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2012年11月

2012年11月30日 (金)

「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」3

(前回からつづく)

「杉林」が「男」のシンボリックな表現であるとすれば

野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。

或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。

それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。

――は、「彼女」の「男の経験」が描かれているらしいことが見えてきます。

そうとなればその経験とは
長谷川泰子が小林秀雄と暮らしはじめ
やがてその暮らしが破綻(はたん)して後も
女優への道を追い続けた生きざまがすぐに浮かんできます。

中原中也は長谷川泰子と小林秀雄との「奇怪な三角関係」の当事者なのですが
泰子の生きざまを「或る夜の幻想」で振り返ったのです。
それを「四季」に発表しましたが
丸ごとを「在りし日の歌」には収録しませんでした。

「或る夜の幻想」の
1 彼女の部屋
3 彼女
――の収録を憚(はばか)ったのはそれなりの理由があるはずで
それは「奇怪な三角関係」を
ここにきて露出するまでもないと考えたからでありますが
「永訣の秋」のほかの詩との統一性を考えたときに
詩そのものの完成度に不満があったためでしょう。

特に「3 彼女」の最終連
  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。
――は鮮烈なイメージばかりはありますが
もう一つ通じにくく
一人よがりであることを詩人自ら判定したからでしょう。

これをもフロイドを援用して読むことができないわけではありませんが
詩人はそういう詩を選びたくはなかったに違いありません。

こうして「或る夜の幻想」から
「或る男の肖像」が取り出されました。

結果は、贅肉のない
断片が生み出すリアリティーみたいなものが残って
想像力を駆り立てる名作になりました。

「或る男の肖像」と
同じような経緯で生まれたのが
「村の時計」です。

(この項終わり)

或る夜の幻想
 
   1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があつた
その箪笥は
かわたれどきの色をしてゐた

彼女には
書物や
其の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた

  それで洋服箪笥の中は
  本でいつぱいだつた

   2 村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた

その字板《じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた

近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた

   3 彼女

野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳えてゐた。

或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。

それでも彼女は、媚態を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであつた。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあつた。
  
   4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢をとつても髪に緑のポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらはれて、
其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。

死んだと聞いては、
いつそうあはれであつた。

   5 無題
    ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。

読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。

   6 壁

彼女は
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

或る夜の幻想
 
   1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があった
その箪笥は
かわたれどきの色をしていた
彼女には
書物や
其の他色々のものもあった
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかったので
彼女の部屋には箪笥だけがあった
  それで洋服箪笥の中は
  本でいっぱいだった

   2 村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす動いていた

その字板《じいた》のペンキは
もう艶が消えていた

近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった

それで夕陽が当ってさえか、
おとなしい色をしていた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった

   3 彼女

野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。

或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。

それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。
  
   4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢《とし》をとっても髪に緑のポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらわれて、
其処の主人と話している様はあわれげであった。

死んだと聞いてはいっそうあわれであった。

   5 無題
    ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行った。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでいた。

読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。

   6 壁

彼女は
壁の中へ這入ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いていた。

※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会がつけたものです。

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2012年11月29日 (木)

「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」2

(前回からつづく)

6部仕立ての連詩「或る夜の幻想」の
4 或る男の肖像
5 無題――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
6 壁
――を独立させた詩が「或る男の肖像」でした。

「或る夜の幻想」の中では
4、5、6のつながりが緊密で独立させるのが容易だったからでしょうか。

独立した詩として成立すると詩人が判断したからには
この詩は原形詩「或る夜の幻想」とは
別個の世界として読めなくてはなりません。

詩人はそれでも読めると見なし
発表したのですから
原形詩から離れて読んでみることに無理はないはずです。

もし原形詩がなんらかの役に立つならば
それはヒントになるくらいのことでしょう。
ヒントにとどめるのがベターでしょう。

その意味で「或る夜の幻想」を読んでみれば。
「彼女」を主格にした部分が
否応もなく目立つことに気づきます。

1 彼女の部屋
3 彼女
6 壁
――が「彼女」に関しての詩です。

よく見れば
そのほかの部分は「彼」に関する詩であることも見えてきます。

「彼女」を歌った部分で
「或る男の肖像」に入っていない「1 彼女の部屋」と「3 彼女」を読んでみましょう。

するとどちらもダダかシュールか象徴表現か
観念でとらえようとしてもとらえられない
謎の世界に迷い込みます。

「1 彼女の部屋」は
「洋服箪笥の中は本でいっぱいだった」というのですから
彼女は衣装よりも書物を好んだというような意味でよいとしても
「3 彼女」はお手上げになりそうなところですが――。

野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。
或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。

――この中の「杉林」をフロイド流に読んでみれば
意外にあっさりと「男」を意味していそうなことが分かります。

(つづく)

 *

或る夜の幻想
 
   1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があつた
その箪笥は
かわたれどきの色をしてゐた

彼女には
書物や
其の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた

  それで洋服箪笥の中は
  本でいつぱいだつた

   2 村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた

その字板《じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた

近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた

   3 彼女

野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳えてゐた。

或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。

それでも彼女は、媚態を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであつた。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあつた。
  
   4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢をとつても髪に緑のポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらはれて、
其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。

死んだと聞いては、
いつそうあはれであつた。

   5 無題
    ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。

読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。

   6 壁

彼女は
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

或る夜の幻想
 
   1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があった
その箪笥は
かわたれどきの色をしていた

彼女には
書物や
其の他色々のものもあった
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかったので
彼女の部屋には箪笥だけがあった

  それで洋服箪笥の中は
  本でいっぱいだった

   2 村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす動いていた

その字板《じいた》のペンキは
もう艶が消えていた

近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった

それで夕陽が当ってさえか、
おとなしい色をしていた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった

   3 彼女

野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。

或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。

それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。
  
   4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢《とし》をとっても髪に緑のポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらわれて、
其処の主人と話している様はあわれげであった。

死んだと聞いてはいっそうあわれであった。

   5 無題
    ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行った。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでいた。

読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。

   6 壁

彼女は
壁の中へ這入ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いていた。

※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会がつけたものです。

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2012年11月28日 (水)

「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」

(前回からつづく)

実は「或る男の肖像」には
元になった詩があります。
その詩は「或る夜の幻想」のタイトルで
「四季」の昭和12年(1937年)3月号に発表された短詩の連作詩でした。

「或る夜の幻想」ははじめ
1 彼女の部屋
2 村の時計
3 彼女
4 或る男の肖像
5 無題――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
6 壁

――という6部仕立ての連詩だったのです。

「在りし日の歌」の編集過程で
このうちの「2」が「村の時計」として
「4」「5」「6」が「或る男の肖像」として
「永訣の秋」の中に収録されました。

元の詩の一部でありながら
独立した詩として仕立てたのが
「或る男の肖像」であり
「村の時計」です。

元の詩「或る夜の幻想」を読んでおきましょう。

或る夜の幻想
 
   1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があつた
その箪笥は
かわたれどきの色をしてゐた

彼女には
書物や
其の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた

  それで洋服箪笥の中は
  本でいつぱいだつた

   2 村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた

その字板《じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた

近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた

   3 彼女

野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳えてゐた。

或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。

それでも彼女は、媚態を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであつた。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあつた。
  
   4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢をとつても髪に緑のポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらはれて、
其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。

死んだと聞いては、
いつそうあはれであつた。

   5 無題
    ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。

読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。

   6 壁

彼女は
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

或る夜の幻想
 
   1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があった
その箪笥は
かわたれどきの色をしていた

彼女には
書物や
其の他色々のものもあった
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかったので
彼女の部屋には箪笥だけがあった

  それで洋服箪笥の中は
  本でいっぱいだった

   2 村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす動いていた

その字板《じいた》のペンキは
もう艶が消えていた

近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった

それで夕陽が当ってさえか、
おとなしい色をしていた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった

   3 彼女

野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。

或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。

それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。
  
   4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢《とし》をとっても髪に緑のポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらわれて、
其処の主人と話している様はあわれげであった。

死んだと聞いてはいっそうあわれであった。

   5 無題
    ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行った。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでいた。

読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。

   6 壁

彼女は
壁の中へ這入ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いていた。

※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会
がつけたものです。

(つづく)

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2012年11月27日 (火)

「永訣の秋」女のわかれ2・「或る男の肖像」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち

「或る男の肖像」の1には
三つの過去の時間が重なっています。

1、 男が洋行していた過去
2、 夜になると喫茶店にやって来て暇をつぶしていた過去
3、 死んだという過去

――を「話者」(=詩人)が見聞きしていて、案内しているのが1です。

その男が生きていたあるときに経験した事件の断面が
描かれるのが2、3です。

髪毛の艶《つや》と、とか
剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も、とかは
洒落者(しゃれもの)だった男のいでたちや性格を表わしているようですから
2、3に出てくる彼は
1に出てくる男と同じ人物であることが想像できます。

その男が
開け放たれた戸口――無防備で自由で殺風景な――から戸外へ出て行きます。
それだけのことですが
どこもかしこもそわそわしていて、寒い感じなのです。

髪の毛をピシリと整髪油で決め
剃ったばかりで青白い首すじや手首が
寒そうに見えるのは
どうしようもなく悔恨の感情がにじみ出ているからで
隠しようにも隠し切れないのです。
小奇麗に身を整えることが
隠そうとする気持ちを逆に表わしてしまうのです。

悔恨は、
風と一緒に
容赦なく
吹き込んでいた
――という表現が男の内面の凄まじさを物語ります。

読書も恋もお茶も
黄昏とともに風とともに
みんななくなってしまった。

男は生活するのに必要な物以外のすべてを失なってしまったのです。

これらのすべての原因は
彼女が壁の中に入ってしまったからです。

彼女に何が起こったのでしょうか?
壁の中に入ったとは何を意味しているのでしょうか?

その説明は一言もありませんが
彼は吹きさらしの部屋にいて、テーブルを拭いているのです。

こうとまで読める物語なら
「彼女」が長谷川泰子であり
「彼」が中原中也であることを理解でき
「彼女」が引っ越していった後の「彼」の様子が描かれていることが分かるでしょうか。
「11月の事件」を題材にしていることがわかるでしょうか。

それとも「11月の事件」を知らないでも
この詩を読むことができるでしょうか?

(つづく)

或る男の肖像
 
   1
洋行帰りのその洒落者(しゃれもの)は、
齢をとつても髪に緑の油をつけてた。

夜毎喫茶店にあらはれて、
其処(そこ)の主人と話してゐる様はあはれげであつた。

死んだと聞いてはいつそうあはれであつた。

   2
      ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛の艶《つや》と、ランプの金との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。

読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。

   3

彼女は
壁の中へ這入(はい)つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会
がつけたものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

或る男の肖像
 
   1
洋行帰りのその洒落者(しゃれもの)は、
齢をとっても髪に緑の油をつけてた。

夜毎喫茶店にあらわれて、
其処(そこ)の主人と話している様はあわれげであった。

死んだと聞いてはいっそうあわれであった。

   2
      ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛の艶《つや》と、ランプの金との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行った。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでいた。

読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。

   3

彼女は
壁の中へ這入(はい)ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いていた。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会
がつけたものです。

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2012年11月26日 (月)

「永訣の秋」女のわかれ2・「或る男の肖像」・生きているうちに読んでおきたい名作たち

「或る男の肖像」は

1、2、3の番号が振られた3部仕立ての短詩ですが
1と2、3との間のつながりが見えにくい断片のような作品です。

1に現われる「洋行帰りのその男」が
タイトルの「或る男」であり
2、3に現われる「彼と彼女」の「彼」でもあるらしいのですが
「その男」は1で死んでいます。

死んだ男について回想した詩ということになりますが
同時に「その男」と同一の人物であるらしい「彼」が
「彼女」と別れたとき(=秋)を歌った詩でもあります。

彼と彼女は別れたのですが
そんなことどこにも書かれておらず
それらしいのは

彼は戸外に出て行った(2)
彼女は壁の中へ這入ってしまった(3)

――とあるところだけです。

長谷川泰子が中原中也と暮らしていた住まいの荷物をたたんで
小林秀雄の住まいへ引っ越したのは
大正14年(1925年)11月のある日のことでした

折りあるごとに
詩人はこの「11月の事件」を
詩にしたり小説にしたり日記に書いたりもしていますが
「或る男の肖像」もその一つと言えそうです。

「永訣の秋」にも
「11月の事件」にかかわる詩を配置したということになります。

(つづく)

或る男の肖像
 
   1
洋行帰りのその洒落者(しゃれもの)は、
齢をとつても髪に緑の油をつけてた。

夜毎喫茶店にあらはれて、
其処(そこ)の主人と話してゐる様はあはれげであつた。

死んだと聞いてはいつそうあはれであつた。

   2
      ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛の艶《つや》と、ランプの金との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。

読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。

   3

彼女は
壁の中へ這入(はい)つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。
 

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

或る男の肖像
 
   1
洋行帰りのその洒落者(しゃれもの)は、
齢をとっても髪に緑の油をつけてた。

夜毎喫茶店にあらわれて、
其処(そこ)の主人と話している様はあわれげであった。

死んだと聞いてはいっそうあわれであった。

   2
      ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛の艶《つや》と、ランプの金との夕まぐれ
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行った。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそわそわと、
寒かった。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでいた。

読書も、しんみりした恋も、
あたたかいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかった。

   3

彼女は
壁の中へ這入(はい)ってしまった。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いていた。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は全集編集委員会がつけたものです。

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2012年11月25日 (日)

「永訣の秋」女のわかれ・「あばずれ女の亭主が歌った」4・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

――というはじまりが示す「二人」の相思相愛の関係は

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

――という「二人」の不安定な関係と
前後関係なのではなく同時的な関係です。

○○であって、だから○○であるという前後を示すのではなく
○○であり、○○でもあるという同時的関係を示しています。

完璧な愛の関係が
すでに愛の不可能な関係を孕(はら)んでいるということを
この詩は歌っているのです。
いちばん親しい二人が時にいちばん憎みあうのです

そしてこの詩を歌っているのは「亭主」(=詩人)の方です。
「亭主」は

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

――と愛憎が表裏になっている関係の理由を歌います。

相思相愛であることに満足できない浮気な心を
香水の香りに満足しないで
病院の匂いに引かれてしまうからと自ら分析して見せるのです。

この「病院のあわい匂い」が
読みどころです。
この詩の味わいどころです。

病院の廊下に漂う消毒薬のにおいを好む習性が
二人にはあるのだろうかなどと考えてしまいそうですが
きっとそういうことではないでしょう。
日向より日蔭を好む志向ということでもないし。

自然な愛の気持ちをうるさく思う浮気な心が
一時的刹那的にであれ
表と裏の関係のように必ず出現してしまう
「病院のあわい匂い」についつい引かれていく
いかんともしがたい愛。

愛し合っていてこそ
「病院のあわい匂い」を嗅(か)いでは
次から次に生まれてくる憎しみを弄(もてあそ)ぶ。
そんじょそこらにいる男と女の幸せと不幸とは
いまにも「神のいない世界の愛」を歌っているようにさえ思えてきます。

そうであるからその後はお決まりのように
得体の知れない後悔に襲われ
絶えず不安にさいなまれてもいる女と男――。

全行が現在形で書かれ
タイトルだけが過去形であるところに
おやっと思わせられますが
永訣の歌であることに変わりはありません。

(この項終わり)

あばずれ女の亭主が歌つた
 
おまへはおれを愛してる、一度とて

おれを憎んだためしはない。

おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつてゐたことのやう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があつて、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思ふのだ。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

あゝ、二人には浮気があつて、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕いよる。
 
※「新編中原中也全集」より。《》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は角川全集編集委員
によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

あばずれ女の亭主が歌った
 
おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

ああ、二人には浮気があって、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

佳い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。
 
 

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2012年11月24日 (土)

「永訣の秋」女のわかれ・「あばずれ女の亭主が歌った」3・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

「あばずれ女」と聞いただけで
アメリカン・ニューシネマ「俺たちに明日はない」のボニーを思い浮かべたり
「愛の不可能」や「愛の不毛」ならば
イタリア映画「情事」「太陽はひとりぼっち」「夜」のミケランジェロ・アントニオーニ監督作品や
フランス・ヌーベルバーグの「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」を思い出したりしますが
突飛なことでしょうか――。

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

――というはじまりの5連あたりまではおおよそ当てはまりそうではないですか?

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

――というあたりに、「愛の不可能性」や「愛の不毛」を感じられるなら
この詩の現代性(コンテンポラリーな側面)を読み取ることもできませんか?

突飛ついでにもう一つを言ってしまえば
「あばずれ女の亭主が歌った」は
ラップやヒップホップのリズムに合わせて歌うと
とても分かりやすい叙情が見えてきませんか?

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

――を

♪おまえはおれを=7
♪愛してる=5
♪一度とて=5
♪おれを憎んだ=7
♪ためしはない=6

――と拍子を取ればいかにもラップ。

75調でありながら
破調を自然に駆使していますから
そこをラップの唱法でフォローして歌うとピタリとくるはずです。

以下も同様に、

♪おれもおまえを
♪愛してる。
♪前世から
♪さだまっていた
♪ことのよう。

♪そして二人の
♪魂は、
♪不識《しらず》に温和に
♪愛し合う
♪もう長年の
♪習慣だ。

♪それなのにまた
♪二人には、
♪ひどく浮気な
♪心があって、

♪いちばん自然な
♪愛の気持を、
♪時にうるさく
♪思うのだ。

(つづく)

あばずれ女の亭主が歌つた
 
おまへはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつてゐたことのやう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があつて、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思ふのだ。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

あゝ、二人には浮気があつて、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕いよる。
 
※「新編中原中也全集」より。《》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は角川全集編集委員
によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

あばずれ女の亭主が歌った
 
おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

ああ、二人には浮気があって、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

佳い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。
 
 

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2012年11月23日 (金)

「永訣の秋」女のわかれ・「あばずれ女の亭主が歌った」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

「永訣の秋」の16篇の中で
長谷川泰子らしき女性が登場するのは
「あばずれ女の亭主が歌った」
「或る男の肖像」の2作品ですから
これが「泰子のわかれ」を歌った最終作品ということができるかもしれません。

中原中也は「生涯にわたる恋人・長谷川泰子」を
実にさまざまに表現していますが
「あばずれ女」と悪(あ)しざまに言うのは
二人が初めて京都で出会ったころに
「あれはおれの柿の葉13枚だ」と
知人に泰子のことを紹介していたのにやや似通っているようですが
詩作品の中で「あばずれ女」というには
その亭主である私=詩人が
その女と同等の位置にいなければならず
「亭主」になって歌った詩であるところを読まねばならないでしょう。

10数年も前に「柿の葉13枚」と
夜郎自大(やろうじだい)ぶって知人に語った女性と
「永訣の秋」に「亭主」の眼を通じて現われる「あばずれ女」とは
同じモデルの女性であったとしても
自ずと異なります。

どう異なるか――。

何にもまして、一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない存在であることを
この10数年の間に詩人は知りました。
とうてい「柿の葉13枚」ではあり得ませんでした。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

――と浮気心も対等ですし、愛の気持ちをうるさく思うのも対等です。

通俗的な「女房と亭主」の関係ではあっても
その関係を「二人」と呼び
どっちかがどっちかの上位にある関係にしていません。

狸(たぬき)と狐(きつね)か、
化(ば)かし合いする世間一般の夫婦に見立てて
泰子との来し方を振り返り
わかれの歌を歌ったのです。

もはやそれを恋とは言わず
愛というほかにありません。

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

――と、これはまるで「愛の不可能」を歌っている
現代詩とかフランス映画かなにかの領域に入っているといえるものではありませんか。

(つづく)

あばずれ女の亭主が歌つた
 
おまへはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつてゐたことのやう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があつて、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思ふのだ。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

あゝ、二人には浮気があつて、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕いよる。
 
※「新編中原中也全集」より。《》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は角川全集編集委員
によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

あばずれ女の亭主が歌った
 
おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

ああ、二人には浮気があって、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

佳い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。
 
 

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2012年11月21日 (水)

「永訣の秋」女のわかれ・「あばずれ女の亭主が歌った」・生きているうちに読んでおきたい名作たち

「ゆきてかえらぬ」の第7連には

 女たちは、げに慕わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山だった。

――と、「女たち」との付き合いが記され、

最終連には

 林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。

――と、「女や子供、男達」が公園を散歩する光景が記されますが
ここに登場する「女たち」や「女」に
長谷川泰子の面影(おもかげ)がないような感じがしませんか?

この詩「ゆきてかえらぬ」に
長谷川泰子の匂いがしないのは
街としての京都とか
京都に住んでいた期間(=京都時代)とのわかれを歌った(=客体化した)からで
「女のわかれ」を主題にしたものではなかったからです。

そのために
「女のわかれ」を歌った一群の詩が
「永訣の秋」の中に配置されます。

その一つが
「あばずれ女の亭主が歌った」で
ほかには「米子」があり
「或る男の肖像」や「村の時計」も
元を辿(たど)ると
「女のわかれ」のグループに入れておかしくない作品であることが見えだします。

「あばずれ女の亭主が歌った」は
もろに長谷川泰子と詩人を歌った詩ですが
ここにきて
詩人は自分を「おれ」と呼び
泰子を「おまえ」と呼び
「すれっからしの二人」と眺めやる距離感には
目から鱗(うろこ)が落ちたような的確さがあります。

泰子を
「あばずれ女」にしてしまい
自分をその「亭主」と見立てる眼(まなこ)は
「ゆきてかえらぬ」京都(時代)にはなかったもので
上京後にもなかったもので
晩年のここにきて自(おの)ずと獲得されたはずのものです。

詩人は
泰子との長い年月にわたる「恋愛」にわかれを告げ
「恋」というよりは「愛」の一つの形として
「あばずれ女とその亭主」という関係(呼び方)が
ベストであることを自然に感じ取ったのでした。

(つづく)

あばずれ女の亭主が歌つた
 
おまへはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつてゐたことのやう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があつて、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思ふのだ。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

あゝ、二人には浮気があつて、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕いよる。
 
※「新編中原中也全集」より。《》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は角川全集編集委員によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

あばずれ女の亭主が歌った
 
おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

ああ、二人には浮気があって、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

佳い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。
 
 

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2012年11月19日 (月)

「永訣の秋」京都のわかれ・「ゆきてかえらぬ」4・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

――という「ゆきてかえらぬ」の第8連と

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
嗚呼、生きていた、私は生きていた!

――という「少年時」の最終連は
同じことの異なる表現といってよいほどに対応しているのですが
銀色に輝く蜘蛛の巣は
ギロギロする目がようやく探り当てたかのような生そのものでありながら
ほかの言葉で言ってしまうのは憚(はばか)られるもの。

ズバリ言ってしまえば
詩の道。

魔性(ましょう)と言えば過剰だが
生命の原型と言えばおとなし過ぎる
文学の道に魅惑(みわく)されたということでしょうか。

それに向けて高まり逸る気持ちを
いまや距離をおいて眺めている
遠い日への回顧なのです。

「ゆきてかえらぬ」は
公刊された自選詩集である「山羊の歌」「在りし日の歌」を通じて
珍しい散文詩ですが
その「センテンス」は過去形「た」で終わっています。

果てにいた。
揺っていた。
停っていた。
仕事であった。
適していた。
吹かさなかった。
ものだった。
思わなかった。
沢山だった。
高鳴っていた。
表情していた。
光り輝いていた。

――と「たたたた」と動詞の過去形か過去を表わす助動詞で終始します。

銀色の蜘蛛の巣が光り輝いていたのも
過去のことなのです。

「少年時」の少年が10歳ほどの年齢であるとすれば20年、
「ゆきてかえらぬ」の京都の暮らしのはじめから15年。

みんな遠い日のことになり
もう帰ってくることはない。

そうした過去をノスタルジーに流さないで
一歩距離をおいて見ようとすれば
(対象化し客体化しようとすれば)
散文詩にするしかなかったということになります。

(この項終わり)

ゆきてかへらぬ
      ――京 都――

 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺つてゐた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持つていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらゐは持つてもいたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会いに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

        *           *
              *

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 さてその夜には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いてゐた。

 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

ゆきてかえらぬ
      ――京 都――

 僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺っていた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停っていた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であった。

 さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食)すに適していた。

 煙草くらいは喫ってもみたが、それとて匂いを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかった。

 さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持っていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらいは持ってもいたが、たった一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだった。

 女たちは、げに慕わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山だった。

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

        *           *
              *

 林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いていた。

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2012年11月18日 (日)

「永訣の秋」京都のわかれ・「ゆきてかえらぬ」3・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

「ゆきてかえらぬ」の第8連で

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

――と京都での一人暮らしの実態を総括的に回顧した詩人は
そこで終ったはずの詩に加えるようにして
最終連を記しました。

 林の中には、世にも不思議な公園があって、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いていた。

――それがこの3行です。

第1連から第8連までを
簡約にしたかのような詩句です。

「林」とは、京都の街そのものでありましょう。
「公園」とは、近辺の知人友人隣人たちとの交流圏のことでありましょう。

最終行「さて」以下のフレーズに
この詩の最大のポイントがあります。

空に、銀色に光り輝く、蜘蛛の巣。

蜘蛛の巣があり
蜘蛛のイメージは見えませんが
巣の奥に蜘蛛は潜んでいる。

ひっそりとしていて
確固としていて
不気味で
得体の知れない
恐ろしいような
俗から超然として
しぶとい生命力のある
魔物のような
人を魅惑する存在――。

不気味なほどにもにこやかな
女や子供、男達散歩していて
僕に分らぬ言語を話し
僕に分らぬ感情を、表情していた
世にも不思議な公園の中にいた
孤絶した詩人が発見したものが
銀色に輝く蜘蛛の巣でした。

外側から蜘蛛の巣を見ただけで
その中の世界がどんなものか
明確に見たわけではありませんが
目の覚めるような銀色の輝きに
詩人は「生」そのものを見たに違いありません。

(つづく)

ゆきてかへらぬ
      ――京 都――

 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺つてゐた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持つていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらゐは持つてもいたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会いに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

        *           *
              *

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 さてその夜には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いてゐた。

 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

ゆきてかえらぬ
      ――京 都――

 僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺っていた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停っていた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であった。

 さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食)すに適していた。

 煙草くらいは喫ってもみたが、それとて匂いを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかった。

 さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持っていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらいは持ってもいたが、たった一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだった。

 女たちは、げに慕わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山だった。

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

        *           *
              *

 林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いていた。

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2012年11月17日 (土)

「永訣の秋」京都のわかれ・「ゆきてかえらぬ」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

 僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺っていた。

――という「ゆきてかえらぬ」の冒頭行は
そこが、地の果てでありながら温暖で花々が風に揺らいでいる
背反するするような場所であったことを歌います。

地の果てとは、
まだ16歳になる前にやって来た京都との距離感を示すものであっても
僻地(へきち)とか流刑地とかを指しているものではありません。

このあたりは
もろにランボーの詩の影響ですが
孤独な感情とか疎外された意識とかを物語っていることに
偽(いつわ)りがあるわけでもありません。

詩人は寄宿舎に入ったわけでもなく
遠く離れた生地を後に
中学生でよくも一人暮らしをはじめられたものと感心しますが
落第した現実は
きっと想像以上に深刻なものがあって
「地の果て」という意識が大げさではなかった時間を経験したのでしょう。

にもかかわらず
温暖な陽の光と風にそよぐ花々があったのですから
地の果ては結構過ごしやすい土地だった――。

実際の暮らしはどうだったか。

第2連は街の風景
木橋、埃り、ポスト、風車を付けた乳母車……とメタファーで描写します。

第3連は街の中の詩人
街に住む人に親類縁者がいるわけでもなく
風見の上の空ばかり見ている孤独なときを「仕事」と言っています。

第4連は
孤独でありながら退屈ばかりではなく
空気には「蜜」があったし
飲み食い暮らすよい場所だったと楽しかった思い出へ。

第5、6連はその中身。
煙草を吸うにも自分を律し
布団もなく、歯ブラシ1本、本1冊という質素さ。

第7連は女たちとの関係。
慕わしかったがみだりに会うことはなかった。

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

――と第8連では
暮らしの実態を総括します。

ここいらは

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
嗚呼、生きていた、私は生きていた!

――という「少年時」とピタリと対応しています。

(つづく)

ゆきてかへらぬ
      ――京 都――

 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺つてゐた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持つていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらゐは持つてもいたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会いに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

        *           *
              *

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 さてその夜には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いてゐた。

 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

ゆきてかえらぬ
      ――京 都――

 僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺っていた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停っていた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であった。

 さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食)すに適していた。

 煙草くらいは喫ってもみたが、それとて匂いを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかった。

 さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持っていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらいは持ってもいたが、たった一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだった。

 女たちは、げに慕わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山だった。

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

        *           *
              *

 林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いていた。

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2012年11月16日 (金)

「永訣の秋」京都のわかれ・「ゆきてかえらぬ」・生きているうちに読んでおきたい名作たち

「正午」が「東京のわかれ」であれば
「ゆきてかえらぬ」は「京都のわかれ」と読むことができます。
「永訣の秋」に
二つの「街へのわかれ」は不可欠でした。
(※原詩は文語「ゆきてかへらぬ」ですが、ここでは口語表示にしました。編者。)

「大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校する。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」

――と後に「詩的履歴書」に京都の生活のはじまりは記されますが
この時からおよそ2年間が
中原中也の京都時代です。

「ゆきてかえらぬ」は
サブタイトルに「京都」とあるように
この京都時代を10余年後に回想する詩ですが
「永訣の秋」に収められて
自ずと回想を超えた意味を持つことは、

僕は此の世の果てにゐた。

――という、ただならぬ1行で
「永訣の秋」の冒頭詩がはじめられることで
すぐにもに理解できます。

このフレーズもどこかで聞いた覚えがあるので記憶をたどれば
「少年時」に思いいたるのは容易なことです。

地平の果に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆のようだった。
(第2連)

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
嗚呼、生きていた、私は生きていた!
(最終連)

――が、すぐさま浮かんできます。

(つづく)

ゆきてかへらぬ
      ――京 都――

 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺つてゐた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持つていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらゐは持つてもいたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会いに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

        *           *
              *

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 さてその夜には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いてゐた。

 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

ゆきてかえらぬ
      ――京 都――

 僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺っていた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停っていた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であった。

 さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食)すに適していた。

 煙草くらいは喫ってもみたが、それとて匂いを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかった。

 さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持っていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらいは持ってもいたが、たった一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだった。

 女たちは、げに慕わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山だった。

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

        *           *
              *

 林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いていた。

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2012年11月13日 (火)

「永訣の秋」の街へのわかれ・「正午」4・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

「正午」の第8行

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

――は、まるで詩人が見ている月給取りの呟(つぶや)きであるかのようです。

この行に来て
月給取りと詩人はオーバーラップし
心理的にもシンクロし
桜かな、桜かな、と唱和しているかのようです。

詩人のこの視線をどこかで見た覚えがあって
それはなにかと辿(たど)ってみれば

その脣(くちびる)は胠(ひら)ききって
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊(つちくれ)になって、
ただもうラアラア唱ってゆくのだ。

――という「都会の夏の夜」の一節でした。

この詩にある「何か悲しい」に似て
「正午」の詩人は
ビルからゾロゾロゾロゾロ出てくる月給取りたちを
「愛しい=かなしい」眼で見ていると感じられてなりません。

正午のサイレンを聞くサラリーマンは
解放された小鳥さながら
ぷらーりぷらーりと脱力した腕を振って
空を見上げたり地面を見たり
この世の春を楽しんでいるかのようでさえあります。

その心を詩人は
この「とき」になって理解したのです!

この「とき」、月給取りたちが
なんのおのれが桜かなと歌うのが聞えてきました。

では、詩人にもサイレンは
解放を告げる音色として聞こえていたのでしょうか?

一面、そういう音色でもあったはずですが
一面、その反対でもあったはずです。

「わかれ」は
悲喜こもごも。

危急を告げる音色でもあり
胸を締めつける音色でもあり
肩の荷が下りる音色でもあった

しかし、いま
万感の思いはサイレンの音色とともに
丸の内ビルディングの空の彼方(かなた)へ
木霊(こだま)しつつ消えていきます。

(この項終わり)

正 午
       丸ビル風景
  
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
 
※「新編中原中也全集」より。( )で示したルビは、全集編集員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

正 午
       丸ビル風景
  
ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振って
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立っている
ひょんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

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2012年11月12日 (月)

「永訣の秋」の街へのわかれ・「正午」3・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

かつて救急車や消防車の警笛は手動で
目的地へ向かってウーウーウーという音を出しながら走るのが
東京の町でも見られたものです。
防水頭巾を被った消防士が
腕を旋回させて警笛の音を出す姿が車上にありました。

小学校や中学校などの正午を告げるサイレンと
それらの音色は同じものだった記憶があります。

中原中也が
東京駅にやって来たときの行き帰りに
丸の内のビルを眺めたことは何度かあったことでしょうが
ビルの屋上あたりから発するサイレンを聞いたのは
そう多くあったことではないでしょう。

手紙を頻繁に書く習慣があった詩人のことですから
中央郵便局をしばしば利用したことが想像できますから
「正午」のサイレンは
東京駅を降りたところのどこかで聞いたものかなどと
想像の羽根は広がっていきます。

大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立っている
ひょんな眼付で見上げても、眼を落としても……

――の3行からは
やや遠目でビルを眺めている角度が感じられますから
東京駅に向かう道での振り向きざまの光景なのか。

見上げた空は広々としていて
桜は満開をとうに越えている時期。

もう見ることはないかもしれない風景……。

ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

――と、なぜ、ああ、なのか?
ああ、と感動詞を使うほどサイレンの音になぜ感動しなければならないか?

大正14年に上京して以来10有余年。
街そのものを嫌いになったわけではない詩人の眼に
丸の内のビルから吐き出されるかのように出てくるサラリーマンの姿は
嫌悪の対象として映ったのではなく
懐かしくも愛(いと)おしいものであったのではないか。

やっと職務を解放された勢いで
プラーリプラーリ手を振っちゃって
お天気の具合を見上げる眼つきといい
目を落して地面の具合を見やる物腰といい

ああ! と感動せずにいられようか!

酒がなくて
どうして桜花を愛(め)でられようか!

詩人は
二度と訪れることのないかもしれない丸ビルのサラリーマンたちに
ほとんどシンクロしちゃって、
サイレンの音色にもシンクロしちゃって、
風に乗って消えて行っちゃいそうになっています。

影ひとつない正午です。

(つづく)

正 午
       丸ビル風景
  
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
 
※「新編中原中也全集」より。( )で示したルビは、全集編集員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

正 午
       丸ビル風景
  
ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振って
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立っている
ひょんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

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2012年11月11日 (日)

「永訣の秋」の街へのわかれ・「正午」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

さらば東京、と記すのは
「在りし日の歌」の後記ですが
「正午 丸ビル風景」に表(おもて)立っていなくても
そこに東京へのわかれが刻まれていることは
「在りし日の歌」中の「永訣の秋」に収められていることで
知ることができます。
それ以外に知る手掛かりはありません。

読みようによっては
ほかの読み方もできるこの詩を
「街へのわかれ」という眼(まなざし)で読んでみたいのは
こういう理由です。

声に出してみればよくわかるのですが
この詩も
ルフランと57、55、77のリズムでグイグイと押し
使われる言葉もほぼ日常語です。

おや、と思える言葉遣いは
第8行の

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

――で、これは、
酒なくてなんのおのれが桜かな、という狂句か川柳みたいなのを流用しているところ。

小唄・端唄、川柳、ことわざなどの慣用表現に
新しい空気を吹き込む詩法は
中原中也の得意技です。

風化し手垢にまみれたような言葉を意識的に使い
言葉をよみがえらせてしまうマジックは
単に慣用表現ばかりでなく
日常語全般に向けられました。

この詩の他の行に使われている言葉も
ほとんどが日常語です。

よく読めば
最終行

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

――の下句だけが古語(文語)です。

ルフランも

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口

――とあり、
これを数えれば、全12行のうち8行もあります。

この中でも

サイレンだ、サイレンだサイレンだ
出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
桜かな、桜かな桜かな
サイレンだ、サイレンだサイレンだ
出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

――と上句の末尾を受けて下句で繰り返されるルフランが6行あります。

上句にも

ぞろぞろぞろぞろ
あとからあとから
ぞろぞろぞろぞろ

――とオノマトペを含んだルフランが現われ、

ほかの行にも、

ぷらりぷらり、薄曇り、薄曇り、響き響きて

――と繰り返しが見られます。

これらのルフランは
調子を取り、語呂を合わせるだけに用いられているようでありながら
そう考えるのはとんでもない間違いで
これを無くしてしまったら
詩は生命を落すようなことになってしまう重要な役割をもっています。

「一つのメルヘン」の「さらさら」と同じように
血であり肉であり心臓でもあるようなパーツになっているのです。

(つづく)

正 午
       丸ビル風景
  
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
 
※「新編中原中也全集」より。( )で示したルビは、全集編集員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

正 午
       丸ビル風景
  
ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振って
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立っている
ひょんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

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2012年11月10日 (土)

「永訣の秋」の街へのわかれ・「正午」・生きているうちに読んでおきたい名作たち

「月の光」は
お庭の隅にも芝生にも
月光が満遍(まんべん)なく降り注(そそ)いで
真昼のような「影のない世界」を歌います。

死んだ子が隠れている草叢でさへ
月の光が照っていては丸見えで
その子どもに「影がない」感じが
妙に生々しい非現実感――こんなことってあるのか!――を漂わせます。

太陽が南中し
モノの影が極小になる時刻=正午と
月光が影のない世界をつくりだす「月の光」の詩世界との連続を
中原中也が意識していたとは断言できませんが
「正午 丸ビル風景」は
「春日狂想」の前にあって
「永訣の秋」の最終詩「蛙声」へ続く位置に配置されている口語詩です。

「在りし日の歌」の末尾から3番目にあり
「月の光 その二」から4作おいて
この詩が現われます。

詩集「在りし日の歌」に
「在りし日の歌」と「永訣の秋」の章が立てられたからには
「永訣の秋」の章に格別の思いが込められたことを想像できますが
それはどのようなことだったでしょう――。

「永訣の秋」の「秋」は「秋=あき」ではなく「秋=とき」であろう

季節としての秋というより
「わかれのその時」の「とき」のニュアンスだろう

ならば
「正午 丸ビル風景」も
「わかれのとき」を刻印した詩であろう

――と、もう一度読み返してみたくなる名作の一つです。

「永訣の秋」の冒頭には
「ゆきてかへらぬ」という
「街へのわかれ」の詩がすでにあり
そこでは「京都へのわかれ」が歌われました。

「東京へのわかれ」が
この詩「正午 丸ビル風景」であるだろう

――という眼(まなざし)に沿って読んでみましょう。

(つづく)

正 午
       丸ビル風景
  
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
 
※「新編中原中也全集」より。( )で示したルビは、全集編集員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

正 午
       丸ビル風景
  
ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振って
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立っている
ひょんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

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2012年11月 9日 (金)

「永訣の秋」の月光詩群・真昼のような「月の光」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

死んだ子どもが隠れていたり(その一)
蛍のように蹲(しゃが)んでいたり(その二)する一方で
チルシスとアマントが
ギターをほっぽりだしたままコソコソ話している庭
――という舞台装置が不可思議な感じですが
いつしかその不可思議な詩世界に読者は入り込んでいます。

ここは庭です。
詩人の庭なのでしょう。

「月の光」に登場する
チルシスとアマントは
ポール・ベルレーヌの第2詩集とされる「艶(なまめ)かしき宴」に出てくる
一種のトリックスターですが
中原中也はなぜまたここにこれらの「いたずら者」を呼び出したのでしょうか?

チルシスもアマントも
なんとなく元気がなく
今夜ばかりは得意のギターを弾く気がしないらしく
ひそひそ話しをするだけです。

死んだ子へと接近するわけでもなく
チルシスとアマントは
舞台中央の芝生にとどまっています。

ああ、子どもにギターを弾いてやってくれないか
――という詩人の声が
月光下の沈黙の世界から聞えてくるかのようです。

「その一」と「その二」はほとんど同じ内容で
表現を考えているうちに
捨てるに捨てられない作品ができてしまって
二つの詩にしたことが推測できますが
これはあくまで推測です。

違いをあえて言えば
「その一」にはルフランがあり
「その二」にはルフランがない、ということほどのことでしょうか。

「永訣の秋」で「月の光」は
「月夜の浜辺」「また来ん春……」につづいて配置され
「冬の長門峡」や「春日狂想」が続いていますが
これらの作品が生まれた頃には
愛息文也の死という経験があったことを
もはや知らないで読むことはできません。

「月の光」の不可思議な世界が
妙にリアルで妙に幻のようなのは
このあたりのところから生じています。

(つづく)

月の光 その一
 
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  お庭の隅の草叢《くさむら》に
  隠れているのは死んだ児だ

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた
 

月の光 その二
 
おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵
なまあつたかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

※「新編中原中也全集」より。《 》は原作者、( )は全集編集委員会によるルビです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

月の光 その一
 
月の光が照っていた
月の光が照っていた

  お庭の隅の草叢《くさむら》に
  隠れているのは死んだ児だ

月の光が照っていた
月の光が照っていた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持っては来ているが
おっぽり出してあるばかり

  月の光が照っていた
  月の光が照っていた
 

月の光 その二
 
おおチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵
なまあったかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にいる

ギタアがそばにはあるけれど
いっこう弾き出しそうもない

芝生のむこうは森でして
とても黒々しています

おおチルシスとアマントが
こそこそ話している間

森の中では死んだ子が
蛍のように蹲(しゃが)んでる

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2012年11月 8日 (木)

「永訣の秋」の月光詩群・真昼のような「月の光」・生きているうちに読んでおきたい名作たち

「幻影」でピエロが浴びていた月光は
「私の頭の中」にあるために
スポット・ライトを浴びているのに似て、

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かし

――という距離感があり、

「月夜の浜辺」の月光は
波打際とボタンとを浮かびあがらせる舞台装置(=背景)のようですが
「月の光」の月光は
あたりを皓々と照らします。

月の光が照っていた
月の光が照っていた

――と、まるで真昼の陽光のように
満遍(まんべん)なく庭を照らし出しているのです。

春の夜のことだから
靄(もや)がかかっているとはいいながら
庭の隅も芝生も境なく
照らしているのです。

その庭の隅にある草叢には
死んだ児が隠れているのですが
隠れた格好をしているだけで
丸見えの感じです。

その同じ舞台の中央部の
月の光に照らし出された芝生に
突如現われるのがチルシスとアマント。

ギターを持ってきているが
芝生のうえに投げっぱなしにしてあるばかり――。

死んだ子どもと
チルシスとアマントが
一方は隅っこに
一方は真ん中に
ともに同じ舞台に登場している
不可思議な世界が
どこかリアルでどこか夢のようなのは
なぜなのでしょうか?

(つづく)

月の光 その一
 
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  お庭の隅の草叢《くさむら》に
  隠れているのは死んだ児だ

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた
 

月の光 その二
 
おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵
なまあつたかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

※「新編中原中也全集」より。《 》は原作者、( )は全集編集委員会によるルビです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

月の光 その一
 
月の光が照っていた
月の光が照っていた

  お庭の隅の草叢《くさむら》に
  隠れているのは死んだ児だ

月の光が照っていた
月の光が照っていた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持っては来ているが
おっぽり出してあるばかり

  月の光が照っていた
  月の光が照っていた
 

月の光 その二
 
おおチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵
なまあったかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にいる

ギタアがそばにはあるけれど
いっこう弾き出しそうもない

芝生のむこうは森でして
とても黒々しています

おおチルシスとアマントが
こそこそ話している間

森の中では死んだ子が
蛍のように蹲(しゃが)んでる

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2012年11月 7日 (水)

「永訣の秋」の月光詩群・「月夜の浜辺」6・生きているうちに読んでおきい名作たち

(前回からつづく)

普通の日本人が日常会話で使うような
「しゃべり言葉」みたいな現代口語で
「月夜の浜辺」はつくられています。

むずかしいと頭をひねることもないやさしい言葉を
ルフランを駆使し7・7音のリズムに乗せて
朗唱しやすい詩が組み立てられました。

なんの疑問の余地もない詩のようですが
ふと立ち止まらざるをえない言葉に行き当たるのは

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

――という第5連です。

拾ったボタンが、なぜ、指先に沁み、心にも沁みたのでしょうか?

月夜の浜辺の波打際で拾ったボタンを
何かのほころびを繕(つくろ)うためとか
記念品として持ち帰るためにとか
実用に役立てるために拾ったものでないことは分かりますが
なぜこれが指先に沁み、心にも沁みたのでしょうか?

この詩がたった一つ残す謎です。

そこでこの詩を起承転結の流れにそって読んでみると、

第1連が起
第2、3、4連が承
第5連が転
第6連が結。

――という構成が見え
第5連が「転」に当たることが分かります。

この詩が、
月夜の浜辺でボタンを拾ったという
客観的事実を叙述したものでないことを
この第5連は明らかにしているのです。

夜の海に来て僕=詩人が拾ったボタンが
心に沁みるというのは
詩人の内面が明らかにされているということで
さりげないようですが
ここでこの詩は「転」=質的な変化をとげているのです。
それを叙景から叙情への転換といってもおかしくありません。

しかし心に沁みる理由は明らかにされません。

詩の行のどこを探しても
その理由を見つけることはできません。

それはもはや
詩の外、作品の外部に求めるしかないことです。

(この項終わり)

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛《はふ》れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛《ほう》れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

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2012年11月 6日 (火)

「永訣の秋」の月光詩群・「月夜の浜辺」5・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

幾種類かのルフランが
畳みかけるように繰り返され
多声部の輪唱みたいな効果をあげる――。

このルフランに
輪をかけるのが7・7音、7・5音のリズムです。

つきよのばんに―ボタンがひとつ
TuKiYoNoBaNNi―BoTaNGaHiToTu
●●●●●●●―●●●●●●●
7―7

なみうちぎわに―おちていた
NaMiUTiGiWaNi OTiTeITa
●●●●●●●―●●●●●
7―5

破調も極めて少なく
整然とした7・7音を基調にしているため
声に出して何度も読んでいると
声に谺(こだま )が生まれ
あたかも男声の輪唱が聞こえてくるかのようです。

使われている言葉も、

月夜

ボタン
波打際
落ちる
拾う
役立てる
思う
捨てる
忍ぶ
袂(たもと)
抛(ほう)る

向う
入れる
指先

沁(し)みる

――と、名詞、動詞で9割以上を占め
形容詞はいっさいなく
副詞(句)に、なぜだか、どうして、があるだけ!

漢字を見ても、

袂(たもと)
抛(ほう)る
忍ぶ
沁(し)みる
――くらいが、やや難しいけれど
「忍(しの)ぶ」を除いて詩人が振ったルビがあります。

難漢字を使わない、
形容詞が一つもないという
やさしい言葉使いであるとともに

月夜の晩に、ボタンが一つ 波打際に、落ちていた。
――という第1連を見るだけでも
「しゃべり言葉」と変わらない日常語です。

ほかの行もすべて日常語です!
きざっぽい文学表現はゼロです!

(つづく)

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛《はふ》れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛《ほう》れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

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2012年11月 5日 (月)

「永訣の秋」の月光詩群・「月夜の浜辺」4・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

ボタンは月夜の浜辺で
拾われるべくして拾われた――。

どうもそのような必然性を感じさせる訳の一つは
この詩「月夜の浜辺」に
風景の描写というものがなく
ルフランが畳みかけるように繰り返される
詩のつくりにあるようです。

この詩をよく見ると
全17行のうち12行がルフランです。
12行がルフランを構成する行です。

第1連と第3連、
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

第2連第1、2行と第4連第1、2行、
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが

第2連第4行と第4連第4行
僕はそれを、袂に入れた。

第5連第1行と第6連第1行、
月夜の晩に、拾つたボタンは

――とそれぞれ繰り返されるのです。

月に向つてそれは抛《はふ》れず
浪に向つてそれは抛れず
――の2行をルフランと考えることもできます。

となれば、繰り返されないのは、

なぜだかそれを捨てるに忍びず
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。
どうしてそれが、捨てられようか?

――の3行だけということになります。

この繰り返しによって
月夜とボタンが強調され
風景は遠のいていきます。

月夜とボタンは切っても切れない関係になり、
必然のような関係になります。

僕=月夜=ボタンの関係だけが
浮き彫りになります。

(つづく)

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛《はふ》れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛《ほう》れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

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2012年11月 4日 (日)

「永訣の秋」の月光詩群・「月夜の浜辺」3・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

「月夜の浜辺」は
どのような風景の場所なのだろうか
――という疑問にこの詩は答えてくれません。
それが夜の景色であるから、というのでは答えていることになりません。
夜であっても風景がないなどということはあり得ませんから。

この詩に月夜の浜辺の風景を描写することは
邪魔だったのです。
詩の効果から不要だったのです。

人っ子ひとりもいない夜の海辺の砂の上に
月光に照らされて浮き出たボタン――。

この詩は
偶然、砂浜で見つけたボタンと
作者=詩人の心理的ドラマが描かれているものですから
余計な風景描写は邪魔だったのです。

仮にこの場所が
都会の自転車置き場か何かの夜の風景だったとすれば
そんな場所でボタンを拾う詩人の心のドラマは
別の展開を見せることになるでしょう。

町の雑踏の中でボタンを拾うなんて
まったくの偶然ですから
月夜の浜辺でボタンを拾う
必然のような偶然、偶然のような必然とは異なり
要求される言葉の量さえ違ってくるはずです。

ボタンと詩人の心理劇が成り立つためには
ボタンは月夜の浜辺で拾われねばならなかったとさえ言えるものです。

(つづく)

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛《はふ》れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛《ほう》れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

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2012年11月 3日 (土)

「永訣の秋」の月光詩群・「月夜の浜辺」2・生きているうちに読んでおきたい名作たち

(前回からつづく)

「月夜の浜辺」は
「在りし日の歌」の後半の章「永訣の秋」で
「一つのメルヘン」
「幻影」と続いた物語詩から二つ飛んで置かれて
月をモチーフにした作品です。

と、こう記したところで
「幻影」の月光が

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

――と「月夜の浜辺」に続いていることに気づくではありませんか!

そしてこの月は
一つ飛んで
「月の光 その一」「その二」の
明るい月光の世界へと続いていることを発見するではありませんか!

この連続は何を意味しているだろうかなどと
しかつめらしい分析や研究をするつもりでないことを
繰り返しません。

詩集を読む一つの筋道が見えると
個々の詩は新たな相貌(かお)を見せはじめるので
新しい驚きと興奮をもって味わうことができて楽しいばかりです。
ビギナーの目でもう一度、青春時代に読んだあの詩を読み返してみよう
Begin once more(ビギン・ワンスモア)――。

「月夜の浜辺」は
風景を歌ってはじめられている詩ですが
その浜辺の風景がどのようなものか
具体的になにものも述べられていません。

晩年の作品だから
きっと鎌倉海岸のことであろう、などという推測が可能ですが
そんなことを考えなくてよい詩なのです。

(つづく)

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛《はふ》れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛《ほう》れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
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2012年11月 2日 (金)

「永訣の秋」の月光詩群・「月夜の浜辺」・生きているうちに読んでおきたい名作たち

「幻影」で
私(=詩人)の頭の中に棲んでいるピエロですが
そのピエロはいつも月光下にいます。
黙劇(パントマイム)を演じている舞台に
月光は射していなければならないものであるかのようにです。

月光(または月)は
中原中也の詩に
たびたびライト・モチーフとして現れることは
よく知られたことでしょう。

「山羊の歌」の「初期詩篇」に
「月」が「春の日の夕暮」の次に配置され
「在りし日の歌」のトップ5番目にも
同名タイトル「月」が配置されているほか
ざっと見ただけで

「山羊の歌」に
「春の夜」
「都会の夏の夜」
「失せし希望」
「更くる夜」

「在りし日の歌」に
「幼獣の歌」
「湖上」
「頑是ない歌」
「お道化うた」
「春宵感懐」
「幻影」
「月夜の浜辺」
「月の光 その一」
「月の光 その二」

――と、月(光)が現われます。

二つの自選詩集の冒頭部に置かれた「月」が
どちらも初期に属する作品であるのにくらべ
「在りし日の歌」の「永訣の秋」に収められた「月(光)の歌」は
「月の光 その一」「その二」で頂点となる一群を形づくる
晩年の作品です。

「幻影」
「月夜の浜辺」
「月の光 その一」
「月の光 その二」
――がそれです。

中原中也の名作詩が
ここに並んでいます。

(つづく)

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛《はふ》れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

月夜の浜辺
 
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛《ほう》れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁《し》み、心に沁《し》みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

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