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2012年10月 2日 (火)

中原中也に出会った詩人たち・ひとまず終りに

作品が発表された、その時点その時点で
一般読者の中に中原中也と出会った人々が生まれてきました。
出会った人とは
言い方を変えれば、一人のファンになったということでもあります。
一般読者ではなく
プロフェショナルの、学者、詩人、批評家の出会いも
各所に記述されました。

 

 

黒田三郎(1919~1980)
平井啓之(1921~1992)
中村稔(1927~)
秋山駿(1930~)
大岡信(1931~)
北川透(1935~)
長田弘(1939~)
清水昶(1940~2011)

 

これらの人々は
中原中也ファンのラインアップといって過言ではありません。

 

 

格別に意識したわけではないのですが
中原中也とのさまざまな出会いを
同時代者(中原中也と面識のある無しに関係なく)ではなく
中原中也没後に詩作品を通じて出会った人の発言を
手近にある書物をめくってランダムにひろっていると
このようになりました。

 

 

ほかに、
「わたしは、このようにして中原中也と出会った」と
直接的に表現しないプロフェショナルがあまた存在します。
作品論・作品批評や詩的言語を通じてしか
個人的経験、私的体験としての出会いを記述しない傾向が普通なのです。

 

ですから、これらはほんの一部の例です。
「派」とか「世代」とかと見出しをつけましたが
それも便宜的なものです。

 

そもそも、世代によって
中原中也との出会いが異なるのかどうかもわかりませんし
特徴があるのかどうかもわかりません。

 

仮に、詩を読む行為が
世代別に特徴をもつものであったとしても
それは、傾向に過ぎず
個々の出会いは個々以外のものではないに違いありません。

 

にもかかわらず
詩の読まれ方には
時代の空気や状況などの
個々の体験以外のものが反映されていることも
見てきた通りです。

 

 

戦無派とか団塊世代とかの戦後生まれの
中原中也との出会いはどのようだったのでしょうか?

 

新人類といわれた世代は?
団塊ジュニアたちは?
ゼロ年代は?
……

 

そして
現代の中学生たちは
どのように中原中也と出会うのでしょうか?
出会っているのでしょうか?

 

とりわけ
インターネットとともに育っている世代が
中原中也とどのように出会うのかが
興味深いものです。

 

 

 

 

詩的履歴書。――大正4年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行(まさつら)が御暇乞(おいとまごひ)の所、「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。
大正7年、詩の好きな教生に遇(あ)ふ。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。
大正9年、露西亜詩人ベールィの作を雑誌で見かけて破格語法なぞといふことは、随分先から行なはれてゐることなんだなと安心す。
大正10年友人と「末黒野」なる歌集を印刷する。少しは売れた。

 

大正12年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
大正13年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正14年の11月に死んだ。懐かしく思ふ。
同年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。

 

大正14年、小林に紹介さる。
大正14年8月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。
大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた14行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。

 

昭和2年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。
同年11月、諸井三郎を訪ぬ。
昭和3年、父を失ふ。ウソついて日大に行ってるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧(むし)ろウソが明白にされたので過去三ケ年半の可なり辛(つら)自責感を去る。
同年5月、「朝の歌」及「臨終」諸井三郎の作曲にて発表さる。
昭和4年。同人雑誌「白痴群」出す。
昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

 

昭和7年、「四季」第二輯(しふ)夏号に詩3篇を掲載。
昭和8年5月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
同年12月、結婚。
昭和9年4月、「紀元」脱退。
昭和9年12月、「ランボウ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。
昭和10年6月、ジイド全集に「暦」を訳す。
同年10月、男児を得。
同年12月、「山羊の歌」刊行。
昭和11年6月、「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。

 

大正4年より現今迄の制作詩篇約700。内500破棄。
大正12年より昭和8年迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の12時頃迄歩くなり。

 

※「新編中原中也全集」第4巻・評論・小説より。
※読みやすくするため、改行(行空き)を加え、洋数字に変更してあります。編者。

 

 

 


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