焼け跡世代が読んだ中原中也・長田弘の場合
長田弘は1939年生まれですから
北川透(1935~)よりもさらに4年ほど若い世代になります。
いわゆる「焼け跡世代」に属しますが
中原中也を30歳を過ぎて初めて読み
30歳以前に初めて中原中也を読んだ人との違いを強く意識する詩人です。
◇
わたしは、戦後現代詩を読むことからはじめて、詩への具体的な希望とかかわりを否応なく択びとってきたひとりだ。つまり、中原中也についていえば、わたしは中原中也から詩に‘入学’したのではなかったから、中原中也を‘卒業’することがなかった。
そのためにかえって、かつてはおれも中原はよく読んだものだよ、というふうな口ぶりで中原中也を‘卒業’したもののように語る世俗の前垂れのかかった文章に、わたしはいまどのようにもなじむことができない。
そして実際わたしは、ひとがその青春期を脱けだすことによって中原の詩を‘卒業’してゆくことを自称するのとすれちがうように、むしろじぶんじしんの青春との訣れにおいてはじめて中原中也の詩を読んだのであった。
◇
角川書店版「中原中也全集」(いわゆる旧全集)の「月報Ⅵ」にこのように記された
自分自身の青春との訣れ「において」というのは
「の中で」や「と共に」というのよりも
もっと密接な関係を示していて
青春との訣別「と同時に起こった」
個人的体験であったことを示しているようです。
長田弘は
以上の記述に続けます。
◇
わたしの場合、青春との訣れ(もしそう名ざせるものがあれば、としてだが)は、わたしたちの初めての子どもが生まれるまえに死んでしまうという、ごくささやかではあるが、きついできごとのかたちをとった。
この個人的な体験のにがい重量をとにもかくにもじぶんたちだけで息をつめるようにしてじっともちこたえねばならなかったときに、わたしは、ずっと以前に吉野弘の文章のなかでみつけたある短かい詩のフレーズを、そのときじぶんにもっともひつような労働歌のフレーズのように突然おもいだしたのだ。中原中也の「月の光」一、二である。
◇
「死児の歌」と題されたこの文の由来が
ここにきて明らかになります。
「月報Ⅵ」の発行日は
昭和46年(1971年)5月20日です。
(つづく)
*
月の光 その一
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
お庭の隅の草叢(くさむら)に
隠れてゐるのは死んだ児だ
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
おや、チルシスとアマントが
芝生の上に出て来てる
ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
*
月の光 その二
おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる
ほんに今夜は春の宵(よひ)
なまあつたかい靄(もや)もある
月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる
ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない
芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます
おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間
森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる
※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。
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