神奈川近代文学館 「中原中也の手紙」展-安原喜弘へ
神奈川近代文学館 「中原中也の手紙展-安原喜弘へ」が公式スケジュールにのりました。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 | 31 |
« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »
神奈川近代文学館 「中原中也の手紙展-安原喜弘へ」が公式スケジュールにのりました。
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる「人名」のうちの日本人を見ていますが
面識があった人物のうちの
【河上徹太郎】
【内海誓一郎】
【阿部六郎】
【青木三造】
【昇平】
――の5人は同人誌「白痴群」のメンバーでした。このうちの3人【阿部六郎】【青木三造】【昇平】は、いわゆる「成城ボーイ」です。【青木三造】は安原喜弘、【昇平】は大岡昇平であることは言うまでもありません。
【関口隆克】は1904年生まれ1987年死去ですから、中也より3歳上の人。昭和3年春、旧友の石田五郎と北沢の1軒家で自炊生活をしていたところへ中原中也が転がり込んだというのが二人のなれそめでした。「スルヤ」の諸井三郎が中也を関口の住まいに連れてきたのです。文部省の役人を務めた後、開成学園中学そして高校の校長になります。生徒たちから「りゅうこくさん」と親しまれた教育畑の人です。中原中也について幾つかの文章を残しています。その一つ「北沢時代以後」は、昭和12年「文学界」の12月号に載せた追悼文です。中から、少しだけ抜粋(ばっすい)しておきます。
◇
(略)3人の生活と云っても、一切は五郎さんがやった。朝早く炭火を熾す焚付けの煙が家中に流れていて、井戸のポンプを押す音の中に低い五郎さんの口笛が聞えるのを、隣合せのベットの中に寝ている中原は大きな眼を開けて聞いていた。晩方になると3人が3人で夕食の材料をぶらさげて帰ってくる。中原はみつばのしたしが好きで毎日それを買って来たが時期によって値段に高低のあることに気付かなかったので、20何円か八百屋に支払った月があった。中原は料理には知識もあり自信もあったが、当座の用にはたたなかった。五郎さんが黙っててきぱき調理している傍で、中原は次ぎ次ぎに失敗をしては、何の手助けも出来ないのを悲しんだ。ただ、葱の刻んだのを水に晒してソースをかけて食べる料理は中原の発明で、それを作るのは中原に限ることになっていた。布片にくるんで長いこと氷の様に冷たい井戸水の中に入れてもんで、きらきら光る白い葱の山を皿にのせて運んで来る時に、中原は嬉しそうであった。(略)
(※「新編中原中也全集・別巻(下)」より。「新かな」に直してあります。編者。)
◇
中也の満足そうな顔が見えるようです。詩作品には見られない「とろけるような幸福の時」が関口によって書き残されました。
【諸井三郎】(1903年8月7日~1977年3月24日)は、「スルヤ」をリードしていた作曲家で、後に幾つかの交響曲やオペラなどを発表、その名を音楽史にとどめました。内海誓一郎と同じく中原中也の「朝の歌」「臨終」「老いたる者をして」に曲を付けました。中野の「炭屋の2階」で中原中也から作曲を頼まれたシーンを回想する口ぶりは、内海とまるで同じです。諸井と内海と関口と……が、「炭屋の2階」へ案内され、「山羊の歌」の「初期詩篇」の書かれた原稿用紙の束を読んだのです。
諸井の回想「『スルヤ』の頃の中原中也」を少し読んでおきましょう。
◇
中也と私との出会い、これは今でもはっきりと憶えている程印象の強いものだった。そのころ中野駅の近くに住んでいた私は、ある日、買物をしようと家を出た。少しいった細い道で、まことに変った格好をした一人の若者とすれ違った。一目で芸術にうつつを抜かしているとわかるような格好だったが、黒い、短いマントを着、それに黒いソフトのような帽子をかぶった、背の低い、小柄なその人物は、一種異様な、しかし強烈な印象を与えずにはおかなかったが、お互になにか心にひっかかるのを感じながら、その時は、そのまますれ違ってしまった。
買物をすませて家に帰り、しばらくして家で休んでいると、玄関に人の声がする。出て見ると、そこにはさっきの黒ずくめの青年が立っている。私は用件をたずねると、彼は一通の紹介状を出した。それは河上徹太郎の書いたものだったが、それによって、私は彼が中原中也なる詩人であることを知ったわけである。この日から、約半年間、中也は毎日私の家に来ていた。彼は、大通りをへだてた私の家と反対側の炭屋の2階に住んでいたが、毎日夕方になると私の家にあらわれる。そして、まず煉炭ストーブの用意をし、それから芸術の話をする。夕食をいっしょにしてから、たいてい夜中の2時頃まで語り合い、そして帰っていくのだった。半年間は、これが彼の日課だったわけで、今考えると、よく話すことがあったものだと思う。(略)。
(※「新編中原中也全集・別巻(下)」より。「新かな」に直してあります。編者。)
◇
「半年間、毎日」というのが大げさでない、詩人と音楽家のぶつかり合いが髣髴(ほうふつ)としてきます。
【青山二郎】は、新宿・花園アパートの主(あるじ)。ひとときは、「梁山泊」もしくは「鬼の棲み家」に喩えられるほど様々な人間が出入りしました。大岡昇平はここを「青山学院」と呼びました。中也も孝子夫人と生まれたばかりの長男文也とともにここの2階に住んでいたことがあります。
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる「人名」のうちの日本人を見ていますが
残るのは、面識があった人物だけとなりました。
【河上徹太郎】
【内海誓一郎】
【阿部六郎】
【関口隆克】
【泰子】
【安原喜弘】
【諸井三郎】
【小林秀雄】
【青山二郎】
【青木三造】
【高橋新吉】
【昇平】
【秋岸清凉居士】
――ですが、このうち【秋岸清凉居士】は弟恰三の戒名ということで別格とすれば、
ほかは極めて近くに存在した「当事者」みたいな人ばかりです。
【青木三造】は、中也からの手紙・葉書を合計101件を保存していた親友安原喜弘をモデルにした小説や詩の主人公名ですし、【泰子】【小林秀雄】【昇平】は中也を巡る実人生のドラマのコア(核)になるキャラクター(登場人物)ですし、【河上徹太郎】【内海誓一郎】【阿部六郎】【関口隆克】【諸井三郎】【青山二郎】も、中也の交友圏内の至近距離に存在した人々でした。
【高橋新吉】は、何度か面談しているダダイストで、ふだんの交流はなく、交友というよりは文学上の先輩格でした。中原中也は自ら書いた小自伝「詩的履歴書」に「大正12年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり、その年の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇に感激。」と記しました。
ここで「ダダイスト新吉の詩」の中の詩を一つだけ読んでおきましょう。
◇
(皿)
皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
倦怠
額に蚯蚓這う情熱
白米色のエプロンで
皿を拭くな
鼻の巣の白い女
其処にも諧謔が燻すぶっている
人生を水に溶かせ
冷めたシチューの鍋に
退屈が浮く
皿を割れ
皿を割れば
倦怠の響が出る
※「新かな」表記にしてあります。編者。
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる日本人を見ています。
【松井須磨子】(まつい すまこ)といえば、なんといっても「カチューシャの唄」を歌った女優として有名です。1913年(大正2年)、劇作家・詩人島村抱月とともに芸術座を旗揚げ、トルストイの「復活」翻案劇の中で「カチューシャの唄」を歌ったところ大評判になり、以後、須磨子は劇以外の場所でもこれを歌い、レコードも出しました。妻子ある抱月との恋愛でも話題になっていましたが、抱月がスペイン風邪をこじらせて急逝した翌1919年、後を追って自殺したことが伝わっています。1886年(明治19年)生まれですから、30代半ばでの生涯でした。
松井須磨子は、「脱毛の秋 Etudes」第8連に登場します。その部分を読んでおきましょう。
8
とある六月の夕(ゆうべ)、
石橋の上で岩に漂う夕陽を眺め、
橋の袂(たもと)の薬屋の壁に、
松井須磨子のビラが翻(ひるがえ)るのをみた。
――思えば、彼女はよく肥っていた
綿のようだった
多分今頃冥土(めいど)では、
石版刷屋の女房になっている。――さよなら。
◇
【白秋】はむろん「北原白秋」のことです。1885年(明治18年)1月25日生まれ1942年(昭和17年)11月2日没。詩人であり童謡作家であり歌人でもありました。松井須磨子より1年早い生まれです。明治末から大正、昭和初期・中期に多方面で活躍し、終戦をむかえる前に亡くなりました。詩集「邪宗門」「思ひ出」「東京景物詩」「白金之独楽」「水墨集」「海豹と雲」など、歌集「桐の花」「雲母集(きららしゅう)」「白南風(しらはえ)」「黒檜(くろひ)」など、童謡集「からたちの花」「トンボの眼玉」を残しました。ほかにも、「松島音頭」、「ちゃっきり節」などの民謡や、童謡の多くは現在も歌い継がれています。国民的愛唱歌になっている童謡には、「雨降り」「ゆりかごのうた」「砂山」「からたちの花」「この道」「ペチカ」「あわて床屋」「待ちぼうけ」「城ヶ島の雨」などがあります。
萩原朔太郎が第1詩集「月に吠える」を出版して詩壇に衝撃を与えたのは大正6年ですが、この詩集の序文を白秋が書いて応援したのも有名なことです。中原中也は、やがて「四季」を通じて萩原朔太郎の知遇を得ることになりますが、白秋と会うことはありませんでした。
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる日本人を見ています。
◇
【丹下左膳】(たんげさぜん)は、林不忘(はやしふぼう)の新聞小説に登場する隻眼隻腕(せきがんせきわん)の剣術使いのことですが、映画化されて、一躍時代のヒーローとなった架空の人物です。中原中也は、おそらく映画で見たか、映画の案内を新聞・雑誌で読んだかして、丹下左膳のことを知ったのであろうと推察されます。嵐寛寿郎、大河内伝次郎、阪東妻三郎、大友柳太朗といった俳優が次々に左膳を演じ、国民的人気を博しました。
【大高源吾】(おおたかげんご)は、討ち入りで名高い赤穂四十七士の一人。藩主の浅野長矩(あさの・ながのり)の死後、江戸に出て脇屋新兵衛と変名し吉良義央(きら・よしなか)邸をうかがった浪士として有名です。討ち入り後に切腹しました。俳人でもあり、子葉と号した実在の人物です。
【三富朽葉】は「みとみ・くちは」または「みとみ・きゅうよう」と読みます。1889年(明治22年)生まれ1917年(大正6年)没の詩人。フランス象徴詩に関する評論を翻訳し、論文を著しました。中原中也は、昭和9年9月に書いた未発表評論「無題(自体、一と息の歌)」に、「後期印象派の要求が要望される限り、明治以来今日に到るまで、辛うじて三富朽葉と、岩野泡鳴を数えることしか出来ないように思われる」などと述べています。また、昭和11年(1936年)10月30日の日記に、「先達から読んだ本。リッケルトの「認識の対象」。コフマンの「世界人類史物語」。「三富朽葉全集」。「パスカル随想録(抄訳)」。「小林秀雄文学読本」。「深淵の諸相」。「芭蕉の紀行」少し。」――などと記しました。全集を仕入れるほど、三富朽葉は、岩野泡鳴らとともに、ランボーなどフランス詩の翻訳に没頭していた詩人に必読書のようでした。
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる「人名」の日本人を見ていますが、
【すずえ】【むつよ】についてもう少し寄り道をしてみます。
「初恋集」にタイトルとして登場する「すずえ」と「むつえ」は
「すずえ」は十四で僕は十五で
「むつえ」は僕より一つ上となっていますから別人のようでありますが
同じ女性であると推察するのが自然でしょう。
(おまえが花のように)の女性も
同じ初恋の女性と考えてよいことでしょう。
そもそも、「事実と詩の関係」は
事実上のモデルがそのまま詩の女性とイコールであるか否かを問うことが無意味であり
ここでそれを問うことの無意味さを了解していることを前提にしています。
そうであっても
「中原中也の初恋の女性」というだけで
この無意味さはどこかへすっ飛んでしまうのですから
理屈ではいえない面白さがここに潜んでいることになります。
◇
新全集第2巻・解題篇の案内によれば
「初恋集」「すずえ」の第1節第2連に
あなたはその時十四でした
僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会って
ほんの一週間、一緒に暮した
――とあるのは
未発表小説「(それは彼にとって)」に登場する「文江」と符号します。
大正9年の7月と12月、
中原中也は山口中学1年生の夏休みと冬休みの2度、
門司の親戚、野村家を訪問しています。
その様子を書いたのが「(それは彼にとって)」という無題の小説で
制作は大正14年(1925年)春と推定されています。
大正14年春といえば、
まさに長谷川泰子とともに東京へ出てきた頃のことです。
上京前か後かわかりませんが
この頃、5年前に抱いた初恋の感情を小説にしたこと自体が面白いことではありませんか。
◇
未発表小説「(それは彼にとって)」には
父謙助の命で一家の代表として門司の親戚を訪問したときの様子が書かれていますが
このあたりの背景を母フクは
「私の上に降る雪は」(中原フク述、村上護編)の中で
中也が中学1年の夏休みに、門司の親類にいかせたことがありました。夏休み40日も、学校にいかずに家にいると、やかましゅうてどうにもなりませんので、どこか親類にでもやったらええ、と謙助がいいはじめたんです。私には兄弟がおりませんから、なかなか気軽に遊びに行かせられるところがありません。それで門司の野村という謙助のほうの親類の家ですが、そこに子供がおりませんし、裕福でしたから、あそこへやろう、と謙助がきめたんです。まあ人の迷惑になることも考えないで、中也と恰三のふたりを、そこへ追いやったわけなんですよ。
そのころ、野村政一さんの姪とかで、門司の野村家に娘さんがおったらしいんです。中也とその娘さんが仲ようなって、湯田に帰ってきてから、中也は文通をはじめておりました。その娘さんからは、なんとかという本を買って送ってくれとか、そんな手紙がきよりました。これはあんまり親しゅうなりすぎると、間違いをおこすじゃろうからと、私は心配しました。手紙のやりとしも、あまりさせんほうがよかろうと、私はそれを禁止しておりました。中也はそのことに対しては、えらい機嫌が悪かったんですよ。
――などと語っています。
◇
「初恋の女性」を中原中也が「初恋集」や「(おまえが花のように)」に歌ったのは
昭和10年1月11日。
中学1年で門司の親戚を訪問したときから10年の歳月が流れていました。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる「人名」で日本人を見ていきます。
新全集の配列順に見ていくと、
【河上徹太郎】
【内海誓一郎】
【阿部六郎】
【関口隆克】
【白秋】
【泰子】
【安原喜弘】
【文子さん】
【諸井三郎】
【大高源吾】(おおたかげんご)
【小林秀雄】
【丹下左膳】(たんげさぜん)
【三富朽葉】
【青山二郎】
【青木三造】
【松井須磨子】
【高橋新吉】
【昇平】
【秋岸清凉居士】
【青山二郎】
【すずえ】
【むつよ】
――というラインナップになります。
これを少し整理してみると、
まずは【小竹の女主人(ばばあ)】は「地名」でコメントしましたから除きます。
次に、【丹下左膳】(たんげさぜん)は、小説の中の人物ですから、実在しない、架空の人物ということで他と区別できます。次に、【大高源吾】(おおたかげんご)も、江戸時代の人物。
【三富朽葉】は1889年(明治22年)生まれ1917年(大正6年)没の明治人ということで、【白秋】は、北原白秋(きたはら はくしゅう)で、1885年(明治18年)生まれ1942年(昭和17年)の死没、【松井須磨子】(まつい すまこ)は、1886年(明治19年)生まれ1919年(大正8年)没ですから、中原中也(1907年~1937年)より少し前の時代を生きた人ということで他と区別できます。このうち、【三富朽葉】【白秋】は文学者ということでひとくくりできます。
残る人物は、面識があった人物ばかり。【河上徹太郎】【内海誓一郎】【阿部六郎】【関口隆克】【泰子】【安原喜弘】【諸井三郎】【小林秀雄】【青山二郎】【青木三造】【高橋新吉】【昇平】【秋岸清凉居士】――となります。
【文子さん】【すずえ】【むつよ】は、幼馴染(おさななじみ)や初恋の女性で、特定されない人ですが、考証が進んで、かなりのことが判明しています。【文子さん】は、ジュール・ラフォルグの詩「お月様のなげきぶし」の影響がいわれています。上田敏の訳詩が大正12年に出版されていますから、それを読んだことがあり、ラフォルグの原詩を読んだ可能性も高いものです。上田敏訳では「お姉様(あねさま)」という訳語が見られます。幼少時に、姉にあたるような女性が詩人の周辺に存在したことが想像されますが、そうでなくとも、姉一般を「文子さん」とした作意は伝わってきます。
ここで、これらの人名が現われる詩を読んでおきましょう。
◇
月
今宵(こよい)月は襄荷(みょうが)を食い過ぎている
済製場(さいせいば)の屋根にブラ下った琵琶(びわ)は鳴るとしも想(おも)えぬ
石灰の匂いがしたって怖(おじ)けるには及ばぬ
灌木(かんぼく)がその個性を砥(と)いでいる
姉妹は眠った、母親は紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!
さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちている、いやメダルなのかァ
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやろう
ポケットに入れたが気にかかる、月は襄荷を食い過ぎている
灌木がその個性を砥いでいる
姉妹は眠った、母親は紅殻色の格子を締めた!
◇
初恋集
すずえ
それは実際あったことでしょうか
それは実際あったことでしょうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
ああそんなことが、あったでしょうか。
あなたはその時十四でした
僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会って
ほんの一週間、一緒に暮した
ああそんなことがあったでしょうか
あったには、ちがいないけど
どうもほんとと、今は思えぬ
あなたの顔はおぼえているが
あなたはその後遠い国に
お嫁に行ったと僕は聞いた
それを話した男というのは
至極(しごく)普通の顔付していた
それを話した男というのは
至極普通の顔していたよう
子供も二人あるといった
亭主は会社に出てるといった
(一九三五・一・一一)
むつよ
あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしっかりしてると
僕は思っていたのでした
ほんに、思えば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だった。
その後、あなたは、僕を去ったが
僕は何時まで、あなたを思っていた……
それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあったのを
あなたは、それが家(うち)のだとしらずに、
それと、暫く遊んでいました
僕は背戸(せど)から、見ていたのでした。
僕がどんなに泣き笑いしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたって
それはそれは涙のような、きれいな夕方でそれはあった。
(一九三五・一・一一)
終歌
噛(か)んでやれ。叩いてやれ。
吐(ほ)き出してやれ。
吐き出してやれ!
噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!
(懐かしや。恨めしや。)
今度会ったら、
どうしよか?
噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
(一九三五・一・一一)
◇
(おまえが花のように)
おまえが花のように
淡鼠(うすねず)の絹の靴下穿(は)いた花のように
松竝木(まつなみき)の開け放たれた道をとおって
日曜の朝陽を受けて、歩んで来るのが、
僕にみえだすと僕は大変、
狂気のようになるのだった
それから僕等磧(かわら)に坐って
話をするのであったっけが
思えば僕は一度だって
素直な態度をしたことはなかった
何時(いつ)でもおまえを小突(こづ)いてみたり
いたずらばっかりするのだったが
今でもあの時僕らが坐った
磧の石は、あのままだろうか
草も今でも生えていようか
誰か、それを知ってるものぞ!
おまえはその後どこに行ったか
おまえは今頃どうしているか
僕は何にも知りはしないぞ
そんなことって、あるでしょうかだ
そんなことってあってもなくても
おまえは今では赤の他人
何処(どこ)で誰に笑っているやら
今も香水つけているやら
(一九三五・一・一一)
◇
【すずえ】【むつよ】については、新全集第2巻・解題篇の案内が有益です。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩のうち
「生前発表詩篇」「未発表詩篇」に現われる海外の「人名」を見ていますが
【キリスト】【クリスト】【釈迦(しゃか)】――の宗教者は説明するのがとてもむずかしい。
その理由は、わかっているようでわかっていないからです。
あえて言うとすれば、【釈迦(しゃか)】は、仏教の開祖で紀元前460年代に生まれ紀元前380年代に亡くなった人。生没年には異説があり、100年ほどの差があります。俗に「ゴータマ・シッダッタ」。漢字で「悉達多」と表わすこともあります。【キリスト】【クリスト】は、言い方が異なるだけで、「イエス・キリスト」のこと。「イエズス・キリストス」「イエズス・クリストス」と呼ぶこともあります。「イエス」「キリスト」とそれぞれ単独で言う場合もあり、「イエス・キリスト」と言う場合、「イエスであるキリスト」「キリストであるイエス」というような意味合いになり、「イエス」も「キリスト」も「=」の関係です。紀元前4年頃に生まれ 紀元後28年頃に亡くなったとされています。「釈迦」は「キリスト」のおよそ400年前を生きた人と考えればよいのではないでしょうか。
【バルザック】【ミレー】【ナポレオン】【ランボオ】――のうち
【ナポレオン】のほかは芸術家ですから
ここで簡単にひもといておきましょう。
◇
【バルザック】 バルザックは、1799年に生まれ1850年に死んだフランスの小説家です。昭和5年(1930年)、5月29日付けで安原喜弘に宛てた葉書に「バルザックを久し振りに読んだ。面白い!ドストエフスキーなぞよりよっぽどいい。」と書いています。(バルザック)という無題のダダ詩は「ノート1924」にあるものですから、京都時代の制作で、この葉書よりも7年ほど前のものです。「文学に耽りて落第」した青年詩人が、その詩的履歴の立ち上がりの時期にバルザックを読み、7年後の東京生活でも「面白い!」と感想を洩らしているわけです。ダダ詩(バルザック)は晦渋(かいじゅう)で難解ですが、バルザックを褒(ほ)めているようにはみえません。「収縮」「胃病」「明治時代」「病気」「退屈」「嫌で嫌で」などと否定的な表現が連続しています。京都から東京へと活動の拠点を移したこの間に、富永太郎、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平といった面々――彼らはみなフランス文学に関心を抱いていました――との出会いがありました。中原中也は、この出会いの中で、ランボーやベルレーヌや……バルザックをも読みました。
(バルザック)
バルザック
バルザック
腹の皮が収縮する
胃病は明治時代の病気(モノ)らしい
そんな退屈は嫌で嫌で
悟ったって昴奮(こうふん)するさ
同時性が実在してたまるものか
空をみて
涙と仁丹(じんたん)
雨がまた降って来る
◇
【ミレー】は、ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)のこと。1814年10月4日生まれで1875年1月20日死亡ですから、バルザックより15年前に生まれ、同じ年に亡くなった画家。同時代を生きたといってもよいでしょう。「種まく人」「晩鐘」「落穂拾い」などで有名で、テオドール・ルソー、コローらとともに農村風景や農民の風俗を多く描いたために「バルビゾン派」と称されています。パリ南方・フォンテーヌブローの森の一角にバルビゾンという村があり、この村に住んで、彼らは絵を描きました。
ミレーの登場する詩をみておきましょう。
◇
さまざまな人
抑制と、突発の間をいったりきたり、
彼は人にも自分にも甘えているのです。
※
彼の鼻は、どちらに向いているのか分らない、
真面目のようで、嘲(あざけ)ってるようで。
※
彼は幼時より変人とされました、
彼が馬鹿だと見られさえしたら天才でしたろうに。
※
打返した綿のようになごやかな男、
ミレーの絵をみて、涎(よだれ)を垂らしていました。
※
ソーダ硝子(ガラス)のような眼と唇とを持つ男、
彼が考える時、空をみました。
訪ねてゆくと、よくベンチに腰掛けていました。
落葉が来ると、
足を引込めました。
彼は発狂し、モットオを熱弁し、
死んでゆきました。
◇
【ランボオ】は別項で案内することにして、【ナポレオン】について簡単に。ナポレオン・ボナパルトは、1769年に生まれ1821年に亡くなっていますから、およそ50年の生涯でした。フランス革命で混乱した国内政治を収め、1804年には皇帝の地位に着きます。軍事独裁政権によって「ナポレオン戦争」を遂行しヨーロッパ各国を支配下に収めていきますが、1808年のスペイン独立戦争あたりからかげりを見せはじめ、1813年10月のライプチヒの戦いでは対仏同盟軍に破れ、1814年首都パリが陥落、エルバ島へ追放されます。その後、ブルボン王朝による王政復古があり、1815年、ナポレオンはエルバ島から脱出して復活しましたが(「百日天下」)、ワーテルローの戦いでイギリス・プロシアの連合軍に破れ、セント・ヘレナ島へ幽閉されました。この南太平洋の孤島で1821年に死亡します。
中原中也は「脱毛の秋 Etudes」の最終連で、
私は親も兄弟もしらないといった
ナポレオンの気持がよく分る
ナポレオンは泣いたのだ
泣いても泣いても泣ききれなかったから
なんでもいい泣かないことにしたんだろう
人の世の喜びを離れ、
縁台の上に筵(むしろ)を敷いて、
夕顔の花に目をくれないことと、
反射運動の断続のほか、
私に自由は見出だされなかった。
――とナポレオンを登場させます。
ナポレオンの伝記を何かで読んだのでしょう、コルシカ島で12人の兄弟姉妹(4人は夭逝)の4番目に生まれ育った英雄の幼時(少年時代)を思い、「ナポレオンは泣いたのだ 泣いても泣いても泣ききれなかったから なんでもいい泣かないことにしたんだろう」と歌ったのは、「三歳の記憶」で「あーあほんとに怖かった なんだか不思議に怖かった、それでわたしはひとしきり ひと泣き泣いて やったんだ。」に通じています。ナポレオンの「世界制覇の野望」は、親兄弟なんて眼中になかったひたむきさですし、そのように書かれた伝記に反応したかのように、「ナポレオンの気持がよく分る」と詩に表わしたのではないでしょうか。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる海外の「人名」を見ていますが
「生前発表詩篇」「未発表詩篇」を整理すると、
【キリスト】
【釈迦】(しゃか)
【キリスト】
【クリスト】
――の宗教者のグループとそれ以外。
【ピチベ】
【アブラハム・リンカン氏】【リンカンさん】【「リンカン氏】
【バルザック】
【ミレー】
【マルレネ・ディートリッヒ】
【ナポレオン】
【ランボオ】
――は歴史的人物とひとくくりできそうです。
【ピチベ】は、誰にも解釈されていない謎の名前です。哲学ですから、古代ギリシアあたりの人名らしいのですが、創作である可能性も大きいものです。
◇
【アブラハム・リンカン氏】【リンカンさん】【「リンカン氏】 アメリカの大統領リンカーンは、みんな「氏」や「さん」が付けられ、親しみのある言い方になっているのが特徴です。沈思黙考するリンカーンの肖像写真の印象が強いのでしょうか、そのリンカーンへ親近感があるのでしょうか、対等で心の通った会話が綴られる散文詩「幻想」には、なんともいえない静けさと暖かさが漂います。「幻想」を読んでみましょう。
◇
幻 想
草には風が吹いていた。
出来たてのその郊外の駅の前には、地均機械(ローラー・エンジン)が放り出されてあった。そのそばにはアブラハム・リンカン氏が一人立っていて、手帳を出して何か書き付けている。
(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)
「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。
「リンカンさん」
「なんですか」
私は彼のチョッキやチョッキの釦(ボタン)や胸のあたりを見た。
「リンカンさん」
「なんですか」
やがてリンカン氏は、私がひとなつっこさのほか、何にも持合(もちあ)わぬのであることをみてとった。
リンカン氏は駅から一寸(ちょっと)行った処の、畑の中の一瓢亭(いちひょうてい)に私を伴(ともな)った。
我々はそこでビールを飲んだ。
夜が来ると窓から一つの星がみえた。
女給(じょきゅう)が去り、コックが寝、さて此(こ)の家には私達二人だけが残されたようであった。
すっかり夜が更けると、大地は、此の瓢亭(ひょうてい)が載っかっている地所(じしょ)だけを残して、すっかり陥没(かんぼつ)してしまっていた。
帰る術(すべ)もないので私達二人は、今夜一夜(ひとよ)を此処(ここ)に過ごそうということになった。
私は心配であった。
しかしリンカン氏は、私の顔を見て微笑(ほほえ)んでいた、「大丈夫(ダイジョブ)ですよ」
毛布も何もないので、私は先刻(せんこく)から消えていたストーブを焚付(たきつ)けておいてから寝ようと思ったのだが、十能(じゅうのう)も火箸(ひばし)もあるのに焚付がない。万事(ばんじ)諦(あきら)めて私とリンカン氏とは、卓子(テーブル)を中に向き合って、頬肘(ほうひじ)をついたままで眠ろうとしていた。電燈(でんとう)は全く明るく、残されたビール瓶の上に光っていた。
目が覚めたのは八時であった。空は晴れ、大地はすっかり旧に復し、野はレモンの色に明(あか)っていた。
コックは、バケツを提(さ)げたまま裏口に立って誰かと何か話していた。女給は我々から三米(メートル)ばかりの所に、片足浮かして我々を見守っていた。
「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚(あが)っています」
「ほんとに」
※原文には、「ひとなつっこさ」に傍点がつけられています。
◇
【マルレネ・ディートリッヒ】(Marlene Dietrich、1901年12月27日~1992年5月6日)はドイツ出身の女優・歌手。ドイツ初のトーキー映画「嘆きの天使」(ジョセフ・スタンバーグ監督)に主演して以来、脚線美、もの思わしげで挑戦的な容貌(人によっては「退廃的な美貌」)、セクシーボイスなどで国際的な評判になり、1930年にアメリカに渡ってハリウッドでの活動を盛んに行いました。ヒトラーのナチスにドイツが支配されてゆくのに反発し、アメリカの市民権を獲得、第2次世界大戦中はアメリカ軍や連合軍兵士の慰問でヨーロッパ各地を回り、戦地で歌われていた「リリー・マルレーン」を放送を通じて歌うなど反戦、反ナチの活動を積極的に行ったことも広く知られています。スウェーデン生まれのハリウッド女優グレタ・ガルボ(Greta Garbo、1905年9月18日~1990年4月15日)と好対照で、人気を二分しました。中原中也が、ナチスを知っていたか、1933年にナチスは政権を奪うのですから、ニュースで知っていた可能性は高く、では、ディートリッヒの反ナチ活動を知り得たかというと、それはほとんど分かっていません。ディートリッヒの行動を当時のジャーナリズムがどの程度報道し論評していたか、その情報に中原中也がどの程度接していたかによりますが、解明が不可能ではなく、まったく知らなかったとも言えないことです。
日本でディートリッヒの主演映画が初めて上映されたのは昭和6年。2月「モロッコ」、5月「嘆きの天使」、8月「間諜X27」。中原中也が「マルレネ・ディートリッヒ」を制作したのは昭和6年10月中旬と推定されていますから、詩人は新宿か銀座か、ほかの映画館かで、これらの映画を見たことはほぼ確実なことです。僚友・安原喜弘宛の手紙に「この頃はよく活動を見ます」と書き送っており、この「活動」は活動写真つまり映画のことです。
小林佐規子の名で長谷川泰子が、公募コンクール「グレタ・ガルボに似た女性」に1等で当選したのも昭和6年10月でしたから、「マルレネ・ディートリッヒ」が泰子のイメージを重ねて歌ったものであることもほぼ疑いのないことです。
◇
マルレネ・ディートリッヒ
なあに、小児病者の言うことですよ、
そんなに美しいあなたさえ
あんな言葉を気にするなんて、
なんとも困ったものですね。
合言葉、二週間も口端(くちは)にのぼれば、
やがて消えゆく合言葉、
精神の貧困の隠されている
馬鹿者のグループでの合言葉。
それがあなたの美しさにまで何なのでしょう!
その脚は、形よいうちにもけものをおもわせ、
あなたの祖先はセミチック、
亜米利加(アメリカ)古曲に聴入る風姿(ふぜい)、
ああ、そのように美しいあなたさえ
あんな言葉に気をとられるなんて、
浮世の苦労をなされるなんて、
私にはつまんない、なにもかもつまんない。
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる「地名・人名」を見ていますが
「山羊の歌」に出てきたものと同じに
「在りし日の歌」や「生前発表詩篇」に出てくる「人名」も馴染み深いものが多くあり
感じ方は人によってさまざまではありましょうが
「未発表詩篇」になってだんだん馴染みが薄くなっていくような印象があります。
◇
「山羊の歌」で【ボードレール】【ソロモン】【バッハ】【モツアルト】を飛ばしましたが【ソロモン】だけ少しコメントを加えておきます。
【ソロモン】 中原中也の第1詩集「山羊の歌」の最終詩「いのちの声」のエピグラフに「もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。――ソロモン」とあるのは、旧約聖書の「ソロモンの箴言」からのものらしいのですが、ぴたり一致するものは見つかりません。そのため、中原中也によってアレンジされていると推定されています。その元になったのは、「伝道の書」第1章14節「我日の下に作すところの諸の行為(わざ)を見たり嗚呼皆空にして風を捕ふるがごとし」または、同書第2章20節「我身をめぐらし日の下にわが労して為したる諸の動作のために望を失へり」です。紀元前3世紀にパレスチナで成立したといわれている「伝道の書」別名「コーヘレト書」に、詩人は思いを馳せて、「いのちの声」を歌ったのでしょうか。「引照旧新約全書」という聖書を詩人は所有していましたし、読んだであろうことがわかっています(「新全集・第1巻・詩Ⅰ解題篇」より)。
◇
「外国の人名」だけを見ると「在りし日の歌」には
【ヴェルレーヌ】
【ヴェル氏】
【コボルト】
【ジュピター神】
【ジオゲネス】
【ベートーヴェン】
【シューバート】
【シュバちゃん】
【ベトちゃん】
【チルシス】
【アマント】
「生前発表詩篇」には
【ピチベ】
【クリンベルト】
【アブラハム・リンカン氏】
【リンカンさん】
【「リンカン氏】
【キリスト】
「未発表詩篇」には
【釈迦】(しゃか)
【キリスト】
【クリスト】
【バルザック】
【ボヘミアン】
【ミレー】
【マルレネ・ディートリッヒ】
【ナポレオン】
【ランボオ】
――が登場します。
◇
まず「在りし日の歌」の人名をじっと眺めていると
【ヴェルレーヌ】
【ヴェル氏】
【ベートーヴェン】
【シューバート】
【シュバちゃん】
【ベトちゃん】
――という詩人・音楽家のグループ。
【コボルト】
【ジュピター神】
【チルシス】
【アマント】
――という神話・伝説のグループ。
【ジオゲネス】
――古代ギリシア哲学者で実在した人物。というように分類できます。
【ヴェルレーヌ】【ヴェル氏】は、中原中也がもっともその詩を評価した詩人で、ランボーの「発見者」であり「友人」であり「恋人」でもありました。
※別の機会に詳細を述べることにします。
やや聞きなれないのが【コボルト】【ジュピター神】【チルシス】【アマント】。
【ジュピター神】は、ローマ神話のジュピターのことで、ギリシア神話ではゼウスです。
【コボルト】は、ドイツ民間伝承に出てくる妖精。ときに邪悪な精霊として登場します。グリム童話にも「奇妙な小人」として登場したり、英語圏ではゴブリンとして出てきます。
【チルシス】【アマント】は、元をたどると、古代ギリシアの詩人テオクリストスの「牧歌」に出てくる牧人の男性の名「チュルシス」「アミュンタス」。古代ローマの詩人ウェルギリウスの「詩選」にも引用され、16世紀、イタリアの詩人タッソの牧歌劇「アミンタ」へと受け継がれました。イタリア名「ティルシ」「アミンタ」。――などと、新全集で解説されています。「チルシス」「アミント」はフランス語です。
◇
【ジオゲネス】は、まずそれが現われる詩「秋日狂乱」を読んでおきましょう。
秋日狂乱
僕にはもはや何もないのだ
僕は空手空拳(くうしゅくうけん)だ
おまけにそれを嘆(なげ)きもしない
僕はいよいよの無一物(むいちもつ)だ
それにしても今日は好いお天気で
さっきから沢山の飛行機が飛んでいる
――欧羅巴(ヨーロッパ)は戦争を起(おこ)すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか
今日はほんとに好いお天気で
空の青も涙にうるんでいる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしていて
子供等(こどもら)は先刻(せんこく)昇天した
もはや地上には日向(ひなた)ぼっこをしている
月給取の妻君(さいくん)とデーデー屋さん以外にいない
デーデー屋さんの叩(たた)く鼓(つづみ)の音が
明るい廃墟を唯(ただ)独りで讃美(さんび)し廻(まわ)っている
ああ、誰か来て僕を助けて呉れ
ジオゲネスの頃には小鳥くらい啼(な)いたろうが
きょうびは雀(すずめ)も啼いてはおらぬ
地上に落ちた物影でさえ、はや余(あま)りに淡(あわ)い!
――さるにても田舎(いなか)のお嬢さんは何処(どこ)に去(い)ったか
その紫の押花(おしばな)はもうにじまないのか
草の上には陽は照らぬのか
昇天(しょうてん)の幻想だにもはやないのか?
僕は何を云(い)っているのか
如何(いか)なる錯乱(さくらん)に掠(かす)められているのか
蝶々はどっちへとんでいったか
今は春でなくて、秋であったか
ではああ、濃いシロップでも飲もう
冷たくして、太いストローで飲もう
とろとろと、脇見もしないで飲もう
何にも、何にも、求めまい!……
◇
第5連に「ジオゲネスの頃には小鳥くらい啼(な)いたろうが」とあり
古代ギリシアの哲人が生きていた時代の「春」でさえ小鳥くらいは鳴いていたろうが
今日は雀一羽もないていないもの静かな秋の日だ――と歌うための導入として「ジオゲネス」は登場します。
「ジオゲネス」は、ディオゲネス、ヂオゲネなどとも表記します。ソクラテスの孫弟子(まごでし)にあたります。犬儒派(けんじゅは)、キュニコス派という哲学の流れに属しています。「樽の哲人」というニックネームで知られるように、粗末な家に住んでいましたが、アレキサンダーが評判を聞きつけて訪れた時、ひなたぼっこをしていたジオゲネスが陰になり、「そこをどいてくれたまえ。陽がかげってしまう」とアレクサンダーに言ったことが伝わっています。「秋日狂乱」は、このエピソードが頭の片隅にあって書かれたことは間違いないことでしょう。
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる「地名・人名」を見ていますが
今度は「人名」に目を向けます。
◇
【サイレン】とか【マルガレエテ】とか【ピョートル大帝】とか
【ボードレール】とか【ソロモン】【バッハ】【モツアルト】とか……
これらは第1詩集「山羊の歌」の詩篇に出てくる名前なので
詩のタイトルさえパッと浮かんでくるほどに
馴染(なじ)みのあるものばかりです。
◇
【サイレン】は、「山羊の歌」中の「秋の一日」と「在りし日の歌」中の「正午」とに出てきます。どちらも語源は同じものですが、意味は異なります。「正午」のサイレンは、ウーウーウーという警笛の音で知られるサイレン。消防車や救急車やパトカーなどで使われる警報音のことです。古代ギリシア神話で、旅人を美しい声で魅惑する半人半鳥の怪物として登場します。神話を題材にして、ホメロスが「オデッセイア」を書いた中にサイレンを登場させ、主人公オデッセウスがサイレンの住む島を通過するとき、自らをマストに縛りつけ、耳を塞(ふさ)いで、サイレンの誘惑から身を守った冒険譚に仕立てました。「君子危うきに近寄らず」の西洋版です。「オデッセウスの知恵」は、ホメロスのこの劇によって世界中に広まりましたが、同時にサイレンの存在も伝わりました。
【マルガレエテ】は、ゲーテの悲劇「ファウスト」に登場するファウストの恋人グレートヒェンの正規な名称です。グレートヒェンは愛称。マルガレエテは、敬虔(けいけん)なクリスチャンですが、ファウストと恋に落ち、ファウストとの逢い引きの邪魔になる母親を誤まって死なせてしまいます。悪魔メフィストの案内でファウストが「ワルプルギスの夜」に酔いしれている間、ファウストの子を産んだマルガレエテは、私生児として育てねばならない苦境の中で発狂状態になり、わが子を殺してしまい、獄に繋がれてしまう。それを知ったファウストは、マルガレエテを救おうとするが、悪魔メフィストと組んだファウストの助けを拒み、獄死します。「子殺し」のテーマが流れるゲーテの作品を、中原中也はどのように読んだのか定かではありませんが、「深夜の思い」の第3連、黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄(よ)する/ヴェールを風に千々(ちぢ)にされながら。彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、厳(いか)しき神の父なる海に!――は、ゲーテの原作の忠実な読みを物語っています。神の裁きを受けねばならないマルガレエテには、自分から離れていった泰子がかぶさっています。泰子を希求するあまり、泰子への断罪が下ることを望むというウラハラな気持ちがこの詩には表現されています。
「深夜の思い」を読んでおきましょう。
◇
深夜の思い
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声(なきごえ)だ、
鞄屋(かばんや)の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。
林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
坂になる!
黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄(よ)する
ヴェールを風に千々(ちぢ)にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
崖の上の彼女の上に
精霊が怪(あや)しげなる条(すじ)を描く。
彼女の思い出は悲しい書斎の取片附(とりかたづ)け
彼女は直(じ)きに死なねばならぬ。
◇
【ピョートル大帝】はロシアの皇帝。ロマノフ朝第5代皇帝として1682年から1725年まで在位し、ヨーロッパを征服する野望をもっていたといわれます。2メートルの長身にまつわる逸話とともに、海外学術の導入・普及、ロシア国家の改革、強大な権力行使を行った人物として知られています。「ためいき」のためいきの「旅」は、最後にピョートル大帝の目玉が遠くの雲の中に光っている、というシーンで閉じる詩ですが、ためいきが「詩」そのものであるならば、ピョートル大帝の目玉である「詩」というメタファーには深い含意が込められていることが理解できるでしょう。
【Cathèrine de Mèdicis】 「カトリーヌ・ド・メディシス」のこと。16世紀フランスの王妃。
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
日本国外の「地名」の解説を続けます。
◇
【マダガスカル】はインド洋に浮かぶ島。かつて英仏による植民地争いの犠牲になったが1960年に独立、共和制国家となります。国名は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」の記述に由来。ジュラ紀のゴンドワナ大陸分裂でアフリカ大陸から分離し、白亜紀にはインド亜大陸がマダガスカル島から分離したことで、「巨大な孤島」であり「世界最小の大陸」となりました。
【ナイアガラ】といえば、アメリカとカナダの国境にある「滝」を指す場合がほとんどでしょう。エリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川にあり、カナダのオンタリオ州とアメリカのニューヨーク州とを分ける国境になっています。滝の幅が広く、水量も豊富で、世界各国からの観光客で賑わいます。
【エジプト煙草】は、明治末から大正、昭和のはじめにかけて、「エリート・タバコ」として流行(はや)りました。政治家は「葉巻」、高級官僚、帝大卒は「エジプトの紙巻たばこ」がのエリートの定番だったようです。香り高いオリエンタル葉に人気の秘密がありました。中原中也も、銀座のバーなどで、これを吸う機会があったはずですが、自分は「ゴールデンバット」を愛用していたことはあまりにも有名なことです。
中国を【支那】と表記するのは、Chinaの発音から「シナ」と読ませ、それに漢字を当てがい、ローマを【羅馬】と表記するのと同様の「当て字」の習慣からでしょう。「桑港」をサンフランシスコ、ニューヨークを「紐育」と当て字で表記するなど、表音文字に表意文字である「漢字」を当てるのは、「面白さ」と同時に「押しつけがましい意味付与」が行われ、誤解を招く例もあります。
◇
国内の地名へ目を向けます。
まずひときわ目立つものから。
【大島行葵丸】は「オオシマ・ユキ・アオイマル」。大島へ行く定期船「葵丸」のことです。昭和10年4月、詩人は「紀元」同人を招待する一泊旅行で、大島行きの旅に出ました。その時の夜のデッキの様子を歌ったのが、「大島行葵丸にて――夜十時の出帆」と題する詩です。この詩を読んでみましょう。
◇
大島行葵丸にて
――夜十時の出帆
夜の海より僕(ぼか)唾(つば)吐いた
ポイ と音(おと)して唾とんでった
瞬間(しばし)浪間に唾白かったが
じきに忽(たちま)ち見えなくなった
観音岬に燈台はひかり
ぐるりぐるりと射光(ひかり)は廻(まわ)った
僕はゆるりと星空見上げた
急に吾子(こども)が思い出された
さだめし無事には暮らしちゃいようが
凡(およ)そ理性の判ずる限りで
無事でいるとは思ったけれど
それでいてさえ気になった
(一九三五・四・二四)
◇
夜遅く詩人は一人、甲板に出たのです。船酔いで体調が思わしくないというのもあったのかもしれませんが、ここで「夜の海より僕(ぼか)唾(つば)吐いた」というのは、単に唾を海に向かって吐いたという以上に、やがては「喀痰(かくたん)」するに至る病の前兆であるかのような体調不調を推測させます。昭和10年後半から11年前半の制作と推定される「夜半の嵐」は、吾子(あこ)を思う親心に、自らの死期を思う心が重なる詩です。「大島行葵丸にて」を書いておよそ半年後に「夜半の嵐」で「喀痰(かくたん)」していることを書いたのです。ここで「夜半の嵐」も掲載しておきます。
◇
夜半の嵐
松吹く風よ、寒い夜(よ)の
われや憂き世にながらえて
あどけなき、吾子(あこ)をしみればせぐくまる
おもいをするよ、今日このごろ。
人のなさけの冷たくて、
真(しん)はまことに響きなく……
松吹く風よ、寒い夜の
汝(なれ)より悲しきものはなし。
酔覚(よいざ)めの、寝覚めかなしくまずきこゆ
汝より悲しきものはなし。
口渇くとて起出でて
水をのみ、渇きとまるとみるほどに
吹き寄する風よ、寒い夜の
喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
「地名」の解説を続けます。
◇
日本以外の地名を拾ってみると、
【欧羅巴】(ヨーロッパ)
【ロシア】
【チャールストン】
【英国】(イギリス)
【独逸】(ドイツ)
【フランス】
【アメリカ】
【オランダ時計】
【朝鮮料理屋】
【ボヘミアン】
【ガリラヤ】
【マグデブルグ】
【マダガスカル】
【支那】
【ナイアガラ】
【エジプト煙草】
【ドレスデン製の磁器】
【ブルターニュ】
【羅馬】(ローマ)
【西洋】
【朝鮮人】
【中国】
【エジプト遺蹟】
【土耳古人】(ダッチ)
――となり、世界各地に「飛んでいる」のがわかります。
【チャールストン】【ボヘミアン】【ガリラヤ】【マグデブルグ】と見てきて
【マダガスカル】【ナイアガラ】【エジプト煙草】【ドレスデン製の磁器】【ブルターニュ】【エジプト遺蹟】
【土耳古人】(ダッチ)の中の【ブルターニュ】や【土耳古人(ダッチ)】にひっかかります。
【マダガスカル】【ナイアガラ】【エジプト(煙草)】はおおよその見当がつき
【ドレスデン】は【マグデブルグ】と同じドイツの地名ですから。
◇
【ブルターニュ】はフランスの地域の名前です。なぜこの地名が出てきたのか。これが出てくる詩「幻想」にあたってみます。
幻 想
1
何時(いつ)かまた郵便屋は来るでしょう。
街の蔭った、秋の日でしょう、
あなたはその手紙を読むでしょう
肩掛をかけて、読むでしょう
窓の外を通る未亡人達は、
あなたに不思議に見えるでしょう。
その女達に比べれば、
あなた自身はよっぽど幸福に思えるでしょう。
そして喜んで、あなたはあなたの悩みを悩むでしょう
人々はそのあなたを、すがすがしくは思うでしょう
けれどもそれにしても、あなたの傍(そば)の卓子(テーブル)の上にある
手套(てぶくろ)はその時、どんなに蒼ざめているでしょう
2
乳母車を輓(ひ)け、
紙製の風車を附(つ)けろ、
郊外に出ろ、
墓参りをしろ。
3
ブルターニュの町で、
秋のとある日、
窓硝子(まどガラス)はみんな割れた。
石畳(いしだたみ)は、乙女の目の底に
忘れた過去を偲(しの)んでいた、
ブルターニュの町に辞書はなかった。
4
市場通いの手籠(てかご)が唄う
夕(ゆうべ)の日蔭の中にして、
歯槽膿漏(しそうのうろう)たのもしや、
女はみんな瓜(うり)だなも。
瓜は腐りが早かろう、
そんなものならわしゃ嫌い、
歯槽膿漏さながらに
女はみんな瓜だなも。
5
雨降れ、
瓜の肌には冷たかろ。
空が曇って町曇り、
歴史が逆転はじめるだろ。
祖父(じい)さん祖母(ばあ)さんいた頃の、
影象レコード廻るだろ
肌は冷たく、目は大きく
相寄る魂いじらしく
オルガンのようになれよかし
愛嬌なんかはもうたくさん
胸掻き乱さず生きよかし
雨降れ、雨降れ、しめやかに。
6
昨日は雨でしたが今日は晴れました。
女はばかに気取っていました。
昨日悄気(しょげ)たの取返しに。
罪のないことです、
さも強そうに、産業館に這入(はい)ってゆきます、
要らない品物一つ買うために。
僕は輪廻ししようと思ったのだが、
輪は僕が突き出す前に駆け出しました。
好いお天気の朝でした。
◇
なかなかの詩であることをまた発見します。
詩の中の、「ブルターニュ」が出てくるところを
ブルターニュの町で、秋のとある日、窓硝子(まどガラス)はみんな割れた。
石畳(いしだたみ)は、乙女の目の底に忘れた過去を偲(しの)んでいた、ブルターニュの町に辞書はなかった。
――と読み下してみると、
「ブルターニュの歴史」から詩人が引っ張り出そうとした何やら「剣呑(けんのん)な」「穏やかでない」イメージがぼんやりと伝わってくる気がします。そう読んでいいものか、断定できませんが、「ガラスが割れ、辞書がない」という詩語の持つイメージは、「歯槽膿漏(しそうのうろう)、瓜は腐り、雨降れ、冷たかろ、空が曇って町曇り、歴史が逆転、昨日悄気(しょげ)た」といった否定的イメージへ連なり、
詩の終わりの、
僕は輪廻ししようと思ったのだが、
輪は僕が突き出す前に駆け出しました。
好いお天気の朝でした。
――へ繋(つな)がっていきます。
「輪廻し」をしようと思ったら「輪」が動き出してしまったというのは幼時体験か
取り残されたような感覚か
手に負いがたいことがあるというメタファーか
ついには遠い日の「酸っぱい」思い出へこの詩は収まっていきます。
【ブルターニュ】が、そこへ響き合っています。
◇
【土耳古人(ダッチ)】の、「土耳古」は普通トルコと読むところを、「オランダ」の意味である「ダッチ」としたのは、勘違いか。中原流のひねりがあるのでしょうか。これも断定できることではありません。「さまよえるオランダ人」(ワグナー)の例もあり、想像するしかないところです。
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
「地名・人名」を通覧して
めぼしいものに解説を加えていますが
「寄り道」になることが楽しく
「迷子(まいご)」になればもっと楽しいのかもしれません。
◇
【カラカネ】 「カラ」は「唐(から)」、「カネ」は「金」または「銅」のことらしく、「唐金」「唐銅」と書いて「カラカネ」と読むことが推奨されています。唐の時代に「青銅」が生産され、その製法が日本に伝わり、その製法で作られた「金(かね)」を「カラカネ」と呼んで使い分けました。
【ボヘミアン】 ロマは、かつてはジプシーと呼ばれ、蔑(さげす)まれたことが多く、「ジプシー」は、そのため差別的な呼称として使われなくなっています。移動生活者として知られてきましたが、現代では定住する者も多いことが知られています。自由奔放な生活をしていて、フランスなどではボヘミアからやってきたロマをボヘミアン(流浪の人)と見なしました。ビゼーの小説「カルメン」やプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」には、主役として登場しています。中原中也は、「ボヘミアンな詩人」ネルバルの作品を翻訳していて、(かつては私も)に使ったときにはネルバルのことが頭の中にあったかもしれません。(かつては私も)を掲出しておきます。
◇
(かつては私も)
かつては私も
何にも後悔したことはなかった
まことにたのもしい自尊(じそん)のある時
人の生命(いのち)は無限であった
けれどもいまは何もかも失った
いと苦しい程多量であった
まことの愛が
いまは自ら疑怪(ぎかい)なくらいくるめく夢で
偶性(ぐうせい)と半端(はんぱ)と木質(もくしつ)の上に
悲しげにボヘミヤンよろしくと
ゆっくりお世辞笑いも出来る
愛するがために
悪弁(あくべん)であった昔よいまはどうなったか
忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。
◇
【ガリラヤ】 イエスが宣教をはじめた地として有名な「ガリラヤの丘」。この丘は「ガリラヤ湖」という「海」にも面しています。パレスチナの地名。現在のイスラエル北部とヨルダンの一部を含む地域です。
【マグデブルグ】 ドイツの都市の名前。17世紀、この町の市長ゲーリケは「大気圧」の存在を証明する実験を公開で行いました。その実験で用意したのが金属製の半球で、これを「マグデブルグの半球」と後世の人が呼び習わし、中原中也も使ったのです。この半球二つを密着し、中を真空にすると引っ張っても離れなかったことで、大気圧を証明しました。「マグデブルグ」が現われる「地極の天使」は、河上徹太郎へ中原中也が宛てた手紙の中に同封されていたもので、「文学界」(昭和13年)に「中原中也の手紙」として紹介された後、この手紙は戦災で焼失したため、原稿が存在しない作品です。河上は「中原中也の手紙」でこの詩を紹介して後の昭和28年に「詩人との邂逅」のタイトルで再び案内し、「アヴァンギャルド精神の典型」と論評しました。「地極の天使」の最後の部分を引用しておきます。
マグデブルグの半球よ、おおレトルトよ! 汝等祝福されてあるべきなり、其(そ)の他はすべて分解しければ。
マグデブルグの半球よ、おおレトルトよ! われ星に甘え、われ太陽に傲岸ならん時、汝等ぞ、讃(たた)うべきわが従者!
◇
詩語を一つ一つ分析し解釈しているうちに
「意味の迷宮」の中に入り込んで
詩そのものと遠く離れてしまいそうになります。
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
「人名」のほうに分類した【小竹の女主人(ばばあ)】の【小竹】は「地名」です。
昭和初期、東京・芝浦にあった待合の名前で
「バー山本」とか「居酒屋雪子」などの「山本」「雪子」と同じです。
小林秀雄をはじめとする「文学界」編集者や寄稿者らが常用する中に
中原中也の名もありました。
その「女主人」を「おかみ」ではなく
「ばばあ」と親しみを込めて詩人は呼んだという証言はなく
リアルな現実を想像するよりも
これが「詩語」であることを重んじて読んでみたいところです。
◇
夏の明方年長妓が歌った
――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ
うたい歩いた揚句(あげく)の果(はて)は
空が白んだ、夏の暁(あけ)だよ
随分(ずいぶん)馬鹿にしてるわねえ
一切合切(いっさいがっさい)キリガミ細工(ざいく)
銹(さ)び付いたようなところをみると
随分鉄分には富んでるとみえる
林にしたって森にしたって
みんな怖(お)ず怖ずしがみついてる
夜露(よつゆ)が下(お)りているとこなんぞ
だってま、しおらしいじゃあないの
棄(す)てられた紙や板切(いたき)れだって
あんなに神妙(しんみょう)、地面にへたばり
植えられたばかりの苗だって
ずいぶんつましく風にゆらぐ
まるでこっちを見向きもしないで
あんまりいじらしい小娘みたい
あれだって都(みやこ)に連れて帰って
みがきをかければなんとかなろうに
左程々々(そうそう)こっちもかまっちゃられない
――随分馬鹿にしてるわねえ
うたい歩いた揚句の果は
空が白んで、夏の暁だと
まるでキリガミ細工じゃないか
昼間は毎日あんなに暑いに
まるでぺちゃんこじゃあないか
◇
詩人が「詩の言葉」の方法として
「口語会話体」や「しゃべり言葉」を使って
「俗っぽさ」を意図した作品は数多くあります。
「あばずれ女の亭主が歌った」とか
「三毛猫の主の歌える」とか
ジュール・ラフォルグの詩の翻訳「でぶっちょの子供の歌える」とかは
タイトルだけをみても「俗な」イメージを与えますし
「夏の明方年長妓が歌った――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ」と
同じ系列の詩であることがわかります。
中原中也が訳したランボーの詩にも
「詩語としての俗」をねらったものが幾つか見つかります。
これはランボーの意図を
中原中也が汲(く)んで訳したもので
思いつくだけですが
「びっくりした奴等」「坐った奴等」などがそうです。
◇
中原中也が詩の中で使った「地名」一覧を眺めていて
こうした寄り道をするのは楽しいことを発見しました。
◇
中原中也が生きていた時代の「地名」ですから
【小笠原沖】というのは現在よりもかなり遠隔地のイメージに違いなく
詩人は気象予報でこの言葉を聞き知ったものと推測されます。
【鹿児島半島】 この地名は実際には存在しません。薩摩半島か大隈半島のどちらかか。両方を
指示したのかもしれません。
【北沢】 世田谷区に下北沢があり、上北沢がありますが、下北沢の地名はありません。小田急線と京王井の頭線が交差し、「若者の町」として下北沢は近年ますます賑やかな町「シモキタ」として変貌していますが、ここの地名は北沢です。中原中也の詩「北沢風景」の北沢は、京王線の上北沢駅周辺を指しますが、上北沢の地名はあります。昭和3年9月から昭和4年1月まで、関口隆克、石田五郎と共同生活をした家は、「高井戸町下高井戸2の403」ですが、この地番は当時の京王線北沢駅(現上北沢駅)が最寄りの駅でした。高井戸といえば現・杉並区ですから変に思えるかもしれませんが、北沢に住んでいたという感覚が詩人にあったのでしょう。
【道修山】 中原中也は1937年はじめに、千葉市にあった中村古峡療養所に入院しました。この療養所があった千葉寺町の小高い丘の名が「道修山(どうしゅうざん)」です。
◇
今回はここまで。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
「人名」のほうに分類した【小竹の女主人(ばばあ)】の【小竹】は「地名」です。
昭和初期、東京・芝浦にあった待合の名前で
「バー山本」とか「居酒屋雪子」などの「山本」「雪子」と同じです。
小林秀雄をはじめとする「文学界」編集者や寄稿者らが常用する中に
中原中也の名もありました。
その「女主人」を「おかみ」ではなく
「ばばあ」と親しみを込めて詩人は呼んだという証言はなく
リアルな現実を想像するよりも
これが「詩語」であることを重んじて読んでみたいところです。
◇
夏の明方年長妓が歌った
――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ
うたい歩いた揚句(あげく)の果(はて)は
空が白んだ、夏の暁(あけ)だよ
随分(ずいぶん)馬鹿にしてるわねえ
一切合切(いっさいがっさい)キリガミ細工(ざいく)
銹(さ)び付いたようなところをみると
随分鉄分には富んでるとみえる
林にしたって森にしたって
みんな怖(お)ず怖ずしがみついてる
夜露(よつゆ)が下(お)りているとこなんぞ
だってま、しおらしいじゃあないの
棄(す)てられた紙や板切(いたき)れだって
あんなに神妙(しんみょう)、地面にへたばり
植えられたばかりの苗だって
ずいぶんつましく風にゆらぐ
まるでこっちを見向きもしないで
あんまりいじらしい小娘みたい
あれだって都(みやこ)に連れて帰って
みがきをかければなんとかなろうに
左程々々(そうそう)こっちもかまっちゃられない
――随分馬鹿にしてるわねえ
うたい歩いた揚句の果は
空が白んで、夏の暁だと
まるでキリガミ細工じゃないか
昼間は毎日あんなに暑いに
まるでぺちゃんこじゃあないか
◇
詩人が「詩の言葉」の方法として
「口語会話体」や「しゃべり言葉」を使って
「俗っぽさ」を意図した作品は数多くあります。
「あばずれ女の亭主が歌った」とか
「三毛猫の主の歌える」とか
ジュール・ラフォルグの詩の翻訳「でぶっちょの子供の歌える」とかは
タイトルだけをみても「俗な」イメージを与えますし
「夏の明方年長妓が歌った――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ」と
同じ系列の詩であることがわかります。
中原中也が訳したランボーの詩にも
「詩語としての俗」をねらったものが幾つか見つかります。
これはランボーの意図を
中原中也が汲(く)んで訳したもので
思いつくだけですが
「びっくりした奴等」「坐った奴等」などがそうです。
◇
中原中也が詩の中で使った「地名」一覧を眺めていて
寄り道しました。
◇
中原中也が生きていた時代の「地名」ですから
【小笠原沖】というのは現在よりもかなり遠隔地のイメージに違いなく
詩人は気象予報でこの言葉を聞き知ったものと推測されます。
【鹿児島半島】 この地名は実際には存在しません。薩摩半島か大隈半島のどちらかか。両方を
指示したのかもしれません。
【北沢】 世田谷区に下北沢があり、上北沢があり。「北沢風景」の北沢は、上北沢を指します。昭
和3年9月から昭和4年1月まで、関口隆克、石田五郎と共同生活をした家は、高井戸町下高井
戸2の403ですが、ここは現在の京王線北沢駅(現上北沢駅)が最寄りの駅でした。高井戸といえ
ば現・杉並区ですから変に思えるかもしれませんが、北沢に住んでいたという感覚が詩人にあっ
たのでしょう。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也が詩に登場させた「地名・人名」のうちの幾つかに
解説を加えてみます。
地名と人名を分けますが
出所は明示しません。
順序その他もアトランダムで案内します。
案内できるものを先行し
他は一つ一つにを調べるのに
時間がかかるものと予想されるからです。
◇
「地名」をじっと眺めていますと
それが現われた詩が浮かんできたり来なかったり。
それで詩集を開いて
もう一度パラパラめくってみたり。
「山羊の歌」「在りし日の歌」の作品は馴染みが深く
あの詩の中の重要な位置をこの地名が占めているを発見し
満ち足りた気分になったりもして……。
◇
【隼人】(はやと):薩摩隼人の略。古代、現在の鹿児島県の薩摩や大隈に住んでいた人々のこと
を大和(やまと)の側から指した呼び方。
【大原女】(おはらめ):京都郊外の古い町で、薪炭の産地として名高い大原の女。薪炭を売る姿
が独特。島田髷に手拭いをかぶり、薪を頭にのせて行商した。
【長門峡】(ちょうもんきょう):山口市北東にある峡谷(きょうこく)。景勝地として有名で、中原中也
は生涯に何度か訪れている。
【丸ビル】丸の内ビルディングの略。東京駅と皇居外苑の間の一帯。隣りの大手町とともにオフィ
ス街として発展し、日本の金融・経済の中心地の一つ。東京都庁も、1991年、現在の西新宿に
移転する前は、ここにあった。三菱グループの本社が集中していることでも知られている。昼間の
人口と夜間の人口の差が大きいのが特徴で、平日の昼間はサラリーマンでにぎわう。
◇
「生前発表詩篇」の「ピチベの哲学」の【チャールストン】とは
なぜここに「ダンス」が登場したのだったか――と
詩をひもといてみる気になりました。
◇
ピチベの哲学
チョンザイチョンザイピーフービー
俺は愁(かな)しいのだよ。
――あの月の中にはな、
色蒼(あお)ざめたお姫様がいて………
それがチャールストンを踊っているのだ。
けれどもそれは見えないので、
それで月は、あのように静かなのさ。
チョンザイチョンザイピーフービー
チャールストンというのはとてもあのお姫様が踊るような踊りではないけれども、
そこがまた月の世界の神秘であって、
却々(なかなか)六ヶ敷(むつかし)いところさ。
チョンザイチョンザイピーフービー
だがまたとっくと見ているうちには、
それがそうだと分っても来るさ。
迅(はや)いといえば迅い、緩(おそ)いといえば緩いテンポで、
ああしてお姫様が踊っていられるからこそ、
月はあやしくも美しいのである。
真珠(しんじゅ)のように美しいのである。
チョンザイチョンザイピーフービー
ゆるやかなものがゆるやかだと思うのは間違っているぞォ。
さて俺は落付(おちつ)こう、なんてな、
そういうのが間違っているぞォ。
イライラしている時にはイライラ、
のんびりしている時にはのんびり、
あのお月様の中のお姫様のように、
なんにも考えずに絶えずもう踊っていりゃ
それがハタから見りゃ美しいのさ。
チョンザイチョンザイピーフービー
真珠のように美しいのさ。
◇
【チャールストン】は
「中原中也全詩集」(角川ソフィア文庫)所収の語註に
アメリカ南部の町チャールストン発祥のダンスの一種。第一次大戦後ブームとなり、日本でも昭和初期に流行。
――と、的確な解説があります。
ロングスカートのヤンキー娘が両脚を交差させるような仕草の活発感あふれるダンスを
映像で見たことがある人は多いはずでしょう。
中原中也は
銀座や新宿などの繁華街かどこかで
実演を見たことがあったのでしょうか。
あるいは新聞や雑誌で見たのでしょうか。
モガ(モダンガール)として時代の先端を行っていた長谷川泰子を通じて
このダンスを知っていたということも大いに考えられます。
◇
ピチベという人物の由来は不明ですが
これは詩人のことであると捉(とら)えて問題ないでしょう。
呪文を唱えるような職業の人物なのか
詩人が呪文を唱えているのか
ピチベと詩人が同じなら
どちらが唱えているかを詮索(せんさく)することもないでしょうが。
ピチベが
お月様は美しいと言いながら
「俺は愁(かな)しいのだよ」とも言っているところが
この詩の「肝」(きも)ですね。
月の中にはかぐや姫が住んでいるというイメージとのオーバーラップを意図したのか
それを否定しようとしたのか
チャールストンを踊るお姫様の姿は
月にいるので実際には見えないので月は静かなのだ。
けれども「ああして」お姫様が踊っているからこそ
月はあやしく美しい。
なんとも矛盾したようなことが歌われていて
でも、チョンザイチョンザイピーフービーなんて呪文をかけられて
ああそうか
真珠のように美しいのだと思わされてしまいます。
そういう詩です。
不思議な詩です。
あやしい詩です。
ますます「ピチベ」って誰だ?
お姫様って誰だ?
泰子のことか?
夫人となったばかりの孝子さんのことか?
――などと想像をたくましくしてしまいます。
タイトルの「哲学」も意味深長です。
「月の哲学」を主張したいのでしょうか――。
◇
「地名」と「人名」を追っているうちに
こんな詩と再会することになるなんて
これだけで収穫があったようなものと満足します。
中原中也は「月」をよく歌います。
「山羊の歌」と「在りし日の歌」の巻頭部に
それぞれ「月」というタイトルの詩を配置していますし
この「ピチベの哲学」も月の歌ですね。
もちろん「花鳥風月」の「月」ではありませんが
「在りし日の歌」の中の絶唱「永訣の秋」に
「幻影」「月夜の浜辺」「月の光 その一」「月の光 その二」という詩群があり
それら「月光詩群」への流れへと響き合っていることにも驚かされます。
「ピチベの哲学」は
その意味でも目が開かれる思いでした。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる「地名・人名」を見てきました。
ここで少し整理してみます。
まず「地名」と「人名」を分けてみます。
◇
重複してもそのまま載せてあります。重複が稀(まれ)であることがわかります。
【オランダ時計】【朝鮮料理屋】【富士の裾野】【エジプト煙草】【ドレスデン製の磁器】――などのように、他の言葉と合成されている「地名」は、詩の中で使われたままの形を残しました。
【隼人】【大原女】【ボヘミアン】【土耳古人】――などは、その「地名」に住む人を表していますから「地名」に分類しています。
■地名篇
<山羊の歌>
【隼人】(はやと)
<在りし日の歌>
【欧羅巴】(ヨーロッパ)
【銀座】
【浅草】」
【ロシア】
【大原女】(おはらめ)
【京都】
【長門峡】(ちょうもんきょう)
【丸ビル】
<生前発表詩篇>
【チャールストン】
【英国】(イギリス)
【独逸】(ドイツ)
【フランス】
【小笠原沖】
【鹿児島半島】」
【北沢】
【道修山】
<未発表詩篇>
【カラカネ】
【アメリカ】
【オランダ時計】
【朝鮮料理屋】
【ボヘミアン】
【ガリラヤ】
【マグデブルグ】
【マダガスカル】
「外苑」
「千駄ヶ谷」
【支那】
【富士の裾野】
【ナイアガラ】
【エジプト煙草】
【ドレスデン製の磁器】
【ブルターニュ】
【池上の本門寺】
【三原山】
【羅馬】
【小倉服】
【三原山】
【下関行終列車】
【東京駅】
【西洋】
【朝鮮人】
【銀座】
【東京市民】
【東京祭り】
【中国】
【京浜街道】
【富士の裾野】
【エジプト遺蹟】
【奈良】
【やまと】
【大島行葵丸】
「観音岬】
【桑名】
【京都大阪間】
【臨時関西線】
【土耳古人】(ダッチ)
【三原山】
【不忍ノ池】(しのばずのいけ)
【広小路】
【千葉】
【道修山】
■人名篇
<山羊の歌>
【サイレン】
【マルガレエテ】
【河上徹太郎】
【ピョートル大帝】
【内海誓一郎】
【阿部六郎】
【関口隆克】
【白秋】
【ボードレール】
【泰子】
【安原喜弘】
【Cathèrine de Mèdicis】
【ソロモン】
【バッハ】
【モツアルト】
<在りし日の歌>
【ヴェルレーヌ】
【ヴェル氏】
【文子さん】
【コボルト】
【ジュピター神】
【諸井三郎】
【ジオゲネス】
【ベートーヴェン】
【シューバート】
【シュバちゃん】
【ベトちゃん】
【大高源吾】(おおたかげんご)
【チルシス】
【アマント】
【米子】
<生前発表詩篇>
【小林秀雄】
【ピチベ】
【小竹の女主人(ばばあ)】
【クリンベルト】
【アブラハム・リンカン氏】
【リンカンさん】
【「リンカン氏】
【丹下左膳】(たんげさぜん)
※【クリンベルト】は、本当の意味が解釈されていない謎の言葉ですが、ここでは「人名」に入れておきました。なんの根拠もありません。「地名」であるかもしれず、ほかのものごとを意味する言葉なのかもしれません。
<未発表詩篇>
【釈迦】(しゃか)
【キリスト】
【クリスト】
【バルザック】
【ボヘミアン】
【ミレー】
【マルレネ・ディートリッヒ】
【三富朽葉】
【青山二郎】
【青木三造】
【松井須磨子】
【ナポレオン】
【高橋新吉】
【昇平】
【秋岸清凉居士】
【青山二郎】
【すずえ】
【むつよ】
【ランボオ】
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
未発表詩篇に現われる「地名・人名」を見ていますが、
最後の部分には
「ノート翻訳詩(1933年)」9篇
「草稿詩篇(1933年―1936年)」65篇
「療養日誌・千葉寺雑記(1937年)」5篇
「草稿詩篇(1937年)」6篇
――が残っています。
これらの詩に出てくる「地名・人名」を一気にピックアップします。
<ノート翻訳詩(1933年)>
「地名・人名」は現われません。
<草稿詩篇(1933年―1936年)>
小 唄
僕は知ってる煙(けむ)が立つ
三原山には煙が立つ
行ってみたではないけれど
三原山には煙が立つ
三原山には煙が立つ
※「三原山」
◇
(形式整美のかの夢や)
▲
高橋新吉に
形式整美のかの夢や
羅馬(ローマ)の夢はや地に落ちて、
※「高橋新吉」「羅馬(ローマ)」
◇
(風が吹く、冷たい風は)
(汽車が小さな駅に着いて、散水車がチョコナンとあることは、
小倉(こくら)服の駅員が寒そうであることは、幻燈風景
七里結界に係累はないんだ)
※「小倉(こくら)服の駅員」
◇
(とにもかくにも春である)
▲
此(こ)の年、三原山に、自殺する者多かりき。
十一時十五分、下関行終列車
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであったろうか、幻ではなかったろうか。
闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ
※「三原山」「下関行終列車」「東京駅」「西洋」「朝鮮人」
◇
(宵の銀座は花束捧げ)
宵(よい)の銀座は花束捧(ささ)げ、
舞うて踊って踊って舞うて、
我等(われら)東京市民の上に、
今日は嬉(うれ)しい東京祭り
今宵(こよい)銀座のこの人混みを
わけ往く心と心と心
我等東京住いの身には、
何か誇りの、何かある。
心一つに、心と心
寄って離れて離れて寄って、
今宵銀座のこのどよもしの
ネオンライトもさんざめく
ネオンライトもさざめき笑えば、
人のぞめきもひときわつのる
宵の銀座は花束捧げ、
今日は嬉しい東京祭り
※「銀座」「東京市民」「東京祭り」
※全文を掲載しました。
◇
蝉
それは中国のとある田舎の、水無河原(みずなしがわら)という
雨の日のほか水のない
伝説付の川のほとり、
※「中国」
◇
京浜街道にて
※「京浜街道」
◇
(小川が青く光っているのは)
秋の日よ! 風よ!
僕は汽車に乗って、富士の裾野(すその)をとおっていた。
※「富士の裾野(すその)」
◇
玩具の賦
昇平に
※「昇平」
◇
秋岸清凉居士
秋岸清凉居士といい――僕の弟、
月の夜とても闇夜じゃとても
今は此の世に亡い男
その秋死んだ弟が私の弟で
今じゃ秋岸清凉居士と申しやす、ヘイ。
※「秋岸清凉居士」
◇
月下の告白
青山二郎に
月の光に明るい墓場に
エジプト遺蹟(いせき)もなんのその
※「青山二郎」「エジプト遺蹟(いせき)」
◇
誘蛾燈詠歌
あおによし奈良の都の……
やまとやまと、やまとはくにのまほろば……
※「奈良」「やまと」
◇
初恋集
すずえ
むつよ
※「すずえ」「むつよ」
◇
不気味な悲鳴
如何(いか)なれば換気装置の、穹窿(きゅうりゅう)の一つの隅に蒼ざめたるは? ランボオ
※「ランボオ」
◇
大島行葵丸にて
――夜十時の出帆
観音岬に燈台はひかり
ぐるりぐるりと射光(ひかり)は廻(まわ)った
僕はゆるりと星空見上げた
急に吾子(こども)が思い出された
※「大島行葵丸」「観音岬」
◇
桑名の駅
桑名の夜は暗かった
蛙がコロコロ鳴いていた
「此の夜、上京の途なりしが、京都大阪
間の不通のため、臨時関西線を運転す」
※「桑名」「京都大阪間」「臨時関西線」
◇
砂 漠
疲れた駱駝(らくだ)よ、
無口な土耳古人(ダッチ)よ、
※「土耳古人(ダッチ)」
◇
小唄二編
三原山には煙が立つ
三原山には煙が立つ
※「三原山」
◇
夏の夜の博覧会はかなしからずや
三人博覧会を出でぬかなしからずや
不忍(しのばず)ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや
広小路にて玩具を買いぬ、兎の玩具かなしからずや
※「不忍(しのばず)ノ池」「広小路」
<療養日誌・千葉寺雑記(1937年)>
(丘の上サあがって、丘の上サあがって)
丘の上サあがって、丘の上サあがって、
千葉の街サ見たば、千葉の街サ見たばヨ、
※「千葉」
◇
道修山夜曲
※「道修山」
<草稿詩篇(1937年)>
「地名・人名」はありません。
◇
「地名・人名」だけを列記すると、
「三原山」
「高橋新吉」
「羅馬(ローマ)」
「小倉(こくら)服の駅員」
「三原山」
「下関行終列車」
「東京駅」
「西洋」
「朝鮮人」
「銀座」
「東京市民」
「東京祭り」
「中国」
「京浜街道」
「富士の裾野(すその)」
「昇平」
「秋岸清凉居士」
「青山二郎」
「エジプト遺蹟(いせき)」
「奈良」
「やまと」
「すずえ」
「むつよ」
「ランボオ」
「大島行葵丸」
「観音岬」
「桑名」
「京都大阪間」
「臨時関西線」
「土耳古人(ダッチ)」
「三原山」
「不忍(しのばず)ノ池」
「広小路」
「千葉」
「道修山」
――となります。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
未発表詩篇に現われる「地名・人名」を見ていますが、次には
「草稿詩篇(1925年―1928年)」20篇
「ノート小年時(1928年―1930年)」16篇
「早大ノート(1930年―1937年)」42篇
「草稿詩篇(1931年―1932年)」13篇が控えています。
これらの詩に出てくる「地名・人名」を一気にピックアップします。
<草稿詩篇(1925年―1928年)>
夜寒の都会
ガリラヤの湖にしたりながら、
天子は自分の胯(また)を裂いて、
ずたずたに甘えてすべてを呪った。
※「ガリラヤ」
◇
地極の天使
マグデブルグの半球よ、おおレトルトよ! 汝等祝福されてあるべきなり、其(そ)の他はすべて分解しければ。
マグデブルグの半球よ、おおレトルトよ! われ星に甘え、われ太陽に傲岸ならん時、汝等ぞ、讃(たた)うべきわが従者!
※「マグデブルグ」
◇
詩人の嘆き
マダガスカルで出来たという、
このまあ紙は夏の空、
綺麗に笑ってそのあとで、
ちっともこちらを見ないもの。
※「マダガスカル」
<ノート小年時(1928年―1930年)>
ここに「地名・人名」は現われません。
<早大ノート(1930年―1937年)>
干 物
外苑の舗道しろじろ、うちつづき、
千駄ヶ谷、森の梢のちろちろと
空を透かせて、われわれを
視守(みまも)る 如(ごと)し。
※「外苑」「千駄ヶ谷」
さまざまな人
打返した綿のようになごやかな男、
ミレーの絵をみて、涎(よだれ)を垂らしていました。
※「ミレー」
◇
(支那というのは、吊鐘の中に這入っている蛇のようなもの)
支那というのは、吊鐘(つりがね)の中に這入(はい)っている蛇のようなもの。
日本というのは、竹馬に乗った漢文句調、
いや、舌ッ足らずの英国さ。
※「支那」
◇
(ポロリ、ポロリと死んでゆく)
俺の全身(ごたい)よ、雨に濡れ、
富士の裾野(すその)に倒れたれ
読人不詳
※「富士の裾野(すその)」
◇
マルレネ・ディートリッヒ
※「マルレネ・ディートリッヒ」
◇
(ナイヤガラの上には、月が出て)
ナイヤガラの上には、月が出て、
雲も だいぶん集っていた。
波頭(はとう)に月は千々に砕(くだ)けて、
どこかの茂みでは、ギタアを弾(かな)でていた。
ナイアガラの上には、月が出て、
僕は中世の恋愛を夢みていた。
僕は発動機船に乗って、
奈落の果まで行くことを願っていた。
※「ナイアガラ」
◇
(僕達の記臆力は鈍いから)
僕達の記臆力は鈍いから、
僕達は、その人の鬚(ひげ)くらいしか覚えておらぬ
嘗(かつ)てその人がシガレットケースをパンと開いて、
エジプト煙草を取り出したことももう忘れている。
※「エジプト煙草」
◇
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
三富朽葉(くちば)よ、いまいずこ、
明治時代よ、人力も
今はすたれて瓦斯燈(ガスとう)は
記憶の彼方(かなた)に明滅す。
※「三富朽葉(くちば)」
<草稿詩篇(1931年―1932年)>
三毛猫の主の歌える
青山二郎に
※「青山二郎」
◇
Tableau Triste
A・O・に。
私の心の、『過去』の画面の、右の端には、
女の額(ひたい)の、大きい額のプロフィルがみえ、
それは、野兎色(のうさぎいろ)のランプの光に仄照(ほのて)らされて、
嘲弄的(ちょうろうてき)な、その生え際(ぎわ)に隈取(くまど)られている。
※「A・O・」
◇
青木三造
※「青木三造」
◇
脱毛の秋 Etudes
瀝青(チャン)色の空があった。
一と手切(ちぎ)りの煙があった。
電車の音はドレスデン製の磁器を想わせた。
私は歩いていた、私の膝は櫟材(くぬぎざい)だった。
とある六月の夕(ゆうべ)、
石橋の上で岩に漂う夕陽を眺め、
橋の袂(たもと)の薬屋の壁に、
松井須磨子のビラが翻(ひるがえ)るのをみた。
私は親も兄弟もしらないといった
ナポレオンの気持がよく分る
ナポレオンは泣いたのだ
泣いても泣いても泣ききれなかったから
なんでもいい泣かないことにしたんだろう
※「ドレスデン製の磁器」「松井須磨子」「ナポレオン」
◇
幻 想
ブルターニュの町で、
秋のとある日、
窓硝子(まどガラス)はみんな割れた。
石畳(いしだたみ)は、乙女の目の底に
忘れた過去を偲(しの)んでいた、
ブルターニュの町に辞書はなかった。
※「ブルターニュ」
◇
お会式の夜
十月の十二日、池上の本門寺、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとおす、
太鼓の音の、絶えないその夜を。
※「池上の本門寺」
◇
「草稿詩篇(1925年―1928年)」20篇中、3篇。
「ノート小年時(1928年―1930年)」16篇中にはゼロ。
「早大ノート(1930年―1937年)」42篇中、7篇。
「草稿詩篇(1931年―1932年)」13篇中、6篇。
比率を見ても無意味でしょうか。
いづれにしても、多くはないけれど
「歴史」を飛び交い
「世界」を飛び回り
「行きつけの場所」「フェーバリットな町」に触れ
「親友」へ捧(ささ)げ
「文学者」「俳優」へオマージュし……
自在に引っ張っている感じです。
◇
「地名・人名」だけを記すと、
「ガリラヤ」
「マグデブルグ」
「マダガスカル」
「外苑」
「千駄ヶ谷」
「ミレー」
「支那」
「富士の裾野(すその)」
「マルレネ・ディートリッヒ」
「ナイアガラ」
「エジプト煙草」
「三富朽葉(くちば)」
「青山二郎」
「青木三造」
「ドレスデン製の磁器」
「松井須磨子」
「ナポレオン」
「ブルターニュ」
「池上の本門寺」
――となります。
これらは
「知識」「教養」というものではなく
「詩」の血であり肉であり骨です。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩に現われる「人名」や「地名」などの固有名詞を見ていますが
こんどは「未発表詩篇」に入ります。
角川全集などでははじめに配置されているのが
京都時代に作られたダダイズムの詩です。
ダダ詩に「地名」や「人名」は出てくるものでしょうか?
<ダダ手帖>
「ダダ音楽の歌詞」
(それを釈迦(しゃか)が眺めて
それをキリストが感心する)
※「釈迦(しゃか)」「キリスト」
<ノート1924>
古代土器の印象
「クリストの降誕(こうたん)した前日までに
カラカネの
歌を歌って旅人が
何人ここを通りましたか」
※「クリスト」「カラカネ」
◇
初 夏
アメリカの国旗とソーダ水とが
恋し始める頃ですね
※「アメリカ」
◇
(題を附けるのが無理です)
トランプの占いで
日が暮れました――
オランダ時計の罪悪です
※「オランダ時計」
◇
(バルザック)
バルザック
バルザック
腹の皮が収縮する
※「バルザック」
◇
浮浪歌
朝鮮料理屋がございます
目契(もっけい)ばかりで夜更(よふけ)まで
虹や夕陽のつもりでて、
※「朝鮮料理屋」
◇
(かつては私も)
偶性(ぐうせい)と半端(はんぱ)と木質(もくしつ)の上に
悲しげにボヘミヤンよろしくと
ゆっくりお世辞笑いも出来る
※「ボヘミアン」
◇
「ノート1924」の末尾には
ダダを脱皮しつつある詩篇がいくつかあります。
「ダダ手帖」は手帖そのものが残存しておらず
2篇の詩が印刷物になっていたおかげで残されたものです。
「ノート1924」51篇とあわせて53篇のうち
7篇に「地名・人名」は登場しました。
率として
極めて少ないことがわかりました。
ダダイズムは
リアリズムを内包するケースがあるにしても
地名や人名という「リアル」で限定されてしまうことを排除したのでしょうか。
「リアルな正体」を
中原中也のダダ詩は露出しようとしていません。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
中原中也が、親友・安原喜弘へ宛てた手紙102点を展示し、二人の交流の跡をたどるという展覧会が、神奈川近代文学館で開かれます。2013年6月15日(土)~8月4日(日)。
昨年、山口市の中原中也記念館で行われた特別企画展「中原中也の手紙-安原喜弘との交友」を再構成するものです。
詳しくは、成城学園同窓会のサイトへ。
(前回からつづく)
古代ギリシアに飛んだり
赤穂浪士の江戸に飛んだり
ベルレーヌやボードレールをひっぱったり
親交のある知人へオマージュを贈ったり
……
本文内容もそうですが
献辞や序詞や注釈に登場する人名などから
詩人が「重心」をおいていた関心が理解できるのかもしれません。
これらはすべて「詩」のためのものでした。
その逆ではありません。
これらが「教養」や「知識」や「学問」でないことも
繰り返して述べるまでもないことでしょう。
◇
次に「生前発表詩篇」に現われる
「人名」や「地名」などの固有名詞を見ていきます。
<生前発表詩篇>
我が祈り
小林秀雄に
※「小林秀雄」
◇
ピチベの哲学
――あの月の中にはな、
色蒼(あお)ざめたお姫様がいて………
それがチャールストンを踊っているのだ。
チョンザイチョンザイピーフービー
チャールストンというのはとてもあのお姫様が踊るような踊りではないけれども、
※「チャールストン」「ピチベ」
◇
夏の明方年長妓が歌った
――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ
※「小竹の女主人(ばばあ)」
◇
童 女
飛行機虫の夢をみよ、
クリンベルトの夢をみよ。
※「クリンベルト」
◇
現代と詩人
私は古き代の、英国(イギリス)の春をかんがえる、春の訪(おとず)れをかんがえる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがえる、旅行家の貌(かお)をかんがえる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居(ぐうきょ)への訪問をかんがえる。
今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんだそうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行ったことがあるような気がする。
さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
※「英国(イギリス)」「独逸(ドイツ)」「フランス」「小笠原沖」「鹿児島半島」
◇
幻 想
草には風が吹いていた。
出来たてのその郊外の駅の前には、地均機械(ローラー・エンジン)が放り出されてあった。その
そばにはアブラハム・リンカン氏が一人立っていて、手帳を出して何か書き付けている。
(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)
「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。
やがてリンカン氏は、私がひとなつっこさのほか、何にも持合(もちあ)わぬのであることをみてと
った。
※「アブラハム・リンカン氏」「リンカンさん」「リンカン氏」
◇
北沢風景
※「北沢」
◇
道修山夜曲
※「道修山」
◇
道化の臨終(Etude Dadaistique)
野辺(のべ)の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆(いんげんまめ)の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳(たんげさぜん)がこっち向き、
※「丹下左膳(たんげさぜん)」
◇
「地名・人名」だけを列記すると
「小林秀雄」
「ピチベ」
「小竹の女主人(ばばあ)」
「クリンベルト」
「英国(イギリス)」
「独逸(ドイツ)」
「フランス」
「小笠原沖」
「鹿児島半島」
「アブラハム・リンカン氏」
「リンカンさん」
「リンカン氏」
「北沢」
「道修山」
「丹下左膳(たんげさぜん)」
――となります。
「生前発表詩篇」は40篇(短歌を除く)あります。
このうちの9篇に「地名・人名」は現われました。
2割2分強といった比率です。
本文中に現われるものは4篇だけで
他のすべては「タイトル」「献呈相手」「序詞」の中に現われるものでした。
それが「小林秀雄」「ピチベ」「小竹の女主人(ばばあ)」「北沢」「道修山」です。
◇
「ピチベ」や「クリンベルト」は
「地名・人名」ではないかもしれません。
中原中也が使った「謎(なぞ)の言葉」ですが
可能性としてここに入れておきました。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
「在りし日の歌」に現われる
「人名」や「地名」などの固有名詞を見ていきます。
<在りし日の歌>
夜更の雨
――ヴェルレーヌの面影――
雨は 今宵(こよい)も 昔 ながらに、
昔 ながらの 唄を うたってる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
と、見る ヴェル氏の あの図体(ずうたい)が、
倉庫の 間の 路次(ろじ)を ゆくのだ。
※ 「ヴェルレーヌ」「ヴェル氏」
◇
月
さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちている、いやメダルなのかァ
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやろう
※「文子さん」
◇
この小児
コボルト空に往交(ゆきか)えば、
野に
蒼白(そうはく)の
この小児(しょうに)。
※「コボルト」
◇
冬の明け方
やがて薄日(うすび)が射し
青空が開(あ)く。
上の上の空でジュピター神の砲(ひづつ)が鳴る。
※「ジュピター神」
◇
老いたる者をして
――「空しき秋」第十二――
〔空しき秋二十数篇は散佚(さんいつ)して今はなし。その第十二のみ、諸井三郎の作曲によりて
残りしものなり。〕
※「諸井三郎」
◇
秋の消息
此(こ)の日頃(ひごろ)、広告気球は新宿の
空に揚(あが)りて漂(ただよ)えり
※ 「新宿」
◇
秋日狂乱
それにしても今日は好いお天気で
さっきから沢山の飛行機が飛んでいる
――欧羅巴(ヨーロッパ)は戦争を起(おこ)すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか
ああ、誰か来て僕を助けて呉れ
ジオゲネスの頃には小鳥くらい啼(な)いたろうが
きょうびは雀(すずめ)も啼いてはおらぬ
地上に落ちた物影でさえ、はや余(あま)りに淡(あわ)い!
※「欧羅巴(ヨーロッパ)」「ジオゲネス」
◇
お道化うた
月の光のそのことを、
盲目少女(めくらむすめ)に教えたは、
ベートーヴェンか、シューバート?
俺の記憶の錯覚が、
今夜とちれているけれど、
ベトちゃんだとは思うけど、
シュバちゃんではなかったろうか?
※「ベートーヴェン」「シューバート」「シュバちゃん」「ベトちゃん」
◇
除夜の鐘
その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だろう、どんな心持だろう、
その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。
※「銀座」「浅草」
◇
雪の賦
その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾(おおたかげんご)の頃にも降った……
ロシアの田舎の別荘の、
矢来(やらい)の彼方(かなた)に見る雪は、
うんざりする程永遠で、
※「大高源吾(おおたかげんご)」「ロシア」
◇
独身者
石鹸箱(せっけんばこ)には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路(みち)の上には
大原女(おはらめ)が一人歩いていた
※ 「大原女(おはらめ)」
◇
ゆきてかえらぬ
――京 都――
※「京都」
◇
月の光 その一
おや、チルシスとアマントが
芝生の上に出て来てる
※「チルシス」「アマント」
◇
月の光 その二
おおチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる
※「チルシス」「アマント」
◇
冬の長門峡
長門峡(ちょうもんきょう)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
※「長門峡(ちょうもんきょう)」
◇
米 子
処女(むすめ)の名前は、米子(よねこ)と云(い)った。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであった。
――かぼそい声をしておった。
※「米子」
◇
正 午
丸ビル風景
※「丸ビル」
◇
「コボルト」とか「ジュピター神」とか「チルシス」「アマント」とかは
厳密にいえば「人」ではありませんが
入れておきました。
「大原女(おはらめ)」は「地名」に分類できるでしょう。
「地名・人名」だけを列記すると
「ヴェルレーヌ」
「ヴェル氏」
「文子さん」
「コボルト」
「ジュピター神」
「諸井三郎」
「欧羅巴(ヨーロッパ)」
「ジオゲネス」
「ベートーヴェン」
「シューバート」
「シュバちゃん」
「ベトちゃん」
「銀座」
「浅草」
「大高源吾(おおたかげんご)」
「ロシア」
「大原女(おはらめ)」
「京都」
「チルシス」
「アマント」
「長門峡(ちょうもんきょう)」
「米子」
「丸ビル」
――となりました。
「在りし日の歌」58篇のうち14篇に現われました(重複して登場したものは数えません)。
◇
個々の名前については
後にまとめて「解説」を加える予定です。
今は、列挙するだけにしておきます。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
中原中也の詩に現われる
「色」
「オノマトペ=擬音語・擬態語」
「鳥獣虫魚=動物」
「草々花々(くさぐさはなばな)=植物」
――を見てきましたが
今度は、「人名」や「地名」などの固有名詞の登場を探ってみます。
「新宿」が出てきたり
「リンカーン」が出てきたり
「丹下左膳」が出てきたり……。
これも詩を横道から楽しむだけですから
お気軽お気楽にお読みください。
◇
<山羊の歌>
秋の一日
こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍(わだち)との音によって、
サイレンの棲む海に溺れる。
※「サイレン」
◇
凄じき黄昏
捲(ま)き起る、風も物憂(ものう)き頃(ころ)ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とお)き昔の隼人等(はやとら)を。
※「隼人等(はやとら)」
◇
深夜の思い
黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄(よ)する
ヴェールを風に千々(ちぢ)にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
※「マルガレエテ」
◇
ためいき
河上徹太郎に
空が曇ったら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土(すなつち)の中に覗(のぞ)くだろう。
遠くに町が、石灰(せっかい)みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。
※「河上徹太郎」「ピョートル大帝」
◇
更くる夜
内海誓一郎に
※「内海誓一郎」
◇
つみびとの歌
阿部六郎に
※「阿部六郎」
◇
修羅街輓歌
関口隆克に
※「関口隆克」
◇
雪の宵
青いソフトに降る雪は
過ぎしその手か囁きか 白 秋
※「白 秋」
◇
時こそ今は……
時こそ今は花は香炉に打薫じ
ボードレール
いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。
いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。
いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、
※「ボードレール」「泰子」
◇
羊の歌
安原喜弘に
Ⅲ
我が生は恐ろしい嵐のようであった、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
ボードレール
※「安原喜弘」「ボードレール」
◇
憔 悴
Pour tout homme, il vient une èpoque
où l'homme languit. ―Proverbe.
Il faut d'abord avoir soif……
――Cathèrine de Mèdicis.
※「Cathèrine de Mèdicis.」
◇
いのちの声
もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
――ソロモン
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果(あきは)てた。
あの幸福な、お調子者のジャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上りの曇った空の下の鉄橋のように生きている。
僕に押寄せているものは、何時(いつ)でもそれは寂漠(せきばく)だ。
※「ソロモン」「バッハ」「モツアルト」
◇
「盲目の秋」の「聖母(サンタマリア)」はここでは外しました。
一般名詞化していると見なされるからです。
入れてもおかしくはありませんが。
「隼人等(はやとら)」は「薩摩隼人」ということで
「地名」が隠れていると見なし載せました。
◇
「サイレン」
「隼人等(はやとら)」
「マルガレエテ」
「河上徹太郎」
「ピョートル大帝」
「内海誓一郎」
「阿部六郎」
「関口隆克」
「白 秋」
「ボードレール」
「泰子」
「安原喜弘」
「Cathèrine de Mèdicis.」
「ソロモン」
「バッハ」
「モツアルト」
――とありましたが
タイトル回りの「献呈相手」や「序詞」に出てきたものを除いて
本文中に現われた「人名・地名」は多くはありませんでした。
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
中原中也の詩を通覧すると
一目瞭然で「花」の登場が少なく
葉とか根とか枯れ草など「草木」が多いことがわかります。
「花」は珍しい分、
鮮やかな印象を残す場合が多く
向日葵(ひまわり)=「夏の日の歌」
れんげの華(はな)=「春の思い出」
白薔薇(しろばら)=「むなしさ」
菖蒲(しょうぶ)=「六月の雨」
菜の花=「春と赤ン坊」
桜=「正 午」
三色菫(さんしきすみれ)=(疲れやつれた美しい顔よ)
キンポーゲ=「狂気の手紙」
タンポポ=「狂気の手紙」
――などが記憶に刻まれます。
「花」の登場が少ないから色彩に欠けるというものではなく
出てくるべきところに出てきて
「菜の花」「三色菫」「キンポーゲ」など
詩(のタイトル)とともに思い出すことができます。
園芸店で売っているような「花」ではなく
自然の中の「花」の場合が多いのは
たとえば吉本隆明が
「わたしの好きだった、そして今でもかなり好きな自然詩人に中原中也がいる。」と
「吉本隆明歳時記」の巻頭に中原中也を取り上げ
「自然詩人」の名称で呼んでいることに通じるものでしょうか。
◇
蓮(はす)の葉
楡(にれ)の葉
椎(しい)の枯葉
棉(わた)の実
葱(ねぎ)の根
すすきの叢(むら)
枇杷(びわ)の葉
とうもろこしの葉
芒(すすき)の穂
――などと、「葉」や「根」に詩人の眼差しは向けられ(ることが多く)
「草・花」というアングルで見ると
そのことだけを取って見ればいかにも地味という印象でした。
◇
自然としての「草や花」を歌うからといって
吉本隆明はそれで「自然詩人」と言っているわけではなさそうですが
中原中也が「自然」を歌うために詩を作ったものでないことは
「草や花」を前面に出してはいない、というところにはっきりしています。
「草」や「花」に託して
「情」とか「メッセージ」とかを述べたということを
確認できるのではないでしょうか。
◇
ほかにも色々なことが言えるのかもしれませんし
言えないのかもしれません。
言い過ぎて間違えるかもしれませんから
これ以上のことは控えておきます。
◇
最後に、重複を避けて「花と草」だけを抽出しておきます。
百合
蓮(はす)の葉
草の根
向日葵(ひまわり)
曼珠沙華(ひがんばな)
楡(にれ)の葉
麦
松
椎(しい)の枯葉
白薔薇(しろばら)
襄荷(みょうが)
柿の木
枇杷(びわ)
菖蒲(しょうぶ)
棉(わた)の実
麻(あさ)
ポプラ
菜の花畑
葱(ねぎ)の根
桜
苔(こけ)
すすきの叢(むら)
杉林
菫(すみれ)
笹の葉
薔薇(ばら)
隠元豆(いんげんまめ)
蓮華(れんげ)
へちま
苺(いちご)
蔦蔓(つたかづら)
苜蓿(うまごやし)
百合(ゆり)
朝顔)
韮(にら)
いちじく
椰子樹(やしのき)
綿
げんげ
三色菫(さんしきすみれ)
茸(きのこ)の薫(かおり)
櫟材(くぬぎざい)
枇杷(びわ)の葉
夕顔の花
瓜(うり)
稲穂
とうもろこしの葉
芒(すすき)の穂
林檎(りんご)
パセリ
にんにく
コスモス
茅(かや)
こごめばな
葡萄
椿(つばき)
キンポーゲ
タンポポ
あやめ
菖蒲(しょうぶ)の花
(この項終わり)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
(前回からつづく)
これまでピックアップした「花・草」の表記から
前後の文脈を無視して
「花・草」だけをクローズアップしてみます。
「野」とか「畑」とか
詩の中でいかにも「植物」を意味しているものなど
やや定義が曖昧(あいまい)ですが載せたものもあり
見過ごしたものもあるかもしれません。
詩の中で重複しているものも
そのまま載せました。
大まかな傾向がわかればよし、です。
◇
桃色の花
樹脂の香(か)
森竝(もりなみ)
百合花(ゆりばな)
蓮(はす)の葉
蓮の葉
草の根
林
梢(こずえ)
森
草地
枯木
草影
草
並木の梢(こずえ)
向日葵(ひまわり)
原に草
山に樹々(きぎ)
木々
松
れんげの華(はな)
麦田(むぎた)
紅(くれない)の花
曼珠沙華(ひがんばな)
楡(にれ)の葉
木蔭(こかげ)
麦
松の木
草
松の梢(こずえ)
植木師
木
樹皮(じゅひ)
草
木
草
花びら
花
花
籬(まがき)
花
山
草
椎(しい)の枯葉
幹々(みきみき)
枝々
椎の枯葉
幹々
幹
幹
白薔薇(しろばら)
造花の花弁(かべん)
枯草(かれくさ)
梢(こずえ)
襄荷(みょうが)
灌木(かんぼく)
樹脂(きやに)
柿の木
枇杷(びわ)
菖蒲(しょうぶ)
花弁(かべん)
草
薮かげ
薮(やぶ)
花弁(かべん)
草深い野
竝樹(なみき)
棉(わた)の実
林
麻(あさ)
枯れた草
ポプラ
紫の押花(おしばな)
草
ポプラ竝木(なみき)
葉
菜の花畑
菜の花畑
菜の花畑
菜の花畑
菜の花畑
菜の花畑
木立
木立
木立
樹々の梢
庭木
樹々の下枝の葉
森
木の葉
草
草
草
花々
葱(ねぎ)の根
草叢(くさむら)
芝生
森
森
ポプラ
ポプラ
桜
桜
桜
草木
苔(こけ)
木(こ)の葉
ポプラ
葉
森
ポプラ
葉
草
すすきの叢(むら)
野原
杉林
菫(すみれ)の 花
花弁(はなびら)
松の林
松
笹の葉
松の林
花
薔薇(ばら)の花
野辺(のべ)の草葉
隠元豆(いんげんまめ)
「初夏の夜に」
笹藪(ささやぶ)
植物性
植物的
野原
野の中の伽藍(がらん)
花の名
自然
自然
蓮華(れんげ)
秋の草
草分ける
草の葉っぱ
野辺
野辺
籾殻(もみがら)
へちま
苺(いちご)
水草
木の葉
薔薇(ばら)
蔦蔓(つたかづら)
葉繁み
苜蓿(うまごやし)
百合(ゆり)
森
森
草叢(くさむら)
草叢
原
竝木(なみき)
果物
紫の朝顔の花
薔薇(ばら)
葱(ねぎ)
韮(にら)
森
木の葉
林
楡(にれ)の葉
木陰(こかげ)
野
畑
麦
畑
森の梢
いちじく
葉
いちじく
木末(こずえ)
椰子樹(やしのき)
葉
梢(こずえ)
綿
げんげ田
パルプ
花咲いている
げんげ
杉
梢(こずえ)
花
花
三色菫(さんしきすみれ)
茸(きのこ)の薫(かお)り
樹々
野
木の繁った所
草の上
草
花を開く
花
三色菫(さんしきすみれ)
海草(うみくさ)
材木
野中
野中
製材所
櫟材(くぬぎざい)
枇杷(びわ)の葉
筵(むしろ)
夕顔の花
瓜(うり)
瓜
瓜
稲穂
とうもろこしの葉
森の木末(こずえ)
森の響き
花
根も葉もない
造花
造花
造花作り
花屋
花
造花
造花作り
花の言葉
花
芒(すすき)の穂
草
樹の葉
葱(ねぎ)
葱
葱
森
山は繁(しげ)れり
山竝(やまなみ)
桜花(さくらばな)
花曇り
桜
林檎(りんご)
パセリ
にんにく
葱(ねぎ)
コスモス
茅(かや)
コスモス
こごめばな。
いちじくの葉
葉
枝
葉
葉
葉
枝
草花
葡萄畑(ぶどうばたけ)
椿(つばき)の葉
潅木林(かんぼくばやし)
椿の葉
潅木林
キンポーゲ
草穂
タンポポ
お葱(ねぎ)
あやめの花
花の紫の莟(つぼ)み
花の紫の莟み
草
すすき
繁み
繁み
繁みの葉ッパ
草葉
草葉
あやめの花
草々
花
無花果(いちじく)の葉
無花果の葉
花弁(はなびら)
枯草
ポプラ
ポプラ
葉
花畑
菖蒲(しょうぶ)の花
菖蒲の花
花
葉
花畑
(つづく)
にほんブログ村:「詩集・句集」人気ランキングページへ
(↑ランキング参加中。記事がおもしろかったらポチっとお願いします。やる気がでます。)
最近のコメント