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2013年6月

2013年6月29日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年9月23日・その5

(前回からつづく)

「詩人の魂の動乱」と安原が名付けたものは何だったのか――。
もう少し、詳しく見ておきましょう。

「手紙49 9月23日」(新全集は「111」)に加えた安原のコメントをよく読むと

「困乱の徴」
「夢と現実と、具体と概念とは魂の中にその平衡を失って混乱に陥り、具体は概念によって絶えず脅迫せられた」
「神経衰弱」

「全霊を蔽う根強い強迫観念」
「家も木も、瞬く星も隣人も、街角の警官も親しい友人も、今すべてが彼に向い害意を以て囁き始めた」
「風が囁き小鳥が囁き、遠くの方で犬すらも詩人に向って鳴く」
「森羅万象すべてが今声なき声を語りだした」
「魂の葛藤」
「遠くヨーロッパの声々」

「幻聴」
「妄念」
――などの言葉が見られますが
「神経衰弱」というよりか「魂の動乱時代」と捉えているところに
安原の独自な見方があるようです。

「幻聴」「妄念」は、その核心にある現象だったといっているのかもしれません。

「幻聴」「妄念」を実際目撃したのは
高森文夫
弟の高森敦夫
高森兄弟の叔母(下宿の主婦)
私=安原。

ほかにも
詩人が接した人々は
その激突の激しさと頻度を記憶している(はず)――などと記しています。

私達は刻々に去来する彼の幻聴と戦い、想念と戦い、根気よくその一つ一つを捉え、それを解明し、彼を説得するのであるが、彼の納得は永くは続かなかった。

そして、戦場へ踏み込んでいった。

詩人がそこで戦わせたものこそ
「詩」であったはずでしたが……。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月28日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年9月23日・その4

(前回からつづく)

私達は刻々に去来する彼の幻聴と戦い、想念と戦い、根気よくその一つ一つを捉え、それを解明し、彼を説得するのであるが、彼の納得は永く続かなかった。忽ちにして一切はまた混乱に陥るのである。或は一度納得したとみえて実はすべて依然として混乱の儘であったのかもしれないのだが。

私達は遂になすすべもなく、唯奔命にこれ疲れ果てるのみであった。夜ともなればまた彼は街の灯を求め友を求め、雑踏の巷に足を踏み入れた。そこに己れの想念を確かめ、時にそれを実行に移すのである。私は彼と衝突の恐れあるすべての友人達との接触を極力回避しようとするのであるが、それも結局は徒労である。足はいつしか戦場に踏み込んでいた。

(※講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。改行を加えてあります。編者。)

安原喜弘は
「詩人の魂のこの最大の動乱」について語りはじめ
いつしか2人して入り込んでいった「雑踏の巷」や「戦場」に触れます。
その一つが京橋の酒場「ウインゾア」でした。

此処に毎晩殆ど主なる顔ぶれが揃うのであるが、彼はどうしてもそこへ行くことを主張するのである。私はなんとかして行かせまいと力を尽くすのだが、結局は彼の体はそこのドアを開けてしまうのである。私のいないときは尚更である。そこで彼の毒舌はいやが上にも散乱し、そして最後にはいつもの乱酔と乱闘に終る日々が続くのである。こうして彼は嘗て彼の最も親しかった友人達とまた最も憎み合わねばならなかったのだ。

「ウインゾア」は青山二郎が「死んだ女房の弟夫婦にやらせた酒場」。
「中原が此処でよく喧嘩したものだが、喧嘩を仕掛けてなぐられるのは何時でも中原の方だった。」と
後に「酒場『ウィンゾァーの頃』その二」に記し
詩人は、ここで坂口安吾を知ったり
ここで働いていた女給洋子(坂本睦子のこと)に求婚して断られたりした……
伝説の酒場です。

銀座・京橋の酒場で孤立する詩人に寄り添う安原。
詩人の返り血を安原が浴びないはずはありません。

詩人はこの酒場に何を求めたのでしょう
「乱酔乱闘」が誇張でないのでしたら
詩人はその果てに何をつかんだのでしょうか

安原は、詩人のこの「「動乱」が

この年の9月末頃に始まり、
年の暮とともに一度その極限に達し、
やがて年改まり春の訪れとともに魂は再び徐々に平静に帰すかに見えた
――などと記し、次の手紙を読み進めます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月27日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年9月23日・その3

(前回からつづく)

「淡い緑の含まった鼠」と詩人が希望を述べれば
安原は、遠い日を思い出したかのように
7校にわたった校正作業や、「ノド」部のスペースの調整(組み替え作業を伴います)など
細心の注意を払ったことを補足します。

校正作業は
赤インクで校正箇所を書き込み、
その都度、印刷工場に活字の差し替えや組み直しを行ってもらい、
ゲラ刷りを出してもらい、
そのゲラに赤字を入れ、また工場に活字組みを直してもらう作業を
7回くらい繰り返した(7校)というものですから
念の入れようを想像することができます。

印刷屋を説き伏せるのは実に容易なことではなかったが渋々承知させた。
――とあるのは、印刷工場泣かせの「念校」だったことも想像できます。

「手紙49 9月23日」に寄せた安原のコメントの冒頭部に、

表紙の木版は原稿も思わしくない上に、版の出来も不首尾で、その後これは古河橋のたもとから泥河の中に抛り込まれてしまった。

――とあるのは
安原制作による表紙デザイン(装丁)が
後に青山二郎に「ボツ」にされてしまった事件を指します。

結果は、青山二郎の装丁にもならず
高村光太郎のものになり
現在、初版本として残った「山羊の歌」になったことは周知のことですが
この事件は、安原喜弘が書いて未公表だった手記が
1983年(「山羊の歌」初版から33年後)に「小林秀雄の思い出」として公開されたことで
明らかになりました。

これらの経緯について
目下、神奈川近代文学館で開催中の「中原中也の手紙」展で頒布している小冊子に
安原の長男、喜秀さんが「ばちゃーん」のタイトルのエッセイを寄稿し
更に広く知られるようになっています。

中原中也と安原喜弘の稀有(けう)な交友が
やがて悲劇的結末を迎えるに至る流れに
この事件が直接繋がるものではありませんが
ほのかな兆(きざし)のようであり
暗示となるような事件でした。

今はしかし、安原のいう「詩人の動乱」を見ていく時です。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月26日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年9月23日・その2

(前回からつづく)

「手紙49 9月23日(はがき)」(新全集では「111」)に安原喜弘が加えたコメントは
かつてない長文になりました。

その冒頭部分は
詩集の経緯を辿るものです。

やがて本文の印刷だけはどうやらかなり満足に出来上がったのであるが、それ以上の金が最早や如何としても工面出来ず、切り離しのまま私の家に引き取って保管することにした。

校正は7校位いまでとり、完璧を期した。印刷屋を説き伏せるのは実に容易なことではなかったが渋々承知させた。用紙、活字、組みその他細心の注意を以て当った。

たとえば多くの詩は見開き2頁におさめ、中央の綴じ目のところの間隔、つまり詩の第2節と第3節間の空白が本を開いたとき、その他の間隔と同じになるように極めて微細な注意を払ったりした。

表紙の木版は原稿も思わしくない上に、版の出来も不首尾で、その後これは古河橋のたもとから泥河の中に抛り込まれてしまった。

そしてその後の製本から出版までの引受け手を探して私達はちょっとした聞き込み等を頼りに次々と交渉を続けたのだが、遂にこの本文の印刷はその紙型とともに全2年間私の家の納戸に埃を浴びることになってしまった。

(※改行を入れました。「洋数字」に変換してあります。編者。)

昭和9年12月末に発行される「山羊の歌」の
苦難の道のりのはじまりを告げるものです。

それは同時に
安原の眼差しに「詩人の魂の動乱の時代」を告げるものでした。

 此の時友人は殆ど去っていた。従って詩人の最大の惑乱の時期について今日それを知る人は殆どないであろう。詩人高森とその弟、下宿の主婦と私、僅かにこの様な極めて少数のものが身を以ってこれを知る丈(だ)けである。

このように安原が記さねばならないほどに詩人は孤立し
孤立した詩人の近くにあって詩人の様子を見ていた人々の名を挙げます。

その詩人が衝突したのを見た人々も
その衝突がそれまでになく激しいものであったことを記憶しているに違いないことを
安原は記します。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月25日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年9月23日

(前回からつづく)

詩人の魂の最大の惑乱時代がやがてここに始まる
――金沢発の絵はがき「手紙48」に付けた安原のコメントは
先を急ぐかのようです。

このコメントの後半部で

 この秋、詩集の予約成績は依然思わしくない乍らも、原稿は一先ず印刷屋に渡すことにした。差し当っての費用は彼が郷里から調達して来た。表紙の意匠は私が受け持つことになった。私達は足繁く麻布の方にある美鳳社という印刷屋の店に通った。二人とも商人との交渉にはてんで能無しであった。帰途は遙かに見える下町の灯を望んで麻布の坂を降り、彼の鬱憤は夜とともに益々激しく爆発するのであった。

――と記し、金沢には触れません。

そして、大森・北千束へ引っ越した詩人からの第1便を紹介します。

「手紙49 9月23日 はがき」(新全集は「111」)

先日は失礼
今日美鳳社から手紙が来ました 表紙と扉は木版にするそうでして、それと地の色との校正が27、8日頃出来るから一度来てみてもらいたいとのことです 何れ電話差上げますからその節は又御足労お願いします
地の色は鼠ばかりでなく、淡い緑の含まった鼠がよいような気がします 勿論現物を見た上で、専ら君の判断されんことをお願いします
佐規の山岸に於ける状態は、目下小康を得ています
                          怱々万万

詩人は
詩集を出版するモード全開で、
出来上がりのイメージのディテールにも言及します。

地の色は鼠ばかりでなく、淡い緑の含まった鼠がよい
――と「地の色」への微妙な趣向を述べながらも
その「仕事」を安原の裁量に委ねようとし
各々(おのおの)の役割分担を尊重しようとします。

美術は安原の専門ですから
詩人は安原の志向を受け入れつつ
「淡い緑の含まった鼠」などと詩人なりの希望も披瀝してみせました。

グレー・グリーン!またはグリーン・グレー!
なんと、洒落た色合い!

このはがきに安原が寄せたコメントは
「中原中也の手紙」中の最も長く力のこもった文となります。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月24日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年8月23日

(前回からつづく)

中原中也は
満5歳から6歳にかけての大正元年9月から3年3月まで
石川県金沢に住んでいました。
父謙助が軍医として赴任したのに一家は従ったのです。

それから20年後。
昭和7年8月、詩人25歳。
突然、幼時を過ごした金沢訪問を思い立ったかのようですが
この時と感じたものが前々からあったに違いありません。

高森文夫の実家を訪れたことと関係があるのか。
高森の幼時体験を聞かされて触発されたのか。
ほかの理由があったのか。

上京する前に
寄った金沢発は「手紙48」(新全集では「110」)。
兼六園雁行橋の写真が印刷された絵はがきです。

        23日 金沢にて 中也
金沢に寄りました
気分は昔のとおりですが、距離の記臆(ママ)などは随分違っています

匂いを臭いで歩いているようなものです
20年の歳月が流れたとは思えません
                    さよなら

この8月23日付けの「手紙48」に安原が与えたコメントは
安原ならではの独自なものです。

次の「手紙49」へのコメントが
「中原中也の手紙」の中で最も長い文で綴られているのに
繋(つな)げるリードの役があったのでしょうか
詩人の幼時体験に触れることはなく
詩人の作品が、この夏、初めて「詩の雑誌」に掲載されたことをあげつらい
「本心ではなかったろう」
「一歩後退である」と断じるのです。

さらに、詩人が後年「四季」同人になることについても
「更に何歩かの後退を意味するものと思われる」と断言します。

上京した詩人は
千駄ヶ谷の下宿を払い
馬込町北千束へ引っ越しました。
そこから投じた手紙が引っ越し後安原宛の第1便となりますが
「四季」へのコメントは
旅先からの、金沢発の絵はがきに付けたコメントです。
その前半部です。

前半部に続く中間部を読んでおきましょう。

中原は上京すると、目蒲線の洗足駅の近くの詩人高森文夫の叔母に当る人の家に移った。そしてそこから外語の専修科に通っていた。この頃私は彼の中に何か特に不安定なものを感じ出した。詩人の魂の最大の惑乱時代がやがてここに始まるのである。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月23日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年8月8日、8月10日ほか

(前回からつづく)

「手紙45」(新全集は「107」)は8月8日付けの絵はがき。
ビロー樹たわわな青島海岸の印刷写真の上に記念スタンプ。
「車中にて」と書かれ
消印は「門司吉松間」とあります。
青島を見学した後、宮崎へ行き
日豊本線の吉松へ向う車中でサラサラと書いて投函したらしい。

今日 此処に来ました
島を1時間ばかり見て、大急ぎで吉松行に乗りました 今夜吉松に1泊、明日は天草島に渡ります
高森と一緒です
金のない旅行たるや、げに惨憺たるものです。     さよなら

海燕の声を、はじめてききましたが、いいですね。

旅のモード全開。
貧乏旅行で惨憺(さんたん)なようですが
楽しげです。

次は「46」(新全集では「108」)。
8月10日付け絵はがきです。
「天草、本渡にて」とあります。

本渡は天草の首府です 人口4千、のんびりした所です、人がみんなにこにこしています。他所から来ている者は殆どない様な風です。酒はいいです。
言葉は、40以上の年配者のは、皆目わかりません。但しこっちのいうことはよく分ります。

安原のコメントは、「天草百景の絵はがきである。」の1行です。
詩人は旅に慣れ、
安原は東京から10日付けで返信したようです。

次の手紙は「47」(新全集は「109」)。
詩人は山口に戻りました。

 拝復
10日付のお手紙本日落手しました 12日天草より帰ってきました
ゴッホは本名でも又、千駄木八郎でも宜しくお願いします
毎日甲子園を聞いています、退屈です。上京したく、茂ぽっぽにもあいたいですが、23日迄は立てないようです
昨日今日、夜は盆踊りの太鼓が 小さな天地の空に響いています
髪を刈って、イガグリ頭になりました 従って間もなくイガグリ頭で、出現のことと相なります
                        怱々不備
天草はよかったです、路の向うから支那の荷車でもゴロゴロ来そうな、一寸そんな所です

「ゴッホ伝」が進行しています。
代々木の千駄ヶ谷新田に住んでいる詩人は
その地に因んだペンネームを思いついたのでしょう。

「この人物は蓋し彼の比較的永く住んだ土地の名からも幾分由来しているようである。」と安原はコメントします。

畳に寝転がってラジオの甲子園野球を聴く詩人。
退屈な時間はこうして過ごし
その頭の中に泰子の子ども・茂樹が現われます。

前夜、村の盆踊りに顔を出しましたが
太鼓の音の印象ばかり
「小さな天地の空に響い」ていた――とは
キナ臭い時局へ何かを言いたかった心境でしょうか。
「イガグリ頭」への不満も吐き出されることはありません。

旅から戻り、
田舎の退屈さも戻り、
さて「仕事」の待つ東京へ、ということになるかと思えば
詩人は金沢へ寄り道しての上京となります。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月22日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年7月27日、8月5日

(前回からつづく)

7月26日の次に安原宛に寄せられたのは
翌27日付けのはがきです。

「手紙43 7月27日(はがき)」
(※新全集では「104」です。)

偶(たま)に来る行商が、鮎を持って来ましたからお送りします
例の祇園祭りが、(8日間続くのですが)今日でおわりです 昨日晩は行って、花火をかいました 中学の時の同級生で、今は少尉殿であるのに会って、一緒にビールを飲みました 何処にいるかと云いますから、「外語の夜学」といいますと、「夜学かア」といわれたんでガッカリしました。田舎では夜学といえば、東京の3倍くらいわるい響を持っています。それでも5、6日ぶりで人と一緒に飲む僕は、愉快なことでありました。さかんに悪口を云ってやりますと、微苦笑をしておりました。げに落伍者というものは、悪口を云う権利のある、所以です。

のんびりとゆったりとした口ぶりが滲(にじ)んでいるような便りです。
リズムのようなものがあり、ずーっと聞いていたくなるような語りです。
ここまでで半分です。
後半を読んでみましょう。

蝉の音のほか、何にも聞えません、寝ころんでいますと、何だかいたずらにかなしくなって来ます 飛行機にでも乗って飛び出したい気持と、このままジッとしていたい気持と、両々相俟(あいま)って湧いて来ます。詩を書こうと思えば、いくらでも書けそうです。だが万事急がないことにしています。出来るだけのんびりと、のんびりと怠けていよう、そう思っております、いたずらに唾するものは生気を失う――貝原益軒先生が、僕には身に沁んでありがたくあります。いたずらに唾するものは生気を失う。蝉の声のほかなんにも聞えません。ナムアイダ、ナムアイダ。
                                     さよなら

次は「手紙44 8月5日」。
山口、湯田からの封書です。
(※新全集では「106」。安原が言及していない8月4日付けの空の封書があり、「105」と確認されています。)

 僕事、毎日あんまり刺戟がないので、――それが半ばやりきれないことなので、自分で落付いてるんだか憔立(いらだ)ってるんだか分らないような気持です。明日からは高森の所へ行きますので、好いです。
 それで明日からの居所は 宮崎県東臼杵郡東郷村山陰 急行がないので、13、4時間かかります、関門海峡を渡るのがたのしみです                   怱々不備
 5日                                  中也

のんびりが退屈に変わり
その状態がやりきれないことなのか
苛立っていることなのか
わけがわからないとボヤキが入っています。

このボヤキの根源に
詩集の捗々しくはない進行のことがあったのか。
なかったともあったとも断定できません。

それも年下の詩人・高森文夫の実家――宮崎や
2人で行く天草への旅が紛らわしてくれるはずです。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月21日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年7月26日ほか・その2

(前回からつづく)

昭和7年(1932年)の夏に帰省した詩人が
安原に送った1番目の手紙は7月26日付けの葉書でしたが
この葉書は、実は、7月8日の日付けを印刷した
「山羊の歌」の2回目の予約募集の葉書の余白に書かれたものでした。

先に、「99 7月8日 小出直三郎宛 印刷葉書」として読んだのと同じ印刷物で
詩人はこれを何枚か山口に持ち帰ったのです。
印刷されたその文面を斜線で消し
右の余白から左の余白にかけて8行になるペン書きのたよりをしたためました。

印刷した官製はがきを利用して
切手代を節約したのでしょうか。

安原は、ここで、7月8日付けのこの印刷葉書の内容を紹介した上で
次のようにコメントします。

 初めの予定では6月中に予約をとり、7月中に出版の筈だったのを、周囲の情勢はこれを遂に文面の通り延期するの止むなきに至らしめたのである。そして詩集「山羊の歌」が真に日の目を見たのはこの後更にいろいろな経緯を踏んで昭和9年12月10日のことである。
(※洋数字に変えてあります。編者。)

6月中の予約、7月中の出版から
7月中の予約、9月発行――と訂正したのがこの通知です。
この予定でも2か月遅れの発行となります。

それどころか、「山羊の歌」が発行されるのは
この日から2年余り先のことになるのです。
コメントはその事実を告げるだけでした。

そして、帰郷して以後の詩人が
宮崎県東臼杵へ旅し、天草へ旅し
金沢を経て、再び上京するまでに寄こした手紙を
急ぐように読み進めていきます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月20日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年7月26日ほか

(前回からつづく)

小学校の先生向けの単行本であるはずが
辞典と勘違いしている詩人――。

ゴッホ伝の解釈にズレが生じているのを
「今更書きなおしもならず、そのままとした。」と安原はコメントしています。

「ゴッホ」はやがて玉川文庫26として
「セザンヌ」(同文庫25)とともに安原喜弘の著作として刊行されます。

玉川文庫は、玉川学園を創設した小原国芳により
自由教育の一環として出版された廉価本シリーズ。
富永次郎の「ダ・ヴィンチ」は同文庫27にラインアップされていて
執筆者が「白痴群」メンバーと重なる面があるのも目が引かれるところです。

「手紙41 7月19日(はがき)」に安原が加えたコメントは
「ゴッホ伝」と「山羊の歌」が同時進行していたことを示しているものでもあり
この頃、安原と詩人がいかに近くにあったかを改めて知る材料の一つです。

同時にまた、詩人の活動は「ベルレーヌ」にも及んでいたということで
第1詩集となる「山羊の歌」の出版進行中に
「翻訳」への取り組みも「仕事の一つ」という展望を持っていたことを示していて
こちらにも目が開かれます。

「ゴッホ」
「ベルレーヌ」
「山羊の歌」。

これらがその後どのようになっていくのか――。
安原にならって、時を追うことにしましょう。

昭和7年の「夏休み」に帰省した詩人が
安原に送った手紙の1番目は、7月26日のものです。
新全集では「101 7月26日 安原喜弘宛 葉書」です。

「手紙42 7月26日(はがき)」 (山口市 湯田)

 先日はありがとうございました。
 こちらも、暑いです ごはん食べたい時食べられるのだけ、仕合せです。
 弟はガンとして学校をいといます。4、5日したら僕同道して、豊前の或るお寺の修道院に入れることに、今母との相談が成立ちました。
 弟を修道院に入れて2、3日しましたら、高森の家に向います、詩集の方のことは大丈夫です、ゴッホやっています。
 

同じ日付けで安原宛に封書が送られ
中にベルレーヌの艶笑詩集「女たち」(Femmes)から「序曲」(Ouverture)などの筆写稿が入っていました。

さらには、同じ7月26日付けで、長谷川泰子宛の手紙が残されました。
創元社版全集の第3巻に収録後に行方不明になり
現在、現物は残っていません。

7月26日に山口から
少なくとも3通の手紙が投じられたことになります。

泰子宛の手紙を読んでみましょう。

こっちも暑い。けれども下宿にいるよりは涼しい。茂樹はアセモが出来はせぬやら。
佐々木に会ったらヴィロンのことどうなったかシッカリ聞くことを忘れぬよう。
田舎は静かでほんとにいいよ。飲みすぎる勿れ。引越を知らせるべし。

「ヴィロン」は、フランソワ・ヴィヨンのことで
詩人は生前に発表した翻訳詩篇「プチ・テスタマン抄」や
未発表の翻訳詩篇を幾つか制作しました。

泰子には要点だけを伝える手紙!
「お仙泣かすな、馬肥やせ」を思い出させ
微笑ましくもあります。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月19日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年7月19日・その3

(前回からつづく)

 そこで彼は自家出版することにした。限定200部印刷とし、会費4円を以て友人知己に予約を求めた。彼の手帳の人名簿が総動員され、案内状が発送された。彼の手帳には彼の一面識のある凡ゆる人々の住所と電話番号が50音順によって克明に登録せられ、誰か相手が欲しい時とか、嚢中に1銭の貯えもない時とか、その他何時如何なる時に於ても立ち所に使用に供せられるのである。これは彼の有名なものの一つである。予約会費の方はなかなか捗々(はかばか)しく進行しなかった。この手紙の中にある『予約の方大抵云々』はこの間の事情を物語っている。
 彼は原稿の整理を済ませると一応郷里山口にこの夏を送りに帰った。
 

「中原中也の手紙」の編著者安原喜弘が
「手紙41 7月19日(はがき)」(全集では「100 7月19日 安原喜弘宛 葉書」)に加えたコメントは
このように結ばれ、時の経過を追っていきます。

「山羊の歌」が一時、自家出版のやむなきに至り、
しかも友人知人へ予約限定の200部を印刷するという
方針変更の事情を説明しますが
抑制した口調での経過報告です。

前段で「――今日彼の名を単に嫌悪を以てしか、或は過去の亡霊としてしか思い出さない人すらあるのだ――」と詩人の憤慨に同期して語った口調は、もうここにありません。

一時休戦を自己に課したかのように帰省した詩人からは
予約出版の訂正通知を利用した7月26日付けの手紙以後
詩集についてはピタリと書かれなくなります。

代わりに、のんびりした山口での生活のたより、
そして長崎から、金沢から旅のたより……が投じられます。

詩集については、およそ2か月書かれることはなく
上京後、大森・北千束へ転居して出した9月23日付けの手紙まで書かれません。
山口にいる間では安原宛8月16日付け手紙に「ゴッホ伝」への言及があるだけでした。

「100 7月19日 安原喜弘宛 葉書」(=「手紙41 7月19日(はがき)」)の
前半部7割ほどの「ゴッホ伝」に関するくだり①を読みます。

やがてこの仕事は玉川文庫26「ゴッホ」として
「セザンヌ」(同文庫25)とともに安原喜弘の著作として刊行されます。

目下開催中の「『中原中也の手紙』展――安原喜弘へ」(神奈川近代文学館)で詳しく知ることができますが
この「共同作業」は
詩人と安原喜弘の「絆」をいっそう強化したものとして
記憶にとどめたい大きなものでした。

詩人は以下のように記しました。

 先夜は失礼
 ゴッホはクルト・ビスタア(中川一政アルスにあるもの)を土台にして、処々に少しづつ自分の意見を加えて書くことにしましたがどうでしょうか。なまなか僕なんかが考えて書くよりもクルト・ビスタア氏の方がよっぽど有益だと思うのです。剽盗(ママ)にならないためには、最初にクルト・ビスタアに拠るとしましょう。印刷界の常識から云えばそんな必要さえ殆どありません。現にこのアルスは翻訳なのを一政著とあります。相手が辞典ですから、権威ある専門家のものの方が勿論よいでしょう。今3分の1位書いた所です。4、50枚になりましょう。若しそれで君が嫌ならば、没書にして下さい。
 

ここで改行して②③へ続きます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月17日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年7月19日・その2

(前回からつづく)

「中原中也の手紙」の編著者安原喜弘が
「100 7月19日 安原喜弘宛 葉書」
すなわち「手紙41 7月19日(はがき)」に加えたコメントは
それまでのコメントの中でも長文で
「詩集の予約出版」への風評の「見当ちがい」を憤慨する詩人の心を汲んで
憤慨する詩人が置かれた状況・背景に言及していきます。

静かな口ぶりで

 この年の5月の初め頃より彼は愈々(いよいよ)これまでの魂の歴史の総決算をなし、一応それに終止符を打つために詩集の編纂に着手した。これが今日詩集「山羊の歌」となって遺るものである。

――と書き起こします。
この頃進行していたゴッホ伝の代筆のアルバイトに関して
詩人の勘違いがあったことを淡々と説明(①)し
「ベルレーヌ云々」に関して短い説明(②)を加えたのに続けて。

 この詩集成立の事情こそは詩人の魂の歴史に重要なる一時期を画するものであると思われる。既に数年前、生涯の最も重要なる詩の多くを歌い終った詩人は、その後その余影を抱きながら専ら魂の平衡運動に終始するものの如くであったが、今度は嘗て過ぎし日の魂の結晶を整理し一括し、これを印刷に付し公刊することによって、一と先ずはそれを己れのうちより投げ出すことを望んだのであろう。

「思われる」「望んでのだろう」と
詩集への安原自身の「位置づけ」がまず述べられます。

そして次に
当時の詩人の状況、ことさら詩の評価、活動の評価の絶望的状況が
やや熱を帯びた調子で語られます。

 初めは彼も適当な出版社の手によってそれが刊行せられることを希ったのであるが、何分当時の彼の真価を認める者はほんの二三の特殊な人々に過ぎず、商品価値の上からは零に近く、従って誰も危ぶんで手を出さず、その上相手の命の最後の宿命的な拠り所にまで仮借なく打ち込まれる彼の痛烈な毒舌の故に或時は憎悪を捲き起こし、或時は単に敬遠され、遂にこの話は実現不可能であった。――今日彼の名を単に嫌悪を以てしか、或は過去の亡霊としてしか思い出さない人すらあるのだ――

(※講談社文芸文庫「安原喜弘 中原中也の手紙」より。)

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月16日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年7月19日

(前回からつづく)

7月19日付け安原喜弘宛の手紙は
新全集の整理番号では「100」
安原の「中原中也の手紙」では「手紙41」の番号がつけられています。

新全集の最終番号は「225」
「中原中也の手紙」の最終番号は「手紙100」です。

新全集・第5巻「日記・書簡篇」は平成15年(2003年)に初版を発行
その時点で225通というのは
安原宛以外を含めた手紙の総数ですから
中原中也が書いた手紙で発見された手紙の半数近くが安原宛ということになります。

手紙の発見は今も続き
安原宛の手紙は2013年現在で102通に上っています。
昨日6月15日にはじまった「『中原中也の手紙』展――安原喜弘へ」には
最近、安原家で見つかった102番目の手紙も初公開されています。

さて、「100 7月19日 安原喜弘宛 葉書」
すなわち「手紙41 7月19日(はがき)」を読んでみましょう。

新全集では「千駄ヶ谷874 隅田方」発と整理するものを
安原は、(代々木 千駄ヶ谷)発と表示します。

手紙の内容は
①ゴースト・ライターとして進められていた「ゴッホの伝記」に関する対策など
②大岡昇平からベルレーヌの作品(原語)を筆写したことの報告
③「山羊の歌」の予約出版への評判について
――の3件です。

①が7割、②③で3割ほどの量になります。
ここでは①を読み飛ばしますと、
②から③へは、

 今日大岡の所でベルレーヌを全部写して来ました。非常に面白いです。1日で写したんでクタクタになりました。予約の方大抵、早くやると使っちまうと云っている模様です。とんだ見当ちがいです。そうではありませんか。
――と「改行なしで」続いて、「怱々(18日夜)」で終わります。

「白痴群」の崩壊の一因となった喧嘩の相手の一人、大岡昇平が現われます。
昭和5年(1930年)の事件から2年以上が経過し
交流が復活しているのでしょうか
本の貸し借りとか、原詩の筆写の便宜くらいはずっと継続していたのでしょうか
フランス語の猥詩(安原のコメント)を写して持ち帰ったのは
それを翻訳すれば売れるという計算があったからでしょうか
1日をかけたというのもオーバーとはいえない仕事であったはずでした。

「詩集の予約」については
「中原中也の手紙」の中でも長文に属するコメントを
安原は残しました。

「とんだ見当ちがいです。そうではありませんか。」と末尾に書いた詩人の口ぶりには
憤慨が込められているのがわかりますが
安原のコメントは憤慨以上の背景を記述します。

(※「新編中原中也全集」第5巻より。「新かな・洋数字」に変えてあります。編者。)

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月15日 (土)

「中原中也への手紙」展――安原喜弘へ

はじまりました。
神奈川近代文学館で8月4日までです。

各メディアがいっせいに報じています。
読み比べてみてください。

http://www.47news.jp/CN/201306/CN2013061501001423.html
共同通信

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130614-OYT1T00011.htm
読売

http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20130614-1142093.html
日刊スポーツ

http://mainichi.jp/feature/news/20130614ddp012040016000c.html
毎日

http://loco.yahoo.co.jp/event/8671add2b54524c4a98df02d607aa8827ac64b7c/
ヤフー・ジャパン

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2013年6月14日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、小出直三郎様」昭和7年6月19日ほか

(前回からつづく)

「山羊の歌」の編集についての記述は
昭和7年5月、6月中の安原宛の手紙には見られませんでした。
安原宛の手紙をたどっていると
7月下旬まで詩集に関する記述は見当たらないのです。

しかし、7月には詩集の内容ではなく
詩集の予約募集の宣伝が進行していることが明らかになります。

7月19日付け安原宛の葉書の末尾に

予約の方大抵、早くやると使っちまうと云っている模様です。とんだ見当ちがいです。そうではありませんか。
――と書かれた件(くだり)がそれです。

安原が請け負ったゴッホに関する本の翻訳を
出版社に内密にして詩人が「代筆」するという2人のたくらみが進んでいて
そのことに関してのやりとりを書いた手紙です。
その末尾に「予約」についてすこしだけ書かれています。

安原喜弘は「中原中也の手紙」の中で
7月19日のこの手紙に

 この年の5月の初め頃より彼は愈々(いよいよ)これまでの魂の歴史の総決算をなし、一応それに終止符を打つために詩集の編纂に着手した。これが今日詩集「山羊の歌」となって遺るものである。
――とコメントしていますが
この手紙を読む前に
「予約」募集の印刷葉書を見ておきましょう。

6月19日と7月8日の消印を持つ小出直三郎宛の葉書が
旧全集(「中原中也全集」)刊行後に発見され
新全集(「新編中原中也全集」に収録されています。

成城高校の教師だった小出に宛てたこの葉書は
「山羊の歌」を予約出版する旨の宣伝をかねて
関係各所、友人知人へ知らせた印刷葉書でした。

「98 6月19日 小出直三郎宛 印刷葉書」

   表 市外砧村 成城学園 小出直三郎様

拝啓
小生この度皆様の御後援に俟(ま)ち詩集出版致したき念願につき何卒御予約被下度(くだされたく)願上候
尚御知合ひの方々にも御勧誘下さらば幸甚これに過ぐるものなく候 敬具
                                          中原中也
  中原中也詩集予約出版
  1 口 金2円 郵便小為替にて前納被下度候
  申込所 市外千駄ヶ谷町千駄ヶ谷874 隅田方
                     中原中也 

「99 7月8日 小出直三郎宛 印刷葉書」

   表 市外砧村 成城学園 小出直三郎様

拝啓 先般御通知に及び候小生の詩集予約出版の件に関し不詳有之候間ここに更めて貴眼拝借致し候 余の儀にても無之、期日のことに候 されば締切7月20日、発行9月、以上の如くに御座候 何卒御予約被下度重ねて御願申上候           敬具
  7月8日
                   中原中也
                    東京市外千駄ヶ谷町
                   千駄ヶ谷874隅田方

(※「新編中原中也全集」第5巻より。洋数字に変えてあります。編者。)

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月13日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年6月8日ほか

(前回からつづく)

昭和7年5月から6月にかけては
「山羊の歌」の編集が行われた時期とされていますが
「90 4月19日 安原喜弘宛 葉書」
「91 5月2日 安原喜弘宛 葉書」
「92 5月7日 安原喜弘宛 葉書」
「93 5月17日 安原喜弘宛 封書」
「94 5月18日 安原喜弘宛 封書」
「95 5月19日 安原喜弘宛 葉書」
――と出された安原宛の手紙には
「詩集の編集」について書かれたものは見つかりません。

6月に入って出された
「96 6月8日 安原喜弘宛 葉書」も

前略
航海練習科は、日本丸等、学校の練習船の事務所如きものだそうです。

来週はパリイの方にします、      怱々
                    中也
――とあり、ここにも「詩集」のことは書かれていません。

安原のコメント(「中原中也の手紙」講談社文芸文庫)には

これは内職の口探しの一件である。パリイとはフランス語教授のテキストの名である。
――とあり、相変わらず「内職の口」を二人で探していたことがわかるだけです。

どこかの学校の募集広告かなにかを見つけて
調べた結果を詩人は安原に報告し
ついでに来週のフランス語の個人授業のテキストを指示したのでしょう。

詩集のことは
2人の間で話題になることはなかったのでしょうか?
それとも、手紙に書かれなかっただけなのでしょうか?
それとも、書かれた手紙が残らなかっただけなのでしょうか?

やや「異変」が感じられるのは
安原宛の6月の手紙は「96」1通が残されているだけという1点。

ほかには、河上徹太郎宛、小出直三郎宛が見つかり
6月の手紙は、現在、3通が残っているだけです。
(「新編中原中也全集」第5巻)

手紙の数が少ないことに加え
安原宛が少なくなり
河上徹太郎宛、小出直三郎宛が残ったということと
「詩集の編集」になにか関係があったのか

なんら断言できることはありませんが
詩人が「春の日の夕暮」や「少年時」や「夏」や
「汚れっちまった悲しみに……」や
「羊の歌」「いのちの声」……や

「山羊の歌」に収録した作品の原稿を整理している姿だけが浮かんできます。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月12日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年5月19日ほか

(前回からつづく)

「92 5月7日 安原喜弘宛 葉書」は奈良発で
「いま猿沢池畔で陶然として おりますよう」と詩人は書いたのですが
「おりますよう」と途切れたような筆跡ですから
どのようにして「陶然と」なったのかが不明です。

鹿の鳴き声を聞きながら
はるか白鳳・飛鳥に思いを馳せ
アルカイックな幸せにワープしたのでしょうか

文面には曖昧さが残るのですが
「陶酔する時」(=「最も高い塔の歌」)とか
「恍惚(とろ)けて」(=「幸福」)などと
「陶然と」と似ている詩語を
ランボーの詩の翻訳でも使っているのが思い出されます。

中原中也という詩人が生み出す
詩の言葉の発生現場に立ち会うようであり
目が覚める思いを抱いても
根拠のないことではないのかもしれません。

想像の羽根は広がっていきますが
手紙をもう少し読みます。

「94 5月18日 安原喜弘宛 封書」は
中身のない封筒だけが現存するものですが

「95 5月19日 安原喜弘宛 葉書」は

 同便にて短文お送りしました
 こんなものでどうかと思いますが、採れれば日大新聞にお願いします。
 
 Bon Marchand氏は、仏大使館の通訳官で、忙しく、とても教えなぞしないだろうとのこと、外語の先生が云っていました。
                      怱々
 
――と続いています。
「同便」とは「94」を指しています。

安原の弟が、日大新聞部に関係があって
詩人の原稿の掲載の話が進んでいたらしい。

Bon Marchand氏は、「ボンマルシャン」という名の通訳。
当時、安原の家の近くに住んでいたので
安原はフランス語の個人教授を詩人を通じて頼んでみたのです。
それが無理であることの報告です。

フランス語は
ランボーなどの翻訳のためもあり
個人に教えて生計の足しにするためもあり
自身の勉強のためでもあり
詩人として立って行くための有力な道であり
希望でもあったようです。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月11日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年4月19日ほか

(前回からつづく)

月のうち20日は私が彼を訪れるか彼が私の宅に来るか、それともどこかで落ち合うかして行を共にすることになるのである。
――という安原のコメント通りであるならば
中原中也&安原喜弘の交友は「凄まじい」ばかりと感じざるを得ません。

大学を卒業して就職していない安原は
まさしく「大学は出たけれど」の世相の象徴のような存在なのでしたか?

詩一本で食っていこうとする詩人と似ていて
ウマが合ったのでしょうか?
きっとそれだけのことではありません。

帰京した安原との「月20」の付き合いがはじまりました。
その頃の詩人の手紙そのものをじっくり読んでみます。
安原は、下目黒に住んでいます。

「90 4月19日 安原喜弘宛 葉書」

金子ありがとうございました
本朝ランボオの翻訳お送りしました
山口宛のお手紙難有一昨日くにより廻送して来ました
春は、悩ましう候        怱々

4月新学期ということもあるのか
詩人の活動は活発にはじまっています。

「金子」は誰のことか、人名以外ではなさそうですから
詩人・金子光晴の(本の)ことだとすれば
面識のなかった二人の詩人がここですれ違っていたことになりますが
確定できるものはありません。

「91 5月2日 安原喜弘宛 葉書」
  表 下目黒842 安原喜弘様
  東京駅にて 中也 2日夜

 先日は失礼しました
 これから一寸京都へ行って来ます。高森と一緒です。
 立命館の友達が法律事ム所を開き、それの披露式が土曜日にあります、それに是非来いといいますし、旁々(かたがた)行ってきます。
 京都で英倫にあったら詫びを云います。
 万が一御用の節は
    京都市河原町丸太町上ル三筋目西入
        電、上、4678 田中伊三次気付
 ゆらりゆらりと、しずかに飲んできます
                   さよなら

田中伊三次は、やがて衆議院議員そして法務大臣になる人物、
英倫は、安原の成城高校の同級生、加藤英倫。

「92 5月7日 安原喜弘宛 葉書」
  表 下目黒842 安原喜弘様
  7日正午

 5日から奈良におります
おとといきのう曇小雨で、今日はじめてのお天気です
いま猿沢池畔で陶然として
おりますよう
             中也

「93 5月17日 安原喜弘宛 封書」

  表 下目黒874(ママ) 安原喜弘様
  裏 17日夜 千駄谷874 隅田方 中也

 昨日は失礼しました

 云忘れていましたが、岡崎の雑誌へは、先日お送りしたランボオの中から、選んで下さいませんか。
 
 猶ラテン街の屋根裏の切符、お送り下さる様お願いします。
                        怱々
                         中也
 
 安原喜弘様
   2伸、若し、ランボオより、もっと他のものがよさそうなら、その旨御知らせ下さい。

「ラテン街の屋根裏」は、
安原が手伝っていたオペレッタ「パリの屋根の下」のこと。

「94 5月18日 安原喜弘宛 封書」

封筒の表に「原稿在中」とあるが、中身は現存しません。
中に、翻訳原稿が入っていました。
 
  (※「新編中原中也全集」第5巻より。「新かな」「洋数字」に改めてあります。編者。)

こんな具合です。

「なりわい=生計」を立てる意識で二人は盛り上がっていたのかもしれません。
安原が「就活」をやめたわけではなく
詩人は「原稿」を売る手立てを講じはじめたようです。

その手立てに
ランボーの翻訳は有力のようでした。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月 9日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年3月22日・その3

(前回からつづく)

「89 3月22日 安原喜弘宛 葉書」へ寄せた安原のコメントは
中原中也が前年来の不調から元気を取り戻していく過程にシンクロして
自らを「表現」するかのような「強い」調子を響かせます。

「強い」といっても
安原流にですが。

たとえばそれは、

己を育てたこの土地の中に身を置いて今しきりに何事かを反芻するものの如くであった。そしてそれを私に語ろうとした。然しながら彼の顔には何事か語り尽し得ぬ焦燥と失望の色が漂うのであった。私は今もそれを思うのである。何事であるか。

――と記す「何事か」という疑問に現われます。

それは
どんなに親しくどんなに深い友人の間柄であっても
ある瞬間において、なお、謎(なぞ)として残された問いのようなものです。

が……。

その瞬間に謎であっても
その後、ずっと、その謎と向き合ってきた当人にとっては
ある答えが培(つちか)われていて
今や、確信されているような答えであって
しかし、それを他者に語るまでに至らない……。

長門峡に、水は流れてありにけり

昭和11年(1936年)12月24日の初稿が作られたとされる「冬の長門峡」と
昭和7年(19324年)の長門峡と
二つの長門峡は
明らかに「体験された景色」としては異なるものであるのに
まるで同じもののように感じら取られた! という奇跡。

同じものではないのに
同じもののように。

安原喜弘が

やがて真赤な夕陽が雨上りの雲の割れ目からこの谷間の景色を血の様に染めた。
己を育てたこの土地の中に身を置いて今しきりに何事かを反芻するものの如くであった。
そしてそれを私に語ろうとした。
然しながら彼の顔には何事か語り尽し得ぬ焦燥と失望の色が漂うのであった。
私は今もそれを思うのである。
何事であるか。
(※改行を加えてあります。編者)

――と記したのは昭和15、6年のことでした。

愛息・文也を失った悲しみが底に流れる「冬の長門峡」は
遡(さかのぼ)れば……

詩人が生まれてこの方、
この地を訪れる度に
そのせせらぎの音に身をゆだねる詩人が感じ取ったに違いのない
何事か
語り尽くせない
焦燥と失望の色。

――と、そう読めと安原は言っているわけではありませんが
そう読むといっそう深みを味わうことができる詩になります。

今回はここまで。
「冬の長門峡」を載せておきます。

冬の長門峡
 
長門峡(ちょうもんきょう)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰(あたか)も魂あるものの如(ごと)く、
流れ流れてありにけり。

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。

(つづく)

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2013年6月 7日 (金)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年3月22日・その2

(前回からつづく)

安原喜弘が中原中也の「内部」に生じていると感じた「何事か」とは何か――。
中原中也のうちに生じている「何事か」とは何か――。

それは二人ともがそれぞれついに明かし得なかった難問だったのでしょうか。
それは、「山羊の歌」発行計画となんらかの関係があったものでしょうか。

「89 3月22日 安原喜弘宛 葉書」へ寄せた
安原のコメントの残り5分の1ほどを読み進めましょう。

 私は一旦京都に寄り、荷物を纏めて東京に引揚げた。私の京都生活も終ったのである。
 詩人も2週間程して東京に帰って来た。詩人と私との交流は益々繁くなった。月のうち20日は私が彼を訪れるか彼が私の宅に来るか、それともどこかで落ち合うかして行を共にすることになるのである・やがて第1信が届いた。
(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。洋数字に変換してあります。編者。)

詩人が東京から山口へ帰る途次に京都へ寄り
その2週間後に安原へ送った手紙が3月22日で
安原は24日に詩人のいる山口・湯田温泉へ向かい
山口・湯田温泉に着いてから5日間を過ごし
山口から京都へ戻って引越しの荷物をまとめて帰京した安原を
その2週間後に詩人は追うようにして上京……。

およそ1か月の間のことでした。
新幹線もない昭和初期のことでした。

一種異様とも見えなくはない
二人のこの行動を「内部」で突き動かしていた「何事か」……。

中原中也が残した手紙の中に
その答えは記されることになるのでしょうか?

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月 6日 (木)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年3月22日

(前回からつづく)

「89 3月22日 安原喜弘宛 葉書」は
京都に寄って安原と再会した詩人が
帰郷して2週間ほど後に出した手紙です。

先日来、雨や雪がよく降りましたが、今日あたりから晴れがつづくだろうと思われます。

これだけのことを書いた手紙です。
京都で「しんみりと酒を飲んだ」二人が
話を続けているようなたわいない1行です。

この手紙に寄せた安原のコメントは、
これまで溜めておいた心のうちを
長いクレッシェンドの後に「この時」とばかりに強く、
しかし抑制した響きで伝えて
読む者の胸を熱くさせるものがあります。

昭和7年に入って10番目のこの手紙へのコメントには
詩人が東京に出てきて数年後に出会い
鎌倉に没するまでの12年間のうち9年間を
最も近くにあった親友であるからこそ知る詩人の「内部」を
「心」で感じとっていた者の深い眼差しがあります。

そのコメントをまずはじっくりと読んでみましょう。

 私への温いいざないのはがきである。

 私はこの付きの24日に“おみこし”を挙げ詩人の郷里訪問の途についた。そして5日の間彼及彼の家族の方々の誠に心からの手厚い歓待に身を委せた。この間彼はくさぐさの心遣いを以て私を労わり、細心の準備を以て私に郷土を紹介した。彼はそこの気候、風土、地勢、歴史、人情、物産、酒、女のことごとくを私に語るのだった。或時は長門峡の流れに盃を挙げ、或る時は秋吉の鍾乳洞の神秘を探った。長門峡では俄雨に襲われた。岩を噛む清流は忽ち滔々たる濁流となった。私達は岩陰にあるたった一軒の休み茶屋の縁に腰を下ろし、耳を聾する流の音を聞きながら静かに酒を汲んだ。彼は少しずつではあるが絶えず物語った。やがて真赤な夕陽が雨上りの雲の割れ目からこの谷間の景色を血の様に染めた。己を育てたこの土地の中に身を置いて今しきりに何事かを反芻するものの如くであった。そしてそれを私に語ろうとした。然しながら彼の顔には何事か語り尽し得ぬ焦燥と失望の色が漂うのであった。私は今もそれを思うのである。何事であるか。

 帰途彼は汽車で途中まで私を送って来た。彼は未だ何か私を離したくない様子であった。何事か重大な事柄が彼の心の中に残されている風であった。途中天神様のある古風な町で下車してそこのうらさびれた街々をあてもなく逍遥(さまよ)った。彼は遂に語らなかった。私は夜遅い汽車で東に去った。

(※「行アキ」を加えました。” ”で示したところは、原文では傍点になっています。編者。)



途中ですが、今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月 5日 (水)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年3月7日

(前回からつづく)

安原喜弘によると
中原中也が「山羊の歌」の編集作業に着手したのは昭和7年の5月で
フィニッシュしたのが6月ということです。
渋谷・千駄ヶ谷新田に住んでいる時に
編集作業を行ったことになります。

「山羊の歌」の編集作業にまもなく着手する時期の手紙を読んでいるのですが
年明けて活動的になった詩人は
3月、帰省の途中で京都に降り立ち
京都帝大を卒業する親友・安原喜弘を訪れます。

「86 2月29日 葉書」で「僕の京都通過は7日か8日になるでしょう。」
「87 3月4日 葉書」で「明5日夕刻7時50分頃京都着します」と記し
「88 3月7日 葉書」で「尾道には寄らないで、今朝こちらに着きました。」と書く経過をたどるのですが
「87 3月4日 葉書」に安原が加えた短いコメントは
この間の事情を捉えていて簡潔明快です。

彼は帰郷の途次2年ぶりで再び京都の私の宿を訪れた。この度は二人はしんみりと酒を飲んだ。彼は是非私にも自分の郷里に来るようにと勧めるのだった。私は月末彼の宅を訪問することを約し、翌日の夜行で彼は発って行った。(講談社文芸文庫版「中原中也の手紙」より)

京都に1泊した詩人は翌日には車中にあり
そこで一筆したためます。
それが投函されたのは山口です(消印で判明)。
ここでその「88 3月7日 安原喜弘宛 葉書」の全文を読んでおきましょう。

――尾道には寄らないで、今朝こちらに着きました。尾道を通過したの1時過ぎで、眠っていました。目が覚めたらもう広島でした。降りだしていました。
この葉書をかきながら、窓外をみると、山のてっぺんの、樹と樹とのすき間をとおして雲の流れてゆくのがみえます。(煙は空に身を慌《すさ》び、日陰恰(たの)しく身を嫋《なよ》ぶ)昔の歌。おいでを待ちます。22日迄は高校受験者が二人ばかり来ていますので、23日着かれること好都合ですが、尤も君の都合次第では、何時だって結構です 何卒お待ちします、田舎だってヒト味です。
一緒に山登りしましょう。

「白痴群」廃刊以来、二人は会うことがなかったのでしょう。
手紙のやり取りで続いていた友情が
再会で温められました。
葉書に書かれた詩は、
「在りし日の歌」に収録される「早春の風」の一部です。
この詩もここで読んでおきましょう。

春の風
 
  きょう一日(ひとひ)また金の風
 大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風

  女王の冠さながらに
 卓(たく)の前には腰を掛け
かびろき窓にむかいます

  外(そと)吹く風は金の風
 大きい風には銀の鈴
きょう一日また金の風

  枯草(かれくさ)の音のかなしくて
 煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋(なよ)ぶ

  鳶色(とびいろ)の土かおるれば
 物干竿(ものほしざお)は空に往(ゆ)き
登る坂道なごめども

  青き女(おみな)の顎(あぎと)かと
 岡に梢(こずえ)のとげとげし
今日一日また金の風……



今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月 4日 (火)

ひとくちメモ「一筆啓上、長谷川泰子・ばあや様」昭和7年2月19日ほか

(前回からつづく)

昭和7年(1932年)の年明け2番目の手紙は
「80 2月2日 安原喜弘宛 葉書」ですが
後半部は佐規こと長谷川泰子およびその子ども茂樹のことです。

佐規の子供に会いました 面白いです 酒を飲んでいる真っ際中 奴のことを思いだしたりして、どうも大変甘(あま)いです、今月末は少し余裕がある筈なので、汽車の玩具でも買ってやろうと思います 不備                   さようなら
――と、ここでも余裕ができたことを示します。

余裕があるときに
泰子(佐規)を思い出すのか、茂樹を思い出すのでしょうか

「84 2月19日 長谷川泰子・ばあや宛 葉書(速達)」は
直接、泰子宛に出した手紙が残りました。

茂樹の耳のキズには「アエンカオレーフ油」を直ぐに買っておやりなさい。5銭も買えば沢山でしょう。
お湯に這入った時、キズを洗わないよう。
――と、当時、中野に住んでいた泰子への心遣いです。

「ばあや」は、茂樹の世話係として泰子が雇っていた女性。
「アエンカオレーフ油」は、詩人が医者の息子だったから知っていたのか
一般によく知られた薬だったのか
皮膚炎などへの塗布剤。

2月2日の葉書で「会いました」と記されていますから
この時に茂樹のキズを知ったのでしょう。

余裕が出てきてやる気に満ちてきた勢いは
詩人を旅へと誘(いざな)います。
帰省のついでなのですが
京都に寄り、尾道にも寄る計画の旅でした。

「86 2月29日 葉書」には
僕の京都通過は7日か8日頃になるでしょう。
「87 3月4日 葉書」には
明5日夕刻7時50分頃京都着します
4日朝
「88 3月7日 葉書」には
――尾道には寄らないで、今朝こちらに着きました
――などと、楽しげに帰省および京都訪問の輪郭が書かれています。

みんな安原喜弘へ宛てたものですが
京都での安原との再会は
安原の山口訪問へとつながっていきます。



今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月 3日 (月)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年2月15日・その2

(前回からつづく)

昭和7年(1932年)の正月には帰省しなかったのでしょうか
安原喜弘に宛てたこの年初めての手紙は
「79 1月12日 安原喜弘宛 葉書(速達)」で、消印は千駄ヶ谷新田です。
年末に引っ越したばかりですからですから
色々と慌(あわ)ただしく
3月に帰省する計画があるために
正月の帰省は見合わせたのでしょうか。

1月12日のこの葉書は、
如何なされ候や
お渡しするもの有之 小生待侘候間何卒御来駕願候
                        怱々
――とわずか4行の
今で言えば「どうしたの? 渡すものあるから、待っているよ じゃあね」くらいの
走り書きみたいなもので
それを「候文(そうろうぶん)」で強調したようなものです。
(※有之は「これあり」、待侘候間は「まちわびそうろうあいだ」と読むように全集編集委員がルビを加えています。)

「如何なされ候や」には
どうしたの?と相手の機嫌をうかがう元気な感じがあります。

この元気な感じは、次の「80 2月2日 葉書」の
どうしていますか 僕は元気です
論文返された話聞きました
毎日誰か知らと飲んでいますが、自愛からあまり遠くまで行かないですまされています
少し正気づいて来ました 夢にはカデンツがついて来ました
――という前半部につながっています。

そして、前々回読んだ「81 2月5日速達葉書」につながります。
渋谷・千駄ヶ谷新田から朝投函して
夕方には目黒の安原に届けるという「芸当」をこなす元気さは
内容の「辰野さんのところへ高森と行く、君も行かないか」という元気さにも通じています。

詩人は、年が明けて本当に元気になったのです。

この元気さは、
「83 2月15日・安原義弘宛 封書」で
毎日飲めています。幸福です。
――と「幸福」になり
阿部は今九州に行っています。帰り次第会って就職のこと頼んでみましょう。
ヴィロンの翻訳はじめました。今月中にPetit Testment だけ、ブローカーに渡します。
――と、万事にわたって活発な詩人の復活となるのです。



今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月 2日 (日)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年2月15日

(前回からつづく)

昭和7年(1932年)2月5日に安原喜弘に宛てた速達の葉書から
一つおいて「83 2月15日・安原義弘宛 封書」は

毎日飲めています。幸福です。
――とはじまる、ほがらかな書き出しです。
前年末の「ひきこもり」状態を脱した感じがあります。
「お年玉」でも入ったのでしょうか。

阿部は今九州に行っています。帰り次第会って就職のこと頼んでみましょう。
ヴィロンの翻訳はじめました。今月中にPetit Testment だけ、ブローカーに渡します。
――と続き、これでお仕舞のメモのようなものですが
これは正規の便箋に書かれたものではなく
東京外語学校の志願者心得書の余白に書かれたことが安原によって明きらかにされています。

3月に京都帝大を卒業する安原の就職活動を
詩人がなんらかのアドバイスをする中で
東京外語への入学を薦めたものです。

この一つ前の「「82」も「86」も
安原の就職に関するもので
阿部は、阿部六郎のこと。
成城高校のドイツ語教師の職にあり
安原の恩師でした。

「白痴群」の同人でもあり
詩人が渋谷・神山に住んでいた頃
近くに阿部や村井康男らの共同下宿がありましたから
詩人はそこへ頻繁に出入りしていましたし
その時以来の親友の一人でした。

その阿部に「口利き」を頼もうと詩人は骨を折ります。

今回はここまで。

(つづく)

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2013年6月 1日 (土)

ひとくちメモ「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年2月5日

(前回からつづく)

昭和7年(1932年)2月5日に安原喜弘に宛てた速達の葉書は
この年に安原に宛てた手紙としては3番目のものです。
言うまでもなく現存する手紙を数えてのことです。

京都帝国大学に在学して京都に住んでいた安原は
正月に帰京中で目黒の実家にあり
詩人は千駄ヶ谷874隅田方にいます。

昨日は留守をして失敬しました
明土曜夕刻(7時半頃)伺います
(今夜は高森と一緒に辰野さんの所へ出掛ける約束です。もしよろしかったら渋谷駅に8時に来て下されば、辰野の所へ行きましょう。1時間くらいいるつもりです。)
                  怱々

このわずか5行の葉書が
色々なことを想像させます。

明日が土曜日なのですから
今日は金曜日で
この葉書は金曜日の早いうちに速達として投函され
金曜日の夕方までには安原の元に届けられるという計算がありました。

郵便上手な詩人は
この速達便が金曜日夕方までに目黒の安原に届くことを知っていました。

木曜日に安原が千駄ヶ谷に訪ねて詩人は留守だったが
土曜日夕方には自分がそちら(目黒)へ行く。
ところで今夜金曜日、辰野先生の住まいを高森と一緒に訪問するけれど
君も行かないか、という内容です。

辰野は、東京帝大仏文科の教官、辰野隆(たつの・ゆずる)、
高森は、宮崎県出身で年下の詩人・高森文夫のこと。

この葉書に安原は次のようなコメントを加えています。

 2月の初旬私の帰京中、辰野隆教授宅訪問の速達の誘いである。詩人は辰野教授のもとへは時々思い出したように訪れている。私も一二度彼に伴れて行かれた。この頃後の「歴程」の詩人高森文夫が彼の唯一の詩人としての友であったであろう。中原は晩年の一時期を除き終生、同時代の詩人達とは殆ど深い交渉を持たなかったようである。
 高森は当時成城高校生、この年東大仏文科にすすむ。

高森とは前年末に知り合い
詩を書く地方出身の年下の青年という境遇が性にあったのか
やがては高森を生地山口の湯田温泉へ招き
そのまま高森の実家がある宮崎県の臼杵を訪ねたり
共に長崎県天草地方への旅をしたり
帰京しては高森の叔母の住む東京・北千束へ転居したり……
親しく交流を続けることになります。

二人は創作上の話などもよくしたようです。
この会話の中に
詩集についての話題がなかったということも考えられないことです。

大岡昇平は詩集のタイトルについて、
校正の段階になっても
「山羊の歌」と「修羅街輓歌」のどっちにしようか、と高森に相談していたことを記述しています。
(新全集第1巻 解題篇)

今回はここまで。

(つづく)

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