戦中派が読んだ中原中也・平井啓之の場合2
私の前後の世代、つまり戦中派世代に属する中也愛好者の多くにとっても、事情は同じであったと思われる
――と、サルトル研究で名高い学者・平井啓之(ひらいひろゆき)は続けます。
「事情は同じ」というのは、
戦中派はみな神保光太郎選の「現代詩集」で現代詩を知った、ということを指します。
◇
三高で私の2年後輩であった花木正和は、その『中原中也論考』のなかで、彼が「中原中也として軍服を着たつもりであった」と形容する私たちの共通の友人宮野尾文平(※)に、『山羊の歌』の詩篇を見せた思い出を記している。
昭和19年のある朝、当時航空通信学校で訓練中の宮野尾がひょっこり京都の下宿に花木を訪ね、花木は誰かから借りて筆写していた『山羊の歌』を宮野尾に見せるのであるが、やがて半年後、沖縄雷撃隊の一員として爆死する宮野尾は、「それらの詩篇を、オアシスにめぐりあった旅人のように目をかがやかせてむさぼり読んだ」。
この挿話は、戦中派の世代、殊に私や宮野尾のような学徒出陣組にとって、中原中也の詩がもっていた痛切な意味をあざやかに物語っている。宮野尾は三高で花木と同期で、私とは文芸部の仲間であり、昭和17年9月、繰上げ卒業で私が去ったあとを受けて、文芸部のキャップとなった。
当時は今日とはちがって、戦時下のひっぱくした状勢下に同人雑誌やクラス雑誌を出すことはまったく不可能で、年3回発行される校友会雑誌『嶽水』の文芸欄が、文学好きの青年たちのただ一つの発表機関であった。それであの戦時下にあっても、文学的な表現意欲をもつ少数の学生たちは、ほとんど文芸部の周辺に集っていたと言えるだろう。中也の詩と梶井基次郎の散文、それに、小林秀雄訳を通じてのランボー、および米川訳のドストイェフスキー、を加えれば、当時の私たち、つまり三高文芸部の青年たちが醸していた文学的気圏の構成要素はほぼつくされるだろう。
(青土社「テキストと実存」所収「わが中也論序説」より)
◇
平井啓之は、ここで(※)後注を付して
宮野尾文平について紹介する中で
この「わが中也論序説」の「3」を
「中原中也を継ぐもの」として書き継ぐ意志のあったことを記述し、
書物の構成上から断念したことを明らかにしています。
「わが中也論序説」が書かれたのは1974年のことですから
宮野尾文平の作品や人物に関する言及は
狭い範囲でしか知られていませんでしたが、
インターネットが普及した今、
検索すれば作品「星一つ」を読むことができます。
三高校友会の雑誌「嶽水」第7号(1943年2月)に載った
「遠日」というタイトルの詩を
参考までに読んでおきましょう。
◇
遠日
――前だけを見てゐたんです
色彩は風に吹かれてみんな捨てた
無色の風景に
電信柱が一本立つてゐる
あの頃は
まだ廃家(くずれや)も美しかつた
あれから毎日歩いて来た
――随分と遠い道
蒼空がまるい
向日葵がまはる
約束はもう駄目になつた
肩に重たい同じ言葉が
――遠い道なんだきつと
今ははや
廃屋の柱も傾き
いつか
おぼつかない足もとになつた
けふ日も過ぎれば
石廊はうつろに響く
ほろほろと
ろんろんと
階段をもう下りてしまつた――
(つづく)
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