「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」3
(前回からつづく)
「杉林」が「男」のシンボリックな表現であるとすれば
野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。
或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。
それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。
夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
背中にあった。
――は、「彼女」の「男の経験」が描かれているらしいことが見えてきます。
◇
そうとなればその経験とは
長谷川泰子が小林秀雄と暮らしはじめ
やがてその暮らしが破綻(はたん)して後も
女優への道を追い続けた生きざまがすぐに浮かんできます。
中原中也は長谷川泰子と小林秀雄との「奇怪な三角関係」の当事者なのですが
泰子の生きざまを「或る夜の幻想」で振り返ったのです。
それを「四季」に発表しましたが
丸ごとを「在りし日の歌」には収録しませんでした。
◇
「或る夜の幻想」の
1 彼女の部屋
3 彼女
――の収録を憚(はばか)ったのはそれなりの理由があるはずで
それは「奇怪な三角関係」を
ここにきて露出するまでもないと考えたからでありますが
「永訣の秋」のほかの詩との統一性を考えたときに
詩そのものの完成度に不満があったためでしょう。
特に「3 彼女」の最終連
夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
背中にあった。
――は鮮烈なイメージばかりはありますが
もう一つ通じにくく
一人よがりであることを詩人自ら判定したからでしょう。
これをもフロイドを援用して読むことができないわけではありませんが
詩人はそういう詩を選びたくはなかったに違いありません。
◇
こうして「或る夜の幻想」から
「或る男の肖像」が取り出されました。
結果は、贅肉のない
断片が生み出すリアリティーみたいなものが残って
想像力を駆り立てる名作になりました。
◇
「或る男の肖像」と
同じような経緯で生まれたのが
「村の時計」です。
(この項終わり)
*
或る夜の幻想
1 彼女の部屋
彼女には
美しい洋服箪笥があつた
その箪笥は
かわたれどきの色をしてゐた
彼女には
書物や
其の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた
それで洋服箪笥の中は
本でいつぱいだつた
2 村の時計
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた
その字板《じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた
近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた
それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた
時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた
字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた
3 彼女
野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳えてゐた。
或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。
それでも彼女は、媚態を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであつた。
夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
背中にあつた。
4 或る男の肖像
洋行帰りのその洒落者は、
齢をとつても髪に緑のポマードをつけてゐた。
夜毎喫茶店にあらはれて、
其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。
死んだと聞いては、
いつそうあはれであつた。
5 無題
――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。
剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。
開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。
読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。
6 壁
彼女は
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。
◇
「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。
或る夜の幻想
1 彼女の部屋
彼女には
美しい洋服箪笥があった
その箪笥は
かわたれどきの色をしていた
彼女には
書物や
其の他色々のものもあった
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかったので
彼女の部屋には箪笥だけがあった
それで洋服箪笥の中は
本でいっぱいだった
2 村の時計
村の大きな時計は、
ひねもす動いていた
その字板《じいた》のペンキは
もう艶が消えていた
近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった
それで夕陽が当ってさえか、
おとなしい色をしていた
時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った
字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった
3 彼女
野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。
或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。
それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。
夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
背中にあった。
4 或る男の肖像
洋行帰りのその洒落者は、
齢《とし》をとっても髪に緑のポマードをつけてゐた。
夜毎喫茶店にあらわれて、
其処の主人と話している様はあわれげであった。
死んだと聞いてはいっそうあわれであった。
5 無題
――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行った。
剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。
開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでいた。
読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。
6 壁
彼女は
壁の中へ這入ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いていた。
※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会がつけたものです。
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