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2012年5月

2012年5月31日 (木)

中原中也が訳したランボー「太陽と肉体」Soleil et Chairその5

中原中也訳の「太陽と肉体」Soleil et Chairについては、
一つは、西条八十の研究を読み、
次に、最近の研究成果を読んで
中原中也の訳を味わえば
初歩的な鑑賞としては十分でしょうか――。

という角度で、まず、西条八十の発言に
耳を傾けてみましょう。

西条八十が「アルチュール・ランボオ研究」を刊行したのは
昭和40年(1965)ですが
ランボーへの取り組みは昭和初期に始め
昭和13年には
「酔ひどれの舟 Le Bateau ivre」の本邦初訳を手がけたことで知られる
友人・柳沢健とともにシャルルビル(ランボーの生地)を訪ねましたし
その後も継続的に研究は続けられましたが
戦後に、ブイヤーヌ・ド・ラコスト版が公刊されたのを機に
勉強をし直すために、再びパリを訪れたりした
長い長い研究の成果が詰まっているものです。

「太陽と肉体」についての言及が
いつ書かれたかははっきりしませんが
おそらくは戦後のもので
同書「第2部 革命とランボオ」中の第4章「初期詩篇の総瞰」に
「進んで、おのれがキリスト教徒であることへの反逆――洗礼の否認」を
歌った詩として
「最初の聖体拝受」や「正義の人」と同じグループに分類し、

カトリック教の篤信家である母親ヴィタリイの手で育てられ、十二歳の最初の聖体拝
受の頃は、寺院で子供たちが聖水を弄ぶのを見てさえ冒涜の怒りに燃えて打ち掛っ
たという彼に、なぜ反神思想が生まれたか。その主なる原因のひとつは、曩にも述べ
た通り、ランボオの齢が長ずるにつれ、母親ヴィタリイに幻滅を感じたことに在った。
温厚な妹イザベルも、また、ドラエー、ピエルカンらの竹馬の友たちも口を揃えて伝え
るこのカトリックの母親の、あまりにも峻酷な家庭教育は、この少年に何よりも既成宗
教の神を呪わせてしまった。ランボオは、カトリックの信仰が、人間の偏狭、頑迷、貪
欲等の諸欠点を改善しないこと、そうしてすべての人間に、決して幸福を齎さない実
例を自身の母親において見たのであった。

それから、読書の影響――殊にドゥラエーが指摘しているルクレティウスの思想も、こ
の点でランボオに影響している。ラテン語を自由に読んだランボオは、この詩人哲学
者から、宇宙摂理の神を無用物と見、人間の生活が宗教の下にまったく押しひしがれ
ている、という考え方を学び取ったのだ。

――と、こんなふうに書いています。

「反キリスト教思想」と
「進んで、おのれがキリスト教徒であることへの反逆――洗礼の否認」とを
西条八十は分けて考えていますが
キリスト教批判に違いはなく
「太陽と肉体」が作られたのは
①母ヴィタリーへの幻滅
②ルクレチウスの思想の影響
――の二つの方向からというものです。

さて、最近の研究ですが
一般読者が入手しやすいのが文庫本で
文庫本の中でも
作品個々への脚注・語註が充実しているのが
宇佐美斉訳の「ランボー全詩集」(ちくま文庫)ということになり、
「太陽と肉体」についても
宇佐美訳は、短い脚注の中に
最新のランボー学を踏まえた読みを
要点を押さえて案内していますので
こちらも紹介しておきましょう――。

父なる太陽と母なる大地とが睦み合うエロスと調和の世界を高らかに歌いあげる。こ
うしたパガニスム、すなわちキリスト教から見て異教であるところの古代ギリシア・ロー
マの神々への讃歌は、言うまでもなくランボーの独創ではない。ルクレティウスやウェ
ギリウスなどのラテン作家を始めとして、シェニエ、ゴーチエ、ユゴールコント・ド・リー
ル、パンヴィル、ボードレール、ミュッセ等の近代フランス詩人にいたる様々な詩人の
作品に範を求めたものであることは、諸家の指摘する通りである。

けれども初期詩篇から『イリュミナシオン』にまで一貫する詩人に固有のテーマ、つま
り古代回帰の不可能性を知悉しつつ反近代の楽園を志向せずにはいられないという
アイロニーが、ここにはすでに鮮明に打ち出されていることを見逃すべきではないだ
ろう。

第二部冒頭に見られる反キリスト教の立場(「ああ 行路は辛いものになった・あの別
の‘神’がわれわれを彼の十字架につないでからは」)や、パンヴィル宛書簡において
追加された部分に見られる反近代・反人間中心主義の思想(「私たちの青ざめた理性
が私たちの眼から無限をおおい隠している」、「‘懐疑’という陰気な鳥がその翼で私
たちを打つ」等)は、文明批評としてのこの作品の射程をも標示していると見ていいか
らである。
※「ランボー全詩集」(ちくま文庫)脚注より

二つの異なる読みを紹介しましたが
中原中也の訳が
どちらの読み方を通じても読める、というところに気づかれましたか?

中原中也の訳が
西条八十の研究や
宇佐美斉の研究を読んだ後でも
いっこうに色褪せない鮮度を持っていることに
驚かないではいられません。

その理由もまた明白で
中原中也が
ランボーの原詩を真芯で捉え
読み外していないということを証明するものです。

中原中也訳の
現代表記と原作を
今回も掲出しておきます。

太陽と肉体

太陽、この愛と生命のふるさとは、
喜びの大地に熱愛を注ぐ。
私たちが谷間に寝そべっている時に、
大地は血をたぎらせ肉を躍らせる、
その大きな胸が人に激賞させられるのは
神が愛によって、女が肉によって激賞させられるのと同じで、
また大量の樹液や光、
あらゆる胚種を包蔵している。

一切成長、一切増進!

          おおビーナスよ、おお女神よ!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神・サチュルスを。
野生の神々・フォーヌを私は懐かしみます、
愛の小枝の樹皮を齧り、
金髪ニンフを蓮の中で、口づけしました彼らです。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮が仄かな紅に
牧羊神・パンの血潮と交ざり循環した、あの頃を私は懐かしみます。
あの頃、大地は牧羊神の、山羊足の下に胸をときめかし、
牧羊神が葦笛を吹けば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴り渡ったものでした、
野に立って彼は、その笛に答える天地の
声々を聴いていました。
声を出さない樹々も歌う小鳥たちに口づけし、
大地は人に口づけし、海という海
生物という生物が神のように、情愛に満ちていました。
壮観な街の中を、青銅の車に乗って
ほれぼれするように美しかったあのシベールが、
走り回っていたという時代を私は懐かしみます。
乳房豊かなその胸は清らかな大気の中に
不死の命の精水をそそいでいました。
「人の子」は吸ったものです、よろこんでその乳房を、
子供のように、膝にあがって。
だが「人の子」は強かったので、貞潔で、温和でありました。

情けないことに、今では彼は言うのです、俺は何でも知ってると、
そして、眼をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでいて「人の子」が今では王であり、
「人の子」が今では神なのです! 「愛」こそ神であるものなのに!
おお! 神々と男たちとの大いなる母、シベールよ!
あなたの乳房をもしも男が、今でも吸うのだったら!
昔、青い波の限りない光のさ中に現れなさって
波の香のする御神体、泡が降りかかる
トキ色のおへそをお示しなさって、
森に鶯、男の心に、愛を歌わせなさいまし
大いなる黒い瞳も誇らかなあの女神
アスタルテ、今もこの世におられたらなあ!

    Ⅱ

私はあなた様を信じます、聖なる母よ、
海のアフロディテよ!――ほかの神がその十字架に
わたしたちを繋ぎましてから、あなた様への道の苦しいこと!
肉、大理石、花、ビーナス、私はあなた様を信じます!
そうです、「人の子」は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けている、何故ならもはや貞潔じゃない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまったのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇った木偶と意地気させました!
それでいて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きようとします、最初の美などもうないくせに!
そしてあなた様の処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすったあの偶像、「女」は、
その哀れな魂を男に照らして貰ったおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にゃなれない!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なビーナスの
優しく聖なる御名において、冷ややかに笑っている。

     Ⅲ

もしあの時代が帰ってきたらば! もしあの時代が帰ってきたらば!……
だって「人の子」の時代は過ぎた、「人の子」の役目は終った。
あの時代が帰ってきたら、その日こそ、偶像を壊すことにも疲れ、
彼は復活するだろう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者のように、諸神を裁定しはじめるだろう。
理想、砕けることもない永遠の思想、
あの肉体に住む神性は
出現し、額の下で燃えるだろう。
そして、あらゆる地域を探索する、彼をあなた様が見るだらう時、
諸々の古いルールの侮蔑者であり、全ての恐怖に勝つ者、
あなた様は彼に聖・贖罪をお与えになるでしょう。
海の上で荘厳に、輝く者であるあなた様はさて、
微笑みつつ無限の「愛」を、
世界の上に投げようと光臨されることでしょう。
世界は顫えることでしょう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしく、大きな愛撫にゾクゾクしながら……

――世界は「愛」に渇えています。あなた様はそれをお鎮め下さい、
おお肉体のみごとさよ! おお素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明の凱旋
神々も、英雄たち身を屈め、
エロスや真っ白なカリピイジュ
薔薇の吹雪に迷いつつ
足の下の花々や、女たちを摘むでしょう!

    Ⅳ

おお偉大なアリアドネ、お前はお前の悲しみを
海に投げ棄てたのだった、テーゼの船が
陽に燦いて、去っていくのを眺めつつ、
おお貞順なお前であった、闇が傷めたお前であった、
黒い葡萄で縁取った、金の車でリディアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に引かせてフリージアの
野をあちこちとさまよって、青い流れに沿いながら
進んでいけばほの暗い波も恥じ入る気配です。
牡牛ゼウスはユウロペの裸の身を頸にのせ、
軽々と揺さぶれば、波の中で寒気する
ゼウスの丈夫なその頸に、白い腕をユウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼を閉じて、彼女は死んでしまいます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音を立てています
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女のヘアーに花となる。
夾竹桃とおしゃべりな白蓮の間をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、とても恋々(れんれん)しています、
その真っ白の羽でレダを胸に抱き締めるのです、
さてビーナス様のお通りです、
めずらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になって
幅広の胸に黄金を晴れがましくも、
雪かと見間違える白いそのお腹には、まっ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この凄腕は誇らかに、
ライオンの毛皮をゆたらか(豊満な)五体に締めて、
恐いながらも優しい顔して、地平の方へと進んでいく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立って夢みる裸身のもの
ロングヘアーも金に染み、蒼ざめ重き波をつくる
これこそご存知アリアドネ、沈黙の空を眺めている……
苔も閃めく林間の空地の中のそこだから、
肌も真っ白のセレネーはハンカチーフが靡くにままになっていて、
エンデミオンの足元に、おずおずとして、
蒼白い月の光のその中で一寸口づけするのです……
泉は遠くで泣いています うっとり和んで泣いています……
甕に肘を突きまして、若く綺麗な男を
思っているのはあのニンフ、波で彼を抱き締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
このようにめでたい森の中、大樹ばかりの凄さの中に、
立っているのは物言わぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかお)に鶯は塒を作り、
神々は耳を傾け、「人の子」と「終わりなき世」を案じ顔。
                〔1870、5月〕

 *

 太陽と肉体

太陽、この愛と生命の家郷は、
嬉々たる大地に熱愛を注ぐ。
我等谷間に寝そべつてゐる時に、
大地は血を湧き肉を躍らす、
その大いな胸が人に激昂させられるのは
神が愛によつて、女が肉によつて激昂させられる如くで、
又大量の樹液や光、
凡ゆる胚種を包蔵してゐる。

一切成長、一切増進!

          おゝ美神(ヹニュス)、おゝ女神!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神(サチール)たちを。
獣的な田野の神々(フォーヌ)を私は追惜します、
愛の小枝の樹皮をば齧り、
金髪ニンフを埃及蓮(はす)の中にて、接唇しました彼等です。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮(ちしほ)が仄紅(ほのくれなゐ)に
牧羊神(パン)の血潮と交(まざ)り循(めぐ)つた、かの頃を私は追惜します。
当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、
牧羊神が葦笛とれば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴渡つたものでした、
野に立つて彼は、その笛に答へる天地の
声々をきいてゐました。
黙(もだ)せる樹々も歌ふ小鳥に接唇(くちづけ)し、
大地は人に接唇し、海といふ海
生物といふ生物が神のごと、情けに篤いことでした。
壮観な市々(まちまち)の中を、青銅の車に乗つて
見上げるやうに美しかつたかのシベールが、
走り廻つてゐたといふ時代を私は追惜します。
乳房ゆたかなその胸は顥気の中に
不死の命の霊液をそゝいでゐました。
『人の子』は吸つたものです、よろこんでその乳房をば、
子供のやうに、膝にあがつて。
だが『人の子』は強かつたので、貞潔で、温和でありました。

なさけないことに、今では彼は云ふのです、俺は何でも知つてると、
そして、眼(め)をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでゐて『人の子』が今では王であり、
『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを!
おゝ! 神々と男達との大いなる母、シベールよ!
そなたの乳房をもしも男が、今でも吸ふのであつたなら!
昔青波(せいは)の限りなき光のさ中に顕れ給ひ
浪かをる御神体、泡降りかゝる
紅(とき)の臍(ほぞ)をば示現し給ひ、
森に鶯、男の心に、愛を歌はせ給ひたる
大いなる黒き瞳も誇りかのかの女神
アスタルテ、今も此の世におはしなば!

    Ⅱ

私は御身を信じます、聖なる母よ、
海のアフロヂテよ!――他の神がその十字架に
我等を繋ぎ給ひてより、御身への道のにがいこと!
肉、大理石、花、ヹニュス、私は御身を信じます!
さうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けてゐる、何故ならもはや貞潔でない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇つた木偶(でく)といぢけさせました!
それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!
そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすつたあの偶像、『女』は、
その哀れな魂を男に照らして貰つたおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にやなれぬ!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なヹニュスの
優しく聖なる御名(みな)に於て、ひややかに笑つてゐる。

     Ⅲ

もしかの時代が帰りもしたらば! もしかの時代が帰りもしたらば!……
だつて『人の子』の時代は過ぎた、『人の子』の役目は終つた。
かの時代が帰りもしたらば、その日こそ、偶像壊(こぼ)つことにも疲れ、
彼は復活するでもあらう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者の如く、諸天を吟味しだすであらう。
理想、砕くすべなき永遠の思想、
かの肉体(にく)に棲む神性は
昇現し、額の下にて燃えるであらう。
そして、凡ゆる地域を探索する、彼を御身が見るだらう時、
諸々の古き軛の侮蔑者にして、全ての恐怖に勝てる者、
御身は彼に聖・贖罪を給ふでせう。
海の上にて荘厳に、輝く者たる御身はさて、
微笑みつゝは無限の『愛』を、
世界の上に投ぜんと光臨されることでせう。
世界は顫へることでせう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしき、巨(おほ)いな愛撫にぞくぞくしながら……

――世界は『愛』に渇(かつ)ゑてゐます。御身よそれをお鎮め下さい、
おゝ肉体のみごとさよ! おゝ素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明(よあけ)の凱旋
神々も、英雄達も身を屈め、
エロスや真白のカリピイジュ
薔薇の吹雪にまよひつゝ
足の下(もと)なる花々や、女達をば摘むでせう!

    Ⅳ

おゝ偉大なるアリアドネ、おまへはおまへの悲しみを
海に投げ棄てたのだつた、テエゼの船が
陽に燦いて、去つてゆくのを眺めつつ、
おゝ貞順なおまへであつた、闇が傷めたおまへであつた、
黒い葡萄で縁取つた、金の車でリジアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に牽かせてフリジアの
野をあちこちとさまよつて、青い流に沿ひながら
進んでゆけば仄暗い波も恥ぢ入るけはひです。
牡牛ゼウスはイウロペの裸かの身をば頸にのせ、
軽々とこそ揺すぶれば、波の中にて寒気(さむけ)する
ゼウスの丈夫なその頸(くび)に、白い腕(かひな)をイウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼(まなこ)を閉ぢて、彼女は死にます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音をば立ててます
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女の髪毛に花となる。
夾竹桃と饒舌(おしやべり)な白蓮の間(あはひ)をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、大変恋々(れんれん)してゐます、
その真つ白の羽をもてレダを胸には抱締めます、
さてヹニュス様のお通りです、
めづらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になつて
幅広の胸に黄金(こがね)をはれがましくも、
雪かと白いそのお腹(なか)には、まつ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この調練師(ならして)は誇りかに、
獅の毛皮をゆたらかな五体に締めて、
恐(こは)いうちにも優しい顔して、地平の方(かた)へと進みゆく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立つて夢みる裸身のもの
丈長髪も金に染み蒼ざめ重き波をなす
これぞ御存じアリアドネ、沈黙(しじま)の空を眺めゐる……
苔も閃めく林間の空地(あきち)の中の其処にして、
肌も真白のセレネエは面帕(かつぎ)なびくにまかせつつ、
エンデミオンの足許に、怖づ怖づとして、
蒼白い月の光のその中で一寸接唇(くちづけ)するのです……
泉は遐くで泣いてます うつとり和(なご)んで泣いてます……
甕に肘をば突きまして、若くて綺麗な男をば
思つてゐるのはかのニンフ、波もて彼を抱締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
さてもめでたい森の中、大樹々々の凄さの中に、
立つてゐるのは物云はぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかほ)に鶯は塒(ねぐら)を作り、
神々は耳傾けて、『人の子』と『終わりなき世』を案じ顔。
                〔一八七〇、五月〕

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。
※本文中の「驃駻」の「駻」は、原作では「馬へん」に「干」です。編者。

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2012年5月30日 (水)

中原中也が訳したランボー「太陽と肉体」Soleil et Chairその4

ランボーの「太陽と肉体」Soleil et Chairは、
ギリシア・ローマ神話の時代を賛美する詩句(中原中也は「追惜する」と翻訳)に満ちていますが
では、この詩がギリシア・ローマ神話への
単なる「讃歌=オマージュ」であるかというと
そうではなさそうなところに読み応えがあります。

詩の第1章の末尾から第2章のはじまりに
「人の子」が登場します、

『人の子』は吸つたものです、よろこんでその乳房をば、
子供のやうに、膝にあがつて。
だが『人の子』は強かつたので、貞潔で、温和でありました。

なさけないことに、今では彼は云ふのです、俺は何でも知つてると、
そして、眼(め)をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでゐて『人の子』が今では王であり、
『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを!

――というあたりで
神々や英雄の時代に変化が兆し
輝かしい時代に異変が起きたことが歌われます。

その原因が「人の子」です。
「人の子」とは何か――。
読み進めると、

続くⅡ(第2章)では、

他の神がその十字架に
我等を繋ぎ給ひてより、御身への道のにがいこと!

――と、「他の神」が「我等」を「十字架に繋ぎ」、
「御身」=聖なる母、海のアフロディテへの道に
苦難が生じたことが歌われます。
そして、

さうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けてゐる、何故ならもはや貞潔でない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇つた木偶(でく)といぢけさせました!
それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!
そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすつたあの偶像、『女』は、
その哀れな魂を男に照らして貰つたおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にやなれぬ!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なヹニュスの
優しく聖なる御名(みな)に於て、ひややかに笑つてゐる。

――と「人の子」の仕業への非難が繰り広げられます。

彼は衣服を着けてゐる、
何故ならもはや貞潔でない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、

彼は衣服というものを着ている、
どうしてかというと、
彼らは貞潔ではなくなってしまったからなのです、
至上のものであった身体を汚してしまったから、
それを隠さねければならなくなったのです、

さらに、

それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!

それでいて、死んだ後も、その蒼ざめた死体の中に
生きようとします、最初にはあった美など、もうないクセに!

――と、どうやら、これは
「蘇り=よみがえり」を主張する「人間」のこと、
キリストの行いを指していることが見えてきます。

古代ギリシア神話の時代から
ヘレニズム世界を経て
キリスト教の文化一色になる中世へ。

「太陽と肉体」には
ヨーロッパ史を始原にさかのぼってのキリスト批判と
古代ギリシア・ローマ神話へのオマージュとが
光と影になって歌われていることが見えてきます。

太陽と肉体

太陽、この愛と生命のふるさとは、
喜びの大地に熱愛を注ぐ。
私たちが谷間に寝そべっている時に、
大地は血をたぎらせ肉を躍らせる、
その大きな胸が人に激賞させられるのは
神が愛によって、女が肉によって激賞させられるのと同じで、
また大量の樹液や光、
あらゆる胚種を包蔵している。

一切成長、一切増進!

          おおビーナスよ、おお女神よ!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神・サチュルスを。
野生の神々・フォーヌを私は懐かしみます、
愛の小枝の樹皮を齧り、
金髪ニンフを蓮の中で、口づけしました彼らです。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮が仄かな紅に
牧羊神・パンの血潮と交ざり循環した、あの頃を私は懐かしみます。
あの頃、大地は牧羊神の、山羊足の下に胸をときめかし、
牧羊神が葦笛を吹けば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴り渡ったものでした、
野に立って彼は、その笛に答える天地の
声々を聴いていました。
声を出さない樹々も歌う小鳥たちに口づけし、
大地は人に口づけし、海という海
生物という生物が神のように、情愛に満ちていました。
壮観な街の中を、青銅の車に乗って
ほれぼれするように美しかったあのシベールが、
走り回っていたという時代を私は懐かしみます。
乳房豊かなその胸は清らかな大気の中に
不死の命の精水をそそいでいました。
「人の子」は吸ったものです、よろこんでその乳房を、
子供のように、膝にあがって。
だが「人の子」は強かったので、貞潔で、温和でありました。

情けないことに、今では彼は言うのです、俺は何でも知ってると、
そして、眼をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでいて「人の子」が今では王であり、
「人の子」が今では神なのです! 「愛」こそ神であるものなのに!
おお! 神々と男たちとの大いなる母、シベールよ!
あなたの乳房をもしも男が、今でも吸うのだったら!
昔、青い波の限りない光のさ中に現れなさって
波の香のする御神体、泡が降りかかる
トキ色のおへそをお示しなさって、
森に鶯、男の心に、愛を歌わせなさいまし
大いなる黒い瞳も誇らかなあの女神
アスタルテ、今もこの世におられたらなあ!

    Ⅱ

私はあなた様を信じます、聖なる母よ、
海のアフロディテよ!――ほかの神がその十字架に
わたしたちを繋ぎましてから、あなた様への道の苦しいこと!
肉、大理石、花、ビーナス、私はあなた様を信じます!
そうです、「人の子」は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けている、何故ならもはや貞潔じゃない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまったのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇った木偶と意地気させました!
それでいて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きようとします、最初の美などもうないくせに!
そしてあなた様の処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすったあの偶像、「女」は、
その哀れな魂を男に照らして貰ったおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にゃなれない!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なビーナスの
優しく聖なる御名において、冷ややかに笑っている。

     Ⅲ

もしあの時代が帰ってきたらば! もしあの時代が帰ってきたらば!……
だって「人の子」の時代は過ぎた、「人の子」の役目は終った。
あの時代が帰ってきたら、その日こそ、偶像を壊すことにも疲れ、
彼は復活するだろう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者のように、諸神を裁定しはじめるだろう。
理想、砕けることもない永遠の思想、
あの肉体に住む神性は
出現し、額の下で燃えるだろう。
そして、あらゆる地域を探索する、彼をあなた様が見るだらう時、
諸々の古いルールの侮蔑者であり、全ての恐怖に勝つ者、
あなた様は彼に聖・贖罪をお与えになるでしょう。
海の上で荘厳に、輝く者であるあなた様はさて、
微笑みつつ無限の「愛」を、
世界の上に投げようと光臨されることでしょう。
世界は顫えることでしょう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしく、大きな愛撫にゾクゾクしながら……

――世界は「愛」に渇えています。あなた様はそれをお鎮め下さい、
おお肉体のみごとさよ! おお素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明の凱旋
神々も、英雄たち身を屈め、
エロスや真っ白なカリピイジュ
薔薇の吹雪に迷いつつ
足の下の花々や、女たちを摘むでしょう!

    Ⅳ

おお偉大なアリアドネ、お前はお前の悲しみを
海に投げ棄てたのだった、テーゼの船が
陽に燦いて、去っていくのを眺めつつ、
おお貞順なお前であった、闇が傷めたお前であった、
黒い葡萄で縁取った、金の車でリディアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に引かせてフリージアの
野をあちこちとさまよって、青い流れに沿いながら
進んでいけばほの暗い波も恥じ入る気配です。
牡牛ゼウスはユウロペの裸の身を頸にのせ、
軽々と揺さぶれば、波の中で寒気する
ゼウスの丈夫なその頸に、白い腕をユウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼を閉じて、彼女は死んでしまいます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音を立てています
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女のヘアーに花となる。
夾竹桃とおしゃべりな白蓮の間をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、とても恋々(れんれん)しています、
その真っ白の羽でレダを胸に抱き締めるのです、
さてビーナス様のお通りです、
めずらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になって
幅広の胸に黄金を晴れがましくも、
雪かと見間違える白いそのお腹には、まっ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この凄腕は誇らかに、
ライオンの毛皮をゆたらか(豊満な)五体に締めて、
恐いながらも優しい顔して、地平の方へと進んでいく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立って夢みる裸身のもの
ロングヘアーも金に染み、蒼ざめ重き波をつくる
これこそご存知アリアドネ、沈黙の空を眺めている……
苔も閃めく林間の空地の中のそこだから、
肌も真っ白のセレネーはハンカチーフが靡くにままになっていて、
エンデミオンの足元に、おずおずとして、
蒼白い月の光のその中で一寸口づけするのです……
泉は遠くで泣いています うっとり和んで泣いています……
甕に肘を突きまして、若く綺麗な男を
思っているのはあのニンフ、波で彼を抱き締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
このようにめでたい森の中、大樹ばかりの凄さの中に、
立っているのは物言わぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかお)に鶯は塒を作り、
神々は耳を傾け、「人の子」と「終わりなき世」を案じ顔。
                〔1870、5月〕

 *

 太陽と肉体

太陽、この愛と生命の家郷は、
嬉々たる大地に熱愛を注ぐ。
我等谷間に寝そべつてゐる時に、
大地は血を湧き肉を躍らす、
その大いな胸が人に激昂させられるのは
神が愛によつて、女が肉によつて激昂させられる如くで、
又大量の樹液や光、
凡ゆる胚種を包蔵してゐる。

一切成長、一切増進!

          おゝ美神(ヹニュス)、おゝ女神!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神(サチール)たちを。
獣的な田野の神々(フォーヌ)を私は追惜します、
愛の小枝の樹皮をば齧り、
金髪ニンフを埃及蓮(はす)の中にて、接唇しました彼等です。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮(ちしほ)が仄紅(ほのくれなゐ)に
牧羊神(パン)の血潮と交(まざ)り循(めぐ)つた、かの頃を私は追惜します。
当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、
牧羊神が葦笛とれば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴渡つたものでした、
野に立つて彼は、その笛に答へる天地の
声々をきいてゐました。
黙(もだ)せる樹々も歌ふ小鳥に接唇(くちづけ)し、
大地は人に接唇し、海といふ海
生物といふ生物が神のごと、情けに篤いことでした。
壮観な市々(まちまち)の中を、青銅の車に乗つて
見上げるやうに美しかつたかのシベールが、
走り廻つてゐたといふ時代を私は追惜します。
乳房ゆたかなその胸は顥気の中に
不死の命の霊液をそゝいでゐました。
『人の子』は吸つたものです、よろこんでその乳房をば、
子供のやうに、膝にあがつて。
だが『人の子』は強かつたので、貞潔で、温和でありました。

なさけないことに、今では彼は云ふのです、俺は何でも知つてると、
そして、眼(め)をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでゐて『人の子』が今では王であり、
『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを!
おゝ! 神々と男達との大いなる母、シベールよ!
そなたの乳房をもしも男が、今でも吸ふのであつたなら!
昔青波(せいは)の限りなき光のさ中に顕れ給ひ
浪かをる御神体、泡降りかゝる
紅(とき)の臍(ほぞ)をば示現し給ひ、
森に鶯、男の心に、愛を歌はせ給ひたる
大いなる黒き瞳も誇りかのかの女神
アスタルテ、今も此の世におはしなば!

    Ⅱ

私は御身を信じます、聖なる母よ、
海のアフロヂテよ!――他の神がその十字架に
我等を繋ぎ給ひてより、御身への道のにがいこと!
肉、大理石、花、ヹニュス、私は御身を信じます!
さうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けてゐる、何故ならもはや貞潔でない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇つた木偶(でく)といぢけさせました!
それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!
そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすつたあの偶像、『女』は、
その哀れな魂を男に照らして貰つたおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にやなれぬ!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なヹニュスの
優しく聖なる御名(みな)に於て、ひややかに笑つてゐる。

     Ⅲ

もしかの時代が帰りもしたらば! もしかの時代が帰りもしたらば!……
だつて『人の子』の時代は過ぎた、『人の子』の役目は終つた。
かの時代が帰りもしたらば、その日こそ、偶像壊(こぼ)つことにも疲れ、
彼は復活するでもあらう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者の如く、諸天を吟味しだすであらう。
理想、砕くすべなき永遠の思想、
かの肉体(にく)に棲む神性は
昇現し、額の下にて燃えるであらう。
そして、凡ゆる地域を探索する、彼を御身が見るだらう時、
諸々の古き軛の侮蔑者にして、全ての恐怖に勝てる者、
御身は彼に聖・贖罪を給ふでせう。
海の上にて荘厳に、輝く者たる御身はさて、
微笑みつゝは無限の『愛』を、
世界の上に投ぜんと光臨されることでせう。
世界は顫へることでせう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしき、巨(おほ)いな愛撫にぞくぞくしながら……

――世界は『愛』に渇(かつ)ゑてゐます。御身よそれをお鎮め下さい、
おゝ肉体のみごとさよ! おゝ素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明(よあけ)の凱旋
神々も、英雄達も身を屈め、
エロスや真白のカリピイジュ
薔薇の吹雪にまよひつゝ
足の下(もと)なる花々や、女達をば摘むでせう!

    Ⅳ

おゝ偉大なるアリアドネ、おまへはおまへの悲しみを
海に投げ棄てたのだつた、テエゼの船が
陽に燦いて、去つてゆくのを眺めつつ、
おゝ貞順なおまへであつた、闇が傷めたおまへであつた、
黒い葡萄で縁取つた、金の車でリジアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に牽かせてフリジアの
野をあちこちとさまよつて、青い流に沿ひながら
進んでゆけば仄暗い波も恥ぢ入るけはひです。
牡牛ゼウスはイウロペの裸かの身をば頸にのせ、
軽々とこそ揺すぶれば、波の中にて寒気(さむけ)する
ゼウスの丈夫なその頸(くび)に、白い腕(かひな)をイウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼(まなこ)を閉ぢて、彼女は死にます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音をば立ててます
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女の髪毛に花となる。
夾竹桃と饒舌(おしやべり)な白蓮の間(あはひ)をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、大変恋々(れんれん)してゐます、
その真つ白の羽をもてレダを胸には抱締めます、
さてヹニュス様のお通りです、
めづらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になつて
幅広の胸に黄金(こがね)をはれがましくも、
雪かと白いそのお腹(なか)には、まつ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この調練師(ならして)は誇りかに、
獅の毛皮をゆたらかな五体に締めて、
恐(こは)いうちにも優しい顔して、地平の方(かた)へと進みゆく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立つて夢みる裸身のもの
丈長髪も金に染み蒼ざめ重き波をなす
これぞ御存じアリアドネ、沈黙(しじま)の空を眺めゐる……
苔も閃めく林間の空地(あきち)の中の其処にして、
肌も真白のセレネエは面帕(かつぎ)なびくにまかせつつ、
エンデミオンの足許に、怖づ怖づとして、
蒼白い月の光のその中で一寸接唇(くちづけ)するのです……
泉は遐くで泣いてます うつとり和(なご)んで泣いてます……
甕に肘をば突きまして、若くて綺麗な男をば
思つてゐるのはかのニンフ、波もて彼を抱締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
さてもめでたい森の中、大樹々々の凄さの中に、
立つてゐるのは物云はぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかほ)に鶯は塒(ねぐら)を作り、
神々は耳傾けて、『人の子』と『終わりなき世』を案じ顔。
                〔一八七〇、五月〕

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。また、節を
示すギリシア数字は、一部、現代表記にしました。
※本文中の「驃駻」の「駻」は、原作では「馬へん」に「干」です。編者。

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2012年5月28日 (月)

中原中也が訳したランボー「太陽と肉体」Soleil et Chairその3

中原中也訳「太陽と肉体」Soleil et Chairに登場する

ビーナス
サチュルス
フォーヌ
ニンフ
パン
シベール
アスタルテ★
アフロディテ
エロス
アリアドネ
テーゼ(ウス)
リディアス★
ゼウス
ユウロペ
レダ
ヘラクレス
セレネー★
エンデミオン★
……

――のうち、
聞き慣れない
神々・英雄はどれほどありますか?

もちろん、
人によって差があることですが
聞き慣れないと想像できるのは
★の付いた神々・英雄あたりで
ほかは、どこかで聞いた覚えがある名前のはずです。

ここで手っ取り早く
これらの神々・英雄について
「新編中原中也全集」の語註や
金子光晴や粟津則雄の注釈を借りて
おさらいしておきましょう。

ビーナス ミューズ(美神)のこと。
サチール サチュルス。半人半山羊神。酒神ディオニュソスの仲間。逆立った髪、とがった耳、額に2本の角、山羊の脚の姿がポピュラーです。
フォーヌ 牧神。半獣神。「田野の神々」と中原中也は訳し、振り仮名を「フォーヌ」としています。
ニンフ 森や山、水の精。海のニンフはオレアアード、野のニンフはナッペー、森のニンフはドリアードなどと呼ばれています。
パン 牧羊神。
シベール 古代小アジアの大地女神キュベレー。
アスタルテ シリアの豊穣多産の女神。アフロディテーとよく同一視されます。
アフロディテー アフロヂテ。愛と美と豊穣の女神。ローマ神話では、ビーナス。
エロス 愛の神。
カリビイジュ 「尻の美しい」という意味。ビーナス(アフロディテー)の形容として使われています。
アリアドネ クレタ島に住むミノス王の娘。島を訪れたテーゼウスを恋し、妻となる約束をして、ラビリントス(迷宮)を案内し、怪獣ミノタウロスを退治するのを助けたが、テーゼウスに置き去りにされます。
テーゼ(ウス) アテナイの英雄。
リディアス ディオニュソスの別名。テーゼウスに捨てられたアリアドネに恋し、妻としました。酒の神としても有名。
ゼウス ギリシア神話の最高神。牡牛ゼウスとあるのは、ユウロペに恋したゼウスが、牡牛に姿を変えて近づいた時の姿を表わします。
ユウロペ エウロペともイウロペとも訳されます。ゼウスと交わって、ミノス、ラダマンテュスを生んだ。
レダ 白鳥に変身したゼウスと交わって、ヘレネらを生みました。
ヘラクレス 怪力で有名なギリシア神話の英雄。
ドリアード 森の精。ニンフ。
セレネー 月の女神。アルテミスと同一視されることが多い。
エンデミオン 美青年で、セレネーに恋され、天上から降りたセレネーと夜な夜な交わったエピソードがあります。

ここで詩本文に戻って
現代表記と原作を
掲出しておきます。

太陽と肉体

太陽、この愛と生命のふるさとは、
喜びの大地に熱愛を注ぐ。
私たちが谷間に寝そべっている時に、
大地は血をたぎらせ肉を躍らせる、
その大きな胸が人に激賞させられるのは
神が愛によって、女が肉によって激賞させられるのと同じで、
また大量の樹液や光、
あらゆる胚種を包蔵している。

一切成長、一切増進!

          おおビーナスよ、おお女神よ!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神・サチュルスを。
野生の神々・フォーヌを私は懐かしみます、
愛の小枝の樹皮を齧り、
金髪ニンフを蓮の中で、口づけしました彼らです。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮が仄かな紅に
牧羊神・パンの血潮と交ざり循環した、あの頃を私は懐かしみます。
あの頃、大地は牧羊神の、山羊足の下に胸をときめかし、
牧羊神が葦笛を吹けば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴り渡ったものでした、
野に立って彼は、その笛に答える天地の
声々を聴いていました。
声を出さない樹々も歌う小鳥たちに口づけし、
大地は人に口づけし、海という海
生物という生物が神のように、情愛に満ちていました。
壮観な街の中を、青銅の車に乗って
ほれぼれするように美しかったあのシベールが、
走り回っていたという時代を私は懐かしみます。
乳房豊かなその胸は清らかな大気の中に
不死の命の精水をそそいでいました。
「人の子」は吸ったものです、よろこんでその乳房を、
子供のように、膝にあがって。
だが「人の子」は強かったので、貞潔で、温和でありました。

情けないことに、今では彼は言うのです、俺は何でも知ってると、
そして、眼をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでいて「人の子」が今では王であり、
「人の子」が今では神なのです! 「愛」こそ神であるものなのに!
おお! 神々と男たちとの大いなる母、シベールよ!
あなたの乳房をもしも男が、今でも吸うのだったら!
昔、青い波の限りない光のさ中に現れなさって
波の香のする御神体、泡が降りかかる
トキ色のおへそをお示しなさって、
森に鶯、男の心に、愛を歌わせなさいまし
大いなる黒い瞳も誇らかなあの女神
アスタルテ、今もこの世におられたらなあ!

    Ⅱ

私はあなた様を信じます、聖なる母よ、
海のアフロディテよ!――ほかの神がその十字架に
わたしたちを繋ぎましてから、あなた様への道の苦しいこと!
肉、大理石、花、ビーナス、私はあなた様を信じます!
そうです、「人の子」は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けている、何故ならもはや貞潔じゃない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまったのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇った木偶と意地気させました!
それでいて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きようとします、最初の美などもうないくせに!
そしてあなた様の処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすったあの偶像、「女」は、
その哀れな魂を男に照らして貰ったおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にゃなれない!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なビーナスの
優しく聖なる御名において、冷ややかに笑っている。

     Ⅲ

もしあの時代が帰ってきたらば! もしあの時代が帰ってきたらば!……
だって「人の子」の時代は過ぎた、「人の子」の役目は終った。
あの時代が帰ってきたら、その日こそ、偶像を壊すことにも疲れ、
彼は復活するだろう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者のように、諸神を裁定しはじめるだろう。
理想、砕けることもない永遠の思想、
あの肉体に住む神性は
出現し、額の下で燃えるだろう。
そして、あらゆる地域を探索する、彼をあなた様が見るだらう時、
諸々の古いルールの侮蔑者であり、全ての恐怖に勝つ者、
あなた様は彼に聖・贖罪をお与えになるでしょう。
海の上で荘厳に、輝く者であるあなた様はさて、
微笑みつつ無限の「愛」を、
世界の上に投げようと光臨されることでしょう。
世界は顫えることでしょう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしく、大きな愛撫にゾクゾクしながら……

――世界は「愛」に渇えています。あなた様はそれをお鎮め下さい、
おお肉体のみごとさよ! おお素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明の凱旋
神々も、英雄たち身を屈め、
エロスや真っ白なカリピイジュ
薔薇の吹雪に迷いつつ
足の下の花々や、女たちを摘むでしょう!

    Ⅳ

おお偉大なアリアドネ、お前はお前の悲しみを
海に投げ棄てたのだった、テーゼの船が
陽に燦いて、去っていくのを眺めつつ、
おお貞順なお前であった、闇が傷めたお前であった、
黒い葡萄で縁取った、金の車でリディアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に引かせてフリージアの
野をあちこちとさまよって、青い流れに沿いながら
進んでいけばほの暗い波も恥じ入る気配です。
牡牛ゼウスはユウロペの裸の身を頸にのせ、
軽々と揺さぶれば、波の中で寒気する
ゼウスの丈夫なその頸に、白い腕をユウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼を閉じて、彼女は死んでしまいます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音を立てています
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女のヘアーに花となる。
夾竹桃とおしゃべりな白蓮の間をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、とても恋々(れんれん)しています、
その真っ白の羽でレダを胸に抱き締めるのです、
さてビーナス様のお通りです、
めずらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になって
幅広の胸に黄金を晴れがましくも、
雪かと見間違える白いそのお腹には、まっ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この凄腕は誇らかに、
ライオンの毛皮をゆたらか(豊満な)五体に締めて、
恐いながらも優しい顔して、地平の方へと進んでいく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立って夢みる裸身のもの
ロングヘアーも金に染み、蒼ざめ重き波をつくる
これこそご存知アリアドネ、沈黙の空を眺めている……
苔も閃めく林間の空地の中のそこだから、
肌も真っ白のセレネーはハンカチーフが靡くにままになっていて、
エンデミオンの足元に、おずおずとして、
蒼白い月の光のその中で一寸口づけするのです……
泉は遠くで泣いています うっとり和んで泣いています……
甕に肘を突きまして、若く綺麗な男を
思っているのはあのニンフ、波で彼を抱き締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
このようにめでたい森の中、大樹ばかりの凄さの中に、
立っているのは物言わぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかお)に鶯は塒を作り、
神々は耳を傾け、「人の子」と「終わりなき世」を案じ顔。
                〔1870、5月〕

 *

 太陽と肉体

太陽、この愛と生命の家郷は、
嬉々たる大地に熱愛を注ぐ。
我等谷間に寝そべつてゐる時に、
大地は血を湧き肉を躍らす、
その大いな胸が人に激昂させられるのは
神が愛によつて、女が肉によつて激昂させられる如くで、
又大量の樹液や光、
凡ゆる胚種を包蔵してゐる。

一切成長、一切増進!

          おゝ美神(ヹニュス)、おゝ女神!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神(サチール)たちを。
獣的な田野の神々(フォーヌ)を私は追惜します、
愛の小枝の樹皮をば齧り、
金髪ニンフを埃及蓮(はす)の中にて、接唇しました彼等です。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮(ちしほ)が仄紅(ほのくれなゐ)に
牧羊神(パン)の血潮と交(まざ)り循(めぐ)つた、かの頃を私は追惜します。
当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、
牧羊神が葦笛とれば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴渡つたものでした、
野に立つて彼は、その笛に答へる天地の
声々をきいてゐました。
黙(もだ)せる樹々も歌ふ小鳥に接唇(くちづけ)し、
大地は人に接唇し、海といふ海
生物といふ生物が神のごと、情けに篤いことでした。
壮観な市々(まちまち)の中を、青銅の車に乗つて
見上げるやうに美しかつたかのシベールが、
走り廻つてゐたといふ時代を私は追惜します。
乳房ゆたかなその胸は顥気の中に
不死の命の霊液をそゝいでゐました。
『人の子』は吸つたものです、よろこんでその乳房をば、
子供のやうに、膝にあがつて。
だが『人の子』は強かつたので、貞潔で、温和でありました。

なさけないことに、今では彼は云ふのです、俺は何でも知つてると、
そして、眼(め)をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでゐて『人の子』が今では王であり、
『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを!
おゝ! 神々と男達との大いなる母、シベールよ!
そなたの乳房をもしも男が、今でも吸ふのであつたなら!
昔青波(せいは)の限りなき光のさ中に顕れ給ひ
浪かをる御神体、泡降りかゝる
紅(とき)の臍(ほぞ)をば示現し給ひ、
森に鶯、男の心に、愛を歌はせ給ひたる
大いなる黒き瞳も誇りかのかの女神
アスタルテ、今も此の世におはしなば!

    Ⅱ

私は御身を信じます、聖なる母よ、
海のアフロヂテよ!――他の神がその十字架に
我等を繋ぎ給ひてより、御身への道のにがいこと!
肉、大理石、花、ヹニュス、私は御身を信じます!
さうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けてゐる、何故ならもはや貞潔でない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇つた木偶(でく)といぢけさせました!
それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!
そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすつたあの偶像、『女』は、
その哀れな魂を男に照らして貰つたおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にやなれぬ!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なヹニュスの
優しく聖なる御名(みな)に於て、ひややかに笑つてゐる。

     Ⅲ

もしかの時代が帰りもしたらば! もしかの時代が帰りもしたらば!……
だつて『人の子』の時代は過ぎた、『人の子』の役目は終つた。
かの時代が帰りもしたらば、その日こそ、偶像壊(こぼ)つことにも疲れ、
彼は復活するでもあらう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者の如く、諸天を吟味しだすであらう。
理想、砕くすべなき永遠の思想、
かの肉体(にく)に棲む神性は
昇現し、額の下にて燃えるであらう。
そして、凡ゆる地域を探索する、彼を御身が見るだらう時、
諸々の古き軛の侮蔑者にして、全ての恐怖に勝てる者、
御身は彼に聖・贖罪を給ふでせう。
海の上にて荘厳に、輝く者たる御身はさて、
微笑みつゝは無限の『愛』を、
世界の上に投ぜんと光臨されることでせう。
世界は顫へることでせう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしき、巨(おほ)いな愛撫にぞくぞくしながら……

――世界は『愛』に渇(かつ)ゑてゐます。御身よそれをお鎮め下さい、
おゝ肉体のみごとさよ! おゝ素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明(よあけ)の凱旋
神々も、英雄達も身を屈め、
エロスや真白のカリピイジュ
薔薇の吹雪にまよひつゝ
足の下(もと)なる花々や、女達をば摘むでせう!

    Ⅳ

おゝ偉大なるアリアドネ、おまへはおまへの悲しみを
海に投げ棄てたのだつた、テエゼの船が
陽に燦いて、去つてゆくのを眺めつつ、
おゝ貞順なおまへであつた、闇が傷めたおまへであつた、
黒い葡萄で縁取つた、金の車でリジアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に牽かせてフリジアの
野をあちこちとさまよつて、青い流に沿ひながら
進んでゆけば仄暗い波も恥ぢ入るけはひです。
牡牛ゼウスはイウロペの裸かの身をば頸にのせ、
軽々とこそ揺すぶれば、波の中にて寒気(さむけ)する
ゼウスの丈夫なその頸(くび)に、白い腕(かひな)をイウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼(まなこ)を閉ぢて、彼女は死にます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音をば立ててます
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女の髪毛に花となる。
夾竹桃と饒舌(おしやべり)な白蓮の間(あはひ)をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、大変恋々(れんれん)してゐます、
その真つ白の羽をもてレダを胸には抱締めます、
さてヹニュス様のお通りです、
めづらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になつて
幅広の胸に黄金(こがね)をはれがましくも、
雪かと白いそのお腹(なか)には、まつ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この調練師(ならして)は誇りかに、
獅の毛皮をゆたらかな五体に締めて、
恐(こは)いうちにも優しい顔して、地平の方(かた)へと進みゆく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立つて夢みる裸身のもの
丈長髪も金に染み蒼ざめ重き波をなす
これぞ御存じアリアドネ、沈黙(しじま)の空を眺めゐる……
苔も閃めく林間の空地(あきち)の中の其処にして、
肌も真白のセレネエは面帕(かつぎ)なびくにまかせつつ、
エンデミオンの足許に、怖づ怖づとして、
蒼白い月の光のその中で一寸接唇(くちづけ)するのです……
泉は遐くで泣いてます うつとり和(なご)んで泣いてます……
甕に肘をば突きまして、若くて綺麗な男をば
思つてゐるのはかのニンフ、波もて彼を抱締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
さてもめでたい森の中、大樹々々の凄さの中に、
立つてゐるのは物云はぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかほ)に鶯は塒(ねぐら)を作り、
神々は耳傾けて、『人の子』と『終わりなき世』を案じ顔。
                〔一八七〇、五月〕

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。また、節を
示すギリシア数字は、一部、現代表記にしました。
※本文中の「驃駻」の「駻」は、原作では「馬へん」に「干」です。編者。

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2012年5月27日 (日)

中原中也が訳したランボー「太陽と肉体」Soleil et Chairその2

中原中也訳「太陽と肉体」Soleil et Chairは
ギリシア・ローマ神話を直接のモチーフにしているので
その知識が多少要ることになりますから
ここでくじけてしまうと
もう先へ進めませんが
体系的に全てを分かろうとしても無理な話なので
この詩に現れる「神々」「英雄」の
アウトラインくらいは知っておくことにすればよいことにしましょう。

イザナギ・イザナミや
ヤマタノオロチや
スサノオノミコトなどのアウトラインを日本人が知っているように
西欧人なら
ギリシア、ローマ神話からキリスト以後の
神々や神や英雄について親しいのは当たり前です。

日本にも
ギリシア・ローマの神話や伝説は
結構、伝わっているので
一度くらいはどこかで聞いたことのある名前が多く
ランボーがそれほど遠くにいるわけではありませんが
それは「知識上のこと」で
実際の生活の中に
「神」やキリストやゼウスやヘラクレスらが浸透している「実感」は
想像できません。

ランボーが「キリスト」と言ったときに
日本人は「知識」としてのキリストを理解できても
「実感」としてのキリストを理解することはできず
ランボーのキリストを想像することしかできません。

これは、信仰の話のことではありません。
信仰と無関係ではないにしても
今ここで言っているのは
信仰とは別のことです。

フォーヌとか
ニンフとか
ヘラクレスとかについても
そのようなことが言えるのかもしれないことは
一応押さえておいた上で
「太陽と肉体」に登場する
神々・英雄をざっと見てみますと――

ビーナス
サチュルス
フォーヌ
ニンフ
パン
シベール
アスタルテ
アフロディテ
エロス
アリアドネ
テーゼ(ウス)
リディアス
ゼウス
ユウロペ
レダ
ヘラクレス
セレネー
エンデミオン
……

これくらいです。

これらの神々や英雄が
「太陽と肉体」の中で
どのように描かれ歌われているか――

「太陽と肉体」という詩を味わうには
これらの神々や英雄が
どのような活躍をし
どのような悲劇や武勇伝やドラマを演じたかを理解すればよいということではなく
これらの神々や英雄が
どのように歌われているか
どのように描かれているかを知れば十分です。

ランボーは
どのように歌ったのか
それが一番です。

さて、詩に戻れば、
冒頭で
太陽と大地の「交合」が歌われたのに続いて、
以下、延々と神々や英雄の讃歌になっているのが
この詩であることが分かります。

今回も
現代表記と原作を
掲出しておきます。

太陽と肉体

太陽、この愛と生命のふるさとは、
喜びの大地に熱愛を注ぐ。
私たちが谷間に寝そべっている時に、
大地は血をたぎらせ肉を躍らせる、
その大きな胸が人に激賞させられるのは
神が愛によって、女が肉によって激賞させられるのと同じで、
また大量の樹液や光、
あらゆる胚種を包蔵している。

一切成長、一切増進!

          おおビーナスよ、おお女神よ!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神・サチュルスを。
野生の神々・フォーヌを私は懐かしみます、
愛の小枝の樹皮を齧り、
金髪ニンフを蓮の中で、口づけしました彼らです。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮が仄かな紅に
牧羊神・パンの血潮と交ざり循環した、あの頃を私は懐かしみます。
あの頃、大地は牧羊神の、山羊足の下に胸をときめかし、
牧羊神が葦笛を吹けば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴り渡ったものでした、
野に立って彼は、その笛に答える天地の
声々を聴いていました。
声を出さない樹々も歌う小鳥たちに口づけし、
大地は人に口づけし、海という海
生物という生物が神のように、情愛に満ちていました。
壮観な街の中を、青銅の車に乗って
ほれぼれするように美しかったあのシベールが、
走り回っていたという時代を私は懐かしみます。
乳房豊かなその胸は清らかな大気の中に
不死の命の精水をそそいでいました。
「人の子」は吸ったものです、よろこんでその乳房を、
子供のように、膝にあがって。
だが「人の子」は強かったので、貞潔で、温和でありました。

情けないことに、今では彼は言うのです、俺は何でも知ってると、
そして、眼をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでいて「人の子」が今では王であり、
「人の子」が今では神なのです! 「愛」こそ神であるものなのに!
おお! 神々と男たちとの大いなる母、シベールよ!
あなたの乳房をもしも男が、今でも吸うのだったら!
昔、青い波の限りない光のさ中に現れなさって
波の香のする御神体、泡が降りかかる
トキ色のおへそをお示しなさって、
森に鶯、男の心に、愛を歌わせなさいまし
大いなる黒い瞳も誇らかなあの女神
アスタルテ、今もこの世におられたらなあ!

    Ⅱ

私はあなた様を信じます、聖なる母よ、
海のアフロディテよ!――ほかの神がその十字架に
わたしたちを繋ぎましてから、あなた様への道の苦しいこと!
肉、大理石、花、ビーナス、私はあなた様を信じます!
そうです、「人の子」は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けている、何故ならもはや貞潔じゃない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまったのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇った木偶と意地気させました!
それでいて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きようとします、最初の美などもうないくせに!
そしてあなた様の処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすったあの偶像、「女」は、
その哀れな魂を男に照らして貰ったおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にゃなれない!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なビーナスの
優しく聖なる御名において、冷ややかに笑っている。

     Ⅲ

もしあの時代が帰ってきたらば! もしあの時代が帰ってきたらば!……
だって「人の子」の時代は過ぎた、「人の子」の役目は終った。
あの時代が帰ってきたら、その日こそ、偶像を壊すことにも疲れ、
彼は復活するだろう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者のように、諸神を裁定しはじめるだろう。
理想、砕けることもない永遠の思想、
あの肉体に住む神性は
出現し、額の下で燃えるだろう。
そして、あらゆる地域を探索する、彼をあなた様が見るだらう時、
諸々の古いルールの侮蔑者であり、全ての恐怖に勝つ者、
あなた様は彼に聖・贖罪をお与えになるでしょう。
海の上で荘厳に、輝く者であるあなた様はさて、
微笑みつつ無限の「愛」を、
世界の上に投げようと光臨されることでしょう。
世界は顫えることでしょう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしく、大きな愛撫にゾクゾクしながら……

――世界は「愛」に渇えています。あなた様はそれをお鎮め下さい、
おお肉体のみごとさよ! おお素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明の凱旋
神々も、英雄たち身を屈め、
エロスや真っ白なカリピイジュ
薔薇の吹雪に迷いつつ
足の下の花々や、女たちを摘むでしょう!

    Ⅳ

おお偉大なアリアドネ、お前はお前の悲しみを
海に投げ棄てたのだった、テーゼの船が
陽に燦いて、去っていくのを眺めつつ、
おお貞順なお前であった、闇が傷めたお前であった、
黒い葡萄で縁取った、金の車でリディアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に引かせてフリージアの
野をあちこちとさまよって、青い流れに沿いながら
進んでいけばほの暗い波も恥じ入る気配です。
牡牛ゼウスはユウロペの裸の身を頸にのせ、
軽々と揺さぶれば、波の中で寒気する
ゼウスの丈夫なその頸に、白い腕をユウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼を閉じて、彼女は死んでしまいます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音を立てています
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女のヘアーに花となる。
夾竹桃とおしゃべりな白蓮の間をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、とても恋々(れんれん)しています、
その真っ白の羽でレダを胸に抱き締めるのです、
さてビーナス様のお通りです、
めずらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になって
幅広の胸に黄金を晴れがましくも、
雪かと見間違える白いそのお腹には、まっ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この凄腕は誇らかに、
ライオンの毛皮をゆたらか(豊満な)五体に締めて、
恐いながらも優しい顔して、地平の方へと進んでいく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立って夢みる裸身のもの
ロングヘアーも金に染み、蒼ざめ重き波をつくる
これこそご存知アリアドネ、沈黙の空を眺めている……
苔も閃めく林間の空地の中のそこだから、
肌も真っ白のセレネーはハンカチーフが靡くにままになっていて、
エンデミオンの足元に、おずおずとして、
蒼白い月の光のその中で一寸口づけするのです……
泉は遠くで泣いています うっとり和んで泣いています……
甕に肘を突きまして、若く綺麗な男を
思っているのはあのニンフ、波で彼を抱き締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
このようにめでたい森の中、大樹ばかりの凄さの中に、
立っているのは物言わぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかお)に鶯は塒を作り、
神々は耳を傾け、「人の子」と「終わりなき世」を案じ顔。
                〔1870、5月〕

 *

 太陽と肉体

太陽、この愛と生命の家郷は、
嬉々たる大地に熱愛を注ぐ。
我等谷間に寝そべつてゐる時に、
大地は血を湧き肉を躍らす、
その大いな胸が人に激昂させられるのは
神が愛によつて、女が肉によつて激昂させられる如くで、
又大量の樹液や光、
凡ゆる胚種を包蔵してゐる。

一切成長、一切増進!

          おゝ美神(ヹニュス)、おゝ女神!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神(サチール)たちを。
獣的な田野の神々(フォーヌ)を私は追惜します、
愛の小枝の樹皮をば齧り、
金髪ニンフを埃及蓮(はす)の中にて、接唇しました彼等です。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮(ちしほ)が仄紅(ほのくれなゐ)に
牧羊神(パン)の血潮と交(まざ)り循(めぐ)つた、かの頃を私は追惜します。
当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、
牧羊神が葦笛とれば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴渡つたものでした、
野に立つて彼は、その笛に答へる天地の
声々をきいてゐました。
黙(もだ)せる樹々も歌ふ小鳥に接唇(くちづけ)し、
大地は人に接唇し、海といふ海
生物といふ生物が神のごと、情けに篤いことでした。
壮観な市々(まちまち)の中を、青銅の車に乗つて
見上げるやうに美しかつたかのシベールが、
走り廻つてゐたといふ時代を私は追惜します。
乳房ゆたかなその胸は顥気の中に
不死の命の霊液をそゝいでゐました。
『人の子』は吸つたものです、よろこんでその乳房をば、
子供のやうに、膝にあがつて。
だが『人の子』は強かつたので、貞潔で、温和でありました。

なさけないことに、今では彼は云ふのです、俺は何でも知つてると、
そして、眼(め)をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでゐて『人の子』が今では王であり、
『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを!
おゝ! 神々と男達との大いなる母、シベールよ!
そなたの乳房をもしも男が、今でも吸ふのであつたなら!
昔青波(せいは)の限りなき光のさ中に顕れ給ひ
浪かをる御神体、泡降りかゝる
紅(とき)の臍(ほぞ)をば示現し給ひ、
森に鶯、男の心に、愛を歌はせ給ひたる
大いなる黒き瞳も誇りかのかの女神
アスタルテ、今も此の世におはしなば!

    Ⅱ

私は御身を信じます、聖なる母よ、
海のアフロヂテよ!――他の神がその十字架に
我等を繋ぎ給ひてより、御身への道のにがいこと!
肉、大理石、花、ヹニュス、私は御身を信じます!
さうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けてゐる、何故ならもはや貞潔でない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇つた木偶(でく)といぢけさせました!
それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!
そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすつたあの偶像、『女』は、
その哀れな魂を男に照らして貰つたおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にやなれぬ!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なヹニュスの
優しく聖なる御名(みな)に於て、ひややかに笑つてゐる。

     Ⅲ

もしかの時代が帰りもしたらば! もしかの時代が帰りもしたらば!……
だつて『人の子』の時代は過ぎた、『人の子』の役目は終つた。
かの時代が帰りもしたらば、その日こそ、偶像壊(こぼ)つことにも疲れ、
彼は復活するでもあらう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者の如く、諸天を吟味しだすであらう。
理想、砕くすべなき永遠の思想、
かの肉体(にく)に棲む神性は
昇現し、額の下にて燃えるであらう。
そして、凡ゆる地域を探索する、彼を御身が見るだらう時、
諸々の古き軛の侮蔑者にして、全ての恐怖に勝てる者、
御身は彼に聖・贖罪を給ふでせう。
海の上にて荘厳に、輝く者たる御身はさて、
微笑みつゝは無限の『愛』を、
世界の上に投ぜんと光臨されることでせう。
世界は顫へることでせう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしき、巨(おほ)いな愛撫にぞくぞくしながら……

――世界は『愛』に渇(かつ)ゑてゐます。御身よそれをお鎮め下さい、
おゝ肉体のみごとさよ! おゝ素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明(よあけ)の凱旋
神々も、英雄達も身を屈め、
エロスや真白のカリピイジュ
薔薇の吹雪にまよひつゝ
足の下(もと)なる花々や、女達をば摘むでせう!

    Ⅳ

おゝ偉大なるアリアドネ、おまへはおまへの悲しみを
海に投げ棄てたのだつた、テエゼの船が
陽に燦いて、去つてゆくのを眺めつつ、
おゝ貞順なおまへであつた、闇が傷めたおまへであつた、
黒い葡萄で縁取つた、金の車でリジアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に牽かせてフリジアの
野をあちこちとさまよつて、青い流に沿ひながら
進んでゆけば仄暗い波も恥ぢ入るけはひです。
牡牛ゼウスはイウロペの裸かの身をば頸にのせ、
軽々とこそ揺すぶれば、波の中にて寒気(さむけ)する
ゼウスの丈夫なその頸(くび)に、白い腕(かひな)をイウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼(まなこ)を閉ぢて、彼女は死にます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音をば立ててます
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女の髪毛に花となる。
夾竹桃と饒舌(おしやべり)な白蓮の間(あはひ)をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、大変恋々(れんれん)してゐます、
その真つ白の羽をもてレダを胸には抱締めます、
さてヹニュス様のお通りです、
めづらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になつて
幅広の胸に黄金(こがね)をはれがましくも、
雪かと白いそのお腹(なか)には、まつ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この調練師(ならして)は誇りかに、
獅の毛皮をゆたらかな五体に締めて、
恐(こは)いうちにも優しい顔して、地平の方(かた)へと進みゆく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立つて夢みる裸身のもの
丈長髪も金に染み蒼ざめ重き波をなす
これぞ御存じアリアドネ、沈黙(しじま)の空を眺めゐる……
苔も閃めく林間の空地(あきち)の中の其処にして、
肌も真白のセレネエは面帕(かつぎ)なびくにまかせつつ、
エンデミオンの足許に、怖づ怖づとして、
蒼白い月の光のその中で一寸接唇(くちづけ)するのです……
泉は遐くで泣いてます うつとり和(なご)んで泣いてます……
甕に肘をば突きまして、若くて綺麗な男をば
思つてゐるのはかのニンフ、波もて彼を抱締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
さてもめでたい森の中、大樹々々の凄さの中に、
立つてゐるのは物云はぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかほ)に鶯は塒(ねぐら)を作り、
神々は耳傾けて、『人の子』と『終わりなき世』を案じ顔。
                〔一八七〇、五月〕

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。また、節を示すギリシア数字は、一部、現代表記にしました。
※本文中の「驃駻」の「駻」は、原作では「馬へん」に「干」です。編者。

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2012年5月26日 (土)

中原中也が訳したランボー「太陽と肉体」Soleil et Chair

中原中也訳「ランボオ詩集」の
「追加篇」APPENDICEの2番目にあるのが
「太陽と肉体」Soleil et Chairです。

まずは、どんな詩であるか
中原中也の訳を
現代表記にして読んでみましょう。
できるだけ新聞表記に近づけてみます。
末尾に原詩も掲出します。

太陽と肉体

太陽、この愛と生命のふるさとは、
喜びの大地に熱愛を注ぐ。
私たちが谷間に寝そべっている時に、
大地は血をたぎらせ肉を躍らせる、
その大きな胸が人に激賞させられるのは
神が愛によって、女が肉によって激賞させられるのと同じで、
また大量の樹液や光、
あらゆる胚種を包蔵している。

一切成長、一切増進!

          おおビーナスよ、おお女神よ!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神・サチュルスを。
野生の神々・フォーヌを私は懐かしみます、
愛の小枝の樹皮を齧り、
金髪ニンフを蓮の中で、口づけしました彼らです。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮が仄かな紅に
牧羊神・パンの血潮と交ざり循環した、あの頃を私は懐かしみます。
あの頃、大地は牧羊神の、山羊足の下に胸をときめかし、
牧羊神が葦笛を吹けば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴り渡ったものでした、
野に立って彼は、その笛に答える天地の
声々を聴いていました。
声を出さない樹々も歌う小鳥たちに口づけし、
大地は人に口づけし、海という海
生物という生物が神のように、情愛に満ちていました。
壮観な街の中を、青銅の車に乗って
ほれぼれするように美しかったあのシベールが、
走り回っていたという時代を私は懐かしみます。
乳房豊かなその胸は清らかな大気の中に
不死の命の精水をそそいでいました。
「人の子」は吸ったものです、よろこんでその乳房を、
子供のように、膝にあがって。
だが「人の子」は強かったので、貞潔で、温和でありました。

情けないことに、今では彼は言うのです、俺は何でも知ってると、
そして、眼をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでいて「人の子」が今では王であり、
「人の子」が今では神なのです! 「愛」こそ神であるものなのに!
おお! 神々と男たちとの大いなる母、シベールよ!
あなたの乳房をもしも男が、今でも吸うのだったら!
昔、青い波の限りない光のさ中に現れなさって
波の香のする御神体、泡が降りかかる
トキ色のおへそをお示しなさって、
森に鶯、男の心に、愛を歌わせなさいまし
大いなる黒い瞳も誇らかなあの女神
アスタルテ、今もこの世におられたらなあ!

    Ⅱ

私はあなた様を信じます、聖なる母よ、
海のアフロディテよ!――ほかの神がその十字架に
わたしたちを繋ぎましてから、あなた様への道の苦しいこと!
肉、大理石、花、ビーナス、私はあなた様を信じます!
そうです、「人の子」は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けている、何故ならもはや貞潔じゃない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまったのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇った木偶と意地気させました!
それでいて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きようとします、最初の美などもうないくせに!
そしてあなた様の処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすったあの偶像、「女」は、
その哀れな魂を男に照らして貰ったおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にゃなれない!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なビーナスの
優しく聖なる御名において、冷ややかに笑っている。

     Ⅲ

もしあの時代が帰ってきたらば! もしあの時代が帰ってきたらば!……
だって「人の子」の時代は過ぎた、「人の子」の役目は終った。
あの時代が帰ってきたら、その日こそ、偶像を壊すことにも疲れ、
彼は復活するだろう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者のように、諸神を裁定しはじめるだろう。
理想、砕けることもない永遠の思想、
あの肉体に住む神性は
出現し、額の下で燃えるだろう。
そして、あらゆる地域を探索する、彼をあなた様が見るだらう時、
諸々の古いルールの侮蔑者であり、全ての恐怖に勝つ者、
あなた様は彼に聖・贖罪をお与えになるでしょう。
海の上で荘厳に、輝く者であるあなた様はさて、
微笑みつつ無限の「愛」を、
世界の上に投げようと光臨されることでしょう。
世界は顫えることでしょう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしく、大きな愛撫にゾクゾクしながら……

――世界は「愛」に渇えています。あなた様はそれをお鎮め下さい、
おお肉体のみごとさよ! おお素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明の凱旋
神々も、英雄たち身を屈め、
エロスや真っ白なカリピイジュ
薔薇の吹雪に迷いつつ
足の下の花々や、女たちを摘むでしょう!

    Ⅳ

おお偉大なアリアドネ、お前はお前の悲しみを
海に投げ棄てたのだった、テーゼの船が
陽に燦いて、去っていくのを眺めつつ、
おお貞順なお前であった、闇が傷めたお前であった、
黒い葡萄で縁取った、金の車でリディアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に引かせてフリージアの
野をあちこちとさまよって、青い流れに沿いながら
進んでいけばほの暗い波も恥じ入る気配です。
牡牛ゼウスはユウロペの裸の身を頸にのせ、
軽々と揺さぶれば、波の中で寒気する
ゼウスの丈夫なその頸に、白い腕をユウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼を閉じて、彼女は死んでしまいます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音を立てています
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女のヘアーに花となる。
夾竹桃とおしゃべりな白蓮の間をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、とても恋々(れんれん)しています、
その真っ白の羽でレダを胸に抱き締めるのです、
さてビーナス様のお通りです、
めずらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になって
幅広の胸に黄金を晴れがましくも、
雪かと見間違える白いそのお腹には、まっ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この凄腕は誇らかに、
ライオンの毛皮をゆたらか(豊満な)五体に締めて、
恐いながらも優しい顔して、地平の方へと進んでいく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立って夢みる裸身のもの
ロングヘアーも金に染み、蒼ざめ重き波をつくる
これこそご存知アリアドネ、沈黙の空を眺めている……
苔も閃めく林間の空地の中のそこだから、
肌も真っ白のセレネーはハンカチーフが靡くにままになっていて、
エンデミオンの足元に、おずおずとして、
蒼白い月の光のその中で一寸口づけするのです……
泉は遠くで泣いています うっとり和んで泣いています……
甕に肘を突きまして、若く綺麗な男を
思っているのはあのニンフ、波で彼を抱き締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
このようにめでたい森の中、大樹ばかりの凄さの中に、
立っているのは物言わぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかお)に鶯は塒を作り、
神々は耳を傾け、「人の子」と「終わりなき世」を案じ顔。
                〔1870、5月〕

なんとか
読み通せたでしょうか。
長い詩です。

ギリシア神話をモチーフにしていることが明らかです。

冒頭2行に
太陽と大地の「交合」が歌われ、
以下、4章にわたって
神々の讃歌が続きます。

 *

 太陽と肉体

太陽、この愛と生命の家郷は、
嬉々たる大地に熱愛を注ぐ。
我等谷間に寝そべつてゐる時に、
大地は血を湧き肉を躍らす、
その大いな胸が人に激昂させられるのは
神が愛によつて、女が肉によつて激昂させられる如くで、
又大量の樹液や光、
凡ゆる胚種を包蔵してゐる。

一切成長、一切増進!

          おゝ美神(ヹニュス)、おゝ女神!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神(サチール)たちを。
獣的な田野の神々(フォーヌ)を私は追惜します、
愛の小枝の樹皮をば齧り、
金髪ニンフを埃及蓮(はす)の中にて、接唇しました彼等です。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮(ちしほ)が仄紅(ほのくれなゐ)に
牧羊神(パン)の血潮と交(まざ)り循(めぐ)つた、かの頃を私は追惜します。
当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、
牧羊神が葦笛とれば、空のもと
愛の頌歌はほがらかに鳴渡つたものでした、
野に立つて彼は、その笛に答へる天地の
声々をきいてゐました。
黙(もだ)せる樹々も歌ふ小鳥に接唇(くちづけ)し、
大地は人に接唇し、海といふ海
生物といふ生物が神のごと、情けに篤いことでした。
壮観な市々(まちまち)の中を、青銅の車に乗つて
見上げるやうに美しかつたかのシベールが、
走り廻つてゐたといふ時代を私は追惜します。
乳房ゆたかなその胸は顥気の中に
不死の命の霊液をそゝいでゐました。
『人の子』は吸つたものです、よろこんでその乳房をば、
子供のやうに、膝にあがつて。
だが『人の子』は強かつたので、貞潔で、温和でありました。

なさけないことに、今では彼は云ふのです、俺は何でも知つてると、
そして、眼(め)をつぶり、耳を塞いで歩くのです。
それでゐて『人の子』が今では王であり、
『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを!
おゝ! 神々と男達との大いなる母、シベールよ!
そなたの乳房をもしも男が、今でも吸ふのであつたなら!
昔青波(せいは)の限りなき光のさ中に顕れ給ひ
浪かをる御神体、泡降りかゝる
紅(とき)の臍(ほぞ)をば示現し給ひ、
森に鶯、男の心に、愛を歌はせ給ひたる
大いなる黒き瞳も誇りかのかの女神
アスタルテ、今も此の世におはしなば!

    Ⅱ

私は御身を信じます、聖なる母よ、
海のアフロヂテよ!――他の神がその十字架に
我等を繋ぎ給ひてより、御身への道のにがいこと!
肉、大理石、花、ヹニュス、私は御身を信じます!
さうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けてゐる、何故ならもはや貞潔でない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇つた木偶(でく)といぢけさせました!
それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!
そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすつたあの偶像、『女』は、
その哀れな魂を男に照らして貰つたおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にやなれぬ!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なヹニュスの
優しく聖なる御名(みな)に於て、ひややかに笑つてゐる。

     Ⅲ

もしかの時代が帰りもしたらば! もしかの時代が帰りもしたらば!……
だつて『人の子』の時代は過ぎた、『人の子』の役目は終つた。
かの時代が帰りもしたらば、その日こそ、偶像壊(こぼ)つことにも疲れ、
彼は復活するでもあらう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者の如く、諸天を吟味しだすであらう。
理想、砕くすべなき永遠の思想、
かの肉体(にく)に棲む神性は
昇現し、額の下にて燃えるであらう。
そして、凡ゆる地域を探索する、彼を御身が見るだらう時、
諸々の古き軛の侮蔑者にして、全ての恐怖に勝てる者、
御身は彼に聖・贖罪を給ふでせう。
海の上にて荘厳に、輝く者たる御身はさて、
微笑みつゝは無限の『愛』を、
世界の上に投ぜんと光臨されることでせう。
世界は顫へることでせう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしき、巨(おほ)いな愛撫にぞくぞくしながら……

――世界は『愛』に渇(かつ)ゑてゐます。御身よそれをお鎮め下さい、
おゝ肉体のみごとさよ! おゝ素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明(よあけ)の凱旋
神々も、英雄達も身を屈め、
エロスや真白のカリピイジュ
薔薇の吹雪にまよひつゝ
足の下(もと)なる花々や、女達をば摘むでせう!

    Ⅳ

おゝ偉大なるアリアドネ、おまへはおまへの悲しみを
海に投げ棄てたのだつた、テエゼの船が
陽に燦いて、去つてゆくのを眺めつつ、
おゝ貞順なおまへであつた、闇が傷めたおまへであつた、
黒い葡萄で縁取つた、金の車でリジアスが、
驃駻な虎や褐色の豹に牽かせてフリジアの
野をあちこちとさまよつて、青い流に沿ひながら
進んでゆけば仄暗い波も恥ぢ入るけはひです。
牡牛ゼウスはイウロペの裸かの身をば頸にのせ、
軽々とこそ揺すぶれば、波の中にて寒気(さむけ)する
ゼウスの丈夫なその頸(くび)に、白い腕(かひな)をイウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼(まなこ)を閉ぢて、彼女は死にます
神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音をば立ててます
その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女の髪毛に花となる。
夾竹桃と饒舌(おしやべり)な白蓮の間(あはひ)をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、大変恋々(れんれん)してゐます、
その真つ白の羽をもてレダを胸には抱締めます、
さてヹニュス様のお通りです、
めづらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になつて
幅広の胸に黄金(こがね)をはれがましくも、
雪かと白いそのお腹(なか)には、まつ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この調練師(ならして)は誇りかに、
獅の毛皮をゆたらかな五体に締めて、
恐(こは)いうちにも優しい顔して、地平の方(かた)へと進みゆく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立つて夢みる裸身のもの
丈長髪も金に染み蒼ざめ重き波をなす
これぞ御存じアリアドネ、沈黙(しじま)の空を眺めゐる……
苔も閃めく林間の空地(あきち)の中の其処にして、
肌も真白のセレネエは面帕(かつぎ)なびくにまかせつつ、
エンデミオンの足許に、怖づ怖づとして、
蒼白い月の光のその中で一寸接唇(くちづけ)するのです……
泉は遐くで泣いてます うつとり和(なご)んで泣いてます……
甕に肘をば突きまして、若くて綺麗な男をば
思つてゐるのはかのニンフ、波もて彼を抱締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
さてもめでたい森の中、大樹々々の凄さの中に、
立つてゐるのは物云はぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかほ)に鶯は塒(ねぐら)を作り、
神々は耳傾けて、『人の子』と『終わりなき世』を案じ顔。
                〔一八七〇、五月〕

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。また、節を
示すギリシア数字は、一部、現代表記にしました。
※本文中の「驃駻」の「駻」は、原作では「馬へん」に「干」です。編者。

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2012年5月22日 (火)

中原中也が訳したランボー「孤児等のお年玉」Les Étrennes des orphelins再

中原中也訳「ランボオ詩集」の
「追加篇」APPENDICEの1番目にあるのが
「孤児等のお年玉」Les Étrennes des orphelinsです。

ランボー作品の中で
最も早く活字になったものとして有名。

1度、読んでいますが
読み直します。

ビクトル・ユゴーやフランツ・コペらの
「ロマン主義的傾向」の影響がありますが
「孤児」とか「崩壊家庭」とかへの眼の向け方は
ランボー固有で
この詩を作る前から継続しているものでした。

中原中也が訳した「ランボオ詩集《学校時代の詩》」に
収録されている「天使と子供」は
1869年の制作ですが
「孤児」はランボーの
この頃からの関心領域でありますし
関心が継続していたことをも示しています。

「天使と子供」は
すでに読みましたが
ここに引いておきます。

 *
 天使と子供

ながくは待たれ、すみやかに、忘れ去られる新年の
子供等喜ぶ元日の日も、茲に終りを告げてゐた!
熟睡(うまい)の床(とこ)に埋もれて、子供は眠る
羽毛(はね)しつらへし揺籠(ゆりかご)に
音の出るそのお舐子(しやぶり)は置き去られ、
子供はそれを幸福な夢の裡にて思ひ出す
その母の年玉貰つたあとからは、天国の小父さん達からまた貰ふ。
笑ましげの脣(くち)そと開けて、唇を半ば動かし
神様を呼ぶ心持。枕許には天使立ち、
子供の上に身をかしげ、無辜な心の呟きに耳を傾け、
ほがらかなそれの額の喜びや
その魂の喜びや。南の風のまだ触れぬ
此の花を褒め讃へたのだ。

《此の子は私にそつくりだ、
空へ一緒に行かないか! その天上の王国に
おまへが夢に見たといふその宮殿はあるのだよ、
おまへはほんとに立派だね! 地球住(ずま)ひは沢山だ!
地球では、真(しん)の勝利はないのだし、まことの幸(さち)を崇めない。
花の薫りもなほにがく、騒がしい人の心は
哀れなる喜びをしか知りはせぬ。
曇りなき怡びはなく、
不慥かな笑ひのうちに涙は光る。
おまへの純な額とて、浮世の風には萎むだらう、
憂き苦しみは蒼い眼を、涙で以て濡らすだらう、
おまへの顔の薔薇色は、死の影が来て逐ふだらう。
いやいやおまへを伴れだつて、私は空の国へ行かう、
すればおまへのその声は天の御国(みくに)の住民の佳い音楽にまさるだらう。
おまへは浮世の人々とその騒擾(どよもし)を避けるがよい。
おまへを此の世に繋ぐ糸、今こそ神は断ち給ふ。
ただただおまへの母さんが、喪の悲しみをしないやう!
その揺籃を見るやうにおまへの柩も見るやうに!
流る涙を打払ひ、葬儀の時にもほがらかに
手に一杯の百合の花、捧げてくれればよいと思ふ
げに汚れなき人の子の、最期の日こそは飾らるべきだ!》

いちはやく天使は翼を薔薇色の、子供の脣に近づけて、
ためらひもせず空色の翼に載せて
魂を、摘まれた子供の魂を、至上の国へと運び去る
ゆるやかなその羽搏きよ……揺籃に、残れるははや五体のみ、なほ美しさ漂へど
息づくけはひさらになく、生命(いのち)絶えたる亡骸(なきがら)よ。
そは死せり!……さはれ接唇(くちづけ)脣の上(へ)に、今も薫れり、
笑ひこそ今はやみたれ、母の名はなほ脣の辺(へ)に波立てる、
臨終(いまは)の時にもお年玉、思ひ出したりしてゐたのだ。
なごやかな眠りにその眼は閉ぢられて
なんといはうか死の誉れ?
いと清冽な輝きが、額のまはりにまつはつた。
地上の子とは思はれぬ、天上の子とおもはれた。
如何なる涙をその上に母はそそいだことだらう!
親しい我が子の奥津城に、流す涙ははてもない!
さはれ夜闌(た)けて眠る時、
薔薇色の、天の御国(みくに)の閾(しきみ)から
小さな天使は顕れて、
母(かあ)さんと、しづかに呼んで喜んだ!……
母も亦微笑(ほゝゑ)みかへせば……小天使、やがて空へと辷り出で、
雪の翼で舞ひながら、母のそばまでやつて来て
その脣(くち)に、天使の脣(くち)をつけました……

        千八百六十九年九月一日
          ランボオ・アルチュル
       シャルルヴィルにて、千八百五十四年十月二十日生

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※原作の二重パーレンは《 》に代えました。ルビは原作にあるもののみを( )の中に
入れ、新漢字を使用しました。編者。

 *

 孤児等のお年玉
 
    Ⅰ

薄暗い部屋。
ぼんやり聞こえるのは
二人の子供の悲しいやさしい私話(ささやき)。
互ひに額を寄せ合つて、おまけに夢想(ゆめ)で重苦しげで、
慄へたり揺らいだりする長い白いカーテンの前。
戸外(そと)では、小鳥たちが寄り合つて、寒がつてゐる。
灰色の空の下で彼等の羽はかじかんでゐる。
さて、霧の季節の後(あと)に来た新年は、
ところどころに雪のある彼女の衣裳を引摺りながら、
涙をうかべて微笑をしたり寒さに慄へて歌つたりする。

    Ⅱ

二人の子供は揺れ動くカーテンの前、
低声で話をしてゐます、恰度暗夜に人々がさうするやうに。
遠くの囁でも聴くやう、彼等は耳を澄ましてゐます。
彼等屡々、目覚時計の、けざやかな鈴(りん)の音には
びつくりするのでありました、それはりんりん鳴ります 鳴ります、
硝子の覆ひのその中で、金属的なその響き。
部屋は凍てつく寒さです。寝床の周囲(まはり)に散らばつた
喪服は床(ゆか)まで垂れてます。
酷(きび)しい冬の北風は、戸口や窓に泣いてゐて、
陰気な息吹を此の部屋の中までどんどん吹き込みます。
彼等は感じてゐるのです、何かゞ不足してゐると……
それは母親なのではないか、此のいたいけな子達にとつて、
それは得意な眼眸(まなざし)ににこにこ微笑を湛へてる母親なのではないでせう
か?
母親は、夕方独りで様子ぶり、忘れてゐたのでありませうか、
灰を落としてストーブをよく燃えるやうにすることも、
彼等の上に羊毛や毬毛(わたげ)をどつさり掛けることも?
彼等の部屋を出てゆく時に、お休みなさいを云ひながら、
その晨方(あさがた)が寒いだらうと、気の付かなかつたことでせうか、
戸締(とじ)めをしつかりすることさへも、うつかりしてゐたのでせうか?
――母の夢、それは微温の毛氈です、
柔らかい塒(ねぐら)です、其処に子供等小さくなつて、
枝に揺られる小鳥のやうに、
ほのかなねむりを眠ります!
今此の部屋は、羽なく熱なき塒です。
二人の子供は寒さに慄へ、眠りもしないで怖れにわななき、
これではまるで北風が吹き込むための塒です……

    Ⅲ

諸君は既にお分りでせう、此の子等には母親はありません。
養母(そだておや)さへない上に、父は他国にゐるのです!……
そこで婆やがこの子等の、面倒はみてゐるのです。
つまり凍つた此の家に住んでゐるのは彼等だけ……
今やこれらの幼い孤児が、嬉しい記憶を彼等の胸に
徐々に徐々にと繰り展(ひろ)げます、
恰度お祈りする時に、念珠を爪繰るやうにして。
あゝ! お年玉、貰へる朝の、なんと嬉しいことでせう。
明日(あした)は何を貰へることかと、眠れるどころの騒ぎでない。
わくわくしながら玩具(おもちや)を想ひ、
金紙包(きんがみづつ)みのボンボン想ひ、キラキラきらめく宝石類は、
しやなりしやなりと渦巻き踊り、
やがて見えなくなるかとみれば、またもやそれは現れてくる。
さて朝が来て目が覚める、直ぐさま元気で跳(は)ね起きる。
目を擦(こす)つてゐる暇もなく、口には唾(つばき)が湧くのです、
さて走つてゆく、頭はもぢやもぢや、
目玉はキヨロキヨロ、嬉しいのだもの、
小さな跣足(はだし)で床板踏んで、
両親の部屋の戸口に来ると、そをつとそをつと扉に触れる、
さて這入ります、それからそこで、御辞儀……寝巻のまんま、
接唇(ベーゼ)は頻(しき)つて繰返される、もう当然の躁ぎ方です!

    Ⅳ

あゝ! 楽しかつたことであつた、何べん思ひ出されることか……
――変り果てたる此の家(や)の有様(さま)よ!
太い薪は炉格(シユミネ)の中で、かつかかつかと燃えてゐたつけ。
家中明るい灯火は明(あか)り、
それは洩れ出て外(そと)まで明るく、
机や椅子につやつやひかり、
鍵のしてない大きな戸棚、鍵のしてない黒い戸棚を
子供はたびたび眺めたことです、
鍵がないとはほんとに不思議! そこで子供は夢みるのでした、
戸棚の中の神秘の数々、
聞こえるやうです、鍵穴からは、
遠いい幽かな嬉しい囁き……
――両親の部屋は今日ではひつそり!
ドアの下から光も漏れぬ。
両親はゐぬ、家よ、鍵よ、
接唇(ベーゼ)も言葉も呉れないまゝで、去(い)つてしまつた!
なんとつまらぬ今年の正月!
ジツと案じてゐるうち涙は、
青い大きい目に浮かみます、
彼等呟く、『何時母さんは帰つて来ンだい?』

    Ⅴ

今、二人は悲しげに、眠つてをります。
それを見たらば、眠りながらも泣いてると諸君は云はれることでせう、
そんなに彼等の目は腫れてその息遣ひは苦しげです。
ほんに子供といふものは感じやすいものなのです!……
だが揺籃を見舞ふ天使は彼等の涙を拭ひに来ます。
そして彼等の苦しい眠に嬉しい夢を授けます。
その夢は面白いので半ば開いた彼等の唇(くち)は
やがて微笑み、何か呟くやうに見えます。
彼等はぽちやぽちやした腕に体重(おもみ)を凭(もた)せ、
やさしい目覚めの身振りして、頭を擡(もた)げる夢をばみます。
そして、ぼんやりした目してあたりをずつと眺めます。
彼等は薔薇の色をした楽園にゐると思ひます……
パツと明るい竃には薪がかつかと燃えてます、
窓からは、青い空さへ見えてます。
大地は輝き、光は夢中になつてます、
半枯(はんかれ)の野面(のも)は蘇生の嬉しさに、
陽射しに身をばまかせてゐます、
さても彼等のあの家が、今では総体(いつたい)に心地よく、
古い着物ももはやそこらに散らばつてゐず、
北風も扉の隙からもう吹込みはしませんでした。
仙女でも見舞つてくれたことでせう!……
――二人の子供は、夢中になつて、叫んだものです……おや其処に、
母さんの寝床の傍に明るい明るい陽を浴びて、
ほら其処に、毛氈(タピー)の上に、何かキラキラ光つてゐる。
それらみんな大きいメタル、銀や黒のや白いのや、
チラチラ耀く黒玉や、真珠母や、
小さな黒い額縁や、玻璃の王冠、
みれば金字が彫り付けてある、『我等が母に!』と。
                〔千八百六十九年末つ方〕

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。また、節を
示すギリシア数字は、一部、現代表記にしました。編者。

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2012年5月21日 (月)

中原中也が訳したランボー「追加篇」を読む前に・その2

中原中也訳「ランボオ詩集」の
「追加篇」APPENDICEのうちわけをみてみると
「失はれた毒薬」を含む17篇の韻文詩が収録されていますが、
原典の第2次ベリション版には
「失はれた毒薬」は収録されておらず
19篇が収録されていますので、
中原中也訳「ランボオ詩集」には
ランボーの詩3篇が訳されていないことになります。

「失はれた毒薬」は、
「ランボオ詩集」の「後記」に

附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分からない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かかから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林秀雄が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

――と中原中也は書いていますが
現在では、ランボーの作品ではないことが分かっています。

中原中也訳の「ランボオ詩集」では、
ランボーの詩が3篇、訳されなかったことになりますが、
その3篇は

「鍛冶屋」
「ぼくのかわいい恋人たち」
「正義の人」

――です。

(「新編中原中也全集」「翻訳・解題篇」より)
※これら詩のタイトルは、宇佐美斉の訳と思われます。編者。

中原中也訳の「ランボオ詩集」は、
ランボー全詩集ではないので
未収録の詩があってもおかしくはないのですが、
韻文詩のすべてを
中原中也は翻訳しようとしていたはずでした。

それをしなかったのには
「見切り発車」せざるを得なかった
なんらかの理由があったことが想像されます。

第2次ベリション版が
「初期詩篇」
「飾画篇」
「追加篇」――の3章構成にした意図は分かりませんが
「追加篇」にざっと目を通すだけで
顕著な特徴があることを
ランボー詩の初歩的な読者もすぐに気づくはずです。

「追加篇」の詩のほとんどが
作品末尾に日付けを持ち
1番目の「孤児等のお年玉」以外は
1870年の日付けを持つという点です。
日付けのない「海の泡から生れたヴィナス」も
原典のベリション版は1870年の日付けがありますが
中原中也は訳出しませんでした。

つまり
「飾画篇」より前に制作された詩群であり
「初期詩篇」に収録されるべきものを
「追加」としたのが
「追加篇」の詩群ということになります。

「飾画篇」の「海景」までを
およその時系列で読み進めてきた読者は
ここで再び
「ランボー初期」へと舞い戻る格好になります。

パリコンミューン以前であり、
ベルレーヌとの邂逅以前です。

「孤児等のお年玉」Les Étrennes des orphelinsは
1869年末の日付けが
ランボーによって記されましたが
中原中也は〔千八百六十九年末つ方〕と訳しました。

「末つ方」は
「スエツカタ」と読み
「末の頃」という意味の
古語表現です。

 *

 孤児等のお年玉
 
    Ⅰ

薄暗い部屋。
ぼんやり聞こえるのは
二人の子供の悲しいやさしい私話(ささやき)。
互ひに額を寄せ合つて、おまけに夢想(ゆめ)で重苦しげで、
慄へたり揺らいだりする長い白いカーテンの前。
戸外(そと)では、小鳥たちが寄り合つて、寒がつてゐる。
灰色の空の下で彼等の羽はかじかんでゐる。
さて、霧の季節の後(あと)に来た新年は、
ところどころに雪のある彼女の衣裳を引摺りながら、
涙をうかべて微笑をしたり寒さに慄へて歌つたりする。

    Ⅱ

二人の子供は揺れ動くカーテンの前、
低声で話をしてゐます、恰度暗夜に人々がさうするやうに。
遠くの囁でも聴くやう、彼等は耳を澄ましてゐます。
彼等屡々、目覚時計の、けざやかな鈴(りん)の音には
びつくりするのでありました、それはりんりん鳴ります 鳴ります、
硝子の覆ひのその中で、金属的なその響き。
部屋は凍てつく寒さです。寝床の周囲(まはり)に散らばつた
喪服は床(ゆか)まで垂れてます。
酷(きび)しい冬の北風は、戸口や窓に泣いてゐて、
陰気な息吹を此の部屋の中までどんどん吹き込みます。
彼等は感じてゐるのです、何かゞ不足してゐると……
それは母親なのではないか、此のいたいけな子達にとつて、
それは得意な眼眸(まなざし)ににこにこ微笑を湛へてる母親なのではないでせう
か?
母親は、夕方独りで様子ぶり、忘れてゐたのでありませうか、
灰を落としてストーブをよく燃えるやうにすることも、
彼等の上に羊毛や毬毛(わたげ)をどつさり掛けることも?
彼等の部屋を出てゆく時に、お休みなさいを云ひながら、
その晨方(あさがた)が寒いだらうと、気の付かなかつたことでせうか、
戸締(とじ)めをしつかりすることさへも、うつかりしてゐたのでせうか?
――母の夢、それは微温の毛氈です、
柔らかい塒(ねぐら)です、其処に子供等小さくなつて、
枝に揺られる小鳥のやうに、
ほのかなねむりを眠ります!
今此の部屋は、羽なく熱なき塒です。
二人の子供は寒さに慄へ、眠りもしないで怖れにわななき、
これではまるで北風が吹き込むための塒です……

    Ⅲ

諸君は既にお分りでせう、此の子等には母親はありません。
養母(そだておや)さへない上に、父は他国にゐるのです!……
そこで婆やがこの子等の、面倒はみてゐるのです。
つまり凍つた此の家に住んでゐるのは彼等だけ……
今やこれらの幼い孤児が、嬉しい記憶を彼等の胸に
徐々に徐々にと繰り展(ひろ)げます、
恰度お祈りする時に、念珠を爪繰るやうにして。
あゝ! お年玉、貰へる朝の、なんと嬉しいことでせう。
明日(あした)は何を貰へることかと、眠れるどころの騒ぎでない。
わくわくしながら玩具(おもちや)を想ひ、
金紙包(きんがみづつ)みのボンボン想ひ、キラキラきらめく宝石類は、
しやなりしやなりと渦巻き踊り、
やがて見えなくなるかとみれば、またもやそれは現れてくる。
さて朝が来て目が覚める、直ぐさま元気で跳(は)ね起きる。
目を擦(こす)つてゐる暇もなく、口には唾(つばき)が湧くのです、
さて走つてゆく、頭はもぢやもぢや、
目玉はキヨロキヨロ、嬉しいのだもの、
小さな跣足(はだし)で床板踏んで、
両親の部屋の戸口に来ると、そをつとそをつと扉に触れる、
さて這入ります、それからそこで、御辞儀……寝巻のまんま、
接唇(ベーゼ)は頻(しき)つて繰返される、もう当然の躁ぎ方です!

    Ⅳ

あゝ! 楽しかつたことであつた、何べん思ひ出されることか……
――変り果てたる此の家(や)の有様(さま)よ!
太い薪は炉格(シユミネ)の中で、かつかかつかと燃えてゐたつけ。
家中明るい灯火は明(あか)り、
それは洩れ出て外(そと)まで明るく、
机や椅子につやつやひかり、
鍵のしてない大きな戸棚、鍵のしてない黒い戸棚を
子供はたびたび眺めたことです、
鍵がないとはほんとに不思議! そこで子供は夢みるのでした、
戸棚の中の神秘の数々、
聞こえるやうです、鍵穴からは、
遠いい幽かな嬉しい囁き……
――両親の部屋は今日ではひつそり!
ドアの下から光も漏れぬ。
両親はゐぬ、家よ、鍵よ、
接唇(ベーゼ)も言葉も呉れないまゝで、去(い)つてしまつた!
なんとつまらぬ今年の正月!
ジツと案じてゐるうち涙は、
青い大きい目に浮かみます、
彼等呟く、『何時母さんは帰つて来ンだい?』

    Ⅴ

今、二人は悲しげに、眠つてをります。
それを見たらば、眠りながらも泣いてると諸君は云はれることでせう、
そんなに彼等の目は腫れてその息遣ひは苦しげです。
ほんに子供といふものは感じやすいものなのです!……
だが揺籃を見舞ふ天使は彼等の涙を拭ひに来ます。
そして彼等の苦しい眠に嬉しい夢を授けます。
その夢は面白いので半ば開いた彼等の唇(くち)は
やがて微笑み、何か呟くやうに見えます。
彼等はぽちやぽちやした腕に体重(おもみ)を凭(もた)せ、
やさしい目覚めの身振りして、頭を擡(もた)げる夢をばみます。
そして、ぼんやりした目してあたりをずつと眺めます。
彼等は薔薇の色をした楽園にゐると思ひます……
パツと明るい竃には薪がかつかと燃えてます、
窓からは、青い空さへ見えてます。
大地は輝き、光は夢中になつてます、
半枯(はんかれ)の野面(のも)は蘇生の嬉しさに、
陽射しに身をばまかせてゐます、
さても彼等のあの家が、今では総体(いつたい)に心地よく、
古い着物ももはやそこらに散らばつてゐず、
北風も扉の隙からもう吹込みはしませんでした。
仙女でも見舞つてくれたことでせう!……
――二人の子供は、夢中になつて、叫んだものです……おや其処に、
母さんの寝床の傍に明るい明るい陽を浴びて、
ほら其処に、毛氈(タピー)の上に、何かキラキラ光つてゐる。
それらみんな大きいメタル、銀や黒のや白いのや、
チラチラ耀く黒玉や、真珠母や、
小さな黒い額縁や、玻璃の王冠、
みれば金字が彫り付けてある、『我等が母に!』と。
                〔千八百六十九年末つ方〕

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。また、節を
示すギリシア数字は、一部、現代表記にしました。編者。

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2012年5月19日 (土)

中原中也が訳したランボー「追加篇」を読む前に

中原中也訳「ランボオ詩集」の「追加篇」は、
原典である第2次ベリション版の構成のままに
「PREMIERS VERS」(初期詩篇)
「LES ILLUMINATIONS」(飾画篇)
「APPENDICE」とある章立ての最後のパートで
16篇の韻文詩が収録されています。

APPENDICEを
中原中也は「追加篇」と訳しました。

中原中也訳の「ランボオ詩集」は
初期詩篇が20篇、
飾画篇が15篇ありますから、
全部で51篇が収録されていますが
これで第2次ベリション版にある
全ての詩が訳されているものではありません。

①翻訳して草稿があるが
「ランボオ詩集」に収録されなかった詩篇が4篇、
②翻訳した形跡が残っていない韻文詩篇が8篇あり
第2次ベリション版の韻文詩篇のうち
合計12篇が「ランボオ詩集」に収録されていないのです。

翻訳草稿が残っているが
「ランボオ詩集」に収録されなかったのは、

「ソネット」
「眩惑」
「ブリュッセル」
「黄金期」

――の4篇。

翻訳しなかったのは、

「税官吏」
「パリの軍歌」
「パリは再び大賑わい」
「記憶」
「運動」
「鍛冶屋」
「ぼくのかわいい恋人たち」
「正義の人」

――の8篇です。

(「新編中原中也全集」「翻訳・解題篇」より)
※中原中也が訳していない詩のタイトルは、宇佐美斉の訳出のようです。編者。

翻訳草稿が残っているが
「ランボオ詩集」に収録されなかった4篇のうちの2篇は
「翻訳詩ファイル」に訳されたものを
すでに目を通しました。

「ソネット」は
「ノート翻訳詩」というノートに、
また、「眩惑」は「翻訳草稿詩篇」として分類されていますから
いずれ読むことになるでしょう。

今回は、
追加篇1番目にある
「孤児等のお年玉」Les Étrennes des orphelinsを掲出しておきます。

 *

 孤児等のお年玉
 
    Ⅰ

薄暗い部屋。
ぼんやり聞こえるのは
二人の子供の悲しいやさしい私話(ささやき)。
互ひに額を寄せ合つて、おまけに夢想(ゆめ)で重苦しげで、
慄へたり揺らいだりする長い白いカーテンの前。
戸外(そと)では、小鳥たちが寄り合つて、寒がつてゐる。
灰色の空の下で彼等の羽はかじかんでゐる。
さて、霧の季節の後(あと)に来た新年は、
ところどころに雪のある彼女の衣裳を引摺りながら、
涙をうかべて微笑をしたり寒さに慄へて歌つたりする。

    Ⅱ

二人の子供は揺れ動くカーテンの前、
低声で話をしてゐます、恰度暗夜に人々がさうするやうに。
遠くの囁でも聴くやう、彼等は耳を澄ましてゐます。
彼等屡々、目覚時計の、けざやかな鈴(りん)の音には
びつくりするのでありました、それはりんりん鳴ります 鳴ります、
硝子の覆ひのその中で、金属的なその響き。
部屋は凍てつく寒さです。寝床の周囲(まはり)に散らばつた
喪服は床(ゆか)まで垂れてます。
酷(きび)しい冬の北風は、戸口や窓に泣いてゐて、
陰気な息吹を此の部屋の中までどんどん吹き込みます。
彼等は感じてゐるのです、何かゞ不足してゐると……
それは母親なのではないか、此のいたいけな子達にとつて、
それは得意な眼眸(まなざし)ににこにこ微笑を湛へてる母親なのではないでせうか?
母親は、夕方独りで様子ぶり、忘れてゐたのでありませうか、
灰を落としてストーブをよく燃えるやうにすることも、
彼等の上に羊毛や毬毛(わたげ)をどつさり掛けることも?
彼等の部屋を出てゆく時に、お休みなさいを云ひながら、
その晨方(あさがた)が寒いだらうと、気の付かなかつたことでせうか、
戸締(とじ)めをしつかりすることさへも、うつかりしてゐたのでせうか?
――母の夢、それは微温の毛氈です、
柔らかい塒(ねぐら)です、其処に子供等小さくなつて、
枝に揺られる小鳥のやうに、
ほのかなねむりを眠ります!
今此の部屋は、羽なく熱なき塒です。
二人の子供は寒さに慄へ、眠りもしないで怖れにわななき、
これではまるで北風が吹き込むための塒です……

    Ⅲ

諸君は既にお分りでせう、此の子等には母親はありません。
養母(そだておや)さへない上に、父は他国にゐるのです!……
そこで婆やがこの子等の、面倒はみてゐるのです。
つまり凍つた此の家に住んでゐるのは彼等だけ……
今やこれらの幼い孤児が、嬉しい記憶を彼等の胸に
徐々に徐々にと繰り展(ひろ)げます、
恰度お祈りする時に、念珠を爪繰るやうにして。
あゝ! お年玉、貰へる朝の、なんと嬉しいことでせう。
明日(あした)は何を貰へることかと、眠れるどころの騒ぎでない。
わくわくしながら玩具(おもちや)を想ひ、
金紙包(きんがみづつ)みのボンボン想ひ、キラキラきらめく宝石類は、
しやなりしやなりと渦巻き踊り、
やがて見えなくなるかとみれば、またもやそれは現れてくる。
さて朝が来て目が覚める、直ぐさま元気で跳(は)ね起きる。
目を擦(こす)つてゐる暇もなく、口には唾(つばき)が湧くのです、
さて走つてゆく、頭はもぢやもぢや、
目玉はキヨロキヨロ、嬉しいのだもの、
小さな跣足(はだし)で床板踏んで、
両親の部屋の戸口に来ると、そをつとそをつと扉に触れる、
さて這入ります、それからそこで、御辞儀……寝巻のまんま、
接唇(ベーゼ)は頻(しき)つて繰返される、もう当然の躁ぎ方です!

    Ⅳ

あゝ! 楽しかつたことであつた、何べん思ひ出されることか……
――変り果てたる此の家(や)の有様(さま)よ!
太い薪は炉格(シユミネ)の中で、かつかかつかと燃えてゐたつけ。
家中明るい灯火は明(あか)り、
それは洩れ出て外(そと)まで明るく、
机や椅子につやつやひかり、
鍵のしてない大きな戸棚、鍵のしてない黒い戸棚を
子供はたびたび眺めたことです、
鍵がないとはほんとに不思議! そこで子供は夢みるのでした、
戸棚の中の神秘の数々、
聞こえるやうです、鍵穴からは、
遠いい幽かな嬉しい囁き……
――両親の部屋は今日ではひつそり!
ドアの下から光も漏れぬ。
両親はゐぬ、家よ、鍵よ、
接唇(ベーゼ)も言葉も呉れないまゝで、去(い)つてしまつた!
なんとつまらぬ今年の正月!
ジツと案じてゐるうち涙は、
青い大きい目に浮かみます、
彼等呟く、『何時母さんは帰つて来ンだい?』

    Ⅴ

今、二人は悲しげに、眠つてをります。
それを見たらば、眠りながらも泣いてると諸君は云はれることでせう、
そんなに彼等の目は腫れてその息遣ひは苦しげです。
ほんに子供といふものは感じやすいものなのです!……
だが揺籃を見舞ふ天使は彼等の涙を拭ひに来ます。
そして彼等の苦しい眠に嬉しい夢を授けます。
その夢は面白いので半ば開いた彼等の唇(くち)は
やがて微笑み、何か呟くやうに見えます。
彼等はぽちやぽちやした腕に体重(おもみ)を凭(もた)せ、
やさしい目覚めの身振りして、頭を擡(もた)げる夢をばみます。
そして、ぼんやりした目してあたりをずつと眺めます。
彼等は薔薇の色をした楽園にゐると思ひます……
パツと明るい竃には薪がかつかと燃えてます、
窓からは、青い空さへ見えてます。
大地は輝き、光は夢中になつてます、
半枯(はんかれ)の野面(のも)は蘇生の嬉しさに、
陽射しに身をばまかせてゐます、
さても彼等のあの家が、今では総体(いつたい)に心地よく、
古い着物ももはやそこらに散らばつてゐず、
北風も扉の隙からもう吹込みはしませんでした。
仙女でも見舞つてくれたことでせう!……
――二人の子供は、夢中になつて、叫んだものです……おや其処に、
母さんの寝床の傍に明るい明るい陽を浴びて、
ほら其処に、毛氈(タピー)の上に、何かキラキラ光つてゐる。
それらみんな大きいメタル、銀や黒のや白いのや、
チラチラ耀く黒玉や、真珠母や、
小さな黒い額縁や、玻璃の王冠、
みれば金字が彫り付けてある、『我等が母に!』と。
                〔千八百六十九年末つ方〕

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れ、新漢字を使用しました。また、節を示すギリシア数字は、一部、現代表記にしました。編者。

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2012年5月18日 (金)

中原中也が訳したランボー「海景」Marineその5

中原中也訳の「海景」Marineは、
「翻訳詩ファイル」に収集された7篇のうちの一つ
「航海」を第1次形態としますが、
これは昭和4年(1929)~8年(1933)の制作(推定)とされています。

昭和12年9月発行の
「ランボオ詩集」に収められたのが「海景」で
「航海」の第2次形態です。

ここで
第1次形態の「航海」を読んでおきます。
両作の間には
若干の変化がみられるだけなのが興味深いですね。

航海
    アルチュール・ランボー

銀と銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)と銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の大きい轍、
円を描いて東へ繰り出す、
森の柱へ、
波止場の胴へ、
角度はゴツゴツ、光の渦に。

(「新編中原中也全集」翻訳篇)

さて、「飾画篇」を読み終えるにあたって
「翻訳詩ファイル」に書かれた詩篇のうち
ランボーの詩6篇を
通しで読んでおきましょう。

(彼の女は帰つた)
        アルチュール・ランボー

彼の女は帰つた。
何? 永遠だ。
これは行つた海だ
太陽と一緒に。

ブリュッセル
        アルチュール・ランボー

          七月。レジャン街。

快きジュピター殿につゞける
葉鶏頭の花畑。
――これは常春藤の中でその青さをサハラに配る
君だと私は知つてゐる。

して薔薇と太陽の棺と葛のやうに
茲に囲はれし眼を持つ、
小さな寡婦の檻!……
             なんて
鳥の群だ、オ イア イオ、イア イオ!……
穏やかな家、古代の情熱!
ざれごとの四阿屋。
薔薇の木の叢(むら)尽きる所、蔭多きバルコン、
ジュリエットよりははるか下に。

ジュリエットは、アンリエットを呼びかへす、
千の青い悪魔が踊つてゐるかの
果樹園の中でのやうに、山の心に、
忘られない鉄路の駅に。

ギタアの上に、驟雨の楽園に
唱う緑のベンチ、愛蘭土の白よ。
それから粗末な食事場や、
子供と牢屋のおしやべりだ。

私が思ふに官邸馬車の窓は
蝸牛の毒をつくるやうだ、また
太陽にかまはず眠るこの黄楊(つげ)を。
         とにまれ
これは大変美しい! 大変! われらとやかくいふべきでない。

     ※

――この広場、どよもしなし売買ひなし、
それこそ黙つた芝居だ喜劇だ、
無限の舞台の連り、
私はおまへを解る、私はおまへを無言で讃へる。

彼女は舞妓か?
        アルチュール・ランボー

彼女は舞妓か?……最初の青い時間(をり)に
火の花のやうに彼女は崩れるだらう……

甚だしく華かな市(まち)が人を喘がす
晴れやかな広袤の前に!

これは美しい! これは美しい! それにこれは必要だ
――漁婦のために海賊の唄のために、

なほまた最後の仮面が剥がれてのち
聖い海の上の夜の祭のためにも!

幸福
        アルチュール・ランボー

 おゝ季節、おゝ砦、
 如何なる魂か欠点なき?

 おゝ季節、おゝ砦、

何物も欠くるなき幸福について、
げに私は魔的な研究をした。

ゴールの牡鶏が唄ふたびに、
おゝ生きたりし彼。

しかし私は最早羨むまい、
牡鶏は私の生を負ふた。

この魅惑! それは身も心も奪つた、
そしてすべての努力を散らした。

私の言葉に何を見出すべきか?
それは逃げさり飛びゆく或物!

 おゝ季節、おゝ砦!
 

黄金期
        アルチュール・ランボー

声の或るもの、
――天子の如き!――
厳密に聴きとれるは
私に属す、

酔と狂気とを
決して誘はない、
かの分岐する
千の問題。

悦ばしくたやすい
この旋回を知れよ、
波と草本、
それ家族の!

それからまた一つの声、
――天子の如き!――
厳密に聴きとれるは
私に属す、

そして忽然として歌ふ、
吐息の妹のやうに、
劇しく豊かな
独乙のそれの。

世界は不徳だと
君はいふか? 君は驚くか?
生きよ! 不運な影は
火に任せよ……

おお美しい城、
その生は朗か!
おまへは何時の代の者だ?
我等の祖父の
天賦の王侯の御代のか。

私も歌ふよ!
八重なる妹(いも)よ、その声は
聊かも公共的でない、
貞潔な耀きで
取り囲めよ私を。

最後に前掲の「航海」があります。

以上のうちの
「(彼の女は帰つた)」
「彼女は舞妓か?」
「幸福」
「航海」
――の4篇は「ランボオ詩集」に収録される時に
なんらかの推敲が行われ完成稿となりますが、
「ブリュッセル」
「黄金期」
――の2篇は、このまま草稿の形で残りました。

 *

 海景

銀の戦車や銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)の船首や銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の巨大な轍(あと)は、
円を描いて東の方へ、
森の柱へ波止場の胴へ、
くりだしてゐる、
波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年5月17日 (木)

中原中也が訳したランボー「海景」Marineその4

Marineのほかの訳を
もう少し読んでおきます。

最近の訳を読んでおこうということになると
鈴木創士、鈴村和成、宇佐美斉の訳が手近かにあるので
この3人の訳を読むことになりますが……。

まず鈴木創士の訳。
「イリュミナシオン」の中に
めずらしく「海洋図」の題で訳されてあります。

海洋図

銀と銅の戦車――
鋼鉄と銀の舳先が――
泡にぶつかり、――
茨の根株を持ち上げる。
荒地の流れと、
引き潮の巨大な轍が、
輪を描くように、東のほうへ、
森の列柱のほうへ、
埠頭の柱身のほうへと流れ去り、
その角は光の渦と衝突する。

(「ランボー全集」河出文庫)

次に
鈴村和成訳は「航海」。

航海

銀と銅の車が――
鋼鉄と銀の舳先が――
泡をたたき、――
イバラの切り株を掘り起こす。
荒れ地の潮流、
そして返す波の広大な轍が
円を描いて流れてゆく、東のほうへ、
森の支柱のほうへ、――
突堤の柱のほうへ、
そしてその角に衝突する
光の渦巻きが。

(「ランボー全集」みすず書房)

終わりに
宇佐美斉の訳「海の光景」。

海の光景

銀と銅の車と――
鋼(はがね)と銀の舳先(へさき)とが――
水泡(みなわ)を打ち、――
茨の株を持ち上げる。
荒れ地の潮流と、
引き潮の巨大な轍とが
輪を描いて流れる、東のほうへ、
森の列柱のほうへ、――
突堤の杭のほうへ、――
その角にぶつかっているのは渦巻く光だ。

(「ランボー全詩集」ちくま文庫)

時代が進み
研究が進み
翻訳も変化していくのは当たり前ですが
中原中也がランボーの翻訳に取り組みはじめた昭和初期に
ランボー研究をはじめた西条八十が
「海景」について述べていますから
ここで
それを読んでおきましょう――

「海景」では、ランボオは、その幻覚を繰りながら、二重映しのフィルムのように展開させる。これも、ロンドンへの船旅の所産なのであろう。初めて眼前に、青潮を蹴立てて進む彼の脳裡には、たまたま故郷アルデンヌの田野を、《茨の根を掘りおこして》進む馬耕の幻が泛んでくる。――

‘Les chars d'argent et de cuivre—
Les proues d'acier et d'argent—
Battent l'écume,—
Soulèvent les souches des ronces—’
《銀と銅との車――
鋼と銀との舳(へさき)――
泡をうち、――
茨の根を掘りおこす。》

あるいは、
‘Les courants de la lande,
Et les ornières immenses du reflux,
Filent circulairement vers l'est,’
《曠野の潮流と、
退き潮の巨大な轍が、
円を描いて東へ伸びる、》

 ここに存分に振り撒かれている海と土、泡沫と茨の根、曠野と潮流、退き潮と車輪の痕、森と突堤など、黒白相反する世界が幻想の中で絡み合い、この対比には、眼前の風景とそれにうちかぶせようとする幻像の構築との闘いが窺われて興趣深い。この手法は、後年のシュールレアリスムの箴(しん)をなすもので、これと同じ傾向を明らかに示すものとして「舞台面」を取り上げねばならない。

(「アルチュール・ランボオ研究」中央公論社)

以上の引用は、
第4部「イリュミナシオン」中の
第2章「実験のメモ」と題する記述の一部ですが
この章は、

詩集「イリュミナシオン」の内容は主として散文詩で、その中にどうやら詩型の残滓をとどめているのは、「海景」(Marine)、「運行」(Mouvement)の2篇に過ぎないというのがブイヤーヌ・ド・ラコストの意見である。

――と書き出される冒頭を持ちますから
大意をつかむことは大してむずかしくはないことでしょう。

「二重映しのフィルムのよう」
「ロンドンへの船旅の所産」
「眼前の風景とそれにうちかぶせようとする幻像の構築との闘い」
「海と土、泡沫と茨の根、曠野と潮流、退き潮と車輪の痕、森と突堤など、黒白相反する世界」
「シュールレアリスムの箴(しん)をなすもの」
――などの語句によって
西条八十の「海景」の読みがおよそ理解できるはずです。

この文が書かれたのは
中原中也が生きていたころではなく
戦後のようですから、
最近のランボー研究に繋がっていく位置にありますが
新しい研究は西条八十以後も
さらに続々と発表されているということは言うに及びません。

 *

 海景

銀の戦車や銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)の船首や銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の巨大な轍(あと)は、
円を描いて東の方へ、
森の柱へ波止場の胴へ、
くりだしてゐる、
波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年5月16日 (水)

中原中也が訳したランボー「海景」Marineその3

「海景」Marineの色々な訳を
読み比べてみましょう。

まず
中原中也の同時代訳の
大木篤夫から。

航海

銀の車、銅の車、
鉄の舳(へさき)、銀の舳(へさき)は
突破する、泡だつ波を、
跳ねあげる、茨(いばら)の株を。

曠野の流れと
引潮の数知れぬ車輪の跡は
渦巻きはしる、東に向って、
森の円柱に向って、
その角(かど)が光の旋風にぶッつかる
突堤の胴に向って。

(「近代佛蘭西詩集」より)
※ 新漢字、現代表記に改めました。編者。

堀口大学も
「海景」と訳しています。

海景

銀(しろがね)と銅(あかがね)の戦車群、
鋼(はがね)と銀(しろがね)の舟艇群、
白波を切り
野茨(のいばら)を根こそぎ持ち上げる。

曠野(こうや)の潮流が
引潮の巨大な轍(わだち)が
輪を描(えが)いて、東方へ向い、
森の林立する柱に向い、
角(かど)が光線の渦(うず)になっている
波止場(はとば)の上に立つ柱に向い疾走する。

堀口大学は、

海景 韻文詩から散文詩への過渡の作品。海の風景と野原の景色を交錯させ、二重露出にして作り上げたところに新味がある。

――と語註を付しています。

金子光晴訳は
「海」です。

 白銀と、銅の車輪、
鋼鉄と、銀の舳(へさき)は、
泡を打ちあげ、
荊棘(いばら)の根株をあらう。

曠野(こうや)の奔流と、
曳潮(ひきしお)のおもたい轍(わだち)が、
東をむいて、
並ぶ森の柱廊のほうへ
かどが、光の渦巻で衝(つ)きあたる
波止場の胴っぱらにむかって
ゆるやかな彎曲線(わんきょくせん)をえがく。

鈴木信太郎と小林秀雄の共訳で
「海景」。

銀と銅の車が――
鋼(はがね)と銀の船首(へさき)が――
泡をたたき、――
茨(いばら)の根株(ねっこ)を掘り起す。
荒野の潮流と、
引潮の広大な轍(わだち)は、
円を描いて流れ去る、東の方へ、
森の列柱の方へ、――
突堤の胴中の方へ、
その角は光の渦巻きと衝突する。

(「ランボオ全集Ⅱ」人文書院)
※ 新漢字、現代表記に改めました。編者。

粟津則雄訳は「海景」。

海景

しろがねとあかがねの車が――
はがねとしろがねの車が――
水泡を打ち、――
茨の切株を押しあげる。
荒野の潮流が、
引潮の巨大な轍が
輪をえがきながら東へ流れる、
森に立ち並ぶ柱の方へ、――
突堤に立ち並ぶ幹の方へ、
その角は渦巻く光と衝突する。

※訳者註として

田園の風景と海景とを重ねあわせることによってイメージの運動に爆発的な動性を与えるこの手法は、ランボーがしばしば用いているものだ。この自由詩形は、ランボーが定型韻文詩から散文詩へ移る中間的な形態をあらわしている。

――と付されています。

「海景」は
「飾画篇」の最後を飾るだけあって
特別な位置を占めているようであることが
少し見えてきました。

「自由韻律詩」(エドゥアール・デュジャルダン)などという言い方があることは
先に、宇佐美斉の脚注で知りましたが
粟津則雄が「自由詩形」と言っているのも同じことらしい。

どうやら
「海景」は
ランボー詩が
韻文から散文へ移行していく流れの
早い時期の実践例と見られていたが
最近の研究ではそこまで考えなくてよい、という読みも出ているらしい。

いずれであっても
中原中也の時代から
研究は進んで
さまざまな読みが試みられているということが分かります。

「地獄の季節」から「イリュミナシオン」へ、なのか
その逆なのか、
やがては
詩作を放棄してしまうランボーの
節目の作品ということが「海景」について言えそうです。

(つづく)

 *

 海景

銀の戦車や銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)の船首や銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の巨大な轍(あと)は、
円を描いて東の方へ、
森の柱へ波止場の胴へ、
くりだしてゐる、
波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年5月15日 (火)

【お知らせ】中原中也・全詩アーカイブ

インナープラネット別館「中原中也・全詩アーカイブ」公開しました。
中原中也の全詩を読むことが出来ます。
http://nakahara.air-nifty.com/blog/

2012年5月14日 (月)

中原中也が訳したランボー「海景」Marineその2

中原中也訳の「海景」Marineは、
なんの変哲もない訳などと通り過ぎては
宝物に気づかずに駆け足で過ぎ去る
慌てた旅のようなもの。

ランボーの原詩の持つであろう
まだ手垢にまみれる前の
原石のかがやきを
そっくり日本語に移し変えている
技ならぬ技に驚かされます。

たとえば、

波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

――という最終行。

はじめ
第1次形態の「翻訳詩ファイル」で

角度はゴツゴツ、光の渦に。

――と訳されていたときから
「光のゴツゴツした感じ」が捉えられていましたが
これを捨てずに
第2次形態でも磨きあげました。

これは
詩心というようなもののみが
捉え得る
言語以前の世界というべきものです。

ここまで書いてきたところで
宇佐美斉の「ランボー全詩集」(ちくま文庫)の脚注にぶつかって
また
卓抜な読みに出会いましたから
それを案内しておきましょう。

「海の光景」と訳出した詩の
短い注にこうあります――

後出の「運動」とともに、自由韻律詩の嚆矢(こうし)と目されてきた。エドゥアール・デュジャルダンは、『自由韻律詩による初期詩人たち』の冒頭に、この詩篇を収めて讃めたたえている。しかし最近の研究では、むしろこうした評価の仕方にはむしろ否定的な見方が強まっている(「運動」の脚注参照)。

作者はここで、海と陸との境界線を除き去ってしまうことによって、美しい幻想的な海辺の光景を、読者の眼の前に浮かびあがらせることに成功している。ベルナールが指摘するように、そこに理智が介入して、分析し、理由づけし、意味づけをする以前の、生まのままの印象が定着されているのだ。

作者はここで、
海と陸との
境界線を除き去ってしまうことによって、
美しい幻想的な海辺の光景を、
読者の眼の前に浮かびあがらせることに成功している。

――と言われている作者とは
ランボーのことですが、
中原中也がこれを読んだら
「俺の読みと一緒だなあ」と
仰天して喜ぶかもしれませんね。

エドゥアール・デュジャルダンとか
ベルナールとか
もちろん
そのような研究者を知るはずもないのですが
中原中也は
自ずとここらあたりの呼吸を
掴んでいたような翻訳をしています。

それは
「幻想的な」という以前の
荒々しい
海ならぬ海で、
どこか「酔ひどれ船」に通じている海でもあります。

中原中也は
そのように感じていたにちがいありません。

 *

 海景

銀の戦車や銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)の船首や銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の巨大な轍(あと)は、
円を描いて東の方へ、
森の柱へ波止場の胴へ、
くりだしてゐる、
波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2012年5月12日 (土)

中原中也が訳したランボー「海景」Marine

中原中也訳「ランボー詩集」「飾画篇」の
末尾にあるのが「海景」Marineです。
全15篇の最終詩です。

色々と御託を言う前に
この詩を読んでみれば
またも
ランボーの詩に
意表を突かれるという経験を味わうことになることでしょう。

まずは、
詩を読んでみます。
タイトルは
Marineで
中原中也は
「海景」と訳していることを
念頭に入れておきます。

銀(色)の戦車や胴(色)の戦車、
鋼鉄の船首や銀製の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

海の景色のはずなのに
なぜ
大きな海が見えずに
浅瀬らしき地形に乗り入れる戦車や船が
泡を打ち砕き
茨を根こそぎにして進んでいくのだろう?

そのような
疑問にとらわれながら
読み進みます。

荒野を戦車、戦艦が行進する、
干潮で干上がった入り江に、巨大な轍の跡がついて、
円弧を描いて東の方へ、
森の柱の部分へ、波止場の胴体部へ、
繰り出している、
波止場の稜線は、陽の光を浴びて、ゴツゴツになっている。

潮が引いた港湾の
荒涼とした風景を
戦車や軍艦が行進する――。

夢なのか現(うつつ)なのか
イリュージョンなのか

普仏戦争の一戦場を
雑誌か何かの印刷物で見た
その記憶の再現なのか――。

言葉の錬金術が
またしても
わずか10行で誘い出す
幻想の世界。

そこには
海でない陸、陸でない海
――ではなく、

海である陸、陸である海
――が存在するばかりで、
そこに陽は燦々と降っています。

この見覚えのあるイメージは
2012年の今日ならば

津波に襲われた街に
乗り上げたまま動かない漁船。
燦々と降り注ぐ陽光。

――に行き着きます。

 *

 海景

銀の戦車や銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)の船首や銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の巨大な轍(あと)は、
円を描いて東の方へ、
森の柱へ波止場の胴へ、
くりだしてゐる、
波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2012年5月11日 (金)

中原中也が訳したランボー「飢餓の祭り」Fêtes de la Faimその4

「新編中原中也全集」の編集委員である
宇佐美斉は
「ランボー全詩集」(ちくま文庫)の訳者でもありますが
同書の「地獄の季節」の中の
引用詩「飢餓」を導く前文についての脚注で
見事な解説をしていますから
ここに紹介しておきましょう。

「ランボー全詩集」には
「後期韻文詩」の中に「飢餓の祭」、
「地獄の季節」の中に「飢餓」と、
二つの詩が異稿として翻訳されています。

その「地獄の季節」の引用詩「飢餓」のリードに
「おお! るりじしゃに懸想して」とはじまるフレーズ2行への
簡単な注釈ですが、
わかりやすくするために
あわせて「飢餓」本体の訳も載せておきます。

まず、リード部です。
小林秀雄訳では、

ああ、
羽虫は、
瑠璃萵苣(るりちさ)に焦れ、
旅籠屋の小便壺に酔い痴れて、
一筋の光に姿を消すか。

――となっている引用詩の直前の文です。

おお! るりじしゃに懸想して、旅籠(やど)の共同便所に酔い痴れている羽虫、そいつも一条の光に溶けてしまうのだ!

つぎに脚注です。
この解説が秀逸!

「おお! るりじしゃに懸想して」 この二行の真意は、おそらく次のような自虐のいりまじった軽やかな諧謔にある。すなわち「るりじしゃ」は利尿剤として用いられる薬草でもある。その花の蜜をすい香をかいだ羽虫は、にわかに尿意をもよおして宿の便所に駆けつけ、アンモニアの臭いにむせながらそこで‘よたっている’。そしてやがてこの頓馬な羽虫のナンセンスな一幕喜劇に幕を降ろすのは、洩れいる西日の一条の光である。――ここには確かに、ひとつのはかない夢の破産がこっそりと打ち明けられているのである。

このリードと
引用詩「飢餓」との関係については
述べられていませんが
リードがこのように読めるのなら
「飢餓」の鑑賞が
いっそう醍醐味を増すことは
確実というものでしょう。

 *

 飢餓の祭り

  俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。

俺に食慾(くひけ)があるとしてもだ
土や礫(いし)に対してくらゐだ。
Dinn! dinn! dinn! dinn! 空気を食はう、
岩を、炭を、鉄を食はう。

飢餓よ、あつちけ。草をやれ、
  音(おん)の牧場に!
昼顔の、愉快な毒でも
  吸ふがいい。

乞食が砕いた礫(いし)でも啖(くら)へ、
 教会堂の古びた石でも、
 洪水の子の磧の石でも、
 寒い谷間の麺麭でも啖へ!

 飢餓とはかい、黒い空気のどんづまり、
   空鳴り渡る鐘の音。
 ――俺の袖引く胃の腑こそ、
   それこそ不幸といふものさ。

 土から葉つぱが現れた。
 熟れた果肉にありつかう。
 畑に俺が摘むものは
 野蒿苣(のぢしや)に菫だ。

   俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2012年5月 9日 (水)

中原中也が訳したランボー「飢餓の祭り」Fêtes de la Faimその3

俺は、
沙漠を、
萎(しお)れ枯れた果樹園を、
色褪(あ)せた商店を、
生ぬるい飲料を愛した。

疲れた足を引摺り、
臭い路次を過ぎ、
瞑目して
この身を火の神太陽に献げた。

「将軍よ、
君は崩れた堡塁に、
古ぼけた大砲が残っているならば、
乾いた土の塊をこめて、
俺たちを砲撃してはくれまいか。
すばらしい商店の飾窓を狙うんだ、
サロンにぶち込むんだ。
街にどろっ埃を食わせてやれ。
蛇口などは皆んな錆びつかせてやれ。
閨房には
どいつも焼けつくような
紅玉の煙硝をつめ込んじまえ……」

ああ、
羽虫は、
瑠璃萵苣(るりちさ)に焦れ、
旅籠屋の小便壺に酔い痴れて、
一筋の光に姿を消すか。
(小林秀雄訳)

――と、ランボーが
「地獄の季節」「錯乱Ⅱ」の
「言葉の錬金術」に記したのを
こうして「改行」を入れて読んでみると
散文詩が韻文詩に変化することに気づきます。
(※という、単純なものでないことを断っておきますが。)

ここは「飢餓」と題する詩を引用するためのリードなのですが
引用詩「飢餓」は
「飢餓の祭り」のバリアント(異文)であることは言うまでもなく
この流れから「飢餓の祭り」を読めば
もう少し深い読みが出来るようになってくることにも気づきます。

「瑠璃萵苣(るりちさ)」とリード部に現れているのは

 土から葉つぱが現れた。
 熟れた果肉にありつかう。
 畑に俺が摘むものは
 野蒿苣(のぢしや)に菫だ。

――と、「飢餓の祭り」にある「野蒿苣(のぢしや)」と同じ植物ですから

ああ、
羽虫は、
瑠璃萵苣(るりちさ)に焦れ、
旅籠屋の小便壺に酔い痴れて、
一筋の光に姿を消すか。

――を、じっくり読めば、
「飢餓の祭り」へと繋がる糸口を見つけることができそうです。

羽虫(ハエとかアブとか)が
毒草だか、ハーブ(香草)だか、
ルリチシャの葉っぱを渇望していたところが
田舎旅館の小便所の臭いでフラフラになり
折しも、落日が輝く中に溶けていく……。

この情景は

俺は、
沙漠を、
萎(しお)れ枯れた果樹園を、
色褪(あ)せた商店を、
生ぬるい飲料を愛した。

疲れた足を引摺り、
臭い路次を過ぎ、
瞑目して
この身を火の神太陽に献げた。

――と、同じことの繰り返しに過ぎませんし、
「将軍よ、」とはじまるモノローグ(?)の繰り返しでもあります。

「飢餓の祭り」が
フラフラ状態の羽虫の行く末であることが
見えて来はしないでしょうか?

ランボーは
「言葉の錬金術」の手の内を
見せてくれています。
大放出です!

中原中也の翻訳が
このあたりのツボを押さえていて
してやったり! の声調に満ちているのは
富永太郎や小林秀雄や大岡昇平(ら)との
ランボー論議を通じているからであると思えてなりませんが、
これも実証の範囲にありません。

 *

 飢餓の祭り

  俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。

俺に食慾(くひけ)があるとしてもだ
土や礫(いし)に対してくらゐだ。
Dinn! dinn! dinn! dinn! 空気を食はう、
岩を、炭を、鉄を食はう。

飢餓よ、あつちけ。草をやれ、
  音(おん)の牧場に!
昼顔の、愉快な毒でも
  吸ふがいい。

乞食が砕いた礫(いし)でも啖(くら)へ、
 教会堂の古びた石でも、
 洪水の子の磧の石でも、
 寒い谷間の麺麭でも啖へ!

 飢餓とはかい、黒い空気のどんづまり、
   空鳴り渡る鐘の音。
 ――俺の袖引く胃の腑こそ、
   それこそ不幸といふものさ。

 土から葉つぱが現れた。
 熟れた果肉にありつかう。
 畑に俺が摘むものは
 野蒿苣(のぢしや)に菫だ。

   俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2012年5月 7日 (月)

中原中也が訳したランボー「飢餓の祭り」Fêtes de la Faimその2

「飢餓の祭り」Fêtes de la Faimとは
いったい、どんな歌=シャンソンなのでしょう?

「アンヌ、アンヌ、」とか
「Dinn! dinn! dinn! dinn!」とか

まっさきに
このフランス語の響きに
違和感をくすぐられるのですが……

俺がいま、その中にある飢餓に、
アンヌという女性の名をつけて呼び、
アンヌよ、飢餓よ、
アン=驢馬に乗って
とっとと消えろ、と
敵対するというより
やさしく語りかける内面劇が見えてきます。

そう読んでよいものか――。

飢餓の中にあるのは俺ですが
俺は飢餓に
恋人かとおぼしいアンヌの名で呼びかけます

俺の飢餓よ
アンヌ、アンヌ、
アンに乗って消えちまえ。

俺にゃあ並みの食欲なんてないのさ
あったとしても土や石っころに対してぐらいなもんさ。
ヂンヂンヂンヂン! 空気を食おうってんだ、
岩を、炭を、鉄をね。

飢餓よ、あっちへ行け。
そして、草をやれ、
音の牧場に!
昼顔の、ゆかいな毒でも
吸ってりゃいいんだ。

乞食が砕いた石っころでも喰らってろ、
教会の古びた石、
洪水の子・河原の石、
寒い谷間のパン
そんなものを食ってろ。

飢餓とは、黒い空気のどんづまりさ、
空を鳴り渡る鐘の音さ。
――俺の袖を引っ張る胃袋こそが、
不幸ってものなのさ。

土から葉っぱが出て来た。
熟した果実にありつける。
畑に俺が摘むものは
野生のチシャとかスミレだよ。

俺の飢餓よ
アンヌ、アンヌ、
アンに乗って消えちまえ。

お前は
俺がそんなことで
参るとでも思ってるのか?
飢餓よ。

「地獄の季節」中「錯乱Ⅱ」の
「言葉の錬金術」にこの詩を引用したとき
ランボーは、

俺は、沙漠を、萎(しお)れ枯れた果樹園を、色褪(あ)せた商店を、生ぬるい飲料を愛した。疲れた足を引摺り、臭い路次を過ぎ、瞑目してこの身を火の神太陽に献げた。

「将軍よ、君は崩れた堡塁に、古ぼけた大砲が残っているならば、乾いた土の塊をこめて、俺たちを砲撃してはくれまいか。すばらしい商店の飾窓を狙うんだ、サロンにぶち込むんだ。街にどろっ埃を食わせてやれ。蛇口などは皆んな錆びつかせてやれ。閨房にはどいつも焼けつくような紅玉の煙硝をつめ込んじまえ……」

ああ、羽虫は、瑠璃萵苣(るりちさ)に焦れ、旅籠屋の小便壺に酔い痴れて、一筋の光に姿を消すか。
(小林秀雄訳)

――と、前置きしています。

 *

 飢餓の祭り

  俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。

俺に食慾(くひけ)があるとしてもだ
土や礫(いし)に対してくらゐだ。
Dinn! dinn! dinn! dinn! 空気を食はう、
岩を、炭を、鉄を食はう。

飢餓よ、あつちけ。草をやれ、
  音(おん)の牧場に!
昼顔の、愉快な毒でも
  吸ふがいい。

乞食が砕いた礫(いし)でも啖(くら)へ、
 教会堂の古びた石でも、
 洪水の子の磧の石でも、
 寒い谷間の麺麭でも啖へ!

 飢餓とはかい、黒い空気のどんづまり、
   空鳴り渡る鐘の音。
 ――俺の袖引く胃の腑こそ、
   それこそ不幸といふものさ。

 土から葉つぱが現れた。
 熟れた果肉にありつかう。
 畑に俺が摘むものは
 野蒿苣(のぢしや)に菫だ。

   俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年5月 6日 (日)

中原中也が訳したランボー「飢餓の祭り」Fêtes de la Faim

中原中也が訳した「飢餓の祭り」Fêtes de la Faimも
原典はタイトルを持つ単独の詩ですが、
「地獄の季節」の「錯乱Ⅱ」「ことばの錬金術」に
「飢餓」のタイトルで
バリアント(異文)が引用されてもいる詩です。

内容や構成などが
「渇の喜劇」に類似することが
しばしば指摘される詩ですが、
「渇の喜劇」がダイアローグなのに対し
こちらはモノローグです。

モノローグでありながら
「劇」の登場人物のセリフのような
「喋り(しゃべり)」の感覚があります。

この翻訳が
富永太郎や小林秀雄との
交流の影を帯びていることも確実で
中原中也が京都から東京に出てきたころの状況を
想像しながら読む楽しさがあります。

富永太郎が
大正13年12月頃に
この詩を訳したことがわかっていますが、
大正14年に死去して後の
昭和2年出された遺稿集(私家版)には
「飢餓の饗宴」として収録され
中原中也が
これを読んだ可能性は高く、

小林秀雄訳の「地獄の季節」も
昭和5年に白水社から発行され
中に「飢」のタイトルで訳されますから
これを中原中也が読んだ可能性も高く、

しかし、
いつ読んだかは特定できません。

同時代訳を
読んでおきます。

富永太郎訳
飢餓の饗宴

  俺の饑(うえ)よ、アヌ、アヌ、
   驢馬に乗って 逃げろ。

俺に食気(くいけ)が あるとしたら、
食いたいものは、土と石。
ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、空気を食おう、
岩を、火を、鉄を。

俺の饑(うえ)よ、廻れ、去れ。
   音(おん)の平原!

旋花(ひるがお)のはしゃいだ
   毒を吸え。

貧者の砕いた 礫を啖え、
  教会堂の 古びた石を、
  洪水の子なる 磧(かわら)の石を、
  くすんだ谷に 臥ている麺麭(ぱん)を。

俺の饑は、黒い空気のどんづまり、
  鳴り響く蒼空!
――俺を牽くのは 胃の腑ばかり、
  それが不幸だ。

地の上に 葉が現われた。
饐えた果実の 肉へ行こう。
畝(うね)の胸で 俺が摘むのは、
野蒿苣(のぢしゃ)に菫。

  俺の餓(うえ)よ、アヌ、アヌ、
  驢馬に乗って 逃げろ。

(思潮社「富永太郎詩集」より)
※現代表記に改めました。編者。

小林秀雄訳

俺に食いけがあるならば
先ず石くれか土くれか。
毎朝、俺が食うものは
空気に岩に炭に鉄。

俺の餓鬼奴ら、横を向け、
糠の牧場で腹肥やせ。
昼顔の陽気な毒を吸え。

出水の後の河原石、
踏み砕かれた砂利を食え、
教会堂の朽ち石を、
みじめな窪地に播かれたパンを。

(岩波文庫「地獄の季節」より)

中原中也生存中に公刊された
「近代佛蘭西詩集」(昭和3年)に収録されているので
読んだ可能性を否定できない
大木篤夫の訳です。

飢餓の饗宴

俺の空(すき)っ腹(ぱら)、アンヌよ、アンヌ、
驢馬(アンヌ)に乗って、さっさと失せろよ。

味に好みがあったところで
せいぜい土か、石っころだよ。
ディン! ディン! ディン! ディン!食ってやれ、空気を、
ええ、岩でも、炭でも、鉄でもよ。

俺の空(すき)っ腹(ぱら)、くるッと廻れよ、
食べろよ、糠(ぬか)の原っぱを!
ぐっと搾れよ、昼顔の
陶酔気分の毒液を。

さあ、さあ食べろよ、貧乏人が砕いた礫(つぶて)を、
教会堂の古石を、
洪水(でみず)の忰の 河原(かわら)の小石を、
灰色の渓間にころがるパン片(ぎれ)を!

俺の空(すき)っ腹(ぱら)、それはそれ黒い空気の切れ端(ぱし)だよ、
喇叭(ラッパ)を吹き鳴らす青空だよ、
――俺を引きずる胃袋だよ、
   不幸だよ。

地上に、木の葉が現れた!
俺は行こうよ、熟れきっている果(み)を捩(も)ぎに。
畑の胸に、俺は摘もうよ
野萵苣(のぢしゃ)を、すみれを。

俺の空(すき)っ腹(ぱら)、アンヌよ、アンヌ、
驢馬(アンヌ)に乗って、さっさと失せろよ。

(ARS「近代佛蘭西詩集」より)
※新漢字、現代表記に改めました。編者。

 *

 飢餓の祭り

  俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。

俺に食慾(くひけ)があるとしてもだ
土や礫(いし)に対してくらゐだ。
Dinn! dinn! dinn! dinn! 空気を食はう、
岩を、炭を、鉄を食はう。

飢餓よ、あつちけ。草をやれ、
  音(おん)の牧場に!
昼顔の、愉快な毒でも
  吸ふがいい。

乞食が砕いた礫(いし)でも啖(くら)へ、
 教会堂の古びた石でも、
 洪水の子の磧の石でも、
 寒い谷間の麺麭でも啖へ!

 飢餓とはかい、黒い空気のどんづまり、
   空鳴り渡る鐘の音。
 ――俺の袖引く胃の腑こそ、
   それこそ不幸といふものさ。

 土から葉つぱが現れた。
 熟れた果肉にありつかう。
 畑に俺が摘むものは
 野蒿苣(のぢしや)に菫だ。

   俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、
   驢馬に乗つて失せろ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年5月 5日 (土)

中原中也が訳したランボー「幸福」Bonheurその8

「幸福」Bonheurには

Ô saisons, ô châteaux
(オー セゾン、オー シャトー)

――が、3度のルフランで現れるのですが
これを

季節(とき)が流れる、城砦(おしろ)が見える。
※中原中也訳は「城寨(おしろ)」です。

――と、「流れる」「見える」を捕捉して訳したのは
小林秀雄と中原中也のほかにありませんでした。

翻訳というものは、
可能なかぎり原典を忠実に再現させるのが原則で、
削除したり補完したりすれば
改竄(かいざん)になりかねませんから
極力、回避するべきという考えが普通ですから
小林秀雄、中原中也のような冒険には
誰も踏み切らなかったということなのでしょう。

小林秀雄は
昭和13年に岩波文庫版「地獄の季節」の第1刷で
「流れる」「見える」を削除し、

ああ、季節よ、城よ、

――と、このルフラン行を
原詩に近づける改訳を行いましたが、
そこには、
「翻訳の冒険」への
自戒の意味が込められていたのかも知れません。

「新編中原中也全集」の編集委員である宇佐美斉は、
最近になって、
小林秀雄のこの改訳に触れた
詳細な論考を発表し、

小林は自身の旧訳の影響をつよく受けた中原がおそらくは若干の逡巡のすえにほぼそのまま踏襲してしまったのであろう二行の詩句を、死者へのはなむけとしてひそかに譲る気になったのではないだろうか。フランス詩の翻訳に関しては五歳年長の小林がつねに先輩格であったことも、そこには微妙に関与していただろう。
(「中原中也とランボー」所収「唄は流れる――いわゆる「幸福」訳をめぐって」)

――と、実に興味深い見解を述べています。

「死者へのはなむけとして」
「ひそかに譲る気になった」という推測に
やや引っかかるものがありますが
論考全体に説得力があり、
中原中也と小林秀雄という文学者の
「和解」という角度から見ても
「楽しい見方」です。

中原中也は
「翻訳詩ファイル」を残しており
中で「幸福」のルフランを

おゝ季節、おゝ砦、

――と訳出していますから
宇佐美斉は、
「流れる」「見える」を捕捉したのは
小林秀雄の翻訳であることの根拠の一つにしています。

「翻訳詩ファイル」の制作は
昭和4年から8年の間と推定されていて
一方、小林秀雄が「地獄の季節」を発表したのは
昭和5年でしたから
小林秀雄の「捕捉ありルフラン」が先に翻訳され
中原中也は、
それを「踏襲」したと考えるのが自然であろうというのです。

そもそも
「季節(とき)が流れる、城砦(おしろ)が見える。」としたのは
小林秀雄と中原中也とどちらが先か、
と問わなければ、
コラボレーション(共作)という考えが成り立ちはしまいか――。

学問・研究に
そんなゆるい考えは許されないのでしょうが
「ファンの立場」からは
学問・研究に伍す見解を述べるのは無謀というものですから、
ここではこれ以上のことは言わないことにしておきます。

 *

 幸福

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
  無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、

私の手がけた幸福の
秘法を誰が脱(のが)れ得よう。

ゴオルの鶏(とり)が鳴くたびに、
「幸福」こそは万歳だ。

もはや何にも希ふまい、
私はそいつで一杯だ。

身も魂も恍惚(とろ)けては、
努力もへちまもあるものか。

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える。

私が何を言つてるのかつて?
言葉なんぞはふつ飛んぢまへだ!

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年5月 4日 (金)

中原中也が訳したランボー「幸福」Bonheurその7

中原中也訳の「幸福」Bonheurが
強い浸透力で
十五年戦争下の、
および、戦後の、
そして、現代の若者に
諳(そら)んじられ、
口から口へと歌い継がれていくのは、
まず、第一に

季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、

――のルフランの心地よさからであることは
間違いありません。

魅力のワケを
色々に分析することができるのですが
まずは

Ô saisons, ô châteaux (オー セゾン、オー シャトー)
というフランス語を、

季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、

――と、「流れる」と「見える」を補って、
●●●-●●●●、●●●●-●●●
3-4、4-3とリズミカルに仕立てた、というところに求めても
まったく間違いではないでしょう。

リズムを刻むために
「季節」を「とき」と2音に読ませ、
「城寨」を「おしろ」と3音で読ませました。

結果、ルビ(振り仮名)のわずらわしさが消え、
文字面(もじづら)がやわらかくなり
意味が明瞭になりました。

この1行で
このようなことが言えます。

この1行は3度現れるルフランですが
第2行の

無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?

――も、
●●●●-●●●●-●●●-●●●
4-4-3-3と、
リズムをくづさず、

第1行と対(ペア)になった第1連には
深遠な意味が加わりました。

季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?

――と読んで心地よいのは、
語呂がよいだけでなく
意味も通りやすい訳になっているということです。

ここには
原作者ランボーがこの詩に込めた
シャンソン(chanson)への思い入れもが
翻訳されている、ということが言えそうです。

音数律にこだわった詩人が
「幸福」を流れるシャンソン=唄の響きを
捕らえたのです!
まさしく
ミートしました。

第1連には
このようなことが言えます。

語呂のよさは、
全篇にわたっています。

第2連は、
4-4-5。(8-5)
4-3-3-3。(7-6)

第3連は、
4-3-5。(7-5)
4-3-5。(7-5)

第4連は、
3-4-5。
4-4-5。

第5連は、
2-5-5。(7-5)
4-4-5。(8-5)

第6連は、
4-3-7。(7-7)
3-4-7。(7-7)

この間に、
ルフラン3-4-4-3(7-7)が
3回挿まれます。

詩の構成は
原作ランボーのものですが
「流れる」と「見える」で補われたリズミカルなフレーズが
3回繰り返されると
強烈なインパクトで
読む人の感覚を揺らします。

脱(のが)れ
ゴオルの鶏(とり)
恍惚(とろ)けて

――というルビも
読み手の頭脳に
多重な意味を刻ませますし、

第3連の
「幸福」の「 」は
ランボーとベルレーヌの「愛」がかぶさっていて
卓抜です。

中原中也は
ランボーとベルレーヌのただならぬ関係さえも
意識的にか
直感的にか
翻訳したことを想像させて
驚かせるほどです。

言葉の意味の領域から
リズムの領域
……
それから
道化っぽい声調まで
「幸福」には
中原中也の「詩の技」がぎっしり詰まっています。

 *

 幸福

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
  無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、

私の手がけた幸福の
秘法を誰が脱(のが)れ得よう。

ゴオルの鶏(とり)が鳴くたびに、
「幸福」こそは万歳だ。

もはや何にも希ふまい、
私はそいつで一杯だ。

身も魂も恍惚(とろ)けては、
努力もへちまもあるものか。

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える。

私が何を言つてるのかつて?
言葉なんぞはふつ飛んぢまへだ!

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年5月 3日 (木)

中原中也が訳したランボー「幸福」Bonheurその6

「幸福」Bonheurの翻訳で
最近のものをもう少し読んでおきます。

鈴木創士訳

 〔おお、季節よ、おお、城よ…〕

おお、季節よ、おお、城よ
無疵な魂がどこにある?

俺は魔術的な研究を行った
誰ひとり避けられない「幸福」について。

おお、幸福、万歳、
ガリアの雄鶏が鳴くたびに。

しかし! 俺はもう欲しがったりはしないだろう、
幸福が俺の人生を引き受けた。

この「魔力」! そいつが身も心も奪い、
あらゆる努力を蹴散らした。

俺の言葉を聞いて何を理解する?
幸福のせいで、言葉は逃げて、飛んでいく!

おお、季節よ、おお、城よ!

〔そして、もし不幸が俺を引きずるなら、
俺がその不興を買うのは間違いない。

その軽蔑は、ああ!
できるだけ早く俺を死にゆだねるべきなのだ!

――おお、季節よ、おお、城よ!〕

宇佐美斉訳

 〔おお 季節よ 城よ……〕

おお 季節よ 城よ
無疵な魂などどこにいよう

おお 季節よ 城よ

‘幸福’についてぼくは魔法の探究を行った
そいつは誰にも逃れられない

おお 幸福に万歳を言おう
あいつのガリアの雄鶏が歌うたびに

それにしても もはや欲しがりはすまい
あいつがぼくの生を引き受けたのだ

この‘魅惑’ こいつに身も魂も捉えられては
努力もみんなふっ飛んだ

ぼくのことばにどんな意味があるというのか
幸福のせいでことばはどっかへ飛んで逃げた

おお 季節よ 城よ

〔さて ぼくが不幸に引きずられるのなら
あいつの不興を買うのは必定(ひつじょう)だ

あいつの侮蔑を浴びるのなら ああ
すみやかにいまわの際(きわ)に導くがいい

おお 季節よ 城よ
――無疵な魂などどこにいよう〕 

※‘幸福’‘魅惑’は、原作では傍点になっています。編者。

鈴村和成訳

 〔季節よ、城よ、……〕

季節よ、城よ、
無傷なこころがどこにある?

季節よ、城よ!

逃れられない、《幸福》の
魔法を僕は研鑽した。

ゴールの鶏が鳴くたびに、
幸福には万歳だ。

そうさ! もう僕はなんにも欲しくない、
そいつが僕の人生を引き受けた。

この《魅惑》! 身もたましいも奪い去り、
努力なんかちりぢりさ。

僕の言葉のなにが分かる?
言葉なんか逃げて飛んでけ!

季節よ、城よ!

以下は、中原中也訳です。

 *

 幸福

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
  無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、

私の手がけた幸福の
秘法を誰が脱(のが)れ得よう。

ゴオルの鶏(とり)が鳴くたびに、
「幸福」こそは万歳だ。

もはや何にも希ふまい、
私はそいつで一杯だ。

身も魂も恍惚(とろ)けては、
努力もへちまもあるものか。

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える。

私が何を言つてるのかつて?
言葉なんぞはふつ飛んぢまへだ!

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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2012年5月 2日 (水)

中原中也が訳したランボー「幸福」Bonheurその5

中原中也訳の「幸福」Bonheurについては
大岡昇平が、

十五年戦争が進み、一般に外国語を知る者が減ったので、当時の若者
はみな小林、中原訳でランボーを読み、「季節(とき)が流れる、お城が見
える」と歌ったのであった。
(「中原中也全集」解説・翻訳)

――と書いています。

これは、
大岡周辺だけの状況のように受け取られそうですが
「ランボオ詩集」の評判についてのコメントに続けて書かれたもので
世間一般の青年を見渡しての観察です。

「ランボオ詩集」は
春山行夫の否定的書評があったものの
おおかた好評をもって迎えられ
中でも「幸福」は
大岡のコメント通りの
小さな流行現象のようなインパクトで広がりました。

「小林、中原訳」という言い方が微妙ですが
富永太郎にはじまる「ランボーという事件」の中心に
二人がいたことは
動かしようにない事実でした。

戦争の足音が次第に高まっていく時代に
中原中也は他界してしまうのですが
「ランボオ詩集」は
自作詩集「山羊の歌」や「在りし日の歌」とともに
十五年戦争下の若者に読み継がれたのです。

そして、
戦後になって本格的なランボーの全集3巻本が
鈴木信太郎の監修で人文書院から発行され、
中原中也の翻訳も11篇が採用されたことによって
ランボー訳者としての中原中也は
自他共に認める評価を得ることになり
現在へと繋がります。

ランボー翻訳(研究)のその後については
いずれ触れることにして
戦後に発表された「幸福」の翻訳を
手当たり次第、
読んでおきましょう。

制作の順序も
なにもかも
アトランダムです。

寺田透訳

「地獄の季節」中の引用詩の訳ですから
題名はありません。

  おお季節よ、おお城よ。
  どの魂にも瑕はある。

幻妙の研究をして見たが
幸福、これは遁れえぬ。

ゴールの鶏の鳴くたびに
その幸福に敬礼だ。

ああもう羨望とは縁切りだ。
幸福がわたしの生はひきうけた。

身心そいつに魅惑され、
努力はみんなけしとんだ。

  おお季節よ、おお城よ。

そいつが逃げるときこそは、
哀れ、落命のときだろう。

  おお季節よ、おお城よ。

清岡卓行訳

「地獄の季節」中の引用詩の訳ですから
題名はありません。

おお季節よ、おお城よ!
どんな魂が、無疵なのだ?

だれも、避けては通らない幸福について
ぼくは、魔法のような研究をした。

敬礼だ、あいつに。
ゴールの雄鶏が鳴くたびごとに。

ああ! ぼくはもう羨望などしないだろう。
あいつが、ぼくの生活を引き受けたのだ。

この魅惑に、身も魂も捉えられ、
つらい努力は散り散りになった。

  おお季節よ、おお城よ!

それが逃げ去るときは、やんぬるかな!
どこかへ身まかるときだろう。

おお季節よ、おお城よ!

粟津則雄訳

「地獄の季節」中の引用詩の訳ですから
題名はありません。

 おお季節よ、おお城よ!
無疵(むきず)な心があるものか?

幸福の魔法をおれは究めてきた、
誰にもこれは逃げられぬ。

さあ幸福に挨拶だ、ゴールの国の
鶏が、歌い鳴くそのたびに。

ああ! もう何も欲しくない。
幸福に養われてきたこのいのち。

この呪縛、身も魂も奪われて
努める気持もすっ飛んだ。

  おお季節よ、おお城よ!

幸福が逃げてゆくときは、ああ!
おさらばのときとなるだろう。

 おお季節よ、おお城よ!

平井啓之訳

(※引用元の「テキストと実存」中の論考「ランボー『後期詩篇』の問題点」では題がつけられていません。編者)

おお季節よ、おお楼閣よ、
無傷な魂など世にあるものか?

おお季節よ、おお楼閣よ、

ぼくが究めた‘幸福’の
奥儀を、誰も避けられない。

おお 幸福万歳、彼のゴールの雄鶏が
鳴く音をあげるその度に。

まったくだ! ぼくはもう何も欲しくない、
幸福がぼくの生命を引き受けた。

この‘魅惑’! 身も魂もうばわれて、
努力もなにも散りうせた。

ぼくの言葉の意味だって?
言葉が飛んで逃げたのも彼のせいさ!

おお 季節よ、おお楼閣よ!

〔不幸がぼくを引込むときは、
 彼の不興がたしかなときさ。

 彼の侮りを身に受けては、ああきっと!
 即座にくたばることだろう!〕

以下は、中原中也訳です。

 *

 幸福

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
  無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、

私の手がけた幸福の
秘法を誰が脱(のが)れ得よう。

ゴオルの鶏(とり)が鳴くたびに、
「幸福」こそは万歳だ。

もはや何にも希ふまい、
私はそいつで一杯だ。

身も魂も恍惚(とろ)けては、
努力もへちまもあるものか。

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える。

私が何を言つてるのかつて?
言葉なんぞはふつ飛んぢまへだ!

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
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2012年5月 1日 (火)

中原中也が訳したランボー「幸福」Bonheurその4

中原中也訳の「幸福」Bonheurは、

季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?

――の、冒頭2行が
「永遠」の、

また見付かつた。
何がだ? 永遠。

――という冒頭2行と同列のインパクトで
初めてランボーを知った人の脳裡に
鮮やかに記憶され、
おっ、これが、ランボーって具合に
引きずり込まれていくきっかけになる詩であるようですが、
「幸福」の原詩は、

Ô saisons, ô châteaux,
Quelle âme est sans défauts ?

――で、フランス語を知らない人が読んでも
冒頭行と最終行のルフランが

季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、

――とは、読めないで

おお、季節よ、おお、城よ

――としか、読めないところを

流れる
見える、という動詞を補って訳されたのに触れて
誰でもが納得して
口ずさむようになったし
口から口へと伝わっていったワケが
手に取るように理解できます。

翻訳の勝利! というようなことが
ここで起こったワケです。

このように訳したのは
小林秀雄、中原中也だけでした。

他の訳を
見ておきましょう。

金子光晴訳
幸福

     このよい季節よ。うつくしい館(やかた)よ。
     誰だって、まちがいをしでかさないとはかぎらない。

     おお、よい季節よ。うつくしい館よ。

 誰にだってはずれっこのない
幸福の不可思議な術を僕は学んだ。

ゴールの雄鶏が‘とき’をつくると、
うまいぞ。そのたびに幸福をうむ。

ところで僕はもう幸福に用がない。
僕の一生はそのことで終わったのだ。

その魅惑(みわく)は、心も身も捉(とら)えて、
すべての労苦を追いちらした。

いくら喋ったって、なにをわからせることができよう?
言葉なんて、逃げて、ふっ飛ぶだけのことだ。

     おお、よい季節よ。うつくしい館よ。

(※‘とき’は、原作では傍点です。編者。)

堀口大学訳
幸福

     おお、歳月よ、あこがれよ、
     誰(たれ)か心に瑕(きず)のなき?

     おお、歳月よ、あこがれよ、

われ究(きわ)めたり魔術もて
万人ののがれも得ざる幸福を。

げにやゴールの鶏(にわとり)の久遠(くおん)の希望歌うたび
おお、幸福はよみがえる。

けだしやおのれ幸福を求めずなりつ
そを得てしその時よりぞ。

この妙悟(みょうご)、霊肉の二つを領し
一切の労苦は失(う)せつ。

わが言(こと)あげになん事か人解すべき?
まことそは、束(つか)の間(ま)に消えてあらぬに!

     おお、歳月よ、あこがれよ!

西条八十訳
季節よ、城よ

おお、季節よ、おお、城よ。
無疵な魂なぞ何処にあろう?

おれがつくった幸福の
魔法を誰が脱れ得よう。

だが、もうなんにも欲しかない、
おれは幸福でいっぱいだ。

この呪縛! 身も魂もがんじがらめ、
すべての努力を霧と消した。

このおれの言葉で何がわかろうぞ?
言葉なんぞふっ飛べだ!

おお、季節よ、おお、城よ。

 *

 幸福

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
  無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう?

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、

私の手がけた幸福の
秘法を誰が脱(のが)れ得よう。

ゴオルの鶏(とり)が鳴くたびに、
「幸福」こそは万歳だ。

もはや何にも希ふまい、
私はそいつで一杯だ。

身も魂も恍惚(とろ)けては、
努力もへちまもあるものか。

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える。

私が何を言つてるのかつて?
言葉なんぞはふつ飛んぢまへだ!

  季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える!

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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