中原中也が訳したランボー「幸福」Bonheurその4
中原中也訳の「幸福」Bonheurは、
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?
――の、冒頭2行が
「永遠」の、
また見付かつた。
何がだ? 永遠。
――という冒頭2行と同列のインパクトで
初めてランボーを知った人の脳裡に
鮮やかに記憶され、
おっ、これが、ランボーって具合に
引きずり込まれていくきっかけになる詩であるようですが、
「幸福」の原詩は、
Ô saisons, ô châteaux,
Quelle âme est sans défauts ?
――で、フランス語を知らない人が読んでも
冒頭行と最終行のルフランが
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
――とは、読めないで
おお、季節よ、おお、城よ
――としか、読めないところを
流れる
見える、という動詞を補って訳されたのに触れて
誰でもが納得して
口ずさむようになったし
口から口へと伝わっていったワケが
手に取るように理解できます。
◇
翻訳の勝利! というようなことが
ここで起こったワケです。
このように訳したのは
小林秀雄、中原中也だけでした。
他の訳を
見ておきましょう。
◇
金子光晴訳
幸福
このよい季節よ。うつくしい館(やかた)よ。
誰だって、まちがいをしでかさないとはかぎらない。
おお、よい季節よ。うつくしい館よ。
誰にだってはずれっこのない
幸福の不可思議な術を僕は学んだ。
ゴールの雄鶏が‘とき’をつくると、
うまいぞ。そのたびに幸福をうむ。
ところで僕はもう幸福に用がない。
僕の一生はそのことで終わったのだ。
その魅惑(みわく)は、心も身も捉(とら)えて、
すべての労苦を追いちらした。
いくら喋ったって、なにをわからせることができよう?
言葉なんて、逃げて、ふっ飛ぶだけのことだ。
おお、よい季節よ。うつくしい館よ。
(※‘とき’は、原作では傍点です。編者。)
◇
堀口大学訳
幸福
おお、歳月よ、あこがれよ、
誰(たれ)か心に瑕(きず)のなき?
おお、歳月よ、あこがれよ、
われ究(きわ)めたり魔術もて
万人ののがれも得ざる幸福を。
げにやゴールの鶏(にわとり)の久遠(くおん)の希望歌うたび
おお、幸福はよみがえる。
けだしやおのれ幸福を求めずなりつ
そを得てしその時よりぞ。
この妙悟(みょうご)、霊肉の二つを領し
一切の労苦は失(う)せつ。
わが言(こと)あげになん事か人解すべき?
まことそは、束(つか)の間(ま)に消えてあらぬに!
おお、歳月よ、あこがれよ!
◇
西条八十訳
季節よ、城よ
おお、季節よ、おお、城よ。
無疵な魂なぞ何処にあろう?
おれがつくった幸福の
魔法を誰が脱れ得よう。
だが、もうなんにも欲しかない、
おれは幸福でいっぱいだ。
この呪縛! 身も魂もがんじがらめ、
すべての努力を霧と消した。
このおれの言葉で何がわかろうぞ?
言葉なんぞふっ飛べだ!
おお、季節よ、おお、城よ。
*
幸福
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
私の手がけた幸福の
秘法を誰が脱(のが)れ得よう。
ゴオルの鶏(とり)が鳴くたびに、
「幸福」こそは万歳だ。
もはや何にも希ふまい、
私はそいつで一杯だ。
身も魂も恍惚(とろ)けては、
努力もへちまもあるものか。
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える。
私が何を言つてるのかつて?
言葉なんぞはふつ飛んぢまへだ!
季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える!
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。
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