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2013年5月

2013年5月31日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年10月16日・再

(前回からつづく)

詩人が詩人になるには
自ら詩人とただ名乗ればよいという単純なものでもなく
やはり目に見える形として詩集をもっていることを
世の中に向かってアピールしないことにははじまらないもののようです。

中原中也が初めて詩集を出そうと構想したのは
「富永太郎詩集」(私家版、昭和2年)が出たときということになっています。
このときは原稿を清書したまでで終わりました。
これが「山羊の歌」以前に計画された第1詩集でした。
幻の第1詩集です。

この辺の経緯について「新編中原中也全集」(第1巻 解題篇)が
詳しい考証をおこなっています。

使用していた原稿用紙の種類を分析するなどの方法で
仮説を立て結論していますが
得られた結論も仮説のようなもので
断定的なものではありません。

その結論(仮説)の部分を引用しておきます。

「山羊の歌」の最終章「羊の歌」に収められた3篇(「羊の歌」「憔悴」「いのちの声」)は、それまでの第1―4章の詩篇とは文体が異なり、初期の制作時期も「山羊の歌」の中で最も編集時期に近接している。このうち「羊の歌」の初稿は昭和6年3―4月に制作された可能性があり、これ以降、詩集出版の希望が芽生えたとも考えられる。大岡昇平は「詩集を出そうという考えは昭和6年頃からあったと見做される」と述べている(「解説」旧全集第1巻)。しかし、出版の希望はあったとしても、最終章の3篇がそろって後、初めて中原に詩集の全体構成プランが成立したのであろう。「山羊の歌」のしめくくりとなる詩篇「いのちの声」が制作された昭和7年2月以降、詩集の構想は高まり、編集・出版を決断したものと思われる。(※洋数字に変換しました。編者。)

「いのちの声」の制作をエポックに
「山羊の歌」は具体的な編集作業に入ったという考えです。

この考えが
昭和6年には「山羊の歌」の構想がなかったことを主張するものではありません。
詩人の頭の中に
詩篇の配置に関する小さなアイデアや章分けのプランなどが次第次第に形作られて
その後に、「いのちの声」が制作されたという構想段階があってもおかしくはありませんし
それがないほうが不自然です。

繰り返すようですが、
中原中也が、下宿でおとなしく「ヒヤ酒」を飲んでいた昭和6年のある時期は
編集が着手されようとする「前夜」にあたり
ヒヤ酒を飲む詩人の胸には
詩集の構想が渦巻いていたのかもしれません。

昭和6年の手紙をざっと読んできましたが
ここで「72 10月16日 安原喜弘宛 封書」の全文を読んでおきましょう。

この中に「作品」に関する記述があります。
なにがしか、自らの詩作品への「思い」が述べられており
それは詩集への意志と無縁ではないように感じられますがいかがでしょうか……。

 元気もなんにもありません。自分ながら情けない気持ちで生きています。
 新宿の空に、気球広告が二つあがっています。あれの名は「エアーサイン」です。
 
 ものものの、核心だけを愛することなら、こんなに元気がなくとも心得ています。核心が成長し、色々の形態をとったもの、殊には作品なぞというものの評価は、大学の先生が、お金を儲けるためになされることと考えちまっています。――と申すは、過日来ブランデスの文学史を読んで、少し頭がゴタゴタしたからのことです。
 
 時にかの『月の浜辺』なる曲は、核心のまわりに、多分のエナをつけていて、未進化なものではありますが、そのかわり猶、濃密に核心がこれと分るように見付かります。――昨夜は関口と飲みました。氏は、酒のいい店を御存知です。僕事『月の浜辺』を賞揚したら、氏はこんこんとその愚作たることを説かれました。

 僕はあやまりながら、その歌詞を書取って帰りました。「月影白き、波の上、ただひとりきく 調べ。告げよ千鳥、姿いづこかの人。ああ狂ほしの夏の夜。こころなの、別れ。」 さよなら。
     16日                           中也
    喜弘様

(※「新かな」に改め、洋数字に変えました。「行空き」を加えてあります。編者。)

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月29日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上」昭和6年

(前回からつづく)

昭和6年(1931年)が暮れようとしています。
この頃、「手許不如意(てもとふにょい)」の日々にあり
外で飲む酒をひかえて下宿でヒヤ酒をたしなむ詩人でしたが
きっとその酒の瓶は机上にあり
横には原稿用紙の束(たば)が積み上げられていたことでしょう。

「この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。」と年譜が記すように
年初めに安原喜弘にデディケートした「羊の歌」や
同じく安原に送った幾つかの未発表詩篇などのほかには
創作詩の書かれた数は極めて少ない年でした。

東京外語でのフランス語の勉強に熱心だったせいもあり
弟・恰三の死の衝撃もあったのでしょうが
しかし、詩人の「核心」にはコトコトと発酵するものがあり
「雌伏」中のこの年、
次第次第に形となってゆきました。

詩集の発行計画です。
詩集のために編集を始めるのです。

昭和7年が明けてすぐに
「山羊の歌」の最終章「羊の歌」に収録されることになる「憔悴」が書かれ
4月頃に詩集のための編集作業が開始されるのですが
年が明ける前のこの時期、
つまり、下宿でおとなしく「ヒヤ酒」を飲んでいた時期は
編集が着手されようとする「前夜」にあたるわけですから
とても重要な時期です。

ヒヤ酒を飲む詩人の胸には
詩集の構想が渦巻いていたのかもしれません。

昭和6年を通して、
読書し、映画を見、講演会に行き、絵画・美術を鑑賞したなどの記述を
手紙からひろっておきます。

「ドルジェル伯の舞踏会」、読んで感服しました。(2月16日 安原喜弘宛)

東京では、近頃浅草金龍館が復活しました。明晩は出掛けて行こうかと思っております。(9月13日 高田博厚宛)

18日、朝日講堂でエリ・フォールの講演を聴きました。(9月23日 安原喜弘宛)

茲で他人の言葉を二つ、何かのために記すこととします。(同)
(※ミュッセ「世紀児の告白」、ジョゼフ・ケッセル「清き心」序文より、それぞれ引用しています。)

昨夜アルキペンコを買ってきました。(10月8日 安原喜弘宛)

(略)――と申すは、過日来ブランデスの文学史を読んで、少し頭がゴタゴタしたからのことです。(10月16日 安原喜弘宛)

時にかの「月の浜辺」なる曲は、核心のまわりに、多分のエナをつけていて、未進化なものではありますが、そのかわり猶、濃密に核心がこれと分るように見付かります。(同)

ル・ミリオンみました。面白くありました。(11月4日 安原喜弘宛)

今月の改造、君も読んだでしょう。僕も50銭玉を置いて、久しぶりで雑誌というものを買って来ました。小林の小説は、余り面白くはありません。河上の時評は、分らない箇所がありました。(同)

フランシス・カルコ、「追いつめられる男」読みました。一寸面白いです。映画「パリッ子」みました。役者がうまくて面白いです。ドストエフスキー「罪と罰」を読んでいます。ゴルキーの「四十年間」には打たれました。(11月16日 安原喜弘宛)

此の頃はネルヴァルの「夢と生」を訳しています。怠けなければ、此の冬君が帰る頃までには、「オーレリア」が訳了せられてある筈です。(同)

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月28日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年12月30日・その2

(前回からつづく)

千駄ヶ谷874隅田方から出された
「78 12月30日 安原喜弘宛 葉書」に
「お訪ねしたくも電車賃もない有様」とあるのは
何かを買い込んだか無駄遣いをしてしまったからか
仕送りを計画的に上手に使えなくて「手許不如意」の状態になっていたことが想像できますが
なぜそうなったかは不明です。

 中也への仕送りは、はじめのうちは月々60円ときめていました。これで生活は十分できたろうと
思いますが、休みにはいつも痩せて帰ってきました。それで、中ちゃん、もう10円よけいに送って
あげるから、牛乳を飲みなさい、と60円を70円にしてやりました。けど、つぎの休みに帰ったとき
も、やはり痩せておるんです。しまいには結核で亡くなりましたぐらいですから、あのころから悪か
ったのかもしれません。

 中也は身体が弱かったから、痩せて帰ると心配でした。肉でも買うて食べるがええ、とまた10円
ふやして、あとでは80円ずつ送りました。なんでも湯田あたりでは、いちばん金持ちの坊ちゃんが、
その80円という額を聞かれて、「そんなに送ってやる親はおりません。中也君に送りようが多過ぎ
る、あんまり良くないですよ」といわれたことがありました。それでも親馬鹿で、80円ずつ送りまし
た。

「私の上に降る雪は わが子中原中也を語る」(中原フク述・村上護編)には
母堂フクが東京の詩人へ仕送りしていた実際が語られています。

80円がどれほど多額なものか
想像を超えますが
そうでありながら、この頃、ピーピーしていた理由も想像を超えます。

「69 9月下旬(推定) 中原フク宛 封書」の冒頭に「十分受取ました。」とあり
9月26日の恰三の死をはさんで
「70 どうも賑やかにしすぎました、神経不調の折柄、――ほいなきことでありました。」
「72 10月16日 安原喜弘宛 封書」冒頭の
「元気もなにもありません。自分ながら情けない気持で生きています。」
「73 10月23日 安原喜弘宛 封書」冒頭の「退屈です。」

「74 11月4日 安原喜弘宛 葉書」末尾の「酒は買って来てヒヤでやります。」
「75 11月16日 安原喜弘宛 封書」冒頭の「今小生酔いてあり。ヒヤをやっているのです。」
「76 11月17日 松田利勝宛 封書」中ほどの「貧乏すると何もかも臆劫になりますね。」

これらの手紙が
「お訪ねしたくも電車賃もない有様」(78 12月30日 安原喜弘宛)へと連なります。

恰三の死をきっかけに大酒して
大事な仕送りを消尽してしまったのでしょうか?

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月27日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年12月30日

(前回からつづく)

千駄ヶ谷872高橋方から
千駄ヶ谷874隅田方へ越したのは
昭和6年(1931年)の年末。

そこからの安原宛第1便が
「78 12月30日 安原喜弘宛 葉書」です。

 この手紙が着く頃は御帰京のことと思います
 お訪ねしたくも電車賃もない有様、その代り毎日籠っているだけは確実に付、何卒やって来て下さい。実は急に先の下宿を変らなければな(ママ)くなり、先の下宿は月末払いであったのが、今度の下宿では先払いということになり、それに今度の方は玄人下宿なもんですから、すくなくも今はゆうずうがつかないのです。                                    失敬

葉書に書かれた全文です。

今度借りた下宿の支払いが先払いになった
そして素人下宿ではなくプロの下宿になった、ということは
来年昭和7年の1月分を近く支払わねばならないということで
使い込んだりすることはできないので
酒を控え、遊びも控え、
下宿で大人しくしていると言いたかったのでしょう。

番地が2番違うだけのところへ越したわけは、
この文の中に読み込めそうですが確定的なことはわかりません。
大家といざこざでもあったのでしょうか?

安原喜弘はこの葉書に

この時彼は、前の下宿とは2番違いの下宿に越している。理由はわからない。かくして昭和6年は暮れて行った。
――とコメントしています。

満州事変で世情騒然。
弟・恰三の死。
「白痴群」崩壊から1年半が経ちました。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月26日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年10月23日

(前回からつづく)

「72 10月16日 安原喜弘宛 封書」の
「元気もなんにもありません。自分ながら情けない気持で生きています。」というはじまりは
弟の死の余波と必ずしも言えないかもしれませんが
無縁であるというよりなんらかの影響を受けていると考えるのが自然でしょう。

恰三の死(9月26日)から
まだ1か月になっていません。

ほかにも詩人を悩ます理由はあったのでしょう。
手紙がそれをぶつける場でした。
悩みごとをぶつけるばかりでなく
退屈しのぎの場ですらありました。
少なくとも安原宛の手紙は。

「73 10月23日 安原喜弘宛 封書」は

退屈です。毎日手紙を書かないことはありません。手紙を書くことは楽しみです。失敬な話だが、カンベン。
――という書き出し。
そのうえに、近況が報告されます。

外務書記生の規則書取寄せました。
――と、この頃、フランス行きの手立てとして「公務員試験」を考えていたことを記します。

また、

佐規子も此の頃では陞進して、グレタ・ガルボになりました。
――と、泰子がコンクールで一等入選したことの報告です。ここには、「僕はちっとも会っていません、赤ん坊には時々会いたくなります。」と泰子への心境がもらされます。
(※「陞進」はショウシンまたはショウジンと読みます。「陞進」は「昇進」と同じ意味と考えてよいでしょう。)

また、

学校には欠かさず出ております。詩も書きます。3日に1度は、少しでもいいからお酒がはいらないと、身も心もニガリきります。
――と、「本職=詩」の状態を述べます。

学校、詩、酒……。
このあたりに、詩人の「核心」が見えます。

学校は、東京外国語学校のことで、フランス語専科に通っていました。
その教師ヌエットと直かに話す計画が進んでいました。

ヌエットには、一緒に行くことにしていた男が退学させられたので一寸会いにいけません。一人で行っては、話がなさすぎます。何分日本語が十分分りませんから、でもそのうちゆくでしょう。
――と、関心を抱いた相手とトコトン交際を深めようとするいつもの詩人が現われます。

最後には
面白いことがあったら知らせて下さい。
――と、安原からの面白い話に期待して、手紙を結びます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月23日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年10月8日、9日・その2

(前回からつづく)

豪徳寺の酒場で大酔いして下宿に帰ると死亡の電報が来ていた。

――と大岡昇平は、弟・恰三の訃報を受け取ったときの中原中也の様子を伝えています(旧全集「詩Ⅱ」解説)。

小田急線豪徳寺駅周辺は
2013年現在も鄙(ひな)びたところのある路地や商店が残っていて
この地に立つと中原中也が飲んだ酒場を自然と探す眼になっていることがあるのですが
もちろん見つかるはずがありません。

吉田秀和を前年(昭和5年)秋に知ったのも
この駅から三つ先へ行ったところの砧(きぬた、成城学園駅近く)でしたから
下宿の南新宿(当時は千駄ヶ谷新田駅か山谷駅)を基点に
小田急線に乗って豪徳寺へも成城学園へも出掛けたことが想像されます。

昭和4年に住んでいた渋谷町神山も
渋谷駅へ出て帝都電鉄(井の頭線)で下北沢へ出るよりも
歩けば小田急の東北沢駅や代々木上原駅へもわけなく行けた距離でした。

「70 10月8日 安原喜弘宛 葉書」にある
どうも賑やかにしすぎました、神経不調の折柄、――ほいなきことでありました。
――は、恰三の死を知った後に安原喜弘と飲んだ酒についての記述ですから
渋谷とか麻布とかで飲んだのかもしれませんが
豪徳寺や南新宿やであっても不思議ではありません。

未発表詩篇「疲れやつれた美しい顔」、「死別の翌日」が同封された「71 10月9日」書簡は
「72 10月16日」の
「元気もなんにもありません。自分ながら情けない気持で生きています。」とはじまる手紙へつながっていきます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月22日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年10月8日、9日

(前回からつづく)

有名な易者というのは高島易断系の占いのことでしょうか
昭和6年9月下旬(推定)に母・フクに宛てた手紙の日付けからまもなく
弟・恰三は死んでしまいます。

この頃の手紙にそのことは直接書かれません。

しかし、「70 10月8日 安原喜弘宛 葉書」は
どうも賑やかにしすぎました、神経不調の折柄、――ほいなきことでありました。
――と書き出される、葉書にしては長めの文ですが
「弔い酒」を過剰に嗜(たしな)んだ跡をうかがわせます。

恰三の死は手紙に書かれることはなかったのですが
そのことは詩人が受けた衝撃の大小を示すものではありません。
手紙の文にできなかったものこそが
詩に書かれたということもできます。

恰三の死に関しては
やがて小説「亡弟」が書かれることになりますが
死の直後に書かれたのは詩でした。

それが
71 10月9日 安原喜弘宛 封書
――という、封筒だけが現存する「記録」となります。
中には
未発表詩篇「疲れやつれた美しい顔」、「死別の翌日」が同封されていました。

ここで、二つの詩を読んでおきましょう。

疲れやつれた美しい顔
 
疲れやつれた美しい顔よ、
私はおまえを愛す。
そうあるべきがよかったかも知れない多くの元気な顔たちの中に、
私は容易におまえを見付ける。

それはもう、疲れしぼみ、
悔とさびしい微笑としか持ってはおらぬけれど、
それは此(こ)の世の親しみのかずかずが、
縺(もつ)れ合い、香となって蘢(こも)る壺(つぼ)なんだ。

そこに此の世の喜びの話や悲しみの話は、
彼のためには大きすぎる声で語られ、
彼の瞳はうるみ、
語り手は去ってゆく。

彼が残るのは、十分諦(あきら)めてだ。
だが諦めとは思わないでだ。
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋にみる、三色菫(さんしきすみれ)だ。
 

死別の翌日
 
生きのこるものはずうずうしく、
死にゆくものはその清純さを漂(ただよ)わせ
物云いたげな瞳を床にさまよわすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであったもののように死んでゆく。

さて、今日は良いお天気です。
街の片側は翳(かげ)り、片側は日射しをうけて、あったかい
けざやかにもわびしい秋の午前です。
空は昨日までの雨に拭(ぬぐ)われて、すがすがしく、
それは海の方まで続いていることが分ります。

その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此(こ)の世のことを考えず、
さりとて死んでいったもののことも考えてはいないのです。
みたばかりの死に茫然(ぼうぜん)として、
卑怯(ひきょう)にも似た感情を抱いて私は歩いていたと告白せねばなりません。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月21日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、中原フク様」昭和6年9月下旬

(前回からつづく)

昭和6年9月下旬(推定)に
母・フクに宛てた封書は東京・千駄ヶ谷からのものと思われますが
発信地は書かれていません。

69 9月下旬(推定) 中原フク宛 封書

 10月分受取ました。
 恰三の病気また少しわるい由、心配でしょう。此の頃は明け方が寒いから御注意なさい。何分
気候不順なのが不可ないのでしょう。何卒、もともと長い病のことゆえ、一度には癒らないのです
から、あせらずゆっくり養生する様お伝え下さい。
 熱があるのですか。腹がはるのですか。お手紙には只少し悪いとだけあって一向に様子がわ
かりません。
 僕事毎日登校しています。先日講演を聴くために1時間欠席したほか、無欠席です。
 迷わないで食養療法を続けられる様希望します、
 皆々御大切に。お祖母さん達によろしく。
                    怱々
                     中也 

ここで終わったかに見えた手紙は
すぐには投函されなかったのか
追記が加えられます。

母上様
支那とゴタゴタが起りましたね。東京では毎日二三度号外が出ます。地震も可なりありますが、大
したことではありません。

本日有名な易者にみてもらいました、
恰三は今に丈夫になるそうです。こんなに丈夫になったかと驚くことがあるようになるそうです。し
かし来年1月頃まではハッキリしない状態が続くとか。

(※「新かな」「洋数字」に改めてあります。編者。)

「支那とゴタゴタ」は9月18日に勃発した満州事変。
「地震」は、9月21日に起こった西埼玉地震。
関東一帯をマグニチュード7.0が襲いました。
(新全集・第5巻解題篇)

「本日」以下は、小さな字で書かれているそうです。
弟への心配と母への心配が重なります。

……しかし、
恰三は、9月26日、死去します。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月20日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年8月5日

(前回からつづく)

7月29日付け、長谷川泰子宛の葉書の次の手紙として
8月5日付け、安原喜弘宛の絵葉書が残されました。

「新全集」では「65A」という通し番号が付されてありますが
これは旧全集や安原喜弘編著「中原中也の手紙」の玉川大学出版部版(昭和54年)など
先行出版物以後に再考証された結果で
はじめは「昭和8年8月5日」発信とされていたものを
「昭和6年8月5日」発信と読み直されたためのものです。

通し番号を全部替える煩雑さを避けて「65A」とされました。

65A 8月5日 安原喜弘宛 絵葉書
   表 東京市外下目黒824(ママ) 安原喜弘様
      5日 中原

 無事帰着きました 病人があまり痩せているのでチトがっかりしました
 この分では多分、9月まで山口住みとなりそうです     失敬
 
(※「新かな」「洋数字」に直してあります。編者。)

病人とは、弟の恰三のこと。
東京の日本医科大で勉強していましたが、外傷性肋膜炎で帰省、療養中でした。
そこへ、詩人も帰省し、恰三を見舞ったのです。
約1か月、山口に滞在し、再び、詩人は上京します。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月19日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、長谷川泰子様」昭和6年7月29日

(前回からつづく)

豊多摩郡千駄ヶ谷町千駄ヶ谷872高橋方へ越したのは7月25日。
「明日越します」と安原喜弘に書いた通りに引っ越してすぐの
7月29日には、長谷川泰子宛に葉書を出しています。

65 7月29日 長谷川泰子宛 葉書
   表 市外東中野小滝4 長谷川泰子様
     千駄ヶ谷872 高橋方 中也 29日

 差出がましいことながら、
 茂樹の種痘(ホーソー)はすみましたか。
 まだなら、早く医者に連れて行きなさい。ホーソーを患うと、顔がキタナクなるのみならず、知育
体育共に大変遅れることになるのです。
 右御注意迄。

(※「新かな」「洋数字」に直してあります。編者。)

茂樹は、泰子と山川幸世の間にできた子。
中原中也が命名したそうです。

泰子宛の手紙は幾つか残されていますが
どれもがこのような「差出がましい」ような気づかいを書いたものです。
どれもが茂樹を心配したものです。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月18日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年7月24日・その1

(前回からつづく)

昭和6年は中原中也24歳の年。
2月16日付けで安原喜弘に書簡を出したとき
詩人は「千駄ヶ谷」に住んでいました。

千駄ヶ谷といっても
神宮球場をかかえる現在の千駄ヶ谷のあたりではなく
小田急線が「千駄ヶ谷新田」の駅名だった頃の現・南新宿の近く
小田急線北側の一帯で、
新宿駅から小田原方面に向かえば右手にあたる住宅地、
そこが、東京都豊多摩郡代々幡町代々木山谷112近間方、という住所でした。

この地に昭和5年9月初旬に住みはじめて
およそ1年が経とうとしていたときの7月25日
近くの東京都豊多摩郡千駄ヶ谷町千駄ヶ谷872高橋方へ引っ越し
さらに12月下旬には、千駄ヶ谷874隅田方へ引っ越しています。

代々幡(よよはた)町に代々木山谷はあり
千駄ヶ谷町に千駄ヶ谷があって
これら三つの住所は目と鼻の先にありましたからややこしいのですが
昭和8年3月に東京外語専修科を卒業するまでのほとんどを
この一帯で暮らしました。
※「新編中原中也全集」別巻(上)より。

高森文夫と知り合った昭和6年末以降に
転居の意識が芽生えたのか
高森の伯母の住む荏原郡馬込へ引っ越すのは昭和7年8月です。

昭和6年7月24日付けの安原宛の葉書は
代々木山谷からのものです。

 御病気はどんなですか、知らせて下さい。

 僕の今度の下宿、先達教えたのよりもっと近道がありました、千駄ヶ谷新田駅ワキの小田急事務所の裏について廻ると直ぐドブです。それを渡ればすぐそこに高橋秀男の板の表札があります。四方に窓があって、あたりは静かです、明日越します。
                          怱々

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月17日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年2月16日・その4

(前回からつづく)

手紙は、ときに心境告白を含み
ときに近況報告であり、依頼であり、質問であり……
公私にわたってさまざまに展開します。

昭和6年2月16日の手紙は
やがてデディケートする「羊の歌」のことや
マージャンに明け暮れていた日々のことだけでなく
ほかにも報告が書かれています。

ここで、全文を引用しておきましょう。

 暫らく。
 「ドルジェル伯の舞踏会」、読んで感服しました。
 試験が近づきます。今度は殆ど学校に出なかったので没々準備にかからなければならず、憂鬱です。終るのは3月15日。
 4月からは外語の専修科に行きます。2カ年で卒業。文字通り仏語だけ。午後5児から7時迄。土曜日は休み。因みに、免状をくれます。
 君にデディケートする筈だった詩は、流産しちまいました。
 麻雀は三四日日前からイヤ気がさして来ました。底の知れたものです。僕事、多分初段位ではあるでしょう。三四日前までは、正月以来、毎日三卓はやっていました。
 今夜、消え残りの雪の上に雨が降って来ました。タマに今夕は下宿にいます。ウマイ煙草が吸いたいです。      さよなら。
    16日     中也
    喜弘様 

(※「新編中原中也全集・第5巻」より。「新かな」「洋数字」に直してあります。編者。)

レーモン・ラディゲの小説を読んで感服したり
通っていた中央大学予科の試験が近づいていることを憂えたり
新年度からは東京外語の専修科へ入学することを伝えたり
残りの雪に雨が降ったこと、(こんな日だから?)今夕は下宿にいること、
ウマイ煙草が吸いたい、とは、
ゴールデンバットではない、ほかの上等な葉巻を吸いたいとでも感じていたのでしょうか。
タバコをうまく吸いたいということでしょうか。

思いつくことを
手当たり次第書いているようですが
余計なことは書かれていません。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月16日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年2月16日・その3

(前回からつづく)

中原中也が安原喜弘にデディケートした詩「羊の歌」は
初稿が昭和6年の3月か4月に制作されたものと推定されています。

昭和6年2月16日の書簡からしばらくして
安原喜弘は「羊の歌」を贈られたのです。

「羊の歌」といえば
詩集「山羊の歌」の最終章に収められた絶唱の一つです。
「憔悴」「いのちの声」につながる「羊の歌」の冒頭詩です。

この詩が作られた頃に
詩人はマージャン三昧の日々を送っていたということが
手紙からわかるというのも驚きです。

「君にデディケートする筈だった詩は、流産しちまいました。」と書かれた次の行に、

 麻雀は三四日日前からイヤ気がさして来ました。底の知れたものです。僕事、多分初段
位ではあるでしょう。三四日前までは、正月以来、毎日三卓はやっていました。

――と記されてあるのを読めるのは手紙ならではです。

発信地は
東京府下代々木山谷百十二近間方、とありますから
小田急電鉄本社の裏手の
新宿へ10分程度で歩ける当時、千駄ヶ谷だった地域のことです。

住まいの近くに雀荘があったのか
自宅でやったのか
新宿近辺の繁華街かの行きつけのマージャン店だったのか

詩作の合間か
マージャンの合間の詩作か

「羊の歌」のような長詩が
1日で作られたとは思えませんが
ジャラジャラとパイをかき回す音と
詩を生み出す時間が
反発しあうこともなかった(?)というところが
新鮮です。

安原喜弘は
この手紙にコメントを加える中で
中也の麻雀を
「一種異様な殺気に満ちたもの」と評していて
詩人が卓を囲んでいる姿を想像させてくれます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月13日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年2月16日・その2

(前回からつづく)

「新編中原中也全集」は
中原中也が出した書簡で現存するものを時系列に分類し
大正14年(1925年)2月23日付け正岡忠三郎宛の
封緘葉書(ふうかんはがき)を1として
昭和12年(1937年)10月5日付け安原喜弘宛の
封書を225とする整理番号をつけています。

このうちの半数が安原喜弘に宛てたもので
昭和5年5月4日付けが最も古く
昭和12年10月5日付けが最も新しく
この間の102通が残されました。

「白痴群」が第6号で廃刊したのが昭和5年4月です。
その頃から詩人が鎌倉で死去する昭和12年10月22日の直前まで
8年以上になる「文通」の、
詩人の側からの発信記録が集められたことになります。

「羊の歌」の「羊」は
詩人がこだわった「動物」で
生れ年の「星座」に着想し
「神の子羊」「スケープゴート」の意味を含めたという詩人の発言があり
最後には「山羊」にたどり着いて
第1詩集のタイトルとしたことはよく知られたことです。

「羊」と「山羊」の位置関係は
まるで安原喜弘と中原中也の関係のシンボルでもあるかのようです。

「羊の歌」をここで読んでおきましょう。

羊の歌
        安原喜弘に

   Ⅰ 祈 り
死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。

交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!

われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、
それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず

   Ⅲ

     我が生は恐ろしい嵐のようであった、
     其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。

私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。

   Ⅳ

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……

汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほお)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……

(「新編中原中也全集」より。「新かな」にあらため、適宜、ルビを加えてあります。編者。)

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月12日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年2月16日・その1

(前回からつづく)

昭和6年(1931年)10月16日付けの
安原喜弘宛の書簡をたまたま読んだだけなのですが
日記が自分に向けて自分を告白するものであるように
手紙は相手のいる告白(のようなもの)ですから
どちらも他人がする「評論」ではありません。

詩や小説などと同じような作者(詩人)の「肉声」がそこにあり
その意味で「第一級資料」です。
その作者(詩人)に接近するには
どのような「評論」もかなわないのです。

この年(昭和6年)の書簡で残っている最初のものが
2月16日付けの、同じく安原喜弘宛の封書です。

安原は京都にいますが
住所は、左京区浄土寺馬場町。
詩人は、東京渋谷の代々木山谷にいます。

「暫らく。」とはじまる手紙の中ごろに

君にデディケートする筈だった詩は、流産しちまいました。

――とあるこの詩こそ「羊の歌」のことです。

「中原中也の手紙」には
安原喜弘のコメントが適宜付けられていて
2月16日付けの書簡には

永い間の約束であった私への贈り物の詩はこの後暫らくして私の手許に送り届けられた。
「羊の歌」と題する彼にしては比較的長い詩の一つである。

――と記されているのです。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年5月11日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年10月16日・その3

(前回からつづく)

「月の浜辺」を
中原中也は賞揚したにもかかわらず関口隆克にたしなめられ
帰ってから吟味したことを安原に書き送ったのが
昭和6年10月16日付けの書簡の一部です。

中に「濃密に核心がこれと分るように見付かります」とあるのは
詩人としては捨てがたいものがあると
関口には反論しなかったものを
安原には伝えておきたかった、ということでしょうか。

「批評」というほどのものではないにしても
詩人が目指している「詩」の方角が
「月の浜辺」とそれほど外れたところにあるものではないことを
この感想は示しているように見えます。

新宿の空にあがった広告気球を歌った詩があります。
「早大ノート」にある未発表詩です。

秋の日曜

私の部屋の、窓越しに
みえるのは、エヤ・サイン
軽くあがった 二つの気球

青い空は金色に澄み、
そこから茸(きのこ)の薫(かお)りは生れ、
娘は生れ夢も生れる。

でも、風は冷え、
街はいったいに雨の翌日のようで
はじめて紹介される人同志はなじまない。

誰もかも再会に懐(なつか)しむ、
あの貞順(ていじゅん)な奥さんも
昔の喜びに笑いいでる。
 

この詩が
「元気もなんにもありません。自分ながら情けない気持ちで生きています。」と
手紙に書く詩人と無縁ではないことを知って
少しびっくりします。
(直接に関係があるものではなさそうですが。)

新全集ではこの書簡を、

72 昭和6年10月16日 安原喜弘宛 封書
表 京都市左京区百万遍 京都アパートメント 安原喜弘様
裏 十六日 中也 東京市外千駄谷八七二 高橋方

――と、整理し、紹介しています。
72とあるのは、通し番号です。
225が、「新全集・第5巻」発行時点(平成15年)の最終番号です。

(この項終わり)

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2013年5月 9日 (木)

「眠れ蜜」の監督、岩佐寿弥さん死去

映画「眠れ蜜」の監督、岩佐寿弥さんが、4日、死去されました。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。

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ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年10月16日・その2

(前回からつづく)

「月の浜辺」とは、
昭和6年に河原喜久恵が歌い
コロムビアからレコードが発売されて人気を博した流行歌です。
作曲を若き日の古賀政雄(当時は正雄)が担当(作詞は島田芳文)。
中也は、これをラジオで聞いたのでしょうか。

僕はあやまりながら、その歌詞を書取って帰りました。「月影白き、波の上、ただひとりきく 調べ。告げよ千鳥、姿いづこかの人。ああ狂ほしの夏の夜。こころなの、別れ。」 さよなら。
――と、前回引用した手紙を続けて、結んでいます。
(※「狂ほし」とあるのは「悩まし」が正解だそうです。 「新編中原中也全集」第5巻・解題篇より。)

関口とは、申すまでもなく、関口隆克のことです。
昭和3年9月からおよそ1年間を共同生活した年上の友人です。
交友は昭和6年にも続いており
晩年(昭和12年)、千葉療養所から退院した詩人が鎌倉へ引っ越すときも
住まいを仲介するなど詩人に力を貸した人です。

その関口は「月の浜辺」を評価せず
賞揚した詩人にこんこんと愚作であることを解き明かしたのですが
詩人は、自分の住まいに帰って
筆記した「月の浜辺」の1番をもう一度吟味したのでしょう、

核心のまわりに、多分のエナをつけていて、未進化なものではありますが、そのかわり猶、濃密に核心がこれと分るように見付かります。
――と、安原宛のこの手紙の中で「月の浜辺」にコメントしました。

手紙は、封書の場合と葉書の場合とがあり
これは封書に書かれました。

封書ですから
いくらでも書くことができるので
このような「批評」のようなものが現われることがあるのです。

核心とあるのは、
この手紙の前半の部分を引き継いでいるもので

元気もなんにもありません。自分ながら情けない気持ちで生きています。

――と書き出された「晴れやかならぬ気持ち」の流れを

新宿の空に、気球広告が二つあがっています。あれの名は「エアーサイン」です。

――と引き取って、その後に書かれる、この手紙のテーマなのです。

今回はここまで。

(つづく)

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ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年10月16日・その1

「お仙泣かすな 馬肥やせ」は
「長男・仙千代を元気に育てているか、馬を上手に飼いならせよ」という意味で
徳川家の家臣・本多重次が陣中から妻に宛てた手紙として有名です。
原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」だったようで
それが「一筆啓上 火の用心」と七五調に語呂を整えられて人々の間に伝わりました。

やがては、短い文を書く手本ということになり
駆け出しの新聞記者がOJT(オン・ジョブ・トレーニング)の中で
もっともらしい教育材料の一つにされたりして
この手紙のことを知る、というような使われ方をします。

遠い日のことですが
現在でもこんな場面が新聞制作の現場で生きているでしょうか。
インターネット時代に
そんなことあるわけがありませんね。

「中原中也の手紙展――安原喜弘へ」(主催中原中也記念館ほか)が
6月15日から神奈川近代文学館で開かれるのをきっかけに
ぱらりぱらりと「日記・書簡」などをひもといていて
中原中也がなんとも「手紙の名手」であることを再発見することになりました。

そこで例によってとるものもとりあえず
「一筆啓上」シリーズをはじめることにしました。

いま手元にあるのは
「新編中原中也全集 第五巻 日記・書簡」(角川書店)や
「中原中也の手紙」(安原喜弘編著、玉川大学出版部)や
同書の新装版、講談社文芸文庫版などです。

中也の手紙ってどんなものか
まず、実際に読んでみましょう。

ざわざわとした喫茶店の中で
持ち込んだ新全集のページをめくっていると
人語のざわつきがうっとおしいものでなくなって
かえって詩人の呼吸が伝わってくる感じがあって
面白いひとときになります。

たとえば、昭和6年10月16日付けの安原喜弘宛封書の
後半部は

 時にかの『月の浜辺』なる曲は、核心のまわりに、多分のエナをつけていて、未進化なものではありますが、そのかわり猶、濃密に核心がこれと分るように見付かります。――昨夜は関口と飲みました。氏は、酒のいい店を御存知です。僕事『月の浜辺』を賞揚したら、氏はこんこんとその愚作たることを説かれました。
(※「新かな」に改めました。編者。)

――などとあり、
身を乗り出します。

途中ですが今回はここまで。

(つづく)

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