中原中也が訳したランボー「涙」Larmeその3
これが、いつも具体世界との直接の取引に終始した彼が生涯に歌う事の出来た唯一の抒情詩であった。
何故かと言うと、彼が飢渇という唯一つの抒情の主題しか持っていなかったからである。感傷でもない、懐疑でもない、まさに抒情詩なのだが、あらゆる抒情詩の成立条件を廃棄した様に見えるその純粋さを前にしては、凡そ世上の所謂抒情詩は、贅肉と脂肪とで腐っている。
何の感情もないところから、一つの感情が現れて来る。殆ど虚無に似た自然の風景のなかから、一つの肉体が現れて来る。
彼は河原に身を横たえ、飲もうとしたが飲む術がなかった。彼は、ランボオであるか。どうして、そんな妙な男ではない。それは僕等だ、僕等皆んなのぎりぎりの姿だ。
(文春文庫「考えるヒント4」より)
――と、小林秀雄はランボーの「涙」を鑑賞するのですが、
鑑賞は激し、
呼吸は乱れはじめたところで打ち切られます。
そして、ランボーの死を記述し
クローデルがランボーの死を歌った詩を引用した後に、
僕の拙い訳が、読者がランボオを知る機縁又は彼を読む幾分の参考になれば幸いだと思っている。
――と、第三者のナレーションのような結語で
この論考を終えてしまうのです。
◇
中原中也訳の「涙」Larmeと
小林秀雄訳とは
身の入れ方が
こんなにも異なります。
◇
小林秀雄が
「地獄の一季節」を「文学」に連載を始めたのは
昭和4年10月発行の第1号から4回にわたりましたが
昭和5年に「地獄の季節」(白水社)として単刊発行します。
この時、「涙」や「朝の思い」を散文詩の形として訳出し、
昭和13年に岩波文庫から発行した時になって
各行を分けた韻文詩の形に改めました。
◇
中原中也と大岡昇平がフランス語の「授業」を行っていた頃、
小林秀雄の「地獄の季節」の翻訳はどの程度進んでいたのか
昭和3年から5年あたりにかけての
中原中也、小林秀雄、大岡昇平の交流はどんなだったか――
すぐさま
昭和3年3月、小林秀雄の紹介で大岡昇平を知る。
同5月、小林が長谷川泰子との生活に終止符を打ち奈良へ去る。泰子はその後もたびたび中也と会うが、二人は再び同居することはなかった。
昭和4年4月、「白痴群」創刊、
昭和5年4月、「白痴群」廃刊
――といった「事件」が年譜から拾えますが
年譜をよく見ると
昭和4年末には、
この年から、ヴェルレーヌ「トリスタン・コルビエール」(「社会及国家」)など、翻訳の発表始まる。この年、「ノート翻訳詩」の使用開始。
――とあるのにぶつかります。
「長谷川泰子という事件」と
「ランボーという事件」が
からまりあって進行していたことが
ぼんやりと見えてくるのですが
あくまでもぼんやりとしています。
◇
ランボーが
「言葉の錬金術」の最初の頃の「試作」として挙げた「涙」、
様々な眩暈(げんうん)を定着した詩として書いた「涙」に関して
その翻訳にあたった中原中也と大岡昇平は
どのような会話を交わしたことでしょうか
小林秀雄からのサジェスチョンがなにがしかあったでしょうか
「地獄の季節」の一節を念頭に置きながら
「涙」は翻訳されたでしょうか。
◇
鳥や獣の群れや、村人たちから遠ざかり
とある草叢(くさむら)にしゃがんで酒を飲む
ヘイゼルナッツの木がそよぎ
生ま温かい午後に、霧が立ち込めている
……
これらの詩句を
原語の朗読で聴いてみると
行というよりは連が一塊(ひとかたまり)に発声されていて
韻律はその中に溶け込んでいるのが分かります
その上に「意味」が絡まり
イメージが飛び交いはじめれば
詩人ランボーがもくろんだ「めまい」が
読み手にも伝染していくような時が訪れるかもしれません。
*
涙
鳥たちと畜群と、村人達から遐く離れて、
私はとある叢林の中に、蹲んで酒を酌んでゐた
榛の、やさしい森に繞られて。
生ツぽい、微温の午後は霧がしてゐた。
かのいたいけなオワズの川、声なき小楡、花なき芝生、
垂れ罩めた空から私が酌んだのは――
瓢(ひさご)の中から酌めたのは、味もそつけもありはせぬ
徒に汗をかゝせる金の液。
かくて私は旅籠屋(はたごや)の、ボロ看板となつたのだ。
やがて嵐は空を変へ、暗くした。
黒い国々、湖水々々(みづうみみづうみ)、竿や棒、
はては清夜の列柱か、数々の船著場か。
樹々の雨水(あめみづ)砂に滲(し)み
風は空から氷片を、泥池めがけてぶつつけた……
あゝ、金、貝甲の採集人かなんぞのやうに、
私には、酒なぞほんにどうでもよいと申しませう。
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
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