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2012年9月

2012年9月30日 (日)

全共闘世代が読んだ中原中也・清水昶の場合

わたしは中原中也のあまり良い読者ではない。好きになれなかった。中也の好きなひとびとは熱病のように彼の作品に憑かれるらしいが、たとえば「汚れつちまつた悲しみに」のような作品にみられる教科書的な感傷性をどうにもわたしには受け容れる余地がなかったのである。

 

――と、「アウトサイダーの悲哀・中原中也試論」を書き出すのは
1940年生まれの詩人・清水昶(しみず・あきら)です。

 

2011年に亡くなりましたが
学生の頃、全共闘運動の現場にいたことがよく知られている詩人で
終戦時、学齢に達していない世代です。

 

長田弘より1歳若いということですから
幼少期に焼け跡で遊んだという意味では同じですが
詩を発信しはじめたのが学生時代ということで
全共闘世代の詩人ということにしておきます。

 

 

清水昶は、

 

中也には朔太郎のような病的にとぎすまされた感性にも静雄のような浪漫的なはげしさしも光太郎のような剛直さにも、どこか欠けていて、妙に才気走った言葉への感覚が宙に浮いたまま流れているようで、そんな中也の作品から永く遠ざけていた。

 

――と先の文に続けた後で、
「しかしながら中也に関して一度だけ、びっくりさせられたことがある。」として、

 

60年代前半、京都で学生であった頃、暇潰しに裕次郎と浅岡ルリ子のでる日活の恋愛映画をみていたら、その映画に突然、中也の作品「骨」が登場したのである。たしか裕次郎がピアノを弾きながら歌っていた。裕次郎と中也の唐突な結びつき、それに中也の詩が「唄」になるということは、わたしには驚きであった。

 

後にレコード化されたので、わざわざ、わたしは買い求めたが、大衆娯楽映画のなかに、あえて中也の詩を引用する熱烈な「中也党」のシナリオライターがいるということは、わたしに中也の詩の読者への根強い浸透力を、あらためて感じさせたのである。

 

――と記します。

 

 

60年代前半に、日活の恋愛映画を見ていたというのは
その後の60年代後半に、高倉健の「網走番外地シリーズ」などを見て
学生運動の合間にエア抜きをするような流れの中にあったことを示していて
いかにも全共闘世代らしいですね。

 

全共闘世代はビートルズ世代ともいえるし、
雑多な関心、自由な暮らしぶり、多様な文化の洗礼を受けている……などの特徴がありますから
中原中也との邂逅(かいこう)は必然であったように見えます。

 

その詩人は、
裕次郎の歌唱に促されて「骨」を発見したといっているようですが
これは発見というよりは
それまで気づかないでいたものの再発見
といったほうが近い出会いだったに違いありません。

 

そこのところを清水は、

 

永くわたしを中也の作品から遠ざけていたものは、いわば、中也に対する近親憎悪のような感覚であったと、いまのわたしは考えている。

 

――と述べています。

 

いま、というのは
「アウトサイダーの悲哀」が初出した
「ユリイカ」1974年9月号の時点を指します。

 

 

石原裕次郎の歌う「骨」が
You Tubeで聴けます。

 

石原裕次郎の「骨」

 

 

 


 骨
ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。

 

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

 

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑(をか)しい。

 

ホラホラ、これが僕の骨——
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

 

故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、——僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。

 

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

 

 

 


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2012年9月28日 (金)

焼け跡世代が読んだ中原中也・長田弘の場合2

1939年生まれの詩人・長田弘が
中原中也の「月の光」(一、二)に出会ったのは
同じ詩人である吉野弘(1926~)が書いた文章の中でのことでした。

 

それがどのような文章だったか
タイトルも書かれていないのですが
「わたしたちの初めての子どもが生まれるまえに死んでしまうという」
「きついできごと」の最中のことで
「そのときじぶんにもっともひつような労働歌のフレーズのように」
思い出したのが吉野弘が案内していた「月の光」だったそうです。

 

吉野弘がどのようなことを書いていたのかは問題ではなく
中原中也の「月の光」が
「きついできごと」の中でビリビリと感じ取られたということなのでしょう。

 

 

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

 

森の中では死んだ子が
蛍(ほたる)のやうに蹲(しやが)んでる

 

 

「月の光 その二」の最終の2連を引いて
長田弘は

 

こうした詩がわたしにはまず労働歌のようにやってきたということがわたしにとっての中原中也の詩のはじまりはあり、それがどれほど唐突にまた奇矯にみえようと、このようにはじまったわたしなりの中原の詩とのつきあいかたというものを、わたしは大事にしてゆきたいとおもう。

 

――と述べています。
そして、次のように続けます。

 

中原の詩における「死児」のイメージはまさに独特のものであるが、それは究極のところ、わたしたち生きているものの言葉が、わたしたちじしんの死児たちが「蛍の蹲んでるとても黒々とした森」を背後にもつべき言葉であることを、鋭く告知する原像なのではないだろうか?

 

――と「?」をつけて、投げかけます。

 

そして、このような問いに
自らこたえるかのように

 

ようやくいま、中原中也の詩を賑わしい伝説も惑いにみちた陶酔もなしに読みはじめたばかりだ。

 

――と、中原中也の世界の入り口に立ったことを述べて、この文章を結んでいます。

 

 

こうした出会いを
稀有なものといえるでしょうか?

 

中原中也との出会いの多くは
このように個人的な体験を通じて
偶然のように
必然のように行われて
普通であるとはいえないでしょうか?

 

「賑わしい伝説も惑いにみちた陶酔」もなくというのは
「まっさらで」とか「ゼロの状態で」というものではなく
「偏見なしに」くらいの意味で受け取るとよく
人はいつしか詩を読みはじめることがある、ということを示すものなのでしょう。

 

 

 

 

 


 *
 月の光 その一

 

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

 

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れてゐるのは死んだ児だ

 

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

 

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

 

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

 

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

 

 *

 

 月の光 その二

 

おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

 

ほんに今夜は春の宵(よひ)
なまあつたかい靄(もや)もある

 

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

 

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

 

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

 

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

 

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

 

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

 

 

 


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2012年9月27日 (木)

焼け跡世代が読んだ中原中也・長田弘の場合

長田弘は1939年生まれですから
北川透(1935~)よりもさらに4年ほど若い世代になります。
いわゆる「焼け跡世代」に属しますが
中原中也を30歳を過ぎて初めて読み
30歳以前に初めて中原中也を読んだ人との違いを強く意識する詩人です。

 

 

わたしは、戦後現代詩を読むことからはじめて、詩への具体的な希望とかかわりを否応なく択びとってきたひとりだ。つまり、中原中也についていえば、わたしは中原中也から詩に‘入学’したのではなかったから、中原中也を‘卒業’することがなかった。

 

そのためにかえって、かつてはおれも中原はよく読んだものだよ、というふうな口ぶりで中原中也を‘卒業’したもののように語る世俗の前垂れのかかった文章に、わたしはいまどのようにもなじむことができない。

 

そして実際わたしは、ひとがその青春期を脱けだすことによって中原の詩を‘卒業’してゆくことを自称するのとすれちがうように、むしろじぶんじしんの青春との訣れにおいてはじめて中原中也の詩を読んだのであった。

 

 

角川書店版「中原中也全集」(いわゆる旧全集)の「月報Ⅵ」にこのように記された
自分自身の青春との訣れ「において」というのは
「の中で」や「と共に」というのよりも
もっと密接な関係を示していて
青春との訣別「と同時に起こった」
個人的体験であったことを示しているようです。

 

長田弘は
以上の記述に続けます。

 

 

わたしの場合、青春との訣れ(もしそう名ざせるものがあれば、としてだが)は、わたしたちの初めての子どもが生まれるまえに死んでしまうという、ごくささやかではあるが、きついできごとのかたちをとった。

 

この個人的な体験のにがい重量をとにもかくにもじぶんたちだけで息をつめるようにしてじっともちこたえねばならなかったときに、わたしは、ずっと以前に吉野弘の文章のなかでみつけたある短かい詩のフレーズを、そのときじぶんにもっともひつような労働歌のフレーズのように突然おもいだしたのだ。中原中也の「月の光」一、二である。

 

 

「死児の歌」と題されたこの文の由来が
ここにきて明らかになります。

 

「月報Ⅵ」の発行日は
昭和46年(1971年)5月20日です。

 

 

 

(つづく)

 


 *
 月の光 その一

 

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

 

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れてゐるのは死んだ児だ

 

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

 

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

 

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

 

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

 

 *

 

 月の光 その二

 

おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

 

ほんに今夜は春の宵(よひ)
なまあつたかい靄(もや)もある

 

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

 

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

 

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

 

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

 

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

 

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

 

 

 


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2012年9月26日 (水)

戦中世代が読んだ中原中也・北川透の場合2

一度、耽溺したものの
しばらくして飽きがきて遠ざかっていたところに
「中原中也の手紙」(安原喜弘)を見つけて再び注目するようになった
――という経緯の後に
北川透は中原中也と本格的に出会うことになりますが、
次のように続けます。

 

 

それを読み終わった時の、何ともいえない感動は今も思い起こすことができる。詩人の宿命的な不幸におびやかされるよりも、それを暗い輝きとしてむしろ、魅惑されたというのが正直な感想である。こうして、ぼくにとって、詩入門の役割を中原中也は果たしてくれたわけだ。

 

 

ここの部分、少し解釈しづらい文章です。

 

「それを暗い輝きとしてむしろ、魅惑された」の意味は、
安原喜弘の「中原中也の手紙」が「暗い輝き」のようなものを描いてあり
そのことが「宿命的な不幸におびやかされる」詩人の姿にまさって
中原中也を新しい角度から照らし出していたので「魅惑された」
――と受け取ればよいでしょうか。

 

簡単に言えば
中原中也の「暗い輝き」に魅せられた、ということです。

 

北川は続けます。

 

 

その後の、中原中也とのつきあいは、ここで詳述する必要もないであろう。ともかく、詩とまったく対極の反詩の激動のなかに身をあずけ、中原中也は無縁となり、そして暗誦していた詩篇は跡形もなく記憶のなかから消え失せたのである。

 

 

安原喜弘の「中原中也の手紙」は
昭和25年(1950年)に書肆ユリイカから出版されました。
大岡昇平が「中原中也伝――揺籃」を発表したのは
昭和24年(1949年)の「文芸」8月号でした。

 

 

こうして何年かたち、
「この書は、いわゆる評伝でもなく研究書でもない。ただひたすら、中原中也の世界を、詩の言語を通じて解き明かしたい欲求があったのみである。」と位置づけた「中原中也の世界」が発表されたのは
昭和43年(1968年)のことでした。

 

 *

 つみびとの歌
     阿部六郎に

 

わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。
おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界に索(もと)めんとする。
その行ひは愚かで、
その考へは分ち難い。
かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、
懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草をもち、
人にむかつては心弱く、諂(へつら)ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出来(しでか)してしまふ。

 

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

 

 

 

 

 


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2012年9月25日 (火)

戦中世代が読んだ中原中也・北川透の場合

平井啓之(1921~1992)
大岡信(1931~)
中村稔(1927~)
黒田三郎(1919~1980)
――と、戦中派の中原中也との出会い方を見てきました。

 

これらの詩人や学者は
中原中也が生きていた時代に生まれてはいたものの
実際に面識のあった「同時代者」ではなく
詩作品を通じて出会った人々です。
中原中也の詩を読んで
肯定的な評言を残した人々です。

 

生年が中原中也から最も遅い大岡信よりも
さらに遅い詩人・批評家の北川透(1935~)の出会いの記述を読んでおきましょう。
北川透は満州事変(1931年)が起きた年に幼年ですから
戦後派といったほうが近い世代ですが
戦後生まれでもなく、「戦無派」とも異なる世代のため
ここでは「戦中世代」としておきます。

 

 

北川透が「中原中也の世界」(紀伊國屋新書)を著したのは
1968年のことですが
その「あとがき」に中原中也との出会いは書かれています。

 

 

ぼくが、中原中也の詩を、初めて自覚的に読んだのは、新制高校2年生(17歳)の時だったように思う。当時、筑摩書房から刊行された<近代日本名詩選>の1冊『山羊の歌・在りし日の歌』を、同じシリーズの1冊として出された立原道造の『萱草に寄す・暁と夕の詩』と一緒に買い求めたのだった。

 

そもそもそれがぼくにとって詩集なるものを買う最初の行為だったのだが、なぜこれらの詩集を買ったのか理由は見出せない。その当時、友人の影響で、詩の世界に関心をもち始めていたぼくは、端的にいって模倣の対象を求めたに過ぎないのだろう。それにもかかわらず、2冊の詩集のうち、立原道造の世界にはどうしてもなじめず、その代り、中原中也の世界に耽溺する日々をもつことになったのだった。

 

耽溺といっても、やたらにノートや教科書の片隅に書きうつしたり、好きな詩篇を暗誦し、また中原調の詩をつくるというだけのことであるが。そして当時、十数編の比較的短い詩を暗誦できるまでにはなっていただろう。

 

 

ここまで読めば
これも割合よくあるケースの一つといえるのかもしれません。
立原道造と中原中也を仮に並べて読んだとすれば
詩というものは立原道造のような詩をいうのだ、と考えるか
中原中也の詩のほうがコンテンポラリーでよい、などと考えるかで分かれる典型で
北川透は中原中也を取ったということになるでしょう。
このようなケースで
立原道造の詩に耽溺していく人もあることでしょう。

 

北川透は続けます。

 

 

中原中也の実生活の不幸について知ったのは、それから1年以上過ぎて、少々中原にも飽きかけ、また、やっと大学進学の方針も立って、町の図書館(碧南市立図書館)へ受験参考書を借りに行き、本棚の隅に、『中原中也の手紙』(安原喜弘)を見つけた時だった。

 

(つづく)

 

 

「中原中也の世界」は
「Ⅰ 序説――地下生活者の詩」で
中原中也が死んだ年である1937年の4月の日記の
ドストエフスキーの「地下生活者の手記」に関しての記録に言及することから
説き起こされる批評です。
その冒頭で北川透が取り上げている
「つみびとの歌」を掲出しておきます。

 

 *

 つみびとの歌
     阿部六郎に

 

わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。
おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界に索(もと)めんとする。
その行ひは愚かで、
その考へは分ち難い。
かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、
懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草をもち、
人にむかつては心弱く、諂(へつら)ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出来(しでか)してしまふ。

 

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

 


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2012年9月24日 (月)

戦中派が読んだ中原中也・黒田三郎の場合2

この詩を借りて言うと、戦後3年という時点では、この第2連の第1行のような気持が、僕のなかでは荒れ狂っていたのである。

 

――と、黒田三郎は、
中原中也の生前発表詩篇「現代と詩人」の第2連の第1行
「――そんなの古いよ、という人がある。」を指示して
戦後3年に抱いていた詩一般、詩全般への気持ちを述べ
中原中也の詩もこの気持ちの中で読んだことをまず明らかにしています。

 

新しいものでなければ受け入れられなかった戦争直後の詩人は
モダンな詩も、プロレタリア詩にもにせ物めいたものを感じていて
「そんなの古いッ古いッ!」という人が多い中で
それはそうだけれどそれだけでは物足りない、と歌う詩の一節に
中原中也はにせ物ではないと感じたのですが……。

 

逆に、というか、そうだからというか、
昭和29年に発表した「日本の詩に対するひとつの疑問」は
中原中也の詩の私詩性や叙情性を
「こっぴどくこき下ろす結果になり」、
この批判は
「若年の思い上がり」であると同時に
「限りのない、ないものねだりだったかもしれない」と振り返ります。

 

黒田三郎は、このようにして、
中原中也や中野重治といった詩人に
当時、最も親近感を抱いていたにも拘らず批判したのは
「最も愛する詩人を批判するという形での、自己批判」だった、
だから、この批判は自分自身に向けられている、と説明するのです。

 

 

「日本の詩に対するひとつの疑問」を読んでおきたいところですが
なかなか手に入りません。
「黒田三郎著作集」に収録されているのかもわかりませんが
「中原中也研究」(中村稔)を比較的に容易に読めるかもしれません。

 

 

詩や詩人を発見する道は一つの道ではなく
長い時間をかけてなされる場合があるものですが
これはどんな物事にもいえることでしょう。

 

戦中派世代にも
中原中也との曲折を経た出会いがあったという例です。

 

 

「現代と詩人」は
昭和11年(1936年)の「作品」12月号に発表された作品です。
同年10月の制作(推定)です。
長男文也が満2歳になる前で
詩人としての名声は次第に高まり
雑誌新聞への寄稿を盛んに行い
座談会などへも頻繁に顔を出すようになっていた頃の制作ということになります。

 

 *

 

 現代と詩人
 
何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だってそれだけが、私にとっては「充実」なのだから。

 

――そんなの古いよ、という人がある。
しかしそういう人が格別(かくべつ)新しいことをしているわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いていれば、
それは、それでいいのだと考(かんが)うべきものはある。

 

とはいえそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといってその正体が、シカと掴(つか)めたこともない。

 

私はそれを、好加減(いいかげん)に推量したりはしまい。
それがハッキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまろう。
それまで私は、此処(ここ)を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

 

   2

 

われわれのいる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持ってはいない、持とうがものはないのだ。
さて希望を失った人間の考えが、どんなものだか君は知ってるか?
それははや考えとさえ謂(い)えない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

 

私は古き代の、英国(イギリス)の春をかんがえる、春の訪(おとず)れをかんがえる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがえる、旅行家の貌(かお)をかんがえる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居(ぐうきょ)への訪問をかんがえる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据(す)えられた食卓のことをかんがえる。

 

私は死んでいった人々のことをかんがえる、――(嘗(かつ)ては彼等(かれら)も地上にいたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがえる、その校庭の、雨の日のことをかんがえる。
それらは、思い出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

 

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんだそうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行ったことがあるような気がする。
世界の何処(どこ)だって、行ったことがあるような気がする。
地勢(ちせい)と産物くらいを聞けば、何処だってみんな分るような気がする。

 

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあって、とても、当今(とうこん)日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふかい)の、陳列みたいなものじゃない。それで心の全部が充されぬまでも、サッパリとした、カタルシスなら遂行(すいこう)されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。
 
※「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新字・新かなで表記しています。編者。

 


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2012年9月20日 (木)

戦中派が読んだ中原中也・黒田三郎の場合

黒田三郎(1919~1980)という詩人は
「日本の詩に対するひとつの疑問」を昭和29年に発表し
中原中也の詩を批判しましたが、
その後、「偏見の歴史」を書いて
中原中也への評価を再検討した人です。

 

この人も、
屈折がありながら
中原中也と出会った詩人ということができるでしょう。

 

 

「偏見の歴史」にこんな一節があります――。

 

昭和14年12月刊の「現代詩集」全3巻がいま手許にあるが、その第1巻には5人の詩人の作品が収録されており、「帰郷」と題して神保光太郎氏が中原中也の詩29篇を選んでいる。戦前の蔵書は1冊もなく、これは数年前に入手したものであるが、見覚えがある。昭和22年8月刊の「中原中也詩集」をよむまでにも、こういうもので詩はよんでいたろうし、中原中也についての伝説のいくらかは知っていただろうと思う。しかし、それまでは強い関心をもたなかった。この「現代詩集」全3巻には、「歴程」「四季」系統の詩人たちに北川冬彦、高橋新吉、金子光晴の3氏を加え、計15人の詩が収められているが、昭和10年代、丁度生長期の僕がよんだのは、丸山薫、三好達治、北川冬彦の3人くらいであった。
(「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇)

 

 

ここでも「現代詩集」が現われます。
昭和14年に発行されたこの詞華集が
戦時下の青春に与えた影響の大きさをまた想像することができますが、
「現代詩集」に鮮烈な記憶があるとは言わず
「見覚えがある」として
ここに収録された詩人15人のうちで
昭和10年代に親しく読んだのは、
丸山薫、三好達治、北川冬彦の3人だった、と回想するのです。

 

というのも、中原中也が死んだ昭和12年に
黒田三郎は旧制高校にいて
「詩と詩論」の系統のモダニズム詩人たちに傾倒していたからで
その傾向の中では、
丸山、三好、北川を読めても
中原中也に親しむことはなかった、というものでした。
そして、

 

中原中也の詩をよむためには、不幸にしてここでずれてしまった。そして、春山行夫氏その他の詩論をよむことによって、モダニズムの詩以外には次第に不感症になってしまった。若気の至りとでも言うべきものであろう。

 

――と述懐しています。
黒田三郎のような感懐をもつ人は
案外多く存在することが想像できますが
このように表明されるケースはまれです。

 

 

黒田三郎の「日本の詩に対するひとつの疑問」は
中村稔篇「中原中也研究」(昭和38年)に収録され
このために「今でも、20年前の文章が、僕の中原中也論として、物議をかもしている」ので
偏見を解くという意味をも込めて、
角川全集「資料・研究篇」刊行にあたり
「偏見の歴史」の題で寄稿されたものです。

 

 

黒田三郎は「偏見の歴史」の中で
中原中也の「現代と詩人」を引き合いにして
さらに続けます。
その「現代と詩人」を掲載しておきます。

 

(つづく)

 

 *

 

 現代と詩人
 
何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だってそれだけが、私にとっては「充実」なのだから。

 

――そんなの古いよ、という人がある。
しかしそういう人が格別(かくべつ)新しいことをしているわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いていれば、
それは、それでいいのだと考(かんが)うべきものはある。

 

とはいえそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといってその正体が、シカと掴(つか)めたこともない。

 

私はそれを、好加減(いいかげん)に推量したりはしまい。
それがハッキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまろう。
それまで私は、此処(ここ)を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

 

   2

 

われわれのいる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持ってはいない、持とうがものはないのだ。
さて希望を失った人間の考えが、どんなものだか君は知ってるか?
それははや考えとさえ謂(い)えない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

 

私は古き代の、英国(イギリス)の春をかんがえる、春の訪(おとず)れをかんがえる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがえる、旅行家の貌(かお)をかんがえる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居(ぐうきょ)への訪問をかんがえる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据(す)えられた食卓のことをかんがえる。

 

私は死んでいった人々のことをかんがえる、――(嘗(かつ)ては彼等(かれら)も地上にいたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがえる、その校庭の、雨の日のことをかんがえる。
それらは、思い出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

 

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんだそうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行ったことがあるような気がする。
世界の何処(どこ)だって、行ったことがあるような気がする。
地勢(ちせい)と産物くらいを聞けば、何処だってみんな分るような気がする。

 

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあって、とても、当今(とうこん)日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふか
い)の、陳列みたいなものじゃない。それで心の全部が充されぬまでも、サッパリとした、カタルシ
スなら遂行(すいこう)されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。
 
※「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新字・新かなで表記しています。編者。

 

 

 


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2012年9月19日 (水)

一高生が読んだ中原中也・中村稔の場合

大岡信(1931年2月生まれ)が
「昭和の抒情とは何か」で対談した中村稔(1927年1月生まれ)は
この対談よりずっと前に
中原中也との出会いを
昭和45年発表の「『山羊の歌』との出会い」に記述しています。

 

この記述をその後も、
「中原中也との出会い」(「言葉なき歌」昭和48年、角川書店)に引用したり
中村稔全集第2巻に収録したりと繰り返し案内したために
知っている人も多いはずですが
ここでそれを読んでおきましょう。

 

いま容易に読めるのは
「言葉なき歌 中原中也論」の中の「中原中也との出会い」に引用された
「『山羊の歌』との出会い」の冒頭の部分です。

 

中村稔は
自ら書いた文章を引用したため
「『山羊の歌』との出会い」の冒頭の部分を「 」でくくっています。

 

 

昭和45年9月、堀内達夫氏が『山羊の歌』を復刻したさい、求められて私は「『山羊の歌』との出会い」という文章を寄せた。その冒頭は次のとおりであった。

 

「私は『山羊の歌』を筆写したことがある。昭和19年、私が旧制高校に入学して間もない頃であった。中原中也という詩人を教えてくれたのは誰であったか、私はもう覚えていない。寄宿舎の同じ部屋に生活していた上級生の一人だったにちがいない。いいだ・ももであったか、太田一郎であったか、この頃では文学から遠ざかってしまったそのほかの上級生であったか。誰であってもふしぎはない。彼らの誰にとっても、中原中也という詩人は、小林秀雄という名前と同様に、又、結ぶつきながら、ごくごく身近な文学のしるしであったように思われる。

 

寄宿舎の一室の壁に『湖上』の全文が墨くろぐろと書かれていたのを、その部屋の裸電球の侘しい光と共に、私は思い出す。やがて、私たちは中原の「でしょう節(ぶし)」などと悪口をいうようになったのだが、最初これを読んだ(というより見た)時の奇妙な感動と反撥を、私は忘れない。絡みつくような艦尾さと率直さが私をとらえたのだが、同時に、詩であるものと詩でないものとのあやうい境い、あるいはきわどい裂け目を覗きみたような思いが、私を苛立たせたのだろう。今になれば私にはそう思われる。ともかく、私はまだ17歳にしかすぎなかった。

 

いうまでもなく、創元選書版の中原中也詩集はまだ刊行されていなかった。河出書房版の3巻本の『現代詩集』から、限られた数の作品を知りうるだけだった。あとは、『山羊の歌』『在りし日の歌』という2冊の詩集を探すよりほか中原を読む手だてはなかった。高等学校の図書館にこれらの詩集があったことは、何かの偶然としか思われない。それは岡本信二郎という元教授の寄贈図書の一群にまじっていたのである。この寄贈図書は、どういうわけか、『四季』の詩人たち、三好、立原、神保、丸山といった人々の詩集のほとんどを含んでいた。私はその図書館のひえびえとした空気、詩集のにおい、頁をくって立ちあらわれる抒情詩の新鮮な世界への驚き、を憶えている。図書館の椅子の感触といっしょに、頁を繰る紙質の感触が、いつでも直ちに私に蘇ってくるのである。(以下略)」

 

 

以上のように自著を引用した後に中村稔は
先の大岡信との対談について述べます――。

 

過日、大岡信氏と雑談していたとき、寄宿舎の壁に書かれていた「湖上」が大岡氏にとって中原中也との最初の出会いであったと聞いて、奇異な感じをうけた。大岡氏は昭和22年、私と入れちがいに同じ高等学校に入学したのだが、その頃になっても、まだ「湖上」は消されていなかったわけである。

 

 

「中原中也との出会い」は「言葉なき歌」が刊行されたときに
新たに書き下されたもの。
昭和48年の発行です。

 

大岡信と中村稔の対談は
「国文学」昭和47年10月号のために行われ
「昭和の抒情とは何か」のタイトルで同誌に掲載されたのが初出です。

 

 

中村稔の回想は
一高駒場寮の「青春」、
とりわけ中原中也がどのように読まれていたかを
垣間見せてくれて貴重です。

 

 

 

(つづく)

 


 湖上
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
——あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
——けれど漕ぐ手はやめないで。
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 


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2012年9月18日 (火)

一高生が読んだ中原中也・大岡信の場合

サンコウ=三高(現京都大学)の寮で読まれていた
中原中也の詩のナンバーワンは「春と赤ン坊」でした。
では、イッコウ(イチコウ)=一高(現東大)の寮はどうだったのかということになりますが
手元に、大岡信(おおおか・まこと)の「現代詩人論」(角川選書)に記述がありました。

 

大岡信(1931年2月生まれ)ら一高生の
中原中也との出会いは「湖上」でした。
そのシーンの記述が
「中原中也」の項の「1 中原中也の幸福」の冒頭にありますから
それを読んでおきましょう。

 

 

今でもたぶんそうだと思う。僕が3年間を過した旧制一高の寮(現在の東大駒場寮)の部屋の白い壁は、どの壁にもおびただしい落書きがあった。おおむねアフォリズム風の思想的断片語だったが、それらの落書きにまじって、中原中也の詩「湖上」が、ひときわ大きく書かれていた小さな部屋のことをなつかしく思い出す。その部屋は文芸部委員が住むことになっていた小部屋で、一高の最後の文芸委員をつとめるめぐり合わせになったことから、僕はそこでひとりで1年間過したのだった。

 

ベッドと机を置けば、それだけでいっぱいになってしまうほどの小部屋で、そのベッドの上に寝そべっていると、ちょうど眼の斜め上に、「ポツカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けませう。」という「湖上」の詩句が、そこはかとない哀愁を誘いながらひろがっているのだった。「月は聴き耳立てるでせう、すこしは降りても来るでせう、われら接吻する時に、月は頭上にあるでせう。あなたはなほも、語るでせう、よしないことや拗言や、洩らさず私は聴くでせう、――けれど漕ぐ手はやめないで」

 

 

他の場所でも書かれていたような記憶があるので探していると
座談会の席での発言にこんなのもありました。
「昭和の抒情とは何か」という中村稔との対談の中の発言です。

 

 

(略)
大岡 そうですね、それは。
 これは中村さんのほうがよく知っていることだけれども、旧制高校へはいって、寮へはいるでしょ。ぼくが寮にはいったときに、中村さんがちょうど出た直後だったわけですけども、戦後すぐの時代の旧制高校には、中原張りの詩を書いている人がいっぱいいましたね。
中村 ふうん……。

 

 

このような発言は
探せば、もっと見つかるでしょう。

 

 

ここでは
「湖上」を載せておきます。

 

(つづく)

 


 湖上
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
——あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
——けれど漕ぐ手はやめないで。
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

 

 


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2012年9月15日 (土)

戦中派が読んだ中原中也・平井啓之の場合3

当時、中原中也の詩(それは前にも触れたように、厳密に神保光太郎選の29篇に限定された中也である)が、私たちに対してもった意味を伝えるのに恰好の事実を今思いだす。

 

――と書いて、平井啓之は続けます。
「神保光太郎選の29篇」とは
昭和14年12月刊の「現代詩集」(河出書房)第1巻所収の
中原中也の詩のことです。

 

 

私の繰上げ卒業も程近かった或る日、文芸部の部屋で、数人の仲間が、自分の好きな詩を数篇書き出して、投票をしたことがある。その場には、宮野尾、私、京都の人文研の多田道太郎、石上相(彼もまた、輸送船で南方へ送られる途中、南支那海に沈んだ)、それに、今法政大学の先生をしている吉川経夫らもいたように思う。

 

「朝の歌」「汚れつちまつた悲しみに……」「寒い夜の自我像」など、中也の傑作とみられる作品は、もちろんそれぞれに票を得たが、満票でのこったのは、「春と赤ン坊」であった。3行詩節4聯から成るこの小詩は、中村稔によれば、放送用原稿として書かれたものであり、決して悪い作品ではないが、「朝の歌」その他の秀作を差しおいて、私たちの一致した愛着をかち得たことは、考えてみればやや奇異である。だがこのことは、当時の私たちが置かれていた息苦しい状況を思えば納得のいくことであった。

 

同じ年の4月半ばには米機の東京初空襲があり、6月初めにはミッドウエー海戦があった。伝えられるニュースはもちろん捷報ばかりであったが、事実はすでに日米の戦いの明暗を分けるような決定的な出来事が生じていたのである。それに私たちはいずれも、やがては確実に兵士として戦場に立つ身であった。肌身で感じているこの息苦しさのなかで、私たちはいずれも、真実に息のつける人間的なやすらぎを、ほとんど本能的に希求していた。

 

「春と赤ン坊」を私たちがあれほど憧愛したことの意味は、この戦時下の青年たちの心の状況を考えることなしには、解ってもらえないだろう。「春と赤ン坊」の、菜の花畑に眠る無心の赤ん坊のイメージは、幸福な幼年期への限りない郷愁のような思いをそそる。しかし普通、私たちは、苛烈な生存競争に耐えて大人になるための努力のなかに、そうした幼児期への郷愁をふりすててすすむ。しかし近い将来のなかに、死をのぞみ見ることを避け得なかった当時の私たちに対して、幸福の幻影は、ただ幼年期という形でだけ、その束の間の瞥見をゆるした。

 

『山羊の歌』に比重の秤のかたむいた『現代詩集』29篇の中也の詩篇は、こうした当時の私たちの内面からの要求に、この上なく応ずる一つの世界を形づくっていた。
(以下略)

 

 

3回に分けて引用しましたが、
この量で、「わが中也論序説」(B5版)の32ページほどの論考で、
引用したのは冒頭の約4ページですから
「序説の序」の部分ということになります。

 

 

「現代詩集」第1巻は
高村光太郎、草野心平、中原中也、蔵原伸二郎、神保光太郎の
5人の詩人のアンソロジー(詞華集)です。

 

中原中也の作品は
「帰郷」のタイトルが選者の神保光太郎によってつけられ
以下の29篇が収録されています。

 

祈り
サーカス
朝の歌
臨終
黄昏
冬の雨の夜
帰郷
悲しき朝
港市の秋
秋の夜空
少年時
妹よ
寒い夜の自我像
心象I
心象II
汚れつちまつた悲しみに……
無題

みちこ

六月の雨
冬の日の記憶
冷たい夜
春と赤ン坊
曇天
一つのメルヘン
幻影
蛙声
月夜の浜辺

 



ちなみに
第2巻は、丸山薫、立原道造、田中冬二、伊東静雄、宮沢賢治、
第3巻は、萩原朔太郎、北川冬彦、高橋新吉、金子光晴、三好達治
――というラインアップで
全3巻で合計15人が選ばれています。

 

 

「春と赤ン坊」を載せておきます。

 

 

 

 
 *  
 
 春と赤ン坊

 

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 

走つてゆくのは、自転車々々々 向ふの道を、
走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

 

薄桃色の、風を切つて 走つてゆくのは
菜の花畑や空の白雲(しろくも)
――赤ン坊を畑に置いて  

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

 

 


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2012年9月14日 (金)

戦中派が読んだ中原中也・平井啓之の場合2

私の前後の世代、つまり戦中派世代に属する中也愛好者の多くにとっても、事情は同じであったと思われる

 

――と、サルトル研究で名高い学者・平井啓之(ひらいひろゆき)は続けます。
「事情は同じ」というのは、
戦中派はみな神保光太郎選の「現代詩集」で現代詩を知った、ということを指します。

 

 

三高で私の2年後輩であった花木正和は、その『中原中也論考』のなかで、彼が「中原中也として軍服を着たつもりであった」と形容する私たちの共通の友人宮野尾文平(※)に、『山羊の歌』の詩篇を見せた思い出を記している。

 

昭和19年のある朝、当時航空通信学校で訓練中の宮野尾がひょっこり京都の下宿に花木を訪ね、花木は誰かから借りて筆写していた『山羊の歌』を宮野尾に見せるのであるが、やがて半年後、沖縄雷撃隊の一員として爆死する宮野尾は、「それらの詩篇を、オアシスにめぐりあった旅人のように目をかがやかせてむさぼり読んだ」。

 

この挿話は、戦中派の世代、殊に私や宮野尾のような学徒出陣組にとって、中原中也の詩がもっていた痛切な意味をあざやかに物語っている。宮野尾は三高で花木と同期で、私とは文芸部の仲間であり、昭和17年9月、繰上げ卒業で私が去ったあとを受けて、文芸部のキャップとなった。

 

当時は今日とはちがって、戦時下のひっぱくした状勢下に同人雑誌やクラス雑誌を出すことはまったく不可能で、年3回発行される校友会雑誌『嶽水』の文芸欄が、文学好きの青年たちのただ一つの発表機関であった。それであの戦時下にあっても、文学的な表現意欲をもつ少数の学生たちは、ほとんど文芸部の周辺に集っていたと言えるだろう。中也の詩と梶井基次郎の散文、それに、小林秀雄訳を通じてのランボー、および米川訳のドストイェフスキー、を加えれば、当時の私たち、つまり三高文芸部の青年たちが醸していた文学的気圏の構成要素はほぼつくされるだろう。
(青土社「テキストと実存」所収「わが中也論序説」より)

 

 

平井啓之は、ここで(※)後注を付して
宮野尾文平について紹介する中で
この「わが中也論序説」の「3」を
「中原中也を継ぐもの」として書き継ぐ意志のあったことを記述し、
書物の構成上から断念したことを明らかにしています。

 

「わが中也論序説」が書かれたのは1974年のことですから
宮野尾文平の作品や人物に関する言及は
狭い範囲でしか知られていませんでしたが、
インターネットが普及した今、
検索すれば作品「星一つ」を読むことができます。

 

三高校友会の雑誌「嶽水」第7号(1943年2月)に載った
「遠日」というタイトルの詩を
参考までに読んでおきましょう。

 

 

遠日

 

――前だけを見てゐたんです

色彩は風に吹かれてみんな捨てた
無色の風景に
電信柱が一本立つてゐる
あの頃は
まだ廃家(くずれや)も美しかつた

あれから毎日歩いて来た
――随分と遠い道
蒼空がまるい
向日葵がまはる
  約束はもう駄目になつた
肩に重たい同じ言葉が
――遠い道なんだきつと

今ははや
廃屋の柱も傾き
いつか
おぼつかない足もとになつた
けふ日も過ぎれば
石廊はうつろに響く
  ほろほろと
  ろんろんと

階段をもう下りてしまつた――

 

(つづく)

 

 

 

 

 


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2012年9月13日 (木)

戦中派が読んだ中原中也・平井啓之の場合

昭和27年に、人文書院から出た「ランボオ全集」3冊本は、
東大仏文科の教授・鈴木信太郎が監修したもので
第1巻を「詩集」
第2巻を「飾画・雑纂・文学書簡・補遺文献・年譜Ⅰ」
第3巻を「地獄の季節・補遺文献・放浪書簡・年譜Ⅱ」
――などとする内容でした。

 

第1巻「詩集」の翻訳者には、
村上菊一郎
中原中也
小林秀雄
鈴木信太郎
平井啓之
佐藤朔
――の名前があり、
合計63篇の韻文(詩)が訳されているうちの
11篇が中原中也のものです。

 

ちなみに、この11篇を列挙しておきますと、

 

感覚
シーザーの激怒
冬の思ひ
いたづら好きな女
わが放浪
星は汝が耳の核心に薔薇色に涕き
五月の軍旗
最も高い塔の歌
永遠
飢餓の祭
季節が流れる、城塞が見える

 

――です。

 

 

翻訳者の一人、平井啓之(1921~1992)は
三高(京都大学の前身)から東京帝大フランス文学科に進み、
在学中の1943年に学徒出陣、
戦後に復員して、新制なった東大を卒業して仏文科助手となり
講師、助教授、教授と学究の道を歩みました。
1969年の東大紛争で辞職、サルトル研究で著名ですが
1994年版「ランボー全集」(青土社)を中地義和、湯浅博雄とともに翻訳、
わだつみ会の活動には発足当初から関わり
後には常任理事を務めたことでも知られています。

 

この人が、「わが中也論序説」という著作の中で
中原中也との出会いについて記しているのは
「中原中也が訳したランボー」のその後をたどる上で
きわめて重要な位置にあります。

 

「わが中也論序説」は「ユリイカ」の1974年9月号に初出しましたから
書かれたのは、「最近」のことになりますが
戦中派が中原中也をどのような状況下で読んだかを知る
数少ない例ということになります。

 

「わが中也論序説」は
1988年12月に発行された
「テキストと実存―ランボー、マラルメ、サルトル、中原と小林」(青土社)の中の
「Ⅳ 中原中也(1907―1937)と小林秀雄(1902―1983)」に収録されています。
ここから、一部を紹介しておきます。

 

◇ .

 

1「朝の歌」

 

角川版の中原中也全集の書誌によれば、『現代詩集』(河出書房)の第1巻が出たのは、昭和14年12月、私が旧制三高に入る前年末のことであった。全3巻から成るこの詞華集は、背は白く、濃いこげ茶色の厚表紙の隅を三角に白くした瀟洒な本で、それまで泣菫、有明、春夫などの明治、大正の詩人たちにもっぱら岩波文庫でしたしんできた私を、一挙に‘現代詩’の世界に連れこんだ。各巻に当時の‘現代詩人’5名ずつの主要作を収めたこの詞華集は、いま思い返してみてもなかなかよくできていて、なるほど‘現代詩’とはこういうものかと納得させられたような気がしたことをおぼえている。

 

所収の15名の詩人たちのほとんどが私にとってはあたらしく知る名前であり、中原中也ももちろんその未知の一人であった。しかしこの詞華集全体を通じて、私の選択はきわめてはっきりしていて、中也はのっけから、私にとって特別の詩人になってしまった。三好達治も、草野心平も、丸山薫も、北川冬彦も、その他の詩人たちも、それぞ
れにあたらしい詩境の提示であったが、結局それらは、いわば私の知的好奇心を触発する、というような印象しか残さず、歳月の波に洗われると、急速に記憶から去ってゆき、今日、私は、中也の諸詩篇以外には、神保光太郎の「よと」を思い出すばかりである。(略)

 

同じ書誌によれば、このとき『現代詩集1』に収められた中也の詩は、神保光太郎選による合計29篇で、総題を『帰郷』とし、冒頭に「羊の歌Ⅰ(祈り)」を置き、『山羊の歌』から19篇、『在りし日の歌』から10篇をえらんだものであった。分量的に制約があったとはいえ、『山羊の歌』の比重の大きいこの構成には、編者もまた詩人であった神保の個性をはっきり反映していたはずである。

 

私がその後、『山羊の歌』および『在りし日の歌』の全貌を知ることを得たのは、昭和22年秋ごろ、大岡昇平編の創元選書『中原中也詩集』の発刊をまってのことであった。それで、その間に敗戦をふくむ20歳前後の数年にわたって、私にとっての中原中也のイメージとは、神保光太郎選による29篇によって形づくられていた、ということになる。
(※改行を加え、洋数字に変えました。傍点は‘ ’で表示しました。編者。)

 

 

平井啓之の回想はまだまだ続きますが
今回はここまで。

 

平井啓之は
詩人・神保光太郎が編集した「現代詩集」で
初めて現代詩を知った昭和初期の
若者たちの中の一人でした。

 

(つづく)

 

 

 


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2012年9月10日 (月)

「中原中也が訳したランボー」のおわりに・その6

「ランボオ詩集」を実際に手にしたものの
「在りし日の歌」を手にすることはなかった不運な詩人――。

詩人の急逝を
だれも予想することが出来なかったのは当たり前でしたが
詩人の訃報の陰に
「ランボオ詩集」への評価は隠れる形になり
追悼記事の中に
詩人の全仕事への評価として相対化されることになったのです。

小林秀雄と春山行夫の「ランボオ詩集」への書評は
おそらく、詩人の死の前に編集者の手に渡っていて
編集も最終段階を過ぎていたものと推測されます。

「没後評価」が
こうして、詩人・中原中也の評価の大きな比重を占めることになります。
そのはじまりが、追悼文でした。

中原中也が亡くなった昭和12年10月22日以後、
昭和12年11月の「紀元」をはじめに
12月に、「文学界」「四季」「手帖」と「コギト」
13年に「文芸」と、
関係のあった雑誌・同人誌が
次々に追悼号を出し、追悼記事を載せました。

各誌に寄せられた追悼記事のうちわけは、
以下の通りです。

「紀元」(12年11月)は、隠岐和一、片山勝吉、山之口獏の追悼文、
「文学界」(12年12月)は、島木健作、阿部六郎、草野心平、菊岡久利、青山二郎、
萩原朔太郎、河上徹太郎、関口隆克の追悼文、小林秀雄、菊岡久利の追悼詩、
「四季」(12年12月)は、佐藤正彰、関口隆克、内海誓一郎、阪本越郎、丸山薫の追
悼文、
「手帖」(12年12月)は、青山二郎、小林秀雄、佐藤正彰、西川満、平井弥太郎、野
田誠三の追悼文

「歴程」は、やや遅れて14年4月に
菊岡久利、草野心平、高村光太郎、藤原定、岡崎清一郎の追悼文を特集しました。

このほかに、「コギト」は、阪本越郎の追悼詩、
「文芸」は、高橋新吉の追悼文、
13年の「文芸」は、横光利一の「覚書」を掲載しました。

「在りし日の歌」は、
昭和13年4月の発行になりますから、
これに関する発言は
追悼をかねたものとなり
すべてが没後評価ということになります。

評者は、第2詩集「在りし日の歌」への批評や感想を
追悼文の中で表現せざるを得ない状態でした。
批評や感想や鑑賞が
詩人の死を悼む記述と切り離しては書けなかった場合が多かったのです。

昭和42年(1967年)は、中原中也没後30年の節目ですが
角川書店の「中原中也全集」がこの年に刊行開始されました。
この年までの「没後評価」の歴史が
「中原中也年譜」(吉田凞生編)の一部に概観されていますから
それを見ておくことにしましょう。

昭和13年(1938年) 没後1年

4月、「在りし日の歌」が創元社より刊行された。
7月、「山口県詩選」(白銀白新書店)に「除夜の鐘」など4篇が収録された。

昭和14年(1939年) 没後2年
「現代詩集1」(河出書房)に「サーカス」など29篇が収録された。

昭和16年(1941年) 没後4年
2月、「歴程詩集」(山雅房)に「閑寂」など7篇が収録された。

昭和22年(1947年) 没後10年
8月、「中原中也詩集」が大岡昇平による年譜、解説を付して創元社より刊行された。

昭和24年(1949年) 没後12年
2月、「ランボオ詩集」が大岡昇平の解説を付して書肆ユリイカより刊行された。

昭和26年(1951年) 没後14年
4~6月、「中原中也全集」全3巻が創元社より刊行された。

昭和35年(1960年) 没後23年
3月、「中原中也全集」全1巻が角川書店より刊行された。

昭和40年(1965年) 没後28年
6月、湯田温泉の井上公園に詩碑が建てられた。小林秀雄の筆になる「帰郷」の一節、
大岡昇平による碑文が刻まれている。

昭和42年(1967年) 没後30年
10月、「中原中也全集」全5巻、別巻1(角川書店)の刊行が始まった。同全集の本巻
は昭和43年に完結、別巻は昭和46年に刊行された。

 *

 ランボオ詩集
 後記
 
 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
 語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
 ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
                                      〔昭和十二年八月二十一日〕

※角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

 *

 在りし日の歌
 後記

 茲(ここ)に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序(つい)でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既(すで)に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも
云つておきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。

 扨(さて)、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
 さらば東京! おゝわが青春!
                                 〔一九三七、九、二三〕

※角川書店「新編中原中也全集 第1巻 詩Ⅰ・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

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2012年9月 9日 (日)

「中原中也が訳したランボー」のおわりに・その5

15年戦争が進み、一般に外国語を知る者が減ったので、当時の若者はみな小林、中原訳でランボーを読み、「季節が流れる、お城が見える」と歌ったのである。

――と、大岡昇平が記しているように
中原中也訳の「ランボオ詩集」は好評裡に迎えられ
売れ行きも好調でした。

戦時体制下であり
個人の読書体験、ランボー体験ということでもあるので
実態はなかなか見えにくいものでしたが
中原中也という詩人の全仕事が評価される中で
「中原中也が訳したランボー」は
相対的に客観的に評価されていきます。

「中原中也必携」(別冊国文学‘79夏季号、学燈社)に
「年表・中原中也への同時代評」(稲井牧子)がありますから、
ここから「ランボオ詩集」または「中原中也のランボオ」への言及を
これまでに紹介したものと一部重複しますが
ピックアップしておきます。

昭和12年(1937年)

9月、『ランボオ詩集』(野田書房)刊行。
 本邦唯一の完訳韻文詩集として好評、12月には3刷される。

11月 小林秀雄「中原中也『ランボオ詩集』」(「文学界」、のち『小林秀雄全集2』所収)
ランボオの翻訳は非常に困難だ、ほとんど全部が初めて邦訳を見たもので、ずいぶん骨の折れた仕事であっただろうと思う、と訳詩集を紹介している。

11月 春山行夫「中原中也『ランボオ詩集』」(「新潮」)
詩人の手になったものとは思えず「コップのように美しいイメジ」など浮かびようもない、ランボオもひどいことになった、と中原の訳し方を批判している。

12月 「中原中也追悼特集」(「文学界」、のち復刻版「『文学界』中原中也追悼号」昭
51・4、冬至書房所収)

萩原朔太郎「中原中也君の印象」(のち『萩原朔太郎全集9』、『現代詩読本』所収)
個人的には浅いつきあいだった、よくは似ているがランボオが「透徹した知性人」であったのに対し、中原は「殉情な情緒人」であり、それが最も尊いエスプリだった、と言っている。

12月 「中原中也追悼特集」(「四季」、のち復刻版「『四季』追悼号」昭和43・1、冬至書房所収)

阪本越郎「中原中也を憶う」
中原の詩的風格は、詩人より小説家・音楽家に認められていたようだ、ランボオの自我の拡充にほとんど達したように思われる、また、彼のキリスト教は聖書を読み、一人で泣き、祈るものだった、と言っている。

12月「中原中也追悼号」(「手帖」)

西川満「頑是ない歌―詩人中原中也氏を悼む」
生前の彼に会ったことはないが、作品からわが身近くにあたたかな氏の魂を感じた、とランボオを通して知った中原を書いている。

野田誠三「中原中也氏の死」
出来上がった『ランボオ詩集』を中原は大変喜び、これは旬日ならずして手持品は全部売り切れ、追加注文や直接買いに来た人に応じきれず、たいへんな騒ぎだった、と言っている。

昭和13年(1938年)

4月「在りし日の歌」(創元社)刊行。

第2詩集「在りし日の歌」を
詩人は手にすることができませんでした。
そのことを思えば
「ランボオ詩集」を手に取ったときの詩人の喜びようが
目に見えるようです。

自選作品集として完結しながら
実際の本を見ないで逝った詩人への評価は
こうして「没後評価」という形になり
詩人自ら、この没後評価をも知らないことになります。

「山羊の歌」(昭和9年)の詩人として
次第に評価が高まる中で
「ランボオ詩集」を刊行し
第2詩集「在りし日の歌」を畳みかけるように出す段になって
詩人・中原中也は急逝したのですから、
「評価という地平」で、
「没後」は「生前」と連続するというパラドクスのようなことが起こりました。

「ランボオ詩集」は
「ランボオ詩集」として評価されるというよりも、
中原中也の全仕事の中で評価される形にならざるを得なかったのです。

戦後になって、
大岡昇平の「中原中也伝―揺籃」(昭和24年)が発表されますが
これと同じ年に「ランボオ詩集」が書肆「ユリイカ」から出版されているのは
「中原中也が訳したランボー」への評価が
戦時下から戦後へ、脈々と継承されていたことを示すものの一つです。

 *

 ランボオ詩集
 後記
 
 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
 語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
 ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
                                      〔昭和十二年八月二十一日〕

※角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

 *

 在りし日の歌
 後記

 茲(ここ)に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序(つい)でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既(すで)に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも
云つておきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。

 扨(さて)、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
 さらば東京! おゝわが青春!
                                 〔一九三七、九、二三〕

※角川書店「新編中原中也全集 第1巻 詩Ⅰ・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

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2012年9月 5日 (水)

「中原中也が訳したランボー」のおわりに・その4

中原中也訳「ランボオ詩集」への
肯定的評価となると、

15年戦争が進み、一般に外国語を知る者が減ったので、当時の若者はみな小林、中原訳でランボーを読み、「季節が流れる、お城が見える」と歌ったのである。

――と、やはりこれも大岡昇平が記すように
ランボーの詩が実際に多くの人に読まれた、という事実の中に表われますが
書評としては小林秀雄が「文学界」昭和12年11月号に
「中原中也訳『ランボオ詩集』」のタイトルで寄せたのがあるだけです。

小林秀雄の書評は

中原君の訳は散文詩を除いた他の詩殆ど全部であり、又その殆ど全部が初めて邦
訳を見たものである。づい分骨の折れた仕事であっただろうと思う

――などという内容でした。

「新潮」11月号に春山行夫が書いた書評もこれと全く同じタイトルで、
「ランボオ詩集」の書評は
昭和12年末に現われたこの2点だけでした。
以後も書評として真っ向から論じられることはなく
時評や座談会などの中で話題になるほどのものでしたが
詩集そのものの売れ行きは好調だったのです。

昭和11年、2・26事件、
昭和12年、満州事変、
昭和14年、国家総動員法成立、
昭和15年、大政翼賛会発足と戦争の足音は高くなっていき
昭和16年、ついに太平洋戦争が始められました。

「ランボオ詩集」は、その後どのように読まれたのか――。
大変、興味深いことですが
いま、それを記すほどの材料がありません。

中原中也は、
「ランボオ詩集」を発行して直ぐに
かねて準備していた「在りし日の歌」の編集を終え
清書原稿を小林秀雄に預けます。
これが、9月26日(推定)のことですが
10月5日に発病し、10月22日に亡くなってしまいます。

小林秀雄に預けられた「在りし日の歌」は
詩人没後1年の昭和13年(1938年)4月に出版されます。

「ランボオ詩集」の「後記」に記された「8月21日」、
「在りし日の歌」の「後記」に記された「9月23日」。

二つの詩集の「後記」は
1か月も経たずして書かれました。
そして、この1か月後に詩人は死亡しました。

この機会に
二つの「後記」を同時に読んでおきましょう。

 *

 ランボオ詩集
 後記
 
 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
 語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
 ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
                                      〔昭和十二年八月二十一日〕

※角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

 *

 在りし日の歌
 後記

 茲(ここ)に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序(つい)でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既(すで)に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも
云つておきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。

 扨(さて)、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
 さらば東京! おゝわが青春!
                                 〔一九三七、九、二三〕

※角川書店「新編中原中也全集 第1巻 詩Ⅰ・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

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2012年9月 4日 (火)

「中原中也が訳したランボー」のおわりに・その3

中原中也訳「ランボオ詩集」の
内容への評判はどうだったかを見ておきましょう。
こちらも、

 

春山行夫の書評(「新潮」昭和12年11月号)のような否定的なものもあったが、小林秀雄が「文学界」11月号で書評し、概して好評で、よく売れたらしい。その翻訳は今日の眼から見れば満足なものではない。春山の批判はその頃出始めたランボー=シュルレアリスト説に立つもので、「詩人の手になったものとは到底想像もつかない」と書いたが、そう書いた人間は詩人の手になったものとは想像もつかない詩を書いていた。

 

――と、大岡昇平が記したように、否定的な批評も存在しました。

 

 

否定的な批評は
「ランボオ詩集」に特定すれば
そう目立ったものではありませんでしたが
「ランボオ詩集」が発行される前から
「山羊の歌」の詩人への「否定の文脈」という流れがあり
その一部を形成するのが金子光晴でした。

 

そこのところを、
北川透が「ユリイカ」の「中原中也特集」(2000年6月号)で
少しばかり触れているところを読んでみれば……。

 

最初に『山羊の歌』を一刀両断に切り捨てたのは、金子光晴の「文芸時評」(『日本詩』昭和10年4月号)だった。まず、『山羊の歌』の装丁を立派だとした上で、ほめようと思えばいくらでもほめられるが、それだけのことで、《からみついてこない》し、知らん顔で素通りも出来る、《アマチュアクラブの詩人にすぎないこんなふうな詩人が、いか
に純粋づらして横行することよ》と書いている。具体的なことは何も言わないのだから、これは悪口に近いが、自分たちに《からみついてこない》というのは、左翼的な立場の詩人が共通にもっていた印象だろう。

 

――とあります。

 

金子光晴が属していた潮流などというものがあったかどうか
金子光晴を左翼的な立場の詩人とみなしているようですが
プロレタリア系の詩人の潮流なら
詩壇を二分するほどの勢力でしたから
金子のような考えがその詩人たちの共通の考えであるとすれば
中原中也がいかに居心地が悪かったかを
想像することができようというものです。

 

 

「否定の文脈」のもう一つの流れとして
北川透があげるのがモダニズムの春山行夫の発言です。
モダニズムといえば
プロレタリア系とともに詩壇の一大勢力です。

 

そのモダニズムの論客でもあった詩人である春山行夫の発言を
北川透は大岡昇平とは異なる角度で
やや詳しく取り上げたうえで批判していますから、
これを読んでおきますと……。

 

中也の詩集ではないが、ランボー翻訳について、春山行夫が《一読してランボオもひどいことになつた》と慨嘆していることはよく知られていることだろう。それは「中原中也訳『ランボオ詩集』」(「新潮」昭和12年12月号)という文章だが、さきの慨嘆に続けて《中原氏の訳だが、文語と口語、雅語と俗語、全くの無秩序で、これがいやしくも詩人の手になつたものとは到底想像もつかない。訳詩の困難なことは重々承知はしてゐるが、これでは全くの下書き、すくなくともランボオの「コップのように美しい」イメジなど、まるで浮びようもない》と述べている。

 

これはモダニズムの側からのほとんど嘲笑に近いことばだが、しかし、春山の尊大な批判は少しも自明ではない。翻訳の質自体をとってみても、今日では、小林との共同翻訳の性質が明らかになってきているし、決して軽んじられるべきものではない。

 

また、戦前の詩のレベルにおいて、文語と口語、雅語と俗語が混在することは、混在しないことに対して、先験的な優位を少しも保証するものではない。

 

――などとあります。
(※「行アキ」を加えてあります。編者。)

 

 

金子光晴にしても春山行夫にしても、
北川透の記すように
「悪意」や「嘲笑」に近い発言ですし、
80年近い歳月を経た現在読み返してみて
ピントが外れていることは明きらかです。

 

「ランボオ詩集」を批判した春山行夫については、
「文語と口語、雅語と俗語、全くの無秩序」と指摘しているところに
中原中也訳の魅力の一つはあり、
「コップのように美しい」イメージを破壊してしまうところに
ランボー詩の魅力の一つがあるということは
今日の常識であることを言っておかなくてはなりません。

 

(つづく)

 

 

 


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2012年9月 3日 (月)

「中原中也が訳したランボー」のおわりに・その2

「中原中也が訳したランボー」を終えるのに際して、
中原中也の詩が
早い時期からフランス詩を受容して作られていた、ということの再確認とは別に
もう一つ、昭和12年9月15日に発行された「ランボオ詩集」が
売れ行き好調だったことには
どうしても触れておかないわけにいきません。

『ランボオ詩集』は彼の死の直前の、12年9月、野田書房から出た。書房主人野田誠三は半ば道楽の犠牲的出版と自称していて、印税としては、またまた本を50部貰っただけである。「日記」によれば、9月15日上京発送、25日には林房雄、川端康成、深田久弥の家に自分で届けている。これは発病の10日前である。彼はこの訳著の評判を知らずに死んだ。

――と、大岡昇平が書いているところの「評判」のことですが、
「評判」には、
内容に対する評価(毀誉褒貶)と、書物の売れ行きという二つの側面があります。

まずは、売れ行きのことですが、
「ランボオ詩集」発行までの経過を
中原中也の日記から拾っておきます。

(8月11日) Mercredi
野田書房より「ランボオ詩集」の初校来る。
わりつけが目茶々々なので閉口。
(略)
(8月23日) Lunndi
午前1時起床。「ランボオの手紙」(版画荘)を読了。
(8月25日) Mercredi
ランボオ詩集三校発送。
(略)
(8月28日) Samedi
(略)
ランボオ詩集四校発送。(責任校了とす。)
どんな本になることやら、俺は知らない。「永遠の中耳炎氏」即ち野田誠三がやることだ。俺は知らない。奴は校正刷を送る以外、何を問合せても一度の返事もしない。虫のいい奴!
(9月15日) Mercredi
(略)
上京。野田書房よりランボオ詩集発送。
青山を訪ね、夜更け帰る。坊やまだ熱あり。
(9月25日)Samedi
(略)
林、深田、川端三先生に「ランボオ詩集」を届く。

野田書房に「ランボオ詩集」の出版を依頼したのは8月とされていて
相当なスピードで作業が進められたらしいのですが、
なぜ、そのように急がれねばならなかったのか
大きな謎です。

「ランボオ詩集」の「後記」末尾に
「昭和12年8月21日」の日付けが記されていますから
校正の途中で「後記」原稿を入れ、
3校、4校と進めて、4校で「責任校了」としたというのにも
急いでいる感じが表れていますが、
とにかく、9月15日には、印刷された「ランボオ詩集」を手にしたのです。

日記に、「ランボオ詩集」を手にした感想は記されず、
9月25日に「林、深田、川端三先生に「ランボオ詩集」を届く。」の記述があるほかは、
9月17日付け母フク宛の書簡に
「ランボオ詩集」出ました。お金の代りに50部呉れましたので方々へ送りました。」とあるだけです。

発行日直後(当日)の日記に、

上京。野田書房よりランボオ詩集発送。
青山を訪ね、夜更け帰る。(9月15日)

――の記述があるだけということになり、
10日後(9月25日)に、
「林、深田、川端三先生に「ランボオ詩集」を届く。」と書いて以降、
「ランボオ詩集」の一語も日記に現れることはなく、
この年の10月22日に詩人は急逝してしまいます。

死後、詩人にゆかりのあった雑誌が次々に追悼特集を出しましたが
野田書房社主・野田誠三は「手帖」第16号に
「中原中也の死」と題して追悼文を寄せています。
「昭和12年10月28日」の日付けのあるこの追悼文の中に
「ランボオ詩集」の発行と売れ行きのことが書かれています。

中原中也の死
        野田誠三

(略)
 今から思えば、やっぱり虫が知らせたのであろう。八月、突然、僕のところへ来られて、「ランボオ詩集」を本にして呉れ、もう随分、長いこと原稿は持っていたんだけれど、――と大変、本にすることを急いでおられた。従ってご承知のように「手帖」15号で予告もなしに刊行を読者諸氏にお知らせしたのだけれど、本が出来て、中原氏は「ああ、気持のいい本になった。これでやっと肩の重荷がおりたようだ。」と大変よろこんでおられた。自分の作った本を、著者に喜んでいただく位うれしいものはないので、私も共に大いに喜んだ。
 
 出してみると俄然、凄い売行だった。何日ならずして、手持品は全部売切、取次店からは追加注文が、しきりなしに来る。手元に一冊も本がないので、書房用の保存版から、自分のために残しておいた一冊も出してしまい、取次店に頼んで市内の売れてない店から引上げて来たものを注文に廻すという騒ぎだった。熱心なお客様は、市内の小売店どこを見てもないので、わざわざ遠い所を直接おいで戴いて、ついに無駄足をさせてしまった恐縮さも語り草の一つ。

 名実ともに慶賀すべきこの「ランボオ詩集」が、はかなくも中原氏最後の本になろうとは!(略)

(※「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇より。「新字・新かな」表記に直しました。「行アキ」を加えてあります。編者。)

発行部数がそれほどでなかったにせよ
小さな出版社の「嬉しい悲鳴」が伝わってきます。

「ランボオ詩集」は
同年11月18日に再版、
12月25日に三版が発行されたそうです。

(つづく)

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2012年9月 2日 (日)

「中原中也が訳したランボー」のおわりに

「中原中也が訳したランボー」のタイトルで
ランボーの詩を読んできましたが
一番はじめには、
「上田敏全訳詩集」(岩波文庫)に
ランボーの「酔ひどれ船」が訳出された、という「事件」があり、
中原中也が富永太郎や小林秀雄らを通じて初めて知った
ランボーのこの長詩「酔ひどれ船」を筆写した、という「事件」があり、
どうやら、後に小林秀雄が明らかにする「ランボーという事件」は
中原中也ばかりでなく、
あちこちで、様々な形で、色々な人に……
降りかかった「事件」であることを想像させるに十分な
(そして、2012年の今の今も続いている!)
言ってみれば、「巨大なマグマ」のようなムーブメントであることを
うっすらと予感させるものだった――という発見、
これもこのブログがぶつかった「事件」でありますから、
なんとか、この「事件」に面と向かっておこう
できるなら「事件」を読み解いてみようとして
とるものもとりあえずに
「ランボー&ランボー」というタイトルで出発した経緯があります。

これまでにおよそ1年かかりました。
中原中也がとらえたランボーの輪郭が
ようやく見えはじめた、といったところでしょうか。

「山羊の歌」や「在りし日の歌」や
生前発表詩篇や未発表詩篇や……
中原中也の創作詩の
ほんの一部を除いた大部分の詩(それは京都時代に作られたダダ詩を除いた詩ということです)が、
ランボーをはじめとして、ベルレーヌ、ラフォルグ、ネルバルらの
フランス詩の翻訳と平行して作られていた、という事実に
あらためて新鮮な驚きを覚えますが
それは時間をおいてみると
衝撃に変化していきます。

よくよく考えてみると
ダダ詩だけを書いていた詩人は
ランボーやベルレーヌ、ラフォルグ、ネルバルといった
フランス詩人の翻訳をはじめたのと同じ時期に
ダダ詩からの脱皮を図っていた、ということになります。

簡単に言えば、
フランス詩の翻訳を通じて
中原中也は自分の創作詩を作っていった、ということになります。

このことの中に
中原中也を見舞った「ランボーという事件」があったわけですが
この事件を通過した中原中也の詩を
どれほど読んできたかというと
かなり曖昧な態度であったことを認めざるを得ません。

そういう意味で
中原中也の詩は十分にはまだ読まれていない!
――という衝撃になります。

(つづく)

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2012年9月 1日 (土)

中原中也・翻訳のすべて(ランボー以外の詩人たち)

中原中也が訳したフランス語の著作物は、
「中原中也全集 第3巻 翻訳」に全てが収録されていますから、
その全容を見ることができます。

ここで、同書の目次を見て、
全容を眺めておきましょう。
※「ランボオ詩集」については、原典の第2次ベリション版「ランボー著作集」との対比を示していますが、これは目次通りではありません。

まず、詩と散文に大別され
次に、生前に発表されたか、未発表かにそれぞれが分けられます。
生前発表は、詩集ごとか、単発をまとめて生前発表翻訳詩篇に、
未発表翻訳詩篇は、
残された草稿の形によって細かく分類され、
制作順に整理されています。

【詩】

ランボオ詩集《学校時代の詩》

 1 Ver erart
 2 天使と子供
 3 エルキュルとアケロュス河の戦い
 4 ジュギュルタ王
 5 Tempus erart

ランボオ詩集

<初期詩篇Premiers vers>

「感動」Sensation
「フォーヌの頭」Tête de Faune
▲「ソネット」Sonnet
「びつくりした奴等」Les Effarés
「谷間の睡眠者」Le Dormeur du val
「食器戸棚」Le Buffet
「わが放浪」Ma Bohème
●Les Douaniers
「蹲踞」Accroupissements
「坐つた奴等」Les Assis
「夕べの辞」Oraison du soir
●Chant de guerre parisien
●Paris se repeuple
「教会に来る貧乏人」Les Pauvres à l’église
「七才の詩人」Les Poètes de sept ans
「盗まれた心」Le Cœur volé
「ジャンヌ・マリイの手」Les Mains de Janne-Marie
「やさしい姉妹」Les Sœurs de charité
「最初の聖体拝受」Les Premières Communions
「酔ひどれ船」Bateau ivre
「虱捜す女」Les Cherecheuses de poux
「母音」Voyelles
「四行詩」Quatrain
「烏」Les Corbeaux

<飾画篇Les Illuminations>

▲「眩惑」Vertige
「静寂」Silence
「涙」Larme
「カシスの川」La Rivière de Cassis
「朝の思ひ」Bonne Pensée du matin
「ミシェルとクリスチイヌ」Michel et Christine
「渇の喜劇」Comédie de la Soif
「恥」Honte
●Mémoire
「若夫婦」Jeune ménage
「忍耐」Patience
「永遠」Éternité
「最も高い塔の歌」Chanson de la plus haute Tour
▲「ブリュッセル」Bruxelles
「彼女は埃及舞妓か?」Est-elle almée?
「幸福」Bonheur
▲「黄金期」Age d’Or
「飢餓の祭り」Fêtes de la Faim
「海景」Marine
●Mouvement

<追加篇Appendice>

「孤児等のお年玉」Les Étrennes des orphelins
●Le Forgeron
「太陽と肉体」Soleil et Chair
「オフェリア」Ophélie
「首吊人等の踊り」Bal des pendus
「タルチュッフの懲罰」Le châtiment de Tartufe
「海の泡から生れたヴィナス」Véus anadyomèn
「ニイナを抑制するものは」Ce qui retient Nina
「音楽堂にて」A la musique
「喜劇・三度の接唇」Comédie en trois baisers
「物語」Roman
「冬の思ひ」Rêvé pour I’hiver
「災難」Le Mal
「シーザーの激怒」Rages de César
「キャバレ・ヹールにて」Au Cabaret-Vert
「花々しきサールブルックの勝利」L’Éclatante Victoire de Sarresbruck
「いたづら好きな女」Le Maline
●Mes petites amoureuses
●L’Homme juste

<附録>
 失はれた毒薬

<後記>

※目次にフランス語タイトルはありません。●は未訳、▲は未収録で、目次に記載はありません。

生前発表翻訳詩篇

 アルテミス ネルヴァル
 レ・シダリーズ ネルヴァル
 セレナード ネルヴァル
 未来の現象 マラルメ
 プチ・テスタマン抄 ヴィヨン
 デルフィカ ネルヴァル
 黒点 ネルヴァル
 饒舌 ボードレール
 暦 ジッド
 死人の踊 ジッド
 神は、私の生れる時…… リード
 誠意の女 デボルト=ヴァルモール
 サアディの薔薇 デボルト=ヴァルモール
 娘と山鳩 デボルト=ヴァルモール

未発表翻訳詩篇

ノート翻訳詩(1929年―1933年)

 失はれた毒薬 ランボー ※現在では、ジェルマン・ヌーボーの作と判明しています。編者。
 ソネット ランボー
 谷の睡眠者 ランボー
 プロローグ レッテ
 Never More ヴェルレーヌ
 美しき娘の碑銘 ルセギエ
 Ⅳ(われ等物事に寛大でありませう) ヴェルレーヌ
 Ⅴ(たをやけき手の接唇くるそのピアノ) ヴェルレーヌ
 木馬 ヴェルレーヌ
 デルフィカ ネルヴァル
 黒点 ネルヴァル
 セレナード ネルヴァル
 レ・シダリーズ ネルヴァル
 去にし代の婦人等の唄 ヴィヨン

翻訳詩ファイル(1929年―1933年)

 (彼女は帰つた) ランボー
 ブリュッセル ランボー
 彼女は舞妓か? ランボー
 幸福 ランボー
 IntèrmedeⅡ カーン
 黄金期 ランボー
 航海 ランボー

翻訳草稿詩篇

 眩惑 ランボー
 序曲 ヴェルレーヌ
 自然への供物 ノアイユ
 墓碑銘 ヴィヨン
 巴里 コルビエール
 えゝ? コルビエール
 天使 レールモントフ
 詩人の刻限 カルコ
 仲間 カルコ
 謝肉祭の夜 ラフォルグ
 でぶつちよの子供の歌へる ラフォルグ
 はかない茶番 ラフォルグ
 夜曲 クロ
 子供の水車 グランムージャン
 鐘と涙 デボルト=ヴァルモール
 矜持よ、恕せ! デボルト=ヴァルモール
 序詩 ボードレール
 祝詞 ボードレール

【散文】

生前発表翻訳散文

 トリスタン・コルビエール ヴェルレーヌ
 マックス・ヂャコブとの一時間 ルフェーブル
 ヴェルレーヌ訪問記 レッテ
 オノリーヌ婆さん ルナール
 ヂュル・ルナール日記抄 ルナール
 ボオドレエル リヴィエール
 ポーヴル・レリアン ヴェルレーヌ
 ランボー書簡1 ドラエー宛
 ランボー書簡2 ヴェルレーヌ宛
 ランボー書簡3 ヴェルレーヌ宛
 ランボー書簡4 バンヴィル宛

未発表翻訳散文

 オーレリア ネルヴァル
 アルテュル・ランボオ ヴェルレーヌ
 ルイーズ・ルクレルク ヴェルレーヌ
 ボオドレエルの天才 モークレール

以上が
詩人・中原中也の訳業のすべてです。
専門の翻訳家でないにもかかわらず
エネルギーのかけ方が並大抵のものではないことが
伝わってきます。

 

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