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2012年5月14日 (月)

中原中也が訳したランボー「海景」Marineその2

中原中也訳の「海景」Marineは、
なんの変哲もない訳などと通り過ぎては
宝物に気づかずに駆け足で過ぎ去る
慌てた旅のようなもの。

ランボーの原詩の持つであろう
まだ手垢にまみれる前の
原石のかがやきを
そっくり日本語に移し変えている
技ならぬ技に驚かされます。

たとえば、

波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

――という最終行。

はじめ
第1次形態の「翻訳詩ファイル」で

角度はゴツゴツ、光の渦に。

――と訳されていたときから
「光のゴツゴツした感じ」が捉えられていましたが
これを捨てずに
第2次形態でも磨きあげました。

これは
詩心というようなもののみが
捉え得る
言語以前の世界というべきものです。

ここまで書いてきたところで
宇佐美斉の「ランボー全詩集」(ちくま文庫)の脚注にぶつかって
また
卓抜な読みに出会いましたから
それを案内しておきましょう。

「海の光景」と訳出した詩の
短い注にこうあります――

後出の「運動」とともに、自由韻律詩の嚆矢(こうし)と目されてきた。エドゥアール・デュジャルダンは、『自由韻律詩による初期詩人たち』の冒頭に、この詩篇を収めて讃めたたえている。しかし最近の研究では、むしろこうした評価の仕方にはむしろ否定的な見方が強まっている(「運動」の脚注参照)。

作者はここで、海と陸との境界線を除き去ってしまうことによって、美しい幻想的な海辺の光景を、読者の眼の前に浮かびあがらせることに成功している。ベルナールが指摘するように、そこに理智が介入して、分析し、理由づけし、意味づけをする以前の、生まのままの印象が定着されているのだ。

作者はここで、
海と陸との
境界線を除き去ってしまうことによって、
美しい幻想的な海辺の光景を、
読者の眼の前に浮かびあがらせることに成功している。

――と言われている作者とは
ランボーのことですが、
中原中也がこれを読んだら
「俺の読みと一緒だなあ」と
仰天して喜ぶかもしれませんね。

エドゥアール・デュジャルダンとか
ベルナールとか
もちろん
そのような研究者を知るはずもないのですが
中原中也は
自ずとここらあたりの呼吸を
掴んでいたような翻訳をしています。

それは
「幻想的な」という以前の
荒々しい
海ならぬ海で、
どこか「酔ひどれ船」に通じている海でもあります。

中原中也は
そのように感じていたにちがいありません。

 *

 海景

銀の戦車や銅(あかがね)の戦車、
鋼(はがね)の船首や銀の船首、
泡を打ち、
茨の根株を掘り返す。

曠野の行進、
干潮の巨大な轍(あと)は、
円を描いて東の方へ、
森の柱へ波止場の胴へ、
くりだしてゐる、
波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。

(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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