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2012年12月

2012年12月31日 (月)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」4・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「春日狂想」の
コロスの合唱を思わせる
《まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。》
――にある「まことに人生」という詩句は
地の声の「まことに人生」に引き取られて

まことに人生、花嫁御寮
まことに、人生、花嫁御寮
――と歌われる構造になっていることがわかってきます。

2のこの後半部分は
テンポ正しい散歩の途中で
誰だか親しい友人だか古い知人だか
しばらく会っていなかった人にばったり出くわし
喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら話すシーンですが
このシーンへの導入となる

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

――にははじめ少し戸惑いますが
やがてなるほどなるほどと合点のいく流れを理解する
最大のヤマです。

やあ、今日は、と語るのは
誰であり誰に対してであるのか
詩人の友達が詩人に語っているのかその逆か
友達ではなく
幻想の長谷川泰子がここに出てきて
やあ、しばらくと駆け寄ってきたのか
いや、これは文也がゴム風船に乗ってやってきて
詩人に語りかけているのだ
……などとあれやこれや考えてしまいますが

どうやらこれを語っているのは
詩人その人でありそうなことが
この語り口が堅苦しい感じで
普段の詩人らしくないことからわかってきます。

律儀(りちぎ)すぎる人に
詩人がなっている感じが
かえって詩人であることを明かしているのです。

詩人は
奉仕の気持ちを望んだのですから
その自分を揶揄(やゆ)するつもりはありません。

その詩人の目に
突如、花嫁行列が見えたのです!
実際に行列が通ったのを見たのかどうか

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。
――とありますから
単なる馬車であり、単なる電車(これは江ノ電か)だったのですが
それが花嫁御寮に見えるイマジネーション(感慨)が湧いたのです。

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。
――が
まことに人生、花嫁御寮。
――にこうしてクロスオーバーします。

2の後半部には
説明らしきものはありません。
テンポ正しき散歩が俄然乱れたような印象がありますが
この乱れこそこの詩が目指しているものです。

(つづく)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながろうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばっかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなったら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あっち》に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。
 

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2012年12月30日 (日)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」3・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「春日狂想」の1は
内容は強烈でありながら
詩が詩人の心のうちを明らかにするという形の上では普通にはじめられていますが
2の後半の《 》でくくられた

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。

――にさしかかって
詩のその形(構造)に変質が生じています。

この《 》の前に

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

――と、「わたし」が登場しますから
すくなくもとこの行までは
わたし=詩人が心のうちを明かし
愛する者を亡くしたら自殺しなきゃあならないと行き場を失っていたところを
生き永らえているわたしがこの後も生きていくためには
奉仕の気持ちにならなくてはならないことを述べ、

奉仕の気持ちになるといっても格別なこともできないので
以前より本を読むときは熟読し
以前より人には丁寧に接し
テンポ正しい散歩を心がけ
麦稈真田(ばっかんさなだ)を編むように敬虔な気持ちで
まるで毎日を日曜日のように
まるで毎日を玩具(おもちゃ)の兵隊のようにして、

鎌倉らしい街を歩いて
色とりどりの光景や行き交う人々との交渉を
一つひとつ歌いはじめて
神社(きっと鶴岡八幡宮でしょう)にやってきて、

人生は
一瞬の夢
ゴム風船の
美しさ
――というコロス(合唱)を聞くのです。

それはどこからともなく聞こえてきたというより
テンポ正しい散歩をしてきた詩人の胸の内にあった感慨が
大人数の男性女性の声に成り変って
地の底から湧いてきたかのように現われるものですから違和感はなく
これが誰のものであるかなどという疑問は生じませんが
よく読めば地(じ)の声とは異なります。

詩の形の上では
地の声とは異なりますが
これは詩人の声でもあります。

神社の境内を
ゴム風船がふわりふわりと飛んでいったのを
詩人は目にしたのかもしれませんが
それはただの風景描写に置き換える以上の思いを抱かせたのでしょう。

コロスの合唱に仕立てる技が
自然の流れで出てきたのでした。

(つづく)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながろうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばっかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなったら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あっち》に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。
 

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2012年12月29日 (土)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」2・生きているうちに読んでおきたい

「春日狂想」は
「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」の前にあり
「正午」に続いています。

「永訣の秋」のラインアップを
ここで再度見ておきますと

ゆきてかえらぬ
一つのメルヘン
幻影
あばずれ女の亭主が歌った
言葉なき歌
月夜の浜辺
また来ん春……
月の光 その一
月の光 その二
村の時計
或る男の肖像
冬の長門峡
米子
正午
春日狂想
蛙声
――の16篇です。

このうち文也の死を直接追悼したのは
「また来ん春……」とこの「春日狂想」、
間接的に歌ったのが「月夜の浜辺」と「月の光」の2作と「冬の長門峡」ということになります。
(※「月夜の浜辺」は、文也の死以前の制作と推定する説が最近の研究では有力のようです。)

まず「春日狂想」をざっと読んでみましょう。
次に何度も何度も繰り返し読んでみましょう。
そうでもしないとこの詩を味わうのは無理ですから。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。
――の冒頭行のインパクトが強烈なため
読み終えてもこの詩句が頭の中にこびりつくようなことになりますから
それだけではこの詩を読んだことにはならないので
全体を最後まで読むのです。

すると
1、2、3の3節で構成されている、
1は詩の導入部ですんなり読めるけれど
2はなかなか味わい深くて
汲めども汲めども尽きせぬ奥深さを感じて
繰り返し読んでいるとどんどんどんどん味が出てきて
同時に幾つもの疑問も出てきて
その疑問を解こうと熱中していて
いつしか呆けたような時間の中にいて
まことに、人生、花嫁御寮と詩の一節を諳(そら)んじていたり
3ではっと我に帰ったり……

特に2の《 》の中の

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。

――という文句はだれの言葉なのか。
だれが喋っているのかと釘付けにされます。

まことに人生というフレーズは
この《 》内のほかに
地の文(=詩の本文)にも2回現われますから
これはいったいどういうことかと思い巡らせば
アルチュール・ランボーの詩のドラマ仕立てか!
ギリシア悲劇のコロス(合唱)なのか!

それにしても
全篇77音(ときに8音)で貫(つらぬ)いて
狙われたのは何なのだろうなどと
詩の構造および詩を作る技(わざ)へ関心を引きつけられますが。

詩人は
詩の技の完成度など
てんで気にしていないように
この詩を作っているようで
では何をもっとも大切にしたのかと
繰り返し読む度(たび)に
繰り返し考えさせられるのです。

(つづく)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながろうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばっかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなったら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あっち》に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。
 

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2012年12月28日 (金)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」・生きているうちに読んでおきたい

「永訣の秋」に採るためには
「わかれの歌」でなければならない。
内容は現在ではなく
過去のものでなくてはならないということで
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は採られなくて
「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」は選ばれました。

愛児文也を追悼した詩「春日狂想」も
この流れに沿って読むことが可能になります。

追悼それ自体が客体化され
距離をもって眺められます。

現在の心境ではなく
そこから一歩引いたところで歌った追悼として
「春日狂想」を読めるようになります。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

――という冒頭行もそのように
読みはじめることができます。

「春日狂想」は昭和12年3月23日の制作とされているのは
文学界の同年5月号に掲載された詩(春日狂想)と
同日の日記に「文学界に詩稿発送」と記されている詩が合致することなどからの推定です。

3月23日といえば
中原中也が中村古峡療養所から退院して
40日近くが経過していることになり
文也の死から数えれば
およそ4か月の時間が過ぎたことになる日です。
それだけの時間が経過しました。

単なる時間の累積ばかりではなく
半強制的に文也の死との距離を置くことを命じられた時間を経たことで
文也の死を
直後の衝撃とは異なる受け止め方をできるようになっていたと言えるのでしょうか。

時間が何らかの解決になったとは
たやすく言うことはできませんが
直後と4か月後との受け止め方には
違いがあることを想像することはできそうです。

(つづく)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながろうことともなったら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばっかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなったら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あっち》に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。
 

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2012年12月22日 (土)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」9・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「在りし日の歌」のとりわけ「永訣の秋」に
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を採らなくて
「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」を選んだ理由が見えてきました。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を
よーく味わっていれば
それを理解できる気がしませんか?

この詩を何度も何度も読んでいると
追悼詩としての絶唱であることを
誰しもが感じとるに違いありません。

次第次第に悲しみが高まってきて
いましも倒れてしまいそうになるほど
詩人の感情にシンクロし
詩の中に入って
詩人の悲しみを悲しむことになります。

悲しみでめまいがする感覚になるのです。
そのように
悲しみの「現在」が
歌われているのです。

あまりに現在的すぎて
「永訣の秋」にマッチしなかったのです。
「在りし日の歌」に採るにも
詩人の今が歌われていて
「過去」のものになっていなかったことを
詩人自ら分かっていたのです。

「あがりぬ」
「ありぬ」
「いぬ」
「きぬ」
「出でぬ」
「買いぬ」
「のりぬ」
「めぐりぬ」
――と完了を示す助動詞「ぬ」で強調すればするほど
現在が浮かび上がります。

全篇を通じて現われる「ぬ」の繰り返しも
「1」で8回も出てくる「かなしからずや」のルフランに
かき消されてしまうためでしょうか。

「また来ん春……」はその点で
「月の光」や
「春日狂想」や
「冬の長門峡」と同じように
内容との距離感があり
作意・創意といったものまであり
過ぎ去りし日へのわかれ歌の域に達しています。

これは作品の完成度の問題ではありません。
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は
稀(まれ)にみる追悼詩です。
その絶唱です。

「永訣の秋」に収めるには
バランスを欠いただけの話です。

「また来ん春……」が
ソネット、75調である上に
「辛いのだ」
「何になろ」
「来るじゃない」
「ニャーといい」
「ニャーだった」
「いたっけが……」
――という口語会話体で書かれていることも
内容との適度な距離を感じさせる効果を生んでいます。

(この項終わり)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

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2012年12月21日 (金)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」8・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

中原中也は中村古峡療養所に入院中の一定期間に
創作を禁じられていたのですが
なにも書いてはならないという厳格な禁止期間はそう長くはなく
特に後半期には
詩篇さえ残していますから
創作意欲は旺盛にあったものの
療養に専念したといえることでしょう。

昭和12年2月27日、鎌倉へ引っ越した日から
「蛙声」が制作された5月14日までが
「在りし日の歌」の第3次編集期とされていますが
この期間には
当初からの詩集タイトル「去年の雪」が維持され
冒頭詩篇は「むなしさ」でした。

「蛙声」の制作が
大きな節目になります。

この詩を「在りし日の歌」の最終詩篇と決めることによって
詩集全体の構成がほぼ完成するのです。
これが第4次編集期です。

「亡き児文也の霊に捧ぐ」の献辞を添えた「在りし日の歌」というタイトルが決まり
「含羞」が冒頭詩篇とされ
そこには「在りし日の歌」のサブタイトルが置かれ
最終詩篇を「蛙声」とする
――とした大枠が次々に決められました。

これらはほぼ同時に決められたと考えるのが
編集という作業という面からみても妥当でしょうから
前後関係はあっても無いのと同然です。

この作業の中で
かねて「別れの秋」という題を候補にしていた第2章を
「永訣の秋」と決め
第1章を「在りし日の歌」としますが
「在りし日の歌」が
詩集全体のタイトルであり
第1章のタイトルであり
冒頭詩「含羞」のサブタイトルでもあるというくどさを
詩人は受け容れました。

詩人は
「これでよし!」としたのです。

ああしようこうしようと
配置を試行錯誤し
ようやく「在りし日の歌」全体の構造が決まったときには
個々の詩篇の配列も
ほとんど決まっていました。

(つづく)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

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2012年12月20日 (木)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」7・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「文也の一生」
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」
「冬の長門峡」
――をインクのペン書きから毛筆に変えて書いたのは
特別な思いを込めたからに違いありません。

このことは愛児文也の突然の死が
詩人に与えた衝撃のすべてを物語るようです。

毛筆で書くなどは前例がないものでしたし
日記から詩へ
詩から詩へ
――という連続と非連続。

特に「夏の夜の博覧会はかなしからずや」から
「冬の長門峡」への連続(と非連続)に耳を澄ませば

ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。

――のポエジーによりいっそう深いところで触れることになるでしょう。

文也の死を過去の事実として
詩人は認めようと努力したのです。

「また来ん春……」は
これら三つの追悼詩(文)とほぼ同時期に作られたものでありながら
どちらが先に作られたか断定できない作品ですが
東京・上野動物園へ文也を連れて行ったときの様子が描かれているのは
「冬の長門峡」以外に共通しています。

「また来ん春……」は
毛筆で書くという特別な心境に入る以前に
文也の死を悼んだ詩として作られたのかもしれません。
とすれば
文也追悼の初めての詩ということになります。

「永訣の秋」に
「また来ん春……」
「月の光 その一」
「月の光 その二」
「冬の長門峡」
「春日狂想」
――と続く「わかれの歌」ですが
悲しみを詩の中に
閉じ込めようとしても
閉じ込めようとしても
滾々(こんこん)と湧き出るかのようなそれを
容易に手なずけることもできずに
詩人はそれをシュール(=超える)する姿勢をとったり……。
真正面から受け止めたり……。

たたかう気持ちを崩しません。

(つづく)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

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2012年12月19日 (水)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」6・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「文也の一生」は日記の8ページにわたって
毛筆で書き付けられました。
そして

7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

――と書いたところで途切れます。

同じ毛筆で書かれたのが
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」で
この詩は発表されていませんが
明らかに「文也の一生」を中断した後で
書き継がれた形跡があり
内容も博覧会に親子3人で行った時のイメージを膨(ふく)らませたものになっています。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」に続けて
「冬の長門峡」が書かれました。
これも毛筆で書かれました。

ここで「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を読んでおきます。
読みやすくするために「新字・新かな」表記に変え、適宜(てきぎ)行アキを加えます。

夏の夜の博覧会はかなしからずや
 
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちょと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に余と坊やとはいぬ
二人蹲(しゃが)んでいぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬかなしからずや
不忍(しのばず)ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりきかなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買いぬ、兎の玩具かなしからずや

   2

その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なお明るく、昼の明《あかり》ありぬ、

われら三人《みたり》飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

夕空は、紺青(こんじょう)の色なりき
燈光は、貝釦(かいボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!
       (一九三六・一二・二四)

※《 》で示したルビは原作者本人によるもの、(  )は全集編集委員会によるものです。

(つづく)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

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2012年12月18日 (火)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」5・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

やや迂回(うかい)しますが
「文也の一生」というタイトルのある「日記」を読んでみましょう。

文也が死んだのは昭和11年11月10日でしたが
翌々日の12日付けで
届けられた香典の内訳をメモして以来途絶えていた日記が
1か月後の12月12日付けで再開されます。

再開されても年明けてすぐに療養生活を余儀なくされるので
自前の日記は書き継がれず
このノートによる日記は
「文也の一生」の3日後に書かれた次男愛雅(よしまさ)の誕生と
戯歌と称した2行詩を記しただけで終りとなります。

読みやすくするために「新字・新かな」表記に変え、適宜(てきぎ)行アキを加えます。

日記(昭和11年12月12日)
文也の一生

 昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒ったによって帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待っていたりしも生れぬので小生一人上京。10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえという日なりき。その午後1時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつづく。

 昭和9年12月10日(ママ)小生帰省。午後日があたっていた。客間の東の6畳にて孝子に負われたる文也に初対面。小生をみて泣く。それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴われて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。(12月9日(ママ)午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来ている。)
 
 手術後長くはないとの医者の言にもかかわらず祖母2月3日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子方部屋の次の次の8畳の間に寝る。祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立っていたり、東の8畳の間。
 
 3月20日頃小生腹痛はげしく34日就床。これよりさき1月半ば頃坊や孝子の乳房を噛み、それが膿みて困る。3月26日呉郎高校に合格。この頃お天気よく、坊やを肩車して権現山の方へ歩いたりす。一度小生の左の耳にかみつく。
 
 4月初旬(?)小生一人上京。4月下旬高森敦夫上京アパ-トに同居す。6月7日谷町62に越す。高森も一緒。6月末帰省。7月10日頃高森文夫を日向に訪ぬ。34にち滞在。7月末祇園祭。花火を買い来て坊やにみす。8月10(ママ)日母と女中と呉郎に送られ上京。湯田より小郡まではガソリンカー。坊や時々驚き窓外を眺む。3等寝台車に昼間は人なく自分達のクーペには坊やと孝子と自分のみ。関西水害にて大阪より関西線を経由。桑名駅にて長時間停車。上京家に着くや坊や泣く。おかゆをつくり、少し熱いのをウッカリ小生1匙口に入れまた泣く。
 
 9月ギフの女を傭う。12月23日夕暇をとる。坊や上京四五日にして匍ひはじむ。「ウマウマ」は山口にいる頃既に云う。9月10日頃障子をもって起つ。9月20日頃立って一二歩歩く。間もなく歩きだし、間もなく階段を登る。降りることもじきに覚える。拾郎早大入試のため3月10日頃上京。間もなく宇太郎君上京、同じく早大入試のため。坊や此の頃誰を呼ぶにも「アウチャン」なり。拾郎合格。宇太郎君山高合格。8月の10日頃階段中程より転落。そのずっと前エンガワより庭土の上に転落。7月10日拾郎帰省の夜は坊やと孝子と拾郎と小生4人にて谷町交番より円タクにて新宿にゆく。ウチワや風鈴を買う。新宿一丁目にて拾郎に別れ、同所にて坊やと孝子江戸川バスに乗り帰る。小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。坊やねたばかりの所なりし。
 
 春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買ってやる。同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニャーニャー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニャーニャー」という。豹をみても鶴をみても「ニャーニャー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。6月頃四谷キネマに夕より敦夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。7月敦夫君他へ下宿す。8月頃靴を買いに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子3人にて夜店をみしこともありき。8月初め神楽坂に3人にてゆく。7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

※「新編中原中也全集 第5巻」より。文中(ママ)とあるのは、考証の結果、詩人の記憶違いであることが判明しているものです。

(つづく)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

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2012年12月17日 (月)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」4・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

5次にわたる編集期は
全集委員会が考えた便宜的な「期間区分」であって
中原中也がいつからいつまでと期間を区切ったものではありません。
創作や編集的な作業を禁じられていた療養中にですら
「頭の中」には「在りし日の歌」の構想が進められていたかもしれないのに
それは表面に出てくることはありませんでした。

詩人は聞き分けがよかったのですし
療養所長の中村古峡という人物を信頼していたのかもしれません。

「また来ん春……」が
昭和11年の年末に制作され
中村古峡療養所を退院して直後に発表されたという事実は見逃してなりません。

発表は第3次編集期に入る直前ということになりますが
これをすでに第3次編集期に入った時期と考えることも可能ですし
逆に第2次編集期に入れることも可能です。
文也の死後およそ1か月して作られた詩が
療養期間中に編集・印刷されて公表されたのです。

そして「また来ん春……」は
文也の死を直接的に歌った初めての作品です。
字義通り追悼詩と呼べるものです。
文学界の同じ2月号に「詩三篇」と題して
「月の光 その一」「その二」とあわせて発表されたのです。

冬来たりなば春遠からじ
春よ来い早く来い
春は名のみの風の寒さや
……
春を待ち望む声は冬の間巷間に満ち溢れます。

またやって来る春、と世間の人はよく口にしますが
それを聞くのが辛くてしょうがない
春が来たからどうなるというんだ
あの子が帰ってくるわけじゃない――。

感じている核心にあるところを
ズバリと言い出すのは
「春日狂想」と同じです。

しかし、思いの丈を述べるだけに流そうとしない意思が
ソネット(4433)、75のリズムという定型に表われます。

叙情を情念のほとばしりにまかせるだけに終らせない。
定型の中に叙情を閉じ込めようとしているかのような。

「また来ん春……」を制作したのと同じ頃
日記に「文也の一生」が書かれていますが
どちらが先に書かれたのか分かっていません。

(つづく)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

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2012年12月16日 (日)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」3・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

昭和11年11月10日、
長男文也が小児結核で死亡するという不幸に見舞われた詩人は
悲嘆の底に沈み、精神に変調をきたしたため
家人のはからいで千葉の中村古峡療養所へ入院したのは
明けて昭和12年1月9日。
1か月以上の療養の末、2月15日に退院し、
2月27日に四谷・市谷の住まいを払い
鎌倉の寿福寺境内の借家へ引っ越します。

文也の死後で昭和11年内に
中原中也が新たに制作した詩篇は
①未発表詩篇「断片」
②未発表詩篇「暗い公園」
③「また来ん春……」
④「月の光 その一」
⑤「月の光 その二」
⑥未発表詩篇「夏の夜の博覧会はかなしからずや」
⑦「冬の長門峡」
――の7篇です。
(※旧作を作り直したり再構成したものを除く。詩篇以外では散文の評論で「感想」「詩壇への願い」「詩壇への抱負」があります。)

「断片」が作られたのは昭和11年11月11日から17日の間と推定され
「冬の長門峡」は昭和11年12月24日(日付けあり)ですから
およそ1か月半の間に7作品を制作しています。

散文を含めれば10作品におよび
昭和11年末の制作意欲は
完全には衰えていなかったことを示しています。

「在りし日の歌」の第3次編集に入るのは
鎌倉に来てしばらくした春頃らしいのですが
2月には「また来ん春……」(文学界2月号)
4月には「冬の長門峡」(文学界4月号)
5月には「春日狂想」(文学界5月号)を発表しています。

千葉の療養所への入退院と鎌倉への引っ越しで
空白を余儀なくされた期間をやり過ごして
2月には詩活動をはじめているということになります。
空白は1月と2月のうちのわずかな期間でした。

この間にも、「在りし日の歌」の編集構想が
「頭の中で」進んでいなかったと断言できるものでもありません。

(つづく)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

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2012年12月15日 (土)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」2・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

中原中也が第2詩集の編集をはじめたことを確定する
具体的資料は実のところなんら残存しません。
「山羊の歌」出版以後に詩人が著(あら)わした日記や書簡にも
編集を開始したという明確な記述は見つかっていません。

つまり全ては
日記や書簡などを参考にして立てられた仮説です。

日記、書簡は詩人本人が書いたものですから第一級の資料ですが
そこに何の記述もないときに
どのような方法で仮説が立てられたか――。

その方法が新全集に明らかにされていますからそれを読むと
推理小説を読むようなスリルとサスペンスに満ちた記述に出会いますが
その記述は文学的立場から逸脱(いつだつ)しない
あくまで実証的手法による考証・校訂に基いています。

それはすでに旧全集(大岡昇平、吉田凞生、中村稔)でとられた方法でしたが
新全集(新たに、宇佐美斉、佐々木幹郎が参加)は旧全集の成果の上に
いくつかの修正や再発見を取り入れて
よりいっそう綿密な記述へと再構築しました。

新旧全集ともに最も有力な手掛かりとしたのは
原稿用紙の種類とそこに書かれた内容で
これらから使用時期を検討し編集時期を推定、
全編集期間を5期間に分類し
それぞれの期間の特徴を分析しました。

その5期間を
ざっと眺めてみますと

第1次編集期 昭和11年前半
第2次編集期 昭和11年後半
第3次編集期 昭和12年春
第4次編集期 昭和12年夏
第5次編集期 昭和12年秋

――となります。
 
第2次編集期と第3次編集期の間に
長男文也の死がありました。

(つづく)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

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2012年12月14日 (金)

「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」・生きているうちに読んでおきたい

「在りし日の歌」の編集はどのような経過で行われたか――。

「永訣の秋」を集中して読んできて残すのは
「また来ん春……」
「春日狂想」
「蛙声」の3作品というところにさしかかりました。

「永訣の秋」の読みがフィニッシュ段階に入るということで
「在りし日の歌」の編集が
愛息・文也の死によって被(こうむ)ったある変更について
ここで目を向けておきます。

「在りし日の歌」は
文也の死(昭和11年11月10日)以前から編集が開始されていましたが
文也の死によって追悼の目的をあわせ持つようになって
「含羞」を冒頭詩とするなどの変更が行われたのですが
そのあたりのこととも関連することです。

「新編中原中也全集」(角川書店)が
他に類例をみない綿密な考証の成果をふんだんに盛り込んでいるのは
小林秀雄による中原中也の死直後の評価の仕事以来
戦後にはじまった大岡昇平や安原喜弘らの仕事へつながれ、
そしてこれらの基礎工事の上に築かれた3次にわたる全集編集へつながれたという
長い歴史的所産であるからです。

新全集(新編中原中也全集)には
大岡が中村稔に参加を呼びかけた第1次(~第3次)
次に吉田凞生(ひろお)が参画した第2次(~第3次)
そして宇佐美斉、佐々木幹郎が参画した第3次編集委員会のメンバーらによる
幾人もの仕事が積み重なっています。

この新全集に
「在りし日の歌」の「成立過程」と「編集過程」がくわしく記述されていますから
それを読んでみれば
「在りし日の歌」は昭和11年前半に編集が開始され
小林秀雄に清書原稿が託される昭和12年9月まで
5回に期間分類できる編集期を経たことが分かります。

(つづく)

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫《にゃあ》といい
鳥を見せても猫《にゃあ》だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

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2012年12月11日 (火)

「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」7・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

中原中也が「現代と詩人」に

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。

――と記したとき念頭にあったのは
真っ先にアルチュール・ランボーとポール・ベルレーヌの二人の詩人のはずでした。
ほかにボードレールやラファルグや
ネルバルやデボルト=バルモールがいたとしても
この二人は別格の存在のはずでした。

「ランボオ詩集」の後記のランボー論は
ランボーを論じるためにはベルレーヌを登場させないではいられないものでした。
この二人の詩人が
「あれ」=「宝島」への最も近い存在でした。

ここでベルレーヌの「言葉なき恋歌」をすこしだけ齧(かじ)ってみたいのですが
中原中也の翻訳はありませんから
鈴木信太郎訳で読んでみます。

鈴木信太郎訳
言葉なき恋歌より

そは やるせなく蕩くる心地

           野には風  
           息を已む。
              (ファヴァアル)

そは やるせなく蕩(とろ)くる心地
恋痴(し)れし身のつかれ、
微風(そよかぜ)に抱擁(だきし)められし
森の戦慄(おののき)、
鈍色(にびいろ)に翳(かす)む梢に
幽(かそ)けくも歌ふ声なり。

おお 爽やかの繊弱(かよわ)き私語(ささやき)。
そは ひそひそと しのびしのびに、
そは 草の そよぎて息も絶え絶えの
粛(しめ)やかの泣く音に似たり……
せせらぎの水の底なる 礫(さざれいし)の
にぶき揺鳴(ゆらぎ)と 君は言ふらむ。

おろ睡る嘆きの中に
すすり哭(な)く この霊魂(たましい)は、
われらが心と 思(おぼ)さずや 君。
わが心と君が心よ、心より
この暖かき夕闇に 仄(ほの)かに昇り
煙と消ゆる つつましき祈の歌。

(「ヴェルレエヌ詩集」岩波文庫、1987年 第31刷より、一部、新漢字に改めてあります。)

中原中也が鈴木信太郎のこのベルレーヌ訳を読んだという形跡はありませんが
ベルレーヌ最高峰の「言葉なき恋歌」に目を通したことは間違いありません。

ここで注目したいのは
冒頭や各所に出てくる「そ」という指示代名詞です。
古語の「そ」ですが
現代語で「それ」です。

「言葉なき歌」を書いた中原中也の頭の中で
ランボーとベルレーヌのことが駆け巡っていたのであれば
この「そ」が何度となく去来したことも想像に難(かた)くはありません。

「言葉なき歌」には
もろにランボーとベルレーヌの影があるのです。

(この項終わり)

言葉なき歌
 
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
 

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

言葉なき歌
 
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない

そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員
会によるものです。

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2012年12月10日 (月)

「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」6・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「言葉なき歌」の「あれ」に似ている使い方をされている詩が
いくつかあることが分かっていますが
そのうちの一つ「現代と詩人」を読んでみましょう。
「新字・新かな」表記にしてあります。

現代と詩人
 
何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だってそれだけが、私にとっては「充実」なのだから。

――そんなの古いよ、という人がある。
しかしそういう人が格別新しいことをしているわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いていれば、
それは、それでいいのだと考うべきものはある。

とはいえそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといってその正体が、シカと掴(つか)めたこともない。

私はそれを、好加減(いいかげん)に推量したりはしまい。
それがハッキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまろう。
それまで私は、此処(ここ)を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

   2

われわれのいる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持ってはいない、持とうがものはないのだ。
さて希望を失った人間の考えが、どんなものだか君は知ってるか?
それははや考えとさえ謂(い)えない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

私は古き代の、英国の春をかんがえる、春の訪れをかんがえる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがえる、旅行家の貌《かお》をかんがえる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居への訪問をかんがえる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据えられた食卓のことをかんがえる。

私は死んでいった人々のことをかんがえる、――(嘗(かつ)ては彼等も地上にいたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがえる、その校庭の、雨の日のことをかんがえる。
それらは、思い出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんだそうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行ったことがあるような気がする。
世界の何処(どこ)だって、行ったことがあるような気がする。
地勢と産物くらいを聞けば、何処だってみんな分るような気がする。

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあって、とても、当今日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふかい)の、陳列みた
 いなものじゃない。それで心の全部が充されぬまでも、サッパリとした、カタルシ
 スなら遂行されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。

 ※《 》内のルビは原作者によるもの、( )内は全集編集員会によるものです。編者。

「言葉なき歌」が「文学界」に発表されたのが
昭和11年の12月号で
この詩「現代と詩人」も同じ12月号の「作品」に発表されています。

二つの詩はメディアは異なるけれど
同年同月号の文芸誌に発表されたということですが
決定的に異なるのは
昭和12年9月に行われた「在りし日の歌」の最終編集で
一つは選ばれ一つは選ばれなかったということです。

「言葉なき歌」が「永訣の秋」へ配置されたということは
「在りし日の歌」という詩集の編集意図をインスパイアーされて
変成されていく過程を経たという意味をもちます。
昭和12年9月の詩人の創意を
「言葉なき歌」は吹き込まれて「再生」されたはずの作品なのです。

この違いを踏まえたうえで
二つの詩を読んでみれば
どれほど近似しているかも分かることでしょう。

特に「1」の第1連第4行に現われる指示代名詞「それ」は
「言葉なき歌」の「あれ」の至近距離にあることを理解するでしょう。

しかし、ここで注目したいのは
最終連の

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。

――です。

(つづく)

言葉なき歌
 
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
 

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

言葉なき歌
 
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない

そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

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2012年12月 9日 (日)

「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」5・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「ランボウ詩集」の「後記」の後半部は
中原中也のランボー論が展開されています。
そして少しはベルレーヌ論も混ざっています。

その中のはじめの部分の

パイヤン(異教徒)の思想だ
彼にとつて基督教とは、多分一牧歌
感性的陶酔
陶酔の全一性といふことが全ての全て
悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した
人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。

――などというランボー「総論」はひとまず置いておきます。

「言葉なき歌」にピタリとクロスするのは

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

――と述べられた部分でしょう。

さらにつづめれば、このくだりの中の

一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きもの

――という一節です。

「言葉なき歌」の「あれ」が
この一節にピンポイントで照応(クロス)しています。

「あれ」は、

かつて一度洞見したことのある(一度見抜いたことのある)
忘れようにも忘れられないし、またもう一度それを表現することもできない
存在することは確かなのだけれど「そこ」へ行く道がわからなくなった宝島のようなもの

――と同じものではありませんか!

さらにつづめて言えば
「あれ」とは「宝島」のことになります。

(つづく)

言葉なき歌
 
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
 

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

言葉なき歌
 
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない

そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員
会によるものです。

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2012年12月 8日 (土)

「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」4・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

はじめに「芸術論覚え書」が書かれ
次に「言葉なき歌」(第1次形態)が書かれ
その次に「ランボウ詩集」の後記が書かれた――というのが制作順序だったようですが
「言葉なき歌」(第2次形態)は「在りし日の歌」の最終編集過程で若干の修正を経て選ばれたのですから
「ランボウ詩集」の後記が書かれたのより後に詩人の眼を通過したと見ることもでき
そうであれば「芸術論覚え書」から次に「ランボウ詩集」の後記へ、
最後に「言葉なき歌」へという順に制作されたと考えることもできます。

しかしこのように厳密に制作順序を特定するということは
たいした問題ではないのかもしれません。

「芸術論覚え書」
「ランボウ詩集」の後記
「言葉なき歌」
――に展開されている詩論や芸術観は
「山羊の歌」以前と「在りし日の歌」以後という期間分類ができるとすれば
明らかに「在りし日の歌」の期間のものでしたから。

これらの詩論や芸術観の出所は
同じところにあったと言えるものですから。

ここで「ランボウ詩集」の「後記」を読んでみます。

 ランボオ詩集
 後記 

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。 
 語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。 

     ★ 

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。 

     ★ 

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、 
それそのおまへと燃えてゐれあ 
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつとヹルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯ヹルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。 

 ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。 

     ★ 

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。

                                              〔昭和十二年八月二十一日〕

※「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」(角川書店)より。「行アキ」を加えてあります。編者。

(つづく)

言葉なき歌
 
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
 

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

言葉なき歌
 
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない

そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

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2012年12月 7日 (金)

「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」3・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「芸術論覚え書」は
昭和9年(1934年)12月から翌10年3月に書かれたらしいことが分かっています。
「山羊の歌」刊行後で
この期間に詩人は生地・山口に帰省中でした。

内容は「名辞」「名辞以前」「現識」という概念を軸にした
詩論であり硬軟の混ざった芸術論であり
第一詩集をようやく発行し
さらに本格的な詩活動へ乗り出そうとする詩人の意気込みに満ちていて
折りあるごとに引用され照会されるこの詩人独特の表現論になっています。

「言葉なき歌」は
他のいくつかの詩作品とともに
この詩論・表現論そのものを韻文=詩で展開したものといえますが
「芸術論覚え書」が「山羊の歌」刊行直後に書かれたのに対し
詩人の死の直前(最晩年)に作られた点に注目したいところです。

詩論の詩である「言葉なき歌」に別格の趣(おもむき)があるが
それは何か――。

「言葉なき歌」ははじめ「文学界」の昭和11年12月号に発表され(第1次形態)、
昭和12年8月から9月の間に行われた「在りし日の歌」の最終編集過程で
わずかに手直しされて「永訣の秋」に収録されました(第2次形態)。

「ランボオ詩集」の翻訳・発行を昭和12年9月に果たし
ただちに「在りし日の歌」編集・清書に取り組み
小林秀雄にその清書原稿を託したのも9月という
慌ただしい日々を詩人は鎌倉の地で送って
それらを成し遂げた後で結核性脳膜炎を発病
10月22日に永眠します。

「ランボウ詩集」と「在りし日の歌」には「後記」が添えられ
「ランボウ詩集」は「昭和12年8月21日」、
「在りし日の歌」は「1937、9、23」と
どちらにも日付けが記されました。

死の直前といってよい時期に
散文による後記が二つ残されたのです。

「在りし日の歌」の後記は
「おおわが東京! さらば青春!」と結ばれたわかれのあいさつみたいなものですが
「ランボウ詩集」の後記は
ランボーおよびベルレーヌに言及した表現論を含み
その意味では「芸術論覚え書」と連続しています。

分析を試みればこのようなことになりますが
「言葉なき歌」を書いた詩人の頭の中には
「ランボウ詩集」の後記で書いたランボーとベルレーヌのことが駆け巡っていた
――というようなことが言えるのではないでしょうか。

すぐれた小説や
すぐれた絵や
すぐれた音楽や
あらゆるすぐれた芸術は
その作品の中に自ずと
小説とは何か
絵とは何か
音楽とは何か
芸術とは何かという問いを含み
それに答えようとしていることがよくありますが
「言葉なき歌」は
そうした問いと答えとを内包する詩です。
それを書く動機にランボーとベルレーヌがあったということになります。

(つづく)

言葉なき歌
 
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
 

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

言葉なき歌
 
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない

そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員
会によるものです。

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2012年12月 6日 (木)

「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」2・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「言葉なき歌」には
いくつかの指示代名詞や
場所・方角を表わす名詞(句)・形容詞が使われ
近くから遠くから
本体(場所)に代わってその内容が指し示されますが
本体の内容は具体的に示されるところまでいきません。

「あれ」
「ここ」(此処)
「あすこ」
「とおいい」(遠いい)
「遙か」
「彼方」
「その方」
――がそれですが
なんといっても重要なのは
「あれ」と「ここ」です。

「あれ」は遠いところにある
「あれ」は遠い彼方で夕陽にけぶっている
「あれ」は号笛(フィトル)の音のように繊弱
「あれ」は煙突の煙のように、茜の空にたなびいている

――が「あれ」の状態ですが、

「ここ」は空気もかすかで蒼く、葱の根のように仄かで淡い状態で、
根気強く待っていなければならず
待ってさえいれば
そのうち喘ぎも平静に復すような場所です。

「あれ」を「ここ」で「待つ」ことの大事さが歌われるのですが
「待つ」というのは
急いではならない
娘の眼のように遙かなものを見るように見やってはならない
その方へ駆け出してはならない
――という否定形でのみ説明される受動的な行為です。

そのようでありながら
堅固な意思を試される「主体的営為」のようでもあり
詩人はそのようにでもしなければ
詩の言葉などが生まれることはないとの確信を記述しているかのようです。

「あれ」は当面「あれ」としか言いようにないコトなのですが
詩はそれを言い表わすことがミッションであり
ミッションなどと概括した途端に
その内容は消えていってしまったり
言い表そうとしたときにすでに別物に変化してしまう場合が多いから
それ「以前」の「それ」を言い表わすためには
まず「感じ」なければならない――。

「言葉なき歌」は
中原中也が「芸術論覚え書」で綿密に述べている詩論の
実践例のような詩です。

(つづく)

言葉なき歌
 
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
 

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

言葉なき歌
 
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない

そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

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2012年12月 5日 (水)

「永訣の秋」詩のわかれ歌のわかれ・「言葉なき歌」・生きているうちに読んでおきたい

存在感のうすいヒト・モノ・コトを扱っているという角度で
「幻影」
「月夜の浜辺」
「村の時計」
「或る男の肖像」
「米子」――を同じ流れにある詩群として見てきましたが
最終詩「蛙声」へと繋がっていくもう一つの流れに
「ゆきてかえらぬ」を起点として
「幻影」
「あばずれ女の亭主が歌った」
「言葉なき歌」を通じる一群があります。

これら詩のモチーフとなっているのは
言葉や詩や詩人といった「表現」に関わるコトです。

「ゆきてかえらぬ」の僕は
不思議な公園の中にいた夜に
銀色に輝く蜘蛛の巣を見ます。

「幻影」の私の頭の中には
薄命そうなピエロが棲んでいて
パントマイムで何かを必死に伝えようとしています。

「あばずれ女の亭主が歌った」の亭主は
病院の淡い匂いに引き込まれます。

「言葉なき歌」のおれが待っているものは
なんら具体的な形を指示されませんが
おれ(=詩人)がもっとも成し遂げたい重大なコトのようです。

この重大なコトは
「蛙声」でよりいっそう具体化されることになります。

「言葉なき歌」に
「言葉」を具体的に示すものはありませんが
タイトルになっていることから
詩の中で「あれ」と表現されているものが
「言葉」や「歌」に関する何かであるのは確実なことです。

このネーミングには少なくとも
詩人が影響を受けたフランスの詩人、ポール・ベルレーヌに
詩集「言葉なき恋歌」Romances sans parolesがあり
その影がこのタイトルにあることが見えます。

(つづく)

言葉なき歌
 
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
 

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

言葉なき歌
 
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡《あわ》い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女《むすめ》の眼(め)のように遥かを見遣(みや)ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛《フィトル》の音《ね》のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない

そうすればそのうち喘(あえ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいていた

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )で示したルビは全集編集委員会によるものです。

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2012年12月 4日 (火)

「永訣の秋」もう一つの女のわかれ・「米子」2・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

長谷川泰子の勝気なばかりではない側面を
「米子(よねこ)」で描いた――。

そう考えてもよいか
そう考えないほうがよいか。

米子は泰子のことを指しているという考えと
米子は泰子とは異なる女性をモデルにしているが
それが誰であるかは特定できないという考えとが対立しながら存在しますが
「泰子」はもはやこの時点で
実在の泰子以上(以外)の「恋人」になっているともいえますから
どちらでもおかしくはないことを頭に入れてこの詩を読んでみます。

ポプラのように、人も通らぬ
歩道に沿って、立っていた。

――と、米子(よねこ)は
人通りのない歩道に「ポプラ」の木のように立っているのですが
バス待ちなのか人待ちなのか
何かを待っているようで
所在なさそうで影がうすい感じなのが
逆に強烈な存在感を放っているのです。

どうしてそう感じられるかといえば
彼女は「肺病やみ」で「腓(ひ)」=ふくらはぎが細くて
すーっと背の高い姿形(すがたかたち)をしている、というところに
ギョッとさせられるからです。

彼女の名前まで知っており
かぼそい声を聞いたこともあるのですから
知り合いらしいのですが
気安く言葉を交わすほどでもなく
「お嫁にいったら元気になるさ」などと軽口を叩ける間柄でもない。

言い出しにくいわけでもなく
言って彼女の気持ち暗くさせてはまずいと思ったのでもなく
ただ言いそびれ言う機会を失った
――という必然(運命)にあっただけのことを言いたいらしい。

何年か、何十年か経った今、
それゆえに気になって仕方ないのです。
雨上がりの歩道に立つ彼女に
もう一度会ってみたいのです。
もう一度そのかぼそい声を聞きたいのです。

そして今度こそ
わかれの最後の言葉をかけて……。

いまや遠い日のことになったあの時の
あの何ということもない日常の一断面に現われた女性。

彼女が誰であるかという関心は消えていかないものですが
それを詮索(せんさく)しなくても
この詩を味わうことができます。

泰子である、
泰子ではない、
泰子以外の女性で詩人が一時心を動かしたことがある女性――などと
想像しながら読んでもまた楽しからずや、です。

「米子」は
昭和11年12月1日付け発行の「ペン」に初出、
昭和12年4月1日付け発行の「文芸懇話会」に再出、
「在りし日の歌」の「永訣の秋」に
「冬の長門峡」と「正午」に挟まって置かれました。

永遠のわかれのあいさつを
女性にもうひとこと言っておきたいという意図を
この配置から感じ取ることができます。

(この項終わり)

米 子
 
二十八歳のその処女《むすめ》は、
肺病やみで、腓《ひ》は細かつた。
ポプラのやうに、人も通らぬ
歩道に沿つて、立つてゐた。

処女《むすめ》の名前は、米子と云つた。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであつた。
――かぼそい声をしてをつた。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
お嫁に行けば、その病気は
癒(なお)るかに思はれた。と、そう思いながら
私はたびたび処女《むすめ》をみた……

しかし一度も、さうと口には出さなかつた。
別に、云い出しにくいからといふのでもない
云つて却《かえ》つて、落胆させてはと思つたからでもない、
なぜかしら、云はずじまいであつたのだ。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
歩道に沿つて立つてゐた、
雨あがりの午後、ポプラのやうに。
――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

米 子
 
二十八歳のその処女《むすめ》は、
肺病やみで、腓《ひ》は細かった。
ポプラのように、人も通らぬ
歩道に沿って、立っていた。

処女《むすめ》の名前は、米子と云った。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであった。
――かぼそい声をしておった。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
お嫁に行けば、その病気は
癒(なお)るかに思われた。と、そう思いながら
私はたびたび処女《むすめ》をみた……

しかし一度も、そうと口には出さなかった。
別に、云い出しにくいからというのでもない
云って却《かえ》って、落胆させてはと思ったからでもない、
なぜかしら、云わずじまいであったのだ。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
歩道に沿って立っていた、
雨あがりの午後、ポプラのように。
――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思うのだ……

 
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2012年12月 3日 (月)

「永訣の秋」もう一つの女のわかれ・「米子」・生きているうちに読んでおきたい

「米子」は「よねこ」ですから
なぜまたこんなところに女性の固有名を冠した詩が配置されたのかと
首をひねることになりそうですが
作品内容で見れば
「村の時計」の流れで連続していることが見えてきました。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
肺病やみで、腓《ひ》は細かった。
ポプラのように、人も通らぬ
歩道に沿って、立っていた。

――という書き出しですから
ひっそりと健気(けなげ)そうに生きている女性で
「村の時計」に引けをとらない影のうすい存在感です。

この女性は誰のことを歌っているのか?
――と現実のモデルを探すのは無意味なことでしょう。
そうとは知りながら
あくまで一つの見方ですが
詩人の「永遠の恋人」長谷川泰子とは異なる女性のようだなどと
自然に憶測の羽根が広がります。

しかし、米子(よねこ)は泰子ではなさそうと思った途端に
いや泰子であってもおかしくはないというもう一つの考えが出てきます。

「或る夜の幻想」の「3 彼女」の最終連
  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。

――とシュールな表現で
元気のよさそうな女性が長谷川泰子をモデルにしているのなら
「米子(よねこ)」の影のうすいのとは対照的に見えますが
いやここで泰子のもう一つの顔が描かれたとしても変ではないと考え直したらどうなるか。

なかなか捨てがたいアイデアとして
浮かんでくるではありませんか。

そうとなると
「或る夜の幻想」の再構築の際
一度は排除した「彼女」を
別の形でよみがえらせたと考えることができます。

(つづく)

米 子
 
二十八歳のその処女《むすめ》は、
肺病やみで、腓《ひ》は細かつた。
ポプラのやうに、人も通らぬ
歩道に沿つて、立つてゐた。

処女《むすめ》の名前は、米子と云つた。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであつた。
――かぼそい声をしてをつた。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
お嫁に行けば、その病気は
癒(なお)るかに思はれた。と、そう思いながら
私はたびたび処女《むすめ》をみた……

しかし一度も、さうと口には出さなかつた。
別に、云い出しにくいからといふのでもない
云つて却《かえ》つて、落胆させてはと思つたからでもない、
なぜかしら、云はずじまいであつたのだ。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
歩道に沿つて立つてゐた、
雨あがりの午後、ポプラのやうに。
――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

米 子
 
二十八歳のその処女《むすめ》は、
肺病やみで、腓《ひ》は細かった。
ポプラのように、人も通らぬ
歩道に沿って、立っていた。

処女《むすめ》の名前は、米子と云った。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであった。
――かぼそい声をしておった。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
お嫁に行けば、その病気は
癒(なお)るかに思われた。と、そう思いながら
私はたびたび処女《むすめ》をみた……

しかし一度も、そうと口には出さなかった。
別に、云い出しにくいからというのでもない
云って却《かえ》って、落胆させてはと思ったからでもない、
なぜかしら、云わずじまいであったのだ。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
歩道に沿って立っていた、
雨あがりの午後、ポプラのように。
――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思うのだ……

 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

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2012年12月 2日 (日)

「永訣の秋」存在のわかれ・「村の時計」2・生きているうちに読んでおきたい

(前回からつづく)

「村の時計」は

一日中休むことなく働いていて
字板のペンキにはつやがなく
近くで見れば細(こま)かなひび割れがあり
夕方の陽にあたっておとなしい色合いをしていて
時刻を鳴らすときにはゼーゼーと音を出し
その音はどこから出ているのか誰にもわからない

――とだけを述べた詩です。

だからどうしたというような感想は見当たりませんし
風景の一つも歌われていませんが
どこかの村の役場だとか教会だとかの広場みたいなところにある
ゼンマイ仕掛けの大きな時計を思い浮かべることができ
その時計は村人たちに目立って感謝されているわけでもないけれど
日々の暮らしに欠かせない役割をこなしている
確実で誠実で安定した頼りがいのある存在であることをイメージできるでしょう。

世界中の村のどこにでも
このような大きくて古ぼけていながら
現役として働いている老兵のような時計が存在する――と
誰しもが抱いている古い記憶を呼び起すことだけが
この詩には重要な役目であるかのようです。

「村の時計」は
連詩「或る夜の幻想」の構造を見れば分かるように
「彼」に関しての詩の一部でした。
「彼女」についての部分と「彼」についての部分で構成された詩の
「彼」の部分に属する詩でした。

それが分解されて
「彼」は独立しました。

この「彼」とは
私の頭の中に棲んでいた薄命そうなピエロ(幻影)
――のピエロのようであり(そのピエロを思う私のようであり)、
遠い彼方で夕陽にけぶっていたフィトル(号笛)の音のように繊弱なあれ(言葉なき歌)
――のようであり(それを待ち望んでいる詩人のようであり)、
月夜の晩の浜辺に落ちていたボタン(月夜の浜辺)
――のボタンのようであり(それを拾った僕=詩人のようであり)、
注意していないと見過ごしてしまいそうに存在感のうすいヒト・モノ・コトの仲間でした。

やがて「彼」は
「或る男の肖像」に姿形を変えますが
そこではすでに死んだ男として現われ
さらには「米子」の女性になり
最後には「蛙声」の蛙になります――。

(この項終わり)

村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた

その字板(じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた

近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす動いていた

その字板(じいた)のペンキは
もう艶が消えていた

近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった

それで夕陽が当ってさえか、
おとなしい色をしていた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった
 
※「新編中原中也全集」より。( )で示したルビは、全集編集委員会によるものです。

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2012年12月 1日 (土)

「永訣の秋」存在のわかれ・「村の時計」・生きているうちに読んでおきたい

「或る夜の幻想」のうち
「1 彼女の部屋」「3 彼女」は除外され
「2 村の時計」は同じタイトルで「村の時計」として
「4 或る男の肖像」「5 無題」「6 壁」は「或る男の肖像」として
独立した詩に仕立てられました。

「村の時計」は「永訣の秋」の中で
「月の光」と「冬の長門峡」の間に
「或る男の肖像」とともに配置されています。

原形詩「或る夜の幻想」の構造を知れば
詩人の意図が少し理解できた気がしますが、
もうすこし「村の時計」はなぜ「永訣の秋」に選ばれたのかを考えてみましょう。

なぜこの詩はここにあるのでしょうか?

「永訣の秋」のほかの作品とくらべて
どことなく影の薄い感じのするこの詩が
なぜここに選ばれたのでしょう。

「村の時計」を
何度も何度も読んでいると
ようやく浮かんでくることがあります。

どこか覚えのある存在――。
存在感のうすい存在――。

「永訣の秋」のページをめくれば
そのような存在がいくつかあるのに気づきます。

私の頭の中に棲んでいた薄命そうなピエロ(幻影)
遠い彼方で夕陽にけぶっていたフィトル(号笛)の音のように繊弱なあれ(言葉なき歌)
月夜の晩の浜辺に落ちていたボタン(月夜の浜辺)
……
「或る男の肖像」の男も影がうすく、すでに死んでいました――。
……
「米子」のかぼそい声の女もそうです――。

ひっそりと、おとなしく
どっこい生きている!
(「或る男の肖像」の男は死んでしまいましたが、詩に語られているのは生前です)

これら存在感のない
影がうすい存在――ヒト・モノ・コト。

「村の時計」もこれらの仲間です。

(つづく)

村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた

その字板(じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた

近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす動いていた

その字板(じいた)のペンキは
もう艶が消えていた

近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった

それで夕陽が当ってさえか、
おとなしい色をしていた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった
 
※「新編中原中也全集」より。( )で示したルビは、全集編集委員会によるものです。

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