中原中也が訳したランボー「幸福」Bonheur
「幸福」Bonheurに辿りつきました。
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?
――の2行、とりわけ、後の1行が
多くの青春の中で
流行歌の一節(ひとふし)のように
諳(そら)んじられ、
口ずさまれ、
あるいは、心に刻まれ
口から口へと歌い継がれ
若い人々を勇気づけてきました。
そのあたりを鈴木信太郎は
日本に於いてもランボオは古くは先師上田敏に愛読され、その訳詩「酩酊船」の未定稿は1923年に遺稿として発表されたが、まだ一般には識られなかった。昭和初期1930年代に到ると、小林秀雄の激越な「ランボオ論」や、「地獄の季節」や、「酩酊船」の訳詩や、中原中也の「ランボオ詩集」の翻訳が、陸続と発表されて、忽ち若い世代に強烈な影響を与えた。恐らくその頃の青年で、「季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える」や、「また見付かつた、何が、永遠が、海と溶け合ふ太陽が。」などという句を、口遊(くちずさ)まなかったものはあるまい。
――と、昭和27年に刊行した
「ランボオ全集」第1巻の付録「ランボオ手帖」の中に記しています。
(新漢字を使用するなど、現代表記に改めました。編者。)
◇
中原中也訳の「幸福」Bonheuは
「飾画篇」の13番目に配置されています。
「飾画篇」の、あと2篇を残すだけという位置です。
◇
季節(とき)
城寨(おしろ)
無疵な魂(もの)
脱(のが)れ得よう
ゴオルの鶏(とり)
恍惚(とろ)けて
◇
翻訳された詩を読んでいて
はじめに気づくのが
これらの「振り仮名」の
なんともいえない心地よさです。
中原中也は
「振り仮名の名手」と言えるほど
詩句に「ルビ」を振って
詩の言葉に独特の意味を付与したり
語呂をよくして、
音律を整えたりしたりという「技」に
様々なところで念を入れているのですが
この「幸福」は
その「技」が見事に実った例だということに気づくのです。
「ルビ」は
過剰になると
うるさく
暑苦しく
わずらわしく
詩そのものを損ねかねないものですが
この翻訳は
それがなければ「詩の味」が減退してしまうというほどに
「ルビ」が効いているのです。
*
幸福
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
私の手がけた幸福の
秘法を誰が脱(のが)れ得よう。
ゴオルの鶏(とり)が鳴くたびに、
「幸福」こそは万歳だ。
もはや何にも希ふまい、
私はそいつで一杯だ。
身も魂も恍惚(とろ)けては、
努力もへちまもあるものか。
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える。
私が何を言つてるのかつて?
言葉なんぞはふつ飛んぢまへだ!
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える!
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
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