

これは
ランボーの「四行詩」の原文です。
フランス語を少し知っていれば
各行の頭と末尾の韻が見えるはずです。

絶句では五言で
知らない者はいないほど
有名な孟浩然(もうこうねん)の「春暁」

春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少

春眠 暁を覚えず
処処 啼鳥を聞く
夜来 風雨の声
花落つることを知る多少ぞ

この詩も
漢語の発音ができるだけで
行末の韻=脚韻が踏まれているのが
判然としています。
「曉」「鳥」「少」は
漢音で「ぎょう」「ちょう」「しょう」ですから
中国語の発音を知らなくても韻とわかります。

韻を翻訳しようなんて
所詮、無理ということが分かろうということですが
古今東西の翻訳者は
多少なりとも
韻をさえ翻訳しようとしてきた形跡があり
その歴史に満ちています。

 *

 四行詩

星は汝が耳の核心に薔薇色に涕き、

無限は汝(な)が頸(うなじ)より腰にかけてぞ真白に巡る、

海は朱(あけ)き汝(なれ)が乳房を褐色(かちいろ)の真珠とはなし、

して人は黒き血ながす至高の汝(なれ)が脇腹の上……

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年3月17日 (土)

中原中也が訳したランボー「母音」Voyellesその6

ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の初版は
1884年にパリで刊行され、
シモンズの「象徴主義の文学運動」の初版は
1899年にロンドンで刊行されました。

ランボーの「母音」Voyelleは
これらポール・ベルレーヌとアーサー・シモンズの著作に紹介されたことで
ものすごいスピードで世界中へ広まっていきます。

「母音」がポピュラーになり
ランボーの代表作のように見なされるのは
このような背景があるからですが
シモンズが「象徴主義の文学運動」で紹介した
ランボーの別の作品――「地獄の季節」の一節との繋がりが
読者を「母音」の謎解きへと導くような「仕掛け」に
いつのまにか乗っかっている、
いつのまにかランボーの作品世界の連鎖に入り込んでいる、
読者がそのようにランボーを初体験するから
伝播のスピードが早かったのかもしれません。

巧まずして仕掛けられた作品の連鎖――。
否! ランボーの思惑通りか。

先に見た「地獄の季節」の
「錯乱Ⅱ」の「言葉の錬金術」の一節を
鈴木信太郎の訳ではなく
小林秀雄の訳でもう少し詳しく読んでおきましょう。

小林秀雄は
「ランボオⅢ」で
「言葉の錬金術」について
いまや古典になった論考を展開しているのですが
その小林秀雄も
いちはやく「地獄の季節」を翻訳しています。

鈴木信太郎の「一番弟子」の位置にあった小林秀雄が
戦後すぐに人文書院版「ランボオ全集」が刊行されたとき
師匠・鈴木信太郎に改訳を薦められましたが
その時は行わず
「小林秀雄全集」の発行にあたって改訳したものが
現在、岩波文庫に収められた「地獄の季節」(1938年第1刷)です。
テキストはラコスト版を使用しています。

「錯乱Ⅱ」は
冒頭に「言葉の錬金術」の小見出しが立てられて――

 聞き給え。この物語も俺の狂気の一つなのだ。
 俺は久しい以前から、世にありとある風景が己(おの)れの掌中にあるのが自慢だった。近代の詩や絵の大家らは、俺の眼には馬鹿馬鹿しかった。
 
 俺は愛した、痴人(ちじん)の絵を、欄間の飾りを、芝居の書割(かきわり)、辻芸人の絵びら、看板、絵草紙を。また、時代遅れの文学を、坊主のラテン語、誤字だらけの春本(しゅんぼん)を、俺たち祖先の物語と仙女の小噺(こばなし)、子供らの豆本、古めかしいオペラ、愚にもつかない畳句(ルフラン)や、あどけない呂律(リトム)やを。

以上が、母音に関する記述の前にあるのですが
シモンズは「象徴主義の文学運動」では
この部分を省略していますから
ややわかりにくい展開になっていました。

ランボーは
現在日本でいう「B級品」のような
「ろくでもないもの」を「俺は愛した」と
それらを列挙しているのです。
「愛した」とは「その中で育ってきた」という意味も込められる一方、
そういうものが「好きだった」ということをも表白しているでしょうか。

胡散臭くて
いかがわしくて
怪しくて
下品で
……

B級品が
値千金になる

これらが
錬金術の材料である――と
そんなことを一言もランボーは言っていませんが
そういうことを言うに違いないと予感をさせるくだりです。

そして
母音の話になります。

 俺は母音の色を発明した。――Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。――俺は子音それぞれの形態と運動とを整調した、しかも、本然の律動によって、幾時(いつ)かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希うところがあったのだ。俺は翻訳を保留した。

 最初は試作だった。俺は沈黙を書き、夜を書き、描き出す術もないものを控えた。俺は様々な眩暈(げんうん)を定着した。

(以上の引用には、原作にない改行・行空きを加えてあります。また、漢字は一部、新漢字に改めました。編者。)

このように母音については書かれ
「母音」という詩が書かれた理由が
ランボー自身によって
記されたのですから
「母音」の読者が
「地獄の季節」の読者になることは自然の成り行きです。

 *

 母音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

E、蒸気や天幕(テント)のはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動、
I、緋色の布、飛散(とばち)つた血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が
学者の額に刻み付けた皺の静けさ。

O、至上な喇叭らつぱの異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
――その目紫の光を放つ、物の終末!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
※ なお、同文庫1990年9月10日発行の第一刷では、第1連で「Oは赤」となっ
ているのは、第2次形態、第3次形態での中原中也の誤記を「ママ」としたもののよう
ですが、ここでは正しました。

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2012年3月15日 (木)

中原中也関連の新刊情報

人間の記録 第200巻 中原中也: その頃の生活/日記(1936年)他/中原 中也 (著) 発売日: 2012/4/13 1890円/日本図書センター

【内容説明】
感動と共感を呼ぶ日本人の自伝!
時代の流れの中に咲いた人生の記録。

本シリーズの特色
◎幅広いジャンルの人物を収録
政治家・実業家から、芸術家・学者・女優・棋士など教科書に取り上げられることの少ない人物まで幅広い人々の自伝を収録しています。
◎その時代の歴史が理解できます  
明治から、大正・昭和をはじめとして、現在話題の人物までを網羅しています。
◎世代を超えた読者対象
中学・高校生から大人まで、世代を超えて深い感動と共感を呼んでいる大反響の大河シリーズ!

2012年3月14日 (水)

中原中也が訳したランボー「母音」Voyellesその5

ランボーの「母音」Voyelleは
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の中の「アルテュール・ランボー」や
アーサー・シモンズの「象徴主義の文学運動」に引用されたために
いちはやく世界中へ知れ渡ったのですが
そのために日本においても
早くから翻訳が盛んに行われました。

中原中也の同時代訳として
①折竹蓼峰訳でラムボウ「母音」が「帝国文学」に明治41年1月、
②岩野泡鳴訳アルチュル・ランボ「Voyelles(母韻)」が
 「表徴派の文学運動」(新潮社、大正2年)の中に引用され、
③蒲原有明訳アルチユウル・ランボオ「母音」が
 「有明詩集」(アルス、大正11年)に、
④金子光晴訳アルチュール・ランボオ「母音」が
 「近代仏蘭西詩集」(紅玉堂、大正14年)に、
⑤大木篤夫訳アルチュゥル・ラムボオ「母音」が
 「近代仏蘭西詩集」(アルス、昭和3年)に
――といった具合に発表されています。
(「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・解題篇」より)

上田敏の「海潮音」が出版されたのは
明治38年(1905年)で、
「酔ひどれ船」の未定稿が収録された「牧羊神拾遺」は
翌明治39年です。

上田敏や堀口大学の名前は
「母音」に関して
同時代訳には現れませんが
ランボーへ無接触ということではなさそうで
世に現れないまでも
懸命に取り組まれていた節があります。

中原中也訳「母音」は
昭和11年発行の「ランボオ詩抄」に初出しますから
これらの同時代翻訳への遅い参戦ということになります。

ここで
「母音」の翻訳としては最初(最古)の
折竹蓼峰訳が新編全集に掲出されていますから
参考のために見ておきましょう。
当然、同書からの孫引きということになります。

折竹蓼峰は
「おりたけ・りょうほう」と読み
明治17年(1884年)生れ、昭和25年(1950年)没の
翻訳家、フランス語学者です。

母音
折竹蓼峰訳

母音A(ア)黒E(エ)白I(イ)赤U(ウ)緑O(オ)藍――
吾ひと日隠れたる汝(いまし)らが起源を語らむ。
A影の海、悪臭の巷をめぐり
輝くは小紋のそうしょく(かざり)毛に織れるコルセット。

E狭霧(さぎり)の匂、荒妙(あらたへ)の天幕(テント)の真白、
物傲(ものおご)り氷河は高く野には亦傘花(さんか)のゆらぎ。
Iくれなゐ、“かと”吐きし血汐の叫、痛ましの
憤怒に酔(ゑひ)に強ひて浮く朱唇の笑(ゑま)ひ。

Oいと奇しき烈帛(れつぱく)の「菰(ラツパ)」の声か、
「衆生界」亦天界の経(たて)に織りつぐ沈黙か――
閃(きらめ)くは久遠の「眼」オメガの光!

(※ルビは一部省略しました。また、本文中の“かと”は、原作では傍点になっています。編者。)

文語体が目立ち
中原中也の時代が
新しい時代に入っていることを思わせます。

中原中也は
明治生まれ(明治40年、1907年)なのですが
ものごごろついたのは大正時代ですから
明治気質(かたぎ)を残しつつ
大正世代、昭和世代の人です。

その言語感覚は
明らかに
大正デモクラシーをくぐり抜けて
関東大震災を超えて
また第一次世界大戦を経過して
形成されました。

 *

 母音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

E、蒸気や天幕(テント)のはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動、
I、緋色の布、飛散(とばち)つた血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が
学者の額に刻み付けた皺の静けさ。

O、至上な喇叭らつぱの異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
――その目紫の光を放つ、物の終末!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
※ なお、同文庫1990年9月10日発行の第一刷では、第1連で「Oは赤」となっているのは、第2次形態、第3次形態での中原中也の誤記を「ママ」としたもののようですが、ここでは正しました。

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2012年3月13日 (火)

中原中也関連の新刊情報

3/14発売 中原中也とアインシュタイン~文学における科学の光景 (祥伝社黄金文庫) [文庫] 600円

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【内容紹介】
中原中也の詩にある相対性理論、
夏目漱石『吾輩は猫である』の猫が語るニュートンの力学法則、
芥川龍之介が書いた火星人の有無、『明月記』に書かれた鎌倉時代の彗星、
シェークスピアと北極星・・・・・・
古今東西の「文学作品」に隠れた「科学」を天文学者が読み解く!

目次
1章 マグデブルクの半球よ
2章 眠れる猫、力学の法則を学ぶ
3章 俺は北極星のように不動だ
4章 篠懸を黄ばませる秋風と共に
5章 ゆく河の流れは絶えずして
6章 ほとけは常にいませども
7章 お月さまいくつ 一三七つ
8章 もろともに宇宙の微塵となりて
9章 丑時客星出觜參度
10章 地球の上に朝がくる
11章 「木枯し」「もんじゅ」ろう
12章 虹の女神イリスの嘆き
13章 てふてふが一匹

中原中也が訳したランボー「母音」Voyellesその4

アルチュール・ランボーを
いちはやく世界に紹介したもののうち
英語で書かれた著作が
アーサー・シモンズの「象徴主義の文学運動」でした。
(Arthur Symons:The symbolist movement in literature)
初版は1899年、ロンドンのWilliam Heinemann社。

日本では
岩野泡鳴の訳が「表徴派の文学運動」(新潮社)として
大正2年(1913年)に発行される以前も以後も
シモンズは多くの文学者、詩人らによって参照されましたが
この泡鳴訳で
およそ10年遅れながらも
ランボーの存在が学究の徒のみならず
一般読者へも伝えられ
フランス象徴詩全般が
広く世の中へ知られることになりました。
泡鳴の人気は
大変なものだったのです。

岩野泡鳴訳の「表徴派の文学運動」は
現在、読もうとしてもなかなか読めないので
比較的最近になって翻訳された
樋口覚「象徴主義の文学運動」(昭和53年、国文社)から
ランボーに関する記述を拾っておくことにします。

そうすると
ここにも「母音」は
「地獄の季節」の中の「言葉の錬金術」のくだりの案内とともに
引用されている場面にぶつかるのです。

シモンズは

「言葉の錬金術」において彼は、自己の幻覚の分析家になる。彼は書いている。

――と前置きして

俺は母音の色を発明した。(原註1)――Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。――俺は子音それぞれの形態と運動とを整調した、而も、本音の律動によって、幾時かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希う処があったのだ。俺は翻訳を保留した。……素朴な幻覚には慣れていたのだ。何んの遅疑なく俺は見た、工場のある処に回教の寺を、太鼓を教える天使等の学校を。無蓋の四輪馬車は天を織る街道を駆けたし、湖の底にはサロンが覗いたし、様々な不可思議。ヴォドヴィルの一外題は、様々の吃驚を目前にうち立てた。而も俺は、俺の魔法の詭弁を、言葉の幻覚によって説明したのだ。この精神の乱脈も、所詮は神聖なものと俺は合点した。
(※この部分は、鈴木信太郎の訳であるとの、樋口覚の注があります。なお、この部分は、現代表記に改めました。編者。)

――と、「地獄の季節」中「錯乱Ⅱ」の
「言葉の錬金術」に関するくだりを引用します。

そして、(原註1)を結末に付して
次のように、解説を加えます。

(原註1) 以下は有名なソネであるが、見られるように、過度にまじめに受けとるべきではないにせよ、単なる冗句ともまた違ったものである。

 (※「母音」本文の引用がここにありますが省略。)
 
この暗号や起源については、最近ではランボオが以前、古い「ABC読本」を見たことによっていると言われている。ランボオの詩とほぼ同じように、その本の中では母音が、Aは黒、E黄、I赤、O青、Uは緑というように色がつけられていたのだ。奇妙なことには、この絵本の小冊子にはどこかランボオの俤がとどめられている。

以上、
樋口覚訳の「象徴主義の文学運動」の
「アルチュール・ランボオ」のさわりだけを紹介しました。
さわりが「母音」に関する読みに集中しているのです。

中原中也は
岩野泡鳴訳でシモンズを読んだのですから
岩野の「クセ」のある訳出を通じて
ランボーに近づいていったことになります。

ポール・ベルレーヌも
アーサー・シモンズも
ランボーを紹介した時
「母音」の全文を引用したということで
この詩は
全世界に「代表作」(の一つ)として伝わっていきました。

 *

 母音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

E、蒸気や天幕(テント)のはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動、
I、緋色の布、飛散(とばち)つた血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が
学者の額に刻み付けた皺の静けさ。

O、至上な喇叭らつぱの異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
――その目紫の光を放つ、物の終末!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
※ なお、同文庫1990年9月10日発行の第一刷では、第1連で「Oは赤」となっているのは、第2次形態、第3次形態での中原中也の誤記を「ママ」としたもののようですが、ここでは正しました。

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2012年3月12日 (月)

中原中也が訳したランボー「母音」Voyellesその3

中原中也訳の「母音」Voyellesの第1次形態は
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の中の
「アルテュル・ランボオ」に引用されているものを
昭和7年に中也が翻訳を試みたものですが
ベルレーヌは
この詩「母音」をどんな考えで引用したのか?
――という疑問が涌きます。

 この疑問の答えは、「母音」が引用される前に
ベルレーヌが次のように書いていることで明らかです。
中原中也訳で一度読みましたが
ここで再び詳しく見ておきます。
 

ランボオの作品は、その極度の青春時、1869、70、71年を終るに当つては、もはや沢山であつて、敬すべき一巻の書を成してゐた。

それは概して短い詩を含む書である、十四行詩、八行詩、四、五乃至六行を一節とする詩。

彼は決して平板な韻は踏まなかつた。

しつかりした構へ、時には凝つてさへゐる詩。

気儘な句読は稀であり、句の跨り一層稀である。

語の選択は何時も粋で、趣向に於ては偶々学者ぶる。

語法は判然してゐて、観念が濃くなり、感覚が深まる時にも猶明快である。加之讃ふべきその韻律。

次の十四行詩こそそれらのことを証明しよう。

(「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より。改行・行空きを加えてあります。編者。)

 ◇

以上が書かれた後に
「次の十四行詩」として
「母音」が引用されるのです。

「母音」は、典型的なソネットです。
4-4-3-3の14行詩。
その約束事に則(のっと)った詩であるということは
まず念頭に入れておきたいことです。

その当たり前のことを
ベルレーヌも指摘しています。

概して短い詩。
十四行詩。
韻を踏む、ただし、平板な韻ではない。
しっかりした構え、時には凝(こ)ってさえいる。
気儘(きまま)な句読は稀であり、句の跨(またが)り一層稀である。

このあたりまで
ソネットの特徴と言ってもおかしくはないものでしょう。

語の選択は何時でも粋(いき)で、
趣向に於ては偶々(たまたま)学者ぶる。

ここら辺に
ランボーの詩の特徴はありそうです。
言葉の選択が粋=「天才的」で
時々、学者ぶっている。
ランボーの博識ぶりをやや皮肉っている感じ。

さらに

語法は判然してゐて、
観念が濃くなり、
感覚が深まる時にも猶(なお)明快である。
加之(のみならず)讃(たと)ふべきその韻律。

ここら辺も
ランボー独特のものです。

最後の「韻律」は
メロディーほどの意味でしょうか。
リズムといったほうがよいでしょうか。
詩の流れ、音感といったものが抜群である、とベルレーヌは讃えるのです。

ソネットの約束事を
きちんと踏まえたうえで
ランボー流を展開している、というのが
ベルレーヌの紹介です。

基礎ができた上に
応用されている、ということを言っています。

この応用の部分で
「母音」は
多様な解釈を誘うことになります。

 *

 母音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

E、蒸気や天幕(テント)のはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動、
I、緋色の布、飛散(とばち)つた血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が
学者の額に刻み付けた皺の静けさ。

O、至上な喇叭らつぱの異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
――その目紫の光を放つ、物の終末!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
※ なお、同文庫1990年9月10日発行の第一刷では、第1連で「Oは赤」となっているのは、第2次形態、第3次形態での中原中也の誤記を「ママ」としたもののようですが、ここでは正しました。

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2012年3月11日 (日)

中原中也が訳したランボー「母音」Voyellesその2

「母音」Voyellesは

冒頭連の第2行に

おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。

――とあるように
フランス語でアウイユオと発音する母音の
誕生の秘密を明かそう、という宣言ではじまるソネットです。

無論、学問的な解答ではありません
詩人ランボーの
いわば「錬金術」の種明かしみたいなものです。
そう考えたほうが気が楽になります。

多くの読みがこの詩についてなされ
おびただしい論文が発表されてきた歴史をもつものですが
それらはあまりに膨大といってよく
現在もなお新しい読みが公表されたりしますから
かえって詩が「学問」の中に閉ざされるきらいがあり
詩の楽しみがかすんでしまいがちなのです。

アー(A)は――黒、

光る蝿で毛むくじゃらの胸部
むごたらしい悪臭のめぐりに跳び廻る、
暗き入海

ウー(E)は――白、

気鬱と陣営の稚淳、
投げられし
誇りかの氷塊、
真白の王、
繖形花の顫へ。

イー(I)は――緋色、

喀かれし血、
美しき脣々の笑ひ、
怒りの裡、
悔悛の熱意の裡になされたる。

ユー(U)は――緑、

天の循環、
蒼寒い海の
はしけやし神々しさ、
獣ら散在せる
牧場の平和、
錬金道士が真摯なる大きい額に刻んだ
皺の平和。

オー(O)は――青、

擘(つんざ)く音の
至上の軍用喇叭、
人界と天界を横ぎる沈黙(しじま)、
菫と閃く天使の眸

第1次形態を分解してみると
このようなことになります。
これはベルレーヌの「呪われた詩人たち」の中の
「アルテュル・ランボオ」に引用されているものを
中原中也が昭和7年に翻訳を試み
一通り完成させたものですが
決定稿ではありません。

第2次形態は
「ランボオ詩抄」のために
昭和10年末から11年6月までの間に
作られたものと推定されていますが
「ランボオ詩集」のための第3次形態とともに
第1次形態とは
見違えるような変更が加えられました。

第3次形態を
分解してみると――

アー(A)は――黒、

眩いやうな蝿たちの
毛むくじやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、
暗い入江。

ウー(E)は――白、

蒸気や天幕(テント)のはたゝめき、
誇りかに槍の形をした氷塊、
真白の諸王、
繖形花顫動、

イー(I)は――赤、

緋色の布、
飛散(とばち)つた血、
怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

ユー(U)は――緑、

循環期、
鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する
牧養地の静けさ、
錬金術が学者の額に刻み付けた
皺の静けさ。

オー(O)は――青、

至上な喇叭らつぱの
異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
その目
紫の光を放つ、
物の終末!

若干、すっきりした感じです。
読みやすくなりました。
これ以上すっきりさせようとすると
「虚勢された猫」みたいな
腑抜けた感じになりがちですから
ここで止めるのが
中原中也の訳です。

 *

 母音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

E、蒸気や天幕(テント)のはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動、
I、緋色の布、飛散(とばち)つた血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が
学者の額に刻み付けた皺の静けさ。

O、至上な喇叭らつぱの異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
――その目紫の光を放つ、物の終末!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
※ なお、同文庫1990年9月10日発行の第一刷では、第1連で「Oは赤」となっているのは、第2次形態、第3次形態での中原中也の誤記を「ママ」としたもののようですが、ここでは正しました。

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2012年3月10日 (土)

中原中也が訳したランボー「母音」Voyelles

「母音」Voyellesは
中原中也訳「ランボオ詩集」の
18番目に配置された作品です。
当然ながら
原典とした第2次ベリション版の配列と同じです。

いよいよ
「初期詩篇」と分類される詩群の
終末部にさしかかりました。

この詩は、
ポール・ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の
「アルチュール・ランボオ」をはじめ、
アーサー・シモンズの「象徴主義の文学運動」や、
辰野隆の「信天翁の眼玉」(白水社、大正11年)などで取り上げられていますから
ランボーの作品の中でも
内外でいちはやく有名になり
「代表作の一つ」ということになっています。
(※信天翁は「あほうどり」と読みます。編者。)

岩野泡鳴訳のシモンズ「表徴派の文学運動」(新潮社、大正2年)は
小林秀雄、富永太郎、河上徹太郎ら
中原中也近辺の詩人・文学者のみならず
フランス文学に関心を持つ学生や一般人まで
圧倒的な浸透力で広がっていましたし
東京帝大仏文科の教官・辰野隆や
辰野より少し後に同じ仏文科の教官となった鈴木信太郎が
教室を埋めた満員の学生に向かって
得意気にランボーの話を聞かせていた光景が浮かんできます。

中原中也も
この学生に混じって辰野(や鈴木?)の授業に聞き入っていたことが知られています。

ネクタイを締めた中原中也が
猛者(もさ)や学生服の中で
熱心に耳を傾けていたのを見たことがあると
だれだかがどこかで書いているのですが
いまそれが見つからないので
代わりに
辰野隆が登場する中原中也の日記と書簡を読んでおくことにします。

まず、日記です。

昭和11年(1936年)7月12日

 朝十時頃辰野先生を訪ねたがゴルフに行つてゐて留守。高原を訪ね、一緒に河上
を訪ねたが、これもゴルフ。それより熊岡を訪ね、夜十時半までゐる。お母さんが出て
来て、息子が果して文筆で立てるやどうかと心配そうに云ふから、俺としたことが甚だ
正直に答へたら結局俺を馬鹿にしはじめた。
 熊岡にしたつて同じだ。「自分はニセモノではあるまいか」なぞと弱音を吹きながら、
而も何か俺より偉い気がするのだ。凡ゆる無能の青年がやることは次の形式にまと
めることが出来る。
一、 俺は文学をやらう。
二、 然し俺には出来ないかしら?
三、 ――文学なんて大したものではない!……
 そこで文学をやつてゐる奴を見ると偉いやうな馬鹿なやうな気がして来る。傲慢な
のだか謙遜なのだか分からない人間が出来る。

はじめの所に名前が出てくるだけですが
この日の日記の全文です。

次に、書簡は2件あります。
まず、昭和3年8月7日付け、小林佐規子宛の封書。

表 市外中野町谷戸二四〇五 文化村内 小林佐規子様
裏 冲也

 帰つてゐます。
 辰野から小林へ貸した本を僕に持つて来てくれと頼まれたから、大学の図書館の本
と、辰の印のある本のうち、上にチヤリチヤリ紙をかぶせた本だの厚い本だの、なる
べく上等さうな本を五冊でも十冊でも持って来て下さい。早い方が好い。午後一時迄
なら毎日ゐます。
 僕は辰野に請合つたのだから、持参する本を忘れないやうに。
 七日          冲
佐規子様

もう一つは
昭和7年(1932年)2月5日付け、安原喜弘宛 葉書(速達)

 昨日は留守をして失敬しました
 明土曜夕刻(七時半頃)伺ひます
 (今夜は高森と一緒に辰野さんの所へ出掛ける約束です。もしよろしかつたら渋谷
駅に八時に来て下されば、辰野の所へ行きませう。一時間くらゐゐるつもりです。)
                         怱々

以上は
「新編中原中也全集 第5巻 日記・書簡篇」からの引用です。

早いのが昭和3年、
遅いのが昭和11年ですから
東京に出て来てすぐに
中原中也は辰野隆(たつの・ゆたか)と親しくなり
晩年に至るまでその関係を継続していたことが想像できます。
はじめに仲立ちしたのは、小林秀雄でしたか
案外、そうとは限らないかもしれず
断言はできません。

ランボーや
ほかのフランスの詩人や
文化情勢全般についても
中原中也は
辰野隆から多くの情報を得ていたことがわかります。

 *

 母音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

E、蒸気や天幕(テント)のはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動、
I、緋色の布、飛散(とばち)つた血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が
学者の額に刻み付けた皺の静けさ。

O、至上な喇叭らつぱの異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
――その目紫の光を放つ、物の終末!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
※ なお、同文庫1990年9月10日発行の第一刷では、第1連で「Oは赤」となっているのは、第2次形態、第3次形態での中原中也の誤記を「ママ」としたもののようですが、ここでは正しました。

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2012年3月 8日 (木)

中原中也が訳したランボー「虱捜す女」Les Cherecheuses de poux その2

「虱捜す女」Les Cherecheuses de poux は
シラミを探してはつぶしてくれる
残酷でやさしい二人の女性を歌う
一見、モチーフの奇抜さに目を奪われるだけで
読み流してしまいそうな詩ですが
読めば読むほどに味わいが出てきて
不思議な魅力をもつことにやがて気づかされるような詩です。

みどり児の額が、赤味を帯びてきて
(シラミに食われると、ぽちぽちの湿疹が滲むように出てくるのです)
まだぼんやりとしていて、夢の中の白っぽい世界に漂っているような時に
美しい二人の乙女が、ベッドのそばに現れる、
細い指の爪は白銀の色だ。

夢か現か
目覚めてはいても
まだ夢の続きにあるような
まどろみのひとときにある
嬰児はランボーの分身

花々が乱れ咲き、青い風が吹き渡ってくる大きな窓辺に
二人はみどり児を座らせる、そして
露で濡れたふさふさの、その児の髪に
ぞくぞくするような美しいその細い指をさまよわす。

そうして彼は聴く、気遣わしげなバラ色の、しめやかな匂いの
(ハアハアと乙女らの呼吸は、バラの花のような、しめやかな香りの)
するような二人の息が、歌うのを、
唇に浮かぶのは唾液なのか、キスを求める兆候なのか
ともすれば、その歌は途切れてしまう。

彼は感じる、乙女らの黒い睫毛がにおやかな空気の中で
瞬くのを、そしてすばしこい指が、
にび色の気だるさの中に、あでやかな爪の間で
シラミをぷちぷち潰す音を聴く。

乙女らの
睫毛が瞬き
におい立つ空気は
気だるく
あでやかな爪が
つぶすシラミ

たちまち、気だるさが酒のように子供の脳髄にのぼってくる
有頂天になってしまいそうなハーモニカの溜め息か。
子供は感じている、乙女らのゆるやかな愛撫につれて
絶え間なく、泣いてしまいたい気持ちが湧き上がりまた消えてゆくのを。

フロイドを呼び出したくなるような
得体の知れない、
見覚えのあるようでもある感覚――。

参考書にすがらずに
なにものにも頼らずに
この感じを
何度も何度も
読んでみたい。

中原中也は
まっすぐに
詩の核心へ
突っ込んでいきます。

 *

 虱捜す女

嬰児の額が、赤い憤気(むづき)に充ちて来て、
なんとなく、夢の真白の群がりを乞うてゐるとき、
美しい二人の処女(をとめ)は、その臥床辺(ふしどべ)に現れる、
細指の、その爪は白銀の色をしてゐる。

花々の乱れに青い風あたる大きな窓辺に、
二人はその子を坐らせる、そして
露滴(しづ)くふさふさのその子の髪に
無気味なほども美しい細い指をばさまよはす。

さて子供(かれ)は聴く気づかはしげな薔薇色のしめやかな蜜の匂ひの
するやうな二人の息(いき)が、うたふのを、
唇にうかぶ唾液か接唇を求める慾か
ともすればそのうたは杜切れたりする。

子供(かれ)は感じる処女(をとめ)らの黒い睫毛がにほやかな雰気(けはひ)の中で
まばたくを、また敏捷(すばしこ)いやさ指が、
鈍色(にびいろ)の懶怠(たゆみ)の裡(うち)に、あでやかな爪の間で
虱を潰す音を聞く。

たちまちに懶怠(たゆみ)の酒は子供の脳にのぼりくる、
有頂天になりもやせんハモニカの溜息か。
子供は感ずる、ゆるやかな愛撫につれて、
絶え間なく泣きたい気持が絶え間なく消長するのを。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年3月 7日 (水)

中原中也が訳したランボー「虱捜す女」Les Cherecheuses de poux

「虱捜す女」Les Cherecheuses de poux は
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」に引用されたテキストだけが残る作品。

大正13年に鈴木信太郎が上梓した
「近代仏蘭西象徴詩抄」(春陽堂)に
「少年時」「花」とともに収録されたのを
中原中也は大正14年末に
この「少年時」を筆写、
同時に
上田敏訳の「酔ひどれ船」も筆写し、
二つの詩をファイルしていたことが分かっています。

ランボーを知って間もないころのことで
「虱捜す女」を読んだのも
富永太郎から聞かされていない限り初めてということになる詩を
ほぼ10年後に翻訳したことになります。

第1次形態として
①「ランボオ詩抄」の草稿、昭和10年11月~12月制作(推定)、
②「ランボオ詩抄」昭和10年12月~同11年6月制作(推定)、
第2次形態として
「ランボオ詩集」昭和11年6月~8月28日制作(推定)があります。

中原中也は
ベルレーヌの「呪われた詩人たち」の中の「アルチュール・ランボー」を
昭和4年末から5年初めの間と
昭和7年ごろと推定される時期のと2回にわたって
翻訳していますから
この中に引用されている「虱捜す女」を訳した可能性もあります。

ベルレーヌの著作で紹介されていたからか
日本語への翻訳は早い時期からあり

①上田敏訳「虱とるひと」(明治42年)
②山村暮鳥訳「虱取り」(大正3年)
③鈴木信太郎訳「虱を捜す女」(大正13年)
④三好達治訳「虱を探す二人の女」(昭和5年)
⑤西条八十訳「虱をとる女たち」(昭和5年)
――と5人による同時代訳が存在します。
(「新編中原中也全集 第3巻・翻訳・解題篇」より)

シャルルヴィル高等中学校時代のランボーは
2度の「家出」を試みていますが
修辞学級の担当教官イザンバールの
帰省先ドゥエのジャンドル家にこの時庇護され
家人の娘たちにもてなされた体験が下敷になって
この詩が作られたという研究が定説になっています。

とすれば
1971年の制作ということになります。

好んで放浪したランボーは
ろくに食事も取らず
粗末な塒(ねぐら)で夜を明かしたこともしばしばあり
虱は珍しいものではなかったようです。

しかし
ボワイヤンの詩論からすれば
経験したか否かということを超えて
小さな出来事を題材にして
幻像が拡大され
拡大された幻像が詩語化されたということも考えられます。

中原中也の訳は
そのあたりの呼吸をグイっと掴まえて
言葉が立っています。
強度があります。

一字一句に
魂がこもっているのですが
そう言ってしまえば
たやすいことのようで断然そうでない
命の懸かった仕事の結果であったことは
くれぐれも見失ってはなりません。

 *

 虱捜す女

嬰児の額が、赤い憤気(むづき)に充ちて来て、
なんとなく、夢の真白の群がりを乞うてゐるとき、
美しい二人の処女(をとめ)は、その臥床辺(ふしどべ)に現れる、
細指の、その爪は白銀の色をしてゐる。

花々の乱れに青い風あたる大きな窓辺に、
二人はその子を坐らせる、そして
露滴(しづ)くふさふさのその子の髪に
無気味なほども美しい細い指をばさまよはす。

さて子供(かれ)は聴く気づかはしげな薔薇色のしめやかな蜜の匂ひの
するやうな二人の息(いき)が、うたふのを、
唇にうかぶ唾液か接唇を求める慾か
ともすればそのうたは杜切れたりする。

子供(かれ)は感じる処女(をとめ)らの黒い睫毛がにほやかな雰気(けはひ)の中で
まばたくを、また敏捷(すばしこ)いやさ指が、
鈍色(にびいろ)の懶怠(たゆみ)の裡(うち)に、あでやかな爪の間で
虱を潰す音を聞く。

たちまちに懶怠(たゆみ)の酒は子供の脳にのぼりくる、
有頂天になりもやせんハモニカの溜息か。
子供は感ずる、ゆるやかな愛撫につれて、
絶え間なく泣きたい気持が絶え間なく消長するのを。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年3月 6日 (火)

中原中也が訳したランボー「酔ひどれ船」Bateau ivreその11

中原中也が翻訳したランボーの手紙は
全部で4篇あり、

①「ドラエー宛書簡1873年5月」が、
「紀元」昭和9年新年小説号(昭和9年1月1日発行)
②「ヴェルレーヌ宛書簡1873年7月4日」も同号、
③「同1873年7月7日」は、「苑」第二冊(昭和9年4月1日発行)
④「パンヴィル宛書簡1870年5月24日」は
「ヴァリエテ」第6号(昭和9年6月5日発行)にそれぞれ発表されました。

制作は、いずれも発行日の3か月前という推定ですが、
このうちの
④1870年5月24日付けでパンヴィルに宛てたものを
ここで読んでみましょう。

「酔いどれ船」を書く1年以上も前で
ランボー15歳。
シャルルヴィル高等中学校の修辞学級の担当教官イザンバールの
生徒であったランボーは
中央詩壇へのデビューを画策し
重鎮テオドール・ド・パンヴィルに
「現代高踏詩集」への自作詩の掲載を申し入れたのでした。

 ◇

ランボー書簡4 パンヴィル宛

 テオドル・ド・パンヴィル宛(註。此の手紙が最初に発表されたのは1925年10月10日発行のヌウヹル・リテレール誌上である)
                  シャルルヴィル(アルデンヌ県)にて、1870年5月24日

 拝啓
 時下春暖の候、小生間もなく17歳になります。(註。彼は16にもなつてゐなかつた。「間もなく」の語は、稿本では書いた上を消してある。) 世間流に申せば、希望と空想の年齢(とし)――扨小生事ミューズの指に触(さは)られまして――俗調平(ひら)にお許し下さい――信念、希望、感動などすべて詩人がもの――小生それを春のものと呼びたく存じますが――を、表現致し始めました。

 只今その若干を良き出版者ルメール氏を通じてお送り致すに就きまして、理想美に熱中致します全ての詩人、全てのパルナシアンを――斯(か)く申しますのは、詩人たるやパルナシアンでございませうから、――小生は慕つてをりますこと申上度(もうしあげたく)存じます。猶、貴下、ロンサアルの後裔(こうえい)、1830年代の宗匠の一人、真の浪漫主義者、真の詩人たる貴下を心よりお慕ひ致してゐることを申上げねばなりません。斯様(かよう)の次第にて、無躾(ぶしつけ)とは存じ乍(なが)ら、詩稿御送り致します。

 2年後の後、否恐らく1年のごには、小生出京致すでございませう――(小生も亦)、(訳者註。「小生も亦」はラテン語で書かれてある。) 其の節は諸兄と共にパルナシアンでございませう。それからどうなりますことか存じませんが、小生が美の神と自由の神を信奉致して永(とこし)へに変りませぬことは、お誓ひすることが出来ます。

 同封の詩(註。此の手紙には、次の諸詩篇が同封されてゐた。1870年4月20日と日附したSensation. 。1870年4月29日と日附したCredo in unam。これは後にSoleil et chair と改題されたものである。猶、追而書(おってが)きがあり、それは次のやうである。《若しこれらの詩篇が「現代詩文集」(パルナス・コンテンポラン)に載つてゐましたなら、どんなものでございませう?――これらの詩篇は、詩人等(パルナシアン)の誓約書とも云へるではありますまいか?――小生の名はいまだ知られてをりませぬ、が、ともかく詩人は皆互に兄弟であります――これらの詩篇は信じ、愛し、希望してをります。そしてそれが全てであります。先生、何卒(なにとぞ)小生を御起用下さい。小生は猶稚(わこ)うございます。何卒お手を伸べて下さいまし……》) 御高覧の程願上ます。Credo in unamを若し御掲載下さらば、希望と喜びに、小生は狂喜致すことでございませう。パルナス(註。「現代詩文集」(パルナス・コンタンポラン)の分本の最初の一群は、1866年に出た。次のは1869年以来着手されてゐたが、戦争のために遅延して1871年に出た。3度目のは1876年に。――ランボオに於けるパルナス礼讃及びさうした傾向が、一時的であつたことを強調して考へることは無益なことである。何故なら、やがて彼は浪漫主義をも象徴主義をもパルナス同様瞬く間に汲み尽してしまふのであるから。然し此の手紙の当時には、彼は学生らしい夢をみてゐたのである。彼は原稿が発表され、田舎を抜け出すことが叶へばとばかり考へてゐたのである。因みに彼のLes Etrennes des Orphelins は1870年に、《La Revue pour tous 》誌上に掲載されたのである。)のお仲間に加はるを得ば、諸兄等が綱領書(クレド)ともなるでございませう!
 右熱望してやみません!
                                      Arthur Rimbaud.

(「新編中原中也全集 第3巻・翻訳・本文篇」より。原作の漢数字を洋数字に、二重パーレンを《 》に替えました。また、読みやすくするために、改行・行空きを加えてあります。編者。)

本文中の、
Sensationは、中原中也訳では「感動」、Credo in unam「一ナル女性を信ズ」はラテン
語のタイトルで、その異稿は、Soleil et chair「太陽と肉体」、Les Etrennes des
Orphelinsは、中原中也訳で「孤児等のお年玉」です。

本文中の「註」は、
中原中也のもので
並大抵ではない研究の跡がうかがえます。

 *

 酔ひどれ船

私は不感な河を下って行ったのだが、
何時しか私の曳船人等は、私を離れているのであった、
みれば罵り喚く赤肌人等が、彼等を的にと引ッ捕らえ、
色とりどりの棒杭に裸のままで釘附けていた。

私は一行の者、フラマンの小麦や英綿(えいめん)の荷役には
とんと頓着していなかった
曳船人等とその騒ぎとが、私を去ってしまってからは
河は私の思うまま下らせてくれるのであった。

私は浪の狂える中を、さる冬のこと
子供の脳より聾乎(ぼつ)として漂ったことがあったっけが!
怒涛を繞(めぐ)らす半島と雖も
その時程の動乱を蒙(う)けたためしはないのであった。

嵐は私の海上に於ける警戒ぶりを讃歎した。
浮子(うき)よりももっと軽々私は浪間に躍っていた
犠牲者達を永遠にまろばすという浪の間に
幾夜ともなく船尾(とも)の灯に目の疲れるのも気に懸けず。

子供が食べる酸い林檎よりもしむみりと、
緑の水はわが樅の船体に滲むことだろう
又安酒や嘔吐の汚点(しみ)は、舵も錨も失せた私に
無暗矢鱈に降りかかった。

その時からだ、私は海の歌に浴した。
星を鏤(ちりば)め乳汁のような海の、
生々しくも吃水線は蒼ぐもる、緑の空に見入ってあれば、
折から一人の水死人、思い深げに下ってゆく。

其処に忽ち蒼然色(あおーいいろ)は染め出され、おどろしく
またゆるゆると陽のかぎろいのその下を、
アルコールよりもなお強く、竪琴よりも渺茫と、
愛執のにがい茶色も漂った!

私は知っている稲妻に裂かれる空を竜巻を
打返す浪を潮流を。私は夕べを知っている、
群れ立つ鳩にのぼせたような曙光を、
又人々が見たような気のするものを現に見た。

不可思議の畏怖に染みた落日が
紫の長い凝結(こごり)を照らすのは
古代の劇の俳優か、
大浪は遠くにはためき逆巻いている。

私は夢みた、眩いばかり雪降り積った緑の夜を
接唇(くちずけ)は海の上にゆらりゆらりと立昇り、
未聞の生気は循環し
歌うがような燐光は青に黄色にあざやいだ。

私は従った、幾月も幾月も、ヒステリックな
牛小舎に似た大浪が暗礁を突撃するのに、
もしかの光り耀うマリアの御足が
お望みとあらば太洋に猿轡かませ給うも儘なのを気が付かないで。

船は衝突(あた)った、世に不可思議なフロリダ州
人の肌膚の豹の目は叢なす花にいりまじり、
手綱の如く張りつめた虹は遙かの沖の方
海緑色の畜群に、いりまじる。

私は見た、沼かと紛う巨大な魚梁(やな)が沸き返るのを
其処にレヴィヤタンの一族は草に絡まり腐りゆき、
凪の中心(もなか)に海水は流れそそぎ
遠方(おちかた)は淵を目がけて滝となる!

氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠の空、
褐色の入江の底にぞっとする破船の残骸、
其処に大きな蛇は虫にくわれて
くねくねの木々の枝よりどす黒い臭気をあげては堕ちていた!

子供等にみせたかったよ、碧波に浮いている鯛、
其の他金色の魚、歌う魚、
漚(オウ)の花は私の漂流を祝福し、
えもいえぬ風は折々私を煽(おだ)てた。

時として地極と地帯に飽き果てた殉教者・海は
その歔欷(すすりなき)でもって私をあやし、
黄色い吸口のある仄暗い花をばかざした
その時私は膝つく女のようであった

半島はわが船近く揺らぎつつ金褐の目の
怪鳥の糞と争いを振り落とす、
かくてまた漂いゆけば、わが細綱を横切って
水死人の幾人か後方(しりえ)にと流れて行った……

私としてからが浦々の乱れた髪に踏み迷い
鳥も棲まわぬ気圏(そら)までも颶風によって投げられたらば
海防艦(モニトル)もハンザの船も
水に酔った私の屍骸(むくろ)を救ってくれはしないであろう、

思いのままに、煙吹き、紫色の霧立てて、
私は、詩人等に美味しいジャミや、
太陽の蘚苔(こけ)や青空の鼻涕(はな)を呉れる
壁のように赤らんだ空の中をずんずん進んだ、

電気と閃く星を著け、
黒い海馬に衛られて、狂える小舟は走っていた、
七月が、丸太ン棒で打つかとばかり
燃える漏斗のかたちした紺青の空を揺るがせた時、

私は慄えていた、五十里の彼方にて
ベヘモと渦潮の発情の気色(けはい)がすると、
ああ永遠に、青き不動を紡ぐ海よ、
昔ながらの欄干に倚る欧羅巴が私は恋しいよ。

私は見た! 天にある群島を! その島々の
狂おしいまでのその空は漂流う者に開放されてた、
底知れぬこんな夜々には眠っているのか、もう居ないのか
おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ!

だが、惟えば私は哭き過ぎた。曙は胸抉り、
月はおどろしく陽はにがかった。
どぎつい愛は心蕩(とろ)かす失神で私をひどく緊(し)めつけた。
おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまおう!

よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや
黒い冷たい林の中の瀦水(いけみず)で、其処に風薫る夕まぐれ
子供は蹲んで悲しみで一杯になって、放つのだ
五月の蝶かといたいけな笹小舟。

あゝ浪よ、ひとたびおまえの倦怠にたゆたっては、
棉船の水脈(みお)ひく跡を奪いもならず、
旗と炎の驕慢を横切りもならず、
船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこった。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※原作の歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改め、ルビは一部を省略しました。

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2012年3月 5日 (月)

中原中也が訳したランボー「酔ひどれ船」Bateau ivreその10

中原中也の「酔ひどれ船」Bateau ivreの翻訳は

第1次形態 「日本歌人」昭和10年(1935)1月13日制作(推定)
第2次形態 ①草稿 昭和10年11~12年(推定)
        ②「ランボオ詩抄」昭和10年12月~同11年(1936)6月制作(推定)
第3次形態 「ランボオ詩集」昭和11年6月~同12年8月28日(推定)
(「新編中原中也全集 第3巻 翻訳解題篇」より)

――という経過をたどっています。

「大正13年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ」と書いてから
発表するに足ると納得できた翻訳ができるまでに
10年以上の時間が流れていました。

この間、中原中也が
「見者(ボワイヤン)の思想」とか「見者の詩論」とか呼ばれているコンセプトに
どのように接触したのかといえば
小林秀雄のランボー論がすぐさま浮かんでくるのですが
こればかりではなく
ジャン・マリイ・キャレの著作「アルチュール・ランボオの文学生活の手紙」の原典に
中也自身が実際に当たっている節が推測できるのは
「ドラエー宛書簡1873年5月」
「ヴェルレーヌ宛書簡1873年7月4日」
「同1873年7月7日」
「パンヴィル宛1870年5月24日」の4篇を
キャレのこの原典から翻訳しているという事実があるからです。

見者の詩論が書かれた書簡の
1871年5月13日付けイザンバール宛のもの
5月15日付けのドメニーへ宛のもの
この2篇こそ翻訳しませんでしたが
ドラエー宛、
ヴェルレーヌ宛、
パンヴィル宛と計4篇の書簡を
同一の原典の中から翻訳しているのです。
つまり
見者(ボワイヤン)の思想について
中原中也が目を通さなかったはずはない、ということを
このことは意味しています。

いうまでもなく
書簡とは、作品以外の第一級資料です。

ちなみに
「ドラエー宛書簡1873年5月」は、
「紀元」昭和9年新年小説号(昭和9年1月1日発行)
「ヴェルレーヌ宛書簡1873年7月4日」も同号、
「同1873年7月7日」は、「苑」第二冊(昭和9年4月1日発行)
「パンヴィル宛書簡1870年5月24日」は
「ヴァリエテ」第6号(昭和9年6月5日発行)にそれぞれ発表されました。
制作は、いずれも発行日の3か月前という推定です。

「酔ひどれ船」の発表は
どの形態も昭和10年以降ですから
いずれも、詩人が「ボワイヤンの思想」を知って後のことになります。
以上は、あくまで推測であることを断っておきます。

 *

 酔ひどれ船

私は不感な河を下って行ったのだが、
何時しか私の曳船人等は、私を離れているのであった、
みれば罵り喚く赤肌人等が、彼等を的にと引ッ捕らえ、
色とりどりの棒杭に裸のままで釘附けていた。

私は一行の者、フラマンの小麦や英綿(えいめん)の荷役には
とんと頓着していなかった
曳船人等とその騒ぎとが、私を去ってしまってからは
河は私の思うまま下らせてくれるのであった。

私は浪の狂える中を、さる冬のこと
子供の脳より聾乎(ぼつ)として漂ったことがあったっけが!
怒涛を繞(めぐ)らす半島と雖も
その時程の動乱を蒙(う)けたためしはないのであった。

嵐は私の海上に於ける警戒ぶりを讃歎した。
浮子(うき)よりももっと軽々私は浪間に躍っていた
犠牲者達を永遠にまろばすという浪の間に
幾夜ともなく船尾(とも)の灯に目の疲れるのも気に懸けず。

子供が食べる酸い林檎よりもしむみりと、
緑の水はわが樅の船体に滲むことだろう
又安酒や嘔吐の汚点(しみ)は、舵も錨も失せた私に
無暗矢鱈に降りかかった。

その時からだ、私は海の歌に浴した。
星を鏤(ちりば)め乳汁のような海の、
生々しくも吃水線は蒼ぐもる、緑の空に見入ってあれば、
折から一人の水死人、思い深げに下ってゆく。

其処に忽ち蒼然色(あおーいいろ)は染め出され、おどろしく
またゆるゆると陽のかぎろいのその下を、
アルコールよりもなお強く、竪琴よりも渺茫と、
愛執のにがい茶色も漂った!

私は知っている稲妻に裂かれる空を竜巻を
打返す浪を潮流を。私は夕べを知っている、
群れ立つ鳩にのぼせたような曙光を、
又人々が見たような気のするものを現に見た。

不可思議の畏怖に染みた落日が
紫の長い凝結(こごり)を照らすのは
古代の劇の俳優か、
大浪は遠くにはためき逆巻いている。

私は夢みた、眩いばかり雪降り積った緑の夜を
接唇(くちずけ)は海の上にゆらりゆらりと立昇り、
未聞の生気は循環し
歌うがような燐光は青に黄色にあざやいだ。

私は従った、幾月も幾月も、ヒステリックな
牛小舎に似た大浪が暗礁を突撃するのに、
もしかの光り耀うマリアの御足が
お望みとあらば太洋に猿轡かませ給うも儘なのを気が付かないで。

船は衝突(あた)った、世に不可思議なフロリダ州
人の肌膚の豹の目は叢なす花にいりまじり、
手綱の如く張りつめた虹は遙かの沖の方
海緑色の畜群に、いりまじる。

私は見た、沼かと紛う巨大な魚梁(やな)が沸き返るのを
其処にレヴィヤタンの一族は草に絡まり腐りゆき、
凪の中心(もなか)に海水は流れそそぎ
遠方(おちかた)は淵を目がけて滝となる!

氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠の空、
褐色の入江の底にぞっとする破船の残骸、
其処に大きな蛇は虫にくわれて
くねくねの木々の枝よりどす黒い臭気をあげては堕ちていた!

子供等にみせたかったよ、碧波に浮いている鯛、
其の他金色の魚、歌う魚、
漚(オウ)の花は私の漂流を祝福し、
えもいえぬ風は折々私を煽(おだ)てた。

時として地極と地帯に飽き果てた殉教者・海は
その歔欷(すすりなき)でもって私をあやし、
黄色い吸口のある仄暗い花をばかざした
その時私は膝つく女のようであった

半島はわが船近く揺らぎつつ金褐の目の
怪鳥の糞と争いを振り落とす、
かくてまた漂いゆけば、わが細綱を横切って
水死人の幾人か後方(しりえ)にと流れて行った……

私としてからが浦々の乱れた髪に踏み迷い
鳥も棲まわぬ気圏(そら)までも颶風によって投げられたらば
海防艦(モニトル)もハンザの船も
水に酔った私の屍骸(むくろ)を救ってくれはしないであろう、

思いのままに、煙吹き、紫色の霧立てて、
私は、詩人等に美味しいジャミや、
太陽の蘚苔(こけ)や青空の鼻涕(はな)を呉れる
壁のように赤らんだ空の中をずんずん進んだ、

電気と閃く星を著け、
黒い海馬に衛られて、狂える小舟は走っていた、
七月が、丸太ン棒で打つかとばかり
燃える漏斗のかたちした紺青の空を揺るがせた時、

私は慄えていた、五十里の彼方にて
ベヘモと渦潮の発情の気色(けはい)がすると、
ああ永遠に、青き不動を紡ぐ海よ、
昔ながらの欄干に倚る欧羅巴が私は恋しいよ。

私は見た! 天にある群島を! その島々の
狂おしいまでのその空は漂流う者に開放されてた、
底知れぬこんな夜々には眠っているのか、もう居ないのか
おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ!

だが、惟えば私は哭き過ぎた。曙は胸抉り、
月はおどろしく陽はにがかった。
どぎつい愛は心蕩(とろ)かす失神で私をひどく緊(し)めつけた。
おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまおう!

よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや
黒い冷たい林の中の瀦水(いけみず)で、其処に風薫る夕まぐれ
子供は蹲んで悲しみで一杯になって、放つのだ
五月の蝶かといたいけな笹小舟。

あゝ浪よ、ひとたびおまえの倦怠にたゆたっては、
棉船の水脈(みお)ひく跡を奪いもならず、
旗と炎の驕慢を横切りもならず、
船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこった。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※原作の歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改め、ルビは一部を省略しました。

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2012年3月 4日 (日)

中原中也が訳したランボー「酔ひどれ船」Bateau ivreその9

「後(あと)六分間の御辛抱」と書いて
ランボーはポール・ドメニー宛の手紙のペンを休め
なにかゴソゴソと頭陀袋の中を探っています――

もちろん、ここは想像です。

尿意を充たすために
トイレに走ったのかもしれません。
この詩を挿入する前のくだりは
「うまく書けた!」と
ランボーの興奮が伝わってきますから 
そのための小休止であったかもしれません。

そこのところを
再び見ておきますと――


 
 「見者」たるべし、「見者」となるべし、と私は云うのです。
 「詩人」はあらゆる感覚の、久しい、宏大(こうだい)な、熟考された不羈奔放化によって「見者」となるのです。恋愛の、苦悩の、狂気のありとあらゆる形式です。

 己れ自身を探し求め、己れの裡(うち)にある一切の毒物を汲(く)み尽し、その精髄のみを保存するのです。口舌に尽し難い苦悩、その時こそ、あらゆる信念、あらゆる超人間的な力が必要であり、その時こそあらゆる人々の中で最も偉大な病者、最も偉大な罪人、最も偉大な呪(のろ)われ人となり、――果ては至上の「学者」となる!

 なにしろ彼は未知のものに達しているからである! それも既にいかなる魂にも増して豊穣(ほうじょう)だった自分の魂を自ら耕したからである。彼は未知のものに達したのである。

 そして気も錯乱して遂には自分の幻像が理解出来なくなった時、彼は正しくその幻像を見たわけです!

 数限りない前代未聞の事物による跳躍のなかで、くたばるならくたばるがよい。他の恐るべき労働者たちがその代わりにやって来るだろう。他方が倒れた地平線から彼等は仕事をやり始めることだろう。

――このあたりになりそうですが
これを何度も何度も読んでいると
「Bateau ivre」の作り方、作られ方が
見えてくることが分かりますね。

そうです! 
「見者の詩学」の
この核心部は
「Bateau ivre」がこのようにして書かれたということを
ランボー自らが明らかにしているようなのですが
いかがでしょうか。

詩人は見者になる必要がある
→あらゆる感覚を不羈奔放化する(経験する)
→恋愛、苦悩、狂気……。
→己れ自身を探し求め、
 己れの裡(うち)にある一切の毒物を汲(く)み尽し、
 その精髄のみを保存する。
→口舌に尽し難い苦悩(を味わう)、
→その時こそ、あらゆる信念、あらゆる超人間的な力が必要であり、
→その時こそ最も偉大な病者、
 最も偉大な罪人、
 最も偉大な呪(のろ)われ人となる
 果ては至上の「学者」となる
→未知のものに達する
→気も錯乱して
→自分の幻像が理解出来なくなる
→幻像を見た

そして、次のくだり――

くたばるならくたばるがよい。他の恐るべき労働者たちがその代わりにやって来るだろう。他方が倒れた地平線から彼等は仕事をやり始めることだろう。

――は、「Bateau ivre」の結末部に
直接、繋がっていきます。
つまり

おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまおう!

から、

あゝ浪よ、ひとたびおまえの倦怠にたゆたっては、
棉船の水脈(みお)ひく跡を奪いもならず、
旗と炎の驕慢を横切りもならず、
船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこった。

――の最終行へと。

棉船(綿船)、
旗と炎(トリコロールと革命)、
船橋の恐ろしい眼(監獄)

これらこそ
「酔ひどれ船」Bateau ivreが
たどってきた軌跡でありました。

少し強引かもしれませんが
ドメニー宛の「見者の詩論」が
「Bateau ivre」の読みをサポートしてくれることの証です。
その一つの例です。

 *

 酔ひどれ船

私は不感な河を下って行ったのだが、
何時しか私の曳船人等は、私を離れているのであった、
みれば罵り喚く赤肌人等が、彼等を的にと引ッ捕らえ、
色とりどりの棒杭に裸のままで釘附けていた。

私は一行の者、フラマンの小麦や英綿(えいめん)の荷役には
とんと頓着していなかった
曳船人等とその騒ぎとが、私を去ってしまってからは
河は私の思うまま下らせてくれるのであった。

私は浪の狂える中を、さる冬のこと
子供の脳より聾乎(ぼつ)として漂ったことがあったっけが!
怒涛を繞(めぐ)らす半島と雖も
その時程の動乱を蒙(う)けたためしはないのであった。

嵐は私の海上に於ける警戒ぶりを讃歎した。
浮子(うき)よりももっと軽々私は浪間に躍っていた
犠牲者達を永遠にまろばすという浪の間に
幾夜ともなく船尾(とも)の灯に目の疲れるのも気に懸けず。

子供が食べる酸い林檎よりもしむみりと、
緑の水はわが樅の船体に滲むことだろう
又安酒や嘔吐の汚点(しみ)は、舵も錨も失せた私に
無暗矢鱈に降りかかった。

その時からだ、私は海の歌に浴した。
星を鏤(ちりば)め乳汁のような海の、
生々しくも吃水線は蒼ぐもる、緑の空に見入ってあれば、
折から一人の水死人、思い深げに下ってゆく。

其処に忽ち蒼然色(あおーいいろ)は染め出され、おどろしく
またゆるゆると陽のかぎろいのその下を、
アルコールよりもなお強く、竪琴よりも渺茫と、
愛執のにがい茶色も漂った!

私は知っている稲妻に裂かれる空を竜巻を
打返す浪を潮流を。私は夕べを知っている、
群れ立つ鳩にのぼせたような曙光を、
又人々が見たような気のするものを現に見た。

不可思議の畏怖に染みた落日が
紫の長い凝結(こごり)を照らすのは
古代の劇の俳優か、
大浪は遠くにはためき逆巻いている。

私は夢みた、眩いばかり雪降り積った緑の夜を
接唇(くちずけ)は海の上にゆらりゆらりと立昇り、
未聞の生気は循環し
歌うがような燐光は青に黄色にあざやいだ。

私は従った、幾月も幾月も、ヒステリックな
牛小舎に似た大浪が暗礁を突撃するのに、
もしかの光り耀うマリアの御足が
お望みとあらば太洋に猿轡かませ給うも儘なのを気が付かないで。

船は衝突(あた)った、世に不可思議なフロリダ州
人の肌膚の豹の目は叢なす花にいりまじり、
手綱の如く張りつめた虹は遙かの沖の方
海緑色の畜群に、いりまじる。

私は見た、沼かと紛う巨大な魚梁(やな)が沸き返るのを
其処にレヴィヤタンの一族は草に絡まり腐りゆき、
凪の中心(もなか)に海水は流れそそぎ
遠方(おちかた)は淵を目がけて滝となる!

氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠の空、
褐色の入江の底にぞっとする破船の残骸、
其処に大きな蛇は虫にくわれて
くねくねの木々の枝よりどす黒い臭気をあげては堕ちていた!

子供等にみせたかったよ、碧波に浮いている鯛、
其の他金色の魚、歌う魚、
漚(オウ)の花は私の漂流を祝福し、
えもいえぬ風は折々私を煽(おだ)てた。

時として地極と地帯に飽き果てた殉教者・海は
その歔欷(すすりなき)でもって私をあやし、
黄色い吸口のある仄暗い花をばかざした
その時私は膝つく女のようであった

半島はわが船近く揺らぎつつ金褐の目の
怪鳥の糞と争いを振り落とす、
かくてまた漂いゆけば、わが細綱を横切って
水死人の幾人か後方(しりえ)にと流れて行った……

私としてからが浦々の乱れた髪に踏み迷い
鳥も棲まわぬ気圏(そら)までも颶風によって投げられたらば
海防艦(モニトル)もハンザの船も
水に酔った私の屍骸(むくろ)を救ってくれはしないであろう、

思いのままに、煙吹き、紫色の霧立てて、
私は、詩人等に美味しいジャミや、
太陽の蘚苔(こけ)や青空の鼻涕(はな)を呉れる
壁のように赤らんだ空の中をずんずん進んだ、

電気と閃く星を著け、
黒い海馬に衛られて、狂える小舟は走っていた、
七月が、丸太ン棒で打つかとばかり
燃える漏斗のかたちした紺青の空を揺るがせた時、

私は慄えていた、五十里の彼方にて
ベヘモと渦潮の発情の気色(けはい)がすると、
ああ永遠に、青き不動を紡ぐ海よ、
昔ながらの欄干に倚る欧羅巴が私は恋しいよ。

私は見た! 天にある群島を! その島々の
狂おしいまでのその空は漂流う者に開放されてた、
底知れぬこんな夜々には眠っているのか、もう居ないのか
おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ!

だが、惟えば私は哭き過ぎた。曙は胸抉り、
月はおどろしく陽はにがかった。
どぎつい愛は心蕩(とろ)かす失神で私をひどく緊(し)めつけた。
おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまおう!

よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや
黒い冷たい林の中の瀦水(いけみず)で、其処に風薫る夕まぐれ
子供は蹲んで悲しみで一杯になって、放つのだ
五月の蝶かといたいけな笹小舟。

あゝ浪よ、ひとたびおまえの倦怠にたゆたっては、
棉船の水脈(みお)ひく跡を奪いもならず、
旗と炎の驕慢を横切りもならず、
船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこった。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※原作の歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改め、ルビは一部を省略しました。

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2012年3月 2日 (金)

中原中也が訳したランボー「酔ひどれ船」Bateau ivreその8

ランボーの「見者の美学」について
見当がついたところで
中原中也訳の「酔ひどれ船」Bateau ivreを
もう一度読み直しておきましょう。

初めて読んでからほぼ半年が経って
変化があるかどうかを
自己確認するためにも――

私は一艘の船、糞面白くもない不感の河を下って行ったのだが
いつの間にか、船曳きどもは、私から離反していたのだった、
気がついた時には赤肌たちが、奴らを引っ捕まえて、
色鮮やかな棒杭に縛りつけ裸のまんま釘付けにしてしまっていた。

(船に革命が起きたのです。)

私は一行の者、つまり、フラマンの小麦やイギリス綿の荷役(にやく)などに
まったくかまけていなかった
船曳きどもと、奴らが起こした騒ぎとが、私から去ってしまってからは
河は私を思うがままに下らせてくれるのだった。

(酔っ払った船のように漂流が始まります。フラマンの小麦やイギリスの綿花を運ぶ任務もなくなり、舵も錨もない解放された航海は、革命=パリ・コンミューンの解放区を暗示しています。)

波が荒れ狂う中を、過ぎ去った冬のこと
子どもの頭よりもきかんぼうに漂ったことがあったっけ!

(「聾乎(ぼつ)として」は「聞き分けのない」の意味の中原中也独自の訳語です。滅茶苦茶に漂流しまくった、って感じです。)

怒涛の波に洗われる半島の周辺といえども
その時ほど荒れ狂ったことはない、凄まじい動乱だったさ。

嵐は私の警戒ぶりを褒めたたえたよ。
浮きよりも軽々と波間におどったもんだ
それまで犠牲になった者たちを永遠にもてあそんでいる波の間に放り出されて
幾夜も幾夜も艫(とも)の灯に目が疲れるなんてことも気にならなかった

(嵐のほうが私の警戒ぶりを褒めてくれた。
私は浮きよりも軽快に波間を行き交ったもんだ。
それまでの犠牲者を永遠に弄んでいる波間にほっぽりだされて、
毎夜艫(とも)にある照明灯のまぶしい光にやられても気にならなかったさ。)

子どもが食べるすっぱいリンゴよりしんみりした

(「しんみり」は「熟す」で「甘酸っぱい」の意味か、ここも中也らしい。)

緑の海水は樅(もみ)の木でできた船体に染み込むことだろう
安酒アブサンやゲロの痕が、舵も錨もなくなった私にやたらと刻まれることになった。

(船がアルコール臭のするゲロの臭気で満ちていた)

その時からだ、(真に)海の歌を浴びたのは。

(「海の歌」の目のくらむような色彩の祭典の始まりです。特に、この連からの5連ほどは、ランボーの韻文詩の中でも、類例を見ない絢爛豪華な原色の絵巻。言語で描かれる油彩絵画です。中原中也は「色」の翻訳をおろそかにしません。)

星をちりばめたミルクのような夜の海に
生々しくも船の吃水線が青ずんで、緑の空に溶け込みそうなところを
丁度、一人の水死人が、何か考え込むように落ちて行く。

(水死体が一つ、何かを考えたまま硬直して海面を降りていく景色も、神秘的な美しさを帯びていながら、恐怖を誘うものではありません。)

そこにたちまちにして蒼―い(あおーい)色が浮かび、おどろおどろしく
また太陽のかぎろいがゆるゆるしはじめる、その下を
アルコールよりもずっと強く、オルゴールよりも渺茫として
愛執の、苦い茶色が混ざって、漂ったのだ!

(青、緑のグラデーションに、黄色、赤、茶色……の眩暈!)

私は知っている。稲妻に裂かれる空、竜巻を
打ち返す波、潮を。夕べを知っている、
群れ立つ鳩に、上気したようなピンクの朝日を、
また、人々がにおぼろげに見たような(幻を)この目で見た。

(稲妻、空、竜巻、波、潮、夕べ、群れ立つ鳩、朝日……まぼろし)

落日は、不可思議なるものの畏怖に染まり
紫色の長い長い塊(かたまり)を照らし出すのは
古代ギリシアの劇の俳優たちか

(ギリシア悲劇の合唱隊=コロスをさしているのでしょうか。)

巨大な波が遠くの方で逆巻いている。

私は夢みた、眩いばかり雪降り積った緑の夜を
接唇(くちずけ)は海の上にゆらりゆらりと立昇り、
未聞の生気は循環し
歌うがような燐光は青に黄色にあざやいだ。

(ここは第10連で、大洋に出た船が猛(たけ)り狂う現実の海のさ中にあって、目も眩(くら)むばかりの雪が降り積もった緑の夜を夢に見る、というシーン。気が遠くなるような美しい景色です。)

雪の白が夜の中で緑を帯びる眩(まばゆ)い光景に
接吻(くちづけ)が海の上にゆらりゆらりと立ち昇ってくる

(というのは、太陽が昇ってくる朝の景色でしょうか。)

かつて聞いたこともない生気がぐるぐると循環し
歌うような(赤い)燐光は青や黄色に映えていっそう鮮烈さを増した

(大海原に雪が降り積もり緑色を帯びている夜の夢が、太陽の昇るシーンへ場面転換し、めくるめく色彩の乱舞するサンライジングのあざやぎ! この「あざやぐ」は、中原中也がよく使う造語です。「あゝ! 過ぎし日の 仄燃えあざやぐ をりをりは」の例が「含羞」にあるほかにも、いくつかが使われています。)

私は従った、幾月も幾月も、ヒステリックな
牛小屋に似た大波が暗礁にぶつかっていくのに
もしもあの光り輝くマリアの御足が
お望みとあらば大洋に猿轡(さるぐつわ)をかませ給うたままであったのにも気付かずに。

(この連あたりから、恍惚の絶頂が過ぎて、なにやら崩壊し、下降する感覚。)

船は衝突した、世にも不思議なフロリダ州
人の肌の色をした豹の目は、群れなして咲く花々にまじって
手綱のように張り詰めた虹は遙か彼方の沖合いで
海の緑の色をした畜獣の群れに、混ざり合っている。

(ヨーロッパを離れて、アメリカ大陸沿岸を漂流していた船が、フロリダ半島に衝突します。衝突といっても、船が陸地にぶつかって座礁した、というのではなく、いつしか、フロリダ沖に流れ着いてしまったということらしい。)

私は見た、沼かと見間違えそうな巨大な魚簗(やな)が沸き返り
そこにリバイアサンの仲間が草にからまり腐ってゆき
凪の中心に海水は流れ込み
遠くの方の深みをめがけて滝となって落ちているのを。

(沼と見まごう巨大な漁場で、怪物の群れが海草に絡まり、腐っている。リバイアサンは、旧約聖書に現れる怪物。イギリスの政治思想家ホッブスの著作のタイトルにもなり、広く知られました。凪がやってくると中心部に海水は流れ注いで、遠くのほうが滝になって落ちています。)

氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠(オキ)のような空
褐色の入江の底にはぞっとする破船の残骸
そこに大蛇(おろち)が虫の餌食になって
くねくねと曲がった木々の枝よりもどす黒い臭気を放って死んでいた。

(海の歌は、墓場の歌をいつしか歌っています。破船の残骸、大蛇の屍骸に群がる虫。「くねくねと」は、中原中也の自作詩「盲目の秋」の最終行「うねうねの瞑土(よみぢ)の径を昇りゆく。」を連想させます。)

子どもらに見せてやりたかった、碧い波に浮いている鯛や
そのほか、金色の魚、歌う魚

泡沫=うたかたは、私の漂流を祝福し
なんともいえない風が吹いて時々は航行を進めてくれるのだった。

(……しかし、墓場は海の底の光景で、海面の景色ばかりは、子供たちに、というのは、国の友人たちのことでしょうか、見せてあげたかった、と私=船は思うのでした。漚=オウの花とは「泡沫」がかなり近い言葉でしょうか。その漚の合間に浮ぶ鯛や金魚や歌う魚! )

時には地極と地帯にあき果てた殉教者さながら海は
すすり泣いて私をあやしなだめ
黄色い吸い口がある仄暗い花をかざして見せた
その時私は祈るようなポーズになっていた、跪く女のようであった。

半島が近づいて揺らぎ金褐色の目をした
怪鳥の糞を撒き散らす
こうしてまた漂流してゆけば、船のロープを横切って
水死体が幾つも後方に流れて行ったこともあった……

(半島が目の前に迫りました。金色をまぶした褐色、オレンジ・ゴールドの目の怪鳥の放つクソを、払い落としながら、私は漂い続けると、また幾人かの水死人が流れてゆくのが見えました。)

私でさえ浦という浦の乱れた髪のい中に踏み迷い
鳥も棲まない大空へハリケーンによって投げられてしまったら
モニター艦もハンザの船も
水に酔っ払ってしまった私の屍骸を救出してくれることもないだろう、

思うままに、煙を吹き出し、紫色の霧を吐き上げて
私は、詩人たちにおいしいジャムや
太陽の苔や青空の鼻水を与えてくれる
壁のように赤らんだ空の中をズンズンと進んでいった、

カミナリとさんざめく星を着け、
黒い海馬に守られて、狂った小舟(私のことか?)は走っていた
7月が、丸太棒を打つかのように
燃える漏斗形の紺青の空を揺るがせた時、

(夏の海の紺青の空が「ロート」の形に捉えられたのです。)

私は震えていた、50里の彼方で
ベヘモと渦潮(メールストローム)が発情する気配がすると
ああ永遠に、青く不動の海よ
昔ながらの欄干にもたれるヨーロッパが恋しい!

(ついに、弱音が吐かれます。「欄干」も中原中也の詩「長門峡」に出てきます。長男文也を失った詩人の悲しみが歌われた旅館の欄干です。)

私は見た! 天を飛ぶ群鳥を! その島々の
狂おしいまでのその空は漂流者たちに開放されていた
底知れぬこんな夜に眠ってはいられない、もういないのか
おお、百万の金の鳥、未来よ! 精力よ!

だが、思えば私は慟哭し過ぎた。曙光は胸を抉(えぐ)り
月はおどろしく太陽は苦かったから。
どぎつい愛は心をとろかして私をいかせてしまい縛りつけてしまった。
おお! 竜骨も砕けてしまえ、私も海に沈んでしまおう!

(砕けてしまえ、と「大黒柱」に呼びかけるのです。どうなっても構わないという、破れかぶれの心境は、どこからやってくるのでしょうか。)

もし私がヨーロッパの水を欲しているとしても、それはもはや
黒い冷たい林の中の池水で、そこに風薫る夕まぐれに
子どもは蹲(しゃが)んで悲しみでいっぱいになって、放つのだ
5月の蝶とかいたいけない笹小舟。

おお波よ、ひとたびお前の倦怠(けだい)にたゆたっては
棉船の水脈をひく航跡を奪ってしまうわけにもいかず
旗と炎の驕慢を横切りもできず
船橋の、恐ろしい眼の下を潜り抜けることも出来ないってことなのさ。

(「倦怠」も、ここでは「けだい」と読みました。波に揺られるままの漂流、酔っ払ったままの旅を、いつまで続けなければならないのか――。生きるための漂流であるにしても、波よ、いくらお前と相性がよくとも、うんざりもしてくるよ、波よ、わが友よ、わが命よ。多少なりとも、「倦怠」でランボーと中原中也がクロスします。自由に倦(う)んじた詩人と悲しみ呆(ぼ)けの詩人と……。)

 *

 酔ひどれ船

私は不感な河を下って行ったのだが、
何時しか私の曳船人等は、私を離れているのであった、
みれば罵り喚く赤肌人等が、彼等を的にと引ッ捕らえ、
色とりどりの棒杭に裸のままで釘附けていた。

私は一行の者、フラマンの小麦や英綿(えいめん)の荷役には
とんと頓着していなかった
曳船人等とその騒ぎとが、私を去ってしまってからは
河は私の思うまま下らせてくれるのであった。

私は浪の狂える中を、さる冬のこと
子供の脳より聾乎(ぼつ)として漂ったことがあったっけが!
怒涛を繞(めぐ)らす半島と雖も
その時程の動乱を蒙(う)けたためしはないのであった。

嵐は私の海上に於ける警戒ぶりを讃歎した。
浮子(うき)よりももっと軽々私は浪間に躍っていた
犠牲者達を永遠にまろばすという浪の間に
幾夜ともなく船尾(とも)の灯に目の疲れるのも気に懸けず。

子供が食べる酸い林檎よりもしむみりと、
緑の水はわが樅の船体に滲むことだろう
又安酒や嘔吐の汚点(しみ)は、舵も錨も失せた私に
無暗矢鱈に降りかかった。

その時からだ、私は海の歌に浴した。
星を鏤(ちりば)め乳汁のような海の、
生々しくも吃水線は蒼ぐもる、緑の空に見入ってあれば、
折から一人の水死人、思い深げに下ってゆく。

其処に忽ち蒼然色(あおーいいろ)は染め出され、おどろしく
またゆるゆると陽のかぎろいのその下を、
アルコールよりもなお強く、竪琴よりも渺茫と、
愛執のにがい茶色も漂った!

私は知っている稲妻に裂かれる空を竜巻を
打返す浪を潮流を。私は夕べを知っている、
群れ立つ鳩にのぼせたような曙光を、
又人々が見たような気のするものを現に見た。

不可思議の畏怖に染みた落日が
紫の長い凝結(こごり)を照らすのは
古代の劇の俳優か、
大浪は遠くにはためき逆巻いている。

私は夢みた、眩いばかり雪降り積った緑の夜を
接唇(くちずけ)は海の上にゆらりゆらりと立昇り、
未聞の生気は循環し
歌うがような燐光は青に黄色にあざやいだ。

私は従った、幾月も幾月も、ヒステリックな
牛小舎に似た大浪が暗礁を突撃するのに、
もしかの光り耀うマリアの御足が
お望みとあらば太洋に猿轡かませ給うも儘なのを気が付かないで。

船は衝突(あた)った、世に不可思議なフロリダ州
人の肌膚の豹の目は叢なす花にいりまじり、
手綱の如く張りつめた虹は遙かの沖の方
海緑色の畜群に、いりまじる。

私は見た、沼かと紛う巨大な魚梁(やな)が沸き返るのを
其処にレヴィヤタンの一族は草に絡まり腐りゆき、
凪の中心(もなか)に海水は流れそそぎ
遠方(おちかた)は淵を目がけて滝となる!

氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠の空、
褐色の入江の底にぞっとする破船の残骸、
其処に大きな蛇は虫にくわれて
くねくねの木々の枝よりどす黒い臭気をあげては堕ちていた!

子供等にみせたかったよ、碧波に浮いている鯛、
其の他金色の魚、歌う魚、
漚(オウ)の花は私の漂流を祝福し、
えもいえぬ風は折々私を煽(おだ)てた。

時として地極と地帯に飽き果てた殉教者・海は
その歔欷(すすりなき)でもって私をあやし、
黄色い吸口のある仄暗い花をばかざした
その時私は膝つく女のようであった

半島はわが船近く揺らぎつつ金褐の目の
怪鳥の糞と争いを振り落とす、
かくてまた漂いゆけば、わが細綱を横切って
水死人の幾人か後方(しりえ)にと流れて行った……

私としてからが浦々の乱れた髪に踏み迷い
鳥も棲まわぬ気圏(そら)までも颶風によって投げられたらば
海防艦(モニトル)もハンザの船も
水に酔った私の屍骸(むくろ)を救ってくれはしないであろう、

思いのままに、煙吹き、紫色の霧立てて、
私は、詩人等に美味しいジャミや、
太陽の蘚苔(こけ)や青空の鼻涕(はな)を呉れる
壁のように赤らんだ空の中をずんずん進んだ、

電気と閃く星を著け、
黒い海馬に衛られて、狂える小舟は走っていた、
七月が、丸太ン棒で打つかとばかり
燃える漏斗のかたちした紺青の空を揺るがせた時、

私は慄えていた、五十里の彼方にて
ベヘモと渦潮の発情の気色(けはい)がすると、
ああ永遠に、青き不動を紡ぐ海よ、
昔ながらの欄干に倚る欧羅巴が私は恋しいよ。

私は見た! 天にある群島を! その島々の
狂おしいまでのその空は漂流う者に開放されてた、
底知れぬこんな夜々には眠っているのか、もう居ないのか
おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ!

だが、惟えば私は哭き過ぎた。曙は胸抉り、
月はおどろしく陽はにがかった。
どぎつい愛は心蕩(とろ)かす失神で私をひどく緊(し)めつけた。
おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまおう!

よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや
黒い冷たい林の中の瀦水(いけみず)で、其処に風薫る夕まぐれ
子供は蹲んで悲しみで一杯になって、放つのだ
五月の蝶かといたいけな笹小舟。

あゝ浪よ、ひとたびおまえの倦怠にたゆたっては、
棉船の水脈(みお)ひく跡を奪いもならず、
旗と炎の驕慢を横切りもならず、
船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこった。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※原作の歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改め、ルビは一部を省略しました。

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2012年3月 1日 (木)

中原中也が訳したランボー「酔ひどれ船」Bateau ivreその7

ランボーが友人ポール・ドメニー宛に
1871年5月15日付けに出した書簡を読み進めます。
「ランボーの手紙」(祖川孝訳、角川文庫)から引用して読んでいますが
終わりが見えています。

(前回からつづく)

 第二期の浪漫主義者はなかなかの「見者」です。テオフィル・ゴーティエ、ルコント・ド・リイル、テオドール・ド・パンヴィルなど。しかし、眼に見えざるものを検分したり未聞のものを聞いたりすることは、静物の精神を捉(とら)えるなどということとはまた別問題で、その点ボードレールは第一の見者であり、詩人の王者であり、「ほんとうの神」とも云うべきひとです。それでもまだ、彼はあまり芸術的に過ぎた環境の中で生活をしました。で、あれほど彼の作品でもてはやされる形式も安っぽいものです。未知のものの発明には新しい形式が必要です。

 陳腐な形式に苦労している連中。たあいのない連中のうちでは、A・ルノオ――これは彼式の「ロオラ」を作詩し、――L・グランデも――彼式の「ロオラ」を作りました。ゴール人的で、ミュッセ派の連中はG・ラフネエトル、コラン、C・L・ポプラン、スウラリイ、L・サル。書生連中ではマルク、エーキャル、トゥリエ。死物で愚物の連中には、オゥトラン、バルビエ、L・ピシヤァ、ルモワァアヌ、デシャン兄弟、デ・ゼサアル兄弟、ジャーナリストでは、L・クラデル、ロベエル、リュザルシュ、X・ド・リカァル、幻想派(ファンテジイスト)にはC・マンデス、放浪派(ボヘミアン)、女流。才能ある連中では、レオン・ディエルス、それにスュリイ・プリュドム、コペ。新流派の所謂(いわゆる)高踏派(パルナシアン)には見者が二人います。アルベール・メラに真の詩人ポール・ヴェルレーヌです。以上の通りです。

 こんな風で、わたしは見者になろうとして励んでいます。では敬虔(けいけん)な歌を詠んで擱筆(かくひつ)しましょう。

  蹲踞(そんきょ)

朝遅く、胃の腑がちくちく痛み出すと
兄のキャロテュスは、天窓の一つ穴から
さし込む陽の光の、磨かれた大鍋(おおなべ)のような明るさに
偏頭痛は惹(ひ)き起すし、視線を切身のように据え
敷布の中で坊主の寝返りをうつ。

鼠色の毛布の中で のたうち廻り
波うつ腹へ膝(ひざ)をひんまげ
気も顚倒(てんとう)せんばかりの有様は、獲ものにありつこうとする老いぼれさながら。
なにしろ白い壺(つぼ)の柄をしっかり摑んで
腰まですっぽりシャツをまくり上げねばならぬからだ。

ところで 寒がり屋の彼は、しゃがみ込んだ、足の指をかじかませて。
パン菓子の黄色いやつを 紙の窓がらすに
射し込ませるその陽ざしの中で、身ぶるいしながら。
ラックのようにてらてら灯(とも)る結構人の鼻面が
陽の光でびくびく動き さながら肉の珊瑚樹(さんごじゅ)だ。

結構人はとろ火にあたる按配(あんばい)で、腕拱(く)み合せ、下唇を腹までたらし。
今にも腿(もも)が火中に滑るほど、ほてり返り、
ズボンを焦すかと見れば、パイプの火が消える。
なにか小鳥のようなものが、かすかながらうごめく
晴ればれとお腹んところで、まるで臓物のひときれみたいに。

あたりでは、古ぼけた家具のがらくたがねむり
垢(あか)じみた襤褸(ぼろ)の中やら、よごれ腐ったものの上には、
腰掛けだの、見なれぬ“がま”椅子だのがうずくまる
暗い片隅でだ。食器棚にある歌い手の口が
凄(す)さまじい食欲にたらふく食って睡気がし、細めに開く。

むかむかする熱気が、狭苦しい部屋にみなぎり
結構人の脳漿(のうしょう)は襤褸くずでいっぱいだ。
じめじめした油の皮膚に毛の生える音がする。
そして、ときどき、ものものしいおどけたしゃくりをあげて
脱け出すのだ。ちんばの腰掛をゆすぶりながら。

    *

そして夕、臀部(でんぶ)のまわりに
光の汚点を作りなす月の光をうけて
くっきりと一つの影が 薔薇(ばら)いろの雪を背に
じっとうずくまる その様はまるで立葵(たちあおい)かと……
面白や、空の奥まで鼻面はヴィナスを追っかける。

 返事を下さらなかったりしたら、あなたはそれこそ大嫌いな人間になりますよ。至急にね。一週間すれば巴里へ行くかも知れませんから。
 さよなら。
                                 A・ランボオ

以上が全文です。

17歳のランボーの
才気煥発(さいきかんぱつ)ぶり!
詩以外のこと、
文学以外のことを何も考えなかった早熟の詩人から
迸(ほとばし)る英気、野望、覇気……。

その一部でもが垣間見られるなら
ランボーが書いた
ある一つの書簡の全文を読む意義もあるに違いありません。

ところで
中原中也は
ランボーの手紙類を読んだことがあったでしょうか――。

1871年5月15日に書かれた手紙の
全文をここに引用した祖川孝訳「ランボオの手紙」(角川文庫)の原典は
ジャン・マリイ・キャレの著作「アルチュール・ランボオの文学生活の手紙」で
1870年から1875年にフランスのN・R・F社によって発行されたもの。
機会あるたびに
フランスの各種雑誌に発表されたものの中から
キャレエが選んでひとまとめにして、
1931年に刊行したそうです。
(同書あとがき)

中原中也はキャレの原文をなんらかの方法で入手し
中の
「ドラエー宛書簡1873年5月」
「ヴェルレーヌ宛書簡1873年7月4日」
「同1873年7月7日」
「パンヴィル宛1870年5月24日」の4篇を
詩誌などに発表しています。

ランボーの書簡の翻訳は
高木佑一郎訳「ランボオの手紙」(版画荘、昭和12年)が
同時代訳として存在し
ほかにも幾つかの訳が
雑誌などに紹介されていました。
(「新編中原中也全集第3巻 翻訳・解題篇」より)

 *

 酔ひどれ船

私は不感な河を下って行ったのだが、
何時しか私の曳船人等は、私を離れているのであった、
みれば罵り喚く赤肌人等が、彼等を的にと引ッ捕らえ、
色とりどりの棒杭に裸のままで釘附けていた。

私は一行の者、フラマンの小麦や英綿(えいめん)の荷役には
とんと頓着していなかった
曳船人等とその騒ぎとが、私を去ってしまってからは
河は私の思うまま下らせてくれるのであった。

私は浪の狂える中を、さる冬のこと
子供の脳より聾乎(ぼつ)として漂ったことがあったっけが!
怒涛を繞(めぐ)らす半島と雖も
その時程の動乱を蒙(う)けたためしはないのであった。

嵐は私の海上に於ける警戒ぶりを讃歎した。
浮子(うき)よりももっと軽々私は浪間に躍っていた
犠牲者達を永遠にまろばすという浪の間に
幾夜ともなく船尾(とも)の灯に目の疲れるのも気に懸けず。

子供が食べる酸い林檎よりもしむみりと、
緑の水はわが樅の船体に滲むことだろう
又安酒や嘔吐の汚点(しみ)は、舵も錨も失せた私に
無暗矢鱈に降りかかった。

その時からだ、私は海の歌に浴した。
星を鏤(ちりば)め乳汁のような海の、
生々しくも吃水線は蒼ぐもる、緑の空に見入ってあれば、
折から一人の水死人、思い深げに下ってゆく。

其処に忽ち蒼然色(あおーいいろ)は染め出され、おどろしく
またゆるゆると陽のかぎろいのその下を、
アルコールよりもなお強く、竪琴よりも渺茫と、
愛執のにがい茶色も漂った!

私は知っている稲妻に裂かれる空を竜巻を
打返す浪を潮流を。私は夕べを知っている、
群れ立つ鳩にのぼせたような曙光を、
又人々が見たような気のするものを現に見た。

不可思議の畏怖に染みた落日が
紫の長い凝結(こごり)を照らすのは
古代の劇の俳優か、
大浪は遠くにはためき逆巻いている。

私は夢みた、眩いばかり雪降り積った緑の夜を
接唇(くちずけ)は海の上にゆらりゆらりと立昇り、
未聞の生気は循環し
歌うがような燐光は青に黄色にあざやいだ。

私は従った、幾月も幾月も、ヒステリックな
牛小舎に似た大浪が暗礁を突撃するのに、
もしかの光り耀うマリアの御足が
お望みとあらば太洋に猿轡かませ給うも儘なのを気が付かないで。

船は衝突(あた)った、世に不可思議なフロリダ州
人の肌膚の豹の目は叢なす花にいりまじり、
手綱の如く張りつめた虹は遙かの沖の方
海緑色の畜群に、いりまじる。

私は見た、沼かと紛う巨大な魚梁(やな)が沸き返るのを
其処にレヴィヤタンの一族は草に絡まり腐りゆき、
凪の中心(もなか)に海水は流れそそぎ
遠方(おちかた)は淵を目がけて滝となる!

氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠の空、
褐色の入江の底にぞっとする破船の残骸、
其処に大きな蛇は虫にくわれて
くねくねの木々の枝よりどす黒い臭気をあげては堕ちていた!

子供等にみせたかったよ、碧波に浮いている鯛、
其の他金色の魚、歌う魚、
漚(オウ)の花は私の漂流を祝福し、
えもいえぬ風は折々私を煽(おだ)てた。

時として地極と地帯に飽き果てた殉教者・海は
その歔欷(すすりなき)でもって私をあやし、
黄色い吸口のある仄暗い花をばかざした
その時私は膝つく女のようであった

半島はわが船近く揺らぎつつ金褐の目の
怪鳥の糞と争いを振り落とす、
かくてまた漂いゆけば、わが細綱を横切って
水死人の幾人か後方(しりえ)にと流れて行った……

私としてからが浦々の乱れた髪に踏み迷い
鳥も棲まわぬ気圏(そら)までも颶風によって投げられたらば
海防艦(モニトル)もハンザの船も
水に酔った私の屍骸(むくろ)を救ってくれはしないであろう、

思いのままに、煙吹き、紫色の霧立てて、
私は、詩人等に美味しいジャミや、
太陽の蘚苔(こけ)や青空の鼻涕(はな)を呉れる
壁のように赤らんだ空の中をずんずん進んだ、

電気と閃く星を著け、
黒い海馬に衛られて、狂える小舟は走っていた、
七月が、丸太ン棒で打つかとばかり
燃える漏斗のかたちした紺青の空を揺るがせた時、

私は慄えていた、五十里の彼方にて
ベヘモと渦潮の発情の気色(けはい)がすると、
ああ永遠に、青き不動を紡ぐ海よ、
昔ながらの欄干に倚る欧羅巴が私は恋しいよ。

私は見た! 天にある群島を! その島々の
狂おしいまでのその空は漂流う者に開放されてた、
底知れぬこんな夜々には眠っているのか、もう居ないのか
おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ!

だが、惟えば私は哭き過ぎた。曙は胸抉り、
月はおどろしく陽はにがかった。
どぎつい愛は心蕩(とろ)かす失神で私をひどく緊(し)めつけた。
おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまおう!

よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや
黒い冷たい林の中の瀦水(いけみず)で、其処に風薫る夕まぐれ
子供は蹲んで悲しみで一杯になって、放つのだ
五月の蝶かといたいけな笹小舟。

あゝ浪よ、ひとたびおまえの倦怠にたゆたっては、
棉船の水脈(みお)ひく跡を奪いもならず、
旗と炎の驕慢を横切りもならず、
船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこった。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※原作の歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改め、ルビは一部を省略しました。

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