中原中也が訳したランボー「恥」Honte
「恥」Honteは
中原中也訳「ランボオ詩集」「飾画篇」の7番目にある詩です。
昭和9年(1934年)5月1日発行の「椎の木」5月号に初出、
これが第1次形態で
昭和12年9月発行の「ランボオ詩集」に収録されたのが
第2次形態ですが
両者に大きな異同はありません。
◇
ランボーが
1872年5月に作った詩群の一つというのは
西条八十の研究です。
◇
この詩に登場する「奴」は
ベルレーヌを指示しているという説が流布していますが
「作者あるいは話者の分身と読む方がこの詩の興趣ははるかに増すだろう。」と
「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・解題篇」は案内し
中原中也の訳が
そのようにも読めるように
訳されていることを伝えています。
中原中也は
「奴」をベルレーヌであるだけでなく
ランボー自身であると読んで
この詩を翻訳した、という考えですが
確かに、そのように読んだほうが
この詩の奥行きはぐんと深くなろうというものです。
◇
刃が脳漿を切り裂かなければ
白くて青くて脂ぎった
このむかつくお荷物が
さっぱるすることもないや……
(ああ、奴は切らなけりゃなるまい、
鼻、唇、耳を、
腹も! 素晴らしいっ
脚も捨てなきゃなるまいっていうもんだ)
◇
ベルレーヌ憎しと
一方的に憎悪感を表出してみるなんて
ボワイヤン詩人らしくなく
ここは
「私は一個の他者である」とイザンバールに宛てた手紙で言ったように
他者の中に自己を見、
自己の中に他者を見る
見者の光学を通じた言葉を
読んだほうがよいケースといえるでしょう。
◇
だが、いや、確かに、
頭に刃、
脇につぶてを
腸に火を
加えなければ、一時たりと、
うるさい子供みたいなコンチクショウが、
ちょこまかと
タテつくこともないもんだ
ロッキー(ロッシュに通じる)の猫のように
どこもかしこもクサくする!
――だが死の時には、神さま、
なんとか祈る気持ちになりますように……
◇
この詩が
1872年に作られたのだとすれば
1873年7月の
ブリュッセル銃撃事件の前のことになりますが
そのような「実証」を離れて読んでも
これが
ベルレーヌに関して
ランボーが読んだ詩でありながら
ベルレーヌの中に自身を見たランボーの詩であることに
変わりがあるわけではありません。
*
恥
刃(は)が脳漿を切らないかぎり、
白くて緑(あを)くて脂(あぶら)ぎつたる
このムツとするお荷物の
さつぱり致そう筈もない……
(あゝ、奴は切らなけあなるまいに、
その鼻、その脣(くち)、その耳を
その腹も! すばらしや、
脚も棄てなけあなるまいに!)
だが、いや、確かに
頭に刃、
脇に砂礫(こいし)を、
腸に火を
加へぬかぎりは、寸時たりと、
五月蠅い子供の此ン畜生が、
ちよこまかと
謀反気やめることもない
モン・ロシウの猫のやう、
何処(どこ)も彼処(かしこ)も臭くする!
――だが死の時には、神様よ、
なんとか祈りも出ますやう……
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
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